第3章 300億円の遺産
第3章 300億円の遺産
新形県庁の会議室は、重苦しい空気に包まれていた。
長テーブルの片側には、県知事をはじめ、沿線自治体の首長や財務担当者たちがずらりと居並んでいる。対峙するのは、南越急行社長の渡辺、専務の長谷川、そして財務課長の篠原だった。
「——手元資金の全額300億円を、上場前の半導体株に投じる?」
県の財政課長が、呆れたように書類を突き返してきた。
「正気ですか、渡辺社長。南越急行の積立金は、かつて『なんたか』が稼ぎ出した県民・沿線住民の貴重な共有財産ですよ。それを全額、市況の激しい株に突っ込むなど、公的な第三セクターとして絶対に認められません。万が一暴落したら、明日の運行費用すら底を突くではないですか!」
怒号に近い声が飛ぶ中、篠原が静かに立ち上がり、頭を下げた。
「お言葉ですが、ご指摘の通り『明日の運行費用』や『向こう数年間の確実な赤字補填資金』まで失うわけにはいきません。そこは私の思慮が浅かった点とお詫びいたします」
渡辺と長谷川が一瞬驚いたように篠原を見た。突っぱねると思われた篠原が、あっさりと引き下がったからだ。しかし、篠原の目は死んでいなかった。すべては織り込み済みのシナリオだった。
「そこで、提案を修正させていただきます」
篠原は新しい資料を全員に手破した。
「我が社が現在保有する手元資金300億円のうち、向こう10年間の線路維持費、車両メンテナンス費、および見込まれる営業赤字の補填用として30%(90億円)を絶対に手を付けない『安全資産(定期預金・国債)』として厳重に確保いたします。これにより、どのような市況変動があろうとも、南越急行の日常の運行が脅かされることは一切ありません」
自治体の首長たちが顔を見合わせ、やや毒気を抜かれたような表情を浮かべた。篠原は言葉を畳み掛ける。
「そして、残る70%にあたる210億円。これこそが、将来の巨大な設備更新期を乗り越えるための『勝負資金』です。この210億円を、キオクシェアホールディングスのIPO(新規上場)公募株式の取得に充当します」
「210億円でも莫大だ!」南大沼市長が声を荒げる。「なぜそこまでして半導体株なのだ? 堅実に債券で回せばいいだろう!」
「堅実に回した結果が、現在の『緩やかな死』です」
篠原の声が低く、しかし会議室の隅々まで響き渡った。
「現在、安全資産で運用して得られる利息は年間わずか数千万円。一方で、我が社の営業赤字は年間十数億円。このままでは、残された300億円の『遺産』はただ削り取られ、15年後には完全に雲散霧消します。先人たちが『なんたか』で血汗を流して残してくれた300億円は、ただ延命するためだけの『遺体安置費用』ではありません。南越急行が自立し、この地域に再び光をもたらすための『未来への種銭』であるはずです」
静まり返る会議室。篠原はスクリーンに巨大な半導体のウェハの写真を映し出した。
「キオクシェアは、かつて南芝が誇ったメモリ事業の結晶です。現在、メモリ市況は歴史的な冬の時代を迎えており、公募価格は徹底的に低く抑えられる見込みです。ですが、AI社会の到来により、半導体需要の爆発はもはや決定された未来です。最安値のタイミングで仕込み、波に乗る。210億円のリスクを取ることでしか、この会社の100年後の未来は買い取れません」
長谷川がすかさず言葉を重ねた。
「知事、そして皆様。現場を預かる者として申し上げます。なんなん線は今、死に体です。ですが、我々のレールは最高時速160キロで走れる世界最高峰の規格のまま残っています。このインフラを未来に引き継ぐため、どうか我々に一度だけ、攻めの賭けをお許しいただきたい」
県知事はじっと手元の資料を見つめていた。やがて、深く息を吐き出すと、眼鏡を外して目をこすった。
「……篠原君と言ったね。210億円を投じて、もしキオクシェアの株価が低迷し続けた場合、君たちはどう責任を取るつもりだ?」
「私の全財産を解約し、退職金を辞退した上で即座に辞任します。そして、経営陣もまたその責任を免れません」
篠原の迷いのない答えに、知事は苦笑いを浮かべた。
「……責任を取られても210億円は戻らんよ。だが、ただ縮小して路線を捨てるだけの計画書を出してくるよりは、遥かに腹がくくられている」
知事は首長たちを見渡した。
「90億円の安全資金を残し、運行に支障を出さないという条件をつける。その上で、南越急行の運命をこの『210億円の賭け』に委ねる……異論のある方はいますか」
誰一人として、声を上げる者はいなかった。反対論を唱えるには、篠原の提示した数字と論理、そして凄まじい覚悟があまりにも圧倒的だったのだ。
会議が終わり、県庁の廊下に出た渡辺は、ハンカチで額の汗を拭った。
「生きた心地がしなかったぞ、篠原……。だがこれで、後戻りはできなくなったな」
「ええ」篠原は冬の薄日に目を細めた。「210億円の証券購入口座の開設手続きに入ります。いよいよ、市場という名の修羅場へ踏み込みます」
『なんたか』が遺した300億円の栄光。その7割を呑み込んだ巨大な勝負のサイコロが、今、静かに振り下ろされようとしていた。




