第2章 金融の怪物
第2章 金融の怪物
「狂気の沙汰だ」
社長の渡辺は、デスクに突きつけられた資料を指先で弾き飛ばすように弾いた。用紙が舞い、床に散らばる。
「篠原君、君は自分が何を言っているのか分かっているのか? 我々は民間企業とはいえ、新形県や沿線市町村が出資する第三セクターだ。公的な毛色の強い会社の資金三百億円を、上場前の半導体株に全額ブチ込む? 全国ニュースで『赤字ローカル線、株博打で大穴を狙う』と叩かれて、一瞬で首が飛ぶぞ!」
「首が飛ぶくらいで済めば安いものです」
篠原賢人は眉ひとつ動かさず、床に落ちた資料を淡々と拾い集めた。その動作には一切の揺らぎがない。
「何もしなければ、十五年後にこの会社は確実に破綻します。設備更新の時期が来れば、安全運行を維持できなくなり、路線は廃止。自治体も県も、毎年十数億円の赤字補填など絶対に首を縦に振りません。どうせ座して死ぬなら、戦って勝機を掴むべきです」
「戦うだと? 株の売買が戦いだとでも言うのか!」
「ええ、極限の頭脳戦です」
篠原は拾い集めた資料を丁寧に揃え、再びデスクに置いた。その真っ直ぐな視線に、渡辺は一瞬気圧されたように言葉を詰まらせた。
側に立っていた専務の長谷川が、重い口を開いた。
「篠原。お前がただのギャンブラーじゃないことは分かっている。大手証券会社で企業再生やファンドの修羅場を潜り抜けてきた男が、なぜこの過疎地の三セク鉄道にやってきて、こんな突拍子もない提案をする? お前の『見立て』を詳しく聞かせろ」
篠原は一礼すると、壁のホワイトボードの前に立った。黒のマーカーを取り出し、滑らかな手つきでグラフを描き始める。
「キオクシェア——旧南芝メモリです。現在、スマートフォンの売上低迷やPC需要の一巡により、半導体業界は深刻な『シリコンサイクル』の谷底にあります。キオクシェアも業績が悪化し、過去には上場延期を余儀なくされました。だからこそ、今市場に出てくるときの公募価格は、本来の企業のポテンシャルに対して異常なほど安く叩かれます」
マーカーの音が響く。篠原の描いたグラフは、底を打った後に垂直に近い角度で跳ね上がっていた。
「ですが、世界は今、歴史的な転換点にあります。キーとなるのは『AI』です。データセンター、生成AI、自動運転、あるいは人の言葉を理解するロボティクス……これらが爆発的に普及する未来が、目の前まで迫っている。そしてそれらのAIを動かすために絶対的に必要なのが、キオクシェアの作る大容量・高速のNAND型フラッシュメモリです」
「半導体の波……か」長谷川が呟いた。
「はい。世界中のIT巨頭たちが、喉から手が出るほどメモリを買い漁る時代が確実に来ます。今の市況の悪化は、一時的なものに過ぎません。キオクシェアが上場するこのタイミングこそが、千載一遇の買い場なのです」
渡辺は腕を組み、不機嫌そうに唸った。
「理屈は分かった。だが篠原君、リスクが大きすぎる。もし半導体市況がさらに悪化したらどうする? 公募価格を割り込んで半分になったら、我々は一回で150億円を失うんだぞ」
「その時は、私がすべての責任を負って辞任し、背任罪で訴えていただいて構いません」
篠原の口から出た言葉は、どこまでも冷ややかで、同時に恐ろしいほどの覚悟に満ちていた。
「私はこの会社に来る前、ウォール街や東京のマーケットで『怪物』と呼ばれる男たちを嫌というほど見てきました。彼らは数字の裏にある『時代の構造変化』だけを見て、何千億円という金を一瞬で動かす。それに比べれば、日本の地方行政や三セクの意思決定はあまりに遅く、保守的で、死を待つだけの患者と同じです」
篠原はホワイトボードのマーカーを置いた。
「南越急行が『なんたか』で稼ぎ出した三百億円は、地域の先人たちが汗と涙で築き上げた血の滲むような遺産です。それをただ銀行の定期預金に預け、年間わずか数千万円の利息を得ながら、毎年十億円ずつ赤字で削っていく……それこそが、先人に対する最大の不誠実であり、罪悪だと私は思います」
役員室に静寂が訪れた。窓の外では、吹雪が音を立てて壁を叩いている。
長谷川は静かに立ち上がり、窓の外を見つめた。
遠くのホームに、二両編成の普通列車が滑り込んでいくのが見える。かつて『なんたか』が160キロで駆け抜けたあの線路を、今は申し訳なさそうにトコトコと走る列車。
(このまま、消えていくのを待つだけなのか……?)
長谷川の胸の中で、かつて「日本一速い在来線」を誇りに運行していた鉄道マンとしての血が、静かに沸き立つのが分かった。
「社長」長谷川は振り返り、渡辺を見つめた。
「篠原の言う通りかもしれません。我々は『なんたか』を失ってから、どこかで諦めていました。赤字を減らすことばかり考え、守りに入っていた。だが、守るだけでは何も守れない」
「長谷川君……君まで何を言い出すんだ!」
「全額とは言いません。だが、この勝負、乗ってみる価値はあるんじゃないでしょうか。自治体や県をどう説得するかは、我々役員の仕事です。篠原が命を張るなら、我々も腹を括るべきです」
渡辺は目をつむり、深く、長く息を吐き出した。天を仰ぎ、両手で顔を覆う。数分間、誰ひとりとして口を開かなかった。
やがて、渡辺はゆっくりと手を下ろした。その目から、先ほどまでの優柔不断な色は消えていた。
「……篠原君」
「はい」
「お前の言う『怪物』の流儀とやらを、見せてもらおうじゃないか。ただし、条件がある」
渡辺は立ち上がり、デスクに指を突き立てた。
「次の取締役会と、株主である新形県および沿線自治体への説明だ。俺と長谷川で突撃する。だが、金融のロジックでお前が論破されたら、この話は即座に白紙だ。いいな?」
「承知しました」
篠原は深く頭を下げた。その口元に、かすかな笑みが浮かんだのを長谷川は見逃さなかった。
南越急行という小さなローカル線の中に潜む「金融の怪物」。その牙が、静かに、しかし確実に研ぎ澄まされようとしていた。




