第1章 影の薄れた超幹線
第1章 影の薄れた超幹線
六日町駅のホームを駆け抜ける雪風が、ベンチに腰掛ける南越急行専務取締役・長谷川勝則の耳の奥で、甲高い悲鳴のような音を立てていた。
かつて、この線路には熱気が満ちていた。
金沢と越後湯沢を一直線に結び、時速160キロで雪原を切り裂いて走った特急『なんたか』。
赤いラインを纏ったホワイトラビットが通過するたび、ホーム全体が地鳴りのような振動とともに誇らしく揺れたものだった。
関東と北陸を最短で結ぶ「黄金のバイパス」。運賃・料金収入は怒涛のように舞い込み、南越急行の金庫には使い切れないほどの資金が積み上がった。
だが、それもすべては過去の栄光だ。
2015年3月、北陸新幹線が金沢まで延伸開業したその日を境界線として、黄金のバイパスは一瞬にしてただの「地方ローカル線」へと姿を変えた。
『なんたか』の名を新幹線に奪われ、高速進行の信号灯が灯らなくなった、なんなん線。残されたのは、
二両編成の普通列車がトコトコと雪を押しのけて走る、静まり返った単線軌道だけだった。
「長谷川専務、そろそろ戻りましょう。知事との事前協議の資料、最終チェックが必要です」
背後から声をかけてきたのは、財務課長の篠原賢人だった。三十代半ば。大手証券会社の構造改革ファンド部門から、
地元である新形にUターンしてきた男だ。無駄のない立ち振る舞いと、どこか冷徹とも取れる現実主義的な眼光を持つ篠原は、
この「沈みゆく船」に自ら飛び込んできた異色の経歴の持ち主だった。
長谷川は立ち上がり、コートについた粉雪を払った。
「篠原、今年の赤字の見通しはいくつだ?」
「想定通りです。超快速『ホワイトラビット』の廃止と減便、インフラ維持費の高騰が響き、年間でおよそ十億から十二億円の純損失。
来期はさらに膨らみます」
「積立金はあとどれくらいもつ?」
篠原は薄いリップクリームを塗り直し、淡々と答えた。
「『なんたか』時代に蓄え、定期預金や債券で運用してきた内部留保は、現在およそ三百億円。
このままのペースで赤字を補填し続ければ、高規格設備の老朽化更新が本格化する十五年後には底を突きます。
つまり、我が社は『徐々に廃線に向かう会社』です」
ふたりは吹雪の中を歩き、本社ビルへと向かった。
六日町駅に隣接する本社ビルは、かつて年間百億円以上の利益を叩き出していた企業のそれとは思えないほどひっそりとしていた。
廊下の照明は間引きされ、暖房も設定温度が下げられている。
役員室に入ると、社長の渡辺が深々と革椅子に腰掛け、頭を抱えていた。
「長谷川君、帰ってきたか……。県庁からの打診があったよ」
渡辺は力なく書類を突いて見せた。
「まただ。『赤字幅を圧縮するために、運行本数をさらに二割削減できないか』
『保線費用を削減するために一部区間の複線用設備や分岐器を撤去できないか』
……要するに、縮小再生産の要請だ。沿線自治体の首長たちも黙っちゃいない。
『これ以上減便されたら地域が死ぬ』と毎度お馴染みの反発だ」
「社長、減便は根本的な解決になりません」長谷川はきっぱりと言った。
「なんなん線は元々、時速160キロ走行に耐える最高レベルの設備で作られています。
トンネルの規格も、軌道の強度も新幹線並みだ。設備を小さくすれば維持費は多少下がりますが、この線の最大の価値を自らドブに捨てることになります」
「そんなことは百も承知だ!」
渡辺がテーブルを叩いた。「だがな、金がないんだ!『なんたか』の遺産を崩しながら延命措置を続けるだけの会社に、
どんな未来があるというんだ? 新形県も、沿線市町村も、これ以上の補填をする余裕はないぞ」
重苦しい沈黙が役員室を支配した。
南越急行は、第三セクター鉄道としては奇跡的な「金持ち企業」だった。特急時代の莫大な利益を基金として貯め込んでいたおかげで、今すぐに倒産することはない。しかし、それは「執行猶予がついた死刑囚」と同じだった。毎年十数億円ずつ資産が目減りし、最後に残るのは老朽化した巨大なトンネルと高架橋、そしてゼロになった通帳だけだ。
その時、これまで静かに壁際に控えていた篠原が、一歩前に踏み出してきた。
「社長、専務。ひとつ提案があります」
渡辺と長谷川が同時に顔を上げた。篠原の目は、普段の冷静さを失っていないものの、奥底に恐ろしいほどの熱を秘めていた。
「なんだね、篠原君」
「定期預金と国債に眠らせている内部留保三百億円。これをすべて、解約してください」
渡辺が眉をひそめた。「解約してどうする? 設備投資か? それとも赤字補填の繰り上げ返済か?」
「いいえ」
篠原は懐から一冊のクリアファイルを取り出し、渡辺のデスクの上に滑らせた。
「全額、あるいはその大部分を、ある株式に投資します。集中投資です」
役員室の空気が氷ついた。
「……君は正気か?」渡辺の声が震えていた。「うちは公的な資本が入った第三セクターだぞ? 株式投資? 一歩間違えれば特別背任、自治体や県議会からの吊し上げだ。そんなバクチが許されるわけがないだろう!」
「バクチではありません。南越急行が生き残るための、唯一の金融格闘技です」
篠原は手元の資料を指し示した。そこには、一つの企業のロゴと詳細な財務データが印字されていた。
「対象は、近く東京証券取引所に上場(IPO)が予定されている半導体大手——キオクシェアホールディングスです」
長谷川が身を乗り出した。「キオクシェア……旧東芝メモリか?」
「はい。世界有数のNAND型フラッシュメモリメーカーです」
篠原は眼鏡の奥の光を鋭くした。
「現在の市況は最悪、メモリ不況の真っ只中です。だからこそ、公募価格は徹底的に低く抑えられるはずです。しかし、私には見えています。これから数年以内に、世界を覆い尽くす『ある波』が来る。その波に乗れば、我が社の三百億円は、単なる延命資金ではなくなります」
「どのくらいになると言うんだ」渡辺が恐る恐る尋ねた。
篠原は一瞬だけ間を置き、静かに、しかしはっきりと告げた。
「桁が変わります。なんなん線の赤字を永久に相殺し、この地域一帯を買い取れるほどの金額に」
吹雪の音が、再び窓ガラスを激しく叩いた。
南越急行の運命を決定づける狂気の賭けが、この静寂に包まれた六日町の役員室で、産声を上げようとしていた。




