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第68章 3人がゆっくりと休む時

第68章 3人がゆっくりと休む時


越後の一宮として古くから深甚なる信仰を集める弥彦神社の門前町は、年の瀬の静けさと新年を迎える独特の澄んだ緊張感に包まれていた。


越後平野の西端に悠然と佇む弥彦山の山麓。その鬱蒼とした杉木立に抱かれた門前街に、南越急行の最高経営責任者(CEO)篠原賢人、現場統括の副社長古賀、そして最高財務責任者(CIO)の大石専務の三人は、それぞれの家族を伴って姿を見せていた。


この数年間、南越急行コンツェルンが歩んできた道のりは、まさに疾風怒濤という言葉そのものであった。三セクの倒産危機からキオクシェア株への一世一代の巨額投資、2兆円を超える純利益の確定、メガ・リージョナルバンク「南越フィナンシャル・グループ」の結成、全自動AI建機や最先端車載ICの開発、そして鉄道会社による前代未聞の自前高速道路網の全線開通まで——幾多の困難と激動を乗り越え、企業体としての「最強の城塞」を築き上げてきた。


だが、大晦日のこの日ばかりは、すべてのビジネスと緊迫した決断を脇に置き、家族とともに静かな時間を過ごすために、この歴史ある温泉宿「わらびや」を訪れていたのである。


「いやあ、たまにはこういうのも悪くないな。篠原、大石」


数寄屋造りの洗練された客室の広縁で、南越ビバレッジ特製の「特選一級品ジャスミン茶」が注がれた湯呑みを手に、古賀がゆったりと身体を丸めた。窓の外には、しんしんと降り積もる白い雪と、夜の訪れとともに柔らかく灯る門前町の情緒豊かな街灯りが広がっている。


傍らでは、大石専務がいつものシャープな眼鏡を少し緩め、珍しく和やかな表情で庭園の雪景色を眺めていた。


「ええ。我々はここ数年、あまりにも目まぐるしいスピードで駆け抜けてきましたからね。越後中央銀行の再編、新行電気のTOB、そして先日の高速道路開通……休む暇もありませんでした。たまにはこうして越後古来の歴史と湯に身を浸すのも、最高の財務的投資と言えます」


篠原は静かに湯呑みの湯気を立ち上らせながら、ふっと口元を緩めた。


「大石、ここに来てまで『投資』という言葉を使うのは君くらいなものだ。だが、本当にその通りだな。我々が止まることなく駆け抜けられたのは、現場で汗を流すグループ数十万人の社員たちと、それを陰で支えてくれた家族のおかげだ」


別室では、普段多忙を極める三人の家族たちが、越後名物の料理や温泉を心ゆくまで楽しみ、華やかな歓声と笑い声を響かせていた。古賀の豪快な妻と子供たち、大石の控えめながら聡明な家族、そして篠原を優しく支える家族。命を削るような修羅場をいくつも潜り抜けてきた男たちにとって、その笑い声こそが何よりの慰めであり、明日への活力であった。


夕刻、宿の広間に運ばれたのは、冬の越後が誇る極上の味覚の数々であった。


佐渡の荒波にもまれて脂が乗った極上の寒ぶり、澄んだ出汁で煮込まれた「のどぐろ」の煮付け、南越アグリが育んだ雪下ニンジンやゴボウ、採れたてのナントキノコがたっぷりと入ったアツアツの越後名物「のっぺ汁」、そして四鈴コーポレーションの職人技が光る伝統の出汁料理。締めには、南越アグリ直営の最高級コシヒカリが、かまどでふっくらと炊き上げられて運ばれてきた。


「うまい……! やっぱり越後の冬はこれに限るぜ!」


古賀が大きな手で杯を掲げ、料理を口いっぱいに頬張った。

「佐渡武蔵の武藤大将が握る寿司も絶品だが、こうして温泉宿でじっくり味わう地元の旬もたまらんな。家族も大喜びだ」


大石もまた、かまど炊きの白米を一口含み、感嘆の息を漏らした。

「お米一粒一粒に深い甘みと粘りがある。南越アグリのスマート農業と自前物流が守り抜いたこの『本物の味』が、今や日本全国、そして『TSURUTA』として世界中に届いていると思うと、胸に迫るものがあります」


家族たちが和気あいあいと料理を囲み、子供たちの健やかな成長や日頃の苦労を労い合う。外の雪はいつしか静かな細雪となり、宿の庭にある古木を白く彩っていた。


夜が深まり、23時を回る頃。


宿の窓からは、弥彦神社の境内へ向かう参拝客たちの踏みしめる雪の音が、かすかに響き始めていた。


大晦日の深夜、神社周辺の静寂は、二年参り(大晦日の夜から元旦にかけて参拝する越後特有の風習)に訪れる大勢の人々の熱気と静かな祈りによって、独特の神聖な雰囲気に包まれていく。


「そろそろ、年が明けるな」


篠原が時計に目をやった。


かつて、年間十数億円の赤字を出し、廃線寸前の限界に追い込まれていた小さな第三セクター鉄道・南越急行。あの絶望の冬から始まった挑戦が、いまや総資産数十兆円、鉄道・金融・製造・建設・医療・航空・海運・エネルギー、そして高速道路までをも束ねる、日本屈指の自前独立コングロマリットへと結実した。


だが、どれほど規模が大きくなろうとも、その中心にあるのは、この雪国に生きる人々の暮らしを守り、未来への希望を繋ぐという不滅の意志であった。


「渡辺前社長も……空の上から、この弥彦の雪をご覧になっているかもしれませんね」


大石がポツリと呟いた。


「ああ」古賀が力強く頷いた。「『線路に終着駅はない』……親父さんが遺してくれたあの言葉があったからこそ、俺たちはここまで走って来られたんだ」


篠原は静かに立ち上がり、窓の外の弥彦神社の暗い森を見つめた。


「さあ、新しい年を迎える準備をしよう。明日の初詣は、我がグループの全社員と、その家族たちの無事を祈るための大切な参拝だ」


夜半、日付が零時を指し示し、遠く弥彦神社の境内に据えられた大太鼓の重厚な音が、しんしんと降る雪の夜空へと高らかに響き渡った。


2054年、新年の幕開けであった。


翌、元旦の朝。


越後の空は、昨日までの雪が嘘のように上がり、新春の清々しい朝日が、雪化粧をまとった弥彦山の頂と拝殿の銅板葺き屋根を黄金色に優しく照らし出していた。


凛とした初春の冷気が門前街を包み込む中、門前の茶屋前に設置された待ち合わせ場所に、三人の男たちが姿を現した。


篠原賢人、古賀、大石。


昨夜の家族との和やかな寛ぎの表情から一転し、三人ともビシッと身に纏った黒の漆黒のスーツとオーバーコートに身を包み、南越急行のトップとしての気品と引き締まった表情を浮かべていた。


「篠原CEO、大石。あけましておめでとう」古賀が力強く手を差し出した。


「おめでとうございます、古賀副社長、篠原CEO」大石もまた、しっかりとその手を握り返した。


篠原は二人の顔を交互に見つめ、温かく、しかし力強い笑みを浮かべた。

「あけましておめでとう、二人とも。今年も我々の総力を結集し、最高の年にしよう」


三人は並んで、弥彦神社の巨大な赤鳥居へと向かって歩み始めた。


鳥居の手前で深く一礼し、境内に一歩足を踏み入れると、そこは樹齢数百年を誇る老杉の巨木が立ち並ぶ、静寂と神威に満ちた神域であった。


参道には、早朝から初詣に訪れた地元の住民や、南越急行となんぼく線、そして昨日開通したばかりの高速道路を利用して遠方からやってきた大勢の参拝客たちが、晴れやかな笑顔で歩を進めていた。


「見ろよ、篠原」古賀が参拝客たちの様子を指差した。

「みんな、『南越カード』を胸ポケットに入れて、うちの電車やバス、高速道路を使ってやって来てくれたんだな。子供たちのあの弾けるような笑顔……俺たちが作ってきたものは、間違いじゃなかったんだ」


「ええ」大石も頷いた。「越後中央銀行、山型銀行、九十二銀行の統合から始まり、今やこの地域のすべての人々の生活と資金の循環が、完璧な安心のもとに守られています。財務的な数字の裏にあるのは、まさにあの参拝客一人ひとりの生きた暮らしです」


手水舎で清らかな冷水に手を清め、心を整えた三人は、重厚な随神門をくぐり、威風堂々とした大拝殿の前へと至った。


拝殿の正面には、新しい年の訪れを祝う立派な門松と注連縄が飾られ、新春の陽光を受けて神々しい光を放っている。


三人は賽銭箱の前に静かに並び立ち、一斉に姿勢を正した。


パン、パン——。


澄み切った境内の空気に、二羽の柏手の音が心地よく響き渡った。


三人は深く頭を下げ、深く、深く祈りを捧げた。


篠原が祈っていたのは、自らの成功や企業のさらなる拡大などではなかった。


(南越急行コンツェルン、および傘下各社で働く数十万人の社員たち。そして、彼らを陰で支える家族の皆が、この新しい一年も決して事故に遭うことなく、健康で、誇りと笑顔を持って無事に過ごすことができますように——)


鉄道の現場で極寒の雪の中、線路の点検を続ける保線員たち。

自動運転バスやトラックの監視に目を光らせる若きエンジニアたち。

南越建設の現場で、安全第一で重機を操る職人たち。

南越総合病院で、患者の命に向き合う医療従事者たち。

南越アグリの田畑で、土と対話する農家の人々。

南越フィナンシャル・グループの窓口で、地域住民の相談に寄り添うバンカーたち。

そして、南越ビバレッジやスーパーカワサワ、新行電気工業、四鈴、ナント、アイザックフーズの工場で、妥協なきモノづくりに情熱を傾けるすべての働く人々——。


その誰一人として欠けることなく、かけがえのない命と暮らしが、永久に守られるように。それこそが、グループの頂点に立つ篠原賢人の、唯一にして最大の切なる願いであった。


隣で祈りを捧げる古賀もまた、泥臭い現場のリーダーとして、現場の無事故・無災害を心から祈願していた。

大石もまた、冷徹な財務の城塞を守る者として、全グループの盤石な経営と社員たちの雇用の絶対的安泰を、神前に強く誓っていた。


参拝を終え、深々と一礼して拝殿を後にした三人の表情には、清々しい晴れやかさと、新たな一年を背負う圧倒的な覚悟が満ちあふれていた。


拝殿前の広場で、篠原は二人に向かって振り返った。


「古賀、大石。我々が守るべきものは、あまりにも大きくなった。だが、どれほど組織が巨大化しようとも、我々のやるべきことは変わらない」


篠原の瞳には、新春の太陽の光が強く反射していた。


「安全を最優先し、現場の情熱を尊重し、地域とともに歩む。この基本を揺るがすことなく、今年も全グループを一心同体となって引っ張っていこう」


「もちろんだ!」古賀が力強く胸を叩いた。「俺が現場のケツは全部持ってやる! どんな吹雪が来ようが、現場の野郎どもの笑顔は俺が守り抜いてみせるぜ!」


大石も眼鏡を押し上げ、不敵な笑みを浮かべた。

「財務の防壁に、一ミリの隙も作らせません。篠原CEOが描く未来の軌道に必要な資金は、私が完璧にコントロールし、過剰なリスクから社員と会社を永久に防衛してみせます」


三人は顔を見合わせ、晴れやかに笑い合った。


境内を歩く参拝客たちの中には、南越急行の制服を着た非番の社員や、グループ企業の作業服を着た若者たちの姿もあった。彼らは篠原たちの姿に気づくと、誇らしげに胸を張り、深く頭を下げて新年の挨拶を交わしていく。


「社長! あけましておめでとうございます!」

「CEO! 今年もよろしくお願いします!」


「おめでとう。今年も頼むぞ」

篠原たちが温かい声をかけると、社員たちは嬉しそうに微笑み、家族とともに参道を歩んで行った。


その光景を見つめながら、篠原は静かに確信していた。


渡辺前社長が残した「線路に終着駅はない」という言葉。それは、単に鉄路を伸ばし続けることだけを意味しているのではない。


働く人々の情熱と誇りを繋ぎ、地域の暮らしを守り、世代を超えて豊かな未来を創り続ける——その終わりのない旅路こそが、南越急行の真のレールなのだと。


弥彦の神々しい山並みから差し込む新春の初光が、積もった白雪を眩しく照らし出し、三人の歩む参道をどこまでも光り輝かせていた。


山を穿ち、地底を拓き、海と出会い、県境を越え、街に光を灯し、モノづくりの魂を繋ぎ、金融で血流を巡らせ、働く人の誇りを守り、新たな道を切り拓き、そして社員の無事と幸福を祈り続ける。


終着駅のない南越急行の無限のレールは、人々の愛と希望、そしてすべての社員の笑顔を乗せて、どこまでも、どこまでも輝かしい未来の先へと駆け抜けていくのであった。

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