表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
39/104

第38章 受け継がれる錨(いかり)

第38章 受け継がれるいかり


その年の春、本社の最上階にある第一応接室は、静まり返っていた。


窓の外には、激動の時代を乗り越え、今やこの街の風景の一部となった自社のオフィスビルやインフラ群が広がっている。その街並みを背にして立っていたのは、社長の渡辺だった。白髪は増えたものの、その背筋はかつてと変わらず伸びている。


「——というわけだ、篠原」


渡辺が振返り、応接セットのソファに深く腰掛けた。隣には、長年彼とともにこの会社を支え抜いてきた副社長の長谷川が座っている。長谷川は何も言わず、ただ静かに手元の温かいお茶に目を落としていた。


対面に座る篠原は、渡辺の言葉の意味を噛みしめるように、ゆっくりと息を吐き出した。


「渡辺さん……本気ですか」


「私が本気でない話をしたことがあるか?」

渡辺の唇の端が、かすかに持ち上がった。

「時代は変わった。これまでの試練を乗り切るまでは、我々老骨の経験と腕力が必要だった。だが、これから訪れる未来のデジタルとグローバルが複雑に絡み合う時代に、八十を迎える私が指揮を執り続けるのは、会社に対する罪だ。潮時なんだよ」


「ですが、渡辺さんだけでなく、長谷川さんまで……」


篠原が視線を送ると、長谷川は苦笑いを浮かべて首を振った。


「篠原、渡辺さんが降りるのに、俺だけ残って何になる? 俺と渡辺さんは、言ってみればこの会社の『前時代のエンジン』だ。片方だけ残っても船のバランスが崩れるだけさ。お前がトップに立ち、新しいエンジンを積む。それが一番美しい引き際というものだ」


篠原は膝の上で両手を強く握りしめた。渡辺と長谷川。二人の巨頭が築き上げてきた歴史の重みが、一気に自分の肩へとのしかかってくる感覚があった。経営の渦中に放り込まれた自分を叩き上げ、ここまで育ててくれたのは目の前の二人だった。


「覚悟を決めろ、篠原」

渡辺の目が、鋭く篠原を射抜いた。

「お前が次の最高経営責任者(CEO)だ。これはお願いではない。取締役会の意思であり、創業世代からの最後の大命だ」


室内を重厚な沈黙が支配した。数秒ののち、篠原は背筋を正し、二人の目をまっすぐに見つめ返して深く頭を下げた。


「……謹んで、お受けいたします。渡辺社長、長谷川副社長。これまで本当に、ありがとうございました」


「頭を上げろ」

渡辺の声は柔らかかった。

「礼を言うのはこちらだ。……さて、問題はここからだ。お前がCEOに就くとなれば、お前がこれまで担ってきた専務のポスト、そして長谷川が担ってきた副社長のポストが空く。この穴をどう埋める?」


篠原は頭を上げると、迷いのない目で手元のファイルを開いた。自分に大役が回ってくる兆候を感じ取って以来、すでに腹案は練ってあった。


「私の後任、つまり経営戦略と財務の要となるポジションには、車内叩き上げの大石を推したいと思います」


「大石、ですか」

長谷川が興味深そうに身を乗り出した。


「はい。現在、財務開発部の課長を務めている大石です」

篠原は一枚の資料をテーブルに置いた。

「彼は入社以来、社内のあらゆる資金流動と投資案件を冷徹なまでに分析してきました。特に近年の金融経済の変動に対する予測と、リスクヘッジの精度は群を抜いています。若手ではありますが、これからの不透明な市場を泳ぎ切るには、彼の持つ最新の金融経済の知見と、デジタルなポートフォリオ管理のスキルが絶対に不可欠です」


渡辺は資料の写真に目を落とした。大石——三十代半ばの、フレームの細い眼鏡をかけた鋭い眼光の青年だ。


「大石は情に流されない」篠原は続けた。「私が情熱で事業を推し進めようとするとき、彼なら『数字上、このリスクは取れません』と冷水ひやみずを浴びせてくれるはずです。トップが走る分、ブレーキと羅針盤を任せられる男です」


「ふむ……」渡辺は頷いた。「大石の優秀さは私も耳にしている。車内からの抜擢というのも、生え抜きの社員たちへの強いメッセージになるな。いいだろう。では、長谷川のポストはどうする? 長谷川が担ってきたのは、現場の統括と、外部の強力なパートナー企業との泥臭い交渉だ。大石のような理論派だけでは、現場は動かんぞ」


「分かっています」

篠原は、二枚目の資料を取り出した。そこには、社外の人物の経歴が書かれていた。


「長谷川さんの後任には……山型鉄道の古賀氏をスカウトしたいと考えています」


その名を聞いた瞬間、長谷川の眉が跳ね上がった。


「山型鉄道の古賀だと……? あの、山型鉄道の再編を一人でやり遂げたと噂の古賀か?」


「はい。古賀氏は、過疎化が進む沿線事業の構造改革を推し進め、地域インフラと最新の移動サービスを融合させてV字回復を果たさせた立役者です。業界内でも『現場を掌握させたら右に出る者はいない』と言われています。うちの現場のベテランたちも、古賀氏の泥臭くも圧倒的な実行力であれば、必ず納得してついていきます」


「しかし、山型鉄道の看板男だぞ。グループ会社ではあるが、こちらに来てもらって本当に大丈夫なのか?」渡辺が尋ねる。


「すでに極秘裏に打診を進めています。古賀氏本人も、山型鉄道での改革を一巡させ、次なる巨大なキャンバス——つまり、我が社の今後に向けた広域インフラ・都市開発事業に強い関心を示してくれています。古賀氏の現場求心力と、大石の金融頭脳。この二人が揃えば、渡辺・長谷川体制に勝るとも劣らない最強の陣容が整います」


渡辺と長谷川は顔を見合わせた。やがて、長谷川が満足そうに破顔した。


「参ったな。俺たちの穴を埋めるどころか、お前、最初から俺たちを過去の遺物にする気満々じゃないか」


「長谷川さん、滅相もありません」


「いや、それでいいんだ」渡辺が力強くテーブルを叩いた。「経営者はな、前任者のコピーであってはならない。篠原、お前のカラーで、新しい体制を作れ。大石と古賀を呼べ。私が直接、この交代劇の覚悟を問う」


翌週、再び第一応接室に緊張が走っていた。


渡辺、長谷川、篠原の三人が並んで座る対面に、二人の男が立っていた。

一人は、社内から抜擢された財務の鬼、大石。もう一人は、グループ会社である山型鉄道から引き抜かれた現場のカリスマ、古賀である。


大石は背筋をぴんと伸ばし、眼鏡の奥の瞳を冷静に輝かせていた。一方の古賀は、身体の大きな男で、日焼けした顔に力強い眼差しをたたえ、どこか野性味を感じさせる佇まいだった。


「大石、そして古賀君」

渡辺が重々しい声で切り出した。

「話は篠原から聞いているな。私と長谷川は退く。篠原が新社長となり、お前たち二人がその両脇を固める。——どうだ、この大舟の舵取りの一翼を担う覚悟はあるか?」


大石が先に一歩踏み出し、深く一礼した。


「渡辺社長。指名いただき、身の引き締まる思いです。現在、我が社の財務構造は一見堅牢に見えますが、今後の金利上昇局面およびグローバル投資のリスクを考慮すれば、従来の資産運用のままでは必ず停滞期が訪れます。私が篠原新社長のもとでやりたいのは、単なる金庫番ではありません。最新の金融経済の手法を駆使し、事業投資の効率を極限まで高める『攻めの財務構造』への変革です。私にその権限をいただけるなら、喜んでこの職をお受けします」


寸分の狂いもない、理路整然とした大石の言葉に、長谷川は思わずニヤリとした。

(相変わらず可愛げのない言い方をするが、大したものだ)


続いて、古賀が野太い声で口を開いた。


「渡辺社長、長谷川副社長。山型鉄道で私がやってきたことは、現場の人間と酒を酌み交わし、血の通った改革を行うことだけでした。こちらの会社は規模も大きく、歴史もあります。ですが、現場の人間が抱える不安や、変革への恐れはどこも同じです。長谷川副社長がこれまで築かれてきた現場との強い信頼関係、それを私が引き継ぎ、さらに新しい時代の事業へと昇華させてみせます。古巣を捨てる覚悟は、すでにできております」


古賀の言葉には、長年現場の修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、圧倒的な説得力があった。長谷川は頷き、ゆっくりと立ち上がると、古賀の前へと歩み寄った。


「古賀君。うちの現場は頑固者が多いぞ。特に地方の事業所は、そう簡単に外から来た人間の言うことは聞かん」


「望むところです、長谷川副社長。頑固者ほど、一度腹を割れば最高の仕事をしてくれます」


ふたりの手が、力強く握合わされた。ベテランからベテランへ、現場の精神が引き継がれた瞬間だった。


渡辺もまた立ち上がり、大石の肩を軽く叩いた。

「大石。篠原は夢を語る男だ。時には無茶な投資をと言い出すこともあるだろう。その時は、お前が容赦なく数字の刃で止めてやれ。それがお前の役割だ」


「承知いたしました。社長……いえ、渡辺顧問とお呼びすべきでしょうか。遠慮なく、新社長のブレーキ役を務めさせていただきます」


「ハハハ! 頼もしい限りだ」

渡辺は声を上げて笑った。


そして6月。株主総会の日がやってきた。


ホテルの大ホールに集まった株主や報道陣の前に、壇上に上がった渡辺がマイクの前に立った。


「——本日をもちまして、私、渡辺は代表取締役社長を辞任し、後任には篠原が就任いたします。また、長谷川副社長も共に退任し、新たな経営体制へと移行いたします」


会場にどよめきが広がった。困難な荒波を乗り切った名コンビの同時退任は、市場にとっても大きなサプライズだった。


渡辺は一呼吸置き、静かに、しかし力強く続けた。


「会社とは、人の命よりも長く生き続けるべきものであります。私たちが築いた土台の上で、新しい世代が新しい羽で羽ばたく時が来ました。篠原率いる新体制に、どうぞご期待ください」


大きな拍手が湧き起こる中、渡辺と長谷川は一礼し、壇上を降りた。


交代するように、中央のマイクへと進み出たのは、新社長となった篠原だった。その右側には新専務の大石が、左側には新副社長の古賀が、堂々とした立ち姿で並んでいる。


フラッシュの嵐が篠原たちを包み込んだ。


篠原はマイクを手に取り、会場を見渡した。客席の最前列には、穏やかな笑顔で見守る渡辺と長谷川の姿があった。


「ただいま紹介にあずかりました、篠原でございます」

篠原の声が、スピーカーを通じてホール全体に響きわたる。


「渡辺、長谷川という二人の偉大なリーダーが築き上げたこの会社は、今、新たな時代のスタートラインに立っています。私たちは、これまでの伝統を守るだけに留まりません。大石がもたらす鋭い金融経済の知見と、古賀が導く圧倒的な現場力。この二人とともに、未来へ向けて社会に不可欠とされる企業であり続けることを、ここにお約束いたします」


力強いスピーチに、先ほど以上の大きな拍手が巻き起こった。


株主総会が終わり、夕闇が街を包み込む頃。


本社の社屋を見上げる敷地内の庭園に、渡辺と長谷川の二人が立っていた。建物からは、新体制の初会合を終えた篠原、大石、古賀の三人が歩いてくるのが見えた。


「いい顔をしてるな、あいつら」

長谷川が煙草に火をつけながら言った。


「ああ」渡辺は満足そうに目を細めた。「篠原の決断力、大石の冷徹な頭脳、古賀の熱い現場力。三角形のバランスとしては、私とお前の頃よりも美しいかもしれんぞ」


「けっ、言うようになったな」長谷川は笑ったが、その目はどこか誇らしげだった。


三人が二人のもとへ駆け寄ってきた。


「渡辺さん、長谷川さん。お疲れ様でした」篠原が深々と頭を下げる。


「これからはお前たちの時代だ。私たちに気兼ねなく、好きにやれ」渡辺はそう言うと、ふと空を見上げた。夜空には、すでに一番星が輝いていた。「私はどこまで見届けられるか分からんが、お前たちが作る未来を楽しみにさせてもらうよ」


「必ず、渡辺さんたちが誇れる会社にしてみせます」篠原が誓う。


大石が眼鏡の位置を正しながら静かに言った。「さっそく明日から、来期の事業計画の修正に入ります。篠原社長の構想には、まだ資金効率の面で甘い部分がありますので」


「おいおい、大石。初日から社長をいじめるなよ」古賀が豪快に笑いながら大石の首をすくめた。「まずは現場の挨拶回りだ。来週から全国の事業所を篠原社長と一緒に連れ回す予定なんだからな」


「頼むから手加減してくれよ、古賀さん」篠原が苦笑いする。


そのやり取りを見ながら、渡辺と長谷川は心から温かい気持ちになっていた。


去りゆく世代と、引き継ぐ世代。

時代の激浪を乗り越えた会社は今、大石と古賀という新たな翼を得て、遥かなる未来へ向けて、確かな一歩を踏み出したのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ