第141章 黄金の穂波と命の糧
第141章 黄金の穂波と命の糧
冬。新形県南部に広がる越後盆地。南大沼の山々に抱かれた、六日町。
時価総額130兆円を突破し、軌道造船都市『グランド・ラビット・メガロ・ドック』の運用、火星移民船『アルカディア号』の航行、そして宇宙ゴミ(スペースデブリ)を100%資源化する『全自動再生ギガファクトリー』の稼働に至るまで、世界の産業とフロンティアを牽引し続ける超巨大コンツェルン「南越急行ホールディングス」。
その圧倒的な成長を「財務の鬼」として足元から冷徹に支え続けてきた最高財務責任者(CFO)の大石専務には、ここ数年、胸の奥底で日増しに大きく膨らんでいた「一つの深刻な危機感」が存在していた。
それは、金融市場の数字でも、宇宙開発の利権でもない。
日本人として、そして南越急行グループの原点として決して譲ることのできない「主食——米」の未来に対する懸念であった。
ある日の昼下がり。六日町の本社タワー最上階にある専務室。
大石は、南越アグリが運営する立ち食いそばチェーン『そばろく』の厨房から特別に運ばせていた、大沼産コシヒカリの特選おむすびを手に取り、静かに口に含んだ。
しかし、そのポーカーフェイスの眉間には、うっすらとした皺が寄っていた。
「……やはり、出ているな。味の落ちではない。米粒自体の“胴割れ”と“白未熟粒”の発生率が、五年前と比較して明らかに増えている……」
大石はポシェットから温かいジャスミン茶(南越ビバレッジ特選一級品)を取り出し、静かに一口含んだ。
原因は明白であった。世界的な地球温暖化の進行による、毎年のように日本列島を襲う酷暑と異常高温。さらに、ある地域では猛烈なゲリラ豪雨と洪水が頻発し、別の地域では深刻な干ばつが続くという「極端な気候変動」である。
日本の米の代名詞とも言える「コシヒカリ」をはじめとする従来の優良品種は、出穂期の高温に弱く、品質低下や収量の減少が全国的な社会問題となっていたのだ。
さらに大石の脳内で弾き出された「農業構造の崩壊データ」は、より一層絶望的な数値を示していた。
「高齢化による深刻な農家不足と、後継者難。……このまま従来の農法と品種に頼り続ければ、1アール(100平方メートル)あたりの収量は頭打ちとなり、資材高騰に苦しむ農家は十分な収入を得られずに次々と離農に追い込まれる。やがて日本の食料自給率は底を突き、我がグループの立ち食いそば『そばろく』やデパート『伊勢』、さらには国全体の食の安全弁が壊滅する……」
大石は静かにメガネのブリッジを押し上げた。
彼が知っていたもう一つの「不都合な真実」——それは、地元新形県が誇る県営の「品種改良センター(農業試験場)」の窮状であった。
自治体の財政難による研究予算の大幅削減、老朽化した実験設備、そして若手研究者の激減……。気候変動という巨大な敵に対し、公的な研究機関だけでは、到底スピード感を持った品種改良など不可能な限界に達していたのである。
「……何とかしなければならない。お金を転がして利益を上げるだけが経営ではない。命の糧である米を守れずして、何の南越急行か」
ポーカーフェイスの大石専務の瞳に、静かだが冷徹な「覚悟」の火が灯った。
「篠原CEO。お時間をいただけますか」
大石は、温かいジャスミン茶の入った竹筒と、分厚いデータファイルを抱えて最高経営責任者(CEO)室のドアを叩いた。
部屋の中では、篠原賢人CEOがガラス窓越しにしんしんと降りつもる大沼の雪景色を見つめていた。篠原は穏やかな笑みを浮かべ、二人掛けのソファーへと大石を促した。
「大石。君がわざわざ紙の資料を持ってくるときは、数字以上の『大切な話』があるときだね」
「はい」
大石はソファーに腰掛け、タブレットのホログラム画面に全国の米の品質低下グラフと、県営品種改良センターの困窮データを浮き上がらせた。
「近年の異常気候と酷暑により、従来品種の米づくりが限界を迎えています。また農家不足により、1アールあたりの収量を大幅に増やさなければ、農家の営農継続そのものが不可能です。県営の品種改良センターも予算と人材の不足で機能不全に陥りかけています。我が南越急行グループとして、直ちにこの問題へ介入すべきだと考えます」
大石は具体的な解決策を提示した。
「第一に、新形県および行政と我がグループで資金を共同出資する『第3セクター(官民合同会社)』を立ち上げます。県が持つ長年の交配データと、我がグループの資金力・量子AI・サロナの環境制御技術を融合させ、酷暑・大雨・干ばつに耐え、なおかつ1アールあたりの収量が従来の1.5倍以上に跳ね上がる『次世代スーパー米』の品種改良を全面サポートします」
さらに、大石の提案はそれだけに留まらなかった。
「そして第二に……我が南越急行グループ自身が、既存の農家の方々の権利や市場を圧迫しない範囲(休耕田の再生や離農地の引き受けなど)で、会社として直接米を生産する専用事業部を『南越アグリ』内に新設いたします」
篠原賢人は静かにジャスミン茶を一口含み、大石の提案を一つひとつ深く噛み締めるように頷いた。
「素晴らしい決断だよ、大石」
篠原の瞳に、温かくも強い光が宿る。
「我々がどれほど宇宙へ進出し、巨大なインフラを創ろうとも、我々を生かし、支えてくれているのは『この大地のひと粒のお米』だ。農家の方々の暮らしを守り、未来の食卓に安全で美味しいお米を届け続けること……それこそが、南越急行グループの果たすべき真の社会的責任だよ」
そこへ、ドアを豪快に叩いて南越重工業社長の古賀副社長が飛び込んできた。手には、巨大なトラクターの設計図が握られている。
「篠原! 大石! 聞いたぞ! 今度は米づくりを劇的に変えるんだってな! 農業試験場の研究員たちが予算不足で泣いてるって聞いて、俺もじっとしていられねえ!」
古賀が熱っぽくデスクを叩いた。
「重工の技術で、全自動AI農業ロボットや、台風でも倒れない最強のバイオハウスを作ってやる! 農家のおじいちゃんやおばあちゃんが腰を痛めずに、最高に美味い米を山ほど獲れるようにしてやろうじゃないか!」
大石専務は静かに立ち上がり、ポシェットからジャスミン茶を取り出した。
「古賀副社長、心強い提案です。……官民合同第3セクター『株式会社 新形アグリバイオ・イノベーション』の発足、ならびに南越アグリ『直営・未来農業事業部』の新設、即刻発動いたします」
決意からわずか数日後。
新形県庁の知事室において、新形県知事、県営品種改良センターの所長、そして南越急行の篠原CEO、古賀副社長、大石専務が出席する歴史的な調印式が執り行われた。
新聞社やテレビ局のカメラが一斉にフラッシュを焚く中、資本金五十億円(南越急行グループ70%、新潟県30%出資)による第3セクター『新形アグリバイオ・イノベーション』が正式に発足したのである。
長年、予算削減と研究者の離職に頭を痛めていた品種改良センターの老所長は、大石の手を両手で強く握りしめ、ボロボロと大粒の涙を流した。
「大石専務……篠原CEO……! ありがとうございます! これで、私たちが長年研究してきた耐暑性遺伝子の交配実験を諦めずに済みます! 資金も設備も無く、若い研究者が去っていくのをただ見ているしかなかった……!」
古賀副社長が豪快に所長の肩を叩いた。
「所長さん、泣くのはまだ早いぜ! 今日から俺たちのサロナエアコンの気候シミュレーションドームと、新行電気工業の量子AIが全パワーで手貸しするんだ! 何十年もかかってた品種改良を、数ヶ月で完成させてやるからな!」
直ちに、六日町および浦佐の旧実験用地において、サロナエアコンが開発した巨大密閉型実験ドーム『アグリ・バイオ・ドーム』の建設が始まった。
ドーム内部は、サロナの多層気流・温度自動管理技術により、「40度を超える猛暑」「連日のゲリラ豪雨」「強烈な乾燥・干ばつ」といった、今後予測される地球上のあらゆる極端気象を室内で完璧に再現できる環境が構築された。
さらに、武沢製薬のバイオゲノム解析チームと、新行電気工業の量子AI『ラビット・ゲノム』が投入された。
従来の品種改良は、手作業での交配と育成を何度も繰り返し、理想の変異を待つために10年から15年という長い年月を要していた。しかし、『ラビット・ゲノム』は、県が蓄積してきた数万種類の稲の遺伝子データをミリ秒単位でシミュレーション解析。
高気温(40度以上)でも白未熟粒にならず、晶瑩としたツヤを保つ耐暑性遺伝子
深根性(根が深く張る)を持ち、干ばつでも地底深くから水を吸い上げる耐乾性遺伝子
一穂あたりの籾数が従来の1.8倍に増え、1アールあたりの収量が劇的に増加する多収性遺伝子
これらを併せ持つ奇蹟の交配パターンをわずか数週間で特定。ドーム内での超高感度LED育苗により、通常の10倍のスピードで「実証栽培」へと漕ぎ着けたのである!
第3セクターによる超速品種改良が進む一方で、大石専務の「第二の矢」である、南越アグリ『直営・未来農業事業部』が本格始動した。
大石が最も配慮したのは、「地元の農家の方々が先祖代々守ってきた農地や米の販売市場に、巨大企業のパワーで損害を与えては絶対にならない」という厳格なルールであった。
南越アグリが対象としたのは、高齢化や後継者不足によりやむなく手放され、雑草が生い茂っていた「休耕田・荒廃農地」、および離農を余儀なくされた農家からの「作業委託・農地借り受け(借地)」であった。
事業部長に就任したのは、南越アグリで長年地元農家と信頼関係を築いてきたベテランの農学技師であった。
「荒れ果てた田んぼを、南越重工業の技術で天国のような超高収益農地へ蘇らせるぞ!」
南越建設の全自動AI施工部隊と南越重工業が開発した、全自動AI農業機群が越後平野の休耕田へと投入された。
無人AI耕うん機『ラビット・トラクター』が、何年も放置されていた硬い土壌を最新の超音波バイオで耕し、武沢製薬の有機土壌改善菌を注入。わずか数日で、ふかふかの極上土壌へと再生させていった。
さらに、本産自動車の超小型農業ドローン網が空から土壌の水分、窒素量、稲の生育状態をリアルタイムスキャン。サロナエアコンの地底滴下パイプラインにより、必要な水分と有機肥料だけを根元へジャスト供給する「超節水・精密自動農業」が確立されたのである。
これまで重労働だった泥まみれの農作業は、若者が快適なエアコンの効いた管理室でタブレットを操作する「最先端スマートテクノロジー」へと劇的に変貌した。
「すごい……! お父さんが体を取り壊して諦めた田んぼが、まるで未来の工場みたいに綺麗になって、青々と稲が育っている……!」
離農を考えていた地元の若い世代が、南越アグリの「直営未来農業事業部」の正社員として続々と採用され、手厚い給与と家族医療保険を受け取りながら、誇りを持って新しい農業へと飛び込んでいった。
プロジェクト発足からわずか一年。
翌年秋。越後平野の『アグリ・バイオ・ドーム』および、南越アグリ直営の再生農地において、第3セクター『新形アグリバイオ・イノベーション』が開発した奇蹟の新新新植物品種——『新形黄金』が、見事な黄金色の穂を垂れていた。
その年は、夏場に観測史上最高となる「41度」の酷暑が三十日以上も続き、各地の従来品種の米が大打撃を受けていた過酷な年であった。
しかし、南越アグリの直営農地に広がる『新形黄金』の田んぼは、猛暑も水不足もどこ吹く風とばかりに、一穂一穂にズッシリと重い大粒の籾をたわわに実らせていたのである!
収穫の秋。全自動AIコンバイン『ラビット・ハーベスター』によって刈り取られた『新形黄金』の測定結果が出された瞬間、試算室にいた県営センターの所長と研究員たちが、歓喜の悲鳴を上げた。
「で……出たぁぁぁ!! 1アールあたりの収量、なんと『120キログラム(従来比1.6倍)』!!」
「品質検査、全粒クラストップの『特A級』!! 胴割れゼロ、白未熟粒ゼロです!!」
奇蹟の数値であった。
1アールあたりの収量が1.6倍に跳ね上がったことで、資材高騰に苦しんでいた農家の手取り収入は一気に「2倍以上」へ増加。さらに、40度の猛暑でもビクともしない圧倒的な耐暑性が証明されたのである!
新形テレビ20のベテラン記者・高橋とカメラマン・井上も、黄金色に輝く田んぼの最前線から全世界へ向けて生中継を行っていた。
井上の担ぐ最新鋭8Kカメラの側面には、あのガムテープの切れ端が誇らしく貼られている。
「こちら新形テレビ20です!」
高橋記者が感涙に声を詰まらせながらマイクを握る。
「酷暑と異常気候に苦しんでいた日本の農業に、今日、救世主が誕生いたしました! 県と南越急行グループが手掛けた新新新新新新新新新品種『新形黄金』が、脅威の1.6倍の収量を記録! いま、地元の農家の方々が涙を流して抱き合っています!」
画面には、南越アグリから無償で種もみの提供を受け、見事な大収穫を収めた地元の老夫婦の笑顔が映し出された。
「もう米づくりを辞めようと思ってたんだがね……南越急行さんのおかげで、孫に『じいちゃんの米は日本一だ』って胸を張れるよ……! 本当に、本当にありがとう……!」
おじいちゃんが、黄金色の稲穂を愛おしそうに抱きしめて涙を流した。
収穫から数日後。
六日町本社タワー最上階にあるCEO室。
モーニングテーブルの上に置かれていたのは、炊き立ての『新形黄金』で握られた、ツヤツヤと輝くおむすびと、南越ビバレッジ特選のジャスミン茶であった。
テーブルを囲んでいたのは、篠原賢人CEO、古賀副社長、そして企画の発案者である大石専務の三人であった。
「さあ、大石。君が命を吹き込んだ新米だ。食べてみようじゃないか」篠原が微笑む。
「いただきます」
大石専務は静かに息を整え、出来立ての『新形黄金』のおむすびを持ち上げ、口の中へ運んだ。
その瞬間——大石専務の口内で、日本の風土と最新テクノロジーが織りなす「究極の食味ビッグバン」が巻き起こった!
(ん……ッ!!!? な、なんだこの粒立ちと甘みは……!!)
一粒ひと粒の米粒が、しっかりとしたハリと弾力を持ちながら、噛み締めた瞬間に、大沼の清らかな水と太陽の甘みがジュワッと口いっぱいに広がる。冷めてもモチモチとした食感が一切失われず、コシヒカリを超える芳醇な香りが喉の奥へ抜けていったのである。
大石専務は、思わずおむすびを手に持ったまま、静かに目を閉じた。
ポーカーフェイスで知られるあの「財務の鬼」の頬を、またしても一すじの深い感動の涙が伝ってこぼれ落ちた。
「……素晴らしい。40度の酷暑を乗り越えたとは思えない、完璧な水分量と甘みのノリ。……これなら、日本の農家は救われます。我が国の食卓は、今後何百年も安泰です……!」
隣で大きなおむすびを一口で半分かじり取った古賀副社長も、目を丸くして机を叩いた。
「う、うめぇぇぇ!! 大石、なんだこの美味さは!? 立ち食いそば『そばろく』のセットのご飯も全部これにしようぜ! 世界中の人間に食わせてやりたい味だ!」
篠原賢人CEOも静かに新米を味わい、深く頷いた。
「素晴らしいよ、大石。君の金融の眼光と、大地への愛が、日本の農業の未来を完璧に繋ぎ止めたんだね」
「はい。……感無量です」
大石専務は胸ポケットからハンカチを取り出し、涙を静かに拭った。
大石専務が手元のタブレットを滑らかに操作し、ポーカーフェイスのまま数字を提示した。
「……篠原CEO、古賀副社長。第3セクター『新形アグリバイオ』による『新形黄金』の種もみライセンス益、ならびに南越アグリ直営農地からの収穫米外販益、立ち食いそば『そばろく』全店での内製化によるコストカットを含め、初年度の当期純利益は『四百五十億円』を記録いたしました。投下資金五十億円は、わずか半年で完全回収完了です」
「ガハハハ!」古賀副社長が豪快に大石の背中を叩いた。「見たか篠原! 日本の農業と農家を救って、最高に美味い米を作って、なおかつ450億円の儲けだ! やっぱり大石のやることに隙はねえな!」
「はい。今回は食料安全保障、地域農家の救済、そして採算性を完璧に両立させた満点のオペレーションです」
ポーカーフェイスの大石の口元にも、極めて晴れやかで温かい笑みが浮かんでいた。
すべてのオペレーションが完了した秋の夕暮れ。
六日町メガロポリスの展望デッキから見下ろすと、どこまでも広がる越後平野には、夕日に映える見事な黄金色の穂波が、風に揺れてキラキラと光り輝いていた。
その中を、時速160キロのAI特急『新・なんたか』と、南越アグリの全自動物流トラック群が、誇り高き長笛を響かせながら走っていく。
デッキの欄干に、篠原賢人、古賀副社長、大石専務の三人が並んで佇んでいた。
篠原賢人は温かいジャスミン茶を一口含み、黄金色に染まる故郷の大地を見つめた。
「大石、古賀。我々が流してきたのは、ただの資金や技術ではない」
篠原の静かな言葉に、二人が深く耳を傾ける。
「この大地で生きる人々が、明日も安心して働き、家族と温かいご飯を食べられるという『命のインフラ』だ。どんなに気候が変わり、時代が移り変わろうとも、我々が大地と人を想う情熱を忘れない限り、その穂波が途絶えることはない」
渡辺前社長が遺した不滅の言葉——「会社は人より長く生き続けるべきもの。稼いだ金は未来を信じる魂だ」。
魚沼の澄み切った秋空に、豊かな実りを祝う長笛の音が力強く響き渡っていく。
人々の命と豊かな暮らしを足元から完璧に支えながら、南越急行ホールディングスの走らせる無限のレールは、日本の大地を、そして世界の永遠の未来を乗せて、どこまでも、どこまでも力強く伸ばされ続けていくのだった。




