第109章 月面開拓と鉄路と白銀のレゴリス
地球の周回軌道上に燦然と輝く超大型高居住型宇宙ステーション『グランド・ラビット』。そこからさらに三十八万キロメートル彼方に浮かぶ、白銀の月面。
人類が再びその足跡を刻み、国際宇宙評議会(ICC)と米国航空宇宙局(NASA)が主導して建設を進めていた月面永久有人拠点『アルテミス・ベース』は、いま未曾有の壁にぶち当たっていた。
「ダメだ……! 第一区画の自動輸送キャタピラがまた停止した! ベアリングが焼き付いているんじゃない、噛み込んでいるんだ!」
月面「静かの海」の南東部に位置する掘削現場で、NASAの現地作業責任者マーク・ワトニー技師が、ヘルメット越しに悲痛な叫びを上げた。
月面を覆う極小の砂粒——レゴリス。
何億年もの間、大気も水もない真空の中で微小隕石の衝突に晒され続けたその砂は、丸みを帯びる磨耗を一切受けていない。鋭利なガラスの破片のような微小な角を持ち、強固な静電気を帯びてあらゆる隙間に進入する。
従来の無人装軌車輌や大型ローバーの駆動部は、このレゴリスによってことごとく軸受を削り取られ、減速機を粉砕され、わずか数十時間の稼働で無残な金属のゴミへと変わり果てていた。
さらに、昼夜で摂氏三百度を超え引き裂かれる強烈な寒暖差、そして大気を透過して降り注ぐ高エネルギー宇宙線と太陽フレア。
月面拠点の拡張に必要なチタンやチタン鉄鉱、氷床から水と酸素を抽出する採掘プラントへの資材輸送網は、完全に麻痺していた。
「このままでは『アルテミス・ベース』の第二次拡張計画は破綻する。月に送った機材の八割が半年で動かなくなるなんて、議会への予算説明が通るはずがない……!」
ワシントンDCのNASA本部で行われた緊急会議の場で、ジョンソン宇宙飛行士(元『グランド・ラビット』ステーション船長)は静かに挙手し、モニターの向こうの理事たちを見据えた。
「我々には、過酷な極限環境を克服し、壊れないインフラを作り上げた唯一無二のパートナーがいます。地球上で、そして宇宙ステーションで、不可能な建設をことごとく可能にしてきた集団です」
「……南越急行か」
理事長が深く息を吐き出した。
預金残高800兆円を超え、世界の国債すら買い支える世界最大にして最強の巨大コングロマリット。そして何より、現場の汗と泥——いまや「月の砂」と真空の中でさえ戦い抜く力を持つ、不屈の鉄道企業であった。
新潟県南魚沼市、六日町メガロポリス。
南越急行ホールディングス本社の最高経営責任者(CEO)室にて、篠原賢人はNASAおよび国際宇宙評議会からの極密打診書に目を落としていた。
「月面での輸送路構築、ですか……。レゴリスによる機械駆動部の磨耗、寒暖差による金属疲労、宇宙線による制御回路の暴走。月面の三大障害をすべてクリアする輸送システムを作れ、と」
篠原の向かいに座る最高財務責任者(CFO)の大石専務が、タブレットの画面を指で弾きながら冷徹な数値を弾き出す。
「見積もり事業費は初期投資だけで六兆五千億円。NASAと国連の共同予算から半分は出ますが、残りの三兆二千五百億円は我がグループの自己資金持ち出しとなります。採算性だけで言えば、月面の鉱物資源の優先採掘権を勘案しても回収までに最低十二年を要しますね」
だが、その隣で腕を組んでいた南越重工業社長兼グループ副社長の古賀が、豪快に笑い飛ばした。
「何を言ってるんだ大石! 月面に『レール』を敷くんだぞ! 赤字ローカル線から始まった俺たちが、ついに月面鉄道の開拓者になるんだ。採算云々の前に、男なら、いや鉄道屋なら血が滾るじゃないか!」
「古賀副社長、感情論で数十兆円の機材を動かされては困ります」
「いや、大石」
篠原が静かに割って入った。その目は、かつて三〇〇億円の内部留保を賭けて金融格闘技に挑んだ時と同じ、鋭く澄んだ光を宿していた。
「これは単なる宇宙開発ではない。月面での安定した物流網の確立は、将来の深宇宙探査、そして地球のエネルギー問題を解決するヘリウム3採掘の絶対的な土台になる。そして何より……タイヤやキャタピラが全滅する過酷な現場で勝つのは、いつの時代も『軌道』だ」
篠原は立ち上がり、ガラス窓越しに六日町メガロポリスを行き交う160km/h自律走行電車『NK3500系』を見下ろした。
「南越車輌、南越建設、本産自動車、新行電気、そして梅内・後田製作所の技術を結集する。月面専用の超電導リニア・軌道輸送システムを構築するぞ」
プロジェクト発足からわずか三ヶ月。新潟臨海の南越重工業「新聖龍工場」および「宇宙港ギガファクトリー」は、不休の熱気に包まれていた。
月面鉄道『ムーン・ラビット・ライナー』の開発にあたり、最大の難関は言うまでもなく「レゴリスの排除」と「完全無接触」であった。
南越車輌の技師長・村上(元・旧新形鉄工場)は、かつて雪国の猛吹雪と闘った職人たちのDNAを爆発させていた。
「レゴリスが隙間に入って軸受を壊すなら、最初から機械的な接触部をゼロにすればいい! 車輪も軸受も使わん。超電導マグネットによる浮上式——それも、月面の極低温を利用した高効率永久磁石アシストの超電導リニアだ!」
村上が提示した構造は度肝を抜くものだった。
軌道には、サロナエアコンと新行電気工業が共同開発した「耐ナノセラミック被覆・極低温密閉型コイル」を敷設。さらに軌道表面には、本産自動車と梅内・後田製作所が創り出した「高周波静電気反撥シールド」を常時展開させる。これにより、軌道上に落ちてくる微細なレゴリスは静電気の力で左右へ弾き飛され、線路の上には一切の砂が留まらない。
車両本体『NK-M10000系(愛称:ムーン・ラビット)』の車体外殻には、武沢製薬のバイオナノ技術と南越重工業の複合材を融合させた「宇宙線遮蔽・超高耐熱セラミックナノアーマー」を採用。内部にはサロナエアコンの多層気圧・温度維持システムが組み込まれ、真空の外界から遮断された完全な地上と同等の快適空間が約束された。
そして、この軌道を月面に敷設するのは、南越建設が誇る無人AI施工部隊だった。
南越建設の井上社長が主導し、梅内製作所の小型油圧メカトロニクスと後田製作所の「カニクレーン」の技術を融合させた月面専用AIシールドマシン『月極ラビット1号』が完成。
『月極ラビット』は、月表層のレゴリスと岩盤を掘削しながら、同時にその場で掘り出した岩石を内蔵された高出力マイクロ波熔融炉で一瞬で溶かし、カチカチのガラス質堅牢な「地下トンネル壁面」と「軌道基盤」を自動成形して進むという、異次元の全自動土木システムであった。
秋、新新形国際空港の宇宙港エリアから、超大型宇宙貨物輸送機『ラビット・カーゴ(B7147C)』および『ラビット・キャリア』の大型フリートが一斉に大空へ飛び立った。
目的地は、月面『アルテミス・ベース』。
月面に到着した南越建設の無人AI施工部隊は、直ちに作戦を開始した。
地球からの遠隔量子通信制御と、機体自体の高度な自律AIによって動く『月極ラビット』群は、月面の過酷な環境を物ともせず進撃した。
昼間の摂氏百三十度の灼熱下でも、サロナエアコンの放熱システムが作動。夜間の摂氏マイナス百七十度の極寒下では、柏崎核融合発電所の技術を応用した超小型プラズマヒーターが機体を温める。
地上ではNASAの技術者たちが、モニターに映し出される光景に言葉を失っていた。
「信じられない……! 我々が何ヶ月もかけて数百メートルしか進めなかったレゴリスの地盤を、南越の建機は一日で三キロメートルも掘り進んでいる! 掘削した先から、ピカピカに固められた完璧な地下トンネルが出来上がっていくぞ!」
作業開始からわずか四十日。
月面の「静かの海」から、第一採掘基地、そして氷床が存在するサウスポール(南極)エリアに至る総延長百二十キロメートルの月面初となる地下鉄道網『月面幹線・なんのう線』の第一期区間が完工した。
月面基地のドーム内で行われた開通式典には、防護服を着たNASAや欧州宇宙機関(ESA)、そして南越急行の古賀副社長や井上建設社長らの姿があった。
式典のクライマックス、月面専用超電導リニア『NK-M10000系』の第一号編成が、静寂の月地下トンネルから滑り出てきた。
シルバーと南越ブルーに彩られた美しい車体が、一切の発進音も立てず、スーッと滑るように浮上してホームへ滑り込んでくる。
「接触部ゼロ。軸受負荷ゼロ。レゴリス侵入率、完全ゼロ%!」
技術者の叫びが無線に響き渡った。
最高時速三百キロメートル。地球の六分の一の重力下で、レゴリスの嵐を完全にシャットアウトした地下トンネル内を、大量のチタン鉱石と水資源を載せた『ムーン・ラビット』が力強く、そして完璧な滑らかさで駆け抜けたのだった。
この歴史的偉業の現場には、当然のようにあの男たちの姿があった。
新形テレビ20のベテラン報道記者・高橋と、カメラマンの井上である。
ふたりは月面基地内のサテライト取材用宇宙スーツに身を包み、ヘルメット越しに『ムーン・ラビット』が月面地下を疾走する瞬間を、最先端の8K真空対応カメラで捉えていた。
「井上、撮れているか! 車輪を持たない列車が、レゴリスの地底を切り開いて疾走するこの瞬間を!」
「バッチリです、高橋さん! レンズの向こうで、NASAの外国人技師たちが抱き合って泣いてますよ!」
井上の担ぐカメラの側面には、かつて破産寸前だったローカル局時代、壊れかけたズームノッチを留めていたあの「古びたガムテープ」の切れ端が、守り神のように今も小さく貼られていた。
どれほど取材現場が地球の裏側になろうと、あるいは38万キロ先の月面になろうと、新形テレビ20の魂は変わらない。
「こちら新形テレビ20、月面『アルテミス・ベース』地下ホームです!」
高橋がマイクを握り締め、熱っぽく全世界へ語りかける。
「かつて雪国の小さな赤字ローカル線だった南越急行のレールは、いま、地球を飛び出し、人類の新たなる故郷・月面へと繋がりました! 見てください、過酷な砂に敗れかけていた世界の宇宙飛行士たちが、いま南越の列車を背に、満面の笑顔でガッツポーズを作っています!」
この生中継映像は、新形テレビ20のグローバル配給網を通じて世界百九十カ国、何億世帯ものテレビやスマートフォンへリアルタイムで配信された。
視聴率は全世界平均で40%を超え、株価や政治的対立に揺れていた世界の人々に、圧倒的な感動と希望を与えた。
月面鉄道『ムーン・ラビット・ライナー』の開通により、月面基地の物資輸送能力は従来の1000%(十倍)以上に跳ね上がった。
壊れない物流網を手に入れた『アルテミス・ベース』は一激で拡大し、月面での太陽光発電プラントやヘリウム3採掘工場の稼働が現実のものとなった。
月面プロジェクトの成功から数週間後。
ワシントンからの帰途についた篠原、古賀、大石の三人は、越後湯澤からの帰りに乗った『新・特急なんたか』の車内にいた。
車窓には、しんしんと雪が舞い降りる越後の美しい冬景色が広がっている。
大石専務がタブレットの最終決算数値を確認しながら、珍しく満足げな笑みを浮かべた。
「……今回の月面鉄道プロジェクト、最終的にNASAと国際宇宙評議会からの追加インフラ受注、および月面鉱物資源の運賃収入により、初年度から九千億円の純利益が見込まれます。自己資金投資分の回収は、わずか3年半で完了する見通しです」
「ハハハ! 見たか大石! 『月に鉄道なんて無駄遣いだ』なんて言わなくて良かったろう!」
古賀が豪快に大石の肩を叩く。
「痛いですな、古賀副社長。私は最初から、篠原CEOの計算を信頼していたまでです」
ポーカーフェイスを崩さない大石の表情に、篠原も微小な苦笑を漏らした。
篠原は温かいジャスミン茶(南越ビバレッジ特選一級品)を口に含み、遠く雪の舞う夜空を見上げた。雲の切れ間から、白銀に輝く月が姿を覗かせていた。
「月面にレールを敷いても、この越後の雪原にレールを敷いても、我々のやるべきことは何も変わらない」
篠原の静かな言葉に、古賀と大石が耳を傾ける。
「過酷な現場で途絶えかけた人々の暮らしと未来を、技術と情熱と資本の力で繋ぎ止める。それが、南越急行という会社だ」
「線路に終着駅はない」——かつて渡辺前社長が残した言葉が、三人の胸に改めて深く響き渡る。
時速160kmで雪原を滑る『新・特急なんたか』の長笛が、夜の静寂を切り裂いて、どこまでも力強く響き渡っていった。月面の白銀の世界へ、そしてまだ見ぬ未来のレールへ向かって。




