第15-6話:檻のように積もりゆき
「んん……」
温泉のあと、香蓮と映画を観ながらゴロ寝していたところまでは覚えている。
もう初夏に片足突っ込んでいる季節にも関わらずなぜだか肌寒く、はだけた浴衣の隙間から冷えた空気が入り込んでくる。
例えるなら。
冷たく、冬の終わりに出た霧の日のような湿った空気。
「……!」
その比喩が出てきたのと同時に、目をかっぴらく。
真っ白な空間。
たった一ヶ月前にも見た、嫌な思い出が溢れてくるあの空間。
『…………』
そして私の寝そべっていた場所から数歩行ったところに、無言のまま立ち尽くす存在を目にする。
背広の構造やっと向こうを向いていることが分かる、ちぐはぐで掴みどころのないその存在。
「リヴァ!」
咄嗟に立ち上がり、はだけた浴衣を直しながら不格好に構えた。
でも、リヴァは一向に言葉を発しない。
いつもならその軽薄でおどけた態度で私の境遇を誂ってくるのに、今日はその嘲りの一つすらない。
『そんなに欲しいなら、くれてやろうか』
読まれた思考。
威かすような声に、身体が先に動いた。
一歩、後ずさる。
でも。
いつもと比べて不思議と心が落ち着いている。
脚が勝手に笑うことも、呼吸が詰まることもない。
あの時、ルイに一人じゃないと否定して貰えたお陰かな。
思わぬところで彼の存在を感じ、口角が僅かに上がった。
『……まったく。最近の君は、見ていて本当に面白くない』
「そりゃそうでしょ。私はあんたの道化になるために生きてるわけじゃないの」
構えるのもやめて、目に掛かった髪を掻き上げながら口にする。
今なら、あの幻を見せられても平然と乗り越えられる。
自信を持ってこう言えることに、私自身の進歩を感じ取る。
『進歩だって? 君がやっている行為はむしろ退化そのものだろう』
白い歯で物言いながら振り返るリヴァ。
その口元には不満が見え隠れしている。
「私も分かんないわよ、そんなの。けど……退化かどうかを決めるのがあんたじゃないことぐらい分かるわ」
『ハッ。言うようになったじゃないか、人間ごときが』
表面上だけの称賛。
丸見えの皮肉。
事実、リヴァのつま先が刻むリズムが内心の荒れ模様を隠せていない。
でも、その明らかな態度の変化の由来が私の煽りだけだというにはどこかおかしかった。
というか、その前から何かに対して不満を漏れ出し続ける様子だったのを思い出す。
斜め下へ視線を向けながら爪を噛む姿は、心ここにあらずだと自ら喧伝しているようにさえ思えた。
『ああそうさ、認めるよ。俺は今焦っている』
リヴァは取り繕おうともせずに、内心の荒みを認めた。
今までの傲慢さからは想像も付かないほど素直な様子に、言い得ぬ気色悪さを覚える。
『こんな状況なのによく言ってくれるじゃないか、人間。前の希死念慮は一体どこへやら』
言葉の節々に飄々としたものを感じさせるリヴァ。
でもこんな状況って……いったいどういうこと?
今ここに呼び出されていることなんだとすれば、既に嫌で嫌でたまらないんだけど。
『単刀直入に言おう。君、今のままだと死ぬよ。事の重大さを何も理解できていない』
…………なるほどね。
今度はそうやって命の危機で脅して、私から何かを騙し取ろうってことね。
『そう思うなら思えば良いさ。その代わり、君だけじゃなくて多くの人が死ぬことになる』
「……!」
その言葉に、さすがの私も聞き耳を立てた。
こいつがネチっこく話す時間を一秒でも短くするためもあったけれど、「死」という一つの単語に集中が吸い寄せられる。
『とは言っても話は単純だ。敵はゲームの仕組みを理解している相当なやり手ってことさ。事の運びも上手い。君たちが「威信」と呼ぶ力も、相当に蓄えているだろうね』
それは須藤も言っていた。
でも第一、威信を蓄えてるからなんなの? 今回は私だけじゃなくてルイ、それに気に食わないけど須藤もいる。
万全とは言わないけど、それでも簡単に敗ける布陣とは思えないし、相手がロムルスみたいな規格外なヤツだとは思わない。
『甘いな、甘いぞ人間。このゲームではな、威信量と異能の性能こそが全てだ』
顔に陰を落とし、凄むような声色で私へ突きつけるリヴァ。
彼の無いはずの目玉がこちらへぎょろっと向いた気さえした。
その言葉の中に混じった必死さだけは、嘘や軽薄で塗られたものじゃないと肌で感じ取る。
『悪行に契約、はたまたゲームにおける名声の数々で威信を積み上げたロムルスの強さや、そいつと契約を交わしたジャンの厄介さは君も理解できているだろう?』
そう言われると反論しようにも出来ない。
事実、今名前が上がったジャンもロムルスも私が苦戦した、勝てなかった相手。
「ゲームを理解している異能者は強い」ということを、嫌でも認めざるを得ないことに辱めを覚える。
『……でも気を落とすことはない、安心してくれ! 君には俺がついている!』
リヴァの声のトーンが上がり口調になるのを感じ取る。
また、契約の深化をしようってことね。
『ああそうさ! 前はあの黒鷲のお陰でジャン・ド・モンフォールに勝利出来ただろう? そこに嘘がないことぐらい、君なら分かっているはずさ!』
メリハリのある手振り身振りに、戯けた口調。
見ているだけで虫唾の走る、リヴァのいつもの調子が戻ってきてしまった。
『ほら、この手を取ってくれ。無鋒剣、黒鷲に次ぐ、第三の力を授けようじゃないか!』
差し出される真っ白い手。ひと月前にもあった、契約の深化。魅力的な提案。
けれど。今回はその手を、手の甲で払うように退けた。
『……そうか、やっぱりか。全く、最近の君は本当に面白くないな』
でも、予想に反して前回のようにリヴァの態度が豹変することはなかった。
まるでこうなるのは織り込み済み、と言わんばかりに。
「……一つ、条件よ。前回の、そして今回の契約の代償が何なのか教えて」
そんなリヴァの反応に構うことなく、交渉を一つ持ちかける。
ロムルスがジャンを誅する時に口にしていた、「契約の代償」という言葉。
このゲームの契約が、同じような代償を指し示すのだとすれば、私とリヴァの間にも何かしらの代償があるんじゃないか。
そう思ってのことだった。
けれど。
『やだね。俺にとってそいつはとっておきの隠し玉さ。最強の一手をわざわざ公然と口にする馬鹿がどこに居るってんだい?』
リヴァは契約の代償が存在することだけ仄めかしつつ、私の交渉を真っ向から拒絶した。
『それに、君自身もその代償に気が付いているはずさ。それが「代償」だってことと結びついていないだけで……ね』
口の両端に、薄ら笑いを浮かべるリヴァ。
的を得ない仄めかしの数々に胃が煮える感覚を覚えるも、それをぐっと飲み込んだ。
『けど、俺は優しいからね。後からでも恭順の意を示せば新たな力を授けようじゃないか! そしてピンチになったら心の中でこう唱えるんだ、お助けくださいリヴァさま……ってね』
挑発するような口調でつらつらと。
ここではその憎たらしい顔面にクレーターを作ってやれないのが腹立たしい。
『さ、愚かにも君が断ったせいでもうやることが無くなってしまった。君を現実へ返すとしよう』
「……あっそ。早くしてちょうだい」
『そんなに怒らないで欲しいんだけどね……けれど』
そうやってリヴァは右手の中指と親指の腹を合わせ、いつも通り床を落として私を帰す姿勢をとったかと思えば。
その顔を私の方へ真っ直ぐと向け、思ってもないだろうことを皮肉交じりに口にした。
『この選択を君が後悔しないことを祈るよ。これは俺から君へ向けた、心の底からの手向けの言葉さ』




