第9-1話:これから
淀んだ空気の中に仄かに埃っぽさが漂うら嗅ぎ慣れない匂いに顔をしかめる。
薄目を開けると、どこからか強い日の光が差し込む熱気で靴下の中がぐっしょりと蒸れている。
それに、知らない粗い布地のシーツが気色悪い。
ここは……どこ?
「……っ?」
不快な感覚に身をよじらせると、身体の下から古いベッドが軋むような音が鳴った。
それに反応するみたいに視界の端で薄橙の何かが動くけれど、まだ視界がぼやけてピントが合わなくて——。
「……大和?」
幼さの残る高い声で、私を苗字で呼び捨てする男。
そんな人は、思い当たる限りでは一人しかいない。
「ル……イ……?」
彼が声をかけてくれていると分かった途端に、喉の底からその声が漏れ出た。
少しずつはっきりとしてくる視界に、口をわなわなと震わせる彼の姿が映る。
「おはよう、大和」
「うん、おはよう……」
右肘を突きながらその場から起き上がると、バネの主張が激しい古びたベッドが、またもや音を立てながら軋んだ。
起き上がりざまに自分の格好を見回すけれど、両手両足もある五体満足の状態。
誰かが着替えさせたのか、ジャンや自分のもので血まみれだった服だけ、あまり着心地が良いとは言えない長袖シャツとズボンに替えられていた。
とりあえずなんとか助かったことは分かる。
なのに止めどなく溢れてくる何かが足りない不安に押されるようにして、辺りを見回す。
硬くて薄汚れたマットレス。知らない部屋。
けど公共施設特有の小綺麗な内装で、でも病院ではなくて。
「なんで……?」
無事だってことが分かったのに、この身の安全を裏付けるものがてんで欠けていることが、胸のざわめきを余計に際立たせた。
「混乱するのはわかる。僕も目が覚めた時、なんで生きてるのか分からなかった」
「それは私も同じだけど……ルイが看病してくれたの……?」
頭の中で蘇るのは、昨日ロムルスに薙ぎ払われて斃れたルイの姿。
異能の力で傷が癒えるって言っても、勝手にベット付きの施設まで運んでくれるわけじゃない。
飲み込めきれない状況を前にしてまたもや困惑が加速する。
「いいや、僕は何もしてない。ただ目が覚めてから一時間ぐらい、ここで大和が目覚めるのを待っていただけだ」
あっそうか、着替えさせられていた時点でルイの看病じゃないことぐらいは分かったか。
「じゃあここはどこなの。ロムルスはどこに……」
「ここは春日井にある軍の施設だ。ここにロムルスはいやしないよ」
……そう、良かった。
ひとまずその言葉を聞けただけでも良かったと思うと同時に、大事なことを思い出す。
「香蓮は!?」
身体が気だるかったのが嘘みたいに反応し、思わずベッドから立ち上がる。
周りに並べられているベッドを眺めても、そこに香蓮の姿はない。
——まさか。
鋭い槍で刺されたのかと思うぐらいに心臓が跳ねる。最悪の可能性が頭をよぎると一緒に、瞼につっかえ棒でも差し込まれたように開いたまま閉じられなくなった。
「大丈夫だ、鈴原ならこの二つの部屋でまだ寝てるよ。容態も安定してる」
「そ……そっか。よかった……」
そうか……杞憂であってくれたか。
自分の憶測が行き過ぎたものだったことに胸を撫で下ろすと、それと一緒に疑問が芽吹く。
「でもなんで私の方に居たの? 香蓮の方に居ても良かったはずじゃ」
昨日ロムルスに何をされたのか覚えていないけれど、私は異能者でちょっとやそっとの傷なら治ってしまう。
むしろ解毒したうえで容態が安定しているって言っても、致命的な毒を受けた香蓮の方が——。
そうやって私が首を傾げている傍で、ルイが下唇を悔しそうに噛んでいることに気が付いた。
「確かに、身体のことだけ思うなら鈴原さんの横に居てやるべきだったのかもしれない。けど、それよりも今は……」
また自分の下唇を食むルイ。
容態が安定しても目の覚めない香蓮も。
その結果私の横に居るってことは、私に何かが。
自分でも正体の分からない焦りを感じつつも、再び私の身体をまさぐると。
右前腕の袖の向こうに、瘡蓋やひどい打撲傷のような赤黒い斑があるのが目に入った。
傷なら異能の力で治ってしまうはず、けれどそれ自体に痛みはなくて——。
自分の違和感を咀嚼しながら腕を捲った先にあるものに、不意に喉を締められた。
そこにあったのは、両翼を広げた怪鳥が「ROME」という文字を鉤爪で鷲掴みにしたような刻印。
傷でもなくて、スタンプか何かでもなくて、かといってただのタトゥーでもなくて。
でも記憶が確かなら、これをどこかで……なんなら昨日の昨日に目にした気が。
そうだ、確かこれと同じものをジャンがロムルスの加護を受けたとかなんとか言って見せびらかして——。
「……! 違う! これは違う!」
そうやって正体に気が付いた挙句に「加護」を受けていた男の末路を思い出した時には。
既に、私の左手が勝手にその刻印を爪で掻き毟っていた。
「…………大和」
乾いた肌から、垢や薄皮が白い粉となって吹き出る。
「……大和」
掻きむしったところが赤く腫れ、水ぶくれみたいに皮膚が膨れる。
「大和……?」
腕に血が滲んできて、痛みがほんの僅かに朦朧としていた意識をはっきりさせる。
「大和ッ!」
左手で無鋒剣を呼び出し、腕の皮膚ごと引き剥がそうとしたところで。
無鋒剣の手にされた左手首を、ルイが両の手でがっちりと抑え込んできた。
「ルイ! やめて! まだ、まだ分かんないじゃん! こんなもの引っ剥がせば!」
「分かんないんじゃない、本当に消えちゃうからやめろと言ってるんだ!」
「じゃあなんで自由にやらせてくれないの!」
「そうなったら今度こそ僕らは終わる、今すぐあいつがここに飛んでくるぞ!」
あいつがまた、ここに。
それを耳にして、全身の力が一気に抜ける。
無鋒剣も光の粒子となって消え失せ、両手が勝手に自分の頭を抱え込んでいた。
「私、これからどうなるの」
「……これを不幸中の幸いって例えて良いのかは分からないけど、ロムルスから強制された契約の内容自体は有って無いようなものらしくて。首輪を着けられているのには変わらないけど、鎖の長さは短くはない」
「でもジャンみたいに何かを命じられて、失敗して、殺されるって可能性は」
「……すまない。それは、否定できない」
そうやって、それらしい例えを口にしながらも最後には口を噤むルイ。
正面から握るように組み合わされている彼の両手指からは、握る力が強くなる度に骨の鳴る音がこの一室へ響き渡る。
「僕のせいだ」
ルイの言葉に、今まで刻印に向けられていた私の目線をゆっくりと上げる。
そのフレーズは私の内側から何度も聞こえてきたもので。そして、私をこの六年の間蝕み続けてきたもので。
それがルイの口から発されたことに、目を見開かざるをえなかった。




