第7-1話:ありがとう
陽が沈みきってしまった。
地平線に消えた太陽の残光に照らされながら、廃工場の中を進む。
鬱蒼とした鉄と錆のジャングルの中で浮いている朱い花。
どこかの配管から滴る水滴の音。
伊勢湾から吹いてくる心地良い風。
いつもよりも、世界がはっきりと見える気がして。
五感が研ぎ澄まされていくのが自分でもわかって。
身体が嘘のように軽いのに、踏み出す一歩一歩に余計な力が入る。
……まだ胸の奥のどこかに、小さく尖った何かが残っているのが分かる。
でも、大丈夫。今の私なら乗り越えられる。
右手には無鋒剣を、左手にはルイから渡されたビー球大の小さな光の球を手にしている。
上空ではさっき相棒になったばかりの黒鳥が、私のことを案内するように旋回していた。
……そろそろ、一時間が経つ。
いい加減ジャンを見つけないと、香蓮が危ない。
焦りを感じながらも冷静に、ワシの誘うままに廃工場の中を血眼になって探す。
「……!」
いた。
ひときわ大きな配管の角を曲がった直後、一車線道路ほどしかない狭い道に。
あの忌まわしい肉塊が。
周囲には廃材や放棄された家具家電、そして今にも崩れそうな壁。
その真ん中にいる太った男、そいつを中心に蠢く触手。
耳を澄ませると、男は手元で古めかしいガラケーを操作しながら何かを呟いていた。
「なぜあんなガキ二人に……手間取らせやがって、クソっ!」
さっきと違う。余裕がない。
周りに気が向いていないのか、こちらに振り向く様子もない。
今ならまだ逃げられる。ついさっきまでは、実際に逃げていた。
けれど。今はもう、逃げるわけにはいかない。
傍にあったドラム缶の表面へ無鋒剣を滑らせた途端、大きな金切り音が周囲の建物に反射しこだまする。
男は一転して動きを止め、こちらへ勢いよく振り返った。
「ひっ! すみませんロムルス様! すぐに捕らえてくるのでどうかそれだ……けは……?」
「ジャン・ド・モンフォール!私はここだ、大和めぐみだ!」
振り返った男……ジャンのその形相は恐怖に駆られていた。
けれど私の顔を目にした瞬間に胸を撫で下ろし、安堵混じりの小さなため息をつく。
「んふっ……なんだ、ガキかあぁ。驚かせやがってぇ。二兎追う者はと言うが、まさかノコノコそのうちの一兎が出てくるとは僥倖だぁ!」
恐怖に駆られる表情は消え、にちゃりと気色の悪い笑みを浮かべ直した。
彼は端末をポケットの中にしまい、遠くへ伸ばしたまま放置していた触手を手繰り寄せる。
その触手の数は合計十三本。
さっきの戦いやルイの決死の奇襲でいくらか減った。けれど、まだ余りある脅威なことには変わりない。
「んふっ……その目の周りの腫れ……泣き崩れて頭を垂れに来たのかぁ?」
「そんなわけないでしょ」
涙は枯れた。もうしばらく目を潤す予定もない。
今はただ、前へ進む。
ルイから手渡された、小さな光の球を空へと掲げる。
軽く力を込めると、乾いた枯れ葉のように崩れながら、上空に細い光の筋を打ち上げた。
「……なんだ、いまのはぁ?」
「あんたには関係ないことよ」
「まあいい……姿を表したのは好都合!」
手繰り寄せた触手が蠢き出す。
戦いが、また始まる。
不安が無いわけじゃない。
今だって、脚の笑いを必死に抑えている。
それに、ルイの策が間に合うかも分からない。
……本当に私が時間を稼ぎきった上で、触手を間引くという役目を全うできるのかも未知数。
だとしてもやるしかない。
私がやらないと、香蓮が死ぬ。
ここで一歩を踏み出さなきゃ、今まで壊れてきた関係を築き直すこともできなくなる。
「んふっ!一人でノコノコやって来たこと、後悔させてやるっ!」
……来る!
ジャンは指揮者のように両腕を振るうと、六本の触手を私へ差し向ける。
狭い一本道。愚直に相手するのは論外。
なら――
建物のドアを体当たりで破り、屋内へ突入する。
工作機械やパレットの放置された工場。
けどまだ薄い壁一枚隔てただけ、足りない。
また一枚、もう一枚。
古びた壁やドアを蹴破り、屋内をどんどん突き進む。
こうしている間にも触手の群れが迫ってきていることを、その群れ自身が発する風圧で感じ取る。




