第62話:幻の香油を一滴、噴水に垂らしたら、国境の戦争がいつの間にか終わっていた件
『神隠しの霧谷』から持ち帰った、琥珀色に輝く『常世の薔薇』の香油。
俺はその究極のエッセンスをさらに磨き上げ、聖域の中心にある、精霊たちが集う噴水へと向かった。
「……ゼクス、本当にそれを垂らすのね? ほんの一滴でも、空間のノート(調和)が劇的に変わるはずよ」
アルテミス様が緊張した面持ちで見守る中、俺はガラスのスポイトから、きっかり「一滴」だけを噴水に落とした。
――ポチャン。
静かな波紋が広がった直後、噴水の水がパッと淡い黄金色に輝いた。
そして、精霊たちの羽ばたきによって生まれた柔らかな風が、その香りを乗せて、聖域の外へと、世界の果てへと運び始めたのだ。
それは、甘美でありながらどこか気高く、嗅いだ瞬間に誰もが「最も愛された記憶」を思い出す、絶対的な平穏の香りだった。
その頃、聖域から遠く離れた平原では、二つの大国が国境を巡って、まさに一触即発の緊迫状態に陥っていた。
「前進せよ! 敵を一人残らず駆逐するのだ!」
「応戦しろ! 我らの土地を汚す不届き者に鉄槌を!」
数万の兵士たちが武器を構え、憎悪の雄叫びを上げながら衝突しようとした、まさにその瞬間。
戦場に、どこからともなく『風』が吹き抜けた。
「……ん? なんだ、この匂いは……」
最前線にいた老兵が、ふと剣を止めて鼻をひくつかせた。
香りが鼻腔を抜けた瞬間、彼の脳裏に、故郷で待つ幼い孫の笑顔と、亡き妻が焼いてくれたパンの香ばしい匂いが鮮明に蘇った。
「……俺は、一体何のために戦っていたんだ? 故郷を守るためのはずが、これでは……」
ポロポロと、老兵の目から涙が溢れ落ちる。
それは彼だけではなかった。向かい合っていた敵国の若き騎士も、槍を地面に落とし、むせび泣いていた。
「……母上……私は、ただ貴女に生きて会いたかっただけなのに……!」
憎悪という名の「心の悪臭」が、ゼクスの調合したアロマによって瞬時に中和されていく。
数万の軍勢がひしめく戦場は、またたく間に「互いの過ちを許し合い、涙を流して抱き合う」という、奇跡のような和解の場へと塗り替えられたのだった。
「……ふふ。どうやら、遠くの戦雲が綺麗さっぱり消え去ったようですわね」
聖域の屋敷でカガミが大きな鏡を覗き込み、国境の様子を映し出す。そこには、武器を捨てて握手を交わす両国の王たちの姿があった。
「……すごい。……大掃除をしなくても、香りを届けるだけで、世界がこんなに綺麗になるなんて」
リリスがしみじみと呟き、エルナも「これぞ本物の『奇跡』ですわ……!」と両手を合わせて祈りを捧げている。
「マイナスをゼロにするのが掃除なら、ゼロをプラスで満たすのが調香ですからね。……さあ、世界も平和になったことですし、弟子たちに新しい香料の調合を教えに行きましょう!」
ゼクスが優しく微笑む。
剣ではなく香水瓶を手に、彼は世界中の「心の曇り」を調香していく。天才調香師の評判は、今や歴史を動かすレベルへと到達していた。
お読みいただきありがとうございます!
これぞ調香師ゼクスの真骨頂。戦場の憎悪という名の「最悪の濁り」を、薔薇の香りで一瞬にして浄化してしまいました。
力でねじ伏せるのではない、優雅な解決法にヒロインたちも惚れ直したようです。
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