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7.雲の帰還



 ロセンが春の山を登って、尾根を越えると、また一転して冬の世界が彼を出迎えた。

 門番の手助けもあり、予測して防寒具をこれでもかと身につけていた彼にはあまり堪えない寒さではあったが、ふと彼は王が火を絶やさないでいられているのか不安になった。

 悪い予測は時に当たってしまうものである。ロセンは洞窟に戻る道を、なるべく早足で進んだ。

 昼ごろの太陽が、うっすらと雲を透かして、吹雪の山にあるかなしかの陽を注ぐ。

 息を乱したロセンが視線を上げると、王を守っている洞窟が見えてきた。



 洞窟の中に入ると、ばたばたばたっと人の駆け寄る音がロセンの耳に届いた。彼は知らず止めていた息を、ゆるゆると吐き出す。

「お帰りなさいっ、ロセン殿っ!」

 満面の笑顔を浮かべた王に迎えられて、ロセンは少し引いた。顔を引き攣らせながらも、唇に申し訳程度の笑みを浮かべて、彼は応える。

「ただいま戻りました。……何か変わったことは?」

「大丈夫でした。それより、なかなか戻ってこない貴方を、ずっと心配していました」

 そこで王は初めて、ロセンの顔に貼られている薬草の軟膏付きの湿布や、額に巻かれている包帯に気付いた。

「……どうしたのですか、その傷は」

 いびつに響く王の声に、ロセンはぎくっとした。思いがけなくも鋭い王の視線に、怯えた自身を不思議に思う。

「足を滑らせて、水路に落ちたのです。このように、治療してもらえましたが」

 ロセンの言葉に、王は不満そうに息を零しつつ、頷く。

「貴方がそう仰るなら、追及いたしませんが」

 渋々頷いてくれた王に、ロセンは心内で安堵の息を吐く。しかし同時に、こんなにも弱弱しく見える王に、一時苛烈な側面を見出して動揺した自分を彼は隠した。今のは見間違いだろうと、無理矢理自分を納得させる。

「どうも、ありがとうございます」

「――しかし、無事で何よりでした。女王は下手をすると、激昂した勢いそのままに旅人を処刑することもあるのです」

 それを先に言ってほしかった! とロセンは心の中で叫んだ。だが表情には努めて出さずに、一つ息を吐き出す。

「それより王さま、分かりましたよ」

 ロセンの発言に、王は「ん?」といった風情で尋ね返した。

「何がですか?」

 余りの惚けっぷりに、瞬間的に怒りが込み上げたロセンだったが、また一つ息を吐いて堪え、言葉を継ぐ。

「あなたの雲が、今どこにいるのか」

「ほっ、本当ですか!?」

 さすがの王も、ロセンが何を知り、何をもたらそうとしているのか、その重要性に気付く。

「探しても、呼びかけてすらも応えない雲がどこにいるのか、貴方には分かるというのですか」

「分かるといいますか。……知ったといいますか」

「お、教えてください。たとえ生きていようと、死んでいようと、私には彼の行く末を知らねばならない、王としての義務があります」

 ふとロセンは、王の惰弱な態度の裏にある、真摯な王としての側面を垣間見た気がした。気のせいかとも思いつつ、彼は口を開く。

「ええ。実は……」

 余り長い話ではなかったが、それでも王は深く頷き、驚き、憤り、悲しんだ。

 多くの民を失い、そしてまた春の暖気に苦しんでいる民の苦しみは、王を深く嘆かせた。顔を両手で覆い、王はそのまま涙を押し留めている。

 王はそろそろと手を下ろすと、悲痛な表情に顔を歪ませながらも、ロセンに告げる。

「さすが女王、というか。……でもこれで、雲に何回呼びかけても応えない理由が分かりました」

 事実を認識した王は、はっきりとロセンの目を見て、確認した。

「『休みは終わったぞ』と言わない限り、あの子は――雲は、帰ってこないんですね」

「はい。そういうことだと思います、王さま」

 ロセンが頷くと、王は洞窟の外に向かって、静かに言葉を放った。

「暇を解くぞ、雲よ。く戻れ」

 変化した王の口調に、ロセンは不思議そうに王を見つめた。王はロセンの視線など全く意に介さず、そのまま洞窟の外を見ている。

 風が次第に収まり、ほろほろと湿った雪が、静かに降り始める。

 と、一塊の淡い灰色の雲が、泣きながら洞窟の中に滑り込んできた。

「ううっ……おうさま……、おうさまぁ……!」

 雲は王の正面に低く垂れると、静かに嗚咽する。

「どうした、雲よ」

 王は先ほどまでの弱弱しい敬語口調が嘘のように、堂々とした言葉で雲に尋ねた。

 あまりの変わりようにロセンは思わず目を剥いてしまう。しかし王は先ほどと同じ王であり、違いといえば彼が雲の側に寄り、膝を折って彼に手を触れたことくらいである。

 王が触れると、ついに緊張が解けたのか、雲は大きな声で泣き始めた。

 王は深い慈愛の眼差しを雲に送り、優しく宥めるように撫でて、雲を落ち着かせる。表情すら変わって雰囲気が一変した王に、しかし異を唱えることもできず、ロセンは黙って成り行きを見守った。

「……運悪く旅先で嵐に捕まり、今の今まで、散々にこき使われて居りました。暇が出されているからと、帰るに帰れず……」

 涙声ではあったが、雲ははっきりと言葉を紡いでいく。王は小さく頷き、許しを与えた。

「よい。よくぞ、戻ってきてくれた」

「当たり前です。貴方様のところ以外、どこへ帰れましょう」

 雲が応えると、王は微笑んで雲を撫でた。

「……連れ戻してくださって、本当に有り難う御座います。何なりと命をお下しください」

 落ち着いた雲がそう言うと、王は静かに命令を発した。

「では私のために、国に冬をもたらしておくれ」

「? それはどういう……」

「説明は後でする。ほら、雪がお前のことを心配していたぞ」

 王は羽織っていた外套の中から、白い牛の乳のようなものが一杯に詰った小瓶を取り出すと、きゅっと蓋をひねった。

 すると瓶から白い雪の塊が降り注ぎ、じゃれるように雲に纏わりついた。

「――久しい、久しいよ雲! ああ、久しぶりに君の背に乗って、空を駆けることができるんだね!」

 嬉しさに震える雪の声に、雲も喜びを以って応えた。

「もう二度と羽根のように軽い君を、乗せることはないのかもしれないと思ったよ。戻れて本当によかった。さあ、王を御運びする準備をしよう。冬を齎すんだ」

 二人は絡まりあい、一体となって、冷たく凍えるような空気を纏いながら、洞窟から吹きすぎていった。

 王は配下を見送ると、軽い微笑を浮かべてロセンを振り返った。

「――では、行こうか」

 ロセンは頷いた。

 どうして態度がいきなり堂々としたのか、若干の疑問はあったが。

 二人は簡単に洞窟内を片付けると、今は穏やかな天候の山を、ゆっくりと登っていく。

 峰を越え、ふと眼下に視線を向けたロセンが見たものは、緑の葉が雪に染まる、季節の逆転した世界だった。




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