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6.旅人と門番



 ロセンは徐々に、過去の映像から意識を離した。ともすると浅くなってしまう呼吸を、深く吐くことで体の混乱を抑える。

 彼が目を開けると、そこは先ほどと同じ暗い独房の中だった。鼠の囃すような鳴き声が聞こえ、ロセンの現実感覚が着実に元に戻っていく。

 彼は呼吸を落ち着けると、再び目を閉じ、今度は館の中の気配を探った。幸いなことに、動くものの気配はほとんどなく、階上は無人に思われた。

 しっかりと立ち上がると、ロセンは不安定な身体を支えながら、ひやっと冷たい水路の中へ足を進めた。

 鼻の曲がるような匂いが水面から立ち上り、突発的な吐き気が彼を襲う。しかしここで吐いて体力を減らすこともできない。酸い液体が喉元から込み上げるのを飲み込み、彼は流れていく水の方向に足を進めた。

 数分だったのか、数十分だったのか。あてどない暗闇を、彼は歩き続けた。

 不意に空気が変わり、ただ穏やかな春の眠気だけを纏った夜気が、ロセンの肺の中に吸い込まれる。

 ざざっざざっ、と急いで歩を早めると、急にぽっかりと視界が開けた。きらきらと降り注ぐような星屑が、天上から掛けられた漆黒の布に散りばめられて美しい。

 すっかり水路から抜けると、そこは国の端、頑丈な街壁のすぐ側の、国外への排水口が覗く街角だった。

 ロセンは静かに周囲に目を配ると、誰もいないのを確認してから歩道に上がった。水路は石組みの道からは一段低いところを流れており、そのまま水路に潜んでいれば、誰にも見つからずに済ませることもできそうだった。

 しかし疲れ切った彼の身体は、それを良しとしなかった。せめて板床の上で眠りたいというのが彼の望みであり、もっと望めるのならば、嫌なにおいを発する服を脱ぎ捨てて、新しい服を着たいと思っていた。

 道に人や物の気配はなく、恐らくは女王の催す祝勝の宴に、ほとんどの春の民が参加しているのだろう。この様子であれば、どこか適当な民家に入って、一夜の宿を借りることもできるかもしれない。

 手早く縄を切ると、気配を探りながら、ロセンは一歩一歩確実に歩を進めた。急がず慌てず、時折大胆に行動する。

 ざわめきから更に遠ざかった場所に、丁度いい一軒家を彼は見出した。小作りではあるが、きっちりと石で組まれた建物は新しく、暖かそうに見えた。

 悲しいかな火を焚けば、誰かの不審を招く。ここまで抜け出しておきながら見つかるなど、何のためにあの暗い独房からわざわざ臭い水路を抜けてきたのか分からなくなる。

 ロセンは家の鍵が掛かっていないのを確認してから、素早く家の中に入り込んだ。

 家に人の気配は無い。ロセンは安堵の息を吐いた。

「誰だ? そこにいるのは」

 引き攣れを起こしたように、ロセンは固まった。動かない首を懸命に動かして、声のするほうに無理矢理向ける。

 透明な暖かい風が、緩く彼を包む。

「おや、誰かと思えば旅人じゃないか。宿が見つからなかったのか?」

 瞳を擦りながら奥から出てきたのは、あの屈強な門番だった。月の光が明るいからか、家の中に光を灯さずにいたらしい。ガラス戸の向こうからは、穏やかな月光がほんのりと部屋を染めている。

「おいっ、お前臭いぞ?」

 門番は鼻を摘みながら言う。ロセンは警戒しつつも、話を合わせることにした。

「ああ、水路に落ちちゃってね。さっきまで水に漬かっていたのさ」

 ロセンの言葉に、門番は嘆くようにうめき声を上げた。

「そりゃ災難だったなあ……身体も冷えているんだろう? こっちに熾き火がある。服も貸してやるから」

 門番は彼が春の軍勢に捕まったことを知らないようだった。ロセンは門番を騙しているようで気が引けたが、背に腹は代えられない。

「ありがとう」

 一生懸命笑顔を繕って、門番の示す部屋の奥へと歩き出した。

 門番はいきなり家に入ってきたロセンに、何も聞かなかった。ロセンも敢えて触れなかった。

 門番は寝藁と、新しい服、それに温めた飲み物まで与えてくれた。部屋の暗さが、ロセンにどのような行為が与えられたのかを隠した。夜のありがたさを、ロセンは噛み締める。

 着替えてしまえば、あとは朝を待つだけだった。

 春の民なのであろう門番の近くには、常に暖かい風が吹いており、火を焚かなくても部屋は暖かかった。寝藁の中で、ロセンはゆっくりと身体を休めた。

 朝日が、冬の国に昇る。

 冬の朝のようにきりりとした眩しさではなく、温もりだけを含んだような陽光が、争いなど知らぬげに街を照らし出す。

「おはよう、旅人」

「……おはようございます」

 門番はロセンよりも早起きだった。朝一で門を開くのが彼の仕事であるから、それも当然かもしれない。

「飯と、新しい外套、用意しといたぞ」

「あ、ありがとうございます」

 ロセンは申し訳なさからか、思わず言葉がつっかえてしまう。門番はそんなロセンの様子を、微笑ましく見つめていた。

「ちゃんと目深にかぶるんだぞ? 見つかっちまったら、もう俺でも助けられないからな」

 門番の言葉に、ロセンは今度こそ身体中の筋肉が凍るような心地になった。ある意味では当然であるが、彼はロセンが囚われ人であることを知っているかのようだった。

「……どうして」

 ロセンは心底不思議に、問いかけた。門番の言葉は、彼を捕えるものではなく、逃がす意図を持っていたからである。

「俺は春の国の人間だから、こういう行軍にも付き合うが……さすがに今回はやりすぎだと思ってるんだよ」

 苦みばしった声に、ロセンは目を丸くする。

「冬の国には、干渉するべきじゃないんだ。特に俺たち、春の国はな」

 門番は苦しげに、言葉を紡ぐ。

「冬の国の民が死ぬってことは……俺たち一人ひとり、春の国の民が生まれ、この世に『春の喜び』を知らしめる機会を、自ら少なくすることだ」

 だから、と頭を掻きながら、門番は続けた。

「そこんところを、女王さまは分かっていらっしゃらないと、俺は思うんだ。冬と春は、切っても切れない。片方を失うことは、もう一つも、同時に失われることを意味するんだ」

 門番は溜め息を吐くと、ロセンに頼んだ。

「お前、冬の王のこと、何か知ってるんだろ? そのせいで身体じゅう痣だらけになって、……でも自分で牢から出てきた。何か、しなきゃいけないことがあるんだろう?」

 ロセンは、喉を鳴らしつつ、頷く。

「俺たちはそう簡単には死なないし、消えもしない。でも、遠くないうちに、『意味』を失って消えてしまう。それまでに冬の王が戻れば、死なずに済む」

 ロセンの肩を掴んで、門番は真剣な顔で話しかけた。

「俺と一緒に門まで行けば、誰にも捕まらずに出て行けるだろう……。俺を、信じてくれるか」

 門番の手が微かに震えていることに、ロセンは気付いた。これは、彼にとっても賭けなのだ。安心して出て行ける保障は、どこにもない。

 それでも、ロセンは頷いた。頷く以外方法がないことを、知ってもいた。



「じゃあ、気をつけて」

 誰にも見つからず、かつ声も掛けられずに、二人は門までたどり着くことができた。

 ロセンはフードを目深にかぶり、視線だけで門番に感謝と、了解の意を伝える。

 門番は深く頷くと、大きく手を振ってロセンを見送った。

 暖かな日差しが、ロセンの行く末を照らしていた。




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