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5.雲のゆくえ



 ぬるい闇の中で、ロセンは深く息を吸って、吐いた。まずは落ち着くことが肝要だと、己に言い聞かせる。

 女王は恐らく、自分を責めたあとに殺してしまうだろう。ロセンの生死は、彼女にとっては取り立てるほどの問題ではない。

 ならば一刻も早くこの牢を出て、王に国の現状を伝えることが、ロセンにとって自身の活路を開く唯一の道であることは明白だった。

 ふと彼は、自分の背中が濡れていることに気付いた。身体を動かすたびに打たれた肉が軋むが、生きるか死ぬかの瀬戸際である。生きるために痛みを堪えると、手を動かして水の流れを探る。

 あの氷柱と話した川と、この館は地下で繋がっているのかもしれない。館の下に水を通して、汚れ物を洗ったり、汚物を流したり――用途は無限にある。

 国全体が春の空気で緩んでいるのだとしたら、融け出した水は下に、一つの流れに集約するはずである。

 だとしたら。

 ロセンは水の流れを丹念に探った。

 すると、壁の水はそのまま地面に流れ込まずに、細い流れながらも向かいの壁まで、床を這っていることが分かった。

 向かいの壁に耳をつけると、思ったとおり水の流れる音が聞こえる。ロセンは安堵の息を吐くと、改めて壁に背を預けて、身体を休めた。

 彼は目を閉じ、耳を澄ませた。氷や雪が融けて、館に多くのほころびが生まれている。そのせいか、地下ではあっても、階上の動きがそれとなく察せられる。

 ひっきりなしに動く足音、多くの生き物が呼吸する気配。しかしそれがある時を境に、ぱったりと途絶える。時折、数人単位の気配が動くほかは、館の中にいる存在が少ないことを、ロセンに教えた。

 彼は指先に神経を集中させると、ゆっくりと壁をなぞり始めた。どこかに違和感を感じる場所は無いか。どこかに緩んでいる石は無いか。必死に感覚を研ぎ澄ませる。

 ごとり、と組まれた石の動く音が、手への感触と同時にロセンの耳に届く。ゆっくりと石を押せば、それはごろりと反対側の空間に落ちた。

 ぼしゃりぼしゃりと水の中に石が落ちる音がし、真っ暗な水路が、彼の前に口を開けた。

 とりあえず脱出は出来る算段になったと安心すると、ロセンは今一度腰を降ろし、またしばらく身体を休めた。

 恐らく春の女王とその軍隊は、今頃祝宴の真っ最中であろう。警備するべき館にほとんど気配がないのは、どこか別の場所、例えばかつて城のあった広場などで、宴席が設けられているからだと、彼は考えた。

 そうすると、ある意味では今このときこそが脱出の好機だが、しかし先ほど十数人の人間が館に戻ってきたことを、彼の聴覚が捉えていた。

 地下にあるものといえば、もう一つの役割を果たす部屋があるはずである。食物を保存する貯蔵庫の存在が、彼の行動を慎重にしていた。もし地下に誰かが、酒や食料を調達しに戻ってきたら――そういう人間が来て、それをやり過ごすまでは、ここを動くつもりは彼にはなかった。

 手の拘束を解こうかと、ロセンは考えた。靴の内側側面には、刃渡りが手のひらほどもある仕込みナイフがある。しかし視界のあまり明瞭でない状況で縄を切ろうとすれば、誤って手を傷つけることもあるかもしれない。彼は再び、黙って体力を回復することに努めた。

 しばらくじっとしていると、不意にロセンの思考にひらめくものがあった。

 そういえば、「雲」はどこにいるのだろう。

 同じ独房にいなかったということ。そしてこの館が現在の女王の根拠地だとすると、ここにいないということは、最初から「雲」は囚われていないのかもしれない。

 彼は腰を上げると、膝を曲げて正座した。

 両の掌を石床につけ、ゆっくりと目を閉じる。

 占い師である彼には、こうすることで土地の、地域の、記憶を読むことが出来た。これから起こり得ることは難しいが、かつてあったことならば、まるでそこにいるかのように知ることができる。

 ロセンは意識を深く鋭く、土地に、石の一つひとつに、石を構成する結晶の一つにまで向ける。そうして得られた感触や雰囲気、空気などを再構成していくと、はっきりとした状景がロセンの脳裏に浮かんできた。



 雲はその日も、王の指令を受けて館の中を奔走していた。

 どうやらこの建物は、王の命令を手順よく実行するための、司令塔のような施設であったらしい。第二の城とも言うべきこの館を、実質監督していたのが雲だった。

 雲がゆうるりと通路を進んでいると、ふわりと温かい風が、彼の行く手を遮る。

「……?」

 雲は不思議に思いながらも、ゆきすぎようとする風に声を掛けた。

「お疲れさま」

 すると風は止まり、やっと気付いたかのように雲に向き直る。

「あっ、雲様。お疲れさまです!」

「大丈夫かい? 休めているのかい、空風からかぜ

 どきり、と空風と呼ばれた風の動揺が、空気の振動を通してロセンに伝わる。風のはらむ温もりと湿り気は、どう考えても春風の気配だった。

「だ、だいじょうぶですよ、雲様」

「そうかい? 無理してはいけないよ」

 雲は上司として注意を促すと、そのまま行きすぎていこうとした。

「あ、あのっ」

 風が声を掛けると、雲は止まって振り返る。

「冬の王からの、ご伝言があります」

「なに? それを早く言いなさい」

 少し不機嫌そうな雲の声に、風は身体を震わせた。しかし声だけははっきりと、明瞭に雲に伝える。

「少しの間、雲様に休暇を賜る、と」

「……は?」

「ですから、雲様こそお休みあれと、陛下からのご伝言です」

 雲は、返事をせずに、じっと考え事をしていた。風がはらはらしながら様子を窺っていると、しばらくして明るい声で、雲は話し始める。

「そうか……」

 雲は納得したように何回か頷くと、風の方を見て言葉を発した。

「空風よ」

「は、はいっ」

「陛下にお伝えしてくれ。賜ります、と」

「はい、承りました」

 風はゆっくりと、しかし雲が見えなくなると急激に速度を増して、館を出て行き、ついには国からも出て行った。

 彼は春風。春の国の眷属であり、本来であれば雲と同格程度の力を持つ存在である。しかし極限まで自身の温度を下げ、弱れば、調子の良くない空風にも見えるのだ。

 雲は風を見送ると、少し嬉しそうにその場を離れる。

 彼が国を出たのは、その日のことだった。




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