新学期-5
学期末試験が迫ったある日。
魔法学校はでは誰もが試験勉強に励んでいた。
氷魔法教室では学期末試験はなくいつも通り課題を出して終わりだ。
特別何かをする必要はない。
しかし、共通授業はテストがある。
だからシュラインも例外なく試験勉強をしていた。
氷魔法教室の窓際、いつもの席でシュラインが珍しく教科書を捲っていた。
紅茶のカップは湯気が立っているが、ほとんど手を付けられていない。
頁を捲る音が、静かな教室に規則正しく響いている。
「学校の試験、簡単過ぎません?」
課題を終えたニーナが、ふと退屈そうにペンを置いて言った。
視線は窓の外を眺めている。
ニーナにとっては侯爵家で教わった内容ばかりで試験勉強するほどでも無いらしい。
「簡単なのは良いことだろ」
シュラインは顔を上げずに答えた。
その声はどこか投げやりで、教科書の文字を追う目は真剣そのものだった。
「先輩、何の教科書を見てるんですか?」
「共通授業の試験範囲。貴族のマナーとか礼儀とか、そういうやつ」
ニーナは首を傾げた。
ロイオンの出す難解な課題は、シュラインはいつも涼しい顔で解いている。
氷魔法の理論や実践に関しては、学生を超えた知識を持っているように見える。
それなのに、初歩的なマナーで苦戦しているらしい。
「見せてください」
ニーナがシュラインの隣に回り込み、教科書を覗き込んだ。
頁には、貴族の作法や社交界での心得が並んでいる。
侯爵家で生まれ育ったニーナにとっては、呼吸をするように身についている内容だ。
「私が教えましょうか?」
「いいのか?」
「はい。どうせ暇でしたし」
ニーナはそう言って、シュラインの隣に椅子を引き寄せた。
教科書を間に挟み、ひとつずつ丁寧に説明していく。
どの場面でどの挨拶を使うか、席次の考え方、食事の際の作法。
ニーナにとっては当たり前のことだが、シュラインは真剣に耳を傾けている。
だが、教え始めてすぐにニーナは違和感を覚えた。
貴族なら子供でも知っている大前提の初歩のマナーを、シュラインは全く知らない。
ナイフとフォークの使い方、来客時の対応、手紙の書き方。
どれもこれも、侯爵令嬢であるニーナは物心つく前に覚えたようなことばかりだ。
教科書にすら書かれない大前提の知識が抜け落ちているようにも思えた。
しかし、説明をすればすぐに理解する。
1度教えたことは、2度目を聞かれることがない。
要領が悪いわけではない、ただ単純に知らない。
「先輩、これ本当に知らなかったんですか?」
「ああ。故郷では必要なかったから」
シュラインは淡々と答えた。
その声音に卑下も言い訳もない。
ただ事実として、そういう環境だったのだと。
ニーナはそれ以上追及しなかった。
代わりに、別の疑問を口にする。
「試験範囲くらいなら、師匠に教われば良いのでは?」
ロイオンはこの学校の教師だ。
貴族のマナーについても、教えようと思えば教えられたはずだ。
「……先生は、アレだろ」
シュラインが言わんとしていることは、ニーナにも分かる。
この教室は、服装や言葉遣いを始めとするマナーについて何も言わない。
有体に言えば、緩い。無関心といった方が正確かもしれない。
だが、ロイオンの端々に見える所作は恐らく王宮でも通用するレベルだ。
紅茶を淹れる手つき、文字の書き方や言い回し。
どれもこれも、見習うには整い過ぎている。
教室内は緩すぎるが、教えを乞うには高度すぎる。
ちぐはぐなのだ。
「なるほど。つまり、先輩が苦戦しているのは師匠のせいですね」
「ま、そうとも言える」
シュラインが肩を竦める。
ニーナは小さく笑った。
侯爵家の令嬢として、教師の質の重要性を痛感した瞬間だった。
ガチャリ。
不意に扉が開き、ロイオンが教室に戻って来た。
「おや、今日はニーナが教えてるのかい?珍しいね」
手には分厚い書類の束を抱えていた。
「師匠が先輩に貴族マナーの知識を教えないからです」
「そういうものは、必要になってから覚えればいいと思うよ?」
「少なくとも試験で必要になってると思いますが!」
ニーナが抗議するように言う。
ロイオンは穏やかに笑いながら、執務机に書類を置いた。
「でも貴族のマナーって、魔法の役には立たないからなぁ」
「本当にな」
シュラインが同意する。
その言葉に、ニーナは呆れたように頬を膨らませる。
「師匠、先輩のやる気を削ぐようなことを言わないで下さい!」
「いや、本心なんだが」
「先輩も本心でも言わないで下さい!」
ニーナが抗議するように机をぺしぺしと叩く。
ロイオンは楽しそうに笑い、シュラインは再び教科書に目を落とした。
その横顔を見ながら、ニーナはふと思った。
ニーナが入学するまでの2年間、この2人は一体何をしていたのだろうか。
2人だけの教室で、どんな時間を過ごしてきたのか。
マナーを教えない教師と、知らないまま育った生徒。
放任主義の教室で、それでもシュラインは確かな実力を身につけている。
(きっと、魔法のことばかり話していたんだろうな)
ニーナはそう想像して、少しだけ羨ましくなった。
魔法に全てを捧げる、そんな時間がこの教室には流れている。
「ニーナ、どうした?」
「いいえ、何でもありません」
ニーナは首を振り、再び教科書を開いた。
試験日まではあと少し。
先輩の試験の点数が少しでも上がれば良い。
そう思いながら、ニーナは説明を再開したのだった。




