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お、お兄様

宿が見えなくなる角でまがって、俺は、気を取り直そうと頭を振った。

あまり、落ち込んでもいられない。

これから、新しい生活が始まるのだ。あげていこう。


「よく決心してくれたね、アベ君」


司教館の、おそらくは執務室を訪れると、ミトラさんは、例によってひとのいい笑みを浮かべながら、両手を広げて、俺が来たのを歓迎してくれた。


「はあ、お世話になります、ミトラさん」


「いや、他人行儀なのはもういい。教会に入るからには、君は我々の兄弟だ。弟よ」


「お、弟?」


突然の弟認定に、面食らう。


「世間を捨て、わが教会に入るものは、みな兄弟になるのだ。先達は、後進を弟として導き、後進は、先達を兄として仰ぐ」


なるほど、教会のメンバーは、疑似的な兄弟関係を結ぶわけか。

そういう考え方なら、突然の、弟呼ばわりもわからなくはない。

だが、そのあとがいけなかった。


「だから、弟よ。今日からは、私のことは『お兄様』と呼んでくれ」


「は?今、なんとおっしゃいました、ミトラさん」


聞き返した。

聞き違いであってほしいと思いながら。


「だから、『お兄様』と呼んでくれ。ここでは、みんな、後進は先達のことをそう呼ぶんだ。」


どうやら、聞き間違いではなかったらしい。

兄弟になるのは、いい。

しかし、お兄様はないだろうと思う。

俺がミトラさんをお兄様と呼ぶ姿を、あいつらならどう思うだろうか。

ラップが大笑いするのだけはわかる。


「そういうのは、その、心にとどめておくだけではいけないんでしょうか。言葉にしなくては、ダメなんでしょうか」


「いや、心は言葉になって、初めて本当になるんだ」


「言葉にしてはいけない心もあるような気がしますが」


「何をいっているのかな、弟よ?」


 少なくとも、ミトラさんには、お兄様と呼ばれることに、なんの抵抗もないらしい。

 ほんとうに、ここでの常識であるようだ。

 しかし、これはしょっぱなから、なんという試練だろう。

 相変わらず、ミトラさんは、にこにこ笑顔で俺の「お兄様」を待っている。

 ええい、仕方がない。こんなところで躓くわけにはいかない。

 俺にはもう、どこにも行く当てがないんだ。


「お、お兄様」


 いってしまった。

 何か、心のなかのとても大切なものが傷ついてしまったような気が、しなくもない。


「よくぞ言ってくれた、弟よ」


 お兄様、じゃない、ミトラさんが、そういって俺の肩をがっしりと抱いた。

 そうして、俺の背中を、ぽんぽんと叩いてくれる。

 赤いローブからは、甘い香の匂いがした。


「不安かもしれないが、大丈夫。私は兄なのだから、遠慮なく頼ってくれ」


 なるほど、兄弟というのも、悪くないかもしれない。

 宿も引き払ってきたことを話すと、俺を、宿舎に入れてくれるという。

 下っ端の坊さんは、みんなそこに住んでいるのだそうだ。


「それから、僧衣が必要だろうね」


「服ですか?やっぱり、裸はまずいんでしょうか」


 そう、俺は目覚めて以来、ずっと裸だった。

 例の鉄棒を背負うための、簡単なベルト以外には、何も身に着けていない。

 いやらしくならないのは、外見上、大事なところがまったく見えないおかげだろう。

 それでも、裸に羞恥心を覚えないのは、鱗が全身を覆って、皮膚が見えないからだろうか。

 鱗は偉大だ。


「いや、揃いの服を着ることに意味があるんだよ。尻尾を通したり、細工が必要だな。今日中につくらせて、明日渡してあげよう。それから、これだ」


 ミトラさんは、窓際の大きな机の引き出しから、何か銀色のきらきらするものを取り上げた。

 首飾りのようだ。

 太い鎖の先に、先のまるい、逆三角形の板がついている。

 ロザリオみたいなものだろうか?


「これは、熱心な信徒が身に着けるもので、うちの関係者はみんな着けているものだよ」


 そういって、ミトラさんは自分の胸元から同じものを取り出して見せてくれた。


「何の形なんです?」


「舌だよ、神様の舌だ。神様のお姿なんて、我々人間にはしれないからね。ただ、言葉をくださった方だから、舌はあるのは間違いないから、それを教会の印にしているんだ」


 それから、さっき取り上げたのを、俺の首にかけてくれる。

 鎖が短くて自分ではよく見えないが、俺ののど元に、銀の三角形が揺れているだろう。


「さあ、では宿舎に案内してあげよう」


 本当に、至れり尽くせりで、ぽんぽんとお任せで物事が進んでいく。

 これはこれで、いいものだ。

 問題なのは、ミトラさん以外の教会の人間とうまくやっていけるか。


 案内された宿舎で、何人かの人間と会って、人間関係で、あまり心配する必要はないということがわかった。

 初めて俺を見ると、たいていの奴はぎょっとするのだが、そのあとのど元の飾りを見て、そして 俺が教会に仕えるためにここにいる事を話すと、とたんに親しげな様子に変わる。

 どうも、ドラグニクが聖職を目指すということに、結構な感銘を受けているみたいだ。

 外国人が、自分の国独特の食べ物を食べるのを見て、うれしく思うようなものだろうか。

 宿舎の部屋は、簡素で、清潔そうな個室だった。

 調度は、ベッドに、机に、棚くらいのものだが、俺には不足はない。

 子供たちからのお土産の袋を、机の上に置いて、俺は白いシーツの敷いてある、清潔そうなベッドの上に横になった。

 本格的な修行や勉強は、明日からになるそうだ。

 それでどうなるかは分からないが、なんとか、うまくやっていけそうな気がする。

 ここに来てよかった。


 共同食堂で夕食をとった後、今は宵の入り、俺はベッドの上に横になっていた。

 食堂はえらく広いところで、これまたえらく長い食卓で、大勢で食べた。

 黙って食べるのかとも思ったが、割ににぎやかな食事だった。

 隣の席の奴が、何くれとなく世話を焼いてくれた。

 トップがミトラさんだからなのか、全体的に、きさくな雰囲気がある。まったく、アットホームな職場だ。

 例の「お兄様」さえなければ、何一つ文句のないところなんだが。

 いうまでもなく、ミトラさん以外の先輩にも、「お兄様」だ。


「……」


 暇だ。

 本を読もうにも、この世界にはそもそも文字がない。

 ここの奴らは、一体どうやって暇つぶししているんだろう。

 俺は、体を左右に何度か転がした後、とにかく、明りを消すことにした。

 もう、寝てしまおう。

 寝なくてもすむ体になったとしても、睡眠は必要だ。

 体を休めるためではなくて、何もしない時間を過ごすためには、寝るのが一番だからだ。

 俺は、部屋の隅にあるランプを消した。


―――


 夜中、俺は、全然眠れていなかった。

 なんだか、変に不安な気持ちが、胸のあたりをぐるぐる刺激して眠気を追っ払ってしまう。

 気にしているのは、当然、子供たちのことだ。

 けれど、別にあいつらのことが心配で眠れないというわけではなかった。

 今では、フリシアという護衛がいることを知っている。

 じゃあ、あいつらの何が気になるんだろう?


 ふと、窓から差し込む月明かりに、机の上に置いた袋が見えた。

 子供たちがくれたお土産だ。

 渡された時の、「夜にでも食べて」という言葉を思い出して、俺はそれを開けることにした。


 中には、いくつかのビスケットが入っていて、さらに小さい袋が入っている。

 それもあけると、中には、音板が二枚と、硬い石の粒が入っていた。

 もしやと思い、俺は、明りをつけて、それではっきりわかった。宝石だ。

 ラップの、革袋に入っていたあの宝石に違いなかった。

 俺は、音板を開いた。

 グラーの声が聞こえてくる。


「アベさん、聞いてる?一緒に入ってた石、見つけてくれた?落としたりしたらダメだよ」


 大丈夫、ちゃんと見つけたよ。

 けれど、なんでこんなもの。


「ラップがね。餞別をあげようっていうんだ。アベさん、お金持ってないでしょ。それで、みんなで相談して、ばれないように、宝石をお菓子と一緒に渡すことにしたんだ。アベさん、その場で渡したら、返されちゃいそうだから」


 うん、きっとそうしただろうな。

 大人が、子供から餞別なんかとれるか、とか言ったりして。

 宿代だって、いつか返すつもりなんだ。


「それから、たぶん教会で教わることになるんだと思うけど、どうしても言っておきたくて」


 そういって、グラーは、この世界で注意すべきことをこまごま教えてくれた。

 人前でやってはいけないこととか、魔法への対処の仕方とか、あいさつのやり方だとか、お金の使い方だとか、取り留めもなく。

 まるで、母親だなと、笑いが漏れる。

 でも、記憶もなく、知らない世界に放りだされた俺は、あいつらからは生まれたての犬、いや生まれたてのトカゲのように見えたのかもしれない。


「アベさんのこと、心配だよ。でも、大丈夫だよね。ラップは違うっていうかもしれないけど、ぼくらはやっぱり子供だから。大人のところにいたほうがいいと思うんだ」


 なんだか、子供に拾われて、やっぱり飼えなくて、別の家にもらわれていくペットみたいだな。


「それでも、なんだか淋しい気持ちだよ。リリもそう言ってる。ラップも、絶対淋しいと思う。別れた後ね、ちょっと泣いてたよ」


 そのあとで、


「おい!嘘つくな!泣いてなんかないぞ!」


と、ラップの声が割り込んできた。

 三人一緒にいるのか。


「出会って、ほんの少しなのに不思議だね。アベさんも淋しい?だったら、ちょっとだけうれしいな」


 なるほどと思った。

 俺が不安なのは、子供たちを心配しているからじゃなくて、淋しかったからか。

 そう自覚すると、なんだか心細さと同時に、不思議な安心感があった。

 出会って幾日か過ごして、たわいのない会話を交わして、それだけでこんなになついてしまって、離れ離れになったら夜も眠れないだなんて、われながらなんて安いやつだと思わないでもない。


 でも、仕方がないんだ。

 記憶がない俺には、ここ数日が体験のすべてで、そこには必ずあいつらがいたんだから。

 過ごした日数や、子供か大人かなんて関係ない。

 一目ぼれって言葉があるように、俺も、この短い間にあいつらがすっかり好きになってしまった。

 だから、一緒にいたい。単純なはなしだった。

 俺の教会行きを迷わせていたのは、結局、そういうことだ。

 頼りになれないから一緒にいられないだとか、バカなことを考えていた。

 大人のつもりの子供だったんじゃないか、俺は。


「ぼくら、後二日この宿にいて、それからこの街を出ようと思うんだ。修行中は、教会を出られないかもしれないけど、できたら会いに来て。それで、もしだよ、もしそこにいるのが嫌だって思ったら、戻ってきてね、アベさんがよかったらなんだけど。それじゃあ」


 グラーの話が終わった。

 明日の朝、ミトラさんのところにいこう。

 それで、やっぱり教会に入るのはやめると言おう。

 怒るだろうか。怒るだろうな。

 これだけよくしてもらって、しかも、俺のことを自分の計画に必要な人物だと買ってくれている。

 怒られよう。怒られて、教会を出て、あいつらのところに戻ろう。

 送別会やって、餞別までもらって、一晩で出戻ってくるのは、正直恥ずかしい。

 でも、それで、ラップにバカにされるのも、楽しみだ。

 そうして、俺はようやく眠りにつくことができた。


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