第6話 涙
「……騎士の誇りに懸けて、サラが望まないことはしないと誓う」
シュウは一瞬呆気に取られたものの、すぐに気を取り直したらしく、ふっと微笑んだかと思えば、芝居めいた返事をしてきた。
幼い頃、レオに教えてもらった格闘ごっこに二人で興じたことを思い出したのかもしれない。
客間に踏み入り、アイボリーのソファの前の大理石でできたローテーブルにシュウがトレイを置くと、遠慮なく座れるように、この部屋の仮の主であるサラが先に腰かける。
僅かな逡巡の末、サラと少し距離を置いて腰を下ろしたシュウは、ベッド脇のサイドテーブルに視線を投げた。
「……本当に、水しか飲んでないんだな」
「だって……食欲がなかったから。水さえ飲んでれば、二食くらい抜いたって、別に問題ないでしょ」
「あの食い意地の張ったサラが、そんなことを言う日が来るなんてな」
シュウがそこまで言ったところで、二人の間に沈黙が落ちる。
サラから口を開くべきか、何の話から切り出したらいいのかと思考を巡らせていたら、シュウが唐突に座ったばかりのソファから腰を上げた。それから、サラの足元に跪いたかと思えば、深々と頭を垂れた。
「――サラ。昼間はお前を道具扱いするような言い方をして、悪かった」
「……うん」
もしかしたら、ここは「もう気にしなくていいよ、だから顔を上げて」と、許しを与えるべき場面なのかもしれない。
しかし、シュウの言葉にサラが傷ついたのは確かだったから、曖昧な相槌を打つ。
「シュウ……あの時、どうしてあんな言い方をしたのか、理由を教えてくれる? わたしが知ってるあなたは……好き好んで誰かを傷つけるような人じゃないと思うから、知りたいの」
そして、そう言い添えれば、シュウはゆっくりと顔を上げ、まっすぐにサラを見つめてきた。
「……ここでは、自分の存在価値を証明できない奴は、どこまでも侮られる。何の実績もないサラを少しでも受け入れてもらうためには、ああいう言い回しをするしかなかったんだ。だが……」
一旦言葉を区切ったシュウは、悔しそうに薄く形の良い唇を噛み締めた。
「……俺に、もっと上手く立ち回れるだけの要領の良さがあれば、もう少しマシな方法を選べたかもしれない。サラを………徒に傷つけずに済んだかもしれない」
「そう……だったんだ」
天上の楽園みたいな場所でまかり通る常識にしては、かなり物騒だが、ここに来てから出会った人々の発言を振り返ってみると、確かに皆、自分のことも他人のことも、ラカージュを構成する道具としてしか認識していない節があった。
地上で生まれ育ったサラからしてみれば、何だか胸が締め付けられるような思いがする価値観だと、つくづく思う。
「ここでは……ああいう風に扱われるのが、当たり前なんだね」
理解はできたものの、やはりどうしてもやるせない気持ちにさせられ、両手をそっと胸元に押し当てる。
「シュウも……そうなの? シュウや他のみんなも……利用価値の有無で扱いが決められたの?」
そう問いかければ、シュウは苦笑いを浮かべた。
「……そうだな。正直なところ、サラはかなり恵まれてる方だと思う。少なくとも、俺よりはずっとマシだ」
シュウはサラを励ますつもりで、そう口にしたのかもしれない。
でも、そんなものは何の慰めにもならないと、シュウは気づいていないのだろうか。
だって、シュウの言葉通りだとしたら、目の前で跪くこの青年が――昔、仲良くしていた友達がまともな扱いを受けていないと教えられたも同然ではないか。
それで、喜ぶ人間が、一体どこにいるというのか。いや――もしかすると、サラは人間ですらないのかもしれない。
「わたし……ずっと、シュウに会いたいって思ってたんだよ。来月から飛行カプセルのパイロットになるための訓練を受けて……自分の力で夢を叶える準備ができてたんだよ」
突然話が飛んだにも関わらず、シュウは口を挟もうとはしなかった。
黙って耳を傾けてくれているシュウに甘え、さらに言い募る。
「それで……お互い大人になって、久しぶりに会って、シュウが幸せそうにしてればいいなぁ、そうしたら安心して、また会おうねって言おうって、ずっと……夢見てきたの。ラカージュ――空の世界にも……憧れてたんだよ」
だが所詮、夢は夢でしかなかった。
サラの夢も日常も、ある日突然奪われ、思いがけない形で再会したシュウは、あまり幸せそうには見えない。
五年前、家出したシュウと偶然の再会を果たした際、連絡先の交換だけはしたから、時々連絡のやり取りをして、互いの近況報告をし合っていたのに。
シュウの言葉を鵜呑みにしていたサラは、何も気づけず、元気にやっているのだろうと能天気に信じて疑わなかった。
「でも……わたしは、初代殺め姫のクローンで……人間に定義してもいいのかどうか怪しい存在で……これから、アヤカシと戦わなきゃいけなくて……ここは、全然……わたしが憧れてたような場所じゃなかった……」
これが、現実というものなのかもしれない。
しかし、こんな形で思い知らされたくなかった。
「シュウだって……わたしのせいでお兄さんと板挟みになって申し訳ないのに……どうすれば少しでもシュウの負担を減らせるのか、全然わからない……!」
客間に戻ってきてから、ずっと泣きたいのに涙が出てこなかった。
それなのに、今になって目頭が熱を帯びてきたかと思えば、視界が歪んで目尻から生温い液体が溢れ出していく。
「わたし……シュウに会いたかったけど……本当の本当にそう思ってたけど……こんな形で再会するくらいなら、会わない方がよかったよ……!」
自分で言っておきながら、なんて理不尽なことを叫んでいるのかと思う反面、これが紛れもないサラの本音だ。
シュウと再会しなければ、自分のあまりにも不安定な出自を知らずに済んだ。命がけの使命を押しつけられず、今まで通り、自分で決めた道を進み続けられたに違いない。
ラカージュの実態も、シュウを取り巻く環境も知らないまま、サラが思い描いていた理想を夢見たままでいられた。
「ご……ごめん、なさい……こんなこと言われても、シュウを困らせるだけなのに……ごめん――」
しゃくり上げつつも右手の甲で涙を拭い去ろうとした直前、急に目の前が真っ暗になった。同時に、心地よい熱にふわりと包み込まれる。
いつの間にか立ち上がったシュウに抱きしめられたのだと、遅れて状況を把握した途端、急激に頬が熱くなり、溢れて止まらなかった涙も引っ込んでしまった。
「シュ……シュウ――」
「――謝罪も罪悪感も、いらない。サラは充分、理不尽な目に遭ったんだ。泣いて怒って当然だ。だから……言いたいことを言って、好きなだけ泣け……全部、受け止めるから」
そう告げると、シュウは抱き竦めたサラの涙に濡れた頬に頬擦りしてきた。
こんなことは友人同士でも、ましてや主従関係に当たる姫と騎士でもしないはずだ。
これでは、まるで恋人同士みたいではないか。
湖で溺れかけて助けてもらった時にも思ったのだが、騎士を務めるだけあってか、シュウは見かけ以上に体格に恵まれている。
幼少期とも、五年前に偶然再会した時とも比べ物にならないほどの互いの体格差を意識した直後、心臓が不規則なリズムで鼓動を刻んだ。
「こういう時、一番良くないのは、物分かりの良いふりをして一人で抱え込むことだ。長期間そうしてると、最悪のタイミングで感情が爆発するか……感情が麻痺して自分の殻の中に閉じこもるようになるぞ」
「それは……シュウの経験談?」
妙に現実味を帯びた口調に疑問が過って問いかければ、サラの身体を戒める腕がぴくりと揺れた。
「……そうだな、俺の経験談だ」
「じゃあ、五年くらい前に家出したのは、我慢のし過ぎで感情が爆発したから?」
「いや、あれは違う」
急に強張った声から、これ以上の詮索は禁物だと悟り、質問をやめる代わりにシュウの後頭部をぽんぽんと柔く叩く。
こういう行動も、ただの幼馴染や騎士に取るべきではないのかもしれない。
でも、シュウがそうしてくれたように、サラも目の前の相手の気持ちに寄り添いたいと思ったのだ。
そして、言葉では上手く届かない気がしたから、せめて行動でサラの想いを伝えたかった。
(こんなの……ただの言い訳なのかな)
これまでサラはシュウのことを、大切な友達としか認識していなかった。
なのに、今さらシュウが異性であることを強く意識してしまい、何だか落ち着かない。
サラたちがいるところからそう遠くない場所にベッドが陣取っているのも、精神衛生上、よろしくないと思う。
「サラ。知らない人がたくさんいる場でも、よく頑張って自分の意見を言えたな。今もちゃんと泣けて、偉い、偉い」
「……どうして急に子供扱いするの」
シュウのあやすような言葉選びに、つい頬を膨らませる。
サラばかり変に意識していたなんて、これでは馬鹿みたいではないか。
だが同時に、怒鳴り散らすような真似はしなかったとはいえ、きつい言い方をしてしまっても、幼い子供みたいに泣き出してしまっても、幻滅されなかったのだとわかり、内心安堵する。
「一応、俺の方が年上なんだけど」
「年上っていっても、わたしより三ヶ月早く生まれただけでしょ」
そう指摘するなり、くぅとサラの腹の虫が空気を読まずに鳴った。
すると、再び互いの間に沈黙が漂う。
(ど……どうして、今なの……!?)
せめてシュウを異性として意識する前か、抱擁を解いた後に空腹を訴えて欲しかった。
羞恥のあまり、先刻とは全く違う意味で頬の熱を持て余していたら、笑み交じりの吐息が耳朶に触れ、思わず肩が跳ねてしまう。
「……食欲が湧くくらい元気になったみたいで、よかったよ」
「う、うぅ……」
何も言い返せなくて唸っていると、シュウの腕に拘束されていたサラの身体がゆっくりと解放されていく。
シュウはサラにくるりと背を向け、トレイの上に被せていたクロッシュを持ち上げた。
そして姿を現したのは、ティーセットとサンドイッチではなく、何故か急須と湯呑み、それからおにぎりだった。
「サンドイッチとどっちにするか迷ったんだけど……サラ、昼も夜も食べてないって聞いたから、腹持ちが良さそうなおにぎりにしたんだ。あと、サラはほうじ茶好きだったよな。今でも好きか?」
白亜の城でお目にかかるとは思ってもいなかった品々に唖然とした後――つい噴き出してしまった。
「シュウ……お城でおにぎり食べるとか、めちゃくちゃシュールな体験だよ。わたし、てっきりサンドイッチかリゾットでも持ってきたのかと思ってたよ」
「……そっちの方がよかったか?」
「ううん。こんな経験、滅多にできないから、これがいい。ありがとう、シュウ」
水分は充分に摂取していたから、真っ先におにぎりに手を伸ばす。
海苔の香りはやはり西洋風の城の客間とは不釣り合いだが、不思議と気持ちが和んだ。
「いただきます」
そう一言告げてから頬張ると、米のほんのりとした甘みとほどよい塩気が舌の上にじんわりと広がっていく。
「……おいしい」
「……よかった。料理は滅多にしないから、出来が不安だったんだ。一応、自分でも味見はしてみたけど、俺、舌が肥えてないから」
「え、これシュウが握ってくれたの?」
確かに、シュウは腐ったり傷んでなければ大抵のものは文句も言わずに食べていたなと思い出したせいで、うっかり前半の言葉を聞き流しかけ、慌てて問う。
「城のシェフも、もう明日の朝の下ごしらえを終わらせたところだったからな。厨房を使う許可だけもらって、あとはあるもので用意した」
サラが食事を拒否していたばかりに、シュウに慣れない調理をさせてしまったのだと理解し、申し訳なさが込み上げてくる。
それと同時に、普段料理をしないという割には、ありあわせのもので夜食を用意してみせたシュウの手腕に感服してしまう。
「まだ具が見えないけど、中身はおかかだから。サラ、おかかも好きだっただろ?」
そういえば昔、シュウとレオと一緒にピクニックしたことがあった。
好きなおにぎりの具なんて、とっくの昔に忘れていてもおかしくないのに、律儀にサラの好物を覚えていてくれたのかと、くすぐったい気持ちになる。
「……うん、好きだよ」
そう答えてから、もう一口おにぎりを頬張る。
そうしたら、先程涙が引っ込んだばかりなのに、何故かまたぽろぽろと涙の粒が目の縁から零れ落ちていく。
「おいしい……」
――ああ、きっとシュウが握ってくれたおにぎりが、あまりにもおいしいからだ。
「本当に……おいしいよ、シュウ……」
だから、泣くほど感動しているだけだ。
そう自分に言い聞かせ、涙を流しつつもおにぎりを食べていたら、再度隣に腰を下ろしたシュウが不意に手を伸ばしてきて、頭を撫でられた。
下心など一切感じられない優しい手つきに、ますます涙が溢れてきたが、おにぎりにかぶりつき、シュウに触れられていることにも、自分が涙を流していることにも気づかないふりをした。




