第30話 祝福
「お母さんは女の子の母親っていう役を、もう充分楽しんで、飽きちゃったみたいなの。お父さんは、お母さん以外はいらない人だし……だからね、こっちから捨ててあげようと思うの。もう、わたしにもあなたたちは必要ないよって」
サラが繋いだ言葉により、ようやく腑に落ちた。
サラは両親への愛情を捨てられなかったわけでも、物分かりが良いわけでもない。
とうの昔に身勝手な親を見限り、何も期待していないだけだったのだ。
「でも、わたしはわたしのために、なるべく後腐れなく終わらせたい。だから、シュウの気持ちは嬉しいけど……わたしが大人になるまで、待って欲しいの」
サラは現実を見据えた上で、自分自身が幸せになるための計画を考えている。
自分のための努力ができて、行動力もある女の子を前にして、これ以上シュウに何が言えるというのだろう。
ゆっくりとサラの手を放したら、もう一度顔を覗き込まれた。
「シュウは……さっきの話だと、ちゃんと頼れる大人が身近にいるんだよね? このまま帰っても……問題はないんだよね?」
「……ああ、俺も大丈夫だ」
十中八九、代理母のことはクラリーチェが風見邸からとっくに摘まみ出したに違いない。もしかしたら、殺め姫や庇護姫にあの出来事を訴えてくれたかもしれない。
だから、きっと今から帰っても、もう大丈夫なはずだ。
シュウの返事に、サラはほっと安心したように表情を緩めた。
「そっか……なら、よかった」
これ以上ここに留まる理由がなくなった上、帰ると言った手前、いつまでもここに居座るわけにはいかない。
サラに向かって曖昧に頷くと、玄関へと向かう。
「――ねぇ、シュウ。大人になったら……シュウに会いにいってもいいかな?」
そして、いざ玄関扉に手を伸ばそうとした直前、後ろからそんな言葉がかけられた。
咄嗟に振り返れば、サラがポニーテールの毛先を弄りながら、シュウをじっと見つめていた。
「さっき、ごはん食べてる時……シュウ、ここまで飛行カプセルで来たって言ってたでしょ? 飛行カプセルを使わないといけない場所には……まだ、わたし一人では行けないから」
髪から手を放したサラが、シュウに一歩近づく。
「だから……わたし、飛行カプセルのパイロットになって、シュウに会いにいくよ。それで……わたしが元気にやってる姿をシュウに見せて、シュウも……幸せそうなとこ、わたしに見せてよ」
――じゃあ……大人になったら、絶対、ぜーったいにシュウに会いにいくよ。約束する。
幼い頃に交わした約束が、不意に鼓膜に蘇ってくる。
あの時の約束は、サラと離れがたかったシュウを宥めるためのものだった。
でも今、互いに互いの身に降りかかった理不尽に打ち勝つために、それぞれの場所でそれぞれのやり方で戦おうという誓いへと変わろうとしている。
「だから――またね、シュウ!」
「さよなら」ではなく、再び「またね」とサラに告げられた途端、シュウは目の前にいるこの女の子がやはり好きだと、心の底から思った。
サラに興味を持ったきっかけは、最愛の妻のクローンと思われる存在だったからだ。
だが、サラが誰の遺伝子を持っていようとも、それは目の前の少女を構成するあくまで一要素に過ぎない。
シュウは、自分の頭で考え、望む未来を掴み取ろうと足掻くサラの在り方が好きだ。
本来ならば、自分のことで手一杯のはずなのに、幼少期に多少交流があった程度の繋がりしかないシュウの身の上を心から案じてくれる、優しいところが好きだ。
別れの言葉ではなく、未来へと繋がる約束の言葉を投げかけてくれるところも、大好きだ。
妙に潔いところも、たくさん食べるところも、笑顔も――サラをサラたらしめるところ全部、輝いて見える。
その輝きは、太陽みたいな直視できないほどの眩しさではなく、闇夜に浮かぶ月のように寄り添い、優しく照らし出すものに似ていた。
サラの笑顔につられ、シュウの表情も自然と柔らかくなる。
「ああ――またな、サラ」
「うん! だから、シュウ。住所と連絡先、教えてよ」
「じゃあ……連絡先だけなら」
シュウがラカージュの住人であることを、今は部外者であるサラに教えるわけにはいかない。
しかし、連絡のやり取りくらいならば、許されるのではないか。それくらいならば、ラカージュの住人に気取られはしないはずだ。
二人揃って携帯端末を取り出し、連絡先の交換を終えたら、サラがぽつりと言葉を零した。
「いつか……わたしが自力で、シュウを見つけ出してみせるよ。人が住める場所は限られてるから、パイロットになったら、しらみつぶしに捜すよ」
「いや……それなら、俺から会いにいくよ」
「じゃあ、勝負だよ! 勝った方が、一つだけ何でも願いを聞いてもらうっていうのはどう?」
どうして、そこで勝負になるのかはよくわからないものの、その勝負はシュウの方が有利に思えた。
「ああ、いいぞ」
だから、サラが思っているよりも、きっとずっと狡いシュウは、あっさりと頷く。
もし――サラにシュウの帰る場所になって欲しいと願ったら、どんな顔をするのだろうか。唖然とするか、それとも怒るだろうか。あるいは、受け入れてくれるのだろうか。
シュウは、サラが望むものを何一つ与えられないどころか、おそらく多くの可能性を奪ってしまうだろう。
シュウの傍にいたら、夢も、自由も、子供を授かる権利すら剥奪されてしまう。
でも、それでも欲しいと、おこがましくも思ってしまったのだ。
しかも、シュウの手が届く場所にサラ自ら飛び込もうとしているのだから、求めて何が悪いのだという気持ちも湧いてきた。
「勝負だ、サラ」
***
(結局……あの勝負は無効になったな)
過去に浸っていた意識が緩やかに現実へと引き戻されていくにつれ、苦い気持ちが込み上げてくる。
サラがパイロットになるよりも、シュウが動き出すよりも早く、ラカージュの番人たるレイラが先手を打ってしまった。
シュウが、もっと早くサラに会いにいくべきだったのかもしれない。
だが、夢を叶えたサラの姿も見てみたいと、強欲なシュウは願ってしまったのだ。
その結果が今なのだとしたら、シュウはどうすればよかったのか。
やるせない思いで医療用カプセルのガラスを撫でるように指先を動かすと、再度サラの背がぴくりと揺れた。それから、ゆっくりとサラの身体が向きを変えていく。
シュウの正面を向いたかと思えば、豊かな白銀の睫毛に縁取られた瞼が震え、緩慢とした動作で持ち上がっていく。
――サラが意識を手放す寸前、その双眸はシュウと同じ空色に染まっていた。
それはそれで綺麗だったが、サラが本来持つ美しさを損ねてしまったように思え、ほんの少しだけ胸が苦しくなったのだ。
しかし今、瞼の向こうから姿を現した瞳は、エメラルドを彷彿とさせる深みのある鮮やかで純粋な緑だった。
そして、意識が覚醒したらしいサラは手を伸ばし、ガラス越しにシュウの手のひらにそっと合わせた。
すると、それが合図だったかのように、機械の音声が鼓膜を叩く。
『――対象者の体温、脈拍、呼吸、血圧、全ての数値は正常の範囲内です。只今を持ちまして、カプセルから対象者を排出します』
そう告げるなり、医療用カプセルの内部を満たしていた液状の殺生石が緩やかに排水され、カプセルが静かな音を立てて左右に開かれていく。
医療用カプセルから排出され、前のめりに倒れ込みそうになったサラを、シュウは迷わず抱き留める。
それから、いつ目覚めてもいいようにと、クラリーチェが用意しておいてくれた大判のバスタオルをテーブルの上から引っ手繰るようにして取ると、全身ずぶ濡れのサラを包み込む。
クラリーチェを呼ぼうとした矢先、弱々しく掠れた声がシュウの名を紡いだ。
「……シュ、ウ……」
***
――長い、長い夢を見ていた気がする。
でも、あれはサラの記憶から再構成されたものではなく、きっとシュウの記憶そのものに違いない。
全てをはっきりと覚えているわけではない。サラの意識に流れ込んできた、断片的な映像を垣間見ただけだ。
だが、目で見たもの、耳で聞いたもの、感覚が拾い上げたもの、心で感じたもの全てが、シュウが途方もない年月をかけて積み上げていったものに収束していく気がしたのだ。
胸が温まるような愛情も、狂おしいほどの切なさも、身も心も焼き焦がしそうなほどの怒りや憎しみも、本物の殺意も、今のサラへの恋情も全て――シュウのものなのだろう。
今、サラの眼前にいるシュウの髪は白銀ではなく、濡れ羽色に戻っていた。
あれは、意識が朦朧としていたサラの目の錯覚だったのだろうかと思いつつも、まだ上手く機能しない喉の奥から声を押し出す。
「……シュ、ウ……わたし……生きて、るんだよね……?」
これが、よくできた夢の続きの可能性が否めなかったため、念のため訊ねると、サラを抱き竦める腕により一層力が込められた。
「ああ……生きてる。ここは城の地下で、サラは今まで眠ってただけだ」
「そう……シュウは……無事……? わたし……シュウから、何か奪ったんじゃ、ないの……?」
サラが意識を失うまでのシュウの苦しみようは、尋常ではなかった。
おそらくではあるが、シュウはサラを延命させるためにあの場で何かしらの手を打ったに違いない。そうでなければ、今にも死にそうになっていたサラが、こうして生き永らえているなんて、信じられない。
しかし、そのためにシュウにとんでもない代償を払わせてしまったのではないかと思うと、心苦しい。
「……サラは、俺から何も奪ってない。それどころか……俺の呪いを解いてくれたんだ」
「呪い……」
ああ――それは、よく覚えている。
シュウの記憶は、オリジナルと二回目の人生、それから当たり前といえば当たり前なのだが、今世に当たる十三回目の人生のものが最も色濃く残っていた。
だから、サラはシュウの言葉の意味をすぐに理解することができた。
「むしろ、俺の方が――」
「――それなら……よかったぁ……」
シュウの罪悪感が含まれた声を遮り、安堵の吐息を零す。
間違いなく、シュウは自分こそがサラに何かしらの対価を払わせてしまったのだと、言い張るつもりなのだろう。
でも、サラは本来ならば、あの場で命を落としていてもおかしくなかったのだ。
それなのに、こうして生きているのだから、多少の代償は付き物だ。
だから、サラの与り知らぬところで等価交換が行われたのだとしても、それは仕方がないと納得できる。
その結果、シュウをあの呪縛から解放できたのだとしたら、サラに差し出せるものならば、何でも捧げようという気すらしてくる。
「ねぇ、シュウ……よく頑張ったね」
十三回もの人生に渡って受けてきた理不尽を時に呑み込み、時に抗ってきたシュウにかけられる言葉など、そう易々とは思いつかない。
だから、サラが初めてラカージュの地を踏んだ日、シュウに贈られた言葉を今、返そう。
あの言葉は、今でもサラの宝物だから。シュウにとっても、そういうものになってくれたら、嬉しい。
「――謝罪も罪悪感も、いらない。シュウは充分、理不尽な目に遭ったんだから。泣いて怒っていいんだよ。だから……言いたいことを言って、好きなだけ泣いて……全部、受け止めるから」
空色の双眸が、愕然と見開かれる。
信じられないと言わんばかりに目を丸くするシュウに、サラは心からの笑顔で応じる。
ああ、そうだ。この想いも伝えなければ。
「シュウ――あなたに出会えて、本当によかった。今ここにいるわたしと、巡り会うまで生きてくれて、ありがとう。今のわたしに恋をしてくれて……本当にありがとう」
生と死を延々と繰り返す呪いは、シュウをずっと苦しめ続けた。
だが、その呪いがなければ、サラとシュウはこうして出会うことはなかったのかもしれない。
二人で手を繋ぐことも、シュウに抱きしめられることも、キスを交わすことも絶対になかった。
だからどうというわけではないが、シュウが呪いの果てに何か心を震わせるものを掴み取ってくれていたらと、願わずにはいられない。
「シュウ……大好き。ずっと、ずーっと……大好きだよ」
改めてサラの想いを告げた途端、先刻の比ではないくらい、シュウにきつく抱き竦められた。
震える吐息が、生温い液体の感触が、サラの耳朶を掠めていく。ほんのりと甘くて爽やかな、シュウの香りがサラを包み込む。
シュウの腕に身を委ねながらそっと目を閉じると、サラの意識は再度、暗闇に沈んでいった。




