第23話 悪魔
はっと振り返れば、サラの背後には新たなヒュドラが忍び寄ってきていた。
そして、自分たちが置かれた状況を把握するべく視線を動かすと、もう一頭のヒュドラの姿も確認できて、挟み撃ちに遭っているのだと理解する。
ごくりと生唾を飲み込んでからシュウへと向き直れば、舌打ちを零す音が聞こえてきた。
「サラ……逃げろ」
「……この状況で、何言ってるの」
できることならば、サラだってシュウを背負ってでも、一緒にこの場から逃げ出したい。
でも、サラがシュウを背負った状態でヒュドラから逃げおおせるとは、到底思えない。
「俺を置いていけば……サラ一人なら、逃げきれるかもしれないだろ」
「シュウ、現実を見て。そんなの……無理に決まってるよ」
仮にシュウの言う通りにしたところで、ヒュドラが二頭ともサラを見逃してくれるとは露ほどにも考えられない。
ただ逃げるだけでは、二人ともヒュドラの餌食になって殺されるだけだ。
そこまで考えたら、自然と腹を括ることができた。
「……シュウ、わたしが時間を稼ぐ」
サラが今使える武器は、五発分の弾丸しか残されていないベスティア・ガンと薙刀だ。
この武器だけでこの場をどう凌ぐか、策があるわけではない。
だが、それでも――やるしかないのだ。
「な、にを……」
「シュウ。あなたの銃には、弾はあと何発残ってる?」
シュウの疑問には答えずに血だらけの手を差し出せば、諦めたような溜息を吐かれた後、ガンホルダーから取り出した銃を渡された。
「さっき補充したから、六発分は残ってる」
「ありがとう」
不思議と、二頭のヒュドラが今すぐ襲いかかってくる気配はない。
獲物を甚振ってから食い殺す気なのか、取るに足りない存在のせめてもの抵抗を楽しむつもりなのか――どちらにせよ、シュウと言葉を交わす時間ができたため、むしろ助かった。
シュウから受け取った銃を、無理矢理腰のベルトに挟み込むと、素早く立ち上がる。
「シュウ……あなたはイヴ――アヤカシだから、そう簡単には死ねない。だから、その怪我もすぐ治る。違う?」
「……ああ、そうだ。脳や心臓を破壊されたり、四肢を切断さえされなければ……大抵の怪我はすぐに治る」
「なら、わたしはあなたが回復する時間を稼ぐ。そして、二人一緒に逃げる」
それから、いかにも成功率が低そうな稚拙な作戦を告げながら、シュウに背を向ける。
「サラ……お前の替えは利かない。でも俺は……いくらでも替えが利くから、だから……いざとなったら、俺を置いて逃げろ」
「――それは、あなたがクローンだから?」
溜息交じりにそう問いかけつつ振り返れば、目元を歪めるシュウと視線が交錯した。
「……歴代の風見の当主の顔写真を見れば、気づくか」
「でも、それが何だっていうの? わたしだって、クローンだよ。シュウと何も変わらない」
「サラはただのクローンだけど、俺は特殊なクローンなんだ。今の俺が死んでも、どうせすぐに新しいクローンが生まれるだけだ。だから――」
「――でも、今ここにいるシュウは、あなた以外存在しないでしょう!?」
妙に頑ななシュウの態度に限界を迎え、再度身体ごと向き直って衝動のままに怒鳴りつける。
「湖に落ちたわたしを助けてくれたのも! 泣きじゃくるわたしに寄り添ってくれたのも! 忠誠を誓ってくれたのも! 生きる術を教えてくれたのも! わたしはわたしだって言ってくれたのも! 一緒にデートしたのも! キスしたのも! 他でもない、今ここにいるあなただよ!」
何故、こんな簡単なこともわからないのか。
「わたしは、シュウを失いたくない! だって――あなたのことが好きだから!」
サラの突然の告白に、シュウの空を閉じ込めたかのような双眸が見開かれていく。
――本当は、こんな怒鳴りつけるようにして自分の気持ちを伝えるつもりはなかった。
しかし、今伝えなければ、サラの想いが一生シュウに届かなくなってしまいそうな気がして、怖かったのだ。
「だから無茶でも何でも、戦う! いいから、あなたはわたしに大人しく守られてて。これは命令だよ」
サラは自分の足元でぐったりと横たわっていたネージュを抱き上げると、シュウの傍にそっと下ろす。
「……ネージュ、あなたもここで待っててね。もし、戦えそうになったら……その時は、シュウのこと、よろしくね」
ネージュにそう囁きかければ、弱々しく頷かれた。
シュウの返事を待っているだけの余裕はないから、サラが臨戦態勢に入ろうとした直前、苦渋に満ちた声が耳朶を打った。
「……拝命した」
もう一度振り返ると、薄く形の良い唇を嚙み切りそうな強さで噛み締めつつも、サラをまっすぐに見つめるシュウと目が合った。
「……ありがとう。それから……出来の悪い主で、ごめんね」
間違いなく、サラは人の上に立つことに向いていない。
ネージュの時と同じで、ここはシュウを見殺しにしてでも、自分一人だけでも助かるべき道を切り拓く局面なのだろう。
でも、自分に忠誠を誓ってくれ、愛を告げてくれた相手を切り捨てることは、サラにはできない。
この命ある限り、打てる手を全て打ち、自分も相手も守り抜いてみせる。
一度だけ深呼吸をすると、サラは上りやすそうな大樹目掛けて駆け出した。
サラの足音を敏感に捉えたらしいヒュドラが二頭とも、こちらに向いたことを横目に捉える。そして、木の幹の凹凸や太い枝を利用し、樹上を目指して素早く上っていく。
木登りなんて、いつぶりだろう。
少なくとも、シュウに会わなくなってからしたことはなかったはずだから、約十二年ぶりだ。
だが、不思議と身体は動いた。
どうしてかわからないが、先刻シュウやネージュを守ってみせると心に誓ってから、身体の奥底から今にも弾けそうなほど熱いものが湧き上がり、全身を駆け巡っているのだ。
その熱に突き動かされるがごとく、しなやかな動きで樹上の一際太い枝に両足を乗せれば、一頭のヒュドラがぬっと顔を近づけてきた。
(――かかった!)
今までこの巨大な生き物に何故あれほど恐怖していたのか、疑問に思うくらい凪いだ気持ちでガンホルダーから銃を取り出す。それから、すぐさま撃鉄を上げるや否や、ヒュドラの頭部に狙いを定め、引き金を引く。
この距離では、どんなに狙撃の腕が劣っていたとしても、狙いを外しようがない。
案の定、頭部を弾丸で撃ち抜かれたヒュドラの頭の一つは、鮮血と脳漿を噴き出しながら、がくりと項垂れた。
すると、やはり片割れの頭は憤怒し、大きく口を開けてサラに迫ってくる。
猛毒を纏った牙と硫酸から逃れるべく、サラは樹上から死した蛇の頭へとすかさず飛び移る。
鱗に覆われた頭を踏みしめた直後、素早くサラの動きを追ってきたヒュドラのもう一つの首は、再び真っ黒な口腔内を曝け出しつつ肉薄してきた。
サラはその場で片膝をつくと、二発続けてヒュドラの口の中に銃弾を撃ち込んだ。そして、ヒュドラの生死を確認する間も惜しみ、銃をガンホルダーに押し込み、薙刀の柄を掴んで抜き放つ。
(その皮……寄越せっ!)
薙刀を構えるや否や、サラは自分が足場にしていたヒュドラの頭から滑り降りながら、大抵のものは斬れる殺生石の刃で鱗ごと皮膚を剥ぎ取っていった。
――敵と対峙する時は、気を抜かずに相手を観察し続けろ。そうすれば、思わぬ勝機を見出せることがある。
アヤカシと戦うための訓練をしていた間、シュウは口を酸っぱくして言っていた。
だから、今日の初陣の間中、サラはシュウの教えをできるだけ心がけていた。
そうしたら、先程ネージュを救出するためにヒュドラを攪乱していた際、ふとあることに気づいたのだ。
――ヒュドラは、自分自身が吐いた硫酸が跳ねて鱗にかかっても、全く被害を受けていなかったのだ。
てっきり、諸刃の剣となる攻撃手段だと思い込んでいたのだが、そうではなかった。
だから今この場において、サラたちが身を守るための防具としてヒュドラの鱗と皮膚を頂戴させてもらおう。
サラが着地を決める頃には、相当な長さの表皮を削り取ることができた。
それを薙刀で二つに裂くと、急いでシュウの元へと走り寄っていく。
シュウの言う通り、イヴの身体は損傷を受けても、すぐに元通りになろうとする性質があるらしい。
シュウの両脚は、膝から下が骨折していたはずなのに、折れたか、砕けたかした骨が、激しく痙攣しつつもだんだんと修復されていく様が見て取れた。
しかし、急激な回復はかなりの負担を強いられるに違いない。
歯を食いしばったシュウの表情は苦悶に歪み、骨が軋むような嫌な音が絶え間なく回復に向かっている足から聞こえてくる。
「シュウ、これを被ってて」
万が一、ヒュドラがシュウに向かって硫酸を浴びせようとした場合を考慮し、先刻拝借してきた皮膚を被せると、即座に次のヒュドラの元へと駆け出す。
もう一頭のヒュドラは、先程の戦いを目の当たりにし、サラを強敵だと判断したのだろうか。サラが近づけば近づくほど、じりじりと後退していく。
「……あなたがここで退くというなら、命を奪うことまではしない……どうする?」
血を払ってから薙刀を鞘に収めて両手を挙げ、積極的に戦う意思はないことを表明する。
ヒュドラに人語が通じるかどうかなんて、サラは知らない。
でも、ネージュやノワールの例があるから、一か八か賭けて交渉を試みたのだが、ヒュドラは威嚇の声を上げて瞬く間にサラとの距離を詰めてきた。
「……そう上手くはいかないよね」
サラは挙げていた両手を下ろすなり、またガンホルダーからベスティア・ガンを取り出し、ヒュドラの頭部に狙いを定めて弾丸を撃ち放つ。それから、サラ自身も鱗に覆われた表皮を頭から被り、もう一つの首が吐き出してきた硫酸を走って避ける。
だが、硫酸を浴びても爛れる気配が微塵もなかったはずのヒュドラの皮膚は、硫酸を浴びたところだけ溶けていった。
(まさか……ヒュドラ本体から切り離されると、硫酸の無効化ができなくなるの?)
それでも盾代わりにはなるため、ないよりは遥かにマシだが、思った以上に使えない。
その直後、あの地を這い回る嫌な音が聞こえてきて、素早く振り返れば、いつの間にか三頭のヒュドラがシュウを目掛けて接近していた。
シュウの癖がうつったのか、つい舌打ちをすると、サラは銃をガンホルダーに戻してから薙刀を抜き放ち、咄嗟に槍投げの要領でヒュドラに投擲する。
槍投げなんて、ラカージュに召喚されてからも経験したことがないのに、サラが投げ飛ばした薙刀の刃はヒュドラの眼球ごと頭部を貫通した。これも、火事場の馬鹿力だろうか。
(――よし、仕留めた!)
そして、再度シュウへと視線を走らせた途端、鋭い咆哮が空気を震わせたかと思えば、主を庇うようにノワールが現れた。
サラもシュウの元へと向かって駆け出しながらも、味方の登場に安堵の吐息を零したのも束の間、一頭のヒュドラの尾が騎士の頭上を掠めた。
その拍子に、シュウとネージュの上に被せていたヒュドラの表皮が、遥か彼方へと吹き飛ばされてしまった。
しかも、ノワールが青い炎を浴びせたり、噛み付いたりして奮闘しているものの、一度に三頭の敵を引き受けられるわけがない。
ノワールに応戦していなかった一頭のヒュドラが、シュウたちに向かって硫酸を吐き出す姿を目にするや否や、サラの身体は考えるより先に動き、勢いよく飛び出していた。




