第24話 業火
粉砕された骨が強引に再生されていく激痛と不気味な音に苛まれつつも、シュウは自らの足が元通りになったことを確認する。
負傷した軍人を運ばせるために別行動を取っていたノワールが駆けつけてくれたとはいえ、初陣を迎えたばかりのサラにこのまま戦わせ続けるのは、酷だろう。
早く態勢を立て直さなければと、身体を起こそうとした矢先、頭上を何かが凄まじい勢いで過っていった。それとほぼ同時に、これまで頭から被っていたヒュドラの皮膚が風圧に煽られ、反応する間もなく飛ばされてしまった。
その直後、頭から顎にかけて電流が駆け抜けていくような感覚に襲われ、咄嗟に振り向くと、ヒュドラが真っ黒な口腔から硫酸を吐き出すところだった。
――間に合わない。
損傷した部位を急速に修復したばかりのシュウの身体は、そんなすぐには俊敏に動けない。
だから、せめてもの抵抗とばかりに自身の頭を右腕で庇い、左腕でネージュを庇うように抱き寄せ、眼球を守るために目を閉じた途端、何故かふわりとぬくもりに包み込まれた。
シュウが状況を理解するより先に、何かが溶けるような嫌な音が耳朶を打ち、肉が焼け爛れるような悪臭が鼻をつく。
しかし、シュウ自身は硫酸を浴びていない。シュウが深く抱き込んだネージュが、負傷するわけがない。
そこまで考えたところで、微かな呻き声がくぐもって聞こえてきた。続いて、何かがぶつりと切れる音も鼓膜を震わせる。
あまりにも耳に馴染んだ声に嫌な予感を覚え、はっと瞼を持ち上げれば、シュウの頭を抱きしめるようにして覆いかぶさる、サラの姿があった。
きつく目を瞑るサラの額にはびっしりと玉の汗が浮かび上がり、食いしばった歯の隙間からは震える吐息と苦しそうな声が零れ落ちてくる。
そして何より――サラの背中からは蒸気が立ち上り、ポニーテールにしていたはずの栗色の髪は、肩に届くか届かないかくらいの長さまで毛先が溶けていた。
サラが咄嗟に被ったらしいヒュドラの表皮は、最早ただの残骸と成り果て、ずるりと地面に落ちた。その近くには、無残に切れたヘアゴムも転がっていた。
「サ……ラ……?」
無様に震える声でサラの名を呼ぶと、豊かな睫毛に縁取られた瞼が緩やかに持ち上げられていく。
深みのある鮮やかで純粋な緑の瞳が姿を現したかと思えば、痙攣する頬を無理矢理動かし、ぎこちなく微笑みかけてきた。
「……シュウ……怪我は、ない……?」
「……あるわけがないだろ! そんなことより――」
「そう……なら、よか……った……」
シュウの言葉を遮るように、心の底から安堵したと言わんばかりに表情を緩めたサラは掠れた声を出すと、その身体からずるりと力が抜けていった。
サラの身体の下敷きになったシュウは急いで這い出るなり、碧眼に映った光景に息を呑んだ。
純白の軍服の背面が溶け落ちていたのはもちろんのこと、サラのきめ細かな白い肌は皮膚が焼け爛れ、ところどころ肉が覗いていた。
イヴならば、ただちに皮膚が再生されてもおかしくないのに、サラの身体には何の変化の兆しもない。
(サラがイヴとして、まだ覚醒しきってないのか……?)
イヴとは、何事もなければ普通の人間と何も変わらない。
命の危険に晒され、生存本能が爆発的に高まって初めて、驚異的な身体能力と治癒能力を手に入れるのだ。
先刻の戦いぶりから、てっきりサラはイヴとしての本来の力に目覚めたものだとばかり思っていたのだが、おそらくまだ完全な覚醒ではなかったのだろう。
それでもサラは、身を挺してシュウを守ってくれた。
もしかすると、サラは自分もイヴだから、大怪我を負っても大事には至らないと考え、危険を顧みずにシュウを庇ったのかもしれない。
でも、仮にそうだったとしても、傷を受ける痛みがなくなるわけではない。
それなのに、どうしてこんな真似ができたのか。
――わたしは、シュウを失いたくない! だって――あなたのことが好きだから!
凛と張り上げたサラの叫びが、ふと鼓膜に蘇ってくる。
――あなたの盾となり、剣となることをここに誓おう――殺め姫。
そして自分は、確かにこの少女にそう誓ったはずなのに、盾となって守り、剣となって戦ったのは、結局サラではないか。
「ふざ、けるな……」
呪詛めいた声が、不意に唇から零れ落ちていく。
一旦、サラをうつ伏せに地面の上に寝かせると、素早くジャケットを脱ぎ捨て、その上にひどい火傷を負った身体を横たえる。
硫酸を浴びた場合、応急処置として大量の水で洗い流さなければならない。硫酸は時間の経過と共に濃縮し、さらに危険が増すからだ。
だが、この近辺では水場がない上、ヒュドラに退路を塞がれているため、応急処置を施すことも、サラを安全な場所まで連れていくことも叶わない。
ならば――サラがこうなった元凶であり、理不尽を煮詰めたかのような存在を、一刻も早くこの場から消し去らなければならない。
「……ノワール、ヒュドラから退け」
地に片膝をついていたシュウはゆらりと立ち上がり、サラに背を向けながらノワールに命令を下す。
主の命を聞き届けたノワールは、既に仕留めた一頭のヒュドラから即座に距離を取った。
残る二頭は、シュウに狙いを定めて一気に近づいてきた。
「――燃え尽きろ」
シュウが指を鳴らした直後、三頭のヒュドラ全て、青い火柱に吞み込まれた。
既に事切れていたヒュドラ以外は絶叫を上げ、炎から逃れようと身を捩るが、シュウが生み出した蒼炎は執拗に悪魔の化身を嬲っていく。
――実験や繁殖を繰り返した結果、アヤカシには摩訶不思議な能力を発現させた個体が存在する。
これは、クローンとして幾度もこの世で生を受けていく過程で独自の進化を遂げた、シュウが持つ能力だ。
この能力を使用する際は、あらゆる感情を排し、対象を視界に収めて全神経を集中させなければならないという厄介な条件があるものの、それさえ満たせば、対象の命が尽きるまで炎が消えることはない。
先程、サラが倒木の下敷きになりそうになった時は、大樹を燃やしたところで、かえって命を脅かす危険性が増すだけだったから、あえて使わなかっただけだ。
その後は、シュウの身体は損傷した部位を修復することを最優先にしたため、他の能力は封じられていたのだ。
忌々しいヒュドラが消し炭へと変貌を遂げたのを見届けると、急いでサラの脇に跪き、横を向いている顔を覗き込む。
シュウの安否を確認してきた時には、まだ生気が宿っていたエメラルドの双眸は、この短時間で虚ろなものになっていた。
手首を取って脈を測り、唇に指先を当てて呼吸の確認を取ってみたものの、脈はかなり弱くなり、今のサラは虫の息といって差し支えない状況に陥っていた。
火傷そのものも深刻だが、それによるショック症状を起こしているに違いない。
現に、サラの身体は発熱し、痙攣もしている。
今すぐサラを軍の救護班が待機しているテントまで運び、応急処置をしたところで、本格的な治療を受けられる場まで耐えられるかどうか、かなり怪しい。
試しに、軍かラカージュに救援要請をしようとしたものの、先刻倒木の下敷きになった際に通信機が故障したのか、はたまた通信状況が相変わらず悪いままなのか、どちらとも通信が繋がらない。
このままでは――サラは命を落とす。シュウなんかを庇ったせいで。
――愛してる。
その時、四肢を切断され、大量の血を流しつつも、必死に笑顔を作って愛を告げたサラの幻影がシュウの目の前を過った。そして、その直後に白く華奢な首が刎ね飛ばされる様も、鮮明に脳裏に蘇ってくる。
(また……俺は失うのか?)
何もできないまま、ただサラの死を見届けるしかないというのか。
そこで、かつての殺め姫が瀕死の状態になった自らの騎士を延命させた方法が、啓示のごとく思い出された。
あれは、何体目のシュウの時の記憶だろうか。
もう、はっきりとは思い出せないものの、その方法と、そこまでして救いたい相手がいることへの羨望だけは記憶に深く刻み込まれている。
だから――シュウに、一切の躊躇はなかった。
念のため、シュウの黒いネクタイをするりと解くなり、猿ぐつわ代わりにサラに噛ませてから、自らの右手の親指の皮膚を迷わず食い破る。それから、ぷっくりと膨れ上がった血の玉を、サラの深く傷ついた背中に垂らす。
最初の赤黒い血の一滴が傷口に触れた途端、今の今まで脱力していたはずのサラの背が大きくしなった。
「ぅ……ぐ……ぅぐうううううぅううううううう……っ!」
そして、焦点が合わなくなっていたエメラルドの瞳が限界まで見開かれ、今にも零れ落ちそうなほどの涙が目尻に溜まっていく。花びらみたいな小さくて淡く色づいた唇からは、黒い布地越しにくぐもった叫び声が漏れ出してくる。
相当な激痛に苛まれているのだろう。両手で地面を掻き、興奮した獣みたいに息を荒げている。
もし、猿ぐつわを噛ませていなければ、勢い余って舌を噛みちぎっていたかもしれないと思うほど、強くシュウのネクタイに噛みついている。
そのままサラの経過を観察しようとしていた寸前、突如としてシュウの心臓に激しい痛みが走った。
「ぁ――」
心臓を半分にちぎられたのではないかと錯覚するほどの激痛に、一瞬意識が遠のく。我に返った時には、地面に両膝をついて右手で左胸をシャツ越しに掻きむしっていた。遅れて、頭と下腹部が燃え上がるように熱くなっていく。
「くっ……ぁ……」
それでも痛みをやり過ごすことができず、空いている左手でがりがりと土を掻く。額にはいつの間にか汗が滲み、ぱたぱたと地面に零れ落ちていく。
獣みたいに四つん這いになっていたら、ふと空色の眼差しとエメラルドの眼差しが絡み合った。
***
(わたし……このまま……死ぬのかな……)
――だんだんと薄れゆく意識の中、サラは自分の行く末にぼんやりと想いを馳せていた。
戦況がどうなっているのか、視覚も聴覚もまともに機能しなくなったサラには、把握する術がない。
ただ、シュウやネージュ、それからノワールは無事であって欲しい。
(このまま……死にたく、ない、なぁ……)
そして同時に、自分自身も助かりたいと願わずにはいられない。
もう身体に力が入らず、あらゆる感覚は曖昧で、鼓動を刻む心臓だってどんどん衰弱していっている自覚があるのに、それでもおこがましくも生を望む。
だって、このままここで命を落としたら、シュウにどうしようもないくらいの罪悪感を植え付けてしまうに決まっている。
それに、サラには生きてやりたいことが、まだまだたくさんあるのだ。
だから、座して死を待つわけにはいかないのだ。
それなのに、この身体はサラの気持ちをことごとく裏切っていく。
ただでさえ霞んでいた視界が次第に暗くなっていく中、突然、背中の傷口に水滴みたいなものが落ちる感触がした。
雨でも降ってきたのだろうかと思った直後、そこを中心に身体の末端に至るまで電流が迸るような感覚が走った。
「ぅ……ぐ……ぅぐうううううぅううううううう……っ!」
サラの意思とは関係なく、背中が大きくしなり、弱っていた心臓を強制的に拍動させ、肋骨を突き破るかのごとき激痛に、目の前が真っ白に染まる。
それだけではなく、背中の傷口も急き立てられるように蠢き、今にも意識を失いそうなのに、辛うじて現実に繋ぎ止められている状態が苦しくてたまらない。
「くっ……ぁ……」
爪の中に砂が入り込むのも構わず、両手で土を抉るように掻き出していたら、唐突に自分のものではない苦悶の声が鼓膜を揺さぶった。
そこで、少しだけ正気を取り戻したサラは、何とか首を捻って視線を動かすと、四つん這いになって蹲り、爪が食い込みそうなほどの強さで左胸を押さえるシュウと目が合った。




