第22話 奇襲
――シュウと別行動を始めてから、しばらく経つが、今のところ何事もなく順調に撤退できている。
ネージュの力強く地を蹴る音と、梢が揺れる音だけがサラの聴覚を刺激する。
しかし、そんなことを考えていたら、唐突に何かがものすごい速さで地を蛇行しながら這い進む音が聞こえ、ぞっと肌が粟立った。
ネージュに警告をするべく、その名を呼ぼうとした直前、悪魔の象徴ともされる蛇の頭が木立の合間からぬっと現れた。
つい言葉を失ったサラに構わず、ネージュはじりじりと後退ったかと思えば、即座に進行方向を変え、針葉樹の隙間へと飛び込んだ。
でも、今この場においては、ヒュドラの独壇場といえた。
ヒュドラはあらゆる物体の表面を正確に利用し、どんな地形であっても驚くべき素早さで移動することができるのだ。
いずれ対峙することになったら厄介そうなアヤカシを、予習として調べていた際にヒュドラの生態についてもサラなりに勉強したのだが、身につけた知識がかえって恐怖を煽ってくる。今のサラには、ネージュの純白の体毛にしがみつくことしかできない。
その上、ヒュドラが勢いよく吐き出した硫酸がすぐ近くの針葉樹の葉や幹にかかり、嫌な音を立てて溶けていく様を横目に捉えてしまった。
ヒュドラはブラックマンバ特有の猛毒を持っているだけではなく、ヴィクトリア・エーヴァの改造で体内に硫酸を生成し、獲物を捕らえる武器にもできるのだ。
だが、ネージュは主とは違い、勇敢で至って冷静だ。
背後から追いかけてくる恐るべき敵を振り返ることもせず、ただひたすらに森の出口を目指して走り続ける。
一切の動揺を見せないネージュの姿に心が奮い立たせられ、サラも次第に平静を取り戻してきた。
しかし、木々が密集している場所から抜け出した直後、ネージュの後ろを追走していたはずのヒュドラに追いつかれ、回り込まれたかと思えば、体当たりを受けた。
奇襲を受けたネージュの身体は呆気なく吹き飛び、その背に乗っていたサラも当然のごとく宙へと投げ出された。
でも、シュウに散々叩き込まれた五点接地を覚えていた身体が考えるよりも先に動き、無事安全な着地を決めると、殺しきれなかった落下の衝撃を地面を転がることで緩和した。
おかげで、純白の軍服はすっかり土埃に塗れてしまったものの、怪我は掠り傷程度で済んだ。
だが、自身の状態を一通り確認してから素早く立ち上がったサラの目に、信じられない光景が飛び込んできた。
「――ネージュ……!」
つい先刻までサラを背に乗せて颯爽と走っていたネージュの身体にヒュドラが巻きつき、きつく締め上げていたのだ。
しかし、サラが咄嗟に駆け寄ろうとした矢先、激しく叫びつつも必死にもがくネージュは、身を捩ってヒュドラの首に噛みつき、その鱗ごと皮膚を容赦なく食い破った。さらに、そこに至近距離から青い火炎を浴びせ、追い打ちをかける。
すると、ネージュに攻撃を受けた側の蛇頭が絶叫を上げ、大気をびりびりと震わせた。そして、びくびくと痙攣したかと思えば、がくりと力が抜けたかのように頭を垂れ、そのまま地面に倒れ伏した。
倒れた拍子に立ち上った土煙のせいで、はっきりとは見て取れないものの、ぴくりとも動かなくなった首は、おそらく意識を失ったか、絶命したに違いない。
このままネージュが自力でヒュドラの拘束を逃れられるだろうと思った矢先、無事だった方の蛇頭は真っ黒な口を大きく開けて鋭い唸り声を発し、片割れを仕留めた敵に硫酸を浴びせた。
「あ……っ」
ネージュはすぐさま首を捻って顔面への直撃こそ免れたものの、首から背中にかけて硫酸を浴び、断末魔かと思うほどの悲鳴を上げた。
豊かな体毛が溶けて黒ずみ、嫌な臭いがここまで漂ってきて鼻を突く。もしかしたら、体毛の下の皮膚にも影響を及ぼしているのかもしれない。
咄嗟に、左耳に装着していた通信機に触れ、シュウへの通信を試みる。
でも、先程地面に叩きつけられた拍子に壊れてしまったのか、もしくは通信状況が悪いのか、砂嵐みたいなノイズの音ばかりが鼓膜に纏わりついてくる。
――もし、俺と連絡がつかなくなったら、レイラと連絡を取れ。そうすれば、テレポート技術で回収してくれるはずだ。
シュウと連絡を取り合えなくなった際の対処法が、不意に耳の奥に蘇ってくる。
(また……逃げるの? 何もしないまま……ネージュを見捨てて?)
きっと、そうするのが、今のサラにとっての最善策に違いない。
己の力量と引き際を見極めて逃げることは、決して恥ずかしいことではない。戦略的撤退ともいえるだろう。
だが、抵抗するだけの力を失い、ぐったりとしたまま動かないネージュに、猛毒を纏った牙を剥いたヒュドラの頭が近づいていく様を目の当たりにした途端、サラの中から「逃げる」という選択肢は消え失せた。
「ふざ、けるな……」
音に敏感なはずのヒュドラは、サラを敵と見なすにも値しない存在だと判断したのか、こちらを見向きもしない。
しかし、今はそれでいい。
敵に侮られている今が――絶好のチャンスだ。
素早く辺りに視線を走らせると、極力足音を立てないように気をつけながら、針葉樹の陰に身を滑り込ませる。
シュウ曰く、月影一族の女性は代々、初代殺め姫と同じ体臭を持たないという特徴があるのだという。
だから、蛇らしく視力が極端に低い代わりに、聴覚と嗅覚が発達しているヒュドラには、この体質が有利に働く。
現に、針葉樹の陰と陰を伝ってにじり寄るサラに、ネージュに夢中になっているヒュドラが気づいた素振りは微塵もない。
徐々に心拍数が上がってきた心臓を宥めつつ、サラはガンホルダーから抜き放ったベスティア・ガンを両手で構えた。
(――今だ!)
ネージュに被弾しない、ぎりぎりの角度に狙いを定め、思いきり引き金を引く。
銃口から放たれた弾丸は、サラの狙い通り、ヒュドラの眼球の真横を掠めていった。
大した傷を負わせることはできなかったが、ヒュドラの鱗が一枚、はらりと剥がれ落ちていく。
それで、ヒュドラの気が削がれるには充分だったのだろう。
ネージュに牙を突き立てる寸前だったヒュドラはゆっくりと鎌首をもたげ、サラが身を潜めている針葉樹をじっと見つめてきた。
「――こっちだよ!」
わざと声を大きく張り上げ、先刻とは違って派手な足音を立てながら走り出せば、サラを目掛けてヒュドラが硫酸を吐き出してきた。
でも、サラは身軽な動きで針葉樹の陰に隠れ、巧みに攻撃を躱してから、全く見当違いな方向に発砲する。
――ヒュドラは視力が低いため、状況を把握するためには聴覚と嗅覚に頼らざるを得ない。
だからこそ、体臭のないサラならば、足音や銃声である程度の攪乱が可能なはずだ。
(弾は、あと三発……)
だが、サラの手持ちの銃弾には限りがあるため、無駄撃ちはできない。
一応、あと一回装填する分は残っているものの、この状況下では慎重になった方が良いだろう。
弾を撃つタイミングを見極めつつ、木の陰に隠れて動き回ってから、どれほどの時間が経過したのだろう。極度の緊張状態を強いられたせいで、そろそろ集中力が途切れそうだ。
それでも粘り強くヒュドラとの命がけの追いかけっこを続けているうちに、ついにサラの目論見が成功した。
縦横無尽に逃げていると見せかけ、とある大樹に集中的に硫酸を浴びせるようにヒュドラを誘導し続けた結果、幹を弱らせた木が轟音を立てて倒れてきたのだ。
逃げおおせる前に、ヒュドラは大木に叩き潰され、見事下敷きになった。
もうもうと盛大に土埃が舞う中、弾倉に弾丸を詰め込み終えたサラは、すかさず畳み掛けるようにヒュドラの片目を撃ち抜いた。
そうしたら、さすがにヒュドラの拘束が緩んだらしく、ネージュがよろよろと這い出てきた。
幸い、ヒュドラが緩衝材代わりになったみたいで、見たところ、倒木による負傷はなさそうだ。
「ネージュ、おいで! 少しでも消耗しなくていいように、小型化して」
その場にしゃがみ込み、両手を広げながら指示を出すと、ネージュは途端に純白の蜃気楼に包み込まれる。それから、いつものぬいぐるみみたいな姿に戻ったネージュが、危なっかしい足取りではありつつもサラの腕の中に飛び込んできた。
「うんうん……ネージュ、よく頑張ったね。あとは、わたしに任せて」
飛び込んできたネージュをぎゅっと抱き締めたら、すぐに小脇に抱えて立ち上がる。
そして、再びシュウやレイラとの通信が繋がるか試してみたものの、サラの通信機は相変わらず役立たずのままだ。
仕方なく、サラの足で安全地帯まで退避するしかないと駆け出した直後、近くで何か大きなものが軋むような音が聞こえてきた。
咄嗟に視線を動かせば、サラたちに向かって大木が倒れてくる光景が、どうしてか妙にゆっくりと視界に流れてきた。
先程の木の他にも、ヒュドラの硫酸で弱った木があったのかと、場違いなほど冷静な思考が頭の片隅で働く。
考えるよりも先に、ネージュの頭を守るように右腕で抱え込み、自分自身の頭も左腕で庇い、走る足により一層力を込める。
しかし――間に合わない。
ならば、せめて頭部だけは守り抜こうと、両腕に一際力を入れて間もなく、誰かに勢いよく突き飛ばされた。
ネージュを抱えていたから、先刻よりは上手く受け身を取れなかったものの、それでも身体がほぼ自動的に五点接地を決めてくれたおかげで、あまり痛みは感じなかった。
しばし地面を転がってから即座に起き上がれば、信じ難い光景が視界に映り込む。
「――シュウ!?」
そこには、先程倒れ込んできた大木に両脚が押し潰されたシュウの姿があったのだ。
「どうして、ここに……ノワールは?」
でも、気が動転しそうになったのは、ほんの一瞬だけだった。
ここまでの一連の出来事により、混乱している余裕など砂粒ほどにもなく、理性を手放すことは命取りになることを散々思い知らされたサラは、一旦ネージュを地面に下ろすなり、木の幹に手をかける。
だが当然ながら、サラの腕力ではシュウの両脚を抜く隙間を作ることすらできない。ささくれだった木肌は、サラの手のひらや指先を傷つけていくばかりだ。
それでも負けじと、ほんの少しでも構わないから、木を持ち上げようとするサラに向かって、シュウが表情を歪めつつも口を開いた。
「ノワール、は……他の奴らを撤退させるために貸した。サラも俺のことはいいから……さっさと逃げろ」
「やだ……」
「サラ」
「……さっきは物分かり良くなってあげたけど、今は物分かり良くなんてなりたくない!」
咎めるような口調で名を呼ばれたものだから、思わず本音を叫びながら両手にさらなる力を込める。
すると、火事場の馬鹿力とでも呼ぶべきものが発揮されたのか、手のひらが傷だらけになりつつも、倒木をシュウの両脚の上から退かすことに成功した。
しかし、シュウの膝から下はありえない方向に曲がっており、自力での歩行は不可能だと判断したサラは、すぐさま身を翻してその場にしゃがみ込む。
「シュウ! おぶっていくから、わたしの背中に乗って!」
この状況下で、背が高くて体格にも恵まれているシュウをサラが背負って逃げようなど、自殺行為にも等しい。
それでも、そう簡単に諦めたくなくて、まだ上手く動けないシュウを急き立てる。
「シュウ、早く!」
もしかして、自力でサラの背に乗る余力さえ残されていないのかと焦りを覚えた時、あの信じられない速度で地を這い回る不気味な音が、突然鼓膜を震わせた。




