第12話 春の妖精
「わぁ……!」
足早に向かった先に広がっていたのは、ビルの言う通り、空の色を連想させる可憐なフリージアが咲き乱れるバックガーデンだった。
だが、それだけではなく、澄んだ水を湛え、水晶みたいな石が水面からいくつも顔を出している池も、屋敷の裏手にはあった。
(あれは何の木だろ……?)
綺麗に整備された芝生を踏み締めながら、葉以外は何も生やしていない木々に近づいていく。
葉の形状は椿のものに似ているものの、椿ならば今の時期はまだ咲いているはずだ。枯れかけて落ちた花も見当たらないから、おそらくこの木は椿の木ではないのだろう。
(もしかして、夏椿の木かな……?)
そうだとしたら、嬉しい。
サラの名は、夏椿の別名――沙羅の花が由来なのだと、母から聞いたことがある。だから、サラは昔から夏椿の花が大好きだった。
自分が初代殺め姫のクローンだったと判明した今、もしかしたら単にオリジナルと同じ名を授けられただけかもしれないとも思う。
しかし、だからといって、夏椿の花が大好きだという気持ちまで消えてなくなるわけではない。
まだ花をつけていない木々を眺めつつ歩いていくと、どこまでも続いているように見える小道を発見した。
浮島の地形の関係上、そんなに長い道がまっすぐに伸びているわけがないのに、一体どうなっているのかと、好奇心がくすぐられる。
胸を弾ませながら、アーチ状の茂みの小道へと入っていったら、何故か前方にサラの姿がはっきりと見えた。
もしかしてという思いに突き動かされ、遠慮なく小道を進んでいけば、サラの予想通り、もう一人の自分にどんどん近づいていく。
やがて、自分自身の顔に限界まで近づくと、そっと指先を伸ばす。すると、もう一人のサラも全く同じ行動を取った。
(なるほど……小道の奥に鏡を嵌め込んで、実際よりも奥行きがあるように見せてるんだ)
鏡の表面を指先でつんつんと突きつつ、ビルが教えてくれた「ちょっとした仕掛け」とはこのことだったのかと、深く納得した。
仕掛けの正体がわかってしまえば、大したことがないように思えてしまうが、目の錯覚を成り立たせるには、鏡面をぴかぴかに磨かなければならない。
しかも、野外に置かれているそれなりの大きさの鏡を、これだけ美しく保つのは至難の業に違いない。自動人形の苦労が、充分過ぎるほど窺い知ることができる。
踵を返して小道から出ると、今度は池の畔に建てられた小さなログハウス――サマーハウスの中を、ガラス扉越しに覗き込む。
上から見て八角形になっているはずのサマーハウスの中は、出入り口以外の壁には大きな窓ガラスが嵌め込まれており、充分に日光を取り入れられるため、非常に明るい。
その上、座り心地の良さそうなスプリンググリーンの二人掛けと一人掛けのソファや、ベージュのテーブルも配置されているから、読書やアフターヌーンティーが楽しめそうだ。
中は無人なのに、テーブルの上には真っ白で華奢な花瓶が置かれており、フリージアの花が生けられている。
しばらく誰もここを使っていなかったはずなのに、清潔に保たれている様子が窺え、自動人形の働きぶりに自ずと敬意を覚えた。
試しにドアノブを握って扉を押したら、簡単に開いた。しかし、勝手に中に入る気にはなれなくて、すぐに扉を閉める。
そして、ぐるりと辺りを見渡せば、再び水晶のごとく美しく透き通った石が突き出た池が目に留まる。
改めて周囲を見回してみたものの、屋敷の裏手には今、サラ以外には誰もいないみたいだ。
外に出てからずっと持っていた日傘を畳み、芝生の上にそっと置くと、童心に返ったサラは池に向かって一直線に走り出した。
***
「――サラ姫さまなら、今は庭の散策中のはずですよ」
急遽入った用事を済ませたシュウは、サラに渡したいものがあったから、月影邸まで足を運んだのだが、間が悪いことに会いたかった相手は屋敷の中にいなかった。
飛行カプセルの発着場からここまで歩いてきたものの、サラの姿はどこにも見当たらなかった。
サラは飛行カプセルの操縦ができないため、自力での他の浮島への移動は不可能だ。
そうなると、サラがいるのは月影邸の裏手だと考えるのが妥当だろう。
「教えてくれてありがとう、リーチェ。屋敷の裏手を、ちょっと覗いてみる」
「かしこまりました、あとでお飲み物を用意いたしますね」
「ああ、助かる」
「それにしても……シュウさま。いくら私とレイラ姫さまが焚き付けたとはいえ、随分と張り切ってご用意されましたね?」
苦い笑みを零すクラリーチェの視線の先には、シュウが運び込んだ大小様々な箱を持っていく自動人形たちの姿があった。
「……サラにプレゼントなんて、十年以上前に誕生日にあげたのが最後だったからな」
だから、会えなかった間の誕生日プレゼントも兼ねて用意した結果、つい気合いが入ってしまったのだと暗に伝えれば、クラリーチェは微笑ましそうに頬を緩めた。
「あら。幼い頃から、女の子へのプレゼントを怠らなかったとは、感心ですね」
「あの頃は、大したもんは渡せなかったけどな」
「大切なのは、プレゼントの質でも量でもなく、相手を想って選ぶ気持ちですよ」
にこにこと微笑むクラリーチェを眺めているうちに、だんだんと気恥ずかしさを覚え、片手を挙げてさっさとその場を立ち去る。
屋敷の裏手へと続く道を足早に歩いていたら、ふと水のように透き通った笑い声が柔らかな春風に乗って聞こえてきた。
シュウの心を自然と揺さぶる声に誘われるように、より一層歩調を速めてバックガーデンに顔を出した直後、思わず息を呑んでしまった。
池の水面から顔を覗かせている無色透明な石から石へと、サラが軽やかな足取りで飛び移っていたのだ。
一見危なっかしいのに、絶妙なバランス感覚を持っているらしく、池に落ちる気配は微塵もない。
サラがうさぎみたいに飛び跳ねる度に、プルシャンブルーのロングスカートの裾がふわりと翻り、エメラルドとゴールドのループタイや黒いベルベットのリボンが楽しそうに揺れ、栗色の艶やかな髪が靡く。
そして何より――紅潮した柔らかそうな頬や、本物の宝石みたいにきらきらと輝くエメラルドの双眸が、シュウの目を奪っていく。
もし、この世に妖精が実在したならば、シュウの視線の先にいる可憐な少女がそうではないのかと思うほどの、幻想的な光景がそこには広がっていた。
惚けたように目の前に広がる光景に魅入られていたら、不意にエメラルドの瞳がシュウを捉えた。
空色の眼差しとエメラルドの眼差しが絡み合った途端、サラが驚愕に目を見開いたかと思えば、つい先刻までバランスを保っていた身体がぐらりと揺れる。
シュウが咄嗟に足を一歩踏み出した直後、サラは派手な水飛沫を上げながら池に落ちた。
「――サラ!」
池の水深は、それほどない。せいぜい、サラの膝に届くかどうかというくらいだ。
でも、サラは池の底に両手と両膝を突いたまま、俯いてぴくりとも動かない。
もしかして、池に落ちた拍子にどこか怪我でもしたのかと、ネイビーブルーのスニーカーやチャコールグレーのスラックスが濡れるのも厭わず、ぱしゃぱしゃと水を掻き分けつつ、サラの元へと駆け寄っていく。
その場にしゃがみ込み、サラの顔を覗き込もうとした矢先、下を向いていたその顔が勢いよく上げられた。
「ち……違うの! わたし、普段はこういうことしたり、こんなドジを踏むような人間じゃなくて……っ! シュウがいることに全然気づかなかったから、それでびっくりしちゃって、落ちただけなの!」
そうかと思えば、先程の比ではないくらい頬を真っ赤に染め、大きなエメラルドの瞳を潤ませながら、懸命にそう言い募ってきた。
どうやら、先刻のあの場面を見られたことは、サラにとって相当恥ずかしいことだったみたいだ。
だがシュウとしては、濡れた白いブラウス越しに透けて見える空色の下着をまずどうにかしろと、声を大にして主張したかった。
どうして、よりによって濡れ鼠になる時に限って、サラは透けやすい色合いの服を着ているのか。
レイラやクラリーチェほどではないにしろ、サラの胸も結構大きい。
しかも、全く違う理由とはいえ、頬を赤らめつつ恥じらっているものだから、余計に質が悪い。
「……ほら。そんなとこで這いつくばってないで、さっさと上がるぞ。風邪ひくだろ」
きつく眉根を寄せつつも腰を上げ、サラに手を差し伸べる。
しかし、サラはシュウの手は取らず、あくまで自力で立とうとした。
「ひ、一人で立てる――」
言葉の途中で、再びバランスを崩したサラの身体が先程よりも盛大な水飛沫を撒き散らしながら池の中にうつ伏せに倒れ込んだ。
きっと水底の石にでも足を引っかけ、滑って転んだに違いないが、こんなコミカルな光景を現実で目撃したことなんて、そうそうない。
だから、笑ったらサラに悪いと思いつつも堪えきれなくて、つい吹き出してしまった。
咄嗟に右手の甲で口元を隠したものの、肩の震えが全然収まらないのだから、意味がない。
笑いが止まらないシュウに、上体を起こしたサラが怒り出すかと思いきや、何故かぽかんと口を開けてこちらを凝視してきた。
それから、やはりどうしてかはわからないものの、笑いを堪えられなかったシュウに向かって、サラがふわりと花が綻ぶような笑顔を見せた。
あまりの愛くるしさに、思わず喉の奥で笑っていたことも忘れて見つめたら、サラはゆっくりと立ち上がり、両手を水の中に入れた。
そして間髪入れず、両手で掬い上げた水をシュウの顔面に直撃させたのだ。
予想だにしていなかった攻撃を躱せず、目や鼻、それから口に水が入り、今さらながら片腕で顔を庇いながら咳き込むシュウの耳を、悪戯が成功したサラの弾けるような笑い声がくすぐっていく。
「――やったぁ! 奇襲、大成功!」
口の中に入った水を吐き捨て、忙しなく瞬きをしてから顔を上げれば、両手を上げて無邪気に笑うサラの姿が視界に映る。
幼少期を思い出させる笑顔が、懐かしくて。オリジナルのサラならば絶対にしなかった悪戯が、新鮮で目が離せない。
あまりにも天真爛漫なサラの様子に思わず毒気を抜かれた代わりに、シュウの胸にも童心が返ってきた。
シュウが腰を屈めて両手を水中に差し入れるのとほぼ同時に、サラも臨戦態勢に入る。
その直後、別に互いに示し合わせたわけでもないのに、二人同時に池の水を浴びせ合った。
まだ三月の水は冷たく、体温を奪っていくばかりで、決して心地良いものではない。
でも、何故か心が浮き足立ち、楽しくて仕方がなかった。
サラも同じ気持ちなのか、耳に心地良い笑い声を上げている。
スニーカーやスラックスだけではなく、黒いワイシャツもびしょ濡れになってしまったが、ここまで来たら、いっそ開き直ってとことん楽しまなければ損だ。
やはりサラも同じ気持ちみたいで、互いに次の攻撃を仕掛けようとした寸前、唐突に冷え冷えとした声を浴びせられた。
「――あらまぁ……随分と大きな子供が二人もいますね」
ぎこちない動きで振り向くと、鮮やかに色づいた扇情的な唇が弧を描いたクラリーチェが、季節外れの水遊びに興じていたシュウたちを、冷ややかに見据えていた。
全く笑っていない琥珀の眼差しに晒されていると、先刻までの高揚感が急速に萎んでいく。
すると、サラの小さなくしゃみの音がすぐ聞こえてきた。
「ほら、水遊びの続きは四ヶ月後にして、早くそこからお上がりくださいな。お風邪を召されても知りませんよ」
冷静に諭す自動人形の言葉に耳を傾けているうちに、実年齢相応の精神年齢を取り戻した二人は、すごすごと池から上がっていった。




