第99話 王太子殿下、まだ答えのない話へ結論を急がない
誰かが話を始めた時、その話には答えが必要だと思うことがあります。
困っているなら解決策を。
迷っているなら判断を。
不安なら安心できる言葉を。
失敗したなら次の方法を。
相手が言葉を探している間に、何を返せばよいか考え始める人もいるでしょう。話を聞くことより、役に立つ答えを用意することへ意識が向くのです。
もちろん、答えを求めて話す人もいます。
「どうすればよいと思いますか」
「どちらを選べばよいでしょう」
「何か方法はありませんか」
そう尋ねられたなら、一緒に考えることは大切です。
けれど、人が誰かへ話す理由は、それだけではありません。
まだ自分でも何を思っているのか分からない。
結論を出す前に、声へ出して確かめたい。
嬉しいのか、寂しいのか、悔しいのか、そのどれなのかも整理できていない。
ただ、聞いてほしい。
そういう話もあります。
その時、聞く側が急いで意味をまとめてしまえば。
「つまり、こういうことですね」
「なら、こうすればよいでしょう」
「それは心配しなくて大丈夫です」
相手がまだ言葉にしていないところまで、先に答えが置かれてしまいます。
王太子殿下は、答えを出すことに慣れていました。
王国の会議では、結論が必要です。
判断を保留したままでは、動けない人がいます。
予算。
人員。
日程。
責任。
誰かが決めなければ、次へ進まないことが多くあります。
だから殿下は。
話を聞くと、すぐに考えます。
何が問題なのか。
どの選択肢がよいのか。
誰へ何を任せるのか。
いつまでに決めるのか。
それは王太子として、とても重要な力です。
しかし。
好きなご令嬢が、まだ自分でも答えの分からない話をしようとしている時。
王太子としての結論は、少しだけ待たなければなりません。
前日。
殿下とご令嬢は、噴水の前で同じ景色を見ました。
会話が止まっても、すぐに次の話題を入れず、何も話さない時間を一緒に過ごしました。
そして、その翌日。
ご令嬢は殿下へ、ある話をしようと決めました。
研究の相談ではありません。
困り事の報告でもありません。
助けてほしいという話でもありません。
ご令嬢自身も、何を答えにしたいのか分かっていない話でした。
王太子殿下。
本日は、かなり難しい日です。
何かよいことを言おうとせず。
相手が話し終わる前に意味を決めず。
聞いたことを、そのまま持って帰らなければなりません。
◇
朝の学園には、前夜から続く穏やかな風が吹いていました。
空には薄い雲が広がっていますが、雨の気配はありません。朝日が雲を通して柔らかく差し込み、校舎裏の木々や古い木製ベンチを、淡い銀色に照らしていました。
マリアがいつもの場所へ向かうと、殿下はすでに座っていました。
今日は紙もありません。
手帳も開いていません。
王宮の資料も、研究会用の確認項目も、会話候補も見当たりません。
殿下はただ、両手を膝の上へ置き、風に揺れる枝を見ています。
「おはようございます、殿下」
「ああ。おはよう、マリア」
「今日は何も持っていないのですね」
「本は鞄にある」
「相談用の紙です」
「ない」
「四十三個の話題候補も?」
「置いてきた」
「かなり成長しましたね」
「受け取る」
マリアが隣へ座ると、殿下は少しだけ得意そうな顔をしました。
「昨日、沈黙した」
「聞きました」
「ご令嬢と」
「はい」
「かなり長く」
「十秒ほどでしょうか」
「数えていない」
「さらに成長しています」
「受け取る。全部」
殿下は一度、木々の方へ視線を戻しました。
「私は昨日、何も話さなくても一緒にいられた」
「はい」
「かなりよかった」
「はい」
「だから今日は」
殿下が少し間を置きます。
「何も話さなくても大丈夫だと思う」
マリアはすぐには褒めませんでした。
「殿下」
「何だ」
「今日も同じとは限りません」
「ああ」
「昨日の沈黙がよかったからといって、今後は話さなくてよいということではありません」
「分かっている」
「本当に?」
「かなり話したい」
「では大丈夫そうです」
殿下は少し不満そうでした。
「私は、昨日学んだことを使おうとした」
「はい」
「でも使いすぎると違う?」
「何でもそうです」
「かなり難しい」
「殿下は、一つできると、それを正しい方法として固定しようとしますから」
「ああ」
「昨日は、噴水を見ながら黙っていられた」
「はい」
「今日は、ご令嬢が話したいことを持っているかもしれません」
「ああ」
「その時は聞いてください」
「何か助言が必要なら?」
「求められたら」
「かなり待つ」
殿下は少し考えました。
「マリア」
「はい」
「人は、答えが欲しくなくても話す?」
「話します」
「なぜ?」
「自分の中だけでは分からないことを、言葉へして確かめるためです」
「聞く者は何をする?」
「聞きます」
「それだけ?」
「場合によりますが、まずは」
「かなり少ない」
「殿下」
「何だ」
「以前も同じことを言いました」
「相談の時?」
「はい」
「聞く。必要なら一緒に考える」
「ああ」
「でも今日は、考えなくてもよい話かもしれません」
「どう見分ける?」
「尋ねてください」
「何を?」
「何か答えが必要ですか、と」
殿下は、その言葉を何度か頭の中で繰り返しているようでした。
「答えが必要?」
「はい」
「かなり直接的では?」
「殿下には、そのくらいがよいと思います」
「ご令嬢が傷つかない?」
「言い方を柔らかくしてください」
「どう?」
マリアは少し考えました。
「今は、聞くだけでよいですか」
殿下は小さく頷きました。
「それなら言える」
「はい」
「答えを求められていなければ?」
「最後まで聞いてください」
「途中で分かっても?」
「殿下が分かったと思っているだけかもしれません」
「ああ」
「結論が見えても?」
「ご令嬢の結論とは限りません」
「ああ」
「かなり我慢する」
「今日の課題ですね」
「また増えた」
◇
植物研究会では、朝の測定が終わっていました。
新しく作った厚紙の測定台は、昨日より使いやすくなっています。三人で同じ葉を測り、誤差は一ミリほど。作業時間も二十四分で、決めた三十分以内に収まりました。
大きな問題はありません。
ただし、一枚の葉だけ、前日より角度が大きく変わっていました。
「光の方へ向いた?」
「昨日、鉢を少し回したよね」
「何時?」
「放課後」
「時間も関係あるかも」
「記録しよう」
研究会員たちは慣れた手つきで書き込みます。
発表会前のような張り詰めた空気はありません。失敗を隠さず、分からないことをそのまま残し、必要なら後で考える。そうした進め方が、少しずつ研究会の中へ根づき始めていました。
ご令嬢は、記録用紙の端へ日付を書きながら、時々手を止めていました。
「どうしたの?」
四十秒の説明を担当した女生徒が尋ねます。
「何でもありません」
「三回くらい止まってる」
「少し考え事を」
「研究?」
ご令嬢はすぐには答えませんでした。
「殿下?」
別の会員が尋ねると、部屋の何人かがこちらを見ます。
「なぜ、すぐ殿下なのですか」
「顔が研究の時と違う」
「どんな顔です?」
「答えがない顔」
ご令嬢は少し驚きました。
「分かるのですか?」
「最近、皆で話し合うことが増えたから」
「迷ってる時、少しだけ紙を揃え直す」
「今も三回揃えた」
机の上の記録用紙は、確かに端がきれいに揃えられていました。
ご令嬢は少し恥ずかしそうに手を離します。
「昨日」
「はい」
「殿下と、噴水を見ました」
「聞いた」
「もう広がっているのですね」
「中庭だから」
「沈黙したんでしょう?」
「はい」
「どうだった?」
ご令嬢は、すぐには答えませんでした。
「落ち着きました」
「かなり?」
「かなり」
会員たちが笑います。
「それで、何を迷ってるの?」
「……その時」
ご令嬢は少し言葉を探しました。
「殿下と一緒にいることが、以前より自然だと思いました」
部屋が少し静かになりました。
「いいことじゃない?」
「はい」
「なら、何が気になるの?」
ご令嬢は手元の記録用紙を見ました。
「嬉しいです」
「うん」
「でも、少し怖いです」
「何が?」
「近くなりすぎることが」
研究会員たちはすぐに言葉を挟みませんでした。
以前なら、殿下ほど身分の高い方と親しくなることへの恐れだと考えたかもしれません。もちろん、それもあります。学園内の噂。王宮の視線。将来の立場。研究への影響。
けれど、ご令嬢が今感じているものは、それだけではないようでした。
「殿下は、かなり変わろうとしてくださっています」
「うん」
「私が嫌だと言えば止まってくださる」
「うん」
「待ってくださるし、失敗しても意味を決めずに聞いてくださる」
「うん」
「それが嬉しいです」
「うん」
「だから」
ご令嬢は一度、息を吸いました。
「私も、殿下へ近づきたくなります」
小さなどよめきが起こりました。
「かなり告白に近い」
「違います」
「かなり?」
「違います」
ご令嬢の頬が赤くなりましたが、すぐに真面目な表情へ戻ります。
「でも、私が近づいたら」
「うん」
「殿下は、もっと期待されると思います」
「それは、そうかも」
「毎日会いたいと思われるかもしれない」
「殿下なら思う」
「かなり」
「でも、約束にはしないよう頑張ってる」
「はい」
ご令嬢は少しだけ笑いました。
「分かっています。でも、殿下が我慢されることばかり増えるのも」
「嫌?」
「分かりません」
その言葉に、部屋が再び静かになりました。
「私は、殿下に無理をさせたいわけではありません」
「うん」
「でも、以前のように全部決められるのも困ります」
「うん」
「近づきたい。でも、近づいたら殿下へ期待させる」
「うん」
「期待されるのが嫌なの?」
ご令嬢は首を横へ振りました。
「全部が嫌ではありません」
「じゃあ、嬉しい?」
「嬉しい時もあります」
「怖い時も?」
「はい」
四十秒担当の女生徒が、少し考えてから尋ねました。
「殿下に、その話する?」
「……した方がよいでしょうか」
「答えが欲しい?」
ご令嬢は黙りました。
今の自分の気持ちを整理しようとするように、机の上へ視線を落とします。
「分かりません」
「それなら、答えをもらうためじゃなくて、聞いてもらう?」
「殿下は、答えを出そうとされると思います」
「かなり」
部屋に小さな笑いが起きました。
「でも最近、待てるようになった」
「かなり」
「伝えてみてもいいんじゃない?」
ご令嬢は窓の外を見ました。
中庭の向こうに、生徒会棟の屋根が見えます。
「今日」
ご令嬢は静かに言いました。
「会えたら、話してみます」
◇
午前の授業が終わったあと。
殿下は廊下で、数人の生徒から囲まれていました。
正確には、囲まれているというほど近くはありません。王太子への礼儀を保った距離から、昨日の噴水の件について尋ねられていました。
「殿下、昨日は中庭でかなり長く話されていたそうですね」
「ああ」
「途中で黙っていたとも」
「ああ」
「喧嘩ではない?」
「違う」
「どちらかが怒っていた?」
「違う」
「では何を?」
「噴水を見ていた」
生徒たちは顔を見合わせました。
「それだけですか?」
「ああ」
「気まずくなかった?」
「最初は少し」
「殿下も?」
「かなり」
笑いが起こりました。
「でも、ご令嬢は嫌ではなかった?」
「ああ」
「殿下も?」
「ああ」
「かなり進みましたね」
「何が?」
「恋愛です」
殿下の表情が固まりました。
「進んだ?」
「かなり」
「どの程度?」
ハインツがすぐに割って入りました。
「殿下。数値化しないでください」
「確認しただけだ」
「また進捗率を出します」
周囲から笑いが広がります。
「殿下」
一人の女生徒が、少し真面目な声で尋ねました。
「沈黙していても、一緒にいられると分かったら、次は何をするのですか?」
殿下はすぐには答えませんでした。
「何も決めていない」
「珍しい」
「昨日のことを、次の方法へしないよう言われた」
「ああ」
「毎回黙るわけではない?」
「ああ」
「次は普通に話す?」
「会ってから決める」
生徒たちが少し驚いた顔をしました。
「殿下が、会ってから?」
「ああ」
「予定なしで?」
「ああ」
「かなり成長しています」
「受け取る」
しかし、殿下の顔には、少しだけ別の不安も残っていました。
「ただ」
「何です?」
「昨日、ご令嬢は私と一緒に噴水を見てよかったと言った」
「はい」
「今日は、違うかもしれない」
「はい」
「私は、昨日より近くなったと思ってよい?」
生徒たちは互いの顔を見ました。
簡単には答えられない問いです。
「ご令嬢へ聞けばよいのでは?」
一人が言いました。
殿下は少し考え、首を横へ振りました。
「今、聞くと」
「はい」
「答えを求めることになる」
「はい」
「ご令嬢もまだ分からないかもしれない」
ハインツが、少し驚いたように殿下を見ました。
「殿下」
「何だ」
「かなり分かってきましたね」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
◇
昼休み。
中庭には、昨日より少し強い風が吹いていました。
噴水の水面は細かく揺れ、時折小さな雫が石の縁を越えて落ちています。木々の下では生徒たちが昼食を広げ、購買から戻ってきた者たちが空いたベンチを探していました。
殿下は一人ではありません。
ハインツと数人の生徒会役員が一緒です。
それでも、歩きながらご令嬢の姿を探していることは、隠しきれていませんでした。
「殿下」
「何だ」
「今日は研究会棟ではなく、図書室の方を見ていますね」
「昨日、あの本を読んでいた」
「読み終えたら殿下へ知らせると?」
「ああ」
「待っていますか?」
「かなり」
「でも急かさない?」
「ああ」
その時、図書室の方角からご令嬢が歩いてきました。
昨日と同じ本を持っています。
殿下へ気づくと、足を止めました。
少し迷っているようにも見えましたが、やがて殿下の方へ歩いてきます。
「こんにちは、殿下」
「こんにちは」
「お時間はありますか?」
殿下の表情が少し変わりました。
「ある」
「少し、お話ししたいことがあります」
ハインツと生徒会役員たちが、静かに距離を取りました。
周囲の生徒たちも、何か雰囲気が違うことへ気づいたのでしょう。露骨に近づく者はいませんが、何人かの視線がこちらへ向いています。
「どこで?」
殿下が尋ねました。
「昨日の噴水でもよいでしょうか」
「ああ」
二人は並んで歩き始めました。
噴水の近くには、昨日と同じように陽射しが水面へ反射しています。
しかし今日は、すぐには景色を見ません。
ご令嬢は本を胸元へ抱えたまま、言葉を探していました。
殿下も急かしません。
一秒。
二秒。
三秒。
昨日なら、沈黙へ次の話題を入れたくなったでしょう。
今日は、ご令嬢が話そうとしていると分かっています。
「殿下」
「何だ」
「今から話すことは」
ご令嬢は一度、殿下を見ました。
「自分でも、まだよく分かっていません」
「ああ」
「だから、うまく話せないかもしれません」
「ああ」
「それでもよいですか?」
「もちろん」
殿下はそう答えたあと、朝のマリアとの会話を思い出しました。
「一つ、聞いてよい?」
「はい」
「今は」
殿下は少し言葉を選びます。
「聞くだけでよい?」
ご令嬢の目が、僅かに大きくなりました。
「はい」
「答えや方法は?」
「今は、まだ」
「ああ」
「ただ、聞いていただきたいです」
「分かった」
殿下は噴水の縁から少し離れた場所へ立ちました。
座るよう勧めることも、話しやすい順番を尋ねることもしません。
ご令嬢が自分の速さで話し始めるのを待ちます。
「昨日」
ご令嬢が静かに口を開きました。
「殿下と、何も話さない時間を過ごしました」
「ああ」
「私は、落ち着きました」
「ああ」
「以前なら、殿下と二人でいるだけで、何を話せばよいか考えていたと思います」
「ああ」
「失礼がないか。期待されている答えを返せているか。研究のことを聞かれたら、きちんと話せるか」
殿下の表情が少し曇りました。
謝りたくなったのでしょう。
けれど、口を挟みませんでした。
「昨日は」
ご令嬢は続けます。
「それを、あまり考えませんでした」
「ああ」
「殿下と一緒に噴水を見ていてもよいと思えました」
風が吹き、水面の光が二人の足元へ揺れました。
「それは、とても嬉しかったです」
「ああ」
「でも」
ご令嬢の声が少し小さくなります。
「少し、怖くなりました」
殿下の指先が動きました。
何が怖いのか。
自分が何かしたのか。
今すぐ尋ねたかったでしょう。
しかし、ご令嬢はまだ話の途中です。
「私は、殿下へ近づきたいと思い始めています」
殿下の呼吸が止まりました。
周囲の音が急に遠くなったように感じられました。
しかし、ご令嬢はそこで殿下を見ません。
水面へ視線を落とし、自分の言葉を確かめるように続けます。
「以前は、殿下が近づいてこられることを、どう受け取ればよいか分かりませんでした」
「ああ」
「嬉しいと思う前に、困ることが多かったです」
「ああ」
「予定を決められたり、答えを用意されたり、皆の前で言葉を増やされたり」
「ああ」
「殿下」
ご令嬢が少しだけ殿下を見ました。
「今、かなり反省していますか?」
「ああ」
「顔に出ています」
「すまない」
殿下は、そこで一度だけ言いました。
「でも、今は謝っていただく話ではありません」
「ああ」
「続けてよい?」
「もちろん」
ご令嬢は小さく息を吸いました。
「今の殿下は、待ってくださいます」
「ああ」
「嫌だと言えば止まってくださる」
「ああ」
「私が自分で決めることを、以前より信じてくださる」
「ああ」
「だから、私も」
ご令嬢は胸元の本を少し強く抱きました。
「もう少し近くへ行ってもよいのではないかと思うようになりました」
殿下は何も言いませんでした。
言えば、かなり多くのものが出てしまいそうだったからです。
「でも」
ご令嬢は続けます。
「私が近づけば、殿下は期待されると思います」
「ああ」
「明日も会いたいと」
「ああ」
「もっと話したいと」
「ああ」
「私にも、同じ気持ちを返してほしいと」
殿下は少しだけ目を伏せました。
「私は、期待する」
小さな声でした。
「知っています」
「かなり」
「はい」
「だが、今は聞くだけだった」
「はい」
ご令嬢は少し笑いました。
「ありがとうございます」
それから、また少し沈黙します。
「私は」
ご令嬢はゆっくり言葉を探しました。
「殿下の期待が全部嫌なわけではありません」
殿下の目が僅かに動きました。
「会いたいと思っていただけることは、嬉しいです」
「ああ」
「話したいと思っていただけることも」
「ああ」
「私のことを知りたいと思ってくださることも」
「ああ」
「でも、毎日同じように返せるかは分かりません」
「ああ」
「今日は近づきたいと思っても、明日は研究へ集中したいかもしれません」
「ああ」
「昨日は沈黙が心地よくても、別の日には一人でいたいかもしれません」
「ああ」
「それを、殿下へどう伝えればよいのか」
ご令嬢は困ったように笑いました。
「まだ分かりません」
殿下は、そこで初めて少し長く息を吐きました。
答えが見えています。
たぶん。
「そのままでよい」
言いたい。
「毎日違ってもよい」
言いたい。
「私は待つ」
言いたい。
「全部受け入れる」
言いたい。
けれど、それらは殿下の答えです。
ご令嬢は、今はまだ答えを求めていません。
「殿下」
「何だ」
「何か、言いたそうですね」
「かなり」
「我慢されていますか?」
「かなり」
ご令嬢は少し笑いました。
「今は、聞いていただきたいです」
「ああ」
「もう少しだけ」
「ああ」
ご令嬢は本の表紙へ視線を落としました。
「私は、殿下が変わろうとしてくださることを嬉しいと思っています」
「ああ」
「でも、その変化が全部、私のためだけだとしたら」
殿下の表情が僅かに固まりました。
「少し、重いとも思います」
その言葉を口へするのは、かなり勇気が必要だったのでしょう。
ご令嬢の指が、本の端を強く押さえています。
「私が殿下へ近づかなかったら」
「ああ」
「殿下が学んだことまで、意味がなくなるように感じてほしくありません」
「ああ」
「私が最後に殿下を選ばなかったら」
殿下の呼吸が止まりかけました。
「殿下が待ったことも、我慢したことも、全部無駄だったと思ってほしくないです」
風が少し強く吹きました。
噴水の水が細かな雫となって、石畳へ散ります。
殿下は、かなり痛そうな顔をしました。
けれど、否定しません。
「私は」
ご令嬢の声も少し震えていました。
「殿下へ近づきたいと思っています」
「ああ」
「でも、必ず殿下が望むところまで行けるとは、まだ言えません」
「ああ」
「それでも、今の気持ちをお伝えしてよいのか」
ご令嬢は、ようやく殿下をまっすぐ見ました。
「分かりません」
そこで、話は止まりました。
ご令嬢自身にも、続きがないのでしょう。
結論がない。
何をしてほしいのかも、まだ決まっていない。
ただ、今の気持ちを殿下へ渡しました。
殿下は、すぐに答えませんでした。
言葉はいくつもあります。
安心させたい。
約束を求めないと言いたい。
たとえ選ばれなくても、学んだことは無駄ではないと伝えたい。
好きだと。
それでも好きだと。
言いたい。
けれど、今は聞くだけでよいと確認しました。
殿下は、ゆっくり息を整えました。
「話してくれて」
それだけを、まず口にしました。
「ありがとう」
ご令嬢の表情が少し揺れました。
「今は」
殿下は続けます。
「それだけでよい?」
ご令嬢はしばらく殿下を見ました。
そして、静かに頷きました。
「はい」
「ああ」
また沈黙が落ちました。
昨日とは違います。
穏やかなだけの沈黙ではありません。
言葉にされた不安と、殿下が返さずに持っている答えが、二人の間にあります。
それでも、ご令嬢は立ち去りませんでした。
殿下も急いで話しません。
「殿下」
少しして、ご令嬢が呼びました。
「何だ」
「今、何を考えていますか?」
殿下は迷いました。
「答えてよい?」
「少しだけ」
「ああ」
殿下は言葉を選びました。
「かなり怖い」
ご令嬢が僅かに目を見開きました。
「何がですか?」
「あなたが、最後に私を選ばないかもしれないこと」
「はい」
「かなり怖い」
「はい」
「すぐに、選んでほしいと言いたくなった」
「はい」
「私は大丈夫だと伝えたくなった」
「はい」
「どんな日も待てると、今すぐ約束したくなった」
「はい」
「でも」
殿下は一度、噴水へ視線を向けました。
「それは、今のあなたの話へ、私の答えを被せることになる」
ご令嬢は静かに聞いています。
「だから」
殿下は再びご令嬢を見ました。
「今日は、怖いまま持って帰る」
「……よろしいのですか?」
「よくない」
殿下は正直でした。
「かなり苦しい」
「はい」
「でも、あなたがまだ分からないと言った」
「はい」
「なら、私は今、分からないままのあなたを聞く」
ご令嬢の目が、少しだけ潤んだように見えました。
「殿下」
「何だ」
「ありがとうございます」
「ああ」
「それから」
「何だ」
「私も、怖いです」
「ああ」
「殿下へ近づいて、後で違うと思ったら」
「ああ」
「殿下を傷つけます」
「ああ」
「だから、近づかない方がよいのではないかと思う時もあります」
殿下の表情が揺れました。
「それは」
言いかけて、止まります。
「今は聞く?」
ご令嬢が少し笑いました。
「ああ」
「かなり我慢していますね」
「かなり」
ご令嬢は、ほんの少しだけ殿下へ近づきました。
一歩ではありません。
半歩ほどです。
それでも、二人の間の距離は少し変わりました。
「今日は」
ご令嬢が静かに言いました。
「ここまで近づきたいです」
殿下は動きませんでした。
さらに近づこうともしません。
「分かった」
「明日は、分かりません」
「ああ」
「それでも?」
殿下は少しだけ笑いました。
「今日は、今日のあなたを受け取る」
ご令嬢の表情が、ゆっくり柔らかくなりました。
「はい」
◇
二人は噴水の前で、しばらく同じ景色を見ました。
昨日と同じように。
けれど、昨日とは違う時間でした。
ご令嬢は殿下へ近づきたいと話しました。
同時に、近づくことが怖いとも話しました。
殿下の期待が嬉しい。
でも、毎日同じように返せるとは限らない。
殿下が変わろうとしていることは嬉しい。
でも、その変化が全て自分へ向けられているなら重い。
最後に殿下を選ぶと、まだ約束できない。
それでも、今は少し近くにいたい。
どれか一つへまとめられる話ではありませんでした。
好きなのか。
嫌なのか。
進みたいのか。
止まりたいのか。
殿下なら、以前はどれかへ決めようとしたでしょう。
「つまり、好意はある」
「なら、ゆっくり進めばよい」
「毎日違っても構わない」
「最後に選ばれなくても、この学びは残る」
正しいかもしれない言葉は、いくつもあります。
しかし今日は、言いませんでした。
ご令嬢の中にある矛盾を。
矛盾のまま聞きました。
「そろそろ」
ご令嬢が、少しして口を開きました。
「戻りましょうか」
「ああ」
「殿下は、生徒会室ですか?」
「ああ」
「私は図書室へ本を返します」
「ああ」
二人は噴水から離れました。
並んで歩きます。
先ほど、ご令嬢が半歩近づいた距離のままです。
殿下は、それ以上近づきません。
図書室の前へ着くと、ご令嬢は持っていた本を殿下へ差し出しました。
「読み終わりました」
「本当に?」
「はい」
「借りてよい?」
「お約束しましたから」
「ありがとう」
殿下は両手で本を受け取りました。
「感想は?」
「まだ、お話ししていませんね」
「ああ」
「今度」
ご令嬢が言いかけると、殿下は一瞬だけ反応しました。
次の予定ではありません。
待ち合わせの約束でもありません。
「話したくなった時に」
殿下が先に続けました。
ご令嬢は少し驚き、それから笑いました。
「はい」
「私は読んでおく」
「はい」
「急がない」
「ありがとうございます」
ご令嬢は図書室へ入りました。
殿下は扉の前で立ち止まりません。
本を抱え、生徒会室へ向かいました。
◇
生徒会室へ戻った殿下は、しばらく静かでした。
借りた本を机の端へ置き、書類を開きます。
けれど、いつものようにすぐ内容を読み始めることはできませんでした。
ハインツが殿下の表情を見ます。
「何かありましたか?」
「ああ」
「ご令嬢と?」
「ああ」
「よいことですか?」
殿下は少し考えました。
「分からない」
生徒会室にいた役員たちが、驚いたように殿下を見ました。
殿下が、自分の中で判断できないことを、そのまま分からないと言うのは珍しいことです。
「話せますか?」
ハインツが尋ねます。
「話してよいか分からない」
「ご令嬢の個人的な話ですか?」
「ああ」
「なら、無理に話さなくてよいでしょう」
殿下は頷きました。
「私は、かなり言いたい」
「何をです?」
「自分の気持ちを整理したい」
「ああ」
「だが、ご令嬢の話を使って整理するのは違う気がする」
ハインツの表情が少し柔らかくなりました。
「かなり大切なことへ気づいていますね」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
殿下は借りた本へ視線を落としました。
「私は今、怖い」
「はい」
「でも、嬉しい」
「はい」
「かなり近づいてくれた」
「はい」
「でも、最後まで来るとは言われていない」
「はい」
「待つと言いたい」
「はい」
「でも、待つと約束することで、待たせていると思わせるかもしれない」
ハインツはすぐに答えませんでした。
「殿下」
「何だ」
「今は、答えを出さなくてよいのでは?」
「お前まで」
「ご令嬢も、まだ答えがないのでしょう?」
「ああ」
「なら、殿下も今日中に正しい返事を完成させる必要はありません」
「王太子としては、決めたい」
「恋愛です」
「かなり違う」
「かなり」
殿下は長く息を吐きました。
「今日は、持って帰る」
「何をです?」
「怖さも、嬉しさも」
「はい」
「ご令嬢の言葉も」
「はい」
「今夜、答えを百二十七個作らないように」
「かなり重要です」
「一つも?」
「明日まで待ってください」
「厳しい」
◇
放課後の植物研究会では、ご令嬢がいつもより静かでした。
測定記録を整理し、葉の角度が変わった時間を確認します。
作業は問題なく進んでいます。
それでも、研究会員たちはご令嬢の様子が気になっていました。
「話した?」
四十秒担当の女生徒が、皆が片づけを始めた頃に尋ねました。
「はい」
「殿下に?」
「はい」
「どうだった?」
ご令嬢は記録帳を閉じました。
「聞いてくださいました」
「答えは?」
「今は、ほとんど」
「殿下が?」
何人かが驚きました。
「かなり我慢されていました」
「顔に出てた?」
「かなり」
部屋に少し笑いが起こりました。
「何て言ったの?」
ご令嬢は、すぐには答えませんでした。
殿下との話をどこまで仲間へ伝えてよいか考えたのでしょう。
「私は」
やがて、静かに言いました。
「殿下へ近づきたいと思っていることと」
「うん」
「それが怖いことを話しました」
研究会員たちは黙って聞いています。
「殿下は?」
「怖いと言っていました」
「殿下も?」
「はい」
「何が?」
「私が、最後に殿下を選ばないかもしれないことが」
部屋の空気が少し重くなりました。
「でも」
ご令嬢は続けます。
「すぐに答えを求めませんでした」
「うん」
「今日は、怖いまま持って帰ると」
四十秒担当の女生徒が、小さく息を吐きました。
「殿下、かなり変わったね」
「はい」
「ご令嬢は、楽になった?」
ご令嬢は少し考えました。
「全部ではありません」
「うん」
「でも、話してよかったと思います」
「答えは出てないのに?」
「はい」
ご令嬢は窓の外へ目を向けました。
「答えが出ていないままでも、殿下へ話せたことが嬉しいです」
◇
夕方。
校舎裏のベンチには、木々の影が長く伸びていました。
空は淡い橙色で、雲の端だけが金色に光っています。遠くから寮へ戻る生徒たちの声が聞こえ、風が吹くたび、葉が穏やかな音を立てていました。
マリアがベンチへ座ると、殿下は借りた本を膝の上へ置いていました。
まだ読み始めてはいません。
「ご令嬢とお話ししたそうですね」
「ああ」
「かなり深い話を?」
「なぜ分かる?」
「殿下の顔です」
「かなり出ている?」
「かなり」
殿下は少し俯きました。
「私は、内容を話してよいか分からない」
「話さなくて大丈夫です」
「でも、お前へ相談したい」
「ご令嬢の言葉を使わず、殿下ご自身の気持ちだけ話せますか?」
殿下は少し考えました。
「私は、嬉しい」
「はい」
「かなり」
「はい」
「でも、怖い」
「はい」
「かなり」
「はい」
「今すぐ安心したい」
「はい」
「将来も大丈夫だと、何か決めたい」
「はい」
「でも、決められない」
「はい」
「相手も、まだ分からない」
「はい」
「私は今日」
殿下は一度、息を吸いました。
「分からないと言われたことへ、答えを出さなかった」
「はい」
「かなり苦しかった」
「はい」
「だが、話をやめたくないと思われた?」
「殿下は、どう感じました?」
「最後まで話してくれた」
「はい」
「少し近づいた」
「はい」
「そのあとも、私と一緒に歩いた」
「はい」
「なら、聞き方は間違っていなかった?」
「そう思います」
殿下は本の表紙を指で撫でました。
「私は、答えを出せば安心させられると思っていた」
「はい」
「でも今日は、答えを出さない方が話せた」
「はい」
「私がまとめなかったから、ご令嬢は矛盾したまま話せた」
「はい」
「嬉しい。怖い。近づきたい。近づかない方がよいかもしれない」
「はい」
「全部?」
「全部です」
殿下は少し黙りました。
「私は、どれを本当だと思えばよい?」
「全て本当なのでは?」
「ああ」
「人の気持ちは、一つだけとは限りません」
「反省会と同じ?」
「少し似ています」
「失敗して悔しい。でも最後まで話せて嬉しい」
「はい」
「私へ近づきたい。でも怖い」
「はい」
「両方残す」
「はい」
「かなり難しい」
「でも、できます」
殿下は夕方の空を見ました。
「私は今日、かなりよいことを言いかけた」
「何でしょう」
「どんな日も、どんな気持ちも受け入れると」
「かなり大きいですね」
「ああ」
「言わなかった?」
「ああ」
「なぜ?」
「今の私が、未来の私まで決めるのは違うと思った」
マリアは少し驚きました。
「殿下」
「何だ」
「かなり分かっていますね」
「褒める?」
「かなり」
「全部?」
「全部です」
殿下は少しだけ笑いました。
「私は、今は聞ける」
「はい」
「未来も同じようにできるかは、まだ分からない」
「はい」
「だから、大丈夫だと約束するより」
「はい」
「今日、話してくれてありがとうと言った」
「かなりよいです」
「受け取る」
しばらく、二人は何も話しませんでした。
昨日とは違う沈黙です。
殿下の中には、まだ整理できない気持ちが残っています。
それでも、急いで答えを作りません。
「マリア」
「はい」
「今夜、この本を読む」
「はい」
「感想は?」
「ご令嬢が話したくなった時に」
「ああ」
「殿下から先に百項目まとめないでください」
「四十三個くらい」
「殿下」
「確認しただけだ」
◇
人が話す時。
いつも答えを求めているわけではありません。
まだ自分でも分からないことを。
言葉へしてみたいだけの時があります。
嬉しい。
でも怖い。
近づきたい。
でも距離を残したい。
期待されることは嬉しい。
でも、その期待を毎日返せるとは限らない。
どれか一つへ決めれば、分かりやすくなります。
けれど、分かりやすくするために。
まだ存在している気持ちを消してはいけません。
王太子殿下は。
ご令嬢の話を聞きました。
近づきたいと思っている。
けれど、最後に殿下を選ぶと約束はできない。
殿下が変わろうとしていることは嬉しい。
けれど、その変化が全て自分へ向けられているなら重い。
期待されることは嫌ではない。
でも、毎日同じ気持ちを返せるとは限らない。
殿下なら。
以前は、すぐに答えを出したでしょう。
「毎日違ってよい」
「待つ」
「最後に選ばれなくても、この学びは無駄ではない」
「だから安心して近づいてほしい」
どれも、優しい言葉です。
けれど今日は。
その優しさを、相手の話が終わる前へ置きませんでした。
「今は、聞くだけでよい?」
そう尋ねました。
そして。
話してくれてありがとうとだけ伝えました。
答えがない話を。
答えのないまま受け取りました。
それは、何もしなかったのではありません。
相手が自分の言葉を最後まで持てるように、結論を奪わなかったのです。
王太子殿下。
聞くことは、答えを用意するまでの待ち時間ではありません。
答えを出さずに持って帰ることも、立派な聞き方です。
ですから殿下。
今夜、ご令嬢の気持ちを整理するため、「近づきたい」「怖い」「期待は嬉しい」「毎日は分からない」の四項目へ分類した表を作るのはおやめください。
ご令嬢の心は、会議資料ではありません。
各項目へ重要度を付けることも禁止です。
「近づきたい」が四十点で、「怖い」が三十点だから、好意が優勢だと計算してはいけません。
それから。
今日答えなかった言葉を全て書き出し、次に話す機会へ備えて保管する必要もありません。
次に必要な言葉は、次の話を聞いてから考えてください。
最後に。
ご令嬢が半歩近づいてくださったからといって。
学園の石畳へ距離を記録する印を付けないでください。
今日は、今日の半歩です。
明日は、明日の距離があります。
本当にお願いします。




