第100話 王太子殿下、百回目の相談で「今の二人」を勝手に完成させない
百という数には。
なぜか。
区切りを感じる力があります。
一回目より。
十回目より。
百回目。
そこまで積み重ねたのなら、何かを完成させなければならないような気がします。
百日目。
百通目。
百回目の練習。
百回目の失敗。
百回目の成功。
ここまで来たのだから。
そろそろ答えが出てもよい。
そろそろ関係が決まってもよい。
そろそろ次の段階へ進むべきだ。
そう思いたくなります。
けれど、人と人との関係は。
数字がきれいに並んだからといって。
急に完成するものではありません。
九十九回まで分からなかったことが、百回目に必ず分かるわけではない。
昨日まで迷っていた気持ちが、節目の日だけ整うわけでもない。
百回目の相談をしたから。
王太子殿下が、好きなご令嬢と結ばれる。
そのような決まりはありません。
少なくとも。
私、マリアは。
そのような規則を作った覚えはありません。
しかし。
王太子殿下は。
百という数を知ると。
かなり区切りたくなる方です。
これまでに学んだことを整理し。
現在の関係を確認し。
今後の方針を決定し。
できれば。
「私たちは、今、どのような関係だろう」
と。
ご令嬢ご本人へ。
正式な回答を求めたくなります。
王太子殿下。
本日は、百回目の恋愛相談です。
かなり頑張りました。
たくさん失敗しました。
たくさん止められました。
少しずつ待てるようになりました。
相手の気持ちを、相手より先に決めないことも覚えました。
だからこそ。
今日までの成長を証明するために。
無理に答えを出さないでください。
百回目に完成させる必要はありません。
百回目も。
今日の一日です。
◇
朝の空は、薄い青色でした。
雲は少なく、東から昇り始めた陽が校舎の屋根を淡く照らしています。校舎裏の芝生には露が残り、木々の葉は朝の風を受けて、静かに揺れていました。
いつもの古い木製ベンチ。
そこへ向かうと。
殿下は立っていました。
座っていません。
歩き回ってもいません。
ただ、ベンチの前で。
かなり真剣な顔をしています。
手には何もありません。
紙も。
手帳も。
王宮資料も。
ご令嬢から借りた本も。
何も持っていません。
「おはようございます、殿下」
「ああ。おはよう、マリア」
「今日は何もお持ちでないのですね」
「ああ」
「珍しいです」
「百回目だからだ」
私は、殿下を見ました。
「何がですか?」
「相談」
「はい?」
「今日で、百回目だ」
「数えていたのですか?」
「ああ」
嫌な予感がしました。
「いつから?」
「最初からではない。途中で気づいて、過去の記録を確認した」
「過去の記録?」
「お前との相談内容」
「どこへ記録していたのですか?」
「手帳」
「全部ですか?」
「大まかに」
「大まか?」
「一回目、会いたい気持ちをどう伝えるか。二回目、近づく距離。三回目、待ち伏せではない待ち方。四回目――」
「殿下」
「まだある」
「分かっています」
殿下は少し不満そうに口を閉じました。
「本当に、今日が百回目なのですか?」
「ああ」
「途中で、同じ日に二回相談したこともありましたよね」
「別件なら分けた」
「短い確認も?」
「相談として成立していれば」
「殿下」
「何だ」
「かなり細かく数えましたね」
「かなり」
殿下は、少しだけ得意そうでした。
しかし。
今日。
紙を持っていない。
それは、褒めてもよいことかもしれません。
「それで」
私はベンチへ座りました。
「百回目だから、何か特別な相談があるのですか?」
「ある」
殿下も隣へ座ります。
朝の光が、ベンチの背へ細い影を作っていました。
「昨日」
「はい」
「ご令嬢が話した」
「はい」
「私へ近づきたい」
「はい」
「でも怖い」
「はい」
「最後に私を選ぶとは、まだ言えない」
「はい」
「それでも、昨日は半歩近づいた」
「はい」
殿下は、そこまで言ってから少し黙りました。
「私は」
「はい」
「今日は何をすればよい?」
「何もしなくてもよいのでは?」
殿下の表情が止まりました。
「百回目だぞ」
「はい」
「昨日、かなり大切な話をされた」
「はい」
「私は聞いた」
「はい」
「答えを急がなかった」
「はい」
「今日」
「はい」
「何か返した方がよいのでは?」
「ご令嬢は、返事を求めましたか?」
「求めていない」
「今日、続きを話す約束は?」
「していない」
「では」
「でも」
殿下は、少し強い声を出しかけました。
すぐに抑えます。
「私は、かなり考えた」
「はい」
「昨夜」
「はい」
「本も読んだ」
「ご令嬢から借りた物語ですね」
「ああ」
「どこまで?」
「最後まで」
「かなり早いですね」
「眠れなかった」
「殿下」
「読むものがあったからよかった」
「そういう問題ではありません」
殿下は少し目を逸らしました。
「物語の中で」
「はい」
「旅人は、失われた鐘を見つけた」
「はい」
「でも、持ち帰らなかった」
「そうなのですか?」
「ああ。鐘は山の村で使われていた」
「はい」
「失われたのではなく、別の場所で必要とされていた」
「はい」
「旅人は、自分が探していたから、自分のものになると思っていた」
「はい」
「でも違った」
殿下は静かに続けました。
「鐘がどこにいるかは、鐘の役割と、そこで暮らす人が決めた」
「はい」
「旅人は残念だった」
「はい」
「それでも、見つけたことは無駄ではなかった」
朝の風が吹きました。
葉の影が、殿下の膝の上で揺れます。
「殿下」
「何だ」
「ご令嬢の話と重ねましたか?」
「ああ」
「かなり?」
「かなり」
殿下は正直でした。
「私は」
「はい」
「ご令嬢が最後に私を選ばなかったら」
「はい」
「これまでのことが無駄になるのが怖い」
「はい」
「待ったこと」
「はい」
「我慢したこと」
「はい」
「自分が変わろうとしたこと」
「はい」
「全部」
「はい」
「ご令嬢と結ばれるための準備だと思っていた部分がある」
「はい」
「だから、選ばれなければ」
殿下は言葉を探しました。
「負けたように感じるかもしれない」
私は何も言わず、続きを待ちました。
「でも」
殿下は、少しだけ顔を上げます。
「昨日、ご令嬢が言った」
「はい」
「私が最後に選ばれなくても、学んだことまで無駄だと思ってほしくないと」
「はい」
「私はすぐに、大丈夫だと言いたかった」
「はい」
「でも、言えなかった」
「はい」
「本当に大丈夫か、分からなかったからだ」
それは。
以前の殿下なら。
きっと言えなかった言葉です。
正しい答えを先に置くために。
自分の本当の怖さを隠したかもしれません。
「私は」
殿下は続けました。
「まだ、大丈夫とは言えない」
「はい」
「選ばれなければ、かなり苦しいと思う」
「はい」
「怒るかもしれない」
「はい」
「悲しい」
「はい」
「しばらく何もしたくなくなるかもしれない」
「はい」
「でも」
一度、深く息を吸います。
「それでも、学んだことを全部捨てる人にはなりたくない」
「はい」
「ご令嬢へ、そう言いたい」
私は少し考えました。
「言いたいのですか?」
「ああ」
「伝えなければならないと思っていますか?」
殿下は黙りました。
「……少し」
「百回目だから?」
「ああ」
「昨日の話への返事として?」
「ああ」
「ご令嬢を安心させたいから?」
「ああ」
「殿下ご自身が、何か前へ進んだと確認したいから?」
殿下は、かなり長く黙りました。
「それもある」
「はい」
「私は」
殿下は苦い顔をしました。
「百回目だから、何か完成させたい」
「はい」
「今の二人の関係を」
「はい」
「確認したい」
「はい」
「ご令嬢は私へ近づきたいと言った」
「はい」
「私も近づきたい」
「はい」
「なら」
殿下は、一度、言葉を止めました。
「私たちは、かなり近い関係になった?」
「私へ聞くのですか?」
「相談役だ」
「ご令嬢へ聞きたい?」
「聞きたい」
「かなり?」
「かなり」
「ですが」
「分かっている」
殿下は額へ手を当てました。
「昨日、答えを急がなかった」
「はい」
「今日、関係の名前を決めたら」
「はい」
「同じことになる」
「はい」
「かなり難しい」
「はい」
「百回目なのに」
「百回目でもです」
殿下は、しばらく黙りました。
「では」
「はい」
「今日は」
「はい」
「普通に過ごす?」
「それでよいと思います」
「何も伝えない?」
「ご令嬢へ会えた時、ご自身が本当に今伝えたいと思ったことだけを」
「整理していなくても?」
「はい」
「完成していなくても?」
「はい」
「昨日の返事になっていなくても?」
「はい」
殿下は、少しだけ笑いました。
「百回目も、途中?」
「はい」
「かなり締まらない」
「人の気持ちは、話数へ合わせて完成しません」
「話数?」
「何でもありません」
◇
同じ頃。
植物研究会では、朝の測定を終えた会員たちが、記録用紙を整理していました。
葉の長さ。
枚数。
窓際と部屋の奥の温度差。
鉢を回した時刻。
そして、前日から変わった葉の角度。
「この葉、昨日より光の方へ向いてる」
「鉢を回したから?」
「でも、反応が早くない?」
「時間も書いておこう」
「明日も同じなら」
「もう一度回す?」
「すぐ変えたら比べにくい」
「数日待とう」
会話は、以前より落ち着いています。
答えを急がない。
分からないまま記録する。
一度うまくいった方法を、永遠の正解にしない。
それは。
殿下だけではなく。
研究会員たちも、この数日で身につけ始めたことでした。
「ご令嬢」
四十秒の説明を担当した女生徒が呼びます。
「はい」
「昨日のあと、眠れた?」
ご令嬢の手が少し止まりました。
「なぜですか?」
「殿下に、かなり大事な話をしたから」
「……眠れました」
「すぐ?」
「少し時間はかかりました」
「殿下は?」
「分かりません」
「絶対寝てない」
「かなり考えてそう」
「百個くらい答えを作ってそう」
部屋に笑いが広がりました。
ご令嬢も少し笑いましたが、すぐに表情を戻しました。
「殿下は、昨日、答えを急ぎませんでした」
「うん」
「だから、今日は何も言わないかもしれません」
「それでいいの?」
ご令嬢は、すぐには答えませんでした。
机の上の記録用紙を一枚ずつ揃えます。
「少し、不安です」
「返事がないから?」
「はい」
「でも昨日、返事はいらないって言ったんでしょう?」
「今は聞いてほしいと」
「うん」
「それでも」
ご令嬢は少し困ったように笑いました。
「本当に何も返ってこないと、それはそれで気になります」
「難しい」
「かなり」
「殿下と同じだ」
「そうかもしれません」
研究会員たちが少し顔を見合わせました。
「じゃあ、返事が欲しい?」
「今すぐ答えが欲しいわけではありません」
「でも、何かは聞きたい?」
「……はい」
ご令嬢は、正直に頷きました。
「殿下が、どう受け取ったのかは知りたいです」
「怖かったとか?」
「はい」
「嬉しかったとか?」
「はい」
「困ったとか?」
「はい」
「全部?」
「全部聞けるかは分かりません」
四十秒担当の女生徒が、少し柔らかい声で尋ねました。
「ご令嬢は、昨日、近づきたいって言ったんだよね」
「はい」
「今日は?」
ご令嬢は窓の外へ視線を向けました。
朝の光が中庭へ広がり、生徒たちが校舎へ入っていく姿が見えます。
「今日は」
静かに答えました。
「昨日より、少し殿下の話を聞きたいです」
「近づきたい?」
「はい」
「どのくらい?」
「それは」
ご令嬢は頬を赤くしました。
「会ってから決めます」
「かなり成長した」
「誰がですか?」
「ご令嬢も」
部屋に笑いが起こりました。
◇
午前の授業が始まると。
殿下は、普段より静かでした。
集中していないわけではありません。
教師の問いには答えます。
教本の頁も間違えません。
書き取りも進んでいます。
ただ。
授業と授業の間。
窓の外を見る時間が、少し長い。
「殿下」
近くの生徒が声をかけました。
「何だ」
「今日は何かありますか?」
「何もない」
「かなり考えています」
「ああ」
「ご令嬢?」
「ああ」
教室の何人かが、小さく笑いました。
もう。
殿下も。
隠しません。
「昨日、何かあったそうですね」
「学園は早い」
「噴水の前で、かなり長く話していたと」
「ああ」
「告白?」
「違う」
殿下はすぐに答えました。
「でも、近い?」
「かなり大事な話だった」
「殿下、返事したんですか?」
「ほとんどしていない」
生徒たちが驚きました。
「殿下が?」
「ああ」
「なぜ?」
「聞いてほしいと言われた」
「最後まで?」
「ああ」
「何か言いたくならなかった?」
「かなり」
笑いが起きます。
「今日は返事をする?」
一人の女生徒が尋ねました。
殿下は少し考えました。
「分からない」
教室が静かになりました。
「決めていない?」
「ああ」
「会えたら考える」
「殿下が?」
「ああ」
「その場で?」
「ああ」
「かなり不安では?」
「かなり」
また笑いが起こりました。
「でも」
殿下は、少し真面目な声で続けました。
「昨日の話を、昨夜だけで完成させたくない」
「どういう意味ですか?」
「ご令嬢は、まだ分からないと言った」
「ああ」
「私も、まだ分からない」
「ああ」
「だから、今日、関係の名前や未来の約束を決めるのは違う」
生徒たちは静かに聞いています。
「でも、何も言わないと不安にさせませんか?」
別の生徒が言いました。
殿下は、その問いへすぐ答えませんでした。
「それもある」
「難しいですね」
「ああ」
「何を伝えたいかだけ、決めておけば?」
「昨日、話してくれたことを大切に持っている」
「それはよいと思います」
「怖いとも言いたい」
「殿下が?」
「ああ」
「なぜ?」
「選ばれないかもしれないからだ」
教室の空気が少し変わりました。
殿下は、王太子です。
多くのものを選ぶ立場です。
その殿下が。
自分は選ばれないかもしれないと。
人前で、静かに認めています。
「かなり怖い」
殿下は続けました。
「でも、その怖さを消すために、ご令嬢へ答えを求めたくない」
女生徒が、少しだけ表情を柔らかくしました。
「それを、そのまま伝えればよいのでは?」
「完成した答えではない」
「でも、今の殿下の気持ちです」
「ああ」
「ご令嬢も、完成していない気持ちを話したのでしょう?」
殿下は、少し目を見開きました。
「なら、私も途中のまま話してよい?」
「たぶん」
「たぶん?」
「本人ではないので」
「かなり正しい」
◇
昼休み。
中庭には、明るい陽射しが広がっていました。
噴水の周囲には、昨日までより多くの生徒がいます。
殿下とご令嬢が、二日続けて長く話していた場所です。
当然。
何か起きるのではないかと期待している者もいました。
「今日も来るかな」
「殿下?」
「二人とも」
「昨日、かなり近かったらしい」
「告白した?」
「まだ」
「何話してたの?」
「聞こえなかった」
「だから気になる」
しかし。
殿下は。
噴水へ向かいませんでした。
生徒会室で昼食を取っています。
ご令嬢も。
植物研究会の仲間たちと食堂にいました。
二人とも。
相手を探しに行きませんでした。
会いたくないわけではありません。
かなり会いたい。
けれど。
昨日の話が大きかったからこそ。
今日は、相手の時間を勝手に取りませんでした。
「殿下」
生徒会室で、ハインツが言いました。
「何だ」
「噴水の周りがかなり賑わっています」
「見た」
「行きませんか?」
「行かない」
「ご令嬢が待っているかもしれません」
殿下の手が止まりました。
「待っていると思う?」
「可能性の話です」
「かなり気になる」
「では、行きますか?」
殿下は少し考えました。
「行かない」
「なぜです?」
「昨日、ご令嬢は話した」
「ああ」
「今日は、一人で考えたいかもしれない」
「ああ」
「研究会の皆と過ごしたいかもしれない」
「ああ」
「私が噴水で待てば」
「ああ」
「来なければならない気がするかもしれない」
ハインツは少し頷きました。
「かなりよい判断です」
「でも」
「はい」
「会いたい」
「知っています」
「かなり」
「知っています」
書記の女生徒が笑いました。
「殿下」
「何だ」
「会いたい気持ちと、会いに行かない選択は、同時にあってよいのですよ」
「ああ」
「反省会から、かなり応用していますね」
「私は最近、両方ばかりだ」
「人の気持ちは、そういうものでは?」
殿下は少し考えました。
「会いたい」
「ああ」
「待ちたい」
「ああ」
「話したい」
「ああ」
「答えを急ぎたくない」
「ああ」
「かなり多い」
「でも、全部本当です」
殿下は、少しだけ笑いました。
「受け取る」
◇
食堂では。
ご令嬢が、窓の外を一度見ました。
噴水が見えます。
その周囲には生徒たち。
でも。
殿下はいません。
「残念?」
四十秒担当の女生徒が尋ねました。
ご令嬢は少し考えました。
「少し」
「かなり?」
「少しです」
「本当に?」
「……少し多めです」
周囲に笑いが起こりました。
「殿下、来ると思ってた?」
「昨日のことがありますから」
「はい」
「来られるかもしれないと思いました」
「でも来ない」
「はい」
「避けてる?」
ご令嬢は、その言葉へすぐに首を横へ振りました。
「違うと思います」
「なぜ?」
「殿下は、私が一人で考える時間を残してくださっているのだと思います」
「かなり信じてる」
「はい」
「でも会いたい?」
ご令嬢は、少しだけ窓の外を見ました。
「会いたいです」
今度は。
ごまかしませんでした。
「なら行けば?」
「今ですか?」
「昼休み」
「殿下も生徒会の皆さんとお食事中です」
「終わったあと?」
ご令嬢は少し考えます。
「私は」
自分の気持ちを確かめるように。
「殿下が来るのを待つだけではなく」
「うん」
「私から会いに行ってもよいと思います」
研究会員たちが、一瞬、黙りました。
それから。
「かなり進んだ」
「ご令嬢から?」
「殿下、固まる」
「倒れない?」
「警護いるから」
声が重なり。
ご令嬢の頬が赤くなりました。
「まだ行くと決めていません」
「今、言った」
「よいと思うと」
「行きたい?」
「……はい」
「なら、昼休みのあと?」
「授業があります」
「放課後?」
ご令嬢は、少しだけ笑いました。
「会えたら」
「また偶然?」
「今日は」
ご令嬢はゆっくり言いました。
「探してみます」
研究会員たちの目が大きくなりました。
◇
午後の授業は。
殿下にとって。
かなり長く感じられました。
昼休みに会えなかった。
それ自体は。
約束を破られたわけではありません。
避けられたとも決めません。
昨日の話が重かったから。
ご令嬢も考えているのかもしれない。
あるいは、普通に昼食を取っていただけかもしれない。
それでも。
気になります。
殿下は。
授業中、三度だけ窓を見ました。
以前なら十回以上です。
かなり我慢しています。
放課後。
授業が終わると。
殿下は、すぐには立ち上がりませんでした。
教本を閉じ。
筆記具を揃え。
教師へ礼をし。
周囲の生徒が動き始めてから。
ゆっくり席を立ちます。
「殿下」
近くの生徒が尋ねました。
「噴水へ?」
「行かない」
「校舎裏?」
「まだ分からない」
「ご令嬢を探す?」
殿下は、少し考えます。
「今日は」
「はい」
「探さない」
「なぜ?」
「私が探せば、答えを受け取りに来たように見えるかもしれない」
「ああ」
「だから、いつもの場所へ行く」
「校舎裏?」
「ああ」
「ご令嬢が来るかもしれない?」
「可能性はある」
「期待していますね」
「かなり」
「でも来なくても?」
「今日会えないだけだ」
「かなり成長しました」
「受け取る」
殿下は教室を出ました。
◇
校舎裏のベンチには。
夕方の光が差し込んでいました。
空はまだ明るい。
木々の間から見える雲が、少しずつ橙色へ変わっています。運動場からは部活動の声が聞こえ、研究棟の方角からは、片づけをする生徒たちの足音が遠く響いていました。
殿下はベンチへ座りました。
一人です。
マリアは、少し離れた場所に立っています。
今日は。
相談ではありません。
殿下自身が。
ご令嬢と向き合う時間になるかもしれないからです。
五分。
十分。
殿下は待ちました。
手帳を開きません。
本も読みません。
何度も研究棟の方を見ません。
ただ。
風に揺れる葉を見ています。
「殿下」
私が呼びました。
「何だ」
「戻りますか?」
殿下は少し考えました。
「もう少し」
「はい」
「待ってもよい?」
「殿下が待ちたいなら」
「ああ」
さらに数分。
足音が聞こえました。
研究棟の方角から。
一人分。
急いではいません。
でも。
いつもより少しだけ速い。
殿下の顔が上がりました。
ご令嬢が。
こちらへ歩いてきます。
研究会員たちは一緒ではありません。
手には何も持っていません。
ご令嬢も。
殿下へ会うために。
ここへ来たのです。
殿下は立ち上がりかけました。
でも。
途中で止まり。
ご令嬢がベンチの前へ来るまで待ちました。
「殿下」
「こんにちは」
「こんにちは」
どちらも。
少し緊張しています。
「今日は」
ご令嬢が言いました。
「こちらへ来るお約束はしていませんでした」
「ああ」
「でも」
少しだけ息を整えます。
「お会いしたくて、来ました」
殿下は。
完全に固まりました。
私は。
少し離れた場所で。
目を閉じたくなりました。
でも。
今日は見守ります。
「殿下?」
「生きている」
「はい」
「かなり」
「何がですか?」
「嬉しい」
ご令嬢は、少し笑いました。
「座ってもよいですか?」
「もちろん」
二人はベンチへ座りました。
以前より。
少し近い距離です。
昨日の半歩が。
今日の座る位置にも残っています。
ただし。
殿下は。
さらに近づきません。
「昼休み」
ご令嬢が言いました。
「噴水へいらっしゃるかもしれないと思いました」
「ああ」
「でも、いらっしゃいませんでした」
「行こうか迷った」
「はい」
「かなり」
「はい」
「でも、あなたが一人で考えたいかもしれないと思った」
ご令嬢は、少し目を伏せました。
「私は」
「はい」
「殿下が来てくださるのを、少し待っていました」
殿下の呼吸が、また止まりかけます。
「本当に?」
「はい」
「かなり?」
「少し多めです」
殿下は、ほんの少し笑いました。
「会いたかった?」
「はい」
ご令嬢は、今度は逃げませんでした。
「昨日、私の話を聞いてくださったあと」
「はい」
「殿下が、どう思われたのか知りたくなりました」
「ああ」
「答えは求めていないと言ったのに」
「はい」
「何も返ってこないと、少し不安になりました」
「ああ」
「矛盾していますね」
「私も同じだ」
「殿下も?」
「ああ」
「答えを急ぎたくない」
「はい」
「でも、何か伝えたい」
「はい」
「関係を決めたくない」
「はい」
「でも、近くなったと確認したい」
ご令嬢は、少し笑いました。
「似ていますね」
「ああ」
「かなり」
「かなり」
二人の間に。
柔らかな沈黙が落ちました。
昨日のように。
殿下はすぐに埋めません。
でも今日は。
言葉が必要な時間でもあります。
「殿下」
「何だ」
「昨日のお話を」
「はい」
「どのように受け取られましたか?」
殿下は、すぐには答えませんでした。
昨日から考えています。
答えはいくつも作れたでしょう。
けれど。
今。
ご令嬢の顔を見て。
今日の自分の言葉を探します。
「嬉しかった」
殿下は言いました。
「かなり」
「はい」
「あなたが、私へ近づきたいと思っていると聞けた」
「はい」
「でも、怖かった」
「はい」
「最後に私を選ぶとは言えないと聞いて」
「はい」
「かなり」
「はい」
「今すぐ、私を選んでほしいと思った」
ご令嬢の表情が少し揺れました。
「でも」
殿下は続けます。
「言わなかった」
「はい」
「言えば、あなたが昨日話したことを、私を安心させる答えへ変えると思った」
「はい」
「私は」
一度。
息を吸います。
「まだ、大丈夫とは言えない」
ご令嬢は、静かに聞いていました。
「あなたが最後に私を選ばなければ」
「はい」
「かなり苦しいと思う」
「はい」
「悲しい」
「はい」
「怒るかもしれない」
「はい」
「すぐに、よい経験だったとは思えない」
「はい」
殿下の声は。
少しだけ。
震えていました。
「でも」
ご令嬢を見ます。
「それでも」
「はい」
「私は、今まで学んだことを」
「はい」
「全部無駄だったとは、思いたくない」
ご令嬢の瞳が、少し揺れました。
「まだ、そうできると約束はできない」
「はい」
「未来の私が、かなり傷ついているかもしれないから」
「はい」
「でも」
殿下は、ゆっくり続けました。
「そうなっても、あなたが教えてくれたことを」
「はい」
「あなたを手に入れられなかったから捨てる人にはなりたくない」
夕方の風が。
二人の間を通りました。
木々の葉が静かに揺れます。
「私は」
殿下は言いました。
「待つことを」
「はい」
「あなたと結ばれるためだけに覚えたくない」
「はい」
「相手の選択を尊重することを」
「はい」
「あなたに選ばれるための方法だけにしたくない」
「はい」
「今は、そう思っている」
ご令嬢は、しばらく何も言いませんでした。
その沈黙へ。
殿下も。
何も足しません。
「ありがとうございます」
ご令嬢が、やがて静かに言いました。
「私は」
「はい」
「それを聞けて、少し安心しました」
「少し?」
「かなり」
殿下の表情が、少し柔らかくなりました。
「でも」
「はい」
「私も、何も約束できません」
「ああ」
「明日、今日と同じように近づきたいと思うかは分かりません」
「ああ」
「研究へ集中して、殿下へ会いに来ない日もあります」
「ああ」
「殿下の期待が、重いと思う日もあるかもしれません」
「ああ」
「それでも」
ご令嬢は、少しだけ殿下の方へ体を向けました。
「今日、ここへ来たことは」
「はい」
「今日の私が、自分で選びました」
殿下は。
その言葉を。
かなり長く。
受け取っていました。
「私は」
やがて。
静かに言います。
「かなり嬉しい」
「はい」
「今日のあなたが」
「はい」
「私へ会いに来た」
「はい」
「それを」
一度。
少し笑います。
「今日のものとして受け取る」
「はい」
ご令嬢も笑いました。
◇
しばらく。
二人は。
夕方の校舎裏で話しました。
昨日の重い話だけではありません。
ご令嬢から借りた本。
北の山で見つかった鐘。
旅人が持ち帰らなかったこと。
鐘の音を聞いた村人たち。
殿下が、最後の頁で少し泣きそうになったこと。
「泣いたのですか?」
「泣いていない」
「少し?」
「目が疲れた」
「夜遅くまで読んだからでは?」
「それもある」
ご令嬢が笑います。
「殿下は、どの場面が一番好きでしたか?」
「旅人が、鐘を置いて帰るところ」
「やはり」
「あなたは?」
「私は」
ご令嬢は少し考えました。
「村の子どもが、旅人へ小さな鈴を渡すところです」
「ああ」
「大きな鐘は持ち帰れないけれど、旅の途中で思い出せるように」
「ああ」
「失ったものの代わりではなく」
「はい」
「そこへ来たことを忘れないために」
殿下は静かに頷きました。
「私は、何かを得なければ意味がないと思いすぎる」
「はい」
「相談も」
「はい」
「助言も」
「はい」
「恋も」
「はい」
「結果が残れば、意味がある」
「はい」
「何も得られなければ、失敗」
「はい」
「でも」
殿下は、ご令嬢から借りた本を思い出すように。
「持ち帰らなくても」
「はい」
「そこへ行ったことは残る」
「はい」
「それでよい時もある?」
「私は、そう思います」
ご令嬢は少しだけ笑いました。
「ただ」
「何だ」
「殿下」
「はい」
「私は、まだどこかへ置いて帰る鐘ではありません」
殿下の目が大きくなりました。
「分かっている」
「かなり真剣な顔でした」
「例えが」
「はい」
「かなり重なった」
「私も少し重ねました」
二人の間に笑いが生まれました。
話が。
少し軽くなります。
それでよいのです。
重い気持ちを話したあと。
ずっと重い空気を保つ必要はありません。
笑えるなら。
笑ってよい。
深刻なことを話した相手と。
そのあと普通の話をしてもよいのです。
◇
「殿下」
しばらくして。
ご令嬢が呼びました。
「何だ」
「今日で」
少しだけ。
迷う。
「マリア様への相談が、百回目だそうですね」
殿下が固まりました。
「なぜ知っている?」
「朝から噂になっています」
「誰が」
「殿下が教室で話されたと」
「私は少ししか言っていない」
「百回目だと?」
「ああ」
「十分です」
ご令嬢は楽しそうに笑いました。
「百回も相談されたのですね」
「大まかに」
「何について?」
「かなり多い」
「私のこと?」
「ほとんど」
ご令嬢の頬が赤くなりました。
「それは」
「はい」
「かなり」
「はい」
「恥ずかしいです」
「私も今、恥ずかしくなった」
「今ですか?」
「お前が聞くから」
「私のせいですか?」
「少し」
殿下は目を逸らしました。
「百回目だから」
「はい」
「私は、今日」
「はい」
「何か完成させなければと思った」
「何をですか?」
「私たちの関係」
ご令嬢の表情が、少しだけ静かになりました。
「名前を決める?」
「そうしようと思った」
「はい」
「私たちは、互いに好意がある関係」
「はい」
「かなり近づいている」
「はい」
「恋人になる前」
「殿下」
「言っていない」
「今、候補を言いました」
「候補だ」
ご令嬢は、困ったように笑いました。
「決めたいですか?」
殿下はすぐには答えませんでした。
「決めたい」
「はい」
「かなり」
「はい」
「名前があれば安心する」
「はい」
「今、どこにいるか分かる」
「はい」
「次に何をすればよいかも」
「はい」
「でも」
殿下は、少しだけ笑います。
「あなたは昨日、まだ分からないと言った」
「はい」
「私も、今日全部分かったわけではない」
「はい」
「だから」
ご令嬢を見ます。
「百回目でも、決めない」
ご令嬢の目が。
少しだけ。
柔らかくなりました。
「よろしいのですか?」
「よくない」
「またですか?」
「かなり決めたい」
「はい」
「でも」
殿下は、静かに続けます。
「今の二人を、完成した名前へ入れるより」
「はい」
「今のまま、もう少し知りたい」
ご令嬢は。
しばらく殿下を見ていました。
「私は」
「はい」
「それが、かなり嬉しいです」
「なぜ?」
「以前の殿下なら」
「はい」
「私が少し近づいたことを、次の段階へ進む許可として受け取ったと思います」
「ああ」
「そして、関係の名前を決めた」
「ああ」
「たぶん、王宮へも報告した」
「それは」
「殿下」
「……少し考えた」
「考えたのですか?」
「百回目だから」
「関係ありません」
二人は笑いました。
「でも今日は」
ご令嬢が続けます。
「私が会いに来たことを、今日のものとして受け取ってくださいました」
「ああ」
「昨日の半歩を、今日の義務にしませんでした」
「ああ」
「関係の名前も、急ぎませんでした」
「ああ」
「だから」
ご令嬢は、少しだけ。
殿下との距離を縮めました。
ほんの僅かです。
肩が触れるほどではありません。
でも。
昨日より。
少し近い。
「今日は、ここまでです」
殿下は、動きませんでした。
「分かった」
「近づきませんか?」
「かなり近づきたい」
「はい」
「でも、今日はここまでと言われた」
「はい」
「だから、ここまで」
ご令嬢は。
少しだけ。
目を細めました。
「ありがとうございます」
◇
夕方の鐘が鳴りました。
校舎へ残る生徒たちへ、寮や帰宅の準備を促す音です。
ご令嬢は鐘楼の方角を見ました。
「そろそろ戻ります」
「ああ」
「今日は」
「はい」
「殿下のお話を聞けてよかったです」
「ああ」
「怖いと、正直に言ってくださったことも」
「ああ」
「未来を大丈夫だと決めなかったことも」
「ああ」
「かなり安心しました」
殿下は、小さく頷きました。
「私は」
「はい」
「今日、あなたが来たことを」
「はい」
「かなり大切にする」
「はい」
「でも」
一度。
笑います。
「明日も来る約束にはしない」
「はい」
「私から探しに行く理由にも」
「はい」
「今日の距離を、明日の最低距離にも」
「はい」
「しない」
「かなりよいです」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
ご令嬢は立ち上がりました。
殿下も立ちます。
二人は、校舎の方角へ並んで歩き始めました。
来た時より。
少しだけ近い距離。
でも。
決められた距離ではありません。
歩く速さに合わせ。
道の狭さに合わせ。
時々広がり。
時々近づきます。
そのくらいで。
今はよいのです。
◇
中央回廊へ入ると。
かなり多くの生徒がいました。
放課後の活動へ向かう者。
寮へ戻る者。
図書室から出てきた者。
そして。
殿下とご令嬢を見つけ。
少しだけ足を緩める者。
「一緒に来た」
「校舎裏から?」
「百回目」
「何が?」
「相談」
「今日で?」
「何か決まった?」
「告白?」
「恋人?」
小さな声が。
あちこちから聞こえます。
殿下の足が。
一瞬だけ止まりかけました。
ご令嬢も。
少し緊張した顔をします。
以前なら。
殿下は。
すぐに説明したかもしれません。
「まだ恋人ではない」
「しかし互いに好意はある」
「本日、関係の確認を行った」
「今後については――」
そう。
周囲へ正確な情報を渡そうとしたでしょう。
でも。
今日は。
何も言いませんでした。
ご令嬢へ視線を向けます。
説明したいか。
黙っていたいか。
それを。
ご令嬢が選べるように。
「殿下」
ご令嬢が小さく呼びました。
「何だ」
「今日は」
「はい」
「何も説明しなくてよいと思います」
「ああ」
「皆さんは、かなり気にしていますが」
「ああ」
「私たちにも、まだ分からないので」
「ああ」
殿下は。
周囲の生徒たちへ。
穏やかに言いました。
「まだ何も決まっていない」
ざわめきが少し止まります。
「でも」
誰かが尋ねました。
「何か進みましたか?」
殿下は。
ご令嬢を見ました。
ご令嬢も。
少しだけ笑います。
「今日は」
殿下が答えました。
「話した」
「それだけ?」
「ああ」
「百回目なのに?」
「ああ」
生徒たちは顔を見合わせました。
「かなり普通」
「でも殿下が決めなかった」
「それは進んでる」
「関係を発表しないんだ」
「本当に?」
小さな笑いが起こります。
その中で。
一人の女生徒が。
「殿下」
と呼びました。
「何だ」
「百回目、おめでとうございます」
殿下は、少し驚いた顔をしました。
「何を祝う?」
「百回も相談を続けたことです」
「失敗も多い」
「知っています」
「かなり止められた」
「知っています」
「まだ何も決まっていない」
「でも、最初よりはかなり違います」
周囲の生徒たちも。
少しずつ頷きます。
「最初の殿下なら、今ごろ王宮に報告してた」
「関係名を決めてた」
「毎日会う予定作ってた」
「研究会の顧問になってた」
「黄桃の会も開いてた」
「それは何だ」
殿下が反応すると。
回廊に笑いが広がりました。
「殿下」
女生徒が続けました。
「決まっていないまま、ここまで来られたことも、かなりすごいと思います」
殿下は。
しばらく。
何も言いませんでした。
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
◇
ご令嬢と別れたあと。
殿下は。
校舎裏へ戻りました。
私も一緒です。
夕日はかなり低くなり、空は橙色から薄紫へ変わり始めていました。運動場の声もほとんど消え、校舎の窓へ灯りが点き始めています。
殿下は、ベンチへ座りました。
「百回目」
私が言うと。
殿下は、少し苦い顔をしました。
「何も決まらなかった」
「はい」
「告白もしていない」
「はい」
「関係の名前もない」
「はい」
「次に会う約束も」
「はい」
「研究会の次の相談予定も」
「はい」
「かなり何もない」
「本当に?」
殿下は、こちらを見ました。
「今日、ご令嬢は」
「はい」
「ご自分から殿下へ会いに来ました」
「はい」
「昨日のお話を、殿下がどう受け取ったのか聞きました」
「はい」
「殿下も、ご自分の怖さを正直に話しました」
「はい」
「未来を大丈夫だと決めませんでした」
「はい」
「ご令嬢が今日選んだ距離を、明日の義務にしませんでした」
「はい」
「関係の名前を急がず、今の二人をもう少し知りたいと伝えました」
「はい」
「何もありませんか?」
殿下は。
長く。
夕方の空を見ました。
「かなりある」
「はい」
「形がないだけ?」
「はい」
「私は、形がある方が安心する」
「知っています」
「でも」
少しだけ。
笑います。
「今日は、形にしなくても残っている気がする」
「はい」
「ご令嬢が来た」
「はい」
「話した」
「はい」
「少し近づいた」
「はい」
「それで」
殿下は。
深く息を吐きました。
「十分?」
「殿下は、どう思います?」
「十分ではない」
「はい」
「もっと欲しい」
「はい」
「かなり」
「はい」
「でも」
「はい」
「今日の分は」
殿下は。
少し考えました。
「十分」
私は。
静かに頷きました。
「かなりよいです」
「褒める?」
「かなり」
「全部?」
「全部です」
「受け取る」
◇
百回目の相談だからといって。
恋が完成するわけではありません。
告白するとは限りません。
付き合い始めるとも限りません。
関係の名前が決まるとも限りません。
昨日まで分からなかったことが。
数字の区切りだけで。
急に分かるわけではないからです。
王太子殿下は。
百回目に。
何かを完成させようとしました。
ご令嬢との関係。
これまで学んだことの意味。
最後に選ばれなかった時の自分。
未来の約束。
今の距離。
全部。
きれいな答えへしたかった。
けれど。
ご令嬢は、まだ分からないと言いました。
殿下も。
まだ大丈夫とは言えませんでした。
選ばれなければ、苦しい。
悲しい。
怒るかもしれない。
すぐに学びへ変えられない。
それでも。
ご令嬢を得られなかったからといって。
これまで覚えたことを、全部捨てる人にはなりたくない。
殿下は。
完成した立派な答えではなく。
今、本当に思っていることを話しました。
ご令嬢も。
未来を約束しませんでした。
それでも。
今日。
自分から会いに来ました。
今日の自分が選んだ距離だけ。
殿下へ近づきました。
二人は。
恋人にはなりませんでした。
告白もしませんでした。
次の予定も決めませんでした。
でも。
昨日より少し。
相手の怖さを知りました。
自分の怖さも渡しました。
分からないまま話せる関係へ。
少し近づきました。
王太子殿下。
百回目の相談は。
答えを出す回ではありませんでした。
答えがなくても。
関係が続いていると知る回でした。
完成しなくても。
今日の分だけ進めると知る回でした。
それで十分です。
百回目だから。
特別な記念品は必要ありません。
校舎裏のベンチへ「王太子殿下恋愛相談百回達成」の金属板を付けないでください。
今後、他の生徒が座りにくくなります。
百回分の相談内容をまとめた記念冊子も作らないでください。
ご令嬢へ渡すのは、特に禁止です。
かなり重いです。
それから。
百回相談しても関係が完成しなかったことを理由に。
「次の百回で結論を出す」
という長期目標を立てないでください。
二百回目も、締切ではありません。
最後に。
今日、ご令嬢が自分から会いに来てくださった場所へ。
百本の花を植えようとしないでください。
一本でも多いです。
殿下。
今日は。
今日の分だけ。
大切にしてください。
本当に。
お願いします。




