第98話 王太子殿下、会話が途切れた時間を失敗に数えない
好きな人と話せる時間は、嬉しいものです。
今日あったことを聞きたい。相手が何を考えているのか知りたい。自分の話も聞いてほしい。せっかく二人でいられるなら、できるだけ長く、楽しい時間にしたいと思います。
だからこそ、会話が途切れると不安になることがあります。
何か面白くないことを言っただろうか。
話題がなくなったと思われただろうか。
一緒にいても楽しくないのだろうか。
もう帰りたいと思われているのではないか。
沈黙は、ただ言葉がないだけです。
けれど、不安な人の中では、言葉のない数秒間へたくさんの意味が足されます。
退屈。
失望。
拒絶。
会話の失敗。
そして、その沈黙を急いで埋めようとします。
次の話題。
その次の話題。
質問。
感想。
過去の出来事。
明日の予定。
そうして、相手が少し考えているだけの時間へ、言葉を次々に重ねてしまいます。
王太子殿下は、沈黙をかなり警戒する方でした。
王太子として公的な場へ立つ時は、発言するべき内容が決まっています。会議なら議題があります。謁見なら相手の要望があります。式典なら進行表があります。
誰が、いつ、何を話すのか。
ある程度は事前に決められています。
しかし、好きなご令嬢と過ごす時間には、進行表がありません。
相談がない。
研究報告もない。
何かを決める必要もない。
ただ、会って話す。
それだけです。
前日、ご令嬢は殿下へ言いました。
「相談がなくても、殿下と話してもよいと思ったので」
さらに。
「会いたいと思います」
とも。
殿下は、その言葉を今日のものとして受け取りました。毎日会いたいという約束へ変えず、次の予定を急いで決めることもしませんでした。
かなり立派です。
けれど、その夜。
別の不安が生まれました。
相談も研究報告もないのなら。
何を話せばよいのだろう。
王太子殿下。
だからといって、話題を百二十七個用意するのはおやめください。
会話は研究発表ではありません。
全項目を消化する必要もありません。
◇
翌朝、校舎裏には柔らかな風が吹いていました。
空はよく晴れています。夜明け前に冷えた空気はまだ少し残っていましたが、木々の間から差し込む朝日は暖かく、芝生に残る露を一つずつ光らせていました。
マリアがいつものベンチへ近づくと、殿下はすでに座っていました。
足元には鞄。
膝の上には、一冊の手帳。
その手帳の間から、細長い紙が何枚も見えています。
「おはようございます、殿下」
「ああ。おはよう、マリア」
「今日は、ずいぶん紙が多いですね」
「多くない」
「何枚ありますか?」
「七枚」
「何が書かれているのですか?」
殿下はすぐに答えませんでした。
マリアが隣へ座ると、殿下は諦めたように一枚目を差し出します。
上部には、大きく文字が書かれていました。
『研究以外の会話候補』
「殿下」
「何だ」
「昨日の最後に、百二十七個用意しないようお願いしました」
「百二十七個ではない」
「何個です?」
「四十三」
「十分多いです」
「かなり減らした」
「何から減らしたのですか?」
「最初は百五十六個あった」
「増えています」
殿下は少し不満そうに眉を寄せました。
「昨日、ご令嬢は研究以外の話をしたいと言った」
「はい」
「相談がなくても話したいとも」
「はい」
「なら、次に会った時、研究以外の話をする必要がある」
「必要なのですか?」
「そう言われた」
「ご令嬢は、話題を用意してほしいとおっしゃいましたか?」
「言っていない」
「四十三個も?」
「言っていない」
「では、なぜ作ったのです?」
殿下は手帳へ視線を落としました。
「会話が途切れないようにするためだ」
「会話は途切れてはいけませんか?」
「気まずい」
「誰がです?」
「私が」
殿下は正直でした。
「昨日、ご令嬢が昼食の話をした」
「はい」
「私は答えた」
「はい」
「そのあと、一度、会話が止まった」
「数秒でしたね」
「かなり長く感じた」
「ご令嬢は嫌そうでしたか?」
「分からない」
「帰ろうとなさいましたか?」
「いや」
「別の方を探しましたか?」
「いや」
「では、なぜ失敗だと思うのです?」
殿下は黙りました。
その沈黙へ、マリアは何も足しませんでした。
木々の葉が風に揺れます。少し離れた場所で鳥が枝へ降り、朝露に濡れた葉を小さく震わせました。
殿下は数秒後、落ち着かないように口を開きました。
「今も、何か言いたくなった」
「沈黙したからですか?」
「ああ」
「どれくらいでした?」
「五秒くらい」
「かなり短いです」
「私には長い」
「その五秒で、何を考えました?」
「お前が話題を失ったのかと思った」
「考えていただけです」
「何を?」
「殿下が、なぜ会話の沈黙をそこまで怖がるのかです」
「ああ」
「私は考えていました」
「はい」
「殿下は、失敗だと思いました」
殿下は手帳を見ました。
「相手が考える時間を、私が失敗にしている?」
「そうなることがあります」
「昨日、ご令嬢も考えていただけかもしれない?」
「はい」
「でも私は、退屈させたと思った」
「はい」
「かなり早い」
「かなり」
殿下は一枚目の紙をめくりました。
「だが、話題があれば安心する」
「どのような内容ですか?」
「授業。昼食。天気。学園行事。読んでいる本。好きな色。幼い頃の話。休日の過ごし方。王都で好きな場所。嫌いな食べ物。好きな季節。将来行きたい場所」
「質問が多いですね」
「会話候補だ」
「尋問候補に見えます」
「一つずつ聞く」
「何日かけて?」
「分からない」
「全部聞くつもりなのですね」
殿下は少し目を逸らしました。
「気になる」
「はい」
「知りたい」
「はい」
「かなり」
「それはよいと思います」
「なら」
「ですが、相手の話から自然に広がることもあります」
「自然に?」
「昨日なら、昼食の話から、好きな料理の話になるかもしれません」
「ああ」
「生徒会室で食べたことから、皆さんとどんな話をしたかへ進むかもしれません」
「ああ」
「途中で別のものを見れば、それについて話してもよいでしょう」
「予定していない話?」
「はい」
「かなり不安定だ」
「会話ですから」
殿下は深く息を吐きました。
「私は、終わりが見えないことが苦手だ」
「はい」
「どこまで話せばよいか分からない」
「はい」
「何も言わない時間が来ると、失敗したと思う」
「はい」
「だから、次を用意する」
「はい」
「四十三個」
「多すぎます」
「では、何個なら?」
「今日は持っていかないでください」
殿下の表情が固まりました。
「一つも?」
「はい」
「何を話す?」
「会ってから考えてください」
「かなり難しい」
「ご令嬢が話したいことを持っているかもしれません」
「ああ」
「何もなければ、周囲のことでもよいです」
「ああ」
「沈黙しても?」
「そのまま少し待ってください」
「どのくらい?」
「秒数を決めないでください」
「またそれか」
「相手が考えているかもしれません」
「ああ」
「殿下ご自身も、次に何を話したいか考えてよいのです」
「ああ」
殿下は紙束を見つめました。
「今日は、持っていかない」
「はい」
「鞄には?」
「入れないでください」
「一枚だけ」
「殿下」
「確認しただけだ」
◇
植物研究会では、三日目の測定結果をもう一度確認していました。
前日より短く記録された葉は、朝に測り直したところ、最初の日とほぼ同じ長さでした。
「やっぱり、昨日の測り方が少しずれてた?」
「多分」
「定規が斜めだったのかな」
「記録を書き間違えた可能性もある」
「どっちか分からない」
四十秒の説明を担当した女生徒が、三日分の記録を見比べます。
「今日の数字だけに直す?」
「昨日の記録は残そう」
ご令嬢が答えました。
「でも、間違いかもしれません」
「間違いかもしれないと書いて残します」
「使えない数字じゃない?」
「使えないかもしれません。でも、なぜ使えないかを後で見られます」
「発表会の失敗と同じ?」
「少し似ています」
女生徒は納得したように頷き、昨日の数字の横へ小さく注記を書きました。
研究会員たちは、少しずつ新しい方法へ慣れ始めています。
厚紙を置く位置。
定規を当てる角度。
写真を確認する順番。
作業時間も二十五分ほどまで短くなりました。
「殿下に話す?」
一人の会員が尋ねました。
「今日は、まだ話さなくてもよいと思います」
ご令嬢は記録を揃えながら答えました。
「昨日、研究以外の話をしたから?」
「それとは別です」
「でも、今日も会いたい?」
ご令嬢の手が少し止まりました。
研究会員たちは、以前より遠慮なく尋ねるようになっています。
発表会や反省会を経て、殿下の好意がかなり明らかになり、ご令嬢もそれを完全には避けていないと分かったからでしょう。
「会えたら、嬉しいです」
「かなり?」
「またそれですか」
「殿下みたいに」
「……かなり」
部屋に笑いが広がりました。
「何を話すの?」
「分かりません」
「研究以外?」
「昨日、そう言いましたから」
「話題考えてる?」
ご令嬢は少し困ったように笑いました。
「考えていません」
「殿下は考えてそう」
「かなり」
「何個くらい?」
「殿下ですから」
全員が少し考えました。
「百個」
「百二十七個」
「前より増えてるかも」
笑いが広がります。
ご令嬢も笑いましたが、その後、少しだけ考え込む表情になりました。
「どうしたの?」
「殿下は、何も話さない時間が苦手かもしれません」
「そうなの?」
「いつも、次の質問や話を考えていらっしゃるので」
「ああ」
「沈黙したら、気まずい?」
ご令嬢は窓の外へ目を向けました。
風が木々の葉を揺らし、朝日が窓硝子へ反射しています。
「私は」
少し考えたあと、ゆっくり答えました。
「殿下となら、何も話さない時間も少し過ごしてみたいです」
研究会員たちの目が大きくなりました。
「かなり近いこと言った」
「聞かれたら恥ずかしい」
「今の殿下に伝えたら固まる」
「かなり」
ご令嬢は頬を赤くしました。
「研究を続けます」
「逃げた」
「測定記録を片づけてください」
◇
午前の授業中、殿下は珍しく手帳を開きませんでした。
四十三個の話題候補は、校舎裏のベンチ近くにある保管箱へ置いてきています。正確には、マリアが持ち帰らせなかったため、殿下の鞄には入っていません。
ただし、頭の中から完全に消えたわけではありません。
教師が季節ごとの街道整備について説明すると。
好きな季節。
街道沿いで行ってみたい場所。
雨の日の過ごし方。
話題候補が次々に浮かびます。
「殿下」
授業後、ハインツが声をかけました。
「何だ」
「今日はずいぶん考え込んでいましたね」
「授業は聞いていた」
「それ以外も考えていました?」
「ああ」
「ご令嬢との会話ですか?」
「なぜ分かる」
「顔に出ています」
殿下は少し視線を逸らしました。
「相談がない時の話題を考えている」
「昨日、研究以外の会話をされましたね」
「ああ」
「今日も会う約束は?」
「ない」
「では、会えるか分かりません」
「ああ」
「それでも考えているのですか?」
「会えた時に困らないためだ」
「何を話すか?」
「ああ」
「普通に話せばよいのでは?」
殿下は少し険しい顔をしました。
「皆、普通にと言う」
「はい」
「普通が一番難しい」
周囲で聞いていた生徒たちが少し笑いました。
「殿下は、普段どうやって友人と話しているのですか?」
一人の生徒が尋ねます。
「友人?」
「ハインツ様やマリア様と」
「相談や仕事の話が多い」
「それ以外は?」
「ハインツが勝手に話す」
「殿下」
ハインツが呆れたように呼びました。
「事実だ」
「殿下もかなり話しています」
「何を?」
「食事の味や、授業の内容や、噂への不満や、ご令嬢のことを」
教室に笑いが広がりました。
「特に最後は多いですね」
「かなり」
「なら、ご令嬢とも同じように話せば?」
別の女生徒が言いました。
殿下は少し考えます。
「ご令嬢へ、ご令嬢の噂への不満を話す?」
「そこではありません」
「難しい」
「殿下」
先ほどの女生徒が続けました。
「会話が止まるのは嫌ですか?」
「ああ」
「私は、親しい友人なら気になりません」
「なぜ?」
「何か思いついたら、また話せるからです」
「その間は?」
「一緒に歩いたり、食べたりしています」
「相手が退屈していない?」
「退屈なら別のことをすると思います」
「帰る?」
「帰りたければ帰ります」
殿下の表情が少し曇りました。
「沈黙したら帰るかもしれない」
「違います」
女生徒は慌てて言い直しました。
「沈黙しても、一緒にいたいならいます」
「ああ」
「会話が続くことと、一緒にいたいことは同じではありません」
殿下は静かに聞いていました。
「話題が尽きても?」
「はい」
「まだ一緒にいる?」
「はい」
「なぜ?」
「その人といること自体が嫌ではないからです」
殿下は少し黙りました。
「私は、話す理由がなくなれば、そばにいる理由もなくなると思っていた」
教室の空気が少し静かになりました。
以前にも殿下は、相談や研究の話がなければ、何を話せばよいか分からないと口にしていました。
役に立つことで、そばにいる理由を作っていた。
報告されることで、関わりが続いていると確認していた。
今度は、言葉を途切れさせないことで、一緒にいる時間を守ろうとしているのでしょう。
「殿下」
ハインツが穏やかに言いました。
「話題がなくても、相手がまだそこにいるなら」
「ああ」
「その方も、そこにいることを選んでいます」
「ああ」
「殿下が毎秒、理由を用意しなくてもよいのです」
殿下はゆっくり頷きました。
「かなり難しい」
「かなり」
◇
昼休み、中庭は暖かな陽射しに包まれていました。
木陰のベンチには生徒たちが集まり、食堂から持ってきた昼食や購買のパンを広げています。発表会が終わってから数日が経ち、植物研究会を目当てに中庭へ集まる者は減っていましたが、殿下とご令嬢が会えば、やはり何人かは視線を向けます。
殿下は生徒会室へ戻る途中でした。
今日は研究会棟を探すようには見ません。
ただ、歩きながら時々、周囲の人の流れを確認しています。
「探していますね」
ハインツが言いました。
「探していない」
「ご令嬢を」
「会えたら嬉しいと思っているだけだ」
「昨日と同じですね」
「ああ」
その直後。
中庭の反対側から、ご令嬢が一人で歩いてきました。
研究会員たちは一緒ではありません。
手には本が一冊。
食堂ではなく、図書室へ向かう途中のようでした。
殿下と目が合います。
ご令嬢は少し笑い、こちらへ歩いてきました。
「こんにちは、殿下」
「こんにちは」
殿下の声は、普段より僅かに硬く聞こえました。
話題を用意していないことを意識しているのでしょう。
「図書室ですか?」
殿下が尋ねます。
「はい。この本を返しに」
「研究?」
「今日は違います。物語です」
殿下の目が少し明るくなりました。
話題候補の中に、読んでいる本があります。
「どんな話?」
自然な質問でした。
ご令嬢は本の表紙を見せます。
「旅人が、北の山へ失われた鐘を探しに行くお話です」
「鐘を?」
「はい。まだ途中ですけれど」
「面白い?」
「かなり」
殿下が少し笑いました。
「またかなり」
「殿下の言葉が移りました」
「ああ」
「困りますか?」
「いや。かなり嬉しい」
ご令嬢も笑いました。
二人はそのまま、図書室の方向へゆっくり歩き始めました。
ハインツは少し後ろへ下がり、警護も距離を取ります。
「北の山は、実在する?」
殿下が尋ねました。
「物語の中では、王国の北方に似ています」
「ああ」
「雪が長く残り、春でも道が閉ざされていると書かれていました」
「実際の北方は、そこまで長く閉ざされない場所も多い」
「殿下は行かれたことがありますか?」
「一度だけ」
「どのような場所でした?」
会話は続きました。
殿下が視察で訪れた北方の町。
雪解けの頃に川が増水すること。
冬の間に保存する食べ物。
山道で見た青い鳥。
ご令嬢は興味深そうに聞き、時々質問を返しました。
話題候補から始まったわけではありません。
一冊の本から、自然に広がった会話です。
やがて、二人は中庭の中央にある小さな噴水の前へ差しかかりました。
風が吹き、水面が細かく揺れます。
ご令嬢は足を止めました。
「どうした?」
「少し、きれいだと思って」
噴水の水に陽射しが反射し、石畳へ揺れる光を落としていました。
殿下も足を止めます。
「ああ」
それだけでした。
会話が途切れます。
一秒。
二秒。
三秒。
殿下の指が僅かに動きました。
次の話題を探そうとしたのでしょう。
好きな本。
行ってみたい場所。
北方で食べたい料理。
いくつもの候補が頭へ浮かんだはずです。
けれど、殿下は何も言いませんでした。
ご令嬢も、噴水を見ています。
風が水面を揺らす音。
遠くの生徒たちの笑い声。
木々の葉が擦れ合う音。
沈黙は、完全な無音ではありません。
二人の言葉がないだけです。
十秒ほど経った頃、ご令嬢が静かに口を開きました。
「殿下」
「何だ」
「今、かなり我慢されていますか?」
殿下は少し驚きました。
「分かる?」
「何か話そうとして、何度か息を吸っていらっしゃいました」
「ああ」
「話してもよいのですよ」
「でも」
殿下は噴水へ視線を戻しました。
「あなたが見ていた」
「はい」
「考えているかもしれないと思った」
「はい」
「だから待った」
ご令嬢の表情が柔らかくなりました。
「ありがとうございます」
「退屈ではなかった?」
「いいえ」
「話題がなくなったと思わなかった?」
「思いませんでした」
「帰りたいとも?」
「思いません」
殿下は少しだけ安心したように息を吐きました。
「私は、沈黙すると失敗したと思う」
「知っています」
「なぜ?」
「殿下は、いつも次の言葉を急いで探していらっしゃるからです」
「ああ」
「でも、私は今」
ご令嬢は噴水の光を見ました。
「殿下と一緒に、これを見ていました」
「話さなくても?」
「はい」
「私がいなくても見られる」
「一人で見るのとは少し違います」
殿下が固まりました。
「どう違う?」
ご令嬢はすぐには答えませんでした。
また沈黙が落ちます。
今度、殿下は急かしません。
「同じものを見ていると分かるからです」
やがて、ご令嬢が静かに答えました。
「それだけでも、一緒にいる感じがします」
殿下はしばらく言葉を失いました。
「かなり」
ようやく、それだけ口にします。
「何でしょう」
「嬉しい」
ご令嬢は少し笑いました。
「今度の沈黙は?」
「失敗ではなかった」
「はい」
「かなりよかった」
「かなり?」
「かなり」
◇
二人は再び歩き始めました。
図書室までは、あと少しです。
会話は、先ほどよりゆっくりになっていました。
「その物語」
「はい」
「鐘は見つかりそう?」
「まだ分かりません」
「読み終わったら?」
殿下は言いかけて、少し止まりました。
貸してほしい。
感想を聞かせてほしい。
一緒に読む予定を決めたい。
言葉はいくつもありました。
「読み終わったら」
「はい」
「話したくなったら、教えてほしい」
ご令嬢が殿下を見ました。
「殿下も読みたいですか?」
「ああ」
「では、返す前にお貸ししましょうか?」
「よい?」
「はい。今日、読み終わると思います」
殿下の顔が明るくなりました。
「いつ?」
すぐに尋ねかけます。
ご令嬢が少し笑いました。
「読み終わったら、殿下へお知らせします」
「ああ」
「今日中とは限りません」
「ああ」
「明日かもしれません」
「ああ」
「約束へ変えませんか?」
「変えない」
殿下は少し考え、続けました。
「読み終わった時でよい」
「はい」
「私は待つ」
「ありがとうございます」
図書室の前へ着きました。
ご令嬢は扉の前で足を止めます。
「殿下は、どちらへ?」
「生徒会室」
「では、ここで」
「ああ」
一度、短い沈黙がありました。
殿下は何も足しません。
次に会う予定も、午後の時間も、放課後の行動も聞きませんでした。
「また」
ご令嬢が言いました。
「ああ。また」
二人は、それだけで別れました。
ご令嬢が図書室へ入り、殿下は生徒会棟へ向かいます。
少し離れたところで待っていたハインツが、殿下の隣へ並びました。
「かなり長く黙っていましたね」
「見ていた?」
「警護上、視界には入っています」
「失敗ではなかった」
「何がです?」
「沈黙」
殿下は少しだけ笑いました。
「同じものを見ていた」
「かなりよかったですね」
「受け取る」
◇
午後の生徒会室で、殿下はいつもより静かに書類を処理していました。
機嫌はかなりよいようです。
けれど、その理由を自分から何度も説明することはありません。
書記の女生徒が不思議そうに尋ねました。
「殿下、何かありましたか?」
「ご令嬢と話した」
「やはり」
「それから、少し黙った」
「喧嘩ですか?」
「違う」
殿下はすぐに否定しました。
「一緒に噴水を見た」
「黙って?」
「ああ」
「どれくらい?」
「分からない」
ハインツが少し驚いた顔をしました。
「数えなかったのですか?」
「ああ」
「かなり進歩していますね」
「かなり?」
「かなり」
殿下は満足そうに頷きました。
「ご令嬢は退屈していませんでしたか?」
書記が尋ねます。
「していないと言った」
「なら、よかったですね」
「ああ」
「殿下は?」
「最初は不安だった」
「はい」
「だが、同じものを見ているだけでも、一緒にいる感じがすると言われた」
生徒会室が少し静かになりました。
何人かが柔らかく笑います。
「かなりよい言葉ですね」
「ああ」
「大切にしますか?」
「ああ」
「記録は?」
ハインツが警戒するように尋ねました。
「日記には書く」
「噴水の前へ記念碑は?」
「作らない」
「遭遇地点の地図は?」
「作らない」
「沈黙時間の測定は?」
「していない」
「かなり成長しました」
殿下は少し得意そうでした。
「ただ」
「何でしょう」
「次も沈黙してよい?」
「自然にそうなれば」
「自分から黙る?」
「殿下」
「確認しただけだ」
部屋に笑いが広がりました。
◇
放課後、植物研究会では記録の整理が行われていました。
ご令嬢は、昼休みに読んでいた本を机の端へ置いています。
「殿下と何を話したの?」
一人の会員がすぐに尋ねました。
「本の話です」
「研究じゃない」
「はい」
「続いた?」
「北方の話や、殿下が見た鳥の話も聞きました」
「楽しそう」
「はい」
「会話、止まった?」
朝の話を覚えていた女生徒が尋ねました。
ご令嬢は少し頬を緩めました。
「止まりました」
「殿下、慌てた?」
「かなり」
「やっぱり」
「でも、何も話さずに待ってくださいました」
「本当に?」
「はい」
「どうだった?」
ご令嬢は少し考えました。
「落ち着きました」
「沈黙なのに?」
「はい」
「気まずくなかった?」
「最初は少しだけ。でも、噴水を見ていたら、気にならなくなりました」
「殿下も?」
「後で、失敗ではなかったと言っていました」
研究会員たちが笑いました。
「会話の沈黙を失敗に数えてたんだ」
「殿下らしい」
「点数も付けてそう」
「今日は合格?」
「かなりよかったそうです」
笑いが広がりました。
「ご令嬢」
四十秒担当の女生徒が、少し声を柔らかくしました。
「殿下と、何も話さない時間も過ごせた?」
「はい」
「よかった?」
ご令嬢は本の表紙へ指を置きました。
「かなり」
「またかなり」
「移りました」
「かなり好きなんじゃない?」
部屋が一瞬、静かになりました。
ご令嬢の頬が一気に赤くなります。
「測定記録を確認してください」
「逃げた」
「葉の長さが重要です」
「今は殿下の方が重要そう」
「研究会です」
部屋に大きな笑いが広がりました。
◇
夕方の校舎裏には、昼間より涼しい風が吹いていました。
西の空が淡い橙色へ染まり、木々の影が長く伸びています。遠くでは部活動を終えた生徒たちが、道具を抱えて寮へ戻っていました。
マリアがベンチへ座ると、殿下は穏やかな表情で空を見ていました。
「今日は、紙を使いませんでしたね」
「ああ」
「何を話しました?」
「本と北方と青い鳥」
「四十三個には入っていましたか?」
「本はあった。青い鳥はなかった」
「予定外ですね」
「ああ」
「困りましたか?」
「いや」
殿下は少し考えてから続けました。
「予定外の方が、話したいことが増えた」
「はい」
「それから、沈黙した」
「聞きました」
「誰から?」
「学園ですから」
「かなり早い」
「どのような時間でしたか?」
殿下はすぐには答えませんでした。
目の前の木々を見ながら、言葉を探します。
「最初は、何か言わなければと思った」
「はい」
「ご令嬢が退屈する」
「はい」
「帰りたいと思う」
「はい」
「私といても楽しくないと分かる」
「はい」
「そこまで考えた」
「かなりですね」
「ああ」
「でも、言わなかった?」
「ご令嬢が噴水を見ていた」
「はい」
「だから、考えているか、見ていたいのだと思った」
「はい」
「待った」
「はい」
「ご令嬢は、一人で見るのとは違うと言った」
「はい」
「同じものを見ていると分かるから、一緒にいる感じがすると」
殿下の声が少し柔らかくなりました。
「私は」
「はい」
「役に立たなくても」
「はい」
「話さなくても」
「はい」
「そばにいてよい?」
「ご令嬢は、そう伝えたのだと思います」
殿下は長く息を吐きました。
「かなり嬉しい」
「はい」
「でも、まだ少し怖い」
「何がです?」
「次の沈黙も、同じとは限らない」
「はい」
「本当に退屈している時もあるかもしれない」
「あります」
「帰りたい時も?」
「あります」
「どう見分ける?」
「必要なら尋ねてください」
「沈黙が嫌か?」
「もう少し自然に」
殿下は少し考えました。
「疲れた?」
「はい」
「そろそろ戻る?」
「よいと思います」
「それで、帰ると言われたら?」
「帰る時間です」
「拒絶ではない?」
「はい」
「かなり確認が必要」
「全部の沈黙を同じ意味へ決めなければよいのです」
「ああ」
「今日の沈黙は、今日のものです」
「ああ」
「明日は、明日のものです」
「また明日と同じ」
「はい」
殿下は小さく笑いました。
「私は、何でも未来へ続けたがる」
「そうですね」
「今日うまくいったから、次も」
「はい」
「一度沈黙できたから、いつでも」
「はい」
「それも決めない」
「かなりよいです」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
しばらく、二人は何も話しませんでした。
殿下は少しだけ落ち着かない表情をしましたが、今回は自分から言葉を探しません。
遠くで鐘が鳴り、夕方の風がベンチの間を通り抜けます。
やがてマリアが立ち上がりました。
「そろそろ戻りましょう」
「ああ」
沈黙は、何かを壊しませんでした。
会話は、必要な時にまた始まりました。
◇
好きな人との会話が途切れると、不安になることがあります。
何か悪いことを言ったのか。
退屈させたのか。
もう話したいことがないのか。
一緒にいる意味がなくなったのか。
その不安を消すために。
次の話題を急いで渡します。
質問を増やします。
沈黙が生まれる前に、言葉で埋めます。
けれど。
沈黙している人は。
ただ考えているだけかもしれません。
目の前の景色を見ているのかもしれません。
少し疲れているのかもしれません。
あるいは。
話さなくても、そこにいたいと思っているのかもしれません。
王太子殿下は、ご令嬢と研究以外の話をするため、四十三個の話題を用意しました。
しかし、その紙は持っていきませんでした。
一冊の本から始まった話が、北方の山や雪解けの川、青い鳥へ自然に広がりました。
そして途中で、会話が止まりました。
殿下は焦りました。
次の話題を探しました。
それでも、すぐには口へ出しませんでした。
ご令嬢が噴水を見ていたからです。
二人は、同じ水面へ揺れる光を見ました。
何も話さないまま。
ご令嬢は言いました。
一人で見るのとは少し違う。
同じものを見ていると分かるから、一緒にいる感じがする。
殿下は、そこで初めて。
言葉がない時間も。
二人で過ごす時間になれると知りました。
王太子殿下。
会話は、途切れたら失敗するものではありません。
言葉が止まっても。
相手がまだそこにいるなら。
次の言葉は、急がなくても戻ってきます。
ですから殿下。
今後の会話へ備え、「研究外話題一覧」を四十三項目から十二項目へ減らして携帯するのはおやめください。
減らしても多いです。
沈黙が何秒続いたかを手帳へ記録し、「良好な沈黙」「危険な沈黙」「要確認の沈黙」に分類することも禁止です。
沈黙は観察対象ではありません。
それから。
噴水の前でご令嬢と十秒以上黙っていられたことを記念し、学園へ新しいベンチを寄贈しないでください。
すでに座る場所はあります。
最後に。
ご令嬢が「同じものを見ていると一緒にいる感じがする」と言ったからといって。
今後、会うたびに無言で同じ方向を見続けないでください。
それは自然な沈黙ではありません。
かなり計画的です。
本当にお願いします。




