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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第97話 王太子殿下、見守るための報告を毎日求めない



 誰かが新しいことを始めると、順調に進んでいるか気になるものです。


 困っていないだろうか。


 無理をしていないだろうか。


 昨日決めた方法は、本当に使えているだろうか。


 少しでも力になりたいと思っている相手なら、なおさらです。


 声をかける。


 様子を尋ねる。


 必要なら助けると伝える。


 それは、相手を気にかけているからこその行動でしょう。


 けれど。


「今日はどうでしたか」


「問題はありませんでしたか」


「昨日よりよくなりましたか」


 そうした確認を毎日求められると、相手は少しずつ、活動そのものとは別の負担を抱えることになります。


 報告するために記録を整える。


 心配をかけないよう、順調だと答える。


 まだ何も判断できない段階でも、何らかの結果を示さなければならない気がする。


 見守ってもらっているはずなのに、いつの間にか見られているように感じてしまうこともあります。


 前日。


 植物研究会は、自分たちで葉の測定方法を決めました。


 王宮の標準手順より簡単で、使える道具も限られています。


 それでも、毎日続けられることを重視した、研究会員たち自身の方法です。


 殿下は、その選択を認めました。


 自分が知る最も正確な方法を押しつけず、必要な部分だけを一緒に考えました。


 かなり成長しています。


 そして翌朝。


 殿下は、新たな心配を始めました。


 昨日決めた方法は。


 今朝も、正しく使われているだろうか。


 王太子殿下。


 心配だからといって、毎日の活動報告を義務にしないでください。


          ◇


 朝の学園には、薄い霧が残っていました。


 前夜に冷え込んだためか、校舎裏の石畳は少し湿り、木々の葉には細かな露が浮かんでいます。東の空から差し込む光はまだ弱く、校舎の壁も柔らかな灰色に見えました。


 マリアがいつものベンチへ向かうと、殿下はすでに座っていました。


 手元には小さな紙が一枚あります。


 十枚でも百二十七枚でもありません。


 かなり少ないので、以前より安心できるように見えます。


 ただし、紙の上部には大きく文字が書かれていました。


『植物研究会・日次確認項目』


 安心するには早すぎました。


「おはようございます、殿下」


「ああ。おはよう、マリア」


「その紙は何ですか?」


「昨日決めた測定方法が、問題なく使えているか確認するためのものだ」


「誰が確認するのですか?」


「研究会員だ」


「誰へ報告するのですか?」


 殿下は少し黙りました。


「私へ」


「なぜですか?」


「一緒に考えたからだ」


 殿下は紙をこちらへ向けました。


 項目は七つあります。


 一、測定にかかった時間。


 二、参加した人数。


 三、二人で測った場合の誤差。


 四、厚紙の使用枚数。


 五、記録できなかった葉の有無。


 六、研究会員の負担感。


 七、その他の問題。


「かなり丁寧ですね」


「ああ」


「これを毎日?」


「最初の一週間だけだ」


「殿下」


「問題があれば早く分かる」


「研究会から、報告を求めてほしいと言われましたか?」


「言われていない」


「報告したいとも?」


「まだ」


「では、なぜ作ったのですか?」


 殿下は紙へ視線を落としました。


「見守るためだ」


「見守るために、毎日報告させるのですか?」


「ああ」


「それは、かなり見られています」


 殿下の眉が僅かに動きました。


「違う?」


「殿下は、研究会員の活動へ介入しないよう我慢しています」


「ああ」


「ですが、代わりに毎日の報告を求めれば、研究会員たちは殿下の目を意識します」


「問題がなければ、問題なしと書くだけだ」


「毎日ですか?」


「ああ」


「活動のあとに?」


「ああ」


「研究会員たちは、自分たちの記録をまとめた上で、殿下用の報告も作るのですね」


 殿下は少し考えました。


「同じ紙を写せばよい」


「誰が写すのですか?」


「当番を決める」


「研究会が決めていない当番を、殿下が決めるのですか?」


「……」


 朝の霧が、木々の間をゆっくり薄くなっていきます。


 遠くでは、登校してきた生徒たちが友人を呼ぶ声が聞こえていました。


「私は」


 殿下が静かに口を開きました。


「順調か知りたい」


「はい」


「昨日、一緒に決めた方法だ」


「はい」


「もし使いにくければ、直せる」


「はい」


「早い方がよい」


「その気持ちは分かります」


「なら、確認してもよい?」


「確認すること自体が悪いのではありません」


「頻度?」


「はい」


 殿下は紙を見ました。


「毎日は多い?」


「かなり」


「二日に一度?」


「殿下」


「三日?」


「研究会が必要だと思った時に、相談してもらうのでは駄目ですか?」


 殿下はすぐには頷きませんでした。


「問題に気づかないかもしれない」


「誰がですか?」


「研究会員が」


「殿下」


「分かっている」


 殿下は長く息を吐きました。


「また、自分たちで気づく前に確認しようとしている」


「はい」


「だが、今回は方法を一緒に考えた」


「はい」


「私にも責任がある気がする」


「殿下が決定した方法ではありません」


「ああ」


「助言はしました」


「ああ」


「ですが、研究会員たちが自分で選びました」


「ああ」


「使いながら直すことも、最初から話していました」


 殿下は紙の端を指で押さえました。


「私は、見守ると言いながら」


「はい」


「結果を知って安心したい?」


「かなり」


「私が?」


「はい」


「研究会のためではなく?」


「両方だと思います」


 殿下は少し俯きました。


「私は、昨日の助言が間違っていなかったか気になる」


「はい」


「厚紙の案は使えるか」


「はい」


「一ミリ程度の誤差で収まるか」


「はい」


「皆が困らないか」


「はい」


「だから報告が欲しい」


「研究会員の安心ではなく、殿下ご自身の安心のための部分もありますね」


 殿下は黙りました。


 否定できないのでしょう。


「かなり恥ずかしい」


「気づけたのでよいと思います」


「では、この紙は捨てる?」


「殿下の確認用として持つだけなら構いません」


「研究会へは渡さない?」


「はい」


「相談された時に、聞き忘れないために使う?」


「それならよいでしょう」


 殿下は紙を半分に折りました。


「私は、毎日知りたい」


「はい」


「でも、毎日聞かない」


「かなりよいです」


「ご令嬢に会っても?」


「普通に挨拶してください」


「研究の話をしてくれたら?」


「聞いてください」


「してくれなければ?」


「聞かないでください」


「かなり難しい」


          ◇


 同じ頃、植物研究会では、新しい測定方法を使った二日目の記録が始まっていました。


 窓際の三鉢には、前日に作った番号札が置かれています。


 葉の付け根を示す写真。


 高さを揃えるための厚紙。


 一本の定規。


 記録用紙。


 道具はそれだけです。


「今日は私とあなたで測る?」


「うん」


「昨日と同じ葉から」


「時間も測ろう」


 四十秒の説明を担当した女生徒が、砂時計を机の端へ置きました。


 殿下へ報告するためではありません。


 自分たちが三十分以内に終えられるか確かめるためです。


「一番の葉、十一・六」


「私は十一・五」


「一ミリ」


「昨日と同じくらい」


「二番は?」


 作業は静かに進みました。


 定規を置く高さが合わず、厚紙を一枚増やします。


 葉が少し重なっているところでは、一人がそっと持ち上げ、もう一人が測りました。


「それ、毎日二人必要にならない?」


「一人で持ちながら測れないかな」


「定規がずれる」


「支える棒を作る?」


「また道具が増える」


 研究会員たちは笑いました。


「殿下なら作る」


「王宮工房で」


「寸法を揃えて」


「紋章は入れないって言われてそう」


 ご令嬢も記録用紙へ書き込みながら笑いました。


「殿下は、今日来るでしょうか」


 一人の会員が尋ねます。


「呼んでいません」


「でも気にしてそう」


「かなり」


「見に来る?」


 ご令嬢は少し考えました。


「来ないと思います」


「どうして?」


「来たいとは思っていらっしゃるでしょうけれど」


 ご令嬢は窓の外へ目を向けました。


 中庭の向こうに生徒会棟が見えます。


「私たちが呼ぶまで、待とうとしてくださると思います」


「信頼してる」


「はい」


「殿下を?」


「以前より、かなり」


 研究会員たちが小さく笑いました。


「ご令嬢も殿下の言い方になってる」


「そうでしょうか」


「かなり」


 ご令嬢は少し頬を赤くし、記録へ視線を戻しました。


 作業は、二十六分ほどで終わりました。


 目標の三十分以内です。


「できた」


「昨日より早い」


「誤差も一ミリか二ミリ」


「この葉だけ三ミリ」


「理由は?」


「付け根の写真が見づらい」


「撮り直す?」


「うん」


 大きな問題はありません。


 ただし、完全でもありません。


 研究会員たちは、その両方を記録しました。


「殿下に報告する?」


 一人が尋ねました。


「今日は必要ないと思います」


 ご令嬢が答えます。


「順調だから?」


「それもあります」


「でも殿下、知りたいよね」


「かなり知りたいと思います」


「言ってあげた方が喜ぶ?」


 ご令嬢は少し迷いました。


 殿下が喜ぶ顔は想像できます。


 昨日の方法が使えたと伝えれば、きっと安心するでしょう。


 役に立てたと感じるはずです。


「会えたら」


 ご令嬢はゆっくり答えました。


「今日、測れたことくらいは話してもよいと思います」


「報告として?」


「いいえ」


 ご令嬢は記録用紙を揃えました。


「会話としてです」


 研究会員たちが少しだけ顔を見合わせます。


「違う?」


「かなり」


「またかなりって言った」


          ◇


 午前の授業中、殿下は何度か時計を見ました。


 植物研究会の朝の測定は、授業前に行われているはずです。


 もう終わっている時間でしょう。


 しかし、報告は来ていません。


 当然です。


 報告を求めていないからです。


 それでも、殿下は少し落ち着きませんでした。


「殿下」


 授業が終わり、教師が教室を出たあと、前の席の生徒が振り返りました。


「何だ」


「今日は何か待っていますか?」


「待っていない」


「かなり時計を見ていました」


「授業の残り時間を確認した」


「三分おきに?」


 周囲から笑いが起こりました。


「植物研究会ですか?」


 別の生徒が尋ねました。


 殿下は隠さず頷きます。


「昨日決めた測定方法を、今朝も使ったはずだ」


「ああ」


「どうだったか気になる」


「聞きに行けば?」


「行かない」


「なぜです?」


「毎日確認すると、報告を求められているように感じるかもしれない」


 生徒たちは少し驚きました。


「殿下が自分で気づいたのですか?」


「マリアに言われた」


「ああ」


「だが、納得した」


「かなり進歩していますね」


「ああ」


「でも気になる?」


「かなり」


 教室に笑いが広がりました。


「私なら聞きますけどね」


 一人の男子生徒が言いました。


「心配だから」


「毎日?」


「気になるなら」


「相手は嫌がらない?」


「大丈夫じゃないですか?」


 隣の女生徒が、少し呆れたように彼を見ました。


「あなた、昨日も宿題終わったか聞いてきた」


「心配だったから」


「三回も」


「終わってなさそうだった」


「終わってなかったけど、三回聞かれたら余計にやりたくなくなった」


 教室に笑いが起こりました。


 男子生徒は困ったように頭を掻きます。


「でも、何も聞かないと冷たいと思われない?」


 別の生徒が言いました。


 殿下はその言葉へ反応しました。


「私も、それが気になる」


「ですよね」


「気にしていることを伝えたい」


「ああ」


「だが、毎日聞くと負担になる」


「難しいですね」


 教室の後方から、書記の女生徒が口を開きました。


「最初に、困ったら話してほしいって伝えておけばいいのでは?」


「伝えた」


「なら、待ってよいと思います」


「忘れられない?」


「殿下が助ける気でいることを?」


「ああ」


 生徒たちは顔を見合わせました。


「忘れないと思います」


「なぜ?」


「殿下、かなり顔に出ていますから」


 また笑いが広がりました。


「何も聞かなくても、心配してるのは分かります」


「かなり?」


「かなり」


 殿下は少し安心したように頷きました。


          ◇


 昼休み。


 中庭には、強くなった陽射しが落ちていました。


 朝の霧は完全に消え、芝生の色も明るく見えます。生徒たちは木陰やベンチへ集まり、昼食を広げていました。


 殿下は生徒会室へ戻る途中です。


 今日は、研究会棟を見ないよう意識しているのか、正面だけを見ています。


 その姿がかえって不自然でした。


「殿下」


 ハインツが隣から声をかけます。


「何だ」


「首がかなり固いですが」


「研究会棟を見ないようにしている」


「そこまでしなくても」


「見れば行きたくなる」


「正直ですね」


「ああ」


「今朝の結果が気になりますか?」


「かなり」


「報告を求めますか?」


「求めない」


「では、よいでしょう」


 その時、前方から植物研究会員たちが歩いてきました。


 ご令嬢も一緒です。


 殿下はすぐに気づきました。


 けれど、研究の話を尋ねるために近づくことはせず、そのまま歩きます。


「こんにちは、殿下」


 ご令嬢の方から声をかけました。


「こんにちは」


 殿下の表情が明るくなります。


「昼食ですか?」


「ああ。生徒会室で」


「私たちは中庭です」


「そうか」


 短い会話が途切れました。


 殿下の目には、聞きたい気持ちがかなり出ています。


 ご令嬢は少し笑いました。


「何か、聞きたいことがありますか?」


「ある」


「かなり?」


「かなり」


「では、どうぞ」


 殿下は一度、息を整えました。


「研究は」


 そこまで言いかけて、止まります。


「何でしょう」


「いや」


 殿下は少し考えました。


「今日は、あなたが話したいなら聞く」


 ご令嬢が僅かに目を見開きました。


「殿下からは聞かないのですか?」


「毎日、順調か確認すると」


「ああ」


「報告を求められているように感じるかもしれない」


「マリア様に言われました?」


「ああ」


 研究会員たちが小さく笑います。


「でも、殿下もそう思われた?」


「思った」


「はい」


「かなり気になるが」


「顔に出ています」


「やはり?」


「かなり」


 ご令嬢は少しだけ視線を柔らかくしました。


「では、報告ではなく」


「ああ」


「今日あったことを話してもよいですか?」


「もちろん」


 殿下の表情が一気に明るくなりました。


「今朝、二日目の測定をしました」


「ああ」


「二十六分で終わりました」


「三十分以内?」


「はい」


「誤差は?」


 殿下はすぐに尋ね、はっとしました。


「……聞いてよい?」


 ご令嬢が笑いました。


「はい。今日は話すと決めたので」


「誤差は?」


「ほとんど一ミリか二ミリでした。ただ、一枚だけ三ミリずれました」


「原因は?」


「写真が見づらかったことだと思います」


「ああ」


「撮り直しました」


「厚紙は?」


「使えました」


 殿下の顔に、安堵が広がりました。


「よかった」


「かなり?」


「かなり」


「殿下」


 ご令嬢は少しだけ首を傾げました。


「もし、今日私が何も話さなかったら、不安でしたか?」


「ああ」


「私たちが困っていると思いました?」


「少し」


「来ようと思いました?」


「かなり」


 研究会員たちから笑いが漏れます。


「でも、来なかった」


「ああ」


「なぜです?」


 殿下はすぐに答えませんでした。


 中庭を渡る風が、ご令嬢の髪を僅かに揺らします。


「昨日」


 殿下はゆっくり口を開きました。


「皆が自分たちで決めた方法だ」


「はい」


「私は、一部を一緒に考えただけだ」


「はい」


「だから、使っている間も私が確認し続けたら」


 殿下は言葉を選びました。


「皆の方法ではなく、私へ見せるための方法になるかもしれない」


 ご令嬢の表情が、静かに変わりました。


「そう思ってくださったのですか?」


「ああ」


「かなり我慢されました?」


「かなり」


「ありがとうございます」


「でも、今日話してくれて嬉しい」


「私も、話したかったので」


 殿下が少し固まりました。


「本当に?」


「はい」


「報告しなければと思ったのではなく?」


「違います」


 ご令嬢は微笑みました。


「昨日、一緒に考えていただいたので、使えたことをお伝えしたいと思いました」


「かなり嬉しい」


「分かりました」


「明日も?」


 殿下の口から、ほとんど反射的に言葉が出ました。


 周囲が少し静かになります。


 殿下も、自分で気づいたようでした。


「今のは」


「はい」


「報告を求めた?」


「少し」


「取り消す」


 ご令嬢は笑いました。


「明日、話したいことがあれば話します」


「ああ」


「何もなければ?」


「聞かない」


「かなり偉いです」


「受け取る」


          ◇


 午後の植物研究会では、三日目へ向けた準備が進められていました。


 今日使えた厚紙をまとめ、見づらかった写真だけを撮り直します。


「殿下、嬉しそうだった」


 一人の会員が言いました。


「かなり」


「ご令嬢が話すまで聞かなかったね」


「かなり我慢してた」


「明日も話す?」


 ご令嬢は記録用紙を見ながら考えました。


「何か話したいことがあれば」


「毎日は?」


「決めません」


「殿下、寂しがるかも」


「少しは」


「かなりでは?」


「かなりかもしれません」


 部屋に笑いが広がりました。


「でも、毎日話すと報告になる?」


 四十秒担当の女生徒が尋ねました。


「私が話したくて話すなら、報告ではないと思います」


「殿下が待ってるって分かってても?」


 ご令嬢は少し黙りました。


「そこは、難しいですね」


「殿下が期待してると、話さなきゃって思う?」


「少し」


「じゃあ、どうする?」


 ご令嬢は机の上の記録を揃えました。


「殿下へ、一度伝えてみます」


「何を?」


「毎日の報告はしないことを」


「直接?」


「はい」


「殿下、落ち込まない?」


「少しは」


「かなり?」


「……かなりかもしれません」


 また笑いが起こりました。


「でも、必要ですよね」


「うん」


「殿下も分かってくれると思う」


「以前よりは」


 ご令嬢は窓の外へ目を向けました。


 空は少しずつ夕方の色へ変わり始めています。


「待ってくださる方になろうとしているから」


          ◇


 放課後。


 殿下は生徒会室で書類を確認していました。


 昼休みにご令嬢から研究の話を聞けたことで、朝よりかなり落ち着いています。


 ただし、手帳には小さく書かれていました。


『二日目。二十六分。誤差一〜二ミリ。厚紙使用可』


 ハインツがその記録を見つけました。


「記録したのですか?」


「ああ」


「毎日報告を求めないと決めたのでは?」


「聞いたことを忘れないためだ」


「採用率の次は進捗表ですか?」


「違う」


「本当に?」


 殿下は少し考え、手帳を閉じました。


「明日、何も聞けなくても空欄にする」


「『報告なし』と書きませんか?」


「書かない」


「かなり大切です」


「ああ」


「殿下」


 書記の女生徒が、机の向こうから声をかけました。


「何だ」


「ご令嬢から話してくださったのですよね」


「ああ」


「なら、殿下が毎日聞かなくても、必要な時には話してくださるのでは?」


「ああ」


「信じられますか?」


 殿下は少し黙りました。


「信じたい」


「まだ不安ですか?」


「かなり」


「何が?」


「何も言われない日が続いたら、私は必要ないと思われた気がする」


 生徒会室が少し静かになりました。


 殿下は、隠さず続けます。


「相談されると嬉しい」


「はい」


「報告されると、関わっている気がする」


「はい」


「何も言われないと、離れたように感じる」


 ハインツが穏やかに言いました。


「ですが、何も言われない日は、関係がなくなった日ではありません」


「ああ」


「研究会員たちが、自分たちで活動した日です」


「ああ」


「殿下が必要になれば、また話してくれる」


「ああ」


「その間も、関係は残っています」


 殿下は机の上の書類へ視線を落としました。


「見えない関係を信じる?」


「はい」


「かなり難しい」


「毎日確認して相手へ証明させるよりは、よいと思います」


「そうか」


 殿下は手帳を鞄へしまいました。


「今日は、もう記録しない」


「かなりよいです」


          ◇


 夕方の校舎裏。


 西の空は淡い橙色へ染まり、木々の長い影がベンチの足元まで伸びていました。昼間の暖かさが少しずつ失われ、風には再び冷たさが混じり始めています。


 マリアがベンチへ座ると、殿下は今日の出来事を話しました。


「ご令嬢から、研究の話をしてくれた」


「よかったですね」


「ああ」


「殿下から聞いたのですか?」


「最初は聞かなかった」


「かなり偉いです」


「話したいなら聞くと言った」


「はい」


「ご令嬢は、報告ではなく、今日あったことを話すと言った」


「はい」


「かなり嬉しかった」


「顔に出ています」


 殿下は少し笑いました。


「だが、明日もと聞いてしまった」


「殿下」


「すぐ取り消した」


「成長しています」


「ああ」


 しばらく沈黙がありました。


 風が木々の葉を揺らし、遠くから寮へ戻る生徒たちの声が聞こえます。


「マリア」


「はい」


「何も言われない日が続いたら」


「はい」


「私は、どうすればよい?」


「普通に過ごしてください」


「かなり簡単に言う」


「普通に挨拶をし、必要なら他の話をしてください」


「研究について聞かずに?」


「はい」


「ご令嬢が話したくなれば、話してくださるでしょう」


「話さなければ?」


「その日は研究以外のことを話せます」


 殿下は少し考えました。


「私は、研究の話がある方が安心する」


「なぜです?」


「話す理由がある」


「はい」


「役に立てる」


「はい」


「何も相談がなければ、何を話せばよいか分からない時がある」


 マリアは殿下の顔を見ました。


 王太子として、人前で話すことには慣れています。


 演説も説明もできます。


 質問へ答えることもできます。


 けれど、好きな方との間に用件がなくなった時、どう近くにいればよいのかは、まだ分からないのでしょう。


「殿下」


「何だ」


「相談がなくても、話してよいのですよ」


「何を?」


「今日見たものでも、授業のことでも、昼食のことでも」


「役に立たない」


「会話は、いつも役に立つ必要がありますか?」


 殿下が黙りました。


「私は」


 少しして、殿下が言いました。


「役に立つことで、そばにいる理由を作っていた?」


「少しは」


「かなり?」


「かなりかもしれません」


 殿下は夕方の空へ視線を向けました。


「相談されなければ、必要ないと思われる」


「はい」


「だから、報告を求めれば、関わりが続く」


「はい」


「でも、それはご令嬢のためではなく、私が安心するためだ」


「はい」


「かなり恥ずかしい」


「気づけたのでよいと思います」


 殿下は長く息を吐きました。


「私は、必要な時だけ役に立つ」


「はい」


「必要でない時は?」


「普通に会えばよいのです」


「かなり難しい」


「殿下は、ご令嬢と話したいのですよね」


「ああ」


「なら、用件がなくても、会えたことを喜べばよいのです」


「ああ」


「相談がなくても、関係はなくなりません」


「信じる?」


「はい」


 殿下はしばらく考えたあと、ゆっくり頷きました。


「私は、毎日の報告を求めない」


「はい」


「話してくれた日は聞く」


「はい」


「話さない日は、聞かない」


「はい」


「でも、普通に話す」


「かなりよいです」


「何を話すか考える」


「百二十七個は用意しないでください」


「三つくらい」


「自然に話してください」


「かなり難しい」


          ◇


 その翌日。


 植物研究会は三日目の測定を行いました。


 厚紙は問題なく使えました。


 誤差は、一ミリ前後に収まりました。


 ただ、一枚の葉が前日より短い数字になりました。


「縮んだ?」


「そんなはずない」


「測る位置が違う?」


「写真を見る?」


「昨日の記録も」


 研究会員たちは原因を探しました。


 昨日の測定者が定規を少し斜めに置いていた可能性。


 今日の葉の角度が違う可能性。


 記録を書き間違えた可能性。


 すぐには分かりません。


「殿下に聞く?」


 一人が尋ねました。


 ご令嬢は、昨日と今日の記録を見比べました。


「まだ聞かなくてよいと思います」


「なぜ?」


「明日もう一度測れば、今日だけのずれか分かります」


「殿下、今日も話を待ってるかも」


「はい」


「何も話さない?」


 ご令嬢は少し迷いました。


 昨日、毎日報告を求めないよう殿下が我慢していたことを知っています。


 だからこそ、毎日話すことで、期待を強めたくはありません。


「今日は」


 ご令嬢は静かに答えました。


「研究以外の話をしてみたいです」


 研究会員たちの目が少し大きくなりました。


「何を?」


「まだ決めていません」


「殿下、喜ぶかな」


「分かりません」


「かなり喜ぶと思う」


 ご令嬢は少し頬を赤くしました。


          ◇


 昼休み。


 中庭の木陰で、殿下とご令嬢は偶然会いました。


 殿下は昨日の約束どおり、研究について尋ねませんでした。


「こんにちは」


「こんにちは、殿下」


「今日は暖かい」


「はい。朝は少し寒かったですが」


「ああ」


 会話が一度途切れます。


 殿下は、かなり研究の話を聞きたそうでした。


 それでも、口にはしません。


「殿下」


「何だ」


「昨日の昼食は、何を召し上がったのですか?」


 殿下が一瞬、驚いたように目を見開きました。


「昨日?」


「はい」


「魚と豆の煮込み」


「おいしかったですか?」


「ああ。少し塩が強かった」


「生徒会室で召し上がったのですよね」


「ああ」


「皆さんと?」


「ハインツたちと」


 殿下は、戸惑いながらも答えました。


「なぜ、昼食の話?」


「研究以外の話をしてみようと思いました」


 殿下が完全に止まりました。


「研究は?」


 反射的に尋ねかけ、すぐに口を閉じます。


 ご令嬢は小さく笑いました。


「今日は、まだ話しません」


「ああ」


「気になりますか?」


「かなり」


「でも?」


「聞かない」


「ありがとうございます」


 ご令嬢は少しだけ視線を逸らしました。


「相談がなくても」


 その声は、いつもより僅かに小さく聞こえました。


「殿下と話してもよいと思ったので」


 殿下は何も言えませんでした。


 中庭を歩く生徒たちの声が遠くなったように感じられます。


「本当に?」


 しばらくして、ようやくそれだけ尋ねました。


「はい」


「役に立たなくても?」


 ご令嬢が殿下を見ました。


「殿下」


「何だ」


「私は、殿下が役に立つ時だけお話ししているのではありません」


 殿下の表情が、ゆっくり変わりました。


「では」


「はい」


「相談がなくても、会いたいと思う?」


 ご令嬢はすぐには答えませんでした。


 近くを通った生徒たちが、会話を聞いて足を緩めます。


 友人の腕を掴み、声を出さないよう口元を押さえる者もいました。


「思います」


 ご令嬢は静かに答えました。


 殿下は、完全に固まりました。


「殿下?」


「かなり」


「何がですか?」


「嬉しい」


 周囲から、抑えきれない小さなどよめきが起こりました。


 ご令嬢も頬を赤くしながら、少し笑います。


「今日は、それをお伝えしたかったわけではありません」


「でも伝わった」


「はい」


「かなり大切にする」


「約束へはしないでください」


「ああ」


「毎日会いたいという意味でもありません」


「ああ」


「会えない日もあります」


「ああ」


「それでも?」


「今日、そう思ってくれたことを受け取る」


 ご令嬢の目が僅かに細められました。


「はい」


 殿下は研究の報告を聞きませんでした。


 けれど。


 その日、これまでで一番安心した顔をしていました。


          ◇


 見守るために、報告を求めたくなることがあります。


 相手が困っていないか知りたい。


 自分の助言が役に立ったか確かめたい。


 関係が続いていると感じたい。


 その気持ちは、相手を大切に思っているから生まれます。


 けれど。


 毎日の確認は。


 時に、相手のためではなく、自分の不安を落ち着かせるためのものになります。


 報告がある日は安心する。


 何も言われない日は、必要とされなくなった気がする。


 だから、毎日聞く。


 そうすれば、自分は関わり続けられます。


 しかし相手は。


 自分の活動をするたび、報告することになります。


 研究会員たちは、殿下へ毎日報告しませんでした。


 話したい日は話す。


 相談したい時は相談する。


 まだ自分たちで考えたい時は、何も言わない。


 その頻度も、自分たちで選びました。


 殿下は、毎日知りたい気持ちを抱えながら。


 聞かずに待ちました。


 そしてご令嬢は。


 研究の報告がない日に。


 研究とは関係のない昼食の話をしました。


 相談がなくても。


 役に立つ用件がなくても。


 殿下と話してよいと思ったからです。


 王太子殿下。


 関係は、毎日の報告で保つものではありません。


 何も伝えられない日にも。


 相手が自分の時間を過ごしている日にも。


 信頼は残っています。


 ですから殿下。


 植物研究会へ「日次進捗報告書」を配布しないでください。


 七項目は多すぎます。


 負担感を毎日五段階で記入させることも禁止です。


 その用紙を書くこと自体が、負担になります。


 それから。


 報告がなかった日を、手帳へ空欄のまま残し。


 翌日に赤い印を付けるのもやめてください。


 何も書かれていない日は。


 問題があった日ではありません。


 ただ、殿下へ報告する必要がなかった日です。


 最後に。


 ご令嬢から「相談がなくても話したい」と言われたからといって。


 明日から、研究以外の話題を百二十七個用意しないでください。


 自然な会話には。


 事前提出された議題表は必要ありません。


 本当にお願いします。

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