第96話 王太子殿下、いちばん正しい方法を相手に続けさせない
正しい方法を知っていると、それを勧めたくなります。
間違いが少ない。
結果が揃いやすい。
後から比べても困らない。
時間をかけて考えられた方法ほど、使う理由もはっきりしています。
だから、誰かから相談された時。
「これが一番よい」
と伝えることは、親切に思えます。
実際、その方法が相手にも合うなら、何も問題はありません。
けれど。
正確な方法ほど、手間がかかることがあります。
道具が必要です。
人数が必要です。
毎日、決まった時刻に測らなければなりません。
記録する項目が多く、慣れていない者には続けにくい場合もあります。
王宮の研究施設で使える方法が。
学園の小さな研究会でも、同じように使えるとは限りません。
正しくても、続かなければ。
記録は途中で途切れます。
負担が大きすぎれば。
研究そのものが嫌になるかもしれません。
王太子殿下は。
正しい方法を、かなり大切にする方でした。
王宮資料に残すなら、後世の者が読み返せる形へ整えたい。
同じ条件で測り、比較できる数字を残したい。
誰が作業しても、できるだけ同じ結果になるようにしたい。
王太子としては、とても立派です。
ただし。
植物研究会の皆さんは、王宮研究官ではありません。
授業があります。
試験があります。
他の委員会や寮の仕事もあります。
何より。
研究を続けるために、毎日無理なく作業できることが必要です。
王太子殿下。
相手が「できません」と言う前に。
どうか、その方法を本当に続けられるか聞いてください。
◇
翌朝。
学園の空には、細長い雲が浮かんでいました。
陽射しはありますが、風は少し冷たく、校舎裏の木々が枝を揺らすたび、葉の影が地面へ細かく落ちています。運動場では朝練を終えた生徒たちが道具を片づけ、遠くから掛け声と笑い声が混ざって聞こえていました。
マリアがベンチへ近づくと、殿下は一冊の厚い本を読んでいました。
今度は目次ではありません。
本文です。
かなり集中しています。
「おはようございます、殿下」
「ああ。おはよう、マリア」
「今日は何を読んでいるのですか?」
「王宮植物観察標準手順」
嫌な予感がしました。
「なぜですか?」
「昨日、ご令嬢から測定方法について相談するかもしれないと言われた」
「はい」
「だから準備している」
「相談されてから考えると決めませんでしたか?」
「相談される可能性が具体的になった」
「まだ相談されてはいません」
「だが、何も知らずに聞くよりよい」
殿下は本を閉じ、表紙をこちらへ向けました。
かなり古い資料です。
王宮の印が押され、何度も改訂された跡があります。
「この手順なら、葉の長さを測る者が変わっても誤差が少ない」
「どのように測るのですか?」
「最初に葉の付け根を専用の金具で固定する」
「専用の金具」
「ああ。その後、角度を一定にした測定台へ置き、先端までを細い目盛りで読む」
「研究会に、その台はありますか?」
「ない」
「金具は?」
「ない」
「では、どうするのです?」
「王宮から借りる」
私はすぐに首を横へ振りました。
「まだ研究会は借りたいと言っていません」
「必要になる」
「殿下」
「分かっている」
殿下は少しだけ眉を寄せました。
「聞いてからだ」
「はい」
「だが、正確に測りたいなら、この方法がよい」
「続けられますか?」
「何が?」
「その方法を、研究会員の皆さんが毎日です」
殿下は本へ視線を落としました。
「慣れれば」
「何分かかりますか?」
「一枚につき、四分程度」
「葉は何枚ありますか?」
「三鉢で、現在二十八枚」
「全て測れば?」
殿下は頭の中で計算しました。
「百十二分」
「準備と片づけは?」
「含めていない」
「授業のあと、毎日二時間以上です」
殿下が黙りました。
「二人で分担すれば一時間」
「研究会員全員が毎日揃いますか?」
「揃わない日もある」
「同じ人が測らないと誤差が出るのでは?」
「この方法なら減る」
「なくなるわけではありませんね」
「ああ」
朝の風が本の頁を僅かにめくりました。
「殿下」
「何だ」
「その方法は正確ですか?」
「かなり」
「研究会に向いていますか?」
殿下は答えませんでした。
「違う?」
「まだ分からない」
「はい」
「正確なら向いていると思った」
「続けられることも、方法を選ぶ条件です」
「ああ」
「研究会員の皆さんが、毎日二時間かけて葉を測りたいと思っているかもしれません」
「はい」
「ですが、そうでないかもしれません」
「はい」
「まず何を大切にしたいか聞いてください」
殿下は少し考えました。
「正確さ」
「それは殿下が大切にしていることです」
「研究会は違う?」
「昨日、ご令嬢は何とおっしゃいましたか?」
「正確さだけでなく、続けられること」
「はい」
殿下は本を閉じ直しました。
「私はまた、自分の基準を先に置いた」
「少し」
「かなり?」
「かなり」
「厳しい」
「ただ、相談前に気づけました」
「成長?」
「かなり」
「受け取る」
殿下は本を鞄へ入れました。
「今日は、聞かれたら最初に確認する」
「何をですか?」
「どれほど正確に測りたいか」
「はい」
「毎日どれほど時間を使えるか」
「はい」
「どの道具なら続けられるか」
「かなりよいです」
「標準手順は?」
「一つの例として、必要なら見せてください」
「最初に出さない?」
「はい」
「かなり出したい」
「我慢してください」
◇
植物研究会では、その朝も測定の試行が続いていました。
前日、同じ葉を三人で測ったところ、根元の位置を写真で揃えれば誤差は一ミリほどまで小さくなりました。
ただし、問題はそれだけではありません。
「毎回写真を撮るの、結構時間かかる」
一人の会員が言いました。
「撮って、記録の番号を書いて、あとで整理して」
「葉が増えたらもっと大変」
「でも写真がないと、付け根の位置が分からない」
「毎日は撮らない?」
「最初だけ?」
「成長したら付け根は変わらないよね」
「葉の角度は変わる」
「長さだけなら?」
机の上には、昨日と今日の記録用紙が並んでいます。
線が引き直され、余白には小さな疑問がいくつも書き込まれていました。
『毎回同じ葉をどう区別するか』
『葉を持ち上げる角度』
『定規を曲げずに当てる方法』
『測定者が違う日の誤差』
ご令嬢は一枚ずつ読み、皆の意見を聞いていました。
「殿下へ聞こう」
代表の女生徒が言いました。
「もう?」
「何が使いにくいか分かったから」
「確かに」
「王宮の方法をそのまま使うんじゃなくて」
「私たちの方法をどう直せばよいか聞く?」
「うん」
四十秒担当の女生徒が記録用紙を持ち上げました。
「昨日の数字も見せたい」
「五ミリずれたやつ?」
「はい。隠すより、どこが原因だったか分かりやすいと思います」
「殿下、たくさん直すところを言いそう」
「かなり」
「全部はやらないって先に言う?」
室内に小さな笑いが広がりました。
ご令嬢も笑いましたが、すぐに表情を整えます。
「伝えた方がよいと思います」
「殿下が嫌な気持ちにならない?」
「少しはなるかもしれません」
「かなり?」
「少しです」
「本当に?」
「……以前よりは」
また笑いが起こりました。
「でも」
ご令嬢は机の上の記録を見ました。
「殿下は、私たちが全て使わなくてもよいと分かろうとしてくださっています」
「昨日も言ってたね」
「はい」
「なら、最初に条件を伝える?」
「はい。私たちが毎日使える時間と、道具と、人数を」
「正確さは?」
「必要です。ただ」
ご令嬢は少し考えてから続けました。
「最も正確でなくても、同じ方法を続けられる方が、私たちには合うかもしれません」
「少しくらい誤差があっても?」
「その誤差が毎回同じくらいなら、変化は見られると思います」
「それも殿下に聞こう」
「はい」
「相談文、書く?」
「今日は直接お願いしてみます」
一人の会員が笑いました。
「殿下、どこにいるかな」
「探さなくても」
ご令嬢は少し頬を緩めました。
「昼休みには、お会いするかもしれません」
◇
午前の授業が終わると、中庭には多くの生徒が流れ出しました。
空は朝より明るくなり、風も少し穏やかです。購買へ向かう列が廊下まで伸び、食堂の入口では、今日の献立を見た生徒たちが楽しそうに声を上げていました。
殿下は生徒会室へ向かう途中でした。
ハインツと並び、午後の会議について話しています。
「昼食後、予算資料の確認です」
「ああ」
「その後、図書委員会から書架修繕の報告があります」
「ああ」
「聞いていますか?」
「聞いている」
「研究会棟を見ながら?」
殿下は正面へ視線を戻しました。
「偶然見えただけだ」
「今日は相談される予定ですか?」
「まだ」
「では、探さないでください」
「探していない」
その時、反対側の回廊から植物研究会員たちが出てきました。
ご令嬢も一緒です。
手には記録用紙と小さな定規を持っています。
殿下の表情が僅かに変わりました。
けれど、足を止めて待ち構えることはしません。
ご令嬢の方が殿下へ気づき、研究会員たちと一緒に近づいてきました。
「こんにちは、殿下」
「こんにちは」
「少し、よろしいでしょうか」
殿下の目が明るくなりました。
「相談?」
「はい」
ハインツが小さく笑いました。
「殿下、顔を戻してください」
「何が?」
「かなり嬉しそうです」
「嬉しい」
研究会員たちからも笑いが起こります。
「放課後、研究会室へ来ていただけますか?」
ご令嬢が尋ねました。
「もちろん」
殿下は即答しました。
「何について?」
「葉の測定方法です」
「ああ」
「昨日から試しているのですが、測る人によって数字が少しずれます」
「王宮では」
殿下は言いかけ、そこで止まりました。
ご令嬢がじっと見ています。
「……まず、皆の方法を聞く」
「ありがとうございます」
「どれくらい時間が使える?」
殿下が続けて尋ねます。
研究会員たちは少し驚いた顔をしました。
「毎日、放課後の活動時間のうち三十分程度です」
「三十分」
「はい。測定だけに全て使うことはできません」
「人数は?」
「毎日揃うのは三人ほどです」
「道具は?」
「定規と温度計、記録用紙です」
殿下は頷きました。
「分かった」
「王宮の方法は、もっと時間がかかりますか?」
「かなり」
「どれくらい?」
「三鉢全部で二時間以上」
研究会員たちが一斉に黙りました。
「無理」
一人が率直に言いました。
周囲から笑いが起こります。
「ですよね」
「毎日は無理です」
「殿下、その方法を勧めるつもりでした?」
四十秒担当の女生徒が尋ねると、殿下は少し視線を逸らしました。
「朝までは」
「朝までは?」
「今は勧めない」
「マリア様に止められました?」
「ああ」
ご令嬢は口元へ手を添え、笑いを堪えました。
「では、放課後にお願いします」
「ああ」
「殿下」
「何だ」
「一番正確な方法を教えていただくのではなく」
ご令嬢は言葉を選びました。
「私たちが続けられる中で、どこまで揃えられるかを一緒に考えていただきたいです」
殿下はすぐには答えませんでした。
相談の形が、はっきり示されています。
正解をもらうのではない。
条件の中で一緒に考える。
「分かった」
殿下は静かに頷きました。
「私は、王宮の方法を基準にしすぎない」
「はい」
「皆の時間と道具でできる方法を考える」
「お願いします」
「かなり考えたい」
「増やしすぎないでください」
「何案まで?」
「今は決めません」
「三案くらい?」
「殿下」
「確認しただけだ」
◇
昼休みの生徒会室で、殿下は相談内容を手帳へ書いていました。
ただし、以前のように解決策を並べてはいません。
最初の頁には、研究会から聞いた条件が記されています。
毎日三十分程度。
参加できるのは三人ほど。
使える道具は定規、温度計、記録用紙。
葉を傷つけない。
誰が測っても、大きくずれない。
活動を続けられる負担にする。
ハインツが横から覗き込みました。
「今日は案ではなく、条件ですか」
「ああ」
「かなりよいですね」
「受け取る」
「王宮標準手順は?」
「鞄にある」
「持ってきたのですね」
「参考資料として」
「最初に開かないでください」
「ああ」
殿下は手帳を見ながら、少し考え込んでいました。
「ハインツ」
「はい」
「正確さを下げることに、抵抗はある?」
「あります」
「やはり?」
「生徒会の記録でも、正確である方がよいです」
「ああ」
「ただし、記録を作る負担が大きすぎて誰も続けられないなら、方法を簡単にします」
「どこまで?」
「後から必要になる情報を失わない範囲で」
「それが難しい」
「はい」
「正確さを減らすのではなく、必要な正確さを決める?」
「その考え方が近いと思います」
殿下は手帳へ新しく書き加えました。
『最も正確ではなく、目的に必要な正確さ』
「かなりよい言葉だ」
「自分で褒めていますね」
「受け取る」
「誰からですか?」
「自分から」
「便利ですね」
殿下は少し笑いました。
「私は、正しい方法を教えれば助けになると思っていた」
「はい」
「でも、それを続ける人の生活までは考えていなかった」
「はい」
「研究会員が疲れたら?」
「続きません」
「続かなければ、正確な方法も意味がない」
「そうですね」
「なら、今日は」
殿下は手帳を閉じました。
「正しさを渡すのではなく、続けられる線を一緒に探す」
「かなりよいと思います」
◇
放課後の植物研究会室には、普段より多くの記録用紙が並んでいました。
窓際の三鉢には、小さな番号札が置かれています。
一鉢目。
二鉢目。
三鉢目。
その中の葉にも、直接傷を付けないよう、鉢の縁から細い糸を伸ばし、位置だけを示す工夫がされていました。
廊下の外には、数人の生徒が集まっています。
「また殿下来るらしいよ」
「今度は測り方?」
「王宮の道具持ってくるのかな」
「研究会室が王宮みたいになるんじゃない?」
小さな声が扉の向こうから聞こえました。
担当教員が廊下へ顔を出します。
「活動の邪魔にならない位置へ下がってください」
「はい」
生徒たちは素直に数歩下がりました。
完全には帰りません。
殿下が今度こそ王宮式の大がかりな方法を持ち込むのではないかと、気になるのでしょう。
やがて、殿下がマリアとハインツを伴って現れました。
手には薄い本があります。
研究会員たちの視線が、その本へ集まりました。
「王宮の方法ですか?」
代表が尋ねます。
「ああ」
「使うのですか?」
「必要なら一部だけ」
殿下はすぐに本を机へ置きませんでした。
「まず、皆が試した方法を見せてほしい」
ご令嬢が頷き、記録用紙を差し出しました。
「最初は、同じ葉でも五ミリほどずれました」
「原因は?」
「葉の付け根をどこから見るか、人によって違ったことです」
「その後は?」
「写真へ付け根の位置を記し、同じ場所から測るようにしました」
「ずれは?」
「一ミリほどです」
殿下は記録を見ます。
数字だけではなく、測定者の名前、時刻、気づいたことも書かれていました。
「かなりよい」
殿下が言うと、研究会員たちの表情が少し明るくなりました。
「本当ですか?」
「ああ」
「王宮よりは正確ではない?」
「正確さだけなら」
殿下は少し考え、言葉を選び直しました。
「王宮の方が細かい」
「はい」
「でも、これは皆が作った条件に合っている」
「続けられる?」
「三十分なら」
殿下は机の上の定規を手に取りました。
「一枚ずつ写真を撮るのは時間がかかる?」
「はい」
「毎回撮らなくてもよいと思いますか?」
ご令嬢が尋ねました。
「私なら」
殿下は一度、言葉を止めました。
「皆は、何の変化を見たい?」
「葉の長さです」
「付け根そのものは成長で動く?」
「ほとんど動かないと思います」
「なら、最初に位置を記録し、葉の形が大きく変わった時だけ撮り直す方法もある」
「毎日ではなく?」
「ああ」
「それなら続けられそう」
「でも、葉が増えた時は?」
「新しい葉だけ最初に撮る?」
「よさそう」
研究会員たちは話し始めました。
殿下はすぐに次の答えを出しません。
皆の会話が一段落してから、机の上の本へ手を置きました。
「王宮では、付け根を金具で固定する」
「葉を挟むのですか?」
「ああ。ただし、傷めないよう柔らかい布を使う」
「毎回?」
「ああ」
「時間は?」
「一枚四分ほど」
研究会員たちは顔を見合わせました。
「やっぱり無理」
「二十八枚で二時間近い」
「準備もある」
「使わない?」
殿下は本を閉じたまま頷きました。
「使わない方がよいと思う」
室内が少し静かになりました。
誰もが、殿下なら王宮の方法を勧めると思っていたのでしょう。
「殿下がそう言うのですか?」
四十秒担当の女生徒が尋ねました。
「ああ」
「一番正確なのに?」
「皆が続けられない」
「正確でも?」
「ああ」
殿下は記録用紙へ視線を落としました。
「皆の目的は、王宮へ残す標準記録を作ることではない」
「はい」
「光の違いで、葉がどう変わるかを見ることだ」
「はい」
「なら、その違いが分かる程度に、同じ方法で測れればよい」
ご令嬢が少し目を見開きました。
「誤差が一ミリあっても?」
「毎回五ミリずつ変わるなら問題だ」
「ああ」
「だが、同じやり方で一ミリ前後なら、変化を見るには使えるかもしれない」
「絶対ではない?」
「最初の数日、同じ葉を二人で測って、ずれが増えないか確認した方がよい」
殿下は提案したあと、すぐに付け加えました。
「ただし、毎日全てを二人で測る必要はない」
研究会員たちから笑いが起こりました。
「先に減らしましたね」
「増やしそうだと思われた」
「かなり」
殿下も少し笑いました。
「二人で測るのは、最初の三日だけではどう?」
一人の会員が言いました。
「その後、週に一度確認する」
「ずれが増えたら方法を見直す?」
「よいと思う」
ご令嬢が殿下へ向き直りました。
「殿下はどう思いますか?」
「続けられそう?」
「はい」
「なら、よいと思う」
「もっと正確にする方法はありますか?」
殿下はすぐに答えませんでした。
手元の本を見ます。
王宮の標準手順には、さらに細かな方法が書かれています。
測定台。
専用金具。
同じ時刻。
同じ室温。
測定前の水分調整。
全部使えば、数字はより揃うでしょう。
「ある」
殿下は正直に答えました。
「かなり?」
「かなり」
「教えていただけますか?」
研究会員の一人が尋ねました。
殿下は、その質問へすぐに飛びつきませんでした。
「知りたい?」
「少し」
「使いたい?」
「……多分、全部は無理です」
「なら、今は聞かなくてもよい」
生徒たちが驚いたように殿下を見ました。
「殿下が、説明しない?」
「かなり説明したい」
「では、なぜ?」
「聞けば、やらなければならない気がするかもしれない」
室内が静かになりました。
ご令嬢の表情が、ゆっくり柔らかくなります。
「殿下の方法を知るだけでも、負担になると?」
「ああ。王宮の方法と比べて、自分たちは雑だと思うかもしれない」
「少し思うかもしれません」
四十秒担当の女生徒が正直に言いました。
「正確な方があるなら、そちらを使うべきだって」
「でも続かない」
「はい」
「なら、今必要な部分だけでよい」
殿下は薄い本を鞄へ戻しました。
「皆の方法が使えなくなった時に、別の部分を見ればよい」
研究会員たちはしばらく黙っていました。
廊下の外でも、生徒たちが声を潜めています。
王太子が王宮の方法を持ってきた。
けれど、それを広げませんでした。
自分の知っている最も正確な答えではなく、研究会が続けられる方法を残しました。
「殿下」
ご令嬢が静かに呼びかけました。
「何だ」
「ありがとうございます」
「私は、あまり何もしていない」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
ご令嬢は机の上の記録用紙を見ました。
「一番正しい方法を見せられたら、私たちはそれに近づかなければならないと思ったかもしれません」
「ああ」
「でも殿下は、私たちの方法を先に見てくださいました」
「ああ」
「足りないところだけ、一緒に考えてくださいました」
「ああ」
「かなり助かりました」
殿下の表情が少し明るくなりました。
「かなり?」
「かなり」
「受け取る」
◇
相談は、そこで終わりませんでした。
研究会員たちは、実際に殿下の前で葉を測りました。
一人が定規を当て、もう一人が記録します。
「葉を持ち上げすぎていない?」
「少し」
「でも下げると定規が当たらない」
「定規を斜めにする?」
「曲がる」
殿下は手を出さずに見ていました。
何度か指先が動きます。
自分ならこうする。
その考えが浮かんでいるのでしょう。
「殿下」
マリアが小声で呼びました。
「何だ」
「かなり直したそうですね」
「ああ」
「今は?」
「見ている」
「偉いです」
「かなり?」
「少しです」
研究会員たちは、細い厚紙を定規の下へ置く方法を試しました。
葉を持ち上げず、定規だけを同じ高さへ揃えるためです。
「これなら?」
「さっきより測りやすい」
「厚紙の高さは?」
「一枚じゃ足りない葉もある」
「二種類作る?」
「増えすぎるかな」
殿下が手を挙げました。
研究会員たちが一斉に殿下を見ます。
「言ってよい?」
ご令嬢が笑いました。
「はい」
「厚紙を何種類も作るより、薄い板を重ねて高さを変える方がよいかもしれない」
「重ねる?」
「ああ。一枚ずつは同じ厚さにする」
「三枚なら三段階?」
「必要な分だけ」
「王宮にもありますか?」
「似たものはある」
「でも簡単に作れそう」
「厚紙を同じ大きさに切れば」
「明日作ろう」
会員たちの声が重なりました。
殿下は、それ以上案を増やしません。
「他には?」
一人が尋ねました。
殿下は少し考えました。
「今はない」
「本当に?」
「あるが」
「あるんですね」
「今の方法を試してからでよい」
研究会員たちが笑いました。
「殿下、かなり我慢しています」
「かなり」
「顔に出ています」
「それは仕方ない」
◇
活動の最後に、研究会員たちは新しい測定方法を決めました。
葉の付け根は、最初に写真へ記録する。
毎日同じ位置から測る。
高さを揃えるため、同じ厚さの厚紙を重ねて使う。
最初の三日間は二人で同じ葉を測る。
その後は一人で測り、週に一度だけ二人で誤差を確認する。
毎日の測定は、葉の長さと枚数だけ。
色や角度は、週に一度記録する。
王宮の標準手順より、かなり簡単です。
けれど、研究会員たちはこの方法なら続けられると判断しました。
「殿下」
代表の女生徒が尋ねました。
「これでよいと思いますか?」
以前なら。
殿下は、より正確にするための追加案を出したかもしれません。
温度の測定時刻。
水やりの量。
測定者の交代規則。
定規の置き方を示す図。
今も、頭の中にはいくつもの改善案があるでしょう。
殿下は、研究会員たちの顔を見ました。
疲れ切ってはいません。
不安そうでもありません。
自分たちで決めた方法を、早く試してみたいという表情です。
「よいと思う」
殿下は答えました。
「最も正確ではないが」
室内の空気が少し緊張しました。
「皆が毎日続けられるなら、今の研究には合っている」
研究会員たちの表情が緩みました。
「使ってみて、困ったら変える?」
「はい」
「それでよい」
「途中で方法を変えたら、記録が比べにくくなりませんか?」
「変えた日を残せばよい」
「失敗になりますか?」
四十秒担当の女生徒が尋ねました。
殿下は少し考えました。
「方法が合わないと分かって変えるなら、失敗だけではない」
「失敗もある?」
「ああ。最初の記録が使いにくくなるかもしれない」
「はい」
「でも、続けられない方法を守るよりよい」
女生徒はゆっくり頷きました。
「それなら、変えた理由も書きます」
「ああ」
「殿下」
ご令嬢が声をかけました。
「何だ」
「今日、王宮の方法を全て説明しなかったことは、残念ですか?」
「かなり」
室内に笑いが広がりました。
「でも、出さなくてよかったと思う」
「本当に?」
「ああ」
「なぜですか?」
殿下は少しだけ視線を落としました。
「私は、知っていることを全部渡せば、誠実だと思っていた」
「はい」
「でも、受け取る側が使えない量なら、負担になる」
「はい」
「今必要な部分だけ渡す方が、相手を見ている」
ご令嬢は、しばらく殿下を見つめていました。
「かなり、変わられましたね」
殿下が僅かに固まりました。
「褒めている?」
「はい」
「全部?」
「全部です」
「受け取る」
◇
研究会室を出ると、廊下に残っていた生徒たちが一斉にこちらを見ました。
「どうなった?」
「王宮の道具、使うの?」
「殿下が方法を決めた?」
研究会員たちは笑いながら答えました。
「使わないよ」
「え?」
「自分たちで作った方法を少し直した」
「殿下の方法じゃなくて?」
「殿下が、今の方が続けやすいって」
驚きの声が広がりました。
「王宮の方が正しいんじゃないの?」
一人の生徒が尋ねました。
殿下は立ち止まりました。
「正確さは高い」
「ああ」
「でも、毎日二時間以上かかる」
「無理ですね」
周囲から笑いが起こります。
「研究会には、研究会の時間がある」
殿下は続けました。
「必要な正確さを保ち、続けられる方法を選んだ」
「殿下は、それでよいのですか?」
「ああ」
「王宮の方法を使わなくても?」
「使うために研究するのではない」
生徒たちは静かになりました。
「研究を続けるために、方法を使う」
殿下の言葉に、研究会員たちが頷きました。
廊下の空気が少し変わりました。
王太子が知る正しい方法へ従うのではなく。
自分たちが続けられる形を選ぶ。
それを、王太子本人が認めています。
その光景は、植物研究会だけの話ではありませんでした。
周囲で聞いていた生徒たちの中にも。
正しいやり方が分かっていても、自分には続けられないと悩んだ者がいたのでしょう。
「勉強も同じかな」
誰かが小さく呟きました。
「毎日三時間が正しいって言われても無理」
「三十分なら続く」
「でも三十分じゃ少ない?」
「続かない三時間よりはいいんじゃない?」
会話が広がっていきます。
殿下はその声を聞きながら、少し考え込んでいました。
◇
夕方。
校舎裏のベンチへ戻ると、空は淡い橙色へ変わっていました。
運動場から聞こえていた声は少なくなり、木々の葉を揺らす風も、昼より穏やかです。
殿下は鞄から王宮植物観察標準手順を取り出しました。
朝には、これを研究会へ渡すつもりでした。
今は、膝の上へ置いたまま開きません。
「使いませんでしたね」
マリアが隣へ座ると、殿下は頷きました。
「ああ」
「かなり説明したかったですか?」
「かなり」
「我慢できましたか?」
「一部は」
「全部では?」
「厚紙を重ねる案は言った」
「それは求められた範囲です」
「ああ」
殿下は本の表紙を撫でました。
「この方法は、間違っていない」
「はい」
「長く残す記録なら必要だ」
「はい」
「でも、研究会には重すぎる」
「はい」
「私は、正しいものなら、相手も使うべきだと思っていた」
「はい」
「使えないと言われたら、工夫して使えるようにすればよいと」
「はい」
「人を増やす。道具を貸す。時間を作る」
「殿下なら、全て整えられるかもしれません」
「ああ」
「ですが、それは研究会が望んだ活動でしょうか」
「違う」
殿下は静かに答えました。
「そこまで整えれば、私の研究に近くなる」
「はい」
「研究会員たちの研究ではなくなる」
夕方の光が、厚い本の縁を照らしていました。
「マリア」
「はい」
「支える時に、自分ができる最大を出さない方がよいこともある?」
「あります」
「かなり難しい」
「殿下は、できることが多いですから」
「ああ」
「だからこそ、相手が必要としている大きさへ合わせる必要があります」
「できるだけ多くではなく?」
「はい」
「必要なだけ」
「はい」
殿下はしばらく黙っていました。
「私は」
やがて、ゆっくり口を開きます。
「全部渡さないと、隠しているような気がした」
「はい」
「もっとよい方法を知っているのに、言わないのは不誠実だと」
「はい」
「でも、今日の研究会員たちは、知らない方が楽だった?」
「楽というより、今の課題へ集中できたのだと思います」
「ああ」
「必要になれば、殿下へまた聞けます」
「ああ」
「今すぐ全て知る必要はありません」
殿下は少し笑いました。
「私は、知っていることを順番に渡す練習が必要だ」
「かなり」
「百二十七個を一度に出さない」
「はい」
「十枚も出さない」
「はい」
「厚い本も開かない」
「必要なら開いてください」
「今日は必要なかった」
「はい」
殿下は本を鞄へ戻しました。
「今日、研究会の方法は王宮より正確ではない」
「はい」
「でも、研究会員が自分たちで毎日続ける」
「はい」
「私は、それをよいと思えた」
「かなり成長しました」
「全部?」
「全部です」
「受け取る」
殿下は少し満足そうに笑いました。
「ただ」
「何でしょう」
「厚紙を王宮工房で正確に切れば」
「殿下」
「同じ厚さに揃う」
「研究会員が明日、自分たちで作ると言っていました」
「ずれるかもしれない」
「そのずれも含めて、自分たちで試します」
「かなり作りたい」
「我慢してください」
◇
正しい方法は、大切です。
正確な記録も、大切です。
後から比べられること。
誰が行っても同じ結果になること。
間違いを減らすこと。
どれも、軽く扱ってよいものではありません。
けれど。
方法は、使う人のためにあります。
使う人が疲れ切り。
時間が足りなくなり。
続けることそのものが嫌になれば。
どれほど正しい方法でも、途中で終わります。
植物研究会が使える時間は、毎日三十分ほどでした。
王宮の標準手順を使えば、二時間以上かかります。
王宮の方法は、より正確です。
けれど、研究会員たちには続けられません。
殿下は、その方法を勧めませんでした。
研究会員たちが試した方法を先に見て。
困っている部分だけを一緒に直しました。
最も正確な答えではなく。
今の目的に必要な正確さと、毎日続けられる負担の間を探したのです。
それは、手を抜いたのではありません。
相手の時間や力を、方法の中へ含めて考えたということです。
王太子殿下。
支える時に大切なのは。
自分が出せる最大の助けではなく。
相手が自分のものとして使える助けです。
ですから殿下。
研究会員が使う厚紙を、王宮工房へ発注しないでください。
ただの厚紙です。
一枚ごとの厚さを王家基準で検査する必要もありません。
測定用定規へ王太子紋章を刻むことも禁止です。
研究会員が緊張して使いにくくなります。
それから。
今回使われなかった王宮標準手順を、『将来必要になるかもしれない参考文献』として研究会室へ十二冊置かないでください。
一冊あれば十分です。
最後に。
ご令嬢が「一緒に考えていただきたい」と言ったからといって。
今後の全測定日に同席しようとしないでください。
毎日見守ることは。
一緒に考えることではありません。
かなり監視に近づきます。
本当にお願いします。




