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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第93話 王太子殿下、まだ困っていない人のために解決策を並べない


 誰かを大切に思うと、その人が困る前に助けたくなることがあります。


 不安になる前に安心させたい。失敗する前に危険を取り除きたい。意見がぶつかる前に、全員が納得できる方法を用意したい。


 それは、相手を思っているからこそ生まれる気持ちです。


 だからこそ、自分では善意だと信じやすいものでもあります。


 けれど、まだ誰も困っていないのに解決策だけを差し出されると、相手は戸惑います。


 自分はそんなに危なそうに見えたのか。


 一人では何も決められないと思われたのか。


 少し意見が違うだけなのに、すでに揉めていると思われたのか。


 相手が感じてもいない不安を先に言葉へされることで、初めて不安になることさえあります。


 王太子殿下は、かなり先回りする方でした。


 問題が起きてから考えるのでは遅い。


 起きる可能性があるなら、先に準備する。


 それ自体は、王太子として間違ってはいません。


 国境の守りも、災害への備えも、食糧不足への対策も、実際に問題が起きる前から考えなければなりません。王国全体を守る立場なら、可能性を拾い、最悪を想定し、誰より早く準備することは必要です。


 しかし。


 恋愛と研究会の話し合いは、国家危機ではありません。


 好きな方が少し考え込んでいたからといって、心の中で緊急会議を始める必要はありません。


 研究会員の意見が三つに分かれたからといって、仲裁案、投票案、折衷案、役割分担案を二十通り並べる必要もありません。


 ましてや、誰からも相談されていないうちに。


「困っているだろう」


 と決めるのは、かなり早すぎます。


          ◇


 発表会と反省会が終わってから、二日目の朝。


 学園の空には薄い雲が広がっていました。


 雨が降るほどではありませんが、陽射しは柔らかく、校舎の石壁もいつもより淡い色に見えます。夜の冷気がまだ地面近くへ残り、風が抜けるたび、木々の葉から小さな露が落ちていました。


 校舎裏のベンチへ向かうと、殿下はいつもの場所に座っていました。


 膝の上には紙があります。


 一枚ではありません。


 十枚ほどです。


 反省会へ二十三個の質問候補を持ってきた時よりは少ないですが、朝の恋愛相談としては明らかに多すぎます。


「おはようございます、殿下」


「ああ。おはよう、マリア」


「今日は何を作られたのですか?」


「まだ何も作っていない」


「では、その紙は?」


「考えられる案を整理しただけだ」


「何についての案ですか?」


 殿下は一度、紙へ目を落としました。


「植物研究会の次の研究方針」


 私は殿下の隣へ座りました。


「研究会の方針は、研究会員だけで決めると聞いています」


「ああ」


「殿下は、決まるまで待つと約束しました」


「ああ」


「では、その紙は必要ですか?」


「決めるためではない」


「何のためです?」


「もし、意見がまとまらなかった時のためだ」


 殿下はそう言って、紙の一枚目を私へ見せました。


 そこには整った文字で、三つの項目が書かれています。


 一、光の影響を優先する場合。


 二、風の影響を優先する場合。


 三、測定方法の統一を優先する場合。


 その下には、それぞれの利点と問題点が細かく整理されていました。


「かなり調べましたね」


「ああ」


「いつからですか?」


「昨夜」


「ご令嬢の『またお会いしましょう』を予定へ変えないよう我慢した夜に、こちらを始めたのですね」


 殿下は少し目を逸らしました。


「眠れなかったわけではない」


「何時まで?」


「日付は変わった」


「かなり遅いです」


「でも、研究会が困った時にすぐ役立つ」


「研究会は困っていますか?」


 殿下は答えませんでした。


「ご令嬢から相談を受けましたか?」


「まだ」


「他の会員からは?」


「受けていない」


「担当教員からは?」


「何も聞いていない」


「話し合いが揉めているという噂は?」


「ない」


 朝の風が、殿下の持つ紙を僅かに揺らしました。


「殿下」


「何だ」


「まだ誰も困っていません」


「ああ」


「ですが、殿下は解決策を十枚用意しました」


「可能性はある」


「何の可能性ですか?」


「意見が割れる可能性だ」


「意見は割れるでしょうね」


「なら、やはり必要では?」


「意見が違うことと、困っていることは同じですか?」


 殿下は紙から視線を上げました。


 遠くでは、朝練を終えた生徒たちが校舎へ戻っていきます。笑い声が木々の間を通り、足音が石畳へ重なっていました。


「同じではない?」


「研究会員全員が、最初から同じことへ興味を持っていたわけではありません」


「ああ」


「反省会でも、光、風、測定方法、それぞれ違うところへ関心を持っていました」


「ああ」


「その違いを、ご令嬢たちは研究会らしさとして受け止め始めています」


「だが、優先順位は決めなければならない」


「はい」


「全員の希望は通らない」


「はい」


「選ばれなかった者は、残念に思うかもしれない」


「思うかもしれません」


「なら」


「それでも、ご本人たちで話し合う時間は必要です」


 殿下の眉が僅かに寄りました。


「私は、全員が納得できる案を考えた」


「ありますか?」


「三つを完全に分けず、一週間ごとに調査を切り替える」


「かなり忙しそうですね」


「補助人員を増やせばよい」


「研究会員たちは増員を希望していますか?」


「まだ聞いていない」


「殿下」


「分かっている」


 殿下は紙を膝の上へ戻しました。


「聞いていないことが多い」


「はい」


「でも、考えてしまった」


「はい」


「私は王太子として、先に考えることへ慣れている」


「そうですね」


「問題が起きてからでは遅いことも多い」


「はい」


「なら、どこからが先回りしすぎる?」


 殿下の声は真剣でした。


 単に止められたことへ不満を抱いているのではありません。王太子として身につけてきた考え方と、好きな方や周囲の生徒たちへ接する時の距離が、まだうまく分けられないのでしょう。


「殿下」


「何だ」


「国を守る時、殿下は多くの民へ影響する危険を想定します」


「ああ」


「ですが、一人の方の心配事まで同じ方法で扱えば、その方が自分で考える前に、殿下が問題を決めてしまいます」


「問題を決める?」


「はい。殿下が『意見が割れて困るだろう』と言えば、ご令嬢たちは困っていなくても、殿下にはそう見えていたのだと意識します」


「ああ」


「『この方法なら揉めない』と案を渡せば、まだ揉めてもいないのに、揉める前提で話し合うことになります」


「それは、困らせる?」


「可能性はあります」


 殿下はしばらく黙りました。


「私は助けたいだけだ」


「はい」


「皆が悩む時間を減らしたい」


「はい」


「ご令嬢が困った顔をするのは嫌だ」


「はい」


「でも、困った顔をする前に動けば」


「ご令嬢が、ご自身で悩み方を選ぶ時間まで減らしてしまうことがあります」


 殿下は長く息を吐きました。


「かなり難しい」


「かなり」


「この紙は?」


「今日はしまってください」


「捨てる?」


「そこまでは言いません」


「相談されたら使える?」


「相談の内容と合っていれば」


「合わない可能性もある?」


「かなりあります」


 殿下は紙を見つめました。


「私は十枚も考えた」


「はい」


「全く違うことで困っているかもしれない?」


「はい」


「研究内容ではなく、机が足りないとか」


「ありますね」


「話し合いが長引いて昼食を食べ損ねたとか」


「あります」


「それなら、私はかなり先へ行きすぎた」


「戻ってきてください」


 殿下は紙を揃え、鞄の中へしまいました。


「今日は聞かない」


「何をですか?」


「揉めていないか」


「はい」


「困っていないか」


「はい」


「解決策は必要か」


「はい」


「では、何なら聞いてよい?」


「普通に挨拶してください」


「かなり少ない」


「会えたら、です」


「ああ」


 殿下は少し残念そうでした。


「相談されたら?」


「その時に、まず何へ困っているのか聞いてください」


「すぐに紙を出さない?」


「はい」


「十枚あるが」


「はい」


「かなり使いたい」


「我慢してください」


          ◇


 その頃、植物研究会では、次の研究方針を決めるための話し合いが始まっていました。


 発表会で使った三鉢は、研究会室の窓際へ戻されています。


 一番日当たりのよい場所には、葉が広がり始めた鉢。風の影響を比べる鉢は、窓から少し離れた机。もう一鉢は、時間ごとに場所を変えられるよう入口近くへ置かれていました。


 机の中央には、三枚の大きな紙があります。


『光』


『風』


『測定方法』


 研究会員たちは、自分が優先したい項目の周囲へ、理由や疑問を書き込んでいました。


「光を先に調べるなら、置く場所を増やしたい」


「でも、同じ温度で明るさだけ変えるのは難しくない?」


「窓際と部屋の奥では、温度も変わる」


「だから測定方法が先なんじゃない?」


「温度を揃える方法も含めて?」


「うん」


「私は風が気になる」


 四十秒の説明を担当した女生徒が、風と書かれた紙へ短い線を引きました。


「発表会で、葉が揺れること自体が成長へ影響するのか聞かれたでしょう」


「答えられなかった質問だね」


「はい。だから調べたいです」


「でも風を測る道具がない」


「そこから考えるのも研究じゃない?」


「確かに」


 意見は揃っていません。


 けれど、声を荒らげる者はいませんでした。


 誰かが話せば、別の者が理由を尋ねます。否定する時も、「違う」ではなく「その条件だと、こちらも変わらないか」と問い直していました。


 発表会前なら、意見がまとまらないことへ焦りを感じたかもしれません。


 限られた時間で発表内容を決め、役割を整え、見学者へ伝わる形へしなければならなかったからです。


 今は違います。


 結論を今日中に出す必要はありません。


 分からないことが増えても、それ自体が研究を続ける理由になります。


「ご令嬢は、やっぱり光?」


 代表が尋ねました。


「はい。ただ、測定方法を先に整える必要があるという意見も分かります」


「両方やりたい?」


「かなり」


 殿下の口癖を使ったことで、何人かが笑いました。


「殿下なら、三つ全部やろうとする」


「測定器も用意する」


「人も増やす」


「研究会室も広げる」


「研究対象の鉢も百鉢くらい増える」


「そこまでは」


 ご令嬢は否定しようとしましたが、少し考え直しました。


「……増やされるかもしれません」


 部屋に笑いが広がります。


「だから、まだ殿下には相談しない?」


「はい。まず、自分たちが何に迷っているのかを整理したいです」


「でも、これだけ意見が違うと時間かかりそう」


「時間はあります」


 ご令嬢は三枚の紙を見ました。


「発表会のために決めるのではありません。私たちが次に何を知りたいかを決めるのですから、急がなくてもよいと思います」


 四十秒担当の女生徒が頷きました。


「私は、今日決まらなくてもいいです」


「どうして?」


「前なら、決まらないと不安でした。でも今は、皆が違う理由を聞くのが少し楽しいです」


「少し?」


「かなり」


 また笑いが起こりました。


「ただ、ずっと決まらないのも困る」


「では、今日は理由を集める。明日、条件を比べる。そのあと決める?」


「いいと思う」


「投票は?」


「最後の手段かな」


「全員が一つずつ諦める形にはしたくない」


「じゃあ、最初の一か月で何をするかだけ決める?」


 話し合いは、少しずつ形を変えていきました。


 三つのうち一つを永遠に選ぶのではなく、最初に調べるものを決める。


 そのために必要な条件を比べる。


 選ばなかったテーマも、観察項目として残せないか考える。


 まだ結論は出ていません。


 それでも、研究会員たちは自分たちで次の進み方を見つけ始めていました。


          ◇


 午前の授業が終わると、廊下には発表会後の新しい噂が広がっていました。


「植物研究会、次は風を調べるらしいよ」


「光じゃなかった?」


「まだ決まってないって」


「殿下が決めるんじゃないの?」


「今度は研究会だけで決めるらしい」


「殿下、待てるの?」


「かなり頑張ってるらしい」


 生徒たちは笑いながら話しています。


 殿下本人は、その少し後ろを歩いていました。


 噂が耳へ入っていないはずがありません。


「殿下」


 隣を歩くハインツが小声で言いました。


「何だ」


「研究会はまだ決まっていないそうです」


「聞こえた」


「かなり気になりますか?」


「かなり」


「見に行きますか?」


「行かない」


「即答ですね」


「私は待つと約束した」


「では安心しました」


 殿下は数歩進みました。


「ただ」


「はい」


「まだ決まっていないということは、意見がまとまっていない」


「そうでしょうね」


「困っているかもしれない」


「朝、マリア様から何を言われました?」


 殿下は黙りました。


「殿下」


「まだ困っているとは限らない」


「はい」


「意見が違うことと、困っていることは同じではない」


「はい」


「私は分かっている」


「なら、研究会棟の方を見ないでください」


 殿下は視線を正面へ戻しました。


「見ていない」


「先ほどから三回ほど」


「建物を見ただけだ」


「中にご令嬢がいらっしゃる建物ですね」


「かなり細かい」


          ◇


 昼休み。


 中庭には、薄い雲の間から柔らかな陽射しが落ちていました。


 風は朝より少し暖かく、芝生の上では数人の生徒が昼食を広げています。発表会で使われた案内板が撤去されたことで、中央の通路は以前より広く見えました。


 殿下はハインツと生徒会室へ戻る途中でした。


 研究会棟へ寄るつもりはありません。


 少なくとも、足は真っ直ぐ生徒会棟へ向かっています。


 ただし、視線は時々、反対側の回廊へ動いていました。


「殿下」


「何だ」


「探していますね」


「探していない」


「ご令嬢を」


「会えたら嬉しいと思っているだけだ」


「昨日学んだことを覚えていらっしゃいますね」


「ああ」


「では、そのまま歩いてください」


「かなり厳しい」


 その時、研究会棟の扉が開きました。


 数人の研究会員が、紙と筆記具を持って出てきます。話し合いの途中で、昼食を買いに向かうのでしょう。


 ご令嬢も一緒でした。


 殿下の歩みが一瞬だけ遅くなります。


 しかし、止まりません。


「殿下」


 ハインツが驚いたように言いました。


「何だ」


「お声をかけないのですか?」


「話し合いの途中かもしれない」


「はい」


「昼食へ向かっている」


「はい」


「私は生徒会室へ戻る」


「かなり立派です」


「会いたくないわけではない」


「分かっています」


 そのまますれ違うかと思われました。


 けれど、ご令嬢の方が殿下へ気づきました。


 隣の会員から何かを囁かれ、こちらへ視線を向けます。少し迷ったあと、仲間たちへ短く断り、殿下の方へ歩いてきました。


「こんにちは、殿下」


「こんにちは」


 殿下の表情が明るくなりました。


 昨日ほど固まりはしませんでしたが、嬉しさを隠す気はないようです。


「研究会の話し合い中ですか?」


 殿下が尋ねます。


「はい。今は昼食休憩です」


「ああ」


 殿下はそこで口を閉じました。


 ご令嬢は少し待ちます。


「……何も聞かれないのですか?」


「何を?」


「次の方針が決まったかどうか」


「聞きたい」


「かなり?」


「かなり」


 ご令嬢は小さく笑いました。


「でも、決まるまでは研究会だけで話す」


「はい」


「私は待つ」


「ありがとうございます」


 殿下は頷きました。


 そして、数秒だけ迷ったあと、慎重に尋ねます。


「一つだけ、聞いてよい?」


「内容によります」


「困っている?」


 ご令嬢は少し目を丸くしました。


「私がですか?」


「ああ。研究会が、ではなく。あなたが」


 朝の殿下なら、「意見が割れて困っているだろう」と決めた上で、解決策を出していたかもしれません。


 今は、答えを決めずに聞いています。


 ご令嬢は少し考えました。


 研究会棟の前では、仲間たちがこちらの様子を見ています。急かす者はいません。昼休みの中庭には他の生徒たちの声が流れ、二人の間だけが静かに切り取られていました。


「少し迷っています」


「何に?」


 殿下の声がすぐに続きましたが、解決策は出ません。


「私は光の影響を先に調べたいです。でも、測定方法を整えなければ、結果が正しいか分からないという意見も納得できます」


「ああ」


「風についても、発表会で答えられなかった質問があります」


「ああ」


「だから、一つに絞ることが少し惜しいです」


「それは、困っている?」


 ご令嬢は再び考えました。


「悩んではいます」


「ああ」


「でも、嫌ではありません」


「違う?」


「はい。皆の理由を聞くのは楽しいです」


 殿下の表情が僅かに変わりました。


「意見が違うのに?」


「違うからです」


「揉めていない?」


「まだ」


 ご令嬢は笑いました。


「殿下は、揉めると思っていましたか?」


 殿下は正直に頷きました。


「かなり」


「それで、何か考えました?」


「十枚ほど」


 ご令嬢が黙りました。


 少し離れた研究会員たちから笑いが漏れます。


「持っているのですか?」


「鞄に」


「見せてくださるつもりでした?」


「朝は」


「今は?」


「まだ必要ないと思っている」


 ご令嬢は、少しだけ安堵したように息を吐きました。


「ありがとうございます」


「困ったら見せる?」


「困った時に、まず私たちが何へ困っているのか聞いてください」


「ああ」


「殿下の十枚が、全く違う問題のためのものかもしれません」


「マリアにも言われた」


「例えば?」


「机が足りないとか」


 ご令嬢が笑いました。


「今、少し足りません」


「本当に?」


 殿下の顔が一瞬で真剣になりました。


「増やす?」


「殿下」


「違う。まだ頼まれていない」


 ご令嬢は口元へ手を当て、笑いを堪えました。


「一つの机へ紙を広げすぎただけです。片づければ足ります」


「ああ」


「今、かなり助けようとしましたね」


「かなり」


「でも止まりました」


「ああ」


「偉いです」


「褒める?」


「かなり」


「受け取る」


 周囲で見ていた生徒たちも笑っています。


 殿下は少し恥ずかしそうでしたが、すぐにご令嬢へ視線を戻しました。


「では、今は楽しい?」


「はい」


「迷っているが?」


「はい」


「困ってはいない?」


「今のところは」


「ああ」


「ただ、決まらなければ、後で相談するかもしれません」


 殿下の目が少し明るくなりました。


「本当に?」


「はい」


「かなり?」


「相談が必要なら、かなり」


「待つ」


「お願いします」


          ◇


 ご令嬢が研究会員たちのもとへ戻ったあと、殿下はしばらくその背中を見送っていました。


 ハインツが隣へ立ちます。


「殿下」


「何だ」


「嬉しそうですね」


「困ったら相談すると言われた」


「はい」


「かなり信頼されている」


「そうですね」


「私は役に立てる」


「困ったら、です」


「ああ」


「困ることを期待しないでください」


 殿下の表情が止まりました。


「期待していない」


「本当に?」


 殿下はすぐには答えませんでした。


 中庭を歩く生徒たちの声が、少し遠く感じられます。


「私は」


 やがて、殿下がゆっくり口を開きました。


「相談されたい」


「はい」


「ご令嬢に頼られたい」


「はい」


「だから、困る可能性を考えていた?」


「少しは」


 ハインツは殿下を責めるような顔をしませんでした。


「殿下がご令嬢の役に立ちたいのは、自然だと思います」


「ああ」


「ですが、相談されるために困ってほしいわけではありませんよね」


「違う」


 殿下はすぐに答えました。


「困らないなら、それが一番よい」


「はい」


「私へ相談しなくても、自分たちで決められるなら、それもよい」


 言いながら、殿下の声は少しだけ寂しそうでした。


「寂しいが」


「正直ですね」


「かなり」


「それでも待てますか?」


「待つ」


 殿下はご令嬢たちが去った方向から視線を戻しました。


「私は、ご令嬢を助けたい気持ちと、頼られたい気持ちを同じだと思っていた」


「違いましたか?」


「少し違う」


「はい」


「助けたいなら、困っていない時は何もしなくてよい」


「はい」


「頼られたいだけなら、困っていない時も何かしたくなる」


「はい」


「かなり恥ずかしい」


「気づけたので、よいと思います」


「褒める?」


「今は少しだけです」


「厳しい」


          ◇


 午後の植物研究会では、話し合いが続いていました。


 昼休み前より、紙に書かれた言葉は増えています。


『光を先に調べるために必要な条件』


『風を測る方法が作れるか』


『測定する人による差を先に確かめるべきか』


 三つのテーマは、完全に別れているわけではありませんでした。


 光を比べるにも測定方法が必要です。


 風の影響を見るにも、温度や水分量を揃えなければなりません。


 測定方法を考えるなら、何を測るための方法なのか決める必要があります。


「全部つながってる」


 一人の会員が言いました。


「だから一つに決めにくいんだ」


「最初から一つだけ選ぶ必要ある?」


「どういう意味?」


「最初の二週間は測定方法を比べる。でも、その時に光と風も記録する」


「本格的には調べないけど、観察だけ残す?」


「そう」


「それなら、あとで変化が見えた時に使える」


「記録が増えすぎない?」


「項目を絞れば」


 ご令嬢は皆の意見を聞きながら、昼休みの殿下との会話を思い出していました。


『困っている?』


 殿下は、そう聞きました。


『困っているだろう』ではありませんでした。


 以前なら、困っていると決めたあとに、解決するための案を差し出したでしょう。それも、一つではありません。


 今日も十枚用意していたそうです。


 完全に変わったわけではありません。


 けれど、渡す前に止まりました。


「ご令嬢?」


「はい」


「何か考えてた?」


「少しだけ」


「殿下のこと?」


 ご令嬢は答えず、紙へ視線を落としました。


 その反応だけで十分だったのでしょう。周囲から小さな笑いが起こります。


「殿下、何を聞いてきたの?」


「困っているかと」


「研究のこと?」


「私が、です」


 研究会員たちが少し驚きました。


「研究会じゃなくて?」


「はい」


「珍しい」


「かなり」


 四十秒担当の女生徒が笑いました。


「で、困ってるって言った?」


「迷っているけれど、今は楽しいと答えました」


「殿下、納得した?」


「少し驚いていました」


「意見が違うと、揉めると思ってたのかな」


「十枚ほど案を作っていたそうです」


 部屋に大きな笑いが広がりました。


「やっぱり殿下だ」


「見せてもらわなかったの?」


「まだ必要ないと、しまってくださいました」


「かなり頑張ってる」


 ご令嬢も小さく頷きました。


「はい。ですから、私たちも自分たちで決めましょう」


 その声には、殿下を遠ざけたいという響きはありませんでした。


 必要なら相談できる。


 相談しなくても、見守ってもらえる。


 その両方があることを、ご令嬢は以前より信じ始めていました。


          ◇


 放課後。


 校舎裏のベンチには、夕方の淡い光が差し込んでいました。


 雲の切れ間から見える空は、青から薄い金色へ変わり始めています。運動場では部活動の掛け声が続き、少し離れた回廊からは、寮へ戻る生徒たちの足音が聞こえました。


 殿下は朝と同じ場所に座っていました。


 鞄は足元に置かれています。


 十枚の紙は、まだ中に入ったままです。


「使いませんでしたね」


 マリアが隣へ座りながら言うと、殿下は頷きました。


「ああ」


「ご令嬢とは話せましたか?」


「ああ」


「研究会は困っていましたか?」


「迷っていた」


「はい」


「でも、楽しいと言った」


「そうですか」


「私は意外だった」


 殿下は膝の上で両手を組みました。


「私は、意見が違えば不安になると思っていた」


「はい」


「まとまらなければ、誰かが我慢すると思っていた」


「はい」


「だから、全員が納得する案を先に用意した」


「はい」


「でも、ご令嬢たちは、違う理由を聞くことを楽しんでいる」


「はい」


「私には、まだよく分からない」


「殿下は、決める立場で過ごすことが多いですから」


「ああ」


「意見の違いを、早く一つへまとめることへ慣れています」


「ああ」


「ですが、研究では違いが残ることで、次の疑問が生まれることもあります」


「恋愛も?」


「場合によります」


「かなり広い」


 殿下は少し笑いました。


「今日、もう一つ気づいた」


「何でしょう」


「私は、研究会が困ることを心配していた」


「はい」


「でも、相談されたいとも思っていた」


「はい」


「ご令嬢に頼られたい」


「はい」


「だから、困る未来を考えると、私が役に立てる未来も一緒に見えていた」


「そうですね」


 殿下は少し俯きました。


「かなりよくない?」


「頼られたいと思うこと自体は、悪くありません」


「本当に?」


「はい。ただ、相手が困っていないことを寂しく思い、困り事を探し始めたら危険です」


「ああ」


「ご令嬢がご自身で進めるなら、それを喜べますか?」


 殿下はすぐには答えませんでした。


 木々の間を風が通り、枝の影がベンチの前で揺れています。


「寂しい」


「はい」


「かなり」


「はい」


「でも、嬉しい」


「両方ですか?」


「ああ」


「反省会でも学びましたね」


「失敗と成功が同時にある」


「はい」


「頼られなくて寂しい。でも、自分たちで決められることは嬉しい」


「はい」


「両方残してよい?」


「もちろんです」


 殿下は少しだけ表情を緩めました。


「なら、私は待つ」


「はい」


「困ったら相談すると言われた」


「はい」


「その時、まず何へ困っているか聞く」


「はい」


「すぐ紙を出さない」


「かなり大切です」


「一枚なら?」


「殿下」


「確認しただけだ」


          ◇


 誰かを助けたいと思う気持ちの中には。


 時々、頼られたいという気持ちが混ざります。


 必要とされたい。


 自分へ相談してほしい。


 自分が役に立つことで、相手との距離を確かめたい。


 それは、決して珍しいことではありません。


 けれど、その気持ちに気づかないまま先回りすると。


 相手が困っていないのに、困っている理由を探し始めます。


 意見が違う。


 なら、揉めるかもしれない。


 迷っている。


 なら、助けが必要かもしれない。


 まだ決まっていない。


 なら、自分が決める材料を渡した方がよい。


 そうして、相手が自分で悩み、話し合い、選ぶ時間へ入り込んでしまいます。


 王太子殿下は、植物研究会の意見が割れる未来を心配しました。


 光。


 風。


 測定方法。


 三つの興味があるなら、誰かが諦め、誰かが不満を抱き、研究会が困るかもしれない。


 だから、先に十枚の案を用意しました。


 しかし、研究会員たちは困っていませんでした。


 迷っていました。


 意見も違いました。


 それでも、その違いを楽しみ、自分たちで話し合っていました。


 殿下の助けを拒んだのではありません。


 まだ必要ではなかっただけです。


 そして殿下は。


 研究会が困る未来を心配する自分の中に、ご令嬢から頼られたい気持ちがあることへ気づきました。


 頼られたい。


 でも、困ってほしいわけではない。


 自分たちで決められるなら、少し寂しくても喜びたい。


 その矛盾を、無理に消さずに持つことができました。


 王太子殿下。


 助ける準備をすることと、助ける場面を探すことは違います。


 必要になった時に動けるよう待つことも、十分な支えです。


 ですから殿下。


 植物研究会が将来意見対立した場合に備え、「研究方針緊急調停会議」の招集権をご自身へ与える規則を作るのはおやめください。


 まだ誰も争っていません。


 光派、風派、測定派という派閥名を先に付けるのも禁止です。


 研究会員たちは、そのような組織を作っていません。


 それから、相談される可能性を高めるために、研究会室の前へ「王太子相談受付箱」を置かないでください。


 ご令嬢だけでなく、全校生徒から大量の相談が届きます。


 最後に。


 ご令嬢が「困ったら相談します」と言ったからといって。


 毎朝、「今日は困っていますか」と確認するのはやめてください。


 それを続けると。


 ご令嬢が最初に困る原因は、殿下になります。


 本当にお願いします。

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