第93話 王太子殿下、まだ困っていない人のために解決策を並べない
誰かを大切に思うと、その人が困る前に助けたくなることがあります。
不安になる前に安心させたい。失敗する前に危険を取り除きたい。意見がぶつかる前に、全員が納得できる方法を用意したい。
それは、相手を思っているからこそ生まれる気持ちです。
だからこそ、自分では善意だと信じやすいものでもあります。
けれど、まだ誰も困っていないのに解決策だけを差し出されると、相手は戸惑います。
自分はそんなに危なそうに見えたのか。
一人では何も決められないと思われたのか。
少し意見が違うだけなのに、すでに揉めていると思われたのか。
相手が感じてもいない不安を先に言葉へされることで、初めて不安になることさえあります。
王太子殿下は、かなり先回りする方でした。
問題が起きてから考えるのでは遅い。
起きる可能性があるなら、先に準備する。
それ自体は、王太子として間違ってはいません。
国境の守りも、災害への備えも、食糧不足への対策も、実際に問題が起きる前から考えなければなりません。王国全体を守る立場なら、可能性を拾い、最悪を想定し、誰より早く準備することは必要です。
しかし。
恋愛と研究会の話し合いは、国家危機ではありません。
好きな方が少し考え込んでいたからといって、心の中で緊急会議を始める必要はありません。
研究会員の意見が三つに分かれたからといって、仲裁案、投票案、折衷案、役割分担案を二十通り並べる必要もありません。
ましてや、誰からも相談されていないうちに。
「困っているだろう」
と決めるのは、かなり早すぎます。
◇
発表会と反省会が終わってから、二日目の朝。
学園の空には薄い雲が広がっていました。
雨が降るほどではありませんが、陽射しは柔らかく、校舎の石壁もいつもより淡い色に見えます。夜の冷気がまだ地面近くへ残り、風が抜けるたび、木々の葉から小さな露が落ちていました。
校舎裏のベンチへ向かうと、殿下はいつもの場所に座っていました。
膝の上には紙があります。
一枚ではありません。
十枚ほどです。
反省会へ二十三個の質問候補を持ってきた時よりは少ないですが、朝の恋愛相談としては明らかに多すぎます。
「おはようございます、殿下」
「ああ。おはよう、マリア」
「今日は何を作られたのですか?」
「まだ何も作っていない」
「では、その紙は?」
「考えられる案を整理しただけだ」
「何についての案ですか?」
殿下は一度、紙へ目を落としました。
「植物研究会の次の研究方針」
私は殿下の隣へ座りました。
「研究会の方針は、研究会員だけで決めると聞いています」
「ああ」
「殿下は、決まるまで待つと約束しました」
「ああ」
「では、その紙は必要ですか?」
「決めるためではない」
「何のためです?」
「もし、意見がまとまらなかった時のためだ」
殿下はそう言って、紙の一枚目を私へ見せました。
そこには整った文字で、三つの項目が書かれています。
一、光の影響を優先する場合。
二、風の影響を優先する場合。
三、測定方法の統一を優先する場合。
その下には、それぞれの利点と問題点が細かく整理されていました。
「かなり調べましたね」
「ああ」
「いつからですか?」
「昨夜」
「ご令嬢の『またお会いしましょう』を予定へ変えないよう我慢した夜に、こちらを始めたのですね」
殿下は少し目を逸らしました。
「眠れなかったわけではない」
「何時まで?」
「日付は変わった」
「かなり遅いです」
「でも、研究会が困った時にすぐ役立つ」
「研究会は困っていますか?」
殿下は答えませんでした。
「ご令嬢から相談を受けましたか?」
「まだ」
「他の会員からは?」
「受けていない」
「担当教員からは?」
「何も聞いていない」
「話し合いが揉めているという噂は?」
「ない」
朝の風が、殿下の持つ紙を僅かに揺らしました。
「殿下」
「何だ」
「まだ誰も困っていません」
「ああ」
「ですが、殿下は解決策を十枚用意しました」
「可能性はある」
「何の可能性ですか?」
「意見が割れる可能性だ」
「意見は割れるでしょうね」
「なら、やはり必要では?」
「意見が違うことと、困っていることは同じですか?」
殿下は紙から視線を上げました。
遠くでは、朝練を終えた生徒たちが校舎へ戻っていきます。笑い声が木々の間を通り、足音が石畳へ重なっていました。
「同じではない?」
「研究会員全員が、最初から同じことへ興味を持っていたわけではありません」
「ああ」
「反省会でも、光、風、測定方法、それぞれ違うところへ関心を持っていました」
「ああ」
「その違いを、ご令嬢たちは研究会らしさとして受け止め始めています」
「だが、優先順位は決めなければならない」
「はい」
「全員の希望は通らない」
「はい」
「選ばれなかった者は、残念に思うかもしれない」
「思うかもしれません」
「なら」
「それでも、ご本人たちで話し合う時間は必要です」
殿下の眉が僅かに寄りました。
「私は、全員が納得できる案を考えた」
「ありますか?」
「三つを完全に分けず、一週間ごとに調査を切り替える」
「かなり忙しそうですね」
「補助人員を増やせばよい」
「研究会員たちは増員を希望していますか?」
「まだ聞いていない」
「殿下」
「分かっている」
殿下は紙を膝の上へ戻しました。
「聞いていないことが多い」
「はい」
「でも、考えてしまった」
「はい」
「私は王太子として、先に考えることへ慣れている」
「そうですね」
「問題が起きてからでは遅いことも多い」
「はい」
「なら、どこからが先回りしすぎる?」
殿下の声は真剣でした。
単に止められたことへ不満を抱いているのではありません。王太子として身につけてきた考え方と、好きな方や周囲の生徒たちへ接する時の距離が、まだうまく分けられないのでしょう。
「殿下」
「何だ」
「国を守る時、殿下は多くの民へ影響する危険を想定します」
「ああ」
「ですが、一人の方の心配事まで同じ方法で扱えば、その方が自分で考える前に、殿下が問題を決めてしまいます」
「問題を決める?」
「はい。殿下が『意見が割れて困るだろう』と言えば、ご令嬢たちは困っていなくても、殿下にはそう見えていたのだと意識します」
「ああ」
「『この方法なら揉めない』と案を渡せば、まだ揉めてもいないのに、揉める前提で話し合うことになります」
「それは、困らせる?」
「可能性はあります」
殿下はしばらく黙りました。
「私は助けたいだけだ」
「はい」
「皆が悩む時間を減らしたい」
「はい」
「ご令嬢が困った顔をするのは嫌だ」
「はい」
「でも、困った顔をする前に動けば」
「ご令嬢が、ご自身で悩み方を選ぶ時間まで減らしてしまうことがあります」
殿下は長く息を吐きました。
「かなり難しい」
「かなり」
「この紙は?」
「今日はしまってください」
「捨てる?」
「そこまでは言いません」
「相談されたら使える?」
「相談の内容と合っていれば」
「合わない可能性もある?」
「かなりあります」
殿下は紙を見つめました。
「私は十枚も考えた」
「はい」
「全く違うことで困っているかもしれない?」
「はい」
「研究内容ではなく、机が足りないとか」
「ありますね」
「話し合いが長引いて昼食を食べ損ねたとか」
「あります」
「それなら、私はかなり先へ行きすぎた」
「戻ってきてください」
殿下は紙を揃え、鞄の中へしまいました。
「今日は聞かない」
「何をですか?」
「揉めていないか」
「はい」
「困っていないか」
「はい」
「解決策は必要か」
「はい」
「では、何なら聞いてよい?」
「普通に挨拶してください」
「かなり少ない」
「会えたら、です」
「ああ」
殿下は少し残念そうでした。
「相談されたら?」
「その時に、まず何へ困っているのか聞いてください」
「すぐに紙を出さない?」
「はい」
「十枚あるが」
「はい」
「かなり使いたい」
「我慢してください」
◇
その頃、植物研究会では、次の研究方針を決めるための話し合いが始まっていました。
発表会で使った三鉢は、研究会室の窓際へ戻されています。
一番日当たりのよい場所には、葉が広がり始めた鉢。風の影響を比べる鉢は、窓から少し離れた机。もう一鉢は、時間ごとに場所を変えられるよう入口近くへ置かれていました。
机の中央には、三枚の大きな紙があります。
『光』
『風』
『測定方法』
研究会員たちは、自分が優先したい項目の周囲へ、理由や疑問を書き込んでいました。
「光を先に調べるなら、置く場所を増やしたい」
「でも、同じ温度で明るさだけ変えるのは難しくない?」
「窓際と部屋の奥では、温度も変わる」
「だから測定方法が先なんじゃない?」
「温度を揃える方法も含めて?」
「うん」
「私は風が気になる」
四十秒の説明を担当した女生徒が、風と書かれた紙へ短い線を引きました。
「発表会で、葉が揺れること自体が成長へ影響するのか聞かれたでしょう」
「答えられなかった質問だね」
「はい。だから調べたいです」
「でも風を測る道具がない」
「そこから考えるのも研究じゃない?」
「確かに」
意見は揃っていません。
けれど、声を荒らげる者はいませんでした。
誰かが話せば、別の者が理由を尋ねます。否定する時も、「違う」ではなく「その条件だと、こちらも変わらないか」と問い直していました。
発表会前なら、意見がまとまらないことへ焦りを感じたかもしれません。
限られた時間で発表内容を決め、役割を整え、見学者へ伝わる形へしなければならなかったからです。
今は違います。
結論を今日中に出す必要はありません。
分からないことが増えても、それ自体が研究を続ける理由になります。
「ご令嬢は、やっぱり光?」
代表が尋ねました。
「はい。ただ、測定方法を先に整える必要があるという意見も分かります」
「両方やりたい?」
「かなり」
殿下の口癖を使ったことで、何人かが笑いました。
「殿下なら、三つ全部やろうとする」
「測定器も用意する」
「人も増やす」
「研究会室も広げる」
「研究対象の鉢も百鉢くらい増える」
「そこまでは」
ご令嬢は否定しようとしましたが、少し考え直しました。
「……増やされるかもしれません」
部屋に笑いが広がります。
「だから、まだ殿下には相談しない?」
「はい。まず、自分たちが何に迷っているのかを整理したいです」
「でも、これだけ意見が違うと時間かかりそう」
「時間はあります」
ご令嬢は三枚の紙を見ました。
「発表会のために決めるのではありません。私たちが次に何を知りたいかを決めるのですから、急がなくてもよいと思います」
四十秒担当の女生徒が頷きました。
「私は、今日決まらなくてもいいです」
「どうして?」
「前なら、決まらないと不安でした。でも今は、皆が違う理由を聞くのが少し楽しいです」
「少し?」
「かなり」
また笑いが起こりました。
「ただ、ずっと決まらないのも困る」
「では、今日は理由を集める。明日、条件を比べる。そのあと決める?」
「いいと思う」
「投票は?」
「最後の手段かな」
「全員が一つずつ諦める形にはしたくない」
「じゃあ、最初の一か月で何をするかだけ決める?」
話し合いは、少しずつ形を変えていきました。
三つのうち一つを永遠に選ぶのではなく、最初に調べるものを決める。
そのために必要な条件を比べる。
選ばなかったテーマも、観察項目として残せないか考える。
まだ結論は出ていません。
それでも、研究会員たちは自分たちで次の進み方を見つけ始めていました。
◇
午前の授業が終わると、廊下には発表会後の新しい噂が広がっていました。
「植物研究会、次は風を調べるらしいよ」
「光じゃなかった?」
「まだ決まってないって」
「殿下が決めるんじゃないの?」
「今度は研究会だけで決めるらしい」
「殿下、待てるの?」
「かなり頑張ってるらしい」
生徒たちは笑いながら話しています。
殿下本人は、その少し後ろを歩いていました。
噂が耳へ入っていないはずがありません。
「殿下」
隣を歩くハインツが小声で言いました。
「何だ」
「研究会はまだ決まっていないそうです」
「聞こえた」
「かなり気になりますか?」
「かなり」
「見に行きますか?」
「行かない」
「即答ですね」
「私は待つと約束した」
「では安心しました」
殿下は数歩進みました。
「ただ」
「はい」
「まだ決まっていないということは、意見がまとまっていない」
「そうでしょうね」
「困っているかもしれない」
「朝、マリア様から何を言われました?」
殿下は黙りました。
「殿下」
「まだ困っているとは限らない」
「はい」
「意見が違うことと、困っていることは同じではない」
「はい」
「私は分かっている」
「なら、研究会棟の方を見ないでください」
殿下は視線を正面へ戻しました。
「見ていない」
「先ほどから三回ほど」
「建物を見ただけだ」
「中にご令嬢がいらっしゃる建物ですね」
「かなり細かい」
◇
昼休み。
中庭には、薄い雲の間から柔らかな陽射しが落ちていました。
風は朝より少し暖かく、芝生の上では数人の生徒が昼食を広げています。発表会で使われた案内板が撤去されたことで、中央の通路は以前より広く見えました。
殿下はハインツと生徒会室へ戻る途中でした。
研究会棟へ寄るつもりはありません。
少なくとも、足は真っ直ぐ生徒会棟へ向かっています。
ただし、視線は時々、反対側の回廊へ動いていました。
「殿下」
「何だ」
「探していますね」
「探していない」
「ご令嬢を」
「会えたら嬉しいと思っているだけだ」
「昨日学んだことを覚えていらっしゃいますね」
「ああ」
「では、そのまま歩いてください」
「かなり厳しい」
その時、研究会棟の扉が開きました。
数人の研究会員が、紙と筆記具を持って出てきます。話し合いの途中で、昼食を買いに向かうのでしょう。
ご令嬢も一緒でした。
殿下の歩みが一瞬だけ遅くなります。
しかし、止まりません。
「殿下」
ハインツが驚いたように言いました。
「何だ」
「お声をかけないのですか?」
「話し合いの途中かもしれない」
「はい」
「昼食へ向かっている」
「はい」
「私は生徒会室へ戻る」
「かなり立派です」
「会いたくないわけではない」
「分かっています」
そのまますれ違うかと思われました。
けれど、ご令嬢の方が殿下へ気づきました。
隣の会員から何かを囁かれ、こちらへ視線を向けます。少し迷ったあと、仲間たちへ短く断り、殿下の方へ歩いてきました。
「こんにちは、殿下」
「こんにちは」
殿下の表情が明るくなりました。
昨日ほど固まりはしませんでしたが、嬉しさを隠す気はないようです。
「研究会の話し合い中ですか?」
殿下が尋ねます。
「はい。今は昼食休憩です」
「ああ」
殿下はそこで口を閉じました。
ご令嬢は少し待ちます。
「……何も聞かれないのですか?」
「何を?」
「次の方針が決まったかどうか」
「聞きたい」
「かなり?」
「かなり」
ご令嬢は小さく笑いました。
「でも、決まるまでは研究会だけで話す」
「はい」
「私は待つ」
「ありがとうございます」
殿下は頷きました。
そして、数秒だけ迷ったあと、慎重に尋ねます。
「一つだけ、聞いてよい?」
「内容によります」
「困っている?」
ご令嬢は少し目を丸くしました。
「私がですか?」
「ああ。研究会が、ではなく。あなたが」
朝の殿下なら、「意見が割れて困っているだろう」と決めた上で、解決策を出していたかもしれません。
今は、答えを決めずに聞いています。
ご令嬢は少し考えました。
研究会棟の前では、仲間たちがこちらの様子を見ています。急かす者はいません。昼休みの中庭には他の生徒たちの声が流れ、二人の間だけが静かに切り取られていました。
「少し迷っています」
「何に?」
殿下の声がすぐに続きましたが、解決策は出ません。
「私は光の影響を先に調べたいです。でも、測定方法を整えなければ、結果が正しいか分からないという意見も納得できます」
「ああ」
「風についても、発表会で答えられなかった質問があります」
「ああ」
「だから、一つに絞ることが少し惜しいです」
「それは、困っている?」
ご令嬢は再び考えました。
「悩んではいます」
「ああ」
「でも、嫌ではありません」
「違う?」
「はい。皆の理由を聞くのは楽しいです」
殿下の表情が僅かに変わりました。
「意見が違うのに?」
「違うからです」
「揉めていない?」
「まだ」
ご令嬢は笑いました。
「殿下は、揉めると思っていましたか?」
殿下は正直に頷きました。
「かなり」
「それで、何か考えました?」
「十枚ほど」
ご令嬢が黙りました。
少し離れた研究会員たちから笑いが漏れます。
「持っているのですか?」
「鞄に」
「見せてくださるつもりでした?」
「朝は」
「今は?」
「まだ必要ないと思っている」
ご令嬢は、少しだけ安堵したように息を吐きました。
「ありがとうございます」
「困ったら見せる?」
「困った時に、まず私たちが何へ困っているのか聞いてください」
「ああ」
「殿下の十枚が、全く違う問題のためのものかもしれません」
「マリアにも言われた」
「例えば?」
「机が足りないとか」
ご令嬢が笑いました。
「今、少し足りません」
「本当に?」
殿下の顔が一瞬で真剣になりました。
「増やす?」
「殿下」
「違う。まだ頼まれていない」
ご令嬢は口元へ手を当て、笑いを堪えました。
「一つの机へ紙を広げすぎただけです。片づければ足ります」
「ああ」
「今、かなり助けようとしましたね」
「かなり」
「でも止まりました」
「ああ」
「偉いです」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
周囲で見ていた生徒たちも笑っています。
殿下は少し恥ずかしそうでしたが、すぐにご令嬢へ視線を戻しました。
「では、今は楽しい?」
「はい」
「迷っているが?」
「はい」
「困ってはいない?」
「今のところは」
「ああ」
「ただ、決まらなければ、後で相談するかもしれません」
殿下の目が少し明るくなりました。
「本当に?」
「はい」
「かなり?」
「相談が必要なら、かなり」
「待つ」
「お願いします」
◇
ご令嬢が研究会員たちのもとへ戻ったあと、殿下はしばらくその背中を見送っていました。
ハインツが隣へ立ちます。
「殿下」
「何だ」
「嬉しそうですね」
「困ったら相談すると言われた」
「はい」
「かなり信頼されている」
「そうですね」
「私は役に立てる」
「困ったら、です」
「ああ」
「困ることを期待しないでください」
殿下の表情が止まりました。
「期待していない」
「本当に?」
殿下はすぐには答えませんでした。
中庭を歩く生徒たちの声が、少し遠く感じられます。
「私は」
やがて、殿下がゆっくり口を開きました。
「相談されたい」
「はい」
「ご令嬢に頼られたい」
「はい」
「だから、困る可能性を考えていた?」
「少しは」
ハインツは殿下を責めるような顔をしませんでした。
「殿下がご令嬢の役に立ちたいのは、自然だと思います」
「ああ」
「ですが、相談されるために困ってほしいわけではありませんよね」
「違う」
殿下はすぐに答えました。
「困らないなら、それが一番よい」
「はい」
「私へ相談しなくても、自分たちで決められるなら、それもよい」
言いながら、殿下の声は少しだけ寂しそうでした。
「寂しいが」
「正直ですね」
「かなり」
「それでも待てますか?」
「待つ」
殿下はご令嬢たちが去った方向から視線を戻しました。
「私は、ご令嬢を助けたい気持ちと、頼られたい気持ちを同じだと思っていた」
「違いましたか?」
「少し違う」
「はい」
「助けたいなら、困っていない時は何もしなくてよい」
「はい」
「頼られたいだけなら、困っていない時も何かしたくなる」
「はい」
「かなり恥ずかしい」
「気づけたので、よいと思います」
「褒める?」
「今は少しだけです」
「厳しい」
◇
午後の植物研究会では、話し合いが続いていました。
昼休み前より、紙に書かれた言葉は増えています。
『光を先に調べるために必要な条件』
『風を測る方法が作れるか』
『測定する人による差を先に確かめるべきか』
三つのテーマは、完全に別れているわけではありませんでした。
光を比べるにも測定方法が必要です。
風の影響を見るにも、温度や水分量を揃えなければなりません。
測定方法を考えるなら、何を測るための方法なのか決める必要があります。
「全部つながってる」
一人の会員が言いました。
「だから一つに決めにくいんだ」
「最初から一つだけ選ぶ必要ある?」
「どういう意味?」
「最初の二週間は測定方法を比べる。でも、その時に光と風も記録する」
「本格的には調べないけど、観察だけ残す?」
「そう」
「それなら、あとで変化が見えた時に使える」
「記録が増えすぎない?」
「項目を絞れば」
ご令嬢は皆の意見を聞きながら、昼休みの殿下との会話を思い出していました。
『困っている?』
殿下は、そう聞きました。
『困っているだろう』ではありませんでした。
以前なら、困っていると決めたあとに、解決するための案を差し出したでしょう。それも、一つではありません。
今日も十枚用意していたそうです。
完全に変わったわけではありません。
けれど、渡す前に止まりました。
「ご令嬢?」
「はい」
「何か考えてた?」
「少しだけ」
「殿下のこと?」
ご令嬢は答えず、紙へ視線を落としました。
その反応だけで十分だったのでしょう。周囲から小さな笑いが起こります。
「殿下、何を聞いてきたの?」
「困っているかと」
「研究のこと?」
「私が、です」
研究会員たちが少し驚きました。
「研究会じゃなくて?」
「はい」
「珍しい」
「かなり」
四十秒担当の女生徒が笑いました。
「で、困ってるって言った?」
「迷っているけれど、今は楽しいと答えました」
「殿下、納得した?」
「少し驚いていました」
「意見が違うと、揉めると思ってたのかな」
「十枚ほど案を作っていたそうです」
部屋に大きな笑いが広がりました。
「やっぱり殿下だ」
「見せてもらわなかったの?」
「まだ必要ないと、しまってくださいました」
「かなり頑張ってる」
ご令嬢も小さく頷きました。
「はい。ですから、私たちも自分たちで決めましょう」
その声には、殿下を遠ざけたいという響きはありませんでした。
必要なら相談できる。
相談しなくても、見守ってもらえる。
その両方があることを、ご令嬢は以前より信じ始めていました。
◇
放課後。
校舎裏のベンチには、夕方の淡い光が差し込んでいました。
雲の切れ間から見える空は、青から薄い金色へ変わり始めています。運動場では部活動の掛け声が続き、少し離れた回廊からは、寮へ戻る生徒たちの足音が聞こえました。
殿下は朝と同じ場所に座っていました。
鞄は足元に置かれています。
十枚の紙は、まだ中に入ったままです。
「使いませんでしたね」
マリアが隣へ座りながら言うと、殿下は頷きました。
「ああ」
「ご令嬢とは話せましたか?」
「ああ」
「研究会は困っていましたか?」
「迷っていた」
「はい」
「でも、楽しいと言った」
「そうですか」
「私は意外だった」
殿下は膝の上で両手を組みました。
「私は、意見が違えば不安になると思っていた」
「はい」
「まとまらなければ、誰かが我慢すると思っていた」
「はい」
「だから、全員が納得する案を先に用意した」
「はい」
「でも、ご令嬢たちは、違う理由を聞くことを楽しんでいる」
「はい」
「私には、まだよく分からない」
「殿下は、決める立場で過ごすことが多いですから」
「ああ」
「意見の違いを、早く一つへまとめることへ慣れています」
「ああ」
「ですが、研究では違いが残ることで、次の疑問が生まれることもあります」
「恋愛も?」
「場合によります」
「かなり広い」
殿下は少し笑いました。
「今日、もう一つ気づいた」
「何でしょう」
「私は、研究会が困ることを心配していた」
「はい」
「でも、相談されたいとも思っていた」
「はい」
「ご令嬢に頼られたい」
「はい」
「だから、困る未来を考えると、私が役に立てる未来も一緒に見えていた」
「そうですね」
殿下は少し俯きました。
「かなりよくない?」
「頼られたいと思うこと自体は、悪くありません」
「本当に?」
「はい。ただ、相手が困っていないことを寂しく思い、困り事を探し始めたら危険です」
「ああ」
「ご令嬢がご自身で進めるなら、それを喜べますか?」
殿下はすぐには答えませんでした。
木々の間を風が通り、枝の影がベンチの前で揺れています。
「寂しい」
「はい」
「かなり」
「はい」
「でも、嬉しい」
「両方ですか?」
「ああ」
「反省会でも学びましたね」
「失敗と成功が同時にある」
「はい」
「頼られなくて寂しい。でも、自分たちで決められることは嬉しい」
「はい」
「両方残してよい?」
「もちろんです」
殿下は少しだけ表情を緩めました。
「なら、私は待つ」
「はい」
「困ったら相談すると言われた」
「はい」
「その時、まず何へ困っているか聞く」
「はい」
「すぐ紙を出さない」
「かなり大切です」
「一枚なら?」
「殿下」
「確認しただけだ」
◇
誰かを助けたいと思う気持ちの中には。
時々、頼られたいという気持ちが混ざります。
必要とされたい。
自分へ相談してほしい。
自分が役に立つことで、相手との距離を確かめたい。
それは、決して珍しいことではありません。
けれど、その気持ちに気づかないまま先回りすると。
相手が困っていないのに、困っている理由を探し始めます。
意見が違う。
なら、揉めるかもしれない。
迷っている。
なら、助けが必要かもしれない。
まだ決まっていない。
なら、自分が決める材料を渡した方がよい。
そうして、相手が自分で悩み、話し合い、選ぶ時間へ入り込んでしまいます。
王太子殿下は、植物研究会の意見が割れる未来を心配しました。
光。
風。
測定方法。
三つの興味があるなら、誰かが諦め、誰かが不満を抱き、研究会が困るかもしれない。
だから、先に十枚の案を用意しました。
しかし、研究会員たちは困っていませんでした。
迷っていました。
意見も違いました。
それでも、その違いを楽しみ、自分たちで話し合っていました。
殿下の助けを拒んだのではありません。
まだ必要ではなかっただけです。
そして殿下は。
研究会が困る未来を心配する自分の中に、ご令嬢から頼られたい気持ちがあることへ気づきました。
頼られたい。
でも、困ってほしいわけではない。
自分たちで決められるなら、少し寂しくても喜びたい。
その矛盾を、無理に消さずに持つことができました。
王太子殿下。
助ける準備をすることと、助ける場面を探すことは違います。
必要になった時に動けるよう待つことも、十分な支えです。
ですから殿下。
植物研究会が将来意見対立した場合に備え、「研究方針緊急調停会議」の招集権をご自身へ与える規則を作るのはおやめください。
まだ誰も争っていません。
光派、風派、測定派という派閥名を先に付けるのも禁止です。
研究会員たちは、そのような組織を作っていません。
それから、相談される可能性を高めるために、研究会室の前へ「王太子相談受付箱」を置かないでください。
ご令嬢だけでなく、全校生徒から大量の相談が届きます。
最後に。
ご令嬢が「困ったら相談します」と言ったからといって。
毎朝、「今日は困っていますか」と確認するのはやめてください。
それを続けると。
ご令嬢が最初に困る原因は、殿下になります。
本当にお願いします。




