第92話 王太子殿下、「また明日」に待ち合わせの意味まで足さない
発表会が終わり、反省会も終われば、学園は少しずつ普段の姿へ戻っていきます。
中講堂を埋めていた椅子は片づけられ、廊下へ張り出された案内板も取り外されました。研究会ごとの展示物はそれぞれの部屋へ戻され、発表会について語っていた生徒たちも、次の試験や部活動、週末の予定へ話題を移し始めています。
大きな行事が終わったあとの学園には、妙な静けさがあります。
何もなくなったわけではありません。授業も続きますし、研究も終わりません。それでも、誰もが同じ一日へ向かって動いていた時間が過ぎたことで、校舎全体が少しだけ広くなったように感じられるのです。
王太子殿下も、本来なら日常へ戻るはずでした。
発表会では一般席に座り、途中で助けに入らず、挙手をしても指名されなければ質問を諦めました。反省会では、研究会員たちが自分の失敗をどう受け止めているかを最後まで聞き、殿下から見た意味を本人へ押しつけませんでした。
かなり成長しています。
これまでなら、無事に終わった発表会を記念し、研究会員全員へ感謝状を作り、改善点を王宮書式で整理し、次回の発表へ向けた支援計画を三段階に分けて提出していたことでしょう。
今回は、それをしていません。
少なくとも、まだしていません。
しかし殿下の心には、研究会とは別の問題が残っていました。
反省会の帰り際、ご令嬢が言ったのです。
「また明日」
学園に通う者同士なら、ごく普通の別れの挨拶です。
明日も授業があります。校舎ですれ違うかもしれません。食堂や図書室で顔を見る可能性もあります。だからこそ、深い意味を込めずに交わされることも多い言葉でしょう。
けれど、殿下にとっては違いました。
好きな方から言われた「また明日」です。
昨日の夜から何度も思い出しています。
声の柔らかさ。
言葉を口へ出す前の、わずかな間。
少しだけ細められた目。
そして、去っていく直前に見せた笑顔。
殿下は、かなり嬉しかったのです。
嬉しい言葉は、大切に受け取ればよいものです。
ところが殿下は、嬉しいものほど増やしたくなる方でした。
質問を一つ渡されれば、より役に立つよう百二十七個へ増やします。
手伝いを頼まれれば、相手が求めていない部分まで完璧に整えます。
「また明日」と言われれば。
明日はいつ会うのか。
朝なのか、昼なのか、放課後なのか。
どこで会うのか。
校舎裏か、研究会室か、図書室か。
どれほど話せるのか。
そこまで考え始めます。
王太子殿下。
「また明日」は、待ち合わせの成立を意味しません。
どうか、相手が口へ出していない予定まで、ご自身の心の中で決定しないでください。
◇
翌朝、校舎裏には薄い霧が残っていました。
夏へ近づく季節とはいえ、朝の空気にはまだ冷たさがあります。木々の葉へ付いた露が朝日を受け、風が枝を揺らすたび、小さな光が地面へ落ちていました。
マリアがいつものベンチへ向かうと、殿下はすでに座っていました。
姿勢は整っています。制服にも乱れはありません。膝の上には今日の授業で使う本が一冊置かれています。
表面だけを見れば、穏やかな朝を過ごしているように見えました。
ただし、先ほどから同じ頁を開いたままです。
「おはようございます、殿下」
「ああ。おはよう、マリア」
「今日は早いですね」
「いつもと同じくらいだ」
「その本は、どれほど読み進みましたか?」
殿下は本へ目を落としました。
「三頁ほど」
「開いているのは目次です」
しばらく沈黙がありました。
殿下は静かに本を閉じました。
「相談がある」
「そうでしょうね」
「なぜ分かった?」
「目次を三頁読める方は、何か考え事をしています」
「かなり鋭い」
「ありがとうございます。それで、何を悩んでいるのですか?」
殿下はすぐには答えませんでした。
遠くから、校舎へ入っていく生徒たちの声が聞こえます。朝の挨拶を交わす声、宿題を忘れたと慌てる声、昨日借りた本を返してほしいと友人へ訴える声。どれも普段通りで、発表会が終わったことを改めて感じさせました。
「昨日」
殿下がようやく口を開きます。
「ご令嬢が、また明日と言った」
「はい」
「覚えているか?」
「近くにいましたから」
「私は、かなり嬉しかった」
「それも分かりました」
「顔に出ていた?」
「かなり」
殿下は少し視線を逸らしました。
「私は、その言葉を何度も考えた」
「はい」
「また明日と言ったのだから、今日も会えると思った」
「学園へ来ていらっしゃるなら、会う可能性はありますね」
「ああ」
「ただし、約束をしたわけではありません」
殿下の眉が僅かに動きました。
「やはり、そうか」
「殿下も気づいていたのですね」
「昨夜の途中で」
「かなり進歩しています」
「褒めている?」
「はい」
「受け取る」
殿下は少し安心したようでしたが、すぐに真剣な表情へ戻りました。
「だが、会いたい」
「それは自然な気持ちです」
「校舎裏へ来るかもしれない」
「可能性はあります」
「研究会室へ行けば、会えるかもしれない」
「それは探しに行っています」
「偶然、近くを通るだけなら?」
「研究会室が目的なら、偶然ではありません」
殿下は黙りました。
マリアは急かさずに待ちます。
「私は、会いたいと思うことまで止めなくてよい?」
やがて殿下が尋ねました。
「もちろんです」
「でも、会う予定があると思ってはいけない」
「はい」
「会えなかったとしても、約束を破られたわけではない」
「はい」
「ご令嬢が私を避けたことにもならない」
「はい」
「忙しいかもしれない」
「研究会の次の方針を決める話し合いがあると聞いています」
「ああ」
殿下はゆっくり息を吐きました。
「私は、嬉しい言葉へ意味を足しすぎる」
「少しその傾向があります」
「少し?」
「かなりあります」
「厳しい」
「ただ、今回はご自身で気づいています」
「それなら、成長?」
「かなり」
「受け取る」
殿下はようやく本を開き直しました。
今度は目次ではなく、本文の最初の頁です。
「今日は、ご令嬢を探さない」
「はい」
「会えたら嬉しい」
「はい」
「会えなくても、また明日という言葉は嘘にならない」
「その通りです」
殿下は小さく頷きました。
しかし、数秒後。
「校舎裏へ来る可能性は?」
「殿下」
「確認しただけだ」
「今、探さないと決めたばかりです」
「かなり難しい」
◇
同じ頃、植物研究会の部屋には、発表会で使用した資料が積まれていました。
掲示板から戻された意見用紙、発表原稿、測定記録、舞台で使った図表。どれも役目を終えたように見えますが、研究会員たちにとっては次の研究へつながる材料です。
「発表前より増えてない?」
一人の会員が机の上を見て言いました。
「意見用紙が多いから」
「全部読むの?」
「読まない理由がないでしょう」
「今日中には無理」
「数日に分ければいい」
四十秒の発表を担当した女生徒は、意見用紙を一枚ずつ分類していました。発表中に六秒ほど言葉を止めたことを、反省会では今も恥ずかしいと話した生徒です。
あの日の経験が急に消えたわけではありません。
大勢の視線を思い出せば、胸の奥が少し固くなります。けれど、発表の映像や記録から逃げたいとは思わなくなっていました。
「これ、あなたの説明について書いてある」
隣の会員が一枚の紙を渡します。
女生徒は受け取る前に、少し身構えました。
「悪いこと?」
「読めば?」
そこには、短い文章が書かれていました。
『途中で止まっても、待っていてよいのだと分かった。最後まで聞けてよかった』
女生徒はしばらく紙を見つめました。
「どう?」
「……嬉しい」
「よかった」
「でも、止まらなければもっとよかった」
「それは反省会でも言ってた」
「まだ変わってないから」
「変えなくていいんじゃない?」
隣の会員は軽く笑い、次の紙へ手を伸ばしました。
ご令嬢は、そのやり取りを聞きながら観察記録を整理していました。
反省会で決まったとおり、次の研究方針は研究会員だけで話し合います。殿下には、方針が決まってから必要な範囲で相談する予定です。
「今日は、光と風と測定方法の三つを並べましょう」
ご令嬢が言いました。
「一つに決める?」
「今日中に決めなくてもよいと思います」
「殿下なら今朝までに決めてそう」
誰かがそう言うと、部屋に笑いが広がりました。
「殿下なら三つとも同時に進める方法を考える」
「人員を増やす?」
「王宮から測定器を持ってくる」
「研究会室も広げる」
「予算も増える」
「私たちが追いつかない」
ご令嬢も笑いました。
「ですから、殿下へ相談する前に、私たちで優先順位を決めます」
「殿下、かなり待ってるだろうね」
「かなりでしょうね」
「今日、来たりして」
その言葉に、ご令嬢の手がほんの少し止まりました。
「来ていただく約束はしていません」
「でも昨日、また明日って言ってた」
女生徒がからかうように言いました。
ご令嬢は紙を揃え直しながら、平静を装います。
「学園での挨拶です」
「殿下は挨拶として受け取れてるかな」
「……努力されていると思います」
「信頼がある」
「以前よりは」
「ご令嬢は会いたくないの?」
部屋の空気が少しだけ変わりました。
悪意のある問いではありません。
発表会と反省会を通して、研究会員たちは殿下とご令嬢の関係を以前より近くで見ています。殿下がご令嬢の成功だけではなく、失敗や迷いも受け止めようとしていることも知っています。
ご令嬢はすぐに答えませんでした。
窓の外では風が木々の葉を揺らしています。中庭を横切る生徒たちの姿が小さく見えましたが、その中に殿下はいません。
「会えたら」
ご令嬢は静かに言いました。
「嬉しいと思います」
数人の会員が顔を見合わせます。
「かなり?」
反省会で殿下が何度も口にした言葉を真似され、ご令嬢は少し頬を赤くしました。
「研究を続けます」
「逃げた」
「話し合いが先です」
部屋には笑いが広がりました。
ご令嬢も否定はしませんでした。
◇
午前の授業中、殿下は意外なほど集中していました。
教師の問いにも正しく答え、教本を逆さに持つこともありません。発表会前のように植物研究会の様子が気になり、授業内容が頭へ入らないということもありませんでした。
ただし、休憩時間になるたび、廊下を歩く生徒へ少しだけ視線を向けます。
「殿下」
前の席から振り返った生徒が言いました。
「誰かを待っていますか?」
「待っていない」
「かなり廊下を見ています」
「人が通るからだ」
「ご令嬢ですか?」
近くにいた生徒たちが、少しだけ声を抑えて笑いました。
以前なら、王太子の恋愛へこれほど気軽に触れる者は少なかったでしょう。けれど、校舎裏の相談や研究会での出来事が学園内へ広がるうち、殿下が過剰な言動を注意され、本人も真剣に直そうとしていることが知られるようになりました。
もちろん、身分への敬意が失われたわけではありません。
ただ、遠くから眺めるだけだった王太子が、少しずつ同じ学園で悩む一人の生徒として見られるようになったのです。
「昨日、また明日と言われた」
殿下が正直に答えました。
周囲が少し静かになりました。
「それで、待っているんですか?」
「待ち合わせはしていない」
「でも会いたい?」
「ああ」
「かなり?」
「かなり」
今度ははっきり笑いが起こりました。
「殿下、それなら研究会室へ行けばいいのでは?」
一人の生徒が言いました。
殿下は少し考えました。
「行かない」
「なぜです?」
「ご令嬢たちは、自分たちだけで次の研究を決める」
「ああ」
「私は決まったあとに必要なら呼ばれる」
「なら、今日は会えないかもしれませんね」
「ああ」
殿下はその言葉を否定しませんでした。
「でも、約束を破られたわけではない」
生徒たちが顔を見合わせます。
「誰も約束だとは言っていませんよ」
「分かっている」
「殿下、かなり頑張っていますね」
「ああ」
「褒めていいですか?」
「かなり」
殿下は満足そうに頷きました。
◇
昼休みになると、中庭は多くの生徒で賑わいました。
食堂へ向かう者、購買で買ったパンを手にベンチを探す者、教室から持ってきた昼食を広げる者。発表会の掲示板が置かれていた場所には次の行事案内が張られ、生徒たちが足を止めています。
殿下はハインツとともに、生徒会室へ戻る途中でした。
「殿下」
「何だ」
「先ほどから歩く速度が遅くなっています」
「中庭は混んでいる」
「研究会棟が見える場所へ来てからです」
殿下は答えませんでした。
ハインツは殿下の視線の先を確認します。植物研究会の部屋がある棟は、中庭を挟んだ反対側です。窓の位置までは見えますが、室内の様子までは分かりません。
「寄りませんよね?」
「寄らない」
「本当に?」
「私は今朝、探さないと決めた」
「では、なぜ止まったのですか?」
「止まっていない。歩く速度が少し変わっただけだ」
「かなり変わっています」
ハインツが呆れたように息を吐いた、その時でした。
研究会棟の扉が開き、数人の生徒が中庭へ出てきました。
手には紙束や筆記具を持っています。話し合いの途中で、昼食を買いに出てきたのでしょう。
その中に、ご令嬢がいました。
殿下の足が完全に止まりました。
「今度は止まりましたね」
「ああ」
「お声をかけますか?」
殿下はすぐには動きませんでした。
会いたい。
話したい。
昨日の「また明日」を受け取ったのだから、こちらから近づいてもよいのではないか。
そんな気持ちが表情へ浮かんでは消えます。
「向こうが話し合いの途中かもしれない」
殿下が言いました。
「はい」
「昼食を買いに行くだけかもしれない」
「はい」
「私は生徒会室へ戻る途中だ」
「はい」
「なら、呼び止めない」
ハインツは少し意外そうに殿下を見ました。
「かなり成長しましたね」
「会いたくないわけではない」
「分かっています」
ところが、ご令嬢の方が殿下へ気づきました。
研究会員の一人が何かを囁きます。全員の視線が一度こちらへ向き、ご令嬢は少し迷ったあと、仲間へ短く断ってから殿下の方へ歩いてきました。
殿下の表情が明るくなります。
ただし、走って迎えには行きません。
かなり我慢しています。
「こんにちは、殿下」
「こんにちは」
ほんの短い挨拶でした。
それだけで、殿下は昨日から待っていたものを受け取ったような顔をしました。
「研究会の話し合い中では?」
「はい。少し休憩です」
「もう決まった?」
「まだです」
「そうか」
殿下はそれ以上聞きませんでした。
どの意見が多いのか。
揉めていないか。
自分にできることはないか。
聞きたいことはいくつもあるはずです。それでも、ご令嬢たちが自分たちで決めると約束した時間を守りました。
ご令嬢も、そのことへ気づいたようでした。
「何も聞かれないのですね」
「聞きたい」
「かなり?」
「かなり」
ご令嬢が笑いました。
「でも、決まるまでは待つと約束した」
「はい」
「だから聞かない」
「ありがとうございます」
少し離れた場所では、研究会員たちがこちらを見ています。
「昨日の」
殿下が言いかけました。
「また明日、ですか?」
ご令嬢の方から続けました。
「ああ」
「考えました?」
「かなり」
「やはり」
ご令嬢は困ったように笑いながらも、嫌そうではありませんでした。
「私は、今日会える約束だと思いかけた」
「はい」
「でも、場所も時間も決めていない」
「はい」
「だから、ただの別れの挨拶だった」
ご令嬢はすぐには返事をしませんでした。
中庭を抜ける風が、二人の間を通っていきます。近くのベンチでは生徒たちが昼食を広げながら、声を抑えてこちらを気にしていました。
「ただの、ではありません」
ご令嬢が静かに言いました。
殿下の表情が止まります。
「どういう意味?」
「待ち合わせの約束ではありません」
「ああ」
「でも、また会えたらよいと思って言いました」
殿下は何も言えなくなりました。
ご令嬢も少し頬を赤くしています。
「今日、会えましたね」
「ああ」
「嬉しいですか?」
「かなり」
「私もです」
周囲の研究会員たちから、小さなどよめきが起こりました。
遠巻きに見ていた生徒の一人が、隣の友人の腕を強く掴んでいます。別の生徒は、声を出してはいけないと自分の口元を押さえていました。
殿下は、ご令嬢だけを見ています。
「なら」
口を開きかけました。
次はいつ会うか。
明日も会えるか。
放課後は空いているか。
続きの予定を決めたくなったのでしょう。
けれど、殿下は途中で言葉を止めました。
「何でしょう?」
ご令嬢が尋ねます。
「いや」
殿下は少し考えてから、穏やかに答えました。
「今日、会えたことを受け取る」
ご令嬢の目が僅かに見開かれました。
そして、ゆっくり笑います。
「はい」
「話し合いへ戻る?」
「はい。皆を待たせています」
「ああ」
「また、お会いしましょう」
ご令嬢は今度も、具体的な日付を口にしませんでした。
けれど殿下は、それ以上の意味を求めません。
「また」
短く返し、ご令嬢が研究会員たちのもとへ戻っていくのを見送りました。
集団へ戻った瞬間、彼女は仲間たちに囲まれました。
「私も嬉しいって言った」
「聞こえていました」
「殿下、止まってた」
「かなり止まっていました」
「ご令嬢も顔が赤い」
「昼食を買いに行きます」
ご令嬢は会話を終わらせようとしましたが、研究会員たちの笑いはしばらく収まりませんでした。
殿下の隣では、ハインツが深く息を吐いています。
「殿下」
「何だ」
「今、次の約束を取りつけようとしましたね」
「途中まで」
「止められましたか」
「ああ」
「かなり立派です」
「受け取る」
「ただ、顔がかなり嬉しそうです」
「それは止めなくてよいとマリアに言われた」
「では、そのままでよいでしょう」
◇
午後の生徒会室では、殿下が驚くほど機嫌よく書類を処理していました。
署名も速く、報告を聞く姿勢も落ち着いています。普段なら細かく確認する箇所も、担当者へ任せるべき部分は任せ、必要な点だけを質問していました。
「今日の殿下、かなり仕事が速いですね」
書記の女生徒が言いました。
「何かよいことがありましたか?」
「ご令嬢に会った」
殿下は隠しませんでした。
部屋の中で何人かが笑います。
「それだけですか?」
「それだけで十分だ」
その言葉に、ハインツが少しだけ顔を上げました。
以前なら、会えたことは次の予定を作る始まりでした。
話せたなら、さらに長く話したい。
笑ってもらえたなら、次も笑わせたい。
相談されたなら、もっと多くのことへ関わりたい。
殿下の好意は、いつも次へ次へと進もうとしていました。
けれど今日は。
会えた。
嬉しいと言ってもらえた。
それを、その日の中へ置いたままにしています。
「殿下」
ハインツが言いました。
「何だ」
「かなりよいと思います」
「何が?」
「それだけで十分だと思えたことです」
殿下は少し考えました。
「完全には足りない」
「そうでしょうね」
「また会いたい」
「はい」
「明日も」
「はい」
「だが、それは私の希望だ」
「はい」
「ご令嬢が約束した予定ではない」
生徒会室が少し静かになりました。
殿下は照れた様子もなく、真剣に続けます。
「だから、会えなければ残念には思う」
「ああ」
「でも、怒らない」
「ああ」
「理由を問い詰めない」
「ああ」
「避けられたと決めない」
「ああ」
「かなり大切だと思う」
書記の女生徒が柔らかく笑いました。
「殿下、恋愛相談が王太子教育になっていますね」
「最初からそのつもりではなかった」
「知っています」
「ご令嬢と仲良くなりたかった」
「それもかなり進んでいると思います」
殿下は一度黙りました。
「本当に?」
「はい」
「どの程度?」
「殿下」
ハインツが止めます。
「数値化を始めないでください」
「確認しただけだ」
「好意を進捗率にすると、ご令嬢が困ります」
生徒会室に笑いが広がりました。
◇
放課後、マリアが校舎裏へ向かうと、殿下は朝と同じベンチに座っていました。
日が傾き、木々の影は朝より長く伸びています。運動場からは部活動の掛け声が聞こえ、校舎の窓には夕方の光が淡く反射していました。
「会えたそうですね」
マリアが言うと、殿下は少し驚きました。
「なぜ知っている?」
「昼休みの中庭です。かなり多くの生徒が見ていました」
「ああ」
「ご令嬢も嬉しいとおっしゃったとか」
殿下は小さく頷きました。
「かなり嬉しかった」
「でしょうね」
「私は、次の約束をしたくなった」
「はい」
「だが、止めた」
「なぜですか?」
殿下はしばらく考えました。
ただ教えられたからではなく、自分の言葉で答えようとしているのでしょう。
「ご令嬢は、今日会えて嬉しいと言った」
「はい」
「私は、それを明日も会いたいという約束へ変えそうになった」
「はい」
「でも、ご令嬢が話したのは今日の気持ちだ」
「はい」
「明日の予定ではない」
マリアは静かに頷きました。
「かなりよいです」
「受け取る」
「全部です」
「全部」
殿下は夕方の空を見上げました。
「マリア」
「はい」
「期待するのは悪い?」
「悪くありません」
「明日も会えたらよいと思う」
「はい」
「ご令嬢も同じなら嬉しい」
「はい」
「でも、違っても責めない」
「はい」
「期待は、相手が守るものではない?」
「殿下ご自身の中にあるものです」
「ああ」
風が吹きました。
枝葉の隙間から差し込む光が、殿下の肩で揺れています。
「私は、期待を約束に変えていた」
「そうですね」
「約束ではないのに、守ってほしくなる」
「はい」
「それは、ご令嬢にとって重い?」
「かなり」
「気をつける」
殿下は真剣に答えました。
「ただし」
「まだありますか?」
「またお会いしましょうとは言われた」
「はい」
「それは大切にしてよい?」
「もちろんです」
「予定へはしない」
「はい」
「記録へは?」
「どこへ記録するのですか?」
「日記」
マリアは少し笑いました。
「それなら、殿下ご自身の気持ちとして書く分にはよいでしょう」
「本当に?」
「ただし、『次回面会予定』とは書かないでください」
「分かった」
「研究会の活動日へ印を付けるのも駄目です」
「まだ何も言っていない」
「考えていましたか?」
殿下は答えませんでした。
◇
好きな人から、次を感じさせる言葉をもらえば、誰でも嬉しくなります。
「また明日」
「また今度」
「またお会いしましょう」
その一言があるだけで、今日の別れが完全な終わりではないように思えます。
けれど、そこへ日付や時間や場所を足すのは、自分の期待です。
相手が約束したことではありません。
会いたいと思うことは悪くありません。
会えたら嬉しいと願うことも悪くありません。
ただ、その願いを相手の義務へ変えないこと。
会えなかったときに、約束を破られたと思わないこと。
忙しい日や、別の人と過ごしたい時間や、一人でいたい気持ちがあることを忘れないこと。
王太子殿下は、ご令嬢の「また明日」へ、待ち合わせの意味を足しそうになりました。
けれど、その意味が自分の期待だと気づきました。
そして実際に会えたときも、次の約束を急いで取りつけませんでした。
今日会えた。
互いに嬉しかった。
その気持ちを、今日のものとして受け取ったのです。
王太子殿下。
恋は、次の予定を多く確保した者が勝つ競争ではありません。
一つの言葉を大切にすることと、その言葉を王宮公文書のように扱うことは違います。
ですから殿下。
「またお会いしましょう」と言われたからといって、学園の年間予定表へ仮の面会日を三十日分書き込むのはおやめください。
仮予定でも多すぎます。
ご令嬢と偶然会えた場所を地図へ記録し、遭遇確率を計算する必要もありません。
偶然を増やそうとした時点で、それはかなり計画的です。
それから、今日の中庭を「第一回・相互に会えて嬉しかった記念地点」として保存しないでください。
中庭は全校生徒のものです。
最後に。
明日、ご令嬢と会えなかったとしても。
校内放送でお名前を呼ぶことは禁止です。
本当にお願いします。




