第90話 王太子殿下、見守ると決めた時間の途中で助けに入らない
見守る。
言葉にすれば、それほど難しいことではないように聞こえます。
相手が前へ進もうとしているなら、少し離れた場所から見ている。
困っても、すぐに手を出さない。
失敗しそうになっても、相手が自分で立て直す時間を残す。
必要だと求められたときだけ、支える。
これまで王太子殿下が学んできたことを並べれば、今日すべきことはとても明確でした。
一般席へ座る。
特別扱いを求めない。
発表中に口を挟まない。
誰かが言葉へ詰まっても、代わりに答えない。
質疑応答では手を挙げ、指名されなければ質問しない。
研究会の皆さんが、自分たちで作った発表を、自分たちの力で最後まで進めるのを見守る。
それだけです。
ただし、今日の殿下にとって、その「それだけ」は、王国の重要会議へ出席することより難しいかもしれません。
王国の会議なら、殿下は意見を求められます。
問題が起きれば、判断できます。
誰かが困れば、人や物を動かせます。
けれど、今日の殿下は、目の前で大切なご令嬢が緊張していても、何も決めてはいけません。
声が震えていても。
言葉へ詰まっても。
図を間違えても。
質問へ答えられなくても。
殿下は、その場へ入ってはいけません。
失敗しないように守るのではなく。
失敗するかもしれない場所へ立つ相手を、そのまま信じなければならないのです。
王太子殿下。
本日は、研究発表会当日です。
これまで何度も練習を見てきた殿下が、最も何もできない日でもあります。
◇
「マリア」
「はい」
「少し早く来すぎた」
「おはようございます」
「おはよう」
「かなり自然です」
「受け取る」
「まだ褒めています」
「全部受け取る」
研究発表会当日の朝。
校舎裏には、まだほとんど人の気配がありませんでした。
空は薄い灰色で、朝日が雲の向こうに隠れています。風は弱く、木々の葉もほとんど揺れていません。いつもなら遠くから聞こえてくる登校生の声もなく、古い木製ベンチの周囲だけが、学園全体から切り離されたように静かでした。
殿下はすでにベンチへ座っていました。
制服は普段以上に整っています。
髪も乱れていません。
表情も落ち着いているように見えます。
ただし、右手と左手が、それぞれ別の膝の上で同じ間隔に並べられていました。
かなり意識して置いています。
「殿下」
「何だ」
「緊張していますか」
「かなり」
「殿下が発表するわけではありません」
「分かっている」
「ご令嬢たちが発表します」
「分かっている」
「では、なぜそこまで?」
「私は今日、何もできない」
「はい」
「それがかなり不安だ」
殿下は正直に言いました。
「発表が始まったら、私は客席にいる」
「はい」
「途中で何か起きても、立たない」
「はい」
「言葉が止まっても、答えを教えない」
「はい」
「図を落としても?」
「すぐ近くの研究会員が拾います」
「鉢が倒れたら?」
「それは状況によります」
「助けてよい?」
「危険があるなら」
「植物だけが倒れた場合は?」
「舞台上の方へ任せてください」
「水がこぼれたら?」
「殿下」
「確認しておきたい」
殿下はかなり真剣でした。
「ご令嬢の衣服へかかった場合は?」
「舞台上で対応できなければ、担当教員が動きます」
「私ではなく?」
「はい」
「かなり遠い」
「一般席ですから」
「特別席なら、すぐ動けた」
「だから一般席へ座るのです」
殿下は息を吐きました。
「私は、何か起きる前提で考えすぎている?」
「かなり」
「でも、起きるかもしれない」
「はい」
「そのとき、見ているだけ?」
「まずは」
「まずは?」
「舞台上の方が、自分たちで対応する時間を残してください」
殿下は少し考えました。
「時間とは、どのくらい?」
「状況によります」
「三秒?」
「殿下」
「十秒?」
「秒数で決めないでください」
「難しい」
「かなり」
殿下は両手を握り直しました。
「私は昨日、最後まで見ると伝えた」
「はい」
「成功してもしなくても」
「はい」
「なら、途中で助けに入らないことも、最後まで見ることに含まれる?」
「はい」
「助けないのに、見ている?」
「はい」
「見捨てるのとは違う?」
「違います」
「どこが?」
「相手が自分で進めると信じて、必要なときだけ動けるように見ていることです」
殿下はゆっくり頷きました。
「見守る」
「はい」
「かなり難しい」
「今日の課題ですね」
「褒められるところまでできると思う?」
「発表が終わってから判断します」
「厳しい」
◇
しばらくすると、校舎の向こうから少しずつ人の声が聞こえ始めました。
研究発表会は午後からですが、各研究会は朝から最終準備を行います。
展示板を運ぶ生徒。
資料を抱え、何度も枚数を数える生徒。
発表原稿を口元へ近づけ、小さな声で繰り返している生徒。
普段より早く登校した者たちが、まだ静かな校舎へ熱を運び込んでいました。
「マリア」
「はい」
「彼女たちは、もう来ていると思う?」
「おそらく」
「研究会室へ行ってよい?」
「最後の準備は研究会だけで行うと聞いています」
「ああ」
「殿下も昨日、行かないと決めました」
「ああ」
「今も?」
「行かない」
「かなりよいです」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
殿下はそう言いましたが、立ち上がりません。
研究会室へ向かう道を避けるため、登校時間までここへいるつもりなのでしょう。
「殿下」
「何だ」
「ご朝食は?」
「食べた」
「本当に?」
「ああ」
「何を?」
「パンと卵と果物」
「かなり普通ですね」
「今日は胃へ負担をかけないようにした」
「殿下が発表するわけではありません」
「分かっている」
殿下は少し黙り、低い声で続けました。
「彼女は食べられただろうか」
「殿下」
「聞きに行かない」
「はい」
「ただ思っただけだ」
「思うことは自由です」
「なら、かなり心配する」
「ご自由に」
殿下は少しだけ笑いました。
◇
その頃、植物研究会の部屋では、最後の準備が始まっていました。
三鉢の植物は、朝のうちに水を与えすぎないよう、前夜から量を調整されています。
展示板の順番。
観察記録の枚数。
質問へ答える際に使う補助資料。
すべてが机の上へ並べられ、会員たちは一つずつ声に出して確認していました。
「葉の角度の図」
「あります」
「温度記録」
「あります」
「王宮資料の引用箇所」
「印をつけました」
「質問用の追加記録」
「三つに分けています」
「鉢を運ぶ布」
「あります」
「予備の紐」
「あります」
「殿下の百二十一問」
「ありません」
部屋に笑いが起こりました。
「持ってきたら、机が埋まる」
「質問は六個だけ使ったんだよね」
「うん。それで十分だった」
「残り、どうするんだろう」
「殿下が保管してる」
「発表後に全部渡されたら?」
「マリア様が止めてくださる」
「かなり信頼されてる」
ご令嬢も笑っていました。
けれど、笑いが収まると、指先が少し冷たくなっていることに気づきました。
朝食は食べました。
眠ることもできました。
原稿も覚えています。
図の順番も分かります。
それでも、胸の奥には小さな重さが残っています。
今日は練習ではありません。
失敗しても次に直せる日ではありません。
発表は一度だけです。
「緊張してる?」
代表が聞きました。
「かなり」
「言えるなら大丈夫」
「言えなくなるかもしれません」
「そのときは待つ」
「はい」
「図を間違えたら戻る」
「はい」
「質問に答えられなければ、分からないと言う」
「はい」
「殿下が客席にいる」
別の会員が言うと、ご令嬢の表情が少し揺れました。
「それは、今言わなくても」
「ごめん」
「でも、見てくださると言っていました」
「うん」
「成功するところではなく、私たちの発表を」
ご令嬢は自分の言葉を確かめるように続けました。
「だから、殿下へ成功を見せるのではありません」
「うん」
「自分たちが調べたことを話す」
「うん」
「それでいい」
代表が頷きました。
四十秒の説明を担当する女生徒は、小さな紙を両手で持っていました。
五つの言葉。
葉の角度。
中心線。
測定位置。
複数人。
今後の確認。
「今日は声が出そう?」
隣の会員が聞きました。
「今は」
「今は?」
「小さいけど、出る」
「本番前に変わったら?」
「言う」
「うん」
「最後までできるかは分からない」
「うん」
「でも、今はやりたい」
「それでいこう」
誰も「必ずできる」とは言いませんでした。
誰も「昨日できたから大丈夫」とも言いませんでした。
それでも、部屋の空気は以前より重くありませんでした。
失敗できない場所ではなく。
困ったときに役割を渡せる場所になっていたからです。
◇
午前の授業が始まると、学園全体は一度、普段の時間へ戻りました。
教師の声。
紙をめくる音。
窓の外を飛ぶ鳥。
廊下を歩く職員の足音。
けれど、午後の発表を控えた生徒たちにとって、授業の内容はなかなか頭へ入りません。
殿下も同じでした。
「殿下」
隣の席からハインツ様が小声で呼びました。
「何だ」
「教科書が逆です」
殿下は手元を見ました。
本当に逆でした。
「いつから?」
「授業開始からです」
「なぜ言わなかった」
「いつ気づくか見ていました」
「厳しい」
教室の周囲から、抑えた笑いが漏れました。
教師も一度殿下を見ましたが、何も言わず授業を続けています。
殿下は教科書を正しい向きへ直しました。
「ハインツ」
「はい」
「今、研究会は授業を受けている?」
「おそらく」
「緊張していると思う?」
「おそらく」
「原稿を忘れていない?」
「知りません」
「鉢は?」
「研究会室です」
「水は?」
「与えすぎないよう調整したと聞いています」
「なぜ知っている」
「昨日、担当教員から全体準備の報告を受けました」
「私より詳しい」
「殿下が植物研究会だけ質問しすぎるので、報告から外されかけています」
「それは困る」
「公平に全研究会分を読んでください」
「ああ」
殿下は資料へ視線を戻しました。
魔道具研究会。
歴史研究会。
植物研究会。
薬草研究会。
各発表の概要が同じ分量で書かれています。
殿下は植物研究会の頁だけを長く読もうとして、一度手を止めました。
「全部同じ時間で読む」
「かなりよいです」
「褒める?」
「授業中です」
「あとで受け取る」
◇
昼休みになると、中講堂の周囲へ人が集まり始めました。
発表会の開始まではまだ時間があります。
しかし、先着順の席を確保したい生徒たちが、早めに並び始めていました。
「もう並んでる」
「前のほうに座りたい」
「植物研究会は三番目だよ」
「殿下も来るんでしょ」
「一般席らしい」
「どこ?」
「中央の通路側」
「見えるかな」
「発表を見なよ」
笑い声が起こります。
殿下が中講堂へ向かうと、並んでいた生徒たちの視線が一斉に集まりました。
以前なら、そのまま静けさが広がったでしょう。
今日は、少しだけざわめきが残りました。
「本当に一般席だ」
「特別席ないの?」
「ないみたい」
「殿下、手を挙げるって」
「指されなかったら質問しないらしい」
「百二十一個あるのに?」
「全部聞いたら夕方になる」
殿下の眉が動きます。
「マリア」
「はい」
「百二十一個は聞かない」
「はい」
「一個だけ」
「指名された場合ですね」
「ああ」
「すでに考えていますか?」
「考えていない」
「本当に?」
「発表を聞いてから」
「かなり成長しました」
「受け取る」
警護責任者が殿下を一般席へ案内しました。
中央列の通路側。
前後には警護要員が座りますが、過度に目立たないよう制服姿の護衛が配置されています。
隣はマリア。
その隣にハインツ様。
殿下は席へ腰を下ろし、舞台を見ました。
まだ何も置かれていません。
「見える」
「はい」
「かなり」
「昨日も確認しました」
「今日のほうが遠く感じる」
「客席に人がいるからです」
次々と生徒が入場してきます。
研究会所属者。
教師。
興味を持って来た一般生徒。
最初は殿下へ視線を向ける者も多くいました。
しかし、殿下は立ちません。
手も振りません。
誰かへ声をかけることもありません。
舞台を見ています。
その姿を確認すると、多くの生徒も自分の席へ座り、進行表を開き始めました。
「殿下」
「何だ」
「普通に座れています」
「かなり努力している」
「褒めます」
「受け取る。全部」
◇
研究発表会が始まりました。
最初は魔道具研究会。
小型の照明魔道具に使われる魔力経路の改善についてです。
殿下は真剣に聞いていました。
植物研究会の発表だけを見るのではなく、他の研究会も同じように見ると決めていたからです。
「従来型では熱が逃げる」
「はい」
「ここを二重にした?」
「小声で独り言を言わないでください」
「かなり面白い」
「発表後に感想を」
質疑応答では、別の生徒が質問しました。
殿下も一度手を挙げかけましたが、止めました。
「殿下」
「一個だけだから」
「植物研究会用に残しますか?」
「特別扱いになる?」
「質問したい発表へ質問すればよいと思います」
「でも、一つだけと決めた」
「それは植物研究会での話では?」
殿下は少し考えました。
結局、手を挙げませんでした。
「かなり聞きたかった」
「あとで研究会へ聞けます」
「そうする」
二番目は歴史研究会。
古い街道記録から、王都周辺の市場移動を調べた発表でした。
殿下は途中で資料へ身を乗り出しそうになりましたが、一般席の背へ戻ります。
「王宮記録と違う」
「殿下」
「かなり重要だ」
「発表中です」
「あとで聞く」
歴史研究会の発表が終わると、大きな拍手が起こりました。
次です。
進行役が舞台へ立ちました。
「続きまして、植物研究会による発表です」
中講堂の空気が少し変わりました。
殿下を目当てに来た生徒たちも、舞台へ顔を向けます。
研究会員たちが、三鉢の植物と展示板を運び込みました。
ご令嬢もいます。
表情は硬い。
けれど、足取りは止まっていません。
殿下の手が膝の上で少し動きました。
「マリア」
「はい」
「かなり緊張している」
「はい」
「私も」
「はい」
「声をかけたい」
「発表が始まります」
「分かっている」
殿下は何も言いませんでした。
ご令嬢が舞台の中央へ立ちます。
一度、客席を見ました。
視線が中央列へ届きます。
殿下と目が合ったかどうかは、分かりません。
ただ、ご令嬢は小さく息を吸いました。
◇
「私たち植物研究会は、研究会で話し合い、現在進行中の研究を発表することを決めました」
最初の声は、少しだけ硬く響きました。
「準備の過程では、王太子殿下から王宮資料の提供と、発表練習への協力をいただきました」
その瞬間、客席の一部が殿下を見ました。
殿下は立ちません。
手も振りません。
ご令嬢へ向けたまま、視線を動かしませんでした。
「研究内容と発表方法については、研究会で話し合い、決定しています」
ご令嬢の声が、先ほどより少し強くなりました。
客席の視線も、ゆっくり舞台へ戻っていきます。
「今回、私たちは同じ種類の植物を三鉢用意し、光の入り方と温度の違いによって、葉の向きや成長にどのような差が出るかを観察しました」
一枚目の図が示されました。
研究を始めた理由。
同じ種類の鉢が複数あったため、比較しやすかったこと。
観察を続けるうち、予想していなかった違いが見つかったこと。
ご令嬢の声は、少しずつ落ち着いていきました。
殿下は動きません。
ただ見ています。
二人目の説明役へ交代しました。
三鉢の置かれた位置。
窓からの距離。
一日の中で光が入る時間。
温度記録。
発表者は一度、温度表を指す位置を間違えました。
「あ」
小さな声が舞台から漏れます。
客席も少しざわめきました。
殿下の身体が動きかけます。
しかし、隣の研究会員が小さく図を指しました。
「こちらです」
「はい。失礼しました」
発表者は自分で戻りました。
説明が続きます。
殿下の肩から、少しだけ力が抜けました。
「今、立ちかけましたね」
私は小声で言いました。
「図が違った」
「直せました」
「ああ」
「座っていられました」
「かなり努力した」
「褒めます」
「あとで受け取る」
◇
そして、測定方法の説明です。
四十秒を担当する女生徒が、展示板の横へ立ちました。
顔はかなり硬くなっています。
手には、五つの言葉だけを書いた小さな紙。
客席は練習より多い。
中講堂のほとんどの席が埋まっています。
「葉の角度は」
最初の言葉が出ました。
「茎と、葉の中心線を基準にして測りました」
声は小さめでしたが、後方まで届いています。
「ただし、測る位置が変わると、結果にも差が出る可能性があります」
女生徒は展示板の図を指しました。
「そのため、現在は――」
そこで、言葉が止まりました。
客席が静かになります。
一秒。
二秒。
三秒。
殿下の指が膝の上で強く握られました。
女生徒は紙を見ています。
何かを思い出そうとしているのでしょう。
四秒。
五秒。
殿下の身体が僅かに前へ傾きました。
「殿下」
私は名前だけ呼びました。
「分かっている」
小さな返事がありました。
六秒。
舞台上で、次の担当者が女生徒を見ています。
研究会で決めた合図の時間が近づいていました。
女生徒は一度、客席へ目を向けました。
その視線がどこへ届いたのかは分かりません。
けれど、殿下は立ちませんでした。
口も動かしません。
答えを示す仕草もしません。
ただ、まっすぐ見ています。
「現在は」
女生徒の声が戻りました。
「葉へ小さな印をつけて、同じ位置を測れるようにしています」
客席の空気が少し緩みました。
「今後は、同じ葉を複数人で測り、測定した人によって、どの程度の差が出るかも確認します」
最後の言葉は、練習より少し短くなりました。
けれど、必要な内容は伝わっています。
女生徒は一歩下がりました。
次の説明役が前へ出ます。
発表は止まりませんでした。
殿下はゆっくり息を吐きました。
「六秒」
「数えていたのですか」
「かなり長かった」
「舞台では、もっと長く感じているでしょう」
「ああ」
「でも、ご自分で続けました」
「ああ」
殿下の目は、少しだけ赤く見えました。
「泣いていますか」
「泣いていない」
「本当に?」
「かなり安心しただけだ」
◇
発表は後半へ進みました。
最も光が強い場所の鉢ではなく、少し光が弱い場所の鉢の葉が広くなったこと。
その原因はまだ分からないこと。
少ない光を受け取ろうとして葉を広げた可能性はあるが、現在の鉢数では断定できないこと。
個体差。
風。
移動による影響。
測定する人による差。
分かっていないことが、一つずつ語られます。
以前の研究会なら、発表で不足を見せることを恐れたでしょう。
今日は、それを今後の課題として示していました。
「今回の観察だけでは、光や温度の違いが直接の原因であるとは断定できません」
ご令嬢が言いました。
「今後は鉢数を増やし、風や移動の影響も記録しながら、同じ傾向が繰り返し確認できるかを調べたいと考えています」
最後の図が示されます。
「以上で、植物研究会の発表を終わります」
一瞬の静けさ。
それから、中講堂に拍手が広がりました。
殿下も手を叩きました。
皆と同じように。
立ち上がりません。
長く続けすぎません。
ただし、かなり力が入っています。
「殿下」
「何だ」
「少し大きいです」
「今日は許して」
「皆さんも同じくらいです」
「なら問題ない」
拍手の中で、ご令嬢たちは頭を下げました。
女生徒もいます。
四十秒を最後まで、自分の言葉で終えた女生徒です。
彼女は頭を上げると、客席を見ました。
殿下と目が合ったようでした。
殿下は何もしません。
ただ、少しだけ笑いました。
女生徒の表情も、ほんの少し緩みました。
◇
「続いて、質疑応答へ移ります」
進行役が言いました。
「質問のある方は、挙手をお願いします」
すぐに、いくつもの手が上がりました。
殿下の手も上がります。
かなり真っ直ぐです。
「殿下」
「何だ」
「普通に挙げてください」
「普通だ」
「腕が高すぎます」
「指されたい」
「正直ですね」
進行役は客席を見渡しました。
最初に指名されたのは、後方に座っていた薬草研究会の生徒でした。
「三鉢だけでは個体差が大きいと思いますが、今後は何鉢くらいまで増やす予定ですか」
研究会員たちが少し顔を見合わせます。
ご令嬢が答えました。
「まだ具体的な数は決めていません」
客席が静かになります。
「研究会の場所と管理できる人数を確認してから決めたいと思っています。多ければよいとは考えていません」
殿下の眉が少し動きました。
「私と同じことを学んでいる」
「質問の量ですね」
「ああ」
「今は静かに」
「分かっている」
二人目の質問。
「風の影響を今後記録するとありましたが、どのように測る予定ですか」
これは、まだ完全には決まっていない内容でした。
別の会員が答えます。
「現在、具体的な測定方法は決まっていません」
客席の一部が少しざわめきました。
「まずは窓を開けた時刻と時間を記録し、鉢の周囲で葉がどの程度動いたかを観察する方法から始める予定です。正確に測る方法については、今後調べます」
「分かりました」
質問者が座りました。
殿下は手を挙げたままです。
三人目は、歴史研究会の女生徒でした。
「王宮資料の記録と、今回の観察で違っていた部分はありますか」
ご令嬢は少し考えました。
「王宮資料では、同じ種類の植物は光が多い場所ほど葉が厚くなる傾向が記録されていました」
「はい」
「今回も一部では似た変化がありました。ただし、葉の広がり方は、光が少し弱い鉢のほうが大きくなりました」
「それはなぜですか」
「分かりません」
ご令嬢は、はっきり答えました。
「光を受ける面積を増やそうとした可能性は考えていますが、現在の観察だけでは断定できません」
「ありがとうございます」
客席の空気は悪くありません。
分からないと答えたことを、失敗だと笑う者もいませんでした。
むしろ、何人かの生徒が興味深そうに植物を見ています。
残り時間は少なくなっていました。
殿下の手は、まだ上がっています。
「次で最後の質問とします」
進行役が言いました。
殿下の姿勢が少し正されます。
しかし、指名されたのは、殿下ではありませんでした。
「中央後方の方」
一人の男子生徒が立ち上がります。
殿下の手がゆっくり下がりました。
「殿下」
「指されなかった」
「はい」
「かなり残念だ」
「はい」
「でも、聞かない」
「かなりよいです」
「今、褒めて」
「かなり」
「受け取る」
最後の質問は、単純なものでした。
「この研究を続けるなら、次に一番調べたいことは何ですか」
研究会員たちが、少し顔を見合わせました。
質問は一人へ向けられたものではありません。
ご令嬢が代表して答えることもできました。
けれど、彼女はすぐに話しませんでした。
「一人ずつ、違うかもしれません」
客席に小さな笑いが起こります。
「私は、光が少し弱い鉢の葉が広くなった理由を調べたいです」
隣の会員が続きます。
「私は、風の記録方法を考えたいです」
四十秒を担当した女生徒も、少し迷ってから口を開きました。
「私は、測る人によって、どのくらい結果が違うかを調べたいです」
声はまだ少し震えていました。
けれど、発表原稿にはない言葉でした。
「同じ研究でも、調べたいことは少しずつ違います。だから、次に何を優先するかも研究会で話し合いたいと思います」
ご令嬢が最後にまとめました。
質問者は満足そうに頷きました。
「ありがとうございます」
進行役が前へ出ます。
「以上で、植物研究会の発表を終了します」
二度目の拍手が広がりました。
今度は質疑応答を終えた安堵もあり、最初より少し大きく聞こえました。
殿下は皆と同じように拍手しました。
質問はできませんでした。
けれど、表情は穏やかでした。
「聞きたかったことは?」
私は小声で尋ねました。
「最後の質問と少し似ていた」
「何を聞く予定でした?」
「研究を続けたいと思った瞬間は、どこだったか」
「かなりよい質問ですね」
「指されなかった」
「あとで聞けばよいのでは?」
「発表後の反省会で?」
「研究会から感想を求められたら」
「待つ」
「かなり上手です」
「受け取る」
◇
発表を終えた研究会員たちは、舞台裏へ戻りました。
人前では崩さなかった表情が、一斉に緩みます。
「終わった」
「終わった?」
「終わった!」
「時間は?」
「九分五十六秒」
「ぎりぎり」
「質問、怖かった」
「分からないって言えた」
「風の測り方、まだ決めてないって言ったとき、客席が少し動いた」
「でも、大丈夫だった」
四十秒を担当した女生徒は、壁際の椅子へ座りました。
両手が震えています。
「大丈夫?」
「分からない」
「気分悪い?」
「違う。終わったから」
彼女は笑おうとして、うまく笑えませんでした。
「六秒くらい止まった」
「うん」
「すごく長かった」
「うん」
「殿下が見てた」
「うん」
「助けてくれなかった」
周囲の表情が少し固まりました。
しかし、女生徒は続けました。
「よかった」
「……よかった?」
「もし、殿下が何か言ったら、私は次の言葉を思い出せなかったと思う」
「うん」
「自分で続けられた」
「うん」
「怖かったけど」
彼女の目に、少し涙が浮かびました。
「最後までできた」
研究会員たちが近づきます。
大声で褒めません。
必ずできると信じていたとも言いません。
ただ、一人が背中をさすり、別の一人が水を渡しました。
「今は、泣いていい?」
「うん」
「本番終わったから」
「うん」
「次もできるって言わないで」
「言わない」
「今日はできたってだけ言って」
隣の会員が笑いました。
「今日は、できた」
「うん」
「かなり」
「うん」
女生徒は泣きながら笑いました。
ご令嬢はその様子を見ていましたが、自分の身体も少し震えていることに気づきました。
「あなたも座る?」
代表が聞きました。
「私は大丈夫です」
「本当に?」
「……少しだけ」
ご令嬢も隣の椅子へ座りました。
終わったのです。
成功したのか。
失敗しなかったのか。
評価されるのか。
まだ分かりません。
けれど、自分たちで決めた発表を、自分たちの力で最後まで進めました。
その事実だけは、もう消えません。
◇
中講堂では、次の薬草研究会の準備が始まっていました。
殿下は席を立ちません。
植物研究会を追って舞台裏へ行くこともしません。
「殿下」
「何だ」
「行きたいですか」
「かなり」
「でも?」
「次の発表が始まる」
「はい」
「植物研究会だけ見て帰るのは違う」
「はい」
「それに、今行けば、彼女たちの時間へ入る」
「はい」
「泣いているかもしれない」
「なぜ分かるのです?」
「発表が終わると、力が抜ける」
「殿下もですか?」
「かなり」
殿下の手も、僅かに震えていました。
「殿下が発表したわけではありません」
「分かっている」
「でも、かなり力が入っていたのですね」
「ああ」
「最後まで座っていました」
「ああ」
「途中で助けませんでした」
「ああ」
「質問も指されなかったので、聞きませんでした」
「ああ」
「かなりよくできました」
殿下は少しだけ笑いました。
「受け取る。全部」
薬草研究会の発表が始まりました。
殿下は前を向きました。
植物研究会のことが気になっていても、次の発表を聞きます。
それもまた、研究発表会へ参加する一人として必要なことでした。
◇
すべての発表が終わったのは、夕方近くでした。
中講堂の窓から差し込む光は、昼よりも柔らかくなっています。
進行役が閉会を告げ、見学者たちが席を立ち始めました。
「植物研究、面白かった」
「分からないことをそのまま言ってたね」
「葉が広がった理由、気になる」
「測る人で差が出るのも、確かにありそう」
「殿下、質問されなかったね」
「ずっと手を挙げてた」
「かなり高かった」
殿下は立ち上がりながら、その会話を聞いていました。
「マリア」
「はい」
「植物の話が残っている」
「はい」
「私ではなく」
「はい」
「かなり嬉しい」
「受け取ってください」
「全部」
中講堂の出口には、研究会員たちが展示物を運ぶため集まっていました。
ご令嬢もいます。
殿下を見つけました。
足を止めます。
殿下も止まりました。
すぐには近づきません。
周囲には他の研究会員も、見学者もいます。
ご令嬢のほうから歩いてきました。
「殿下」
「発表、お疲れさま」
「ありがとうございます」
「かなりよかった」
殿下はそこまで言い、一度止まりました。
「何を聞きたい?」
ご令嬢は少し驚きました。
「今ですか?」
「ああ。感想か、質問か、それとも何も聞かないほうがよいか」
ご令嬢は少し考えました。
「今は、感想を聞きたいです」
「ああ」
殿下はご令嬢を見ました。
「最初、かなり緊張していた」
「はい」
「王宮資料の話をしたあと、声が少し強くなった」
「はい」
「図を一箇所間違えた」
「はい」
「でも、自分たちで戻った」
「はい」
「分からない質問には、分からないと答えた」
「はい」
「最後の質問で、全員が違うことを調べたいと答えたのが、かなりよかった」
ご令嬢の表情が、ゆっくり柔らかくなりました。
「そこですか」
「ああ」
「私は、少しまとまりがないかと思いました」
「同じ研究をしていても、興味が違う」
「はい」
「それでも一緒に続ける」
「はい」
「かなり研究会らしかった」
ご令嬢は少し目を伏せました。
「ありがとうございます」
「それから」
殿下の声が少し低くなりました。
「私は、あなたが成功するから見たいのではないと言った」
「はい」
「今日、見て分かった」
ご令嬢が顔を上げます。
「間違えたところも、止まったところも含めて、見てよかった」
周囲の声が、少し遠くなりました。
「成功した発表だけではなく?」
「ああ」
「全部?」
「ああ」
「かなり?」
「かなり」
ご令嬢は、少しだけ笑いました。
「それなら、私も殿下に見ていただけてよかったです」
殿下の表情が止まりました。
「本当に?」
「はい」
「私が何もしなくても?」
「はい」
「質問もできなかった」
「はい」
「途中で助けなかった」
「はい」
ご令嬢は静かに言いました。
「助けないでくださって、ありがとうございました」
殿下はすぐに答えませんでした。
「……かなり難しかった」
「分かりました」
「何度も立ちそうになった」
「分かりませんでした」
「かなり我慢した」
「はい」
「褒める?」
ご令嬢は笑いました。
「かなり」
「受け取る。全部」
◇
少し離れたところで、四十秒の説明を担当した女生徒が待っていました。
ご令嬢が視線を向けると、女生徒も殿下へ近づきます。
「殿下」
「何だ」
「発表中、止まったとき」
「ああ」
「何も言わないでくださって、ありがとうございました」
「ああ」
「かなり助けてほしかったです」
殿下の表情が少し変わりました。
「どちらだ」
女生徒が笑いました。
「止まった瞬間は、助けてほしいと思いました」
「ああ」
「でも、少し待ってもらったら、自分で続けられました」
「ああ」
「もし言葉を教えていただいていたら、たぶん殿下の言葉で続きを話していたと思います」
「……」
「今日は、自分の言葉で終われました」
殿下はゆっくり頷きました。
「かなりよかった」
「はい」
「今日は、できた」
女生徒の目が少し大きくなりました。
次もできるとは言いません。
本番でも必ずできるとも言いません。
今日は、できた。
それだけです。
「はい」
女生徒は嬉しそうに笑いました。
「今日は、できました」
◇
「殿下」
ご令嬢が呼びました。
「何だ」
「反省会の日程が決まりました」
殿下の姿勢が変わりました。
「いつ?」
「三日後の放課後です」
「行く」
「まだ、殿下のご予定を聞いていません」
「空いている」
「確認しましたか?」
「空ける」
「殿下」
「……確認する」
ご令嬢が笑いました。
「ご都合が合えば、来てください」
「ああ」
「研究会全員で、今日の発表を振り返ります」
「質問してよい?」
「感想もお願いします」
「百二十一個は?」
「不要です」
「三個?」
「まず一個で」
殿下は少し残念そうでした。
「分かった」
「それから」
ご令嬢は少し迷いました。
「今日、聞けなかった質問があるのでしょう?」
「ああ」
「反省会で聞いてください」
「よい?」
「はい」
「かなり聞きたい」
「では、一つだけ」
「ああ」
殿下の表情が明るくなりました。
「マリア」
「はい」
「次が決まった」
「はい」
「でも、今日の成果にしない」
「はい」
「誘われたから、関係が進んだとも決めない」
「はい」
「研究会の反省会」
「はい」
「それでも、かなり嬉しい」
「それは受け取ってよいです」
「全部?」
「全部」
◇
夕方の学園から、見学者たちが少しずつ帰っていきます。
中講堂の前には、まだ発表について話す生徒たちが残っていました。
「植物研究会、途中で止まった人いたよね」
「でも、自分で戻った」
「客席、静かだった」
「最初に注意があったから」
「分からないって答えたのもよかった」
「途中研究って、ああいう感じなんだね」
「殿下、最後まで普通に座ってた」
「普通に座るだけで話題になるの、すごいな」
殿下は少し複雑そうな顔をしました。
「マリア」
「はい」
「最後の噂は必要?」
「事実です」
「普通に座っただけだ」
「殿下には難しいことでした」
「かなり褒められている?」
「かなり」
「なら受け取る」
ご令嬢たちは三鉢の植物を研究会室へ運んでいきます。
殿下は手伝いたそうに見ました。
しかし、頼まれていません。
研究会員たちだけで持てています。
「殿下」
「何だ」
「今、鉢を持ちたいと思いましたね」
「かなり」
「でも?」
「頼まれていない」
「はい」
「持たない」
「かなり成長しました」
「受け取る」
少しして、ご令嬢が振り返りました。
「殿下」
「何だ」
「一鉢だけ、持っていただいてもよろしいですか」
殿下の目が明るくなりました。
「本当に?」
「はい。少し重くて」
「全部持つ」
「一鉢だけです」
「ああ」
殿下は慎重に、一鉢だけ受け取りました。
他の二鉢は、研究会員たちが持ちます。
殿下が先頭へ立つこともありません。
ご令嬢の隣を歩きます。
「重い?」
「全く」
「殿下には軽いですね」
「ああ」
「でも、一鉢だけでお願いします」
「分かっている」
「残りも持ちたそうです」
「かなり」
ご令嬢が笑いました。
「今日は、一鉢だけです」
「ああ」
殿下も少し笑いました。
◇
見守ると決めることは、何もしないと決めることではありません。
何が起きているかを見る。
相手が自分で進めるかを待つ。
必要なときに動けるよう、その場にいる。
助けを求められたら、求められた分だけ手を出す。
王太子殿下は今日、一般席から研究会の発表を見ました。
図を間違えたとき。
発表者の言葉が止まったとき。
質問への答えが見つからなかったとき。
殿下は、何度も立ち上がりそうになりました。
答えを教えたくなりました。
舞台へ行きたくなりました。
自分なら、もっと早く問題を解決できると思いました。
けれど、動きませんでした。
研究会の皆さんが、自分たちで戻る時間を残しました。
四十秒の説明を担当した女生徒は、六秒ほど言葉へ詰まりました。
その六秒は、殿下にとっても、女生徒にとっても、かなり長い時間でした。
けれど、その時間があったからこそ、女生徒は自分で次の言葉を見つけられました。
助けられなかったのではありません。
助けないことを選んだのです。
相手が自分で続けられると信じて。
それでも無理なら、そのときは次の人が役割を引き取れるように。
見守ることは、見捨てることではありません。
助ける準備を持ちながら、助けが必要になる前に奪わないことです。
王太子殿下。
本日、殿下は発表を成功させませんでした。
研究会の皆さんが、自分たちで発表しました。
殿下は、その時間を自分の手柄にせず、最後まで客席で見ていました。
それで十分です。
そして発表後、一鉢だけ頼まれて運びました。
それも十分です。
ですから殿下。
見守る技術を今後も高めるため、王宮の庭師たちへ「植物が自力で伸びるのを観察する訓練」を命じる必要はありません。
植物は元々、自力で伸びます。
それから、六秒待てた記念として、中講堂の時計へ印を刻むのもおやめください。
学園の備品です。
ご令嬢が図を間違えた瞬間に立ち上がらなかった自分を称え、王宮へ記念碑を建てる案も却下です。
何もしなかった記念碑とは、かなり意味が分かりません。
最後に。
一鉢だけ頼まれて運べたことが嬉しかったからといって、次の反省会へ研究会全員分の鉢を用意しないでください。
反省会は植物を増やす会ではありません。
本当にお願いします。




