第89話 王太子殿下、一度できたことを次もできる約束にしない
一度、できたことは。
次も、できる。
そう思われることがあります。
昨日は最後まで話せた。
前回は途中で止まらなかった。
練習では声が届いた。
なら、本番も大丈夫だろう。
励ます側に悪意はありません。むしろ、相手が積み重ねた努力を信じ、できたことを認め、前向きな気持ちを渡したいと思っています。
けれど、一度できたことが、次も必ずできるとは限りません。
昨日より緊張するかもしれない。
客席が埋まれば、同じ舞台でもまったく違って見えるかもしれない。
朝は平気でも、直前になって身体が動かなくなるかもしれない。
できた経験は、支えになります。
しかし、それを「次もできる証拠」に変えすぎれば、今度は失敗できない理由にもなります。
前にできたのだから。
皆が褒めてくれたのだから。
自分で続けると決めたのだから。
今さら怖いとは言えない。
役割を減らしたいとも言えない。
そう思わせてしまうことがあります。
王太子殿下は、努力した人を褒めることが好きです。
以前より、かなり上手になりました。
自分だけが相手を救ったように言わず、相手自身が選び、考え、進んだことを認められるようになっています。
けれど、殿下の褒め言葉は重いのです。
王太子から「あなたなら必ずできる」と言われれば、それは励ましではなく、期待として胸へ残るかもしれません。
王太子から「本番も楽しみにしている」と言われれば、逃げ道が消えたように感じるかもしれません。
昨日、自分で続けると決めた女生徒へ。
殿下は、かなり喜びました。
そして、その喜びをすべて伝えようとしました。
結果。
女生徒は、また少しだけ苦しくなりました。
◇
「マリア」
「はい」
「今日はかなりよい知らせがある」
「おはようございます」
「おはよう」
「自然です」
「受け取る」
「まだ褒めています」
「なら全部」
校舎裏の朝は、昨日までの湿り気を残しながらも、空だけはよく晴れていました。
低い位置から差し込む日差しが、雨に洗われた葉を明るく照らしています。芝生には小さな露が残り、風が通るたび、細かな光が地面近くで揺れていました。
古い木製ベンチは乾いています。
殿下はすでに座っていました。
膝の上には紙が一枚。
分厚くありません。
百二十一項目でもありません。
その点だけなら、かなり安心できます。
「よい知らせとは?」
「発表役の女生徒が、本番も四十秒の説明を担当すると決めた」
「昨日のお話ですね」
「ああ」
「ご本人が決めたのですね」
「ああ。自分の研究したことを、自分で話したいと言った」
殿下の声には、隠しきれない喜びがありました。
「かなり嬉しい」
「はい」
「私は引き留めなかった」
「はい」
「辞めてもよいと言った」
「はい」
「そのうえで、自分から続けると決めた」
「はい」
「かなり成長したと思う」
「その方が?」
「ああ。私も」
「ご自分も入っていますね」
「少し」
殿下は膝の上の紙を持ち上げました。
「だから、伝える言葉を考えた」
「嫌な予感がします」
「まだ読んでいない」
「紙に書いた時点で少し危険です」
「短い」
「何行ですか?」
「七行」
「褒め言葉で七行は長いです」
「聞いて」
殿下は紙へ視線を落としました。
「あなたは恐怖を乗り越え、自らの意思で発表役を続けると決めた。その勇気と責任感を、私は高く評価する。昨日の練習で最後まで説明できたのだから、本番でも必ずできると信じている。たとえ緊張しても、あなたなら乗り越えられる。私は客席で、あなたが最後まで話し終える姿を楽しみにしている――」
「殿下」
「まだ二行ある」
「もう十分です」
「どこが悪い?」
「かなり重いです」
「褒めている」
「期待を積み上げています」
「でも、本当にできると思う」
「殿下がそう思うことと、ご本人が本番でも必ずできることは別です」
殿下は紙を見下ろしました。
「昨日できた」
「はい」
「四十秒、止まらずに」
「はい」
「なら、次もできる可能性は高い」
「そうかもしれません」
「では」
「でも、『必ずできる』と言われたら、できなかったときに殿下を失望させたと思うかもしれません」
殿下の表情が少し変わりました。
「私は失望しない」
「それをご本人が分かるように伝えていますか?」
「……この文章では、伝えていない」
「はい」
「楽しみにしている、も駄目?」
「言い方によります」
「なぜ」
「最後まで話し終える姿を楽しみにしている、と言われたら、途中で止まることが許されないように感じるかもしれません」
「でも、止まっても待つ」
「それも伝えていません」
殿下は紙を裏返しました。
「褒めるのは難しい」
「かなり」
「以前は、褒める前に全部解決していた」
「はい」
「今は、相手が決めたことを褒めようとしている」
「はい」
「それも駄目?」
「褒めることが駄目なのではありません」
「では何だ」
「一度できたことを、次もできる約束にしないことです」
殿下は黙りました。
「その方が決めたのは、本番で必ず成功することではありません」
「四十秒の説明を担当すること」
「はい」
「怖くなくなることではない?」
「はい」
「途中で止まらないことでもない?」
「はい」
「最後まで必ず話すことでも?」
「ありません」
「では、何を褒める?」
「怖さがあるまま、今の時点ではもう一度やってみたいと決めたことです」
「今の時点では」
「はい」
「明日、気持ちが変わるかもしれない?」
「はい」
「本番直前も?」
「はい」
「役割を変えたいと言う可能性も?」
「あります」
「そのときも受け止める?」
「はい」
殿下は長く息を吐きました。
「かなり難しい」
「はい」
「私は、できたことを積み上げれば、自信になると思っていた」
「自信になることもあります」
「でも、義務にもなる?」
「はい」
「昨日できたのだから、今日も」
「はい」
「今日できたのだから、本番も」
「はい」
「本番でできたら、次も?」
「はい」
「終わらない」
「そうなのです」
殿下は紙を見ました。
「では、この文章は破る?」
「そこまでしなくても」
「書き直す」
「短くしてください」
「二行?」
「それくらいで」
「何と言えばよい」
「殿下ご自身で考えてください」
「厳しい」
「最近、かなり考えられるようになりましたから」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
殿下は紙の余白へ何かを書き始めました。
何度か止まり、線を引き、また書きます。
「できた」
「読んでください」
「昨日、もう一度やってみたいと自分で決めたことを、私は嬉しく思っている。本番でも、途中で気持ちが変わったら、また決め直してよい」
私は少し考えました。
「かなりよいです」
「最後までできると信じている、は?」
「入れないでください」
「一言だけ」
「今は不要です」
「楽しみにしている、は?」
「発表全体を楽しみにしているなら」
「あなたの四十秒を?」
「限定しないでください」
殿下は残念そうに紙を畳みました。
「褒める量も、相手が受け取れる分だけ?」
「はい」
「質問と同じ?」
「かなり似ています」
「私は何でも多い」
「はい」
「厳しい」
◇
中央回廊には、発表会を三日後に控えた慌ただしさが広がっていました。
各研究会の生徒たちが展示物を運び、掲示板には当日の進行表が張り出されています。
植物研究会の発表は、午後の三番目。
発表時間十分、質疑応答五分。
その文字の前で、数人の生徒が話していました。
「植物研究会、発表役を減らした人がいるんだって」
「でも続けることにしたらしいよ」
「殿下が励ましたんでしょ」
「王太子に期待されたら、辞められないよね」
殿下の歩みが止まりました。
「マリア」
「はい」
「今のは違う」
「はい」
「私は続けろと言っていない」
「昨日は言いました」
「訂正した」
「はい」
「でも、周囲にはそう見える?」
「可能性はあります」
話していた生徒たちは、殿下の存在に気づき、少し姿勢を正しました。
殿下は一歩近づきます。
「その者は、自分で続けると決めた」
「は、はい」
「私が期待したからではない」
生徒たちの顔が少し硬くなりました。
「殿下」
私は小さく呼びました。
殿下も、自分の言い方へ気づいたようでした。
「……少なくとも、私はそのように命じていない」
「はい」
「昨日、最初は引き留めた。だが、そのあと本人へ選び直してよいと伝えた」
「はい」
「今後、また役割を変えてもよい」
生徒の一人が恐る恐る聞きました。
「殿下が楽しみにされていても、ですか?」
殿下は少し黙りました。
「ああ」
「残念では?」
「残念だと思うかもしれない」
生徒たちの表情が少し揺れました。
「でも、それは私の気持ちだ。その者が無理をする理由にはしない」
回廊の周囲にいた生徒たちも、少しずつ会話を止めていました。
「私は、彼女が話すところを見たいと思っている」
「はい」
「だが、見たいと思うことと、必ず話してもらうことは違う」
生徒たちは顔を見合わせました。
「殿下、かなり普通のことを言いますね」
「最近よく言われる」
小さな笑いが起こりました。
「じゃあ、その人が本番直前に無理って言っても?」
「研究会で役割を変える」
「殿下は怒らない?」
「怒らない」
「本当に?」
「かなり残念そうにはなるかもしれない」
「殿下」
「隠しても顔に出る」
今度は少し大きな笑いが起こりました。
「でも、止めない?」
「ああ」
「それなら、少し安心かも」
「なぜ?」
「王太子殿下が楽しみにしてるって噂だけ聞いたら、絶対に失敗できない感じがするから」
殿下の表情が静かになりました。
「やはり、重い?」
「少し」
「かなり?」
生徒は答えに迷いました。
「正直に」
「かなり」
周囲からまた笑いが漏れました。
殿下は額へ手を当てました。
「マリア」
「はい」
「私の期待はかなり重い」
「はい」
「少し軽くできない?」
「言葉を減らしてください」
「王太子を辞める必要は?」
「ありません」
「よかった」
◇
そのとき、昨日の女生徒が研究会の仲間と一緒に回廊へ現れました。
自分の話がされていることに気づいたのか、少し足を止めます。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」
殿下は一度、懐へ手を入れました。
おそらく、書き直した二行の紙があります。
しかし、すぐには出しませんでした。
「昨日、自分で決めたことを伝えてくれてありがとう」
「はい」
「私は嬉しかった」
女生徒の肩が少し強張りました。
殿下は続けます。
「でも、本番でも必ず続けてほしいという意味ではない」
女生徒は少し目を大きくしました。
「え?」
「今日、また怖くなったら、そう言ってよい」
「……」
「明日、役割を変えたくなってもよい」
「はい」
「本番直前でも?」
女生徒が聞きました。
殿下はほんの少しだけ黙りました。
「研究会が対応できる範囲で」
「殿下」
「現実的な条件も必要だ」
「はい」
女生徒は少し笑いました。
「本番直前は、かなり困らせると思います」
「ああ」
「でも、言ってもよい?」
「ああ。困ることと、言ってはいけないことは違う」
殿下がそう言うと、ご令嬢が隣で静かに頷きました。
「研究会でも、同じように話しています」
「本当に?」
女生徒がご令嬢を見ます。
「はい。難しくなったら、早めに言ってほしい。でも、早く言えなかったからといって責めないと決めました」
「……」
「できる形を探します」
女生徒は胸の前で持っていた原稿を見下ろしました。
「昨日、続けると決めたあと」
少し迷ってから、口を開きます。
「皆さんが褒めてくださって、嬉しかったです」
「ああ」
「殿下も、かなり喜んでくださって」
「ああ」
「それで、夜になったら、もう辞めたいと言えない気がしました」
殿下の顔から、僅かに表情が消えました。
「私は、言えなくした?」
「殿下だけではありません」
「でも、私も?」
「少し」
「かなり?」
女生徒は困ったように笑いました。
「殿下は期待が大きいので」
「かなりか」
「はい」
殿下は少し視線を落としました。
「すまなかった」
「いいえ。嬉しかったのも本当です」
「嬉しいと、苦しいが両方?」
「はい」
「褒められたことは嬉しい。でも、次にできなかったら、皆さんをがっかりさせると思いました」
「ああ」
「昨日より怖くなった?」
「少し」
殿下は黙りました。
周囲で話を聞いていた生徒たちも、静かになっています。
「私は、あなたなら必ずできると言おうとしていた」
「……はい」
「言わなくてよかった」
女生徒が小さく笑いました。
「たぶん、かなり重かったです」
「マリアに止められた」
「では、マリア様にお礼を言わないと」
「私には?」
「言わずにいてくださったので」
「半分?」
「かなり」
殿下は少しだけ笑いました。
「受け取る」
女生徒は原稿を持ち直しました。
「今は、もう一度練習するつもりです」
「ああ」
「本番もできれば話したいです」
「ああ」
「でも、絶対ではありません」
「ああ」
「それでも、見ていてくださいますか」
殿下はすぐに答えました。
「見る」
「私が話さなくても?」
「ああ。研究会の発表を見る」
「……はい」
「あなたが資料補助になっても、そこにいるなら見る」
「はい」
「途中で止まっても?」
「ああ」
「最後まで言えなくても?」
「ああ」
殿下は少し考えました。
「話せたかどうかだけを見ない」
女生徒の表情が、ゆっくり緩みました。
「ありがとうございます」
◇
女生徒たちが去ったあと、殿下はしばらく動きませんでした。
「マリア」
「はい」
「褒められることが、苦しいこともある」
「はい」
「嬉しいのに?」
「はい」
「両方ある?」
「あります」
「私は、嬉しいならもっと渡そうとする」
「はい」
「褒め言葉も、期待も、支援も」
「はい」
「だから多すぎる」
「はい」
殿下は懐から二行の紙を出しました。
「これは渡さない?」
「今、言葉で伝えられました」
「ああ」
「紙は必要ありません」
「かなり考えた」
「ご自分の学習記録として持っていてください」
「彼女へではなく?」
「はい」
殿下は紙をもう一度畳み、懐へ戻しました。
「私は、話せても話せなくても見ると言った」
「はい」
「本当にそう思う」
「はい」
「でも、話せたらかなり嬉しい」
「それは自然です」
「顔に出る」
「はい」
「話せなかったら、少し残念そうになる」
「はい」
「隠すべき?」
「責める顔をしなければ、完全に隠す必要はありません」
「残念だと思うことも許される?」
「はい」
「でも、その気持ちを相手の責任にしない」
「はい」
「かなり難しい」
「かなり」
「褒める?」
「かなりよく整理できています」
「受け取る」
◇
昼休み、植物研究会では三度目の発表原稿の修正が進んでいました。
四十秒の説明を担当する女生徒は、自分の机へ小さな紙を広げています。
そこには文章ではなく、五つの短い言葉だけが書かれていました。
葉の角度。
中心線。
測定位置。
複数人。
今後の確認。
「全文を書かなくて大丈夫?」
隣の会員が聞きました。
「全文があると、一字でも飛んだら分からなくなるから」
「箇条書きだけ?」
「うん。自分の言葉で言ってみる」
「昨日より難しくない?」
「少し。でも、昨日と同じように言わなきゃと思うほうが怖い」
ご令嬢がその言葉へ顔を上げました。
「昨日と同じでなくてもよいと思います」
「うん」
「意味が伝われば、言葉は変わっても大丈夫です」
「順番も?」
「大きく変わらなければ」
代表も頷きました。
「発表原稿はあるけど、完全に同じ言葉で読む必要はないよ」
「本番で、昨日より下手だったら?」
「下手かどうかを決めるのは難しい」
「声が小さくなったら」
「聞こえなければ、担当の先生が少し近づくよう合図してくれる」
「止まったら?」
「待つ」
「長く止まったら?」
「次の人が、続けるか聞く」
「代わってもらってもいい?」
「うん」
女生徒は少しずつ頷きました。
「昨日できたから、今日も同じようにしないといけないと思ってた」
「私たちも褒めすぎたかも」
会員の一人が、少し申し訳なさそうに言いました。
「できた、すごい、本番も大丈夫って」
「嬉しかったよ」
「でも、重かった?」
「少し」
「ごめん」
「謝らなくていい。私も、褒めてほしかったから」
部屋の中に、少し不思議な沈黙が落ちました。
嬉しい。
でも、重い。
続けたい。
でも、怖い。
できた。
でも、次もできるとは限らない。
どちらか一つだけではありません。
反対に見える気持ちが、同時に存在しています。
「では、次の練習では」
代表が役割表へ書き込みながら言いました。
「成功させることではなく、今の方法で話しやすいかを確認する」
「うん」
「途中で止まっても、練習としては失敗ではない」
「うん」
「本番と同じようにやるけど、本番の約束にはしない」
女生徒は少し笑いました。
「それなら、できそう」
「できそう?」
「やってみようと思える」
◇
同じ頃、生徒会室では、殿下が研究発表会当日の進行表を確認していました。
以前であれば、植物研究会の発表部分だけ何度も読み返したでしょう。
今日は全研究会の順番を見ています。
「魔道具研究会、歴史研究会、植物研究会、薬草研究会」
「はい」
「植物研究会だけ特別に時間を延ばすことはない?」
担当教員が少し警戒した顔で答えました。
「ございません」
「質疑応答も五分?」
「はい」
「もし発表者が途中で止まったら?」
「進行役が少し待ちます。それでも難しい場合は、研究会内で交代します」
「時間は?」
「原則として延長しません」
殿下は少し考えました。
「分かった」
担当教員が驚いたように殿下を見ました。
「よろしいのですか?」
「何が」
「発表者が止まった場合でも、時間を延ばさないという点です」
「ああ」
「以前の殿下でしたら」
「何だ」
「……かなり調整を求められたかと」
生徒会室に小さな笑いが起こりました。
「私もそう思う」
「ご自覚が」
「ある」
殿下は進行表へ視線を戻しました。
「止まった時間も、その者の発表時間?」
「はい」
「厳しい」
「すべての研究会に同じ条件です」
「ああ」
「ただし、体調不良などがあれば別です」
「その判断は?」
「担当教員が行います」
「私ではなく?」
「はい」
「分かった」
ハインツ様が横から進行表を覗きました。
「殿下」
「何だ」
「かなり素直ですね」
「公平でなければならない」
「はい」
「好きな令嬢の研究会だからといって、時間を増やすのは違う」
「はい」
「でも、一分くらいなら」
「殿下」
「言ってみただけだ」
「顔が本気です」
書記の女生徒たちが笑いました。
「ただ」
殿下は進行表を指でなぞりました。
「発表者が止まったとき、客席がざわつかないようにできる?」
「それは難しいですね」
「注意事項として、発表者が言葉に詰まっても静かに待つよう伝える?」
担当教員は少し考えました。
「全体への案内としてなら、よいかもしれません」
「植物研究会だけではなく?」
「はい。どの発表でも起こり得ます」
「なら、開始前に進行役から言う」
「検討します」
ハインツ様が殿下を見ました。
「かなりよい提案ですね」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
◇
放課後、中講堂では四度目の会場練習が行われました。
発表会まで、あと二日。
舞台上の展示は、ほぼ本番と同じ形へ整っています。
三鉢の植物。
観察記録。
温度表。
葉の角度を示す大きな図。
失敗した測定記録。
今後の課題。
客席には、これまでより多くの人がいました。
研究会員だけでなく、担当教員の判断で、他の研究会からも十人ほどが練習見学へ来ています。
本番の人の多さへ近づけるためでした。
四十秒の説明を担当する女生徒は、客席へ人が増えたのを見て、舞台袖で足を止めました。
「多い」
「本番はもっと多い」
「今、言わないで」
隣の会員が慌てて口を押さえました。
「ごめん」
女生徒は小さな紙を握っています。
昨日作った五つの言葉だけが書かれた紙です。
「やめる?」
代表が静かに聞きました。
「……」
「今なら、別の人が読む」
「少し待って」
「うん」
代表は急かしませんでした。
ご令嬢も、すぐに大丈夫だとは言いません。
「何が一番怖い?」
ご令嬢が聞きました。
「昨日より人が多いこと」
「うん」
「昨日できたのに、今日はできなかったら」
「うん」
「皆が、昨日できたのにって思う」
ご令嬢は客席を見ました。
殿下も中央列の通路側へ座っています。
「昨日できたから、今日も同じにしないといけない?」
「そう思ってた」
「今日、途中で止まったら、昨日できたことまで消える?」
女生徒は少し考えました。
「消えない」
「うん」
「でも、下手になったと思われる」
「誰に?」
女生徒の視線が、客席の殿下へ向きました。
殿下は舞台袖の会話を聞ける距離ではありません。
ただ、こちらを見ています。
「殿下に」
「聞いてみますか?」
「今?」
「はい」
女生徒は迷いましたが、やがて頷きました。
ご令嬢が舞台の端から殿下へ声をかけます。
「殿下」
「何だ」
「少し質問してもよろしいですか」
「ああ」
「昨日できた説明が、今日うまくできなかったら、どう思いますか」
殿下はすぐに答えませんでした。
会場の視線が集まります。
「昨日できたことは、昨日できたこととして残る」
静かな声が中講堂へ広がりました。
「今日止まっても、昨日の四十秒は消えない」
女生徒が舞台袖から顔を出しました。
「がっかりしますか」
殿下は少し考えました。
「少し心配すると思う」
「心配?」
「今日は何が違ったのか」
「はい」
「人が増えたからか、体調が悪いのか、言葉を変えたからか」
「はい」
「でも、できなくなったとは決めない」
女生徒は小さな紙を見ました。
「本番でも?」
「ああ」
「本番で止まっても?」
「ああ」
「発表は一度だけです」
「一度だけでも、あなたが研究した時間までなくならない」
中講堂が静かになりました。
殿下は続けます。
「四十秒を最後まで話せたかどうかだけで、あなたが研究会でしてきたことを決めない」
女生徒の目が少し揺れました。
「では、今日は?」
「あなたが決める」
「やっても、やらなくても?」
「ああ」
「途中で代わってもらっても?」
「ああ」
「分かりました」
女生徒は舞台袖へ戻りました。
「やる?」
代表が聞きます。
「やってみる」
「昨日と同じに?」
「同じじゃなくてもいい」
女生徒は小さく息を吐きました。
「今日は今日で話す」
◇
発表練習が始まりました。
客席に人が増えたため、最初の説明から少し緊張が見えます。
ご令嬢も一度、図の順番を間違えました。
しかし、自分で戻ります。
二人目の会員は、温度表を指す位置が少しずれました。
後方から見ていた研究会員が、あとで直すために記録します。
そして、四十秒の説明。
女生徒が展示板の横へ立ちました。
昨日より、顔が硬く見えます。
「葉の角度は、茎と葉の中心線を基準に測りました」
最初の文章は、昨日と少し違いました。
「測定する位置が変わると結果にも差が出るため、今は葉へ小さな印をつけています」
客席の一人が咳をしました。
女生徒の言葉が止まります。
一秒。
二秒。
三秒。
中講堂は静かでした。
開始前に担当教員から、発表者が止まっても静かに待つよう説明されていたためです。
女生徒は手元の紙を見ました。
複数人。
今後の確認。
「それから」
声が少し震えました。
「同じ葉を別の人が測った場合、どのくらい差が出るかも、今後確認します」
最後の一文は短くなりました。
昨日より説明も少し不揃いです。
けれど、女生徒は自分で終えました。
次の会員へ視線を送り、一歩下がります。
発表はそのまま続きました。
全体の時間は九分五十八秒。
制限時間内ではありますが、前回より六秒長くなっています。
「以上です」
拍手が起こりました。
殿下も皆と同じように手を叩きました。
女生徒は頭を下げたあと、少し不安そうに殿下のほうを見ています。
◇
「まず、全体の感想からお伝えします」
担当教員が立ち上がりました。
「人が増えたことで、前回より緊張が見られました。ただし、声は後方まで届いています。時間も、ぎりぎりですが制限内です」
研究会員たちが息を吐きます。
「図の順番を一箇所間違えましたが、ご自身で修正できています」
ご令嬢が頷きました。
「測定方法の説明は、前回より少し短くなりました」
女生徒の肩が強張ります。
「しかし、必要な内容は伝わっています。咳の音で一度止まりましたが、客席が静かに待てたため、続けることができました」
「はい」
「本番でも、同じように落ち着いて待つよう、開始前に説明します」
女生徒は少し顔を上げました。
「ありがとうございます」
ハインツ様も感想を伝えました。
「昨日と同じ言葉ではありませんでしたが、意味は分かりました」
「はい」
「むしろ、原稿を思い出そうとしているというより、ご自分の言葉で説明しているように聞こえました」
女生徒の表情が少し和らぎます。
「殿下は?」
ご令嬢が聞きました。
殿下は一度、女生徒を見ました。
「今日のほうが、少し止まった」
「はい」
「昨日より声も震えていた」
女生徒の顔が僅かに曇ります。
しかし、殿下は続けました。
「でも、昨日より悪かったとは思わない」
「……本当ですか?」
「ああ」
「なぜ?」
「今日は人が多かった」
「はい」
「咳の音もあった」
「はい」
「言葉も、自分で少し変えた」
「はい」
「条件が違う」
殿下はゆっくり言葉を選びました。
「昨日と同じようにできなかったのではなく、今日の条件で話したのだと思う」
女生徒はしばらく何も言いませんでした。
「今日の条件で」
「ああ」
「止まりました」
「ああ」
「でも、続けた」
「ああ」
「昨日より、よかったところもありますか」
「自分の言葉に近かった」
ハインツ様が伝えたことと同じでした。
「私も、そう聞こえた」
「はい」
「だから、昨日できたことが失われたとは思わない」
「……ありがとうございます」
殿下は少しだけ笑いました。
「本番も、今日とも昨日とも違う」
「はい」
「だから、同じにしなくてよい」
女生徒の目に、少しだけ涙が浮かびました。
泣くほど悲しかったわけではないのでしょう。
身体に入っていた力が、急に緩んだのかもしれません。
「殿下」
「何だ」
「本番で、今日より止まっても?」
「ああ」
「最後まで言えなくても?」
「ああ」
「それでも、昨日と今日できたことは残る?」
「ああ」
女生徒は目元を指で押さえました。
「なら、本番もやってみたいです」
「ああ」
「今は」
彼女は、少し笑いながら付け加えました。
「今の時点では」
殿下も笑いました。
「それでよい」
◇
練習を見学していた他の研究会の生徒たちも、少しずつ感想を伝えました。
「止まったとき、こっちも緊張した」
「でも、待ってたら続いた」
「意外と長く感じなかった」
「測定位置を決める話、分かりやすかった」
「昨日の発表は知らないけど、今日だけ聞いても問題なかった」
女生徒は一つずつ聞いています。
「昨日よりどうだったかではなく、今日だけ聞いた感想?」
「うん」
「分かりにくくなかった?」
「大丈夫だった」
「声も後ろまで聞こえたよ」
その言葉を聞くたび、女生徒の表情が少しずつ落ち着いていきました。
殿下は客席から動かず、その様子を見ています。
「マリア」
「はい」
「私は、昨日と比べた」
「はい」
「でも、悪いと決めなかった」
「はい」
「条件が違うと考えた」
「はい」
「かなりよかった?」
「かなり」
「受け取る」
「ただし」
「まだある?」
「ご本人の目に涙が浮かんだ瞬間、王宮医師を呼ぼうと立ち上がりかけましたね」
「体調不良かと思った」
「座っていられました」
「かなり我慢した」
「そこも褒めます」
「受け取る。全部」
◇
練習後、研究会員たちは舞台の上で最後の大きな修正を行いました。
説明内容は、これ以上増やさない。
発表時間がぎりぎりのため、冒頭を十秒ほど短くする。
図の順番を間違えないよう、裏側へ番号をつける。
四十秒の説明は、文章を固定せず、五つの要点だけを共有する。
途中で止まった場合は、十秒ほど待つ。
それでも難しい場合は、次の担当者が「続けますか」と小さく確認する。
続けられなければ、その部分を引き取る。
「十秒って長くない?」
「舞台だと長く感じるけど、客席ではそこまでじゃないらしい」
「今日も三秒くらいだった」
「本人はもっと長く感じた?」
「かなり」
「じゃあ、十秒は待てる?」
「うん」
「その間、誰も助け舟を出さない?」
「本人が考えているなら」
「目で合図したら?」
「次の人が聞く」
具体的な方法が決まるにつれ、女生徒の顔にも少し安心が戻りました。
「本番で止まる前提みたい」
「止まっても進める準備」
「止まらなかったら?」
「そのまま続ける」
「失敗の準備って、悪くないんだね」
ご令嬢が頷きました。
「成功を決めておくより、安心できることもあります」
◇
片づけが終わるころ、中講堂の窓には夕日の色が濃く映っていました。
ご令嬢は最後の展示板を運び終えると、一般席に残っていた殿下のもとへ来ました。
「殿下」
「何だ」
「今日はありがとうございました」
「ああ」
「あの方、かなり安心したようです」
「本当に?」
「はい」
「私は、昨日より止まったと言った」
「はい」
「言わないほうがよかった?」
「いいえ。事実でしたから」
「でも、悪くなったとは言わなかった」
「はい」
「条件が違うと言った」
「はい」
「かなり考えた」
「分かりました」
ご令嬢は少し笑いました。
「殿下は、以前ならどう言っていましたか?」
「昨日できたのだから、今日も大丈夫だ」
「はい」
「本番も必ずできる」
「はい」
「私が保証する」
「最後はかなり危険です」
「分かっている」
二人の間に柔らかな笑いが生まれました。
「ご令嬢」
「はい」
「あなたも、昨日できたことが今日できないことはある?」
ご令嬢は少し考えました。
「あります」
「例えば?」
「昨日は発表原稿をすべて覚えていました。でも、今日は図の順番を間違えました」
「ああ」
「それから、昨日はあまり緊張しなかったのに、今日は見学の方が増えて、最初の言葉が少し出にくかったです」
「私は気づいた」
「分かりましたか?」
「ああ。最初に一度、息を吸い直した」
ご令嬢の目が少し大きくなりました。
「よく見ていらっしゃいますね」
「かなり」
「少し恥ずかしいです」
「でも、最後まで話した」
「はい」
「なら、次も大丈夫?」
ご令嬢は殿下を見ました。
殿下は少し笑っています。
試すように聞いたのでしょう。
「分かりません」
「そうか」
「本番は、もっと緊張するかもしれません」
「ああ」
「今日より間違えるかもしれません」
「ああ」
「でも、今日まで準備したことはなくなりません」
「ああ」
「殿下が先ほど言ってくださったことと同じです」
殿下は少しだけ照れたように視線を逸らしました。
「私も、よいことを言えるようになった」
「かなり」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
ご令嬢は少し迷ってから、続けました。
「殿下」
「何だ」
「もし本番で、私が大きく間違えたら」
「ああ」
「失望しますか?」
殿下の表情が静かになりました。
「しない」
すぐに答えたあと、少し考え直します。
「驚くかもしれない」
「はい」
「心配もする」
「はい」
「悔しいと思うかもしれない」
「殿下が?」
「あなたがかなり準備したことを知っているから」
ご令嬢は静かに聞いています。
「でも、失望はしない」
「本当に?」
「ああ」
「なぜ?」
「あなたが成功するから、見たいのではない」
ご令嬢の瞳が、僅かに揺れました。
「あなたたちが、自分たちで考えて作った発表だから見たい」
殿下の声は穏やかでした。
「間違えても、それは変わらない」
中講堂には、片づけを続ける生徒たちの小さな音が残っています。
誰かが展示板を立てかける音。
紙を揃える音。
遠くの廊下を歩く足音。
ご令嬢は、すぐには答えませんでした。
「ありがとうございます」
やがて、少しだけ声を小さくして言いました。
「それなら、かなり安心します」
「安心した?」
「はい」
「全部?」
「少しです」
「全部ではない?」
「緊張は残っています」
殿下は少し笑いました。
「それでよい」
◇
二人が中講堂を出ると、外の空気は少し冷たくなっていました。
回廊の窓から入り込む夕方の風が、掲示板の紙を僅かに揺らしています。
発表会まで、あと二日。
ご令嬢は研究会員たちと寮へ戻る予定でした。
「では、また明日」
ご令嬢が言いました。
殿下の表情がわずかに明るくなります。
「明日も練習?」
「研究会室で、最後の確認をします」
「私は?」
「明日は研究会だけで行います」
殿下の表情が少し止まりました。
「ああ」
「来たいですか?」
「かなり」
「でも、最後は自分たちだけで確認したいです」
「ああ。分かった」
「残念ですか?」
「かなり」
ご令嬢が笑いました。
「正直ですね」
「隠しても顔に出る」
「はい」
「でも、行かない」
「ありがとうございます」
「発表会で見る」
「はい」
「成功してもしなくても」
「はい」
「かなり見る」
「普通に見てください」
ご令嬢は笑いながら、研究会員たちのところへ戻っていきました。
殿下はその背中を見送りました。
「マリア」
「はい」
「明日の練習へ行きたい」
「はい」
「でも、来ないでと言われた」
「自分たちだけで行いたいと言われました」
「同じでは?」
「少し違います」
「行かない」
「はい」
「研究会室の近くを偶然通るのは?」
「やめてください」
「廊下の反対側なら?」
「やめてください」
「窓の外から」
「殿下」
「分かっている」
殿下は深く息を吐きました。
「昨日できたことが、次もできる約束ではない」
「はい」
「昨日会えたから、今日も会えるとは限らない」
「はい」
「昨日練習を見たから、明日も見られるとは限らない」
「はい」
「でも、昨日見たことは残る」
「はい」
「発表会でまた見られる」
「はい」
「かなり我慢する」
「褒めます」
「受け取る。全部」
◇
翌日。
植物研究会は、本当に研究会員だけで最後の確認を行いました。
殿下は研究会室へ行きませんでした。
近くの廊下も通りませんでした。
窓の外にも立ちませんでした。
ただし、生徒会室でかなり落ち着きがありませんでした。
「殿下」
ハインツ様が呼びます。
「何だ」
「研究会室の方向を見るのは、もう五度目です」
「窓からは見えない」
「見えないのに?」
「分かっている」
「行きませんよね」
「行かない」
「かなり成長しました」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
殿下は書類へ視線を戻しました。
しかし、数分後。
「ハインツ」
「はい」
「昨日できたことが、今日できなくてもよい」
「はい」
「では、昨日行かないと決めた私が、今日行きたくなった場合は?」
「行きたいと思うことは自由です」
「行くのは?」
「駄目です」
「厳しい」
書記の女生徒たちが笑いました。
「殿下」
一人が言いました。
「行かないと決めたことも、次の日まで絶対ではないのでは?」
殿下の目が明るくなりました。
「そうだ」
「ただし、相手が自分たちだけで行いたいという希望は、今日も変わっていません」
殿下の表情が戻りました。
「そうだった」
「期待させてしまい、申し訳ありません」
「かなり一瞬嬉しかった」
「すみません」
生徒会室に柔らかな笑いが広がりました。
◇
研究会室では、最後の確認が静かに進んでいました。
前日のような大きな修正はありません。
図の順番。
展示板の位置。
鉢を運ぶ担当。
発表原稿。
質問へ答えられない場合の言葉。
途中で誰かが止まった場合の合図。
すべてを一つずつ確認します。
四十秒の説明を担当する女生徒は、今日は声を出さず、要点だけを指で追いました。
「練習しないの?」
隣の会員が聞きます。
「今日は、声が出にくい気がする」
「大丈夫?」
「分からない」
「役割を変える?」
「まだ変えない」
「うん」
「今日は、できない日かもしれない」
女生徒は少し笑いました。
「でも、本番ができない日とは限らないから」
ご令嬢も笑いました。
「昨日の殿下みたいですね」
「かなり影響を受けたかも」
「殿下が聞いたら喜びます」
「期待されすぎると困るから、言わないで」
部屋に笑いが広がりました。
「でも、少しだけ伝える?」
「発表会が終わってから」
「それがいい」
◇
その日の夕方、ご令嬢から殿下へ短い伝言が届きました。
最後の確認は無事に終わりました。
大きな変更はありません。
明日は、研究会として自分たちの発表を行います。
殿下はその紙を何度も読みました。
「無事に終わった」
「はい」
「大きな変更はない」
「はい」
「明日は発表」
「はい」
「私は何と返す?」
「短く」
「頑張って、は?」
「悪くありません」
「必ず成功する、は?」
「駄目です」
「楽しみにしている、は?」
「発表全体に対してなら」
「最後まで見ている、は?」
「よいと思います」
殿下は少し考え、伝言の裏へ短く書きました。
「知らせてくれてありがとう。明日は、研究会の発表を最後まで見ています」
私は読みました。
「かなりよいです」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
「ただし」
「まだある?」
「『何があっても』と書き足そうとしないでください」
殿下の筆が止まりました。
「見えていた?」
「かなり」
殿下は小さく息を吐き、その言葉を書かずに筆を置きました。
◇
一度できたことは、確かに残ります。
昨日、四十秒を最後まで話せた。
人が少ない会場では、声が届いた。
途中で止まっても、自分で続きを話せた。
それらは、その人が積み重ねた大切な経験です。
けれど、それを次の成功の保証へ変える必要はありません。
昨日できたのだから、今日も。
今日できたのだから、本番も。
本番でできたのだから、次も。
そうして一度の成功を未来へ繋ぎすぎると、その人は失敗できなくなります。
怖いと言えなくなります。
役割を変えたいと言えなくなります。
できなかった自分が、以前より後退したように感じます。
王太子殿下は、女生徒へ「あなたなら必ずできる」と言おうとしました。
客席で、最後まで話し終える姿を楽しみにしていると伝えようとしました。
それは、励ましのつもりでした。
けれど、女生徒にとっては、次も必ず成功しなければならない約束になりかけていました。
殿下は言葉を変えました。
昨日できたことは、昨日のものとして残る。
今日止まっても、昨日できたことは消えない。
本番で最後まで言えなくても、研究してきた時間はなくならない。
同じようにできなくても、それは後退とは限らない。
条件が違えば、でき方も変わります。
昨日より止まった。
でも、昨日より自分の言葉で話せた。
声は震えた。
でも、人が増えた客席の前へ立てた。
少し短くなった。
でも、必要なことは伝わった。
一つの基準だけで、前よりよい、悪いと決める必要はありません。
王太子殿下。
相手を信じることは、次も必ずできると決めることではありません。
できる日も、できない日もある。
途中で止まる日も、最後まで話せる日もある。
役割を続ける日も、変える日もある。
それでも、その人が積み重ねたものを失わないと信じることです。
ですから殿下。
発表会当日に備え、研究会員全員の「昨日できたこと一覧」を作り、本番前に読み上げるのはやめてください。
励ましではなく、かなり大きな圧力になります。
それから、「昨日より少し声が小さい」「前回より視線が三度多く下がった」などと細かく比較する観察表も不要です。
植物ではありません。
人の緊張を数値で管理しないでください。
ご令嬢が昨日より二秒長く息を吸ったことへ気づいても、王宮医務室へ報告する必要はありません。
緊張しています。
発表会の前ですから、当然です。
最後に。
「成功してもしなくても見る」と決めたからといって、失敗する可能性へ備えた慰労会と、成功した場合の祝賀会を別々に用意しないでください。
どちらの場合も、まず研究会の皆さんの希望を聞いてください。
本当にお願いします。




