↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
89/101

第89話 王太子殿下、一度できたことを次もできる約束にしない


 一度、できたことは。


 次も、できる。


 そう思われることがあります。


 昨日は最後まで話せた。


 前回は途中で止まらなかった。


 練習では声が届いた。


 なら、本番も大丈夫だろう。


 励ます側に悪意はありません。むしろ、相手が積み重ねた努力を信じ、できたことを認め、前向きな気持ちを渡したいと思っています。


 けれど、一度できたことが、次も必ずできるとは限りません。


 昨日より緊張するかもしれない。


 客席が埋まれば、同じ舞台でもまったく違って見えるかもしれない。


 朝は平気でも、直前になって身体が動かなくなるかもしれない。


 できた経験は、支えになります。


 しかし、それを「次もできる証拠」に変えすぎれば、今度は失敗できない理由にもなります。


 前にできたのだから。


 皆が褒めてくれたのだから。


 自分で続けると決めたのだから。


 今さら怖いとは言えない。


 役割を減らしたいとも言えない。


 そう思わせてしまうことがあります。


 王太子殿下は、努力した人を褒めることが好きです。


 以前より、かなり上手になりました。


 自分だけが相手を救ったように言わず、相手自身が選び、考え、進んだことを認められるようになっています。


 けれど、殿下の褒め言葉は重いのです。


 王太子から「あなたなら必ずできる」と言われれば、それは励ましではなく、期待として胸へ残るかもしれません。


 王太子から「本番も楽しみにしている」と言われれば、逃げ道が消えたように感じるかもしれません。


 昨日、自分で続けると決めた女生徒へ。


 殿下は、かなり喜びました。


 そして、その喜びをすべて伝えようとしました。


 結果。


 女生徒は、また少しだけ苦しくなりました。


          ◇


「マリア」


「はい」


「今日はかなりよい知らせがある」


「おはようございます」


「おはよう」


「自然です」


「受け取る」


「まだ褒めています」


「なら全部」


 校舎裏の朝は、昨日までの湿り気を残しながらも、空だけはよく晴れていました。


 低い位置から差し込む日差しが、雨に洗われた葉を明るく照らしています。芝生には小さな露が残り、風が通るたび、細かな光が地面近くで揺れていました。


 古い木製ベンチは乾いています。


 殿下はすでに座っていました。


 膝の上には紙が一枚。


 分厚くありません。


 百二十一項目でもありません。


 その点だけなら、かなり安心できます。


「よい知らせとは?」


「発表役の女生徒が、本番も四十秒の説明を担当すると決めた」


「昨日のお話ですね」


「ああ」


「ご本人が決めたのですね」


「ああ。自分の研究したことを、自分で話したいと言った」


 殿下の声には、隠しきれない喜びがありました。


「かなり嬉しい」


「はい」


「私は引き留めなかった」


「はい」


「辞めてもよいと言った」


「はい」


「そのうえで、自分から続けると決めた」


「はい」


「かなり成長したと思う」


「その方が?」


「ああ。私も」


「ご自分も入っていますね」


「少し」


 殿下は膝の上の紙を持ち上げました。


「だから、伝える言葉を考えた」


「嫌な予感がします」


「まだ読んでいない」


「紙に書いた時点で少し危険です」


「短い」


「何行ですか?」


「七行」


「褒め言葉で七行は長いです」


「聞いて」


 殿下は紙へ視線を落としました。


「あなたは恐怖を乗り越え、自らの意思で発表役を続けると決めた。その勇気と責任感を、私は高く評価する。昨日の練習で最後まで説明できたのだから、本番でも必ずできると信じている。たとえ緊張しても、あなたなら乗り越えられる。私は客席で、あなたが最後まで話し終える姿を楽しみにしている――」


「殿下」


「まだ二行ある」


「もう十分です」


「どこが悪い?」


「かなり重いです」


「褒めている」


「期待を積み上げています」


「でも、本当にできると思う」


「殿下がそう思うことと、ご本人が本番でも必ずできることは別です」


 殿下は紙を見下ろしました。


「昨日できた」


「はい」


「四十秒、止まらずに」


「はい」


「なら、次もできる可能性は高い」


「そうかもしれません」


「では」


「でも、『必ずできる』と言われたら、できなかったときに殿下を失望させたと思うかもしれません」


 殿下の表情が少し変わりました。


「私は失望しない」


「それをご本人が分かるように伝えていますか?」


「……この文章では、伝えていない」


「はい」


「楽しみにしている、も駄目?」


「言い方によります」


「なぜ」


「最後まで話し終える姿を楽しみにしている、と言われたら、途中で止まることが許されないように感じるかもしれません」


「でも、止まっても待つ」


「それも伝えていません」


 殿下は紙を裏返しました。


「褒めるのは難しい」


「かなり」


「以前は、褒める前に全部解決していた」


「はい」


「今は、相手が決めたことを褒めようとしている」


「はい」


「それも駄目?」


「褒めることが駄目なのではありません」


「では何だ」


「一度できたことを、次もできる約束にしないことです」


 殿下は黙りました。


「その方が決めたのは、本番で必ず成功することではありません」


「四十秒の説明を担当すること」


「はい」


「怖くなくなることではない?」


「はい」


「途中で止まらないことでもない?」


「はい」


「最後まで必ず話すことでも?」


「ありません」


「では、何を褒める?」


「怖さがあるまま、今の時点ではもう一度やってみたいと決めたことです」


「今の時点では」


「はい」


「明日、気持ちが変わるかもしれない?」


「はい」


「本番直前も?」


「はい」


「役割を変えたいと言う可能性も?」


「あります」


「そのときも受け止める?」


「はい」


 殿下は長く息を吐きました。


「かなり難しい」


「はい」


「私は、できたことを積み上げれば、自信になると思っていた」


「自信になることもあります」


「でも、義務にもなる?」


「はい」


「昨日できたのだから、今日も」


「はい」


「今日できたのだから、本番も」


「はい」


「本番でできたら、次も?」


「はい」


「終わらない」


「そうなのです」


 殿下は紙を見ました。


「では、この文章は破る?」


「そこまでしなくても」


「書き直す」


「短くしてください」


「二行?」


「それくらいで」


「何と言えばよい」


「殿下ご自身で考えてください」


「厳しい」


「最近、かなり考えられるようになりましたから」


「褒める?」


「かなり」


「受け取る」


 殿下は紙の余白へ何かを書き始めました。


 何度か止まり、線を引き、また書きます。


「できた」


「読んでください」


「昨日、もう一度やってみたいと自分で決めたことを、私は嬉しく思っている。本番でも、途中で気持ちが変わったら、また決め直してよい」


 私は少し考えました。


「かなりよいです」


「最後までできると信じている、は?」


「入れないでください」


「一言だけ」


「今は不要です」


「楽しみにしている、は?」


「発表全体を楽しみにしているなら」


「あなたの四十秒を?」


「限定しないでください」


 殿下は残念そうに紙を畳みました。


「褒める量も、相手が受け取れる分だけ?」


「はい」


「質問と同じ?」


「かなり似ています」


「私は何でも多い」


「はい」


「厳しい」


          ◇


 中央回廊には、発表会を三日後に控えた慌ただしさが広がっていました。


 各研究会の生徒たちが展示物を運び、掲示板には当日の進行表が張り出されています。


 植物研究会の発表は、午後の三番目。


 発表時間十分、質疑応答五分。


 その文字の前で、数人の生徒が話していました。


「植物研究会、発表役を減らした人がいるんだって」


「でも続けることにしたらしいよ」


「殿下が励ましたんでしょ」


「王太子に期待されたら、辞められないよね」


 殿下の歩みが止まりました。


「マリア」


「はい」


「今のは違う」


「はい」


「私は続けろと言っていない」


「昨日は言いました」


「訂正した」


「はい」


「でも、周囲にはそう見える?」


「可能性はあります」


 話していた生徒たちは、殿下の存在に気づき、少し姿勢を正しました。


 殿下は一歩近づきます。


「その者は、自分で続けると決めた」


「は、はい」


「私が期待したからではない」


 生徒たちの顔が少し硬くなりました。


「殿下」


 私は小さく呼びました。


 殿下も、自分の言い方へ気づいたようでした。


「……少なくとも、私はそのように命じていない」


「はい」


「昨日、最初は引き留めた。だが、そのあと本人へ選び直してよいと伝えた」


「はい」


「今後、また役割を変えてもよい」


 生徒の一人が恐る恐る聞きました。


「殿下が楽しみにされていても、ですか?」


 殿下は少し黙りました。


「ああ」


「残念では?」


「残念だと思うかもしれない」


 生徒たちの表情が少し揺れました。


「でも、それは私の気持ちだ。その者が無理をする理由にはしない」


 回廊の周囲にいた生徒たちも、少しずつ会話を止めていました。


「私は、彼女が話すところを見たいと思っている」


「はい」


「だが、見たいと思うことと、必ず話してもらうことは違う」


 生徒たちは顔を見合わせました。


「殿下、かなり普通のことを言いますね」


「最近よく言われる」


 小さな笑いが起こりました。


「じゃあ、その人が本番直前に無理って言っても?」


「研究会で役割を変える」


「殿下は怒らない?」


「怒らない」


「本当に?」


「かなり残念そうにはなるかもしれない」


「殿下」


「隠しても顔に出る」


 今度は少し大きな笑いが起こりました。


「でも、止めない?」


「ああ」


「それなら、少し安心かも」


「なぜ?」


「王太子殿下が楽しみにしてるって噂だけ聞いたら、絶対に失敗できない感じがするから」


 殿下の表情が静かになりました。


「やはり、重い?」


「少し」


「かなり?」


 生徒は答えに迷いました。


「正直に」


「かなり」


 周囲からまた笑いが漏れました。


 殿下は額へ手を当てました。


「マリア」


「はい」


「私の期待はかなり重い」


「はい」


「少し軽くできない?」


「言葉を減らしてください」


「王太子を辞める必要は?」


「ありません」


「よかった」


          ◇


 そのとき、昨日の女生徒が研究会の仲間と一緒に回廊へ現れました。


 自分の話がされていることに気づいたのか、少し足を止めます。


「おはようございます、殿下」


「おはよう」


 殿下は一度、懐へ手を入れました。


 おそらく、書き直した二行の紙があります。


 しかし、すぐには出しませんでした。


「昨日、自分で決めたことを伝えてくれてありがとう」


「はい」


「私は嬉しかった」


 女生徒の肩が少し強張りました。


 殿下は続けます。


「でも、本番でも必ず続けてほしいという意味ではない」


 女生徒は少し目を大きくしました。


「え?」


「今日、また怖くなったら、そう言ってよい」


「……」


「明日、役割を変えたくなってもよい」


「はい」


「本番直前でも?」


 女生徒が聞きました。


 殿下はほんの少しだけ黙りました。


「研究会が対応できる範囲で」


「殿下」


「現実的な条件も必要だ」


「はい」


 女生徒は少し笑いました。


「本番直前は、かなり困らせると思います」


「ああ」


「でも、言ってもよい?」


「ああ。困ることと、言ってはいけないことは違う」


 殿下がそう言うと、ご令嬢が隣で静かに頷きました。


「研究会でも、同じように話しています」


「本当に?」


 女生徒がご令嬢を見ます。


「はい。難しくなったら、早めに言ってほしい。でも、早く言えなかったからといって責めないと決めました」


「……」


「できる形を探します」


 女生徒は胸の前で持っていた原稿を見下ろしました。


「昨日、続けると決めたあと」


 少し迷ってから、口を開きます。


「皆さんが褒めてくださって、嬉しかったです」


「ああ」


「殿下も、かなり喜んでくださって」


「ああ」


「それで、夜になったら、もう辞めたいと言えない気がしました」


 殿下の顔から、僅かに表情が消えました。


「私は、言えなくした?」


「殿下だけではありません」


「でも、私も?」


「少し」


「かなり?」


 女生徒は困ったように笑いました。


「殿下は期待が大きいので」


「かなりか」


「はい」


 殿下は少し視線を落としました。


「すまなかった」


「いいえ。嬉しかったのも本当です」


「嬉しいと、苦しいが両方?」


「はい」


「褒められたことは嬉しい。でも、次にできなかったら、皆さんをがっかりさせると思いました」


「ああ」


「昨日より怖くなった?」


「少し」


 殿下は黙りました。


 周囲で話を聞いていた生徒たちも、静かになっています。


「私は、あなたなら必ずできると言おうとしていた」


「……はい」


「言わなくてよかった」


 女生徒が小さく笑いました。


「たぶん、かなり重かったです」


「マリアに止められた」


「では、マリア様にお礼を言わないと」


「私には?」


「言わずにいてくださったので」


「半分?」


「かなり」


 殿下は少しだけ笑いました。


「受け取る」


 女生徒は原稿を持ち直しました。


「今は、もう一度練習するつもりです」


「ああ」


「本番もできれば話したいです」


「ああ」


「でも、絶対ではありません」


「ああ」


「それでも、見ていてくださいますか」


 殿下はすぐに答えました。


「見る」


「私が話さなくても?」


「ああ。研究会の発表を見る」


「……はい」


「あなたが資料補助になっても、そこにいるなら見る」


「はい」


「途中で止まっても?」


「ああ」


「最後まで言えなくても?」


「ああ」


 殿下は少し考えました。


「話せたかどうかだけを見ない」


 女生徒の表情が、ゆっくり緩みました。


「ありがとうございます」


          ◇


 女生徒たちが去ったあと、殿下はしばらく動きませんでした。


「マリア」


「はい」


「褒められることが、苦しいこともある」


「はい」


「嬉しいのに?」


「はい」


「両方ある?」


「あります」


「私は、嬉しいならもっと渡そうとする」


「はい」


「褒め言葉も、期待も、支援も」


「はい」


「だから多すぎる」


「はい」


 殿下は懐から二行の紙を出しました。


「これは渡さない?」


「今、言葉で伝えられました」


「ああ」


「紙は必要ありません」


「かなり考えた」


「ご自分の学習記録として持っていてください」


「彼女へではなく?」


「はい」


 殿下は紙をもう一度畳み、懐へ戻しました。


「私は、話せても話せなくても見ると言った」


「はい」


「本当にそう思う」


「はい」


「でも、話せたらかなり嬉しい」


「それは自然です」


「顔に出る」


「はい」


「話せなかったら、少し残念そうになる」


「はい」


「隠すべき?」


「責める顔をしなければ、完全に隠す必要はありません」


「残念だと思うことも許される?」


「はい」


「でも、その気持ちを相手の責任にしない」


「はい」


「かなり難しい」


「かなり」


「褒める?」


「かなりよく整理できています」


「受け取る」


          ◇


 昼休み、植物研究会では三度目の発表原稿の修正が進んでいました。


 四十秒の説明を担当する女生徒は、自分の机へ小さな紙を広げています。


 そこには文章ではなく、五つの短い言葉だけが書かれていました。


 葉の角度。


 中心線。


 測定位置。


 複数人。


 今後の確認。


「全文を書かなくて大丈夫?」


 隣の会員が聞きました。


「全文があると、一字でも飛んだら分からなくなるから」


「箇条書きだけ?」


「うん。自分の言葉で言ってみる」


「昨日より難しくない?」


「少し。でも、昨日と同じように言わなきゃと思うほうが怖い」


 ご令嬢がその言葉へ顔を上げました。


「昨日と同じでなくてもよいと思います」


「うん」


「意味が伝われば、言葉は変わっても大丈夫です」


「順番も?」


「大きく変わらなければ」


 代表も頷きました。


「発表原稿はあるけど、完全に同じ言葉で読む必要はないよ」


「本番で、昨日より下手だったら?」


「下手かどうかを決めるのは難しい」


「声が小さくなったら」


「聞こえなければ、担当の先生が少し近づくよう合図してくれる」


「止まったら?」


「待つ」


「長く止まったら?」


「次の人が、続けるか聞く」


「代わってもらってもいい?」


「うん」


 女生徒は少しずつ頷きました。


「昨日できたから、今日も同じようにしないといけないと思ってた」


「私たちも褒めすぎたかも」


 会員の一人が、少し申し訳なさそうに言いました。


「できた、すごい、本番も大丈夫って」


「嬉しかったよ」


「でも、重かった?」


「少し」


「ごめん」


「謝らなくていい。私も、褒めてほしかったから」


 部屋の中に、少し不思議な沈黙が落ちました。


 嬉しい。


 でも、重い。


 続けたい。


 でも、怖い。


 できた。


 でも、次もできるとは限らない。


 どちらか一つだけではありません。


 反対に見える気持ちが、同時に存在しています。


「では、次の練習では」


 代表が役割表へ書き込みながら言いました。


「成功させることではなく、今の方法で話しやすいかを確認する」


「うん」


「途中で止まっても、練習としては失敗ではない」


「うん」


「本番と同じようにやるけど、本番の約束にはしない」


 女生徒は少し笑いました。


「それなら、できそう」


「できそう?」


「やってみようと思える」


          ◇


 同じ頃、生徒会室では、殿下が研究発表会当日の進行表を確認していました。


 以前であれば、植物研究会の発表部分だけ何度も読み返したでしょう。


 今日は全研究会の順番を見ています。


「魔道具研究会、歴史研究会、植物研究会、薬草研究会」


「はい」


「植物研究会だけ特別に時間を延ばすことはない?」


 担当教員が少し警戒した顔で答えました。


「ございません」


「質疑応答も五分?」


「はい」


「もし発表者が途中で止まったら?」


「進行役が少し待ちます。それでも難しい場合は、研究会内で交代します」


「時間は?」


「原則として延長しません」


 殿下は少し考えました。


「分かった」


 担当教員が驚いたように殿下を見ました。


「よろしいのですか?」


「何が」


「発表者が止まった場合でも、時間を延ばさないという点です」


「ああ」


「以前の殿下でしたら」


「何だ」


「……かなり調整を求められたかと」


 生徒会室に小さな笑いが起こりました。


「私もそう思う」


「ご自覚が」


「ある」


 殿下は進行表へ視線を戻しました。


「止まった時間も、その者の発表時間?」


「はい」


「厳しい」


「すべての研究会に同じ条件です」


「ああ」


「ただし、体調不良などがあれば別です」


「その判断は?」


「担当教員が行います」


「私ではなく?」


「はい」


「分かった」


 ハインツ様が横から進行表を覗きました。


「殿下」


「何だ」


「かなり素直ですね」


「公平でなければならない」


「はい」


「好きな令嬢の研究会だからといって、時間を増やすのは違う」


「はい」


「でも、一分くらいなら」


「殿下」


「言ってみただけだ」


「顔が本気です」


 書記の女生徒たちが笑いました。


「ただ」


 殿下は進行表を指でなぞりました。


「発表者が止まったとき、客席がざわつかないようにできる?」


「それは難しいですね」


「注意事項として、発表者が言葉に詰まっても静かに待つよう伝える?」


 担当教員は少し考えました。


「全体への案内としてなら、よいかもしれません」


「植物研究会だけではなく?」


「はい。どの発表でも起こり得ます」


「なら、開始前に進行役から言う」


「検討します」


 ハインツ様が殿下を見ました。


「かなりよい提案ですね」


「褒める?」


「かなり」


「受け取る」


          ◇


 放課後、中講堂では四度目の会場練習が行われました。


 発表会まで、あと二日。


 舞台上の展示は、ほぼ本番と同じ形へ整っています。


 三鉢の植物。


 観察記録。


 温度表。


 葉の角度を示す大きな図。


 失敗した測定記録。


 今後の課題。


 客席には、これまでより多くの人がいました。


 研究会員だけでなく、担当教員の判断で、他の研究会からも十人ほどが練習見学へ来ています。


 本番の人の多さへ近づけるためでした。


 四十秒の説明を担当する女生徒は、客席へ人が増えたのを見て、舞台袖で足を止めました。


「多い」


「本番はもっと多い」


「今、言わないで」


 隣の会員が慌てて口を押さえました。


「ごめん」


 女生徒は小さな紙を握っています。


 昨日作った五つの言葉だけが書かれた紙です。


「やめる?」


 代表が静かに聞きました。


「……」


「今なら、別の人が読む」


「少し待って」


「うん」


 代表は急かしませんでした。


 ご令嬢も、すぐに大丈夫だとは言いません。


「何が一番怖い?」


 ご令嬢が聞きました。


「昨日より人が多いこと」


「うん」


「昨日できたのに、今日はできなかったら」


「うん」


「皆が、昨日できたのにって思う」


 ご令嬢は客席を見ました。


 殿下も中央列の通路側へ座っています。


「昨日できたから、今日も同じにしないといけない?」


「そう思ってた」


「今日、途中で止まったら、昨日できたことまで消える?」


 女生徒は少し考えました。


「消えない」


「うん」


「でも、下手になったと思われる」


「誰に?」


 女生徒の視線が、客席の殿下へ向きました。


 殿下は舞台袖の会話を聞ける距離ではありません。


 ただ、こちらを見ています。


「殿下に」


「聞いてみますか?」


「今?」


「はい」


 女生徒は迷いましたが、やがて頷きました。


 ご令嬢が舞台の端から殿下へ声をかけます。


「殿下」


「何だ」


「少し質問してもよろしいですか」


「ああ」


「昨日できた説明が、今日うまくできなかったら、どう思いますか」


 殿下はすぐに答えませんでした。


 会場の視線が集まります。


「昨日できたことは、昨日できたこととして残る」


 静かな声が中講堂へ広がりました。


「今日止まっても、昨日の四十秒は消えない」


 女生徒が舞台袖から顔を出しました。


「がっかりしますか」


 殿下は少し考えました。


「少し心配すると思う」


「心配?」


「今日は何が違ったのか」


「はい」


「人が増えたからか、体調が悪いのか、言葉を変えたからか」


「はい」


「でも、できなくなったとは決めない」


 女生徒は小さな紙を見ました。


「本番でも?」


「ああ」


「本番で止まっても?」


「ああ」


「発表は一度だけです」


「一度だけでも、あなたが研究した時間までなくならない」


 中講堂が静かになりました。


 殿下は続けます。


「四十秒を最後まで話せたかどうかだけで、あなたが研究会でしてきたことを決めない」


 女生徒の目が少し揺れました。


「では、今日は?」


「あなたが決める」


「やっても、やらなくても?」


「ああ」


「途中で代わってもらっても?」


「ああ」


「分かりました」


 女生徒は舞台袖へ戻りました。


「やる?」


 代表が聞きます。


「やってみる」


「昨日と同じに?」


「同じじゃなくてもいい」


 女生徒は小さく息を吐きました。


「今日は今日で話す」


          ◇


 発表練習が始まりました。


 客席に人が増えたため、最初の説明から少し緊張が見えます。


 ご令嬢も一度、図の順番を間違えました。


 しかし、自分で戻ります。


 二人目の会員は、温度表を指す位置が少しずれました。


 後方から見ていた研究会員が、あとで直すために記録します。


 そして、四十秒の説明。


 女生徒が展示板の横へ立ちました。


 昨日より、顔が硬く見えます。


「葉の角度は、茎と葉の中心線を基準に測りました」


 最初の文章は、昨日と少し違いました。


「測定する位置が変わると結果にも差が出るため、今は葉へ小さな印をつけています」


 客席の一人が咳をしました。


 女生徒の言葉が止まります。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 中講堂は静かでした。


 開始前に担当教員から、発表者が止まっても静かに待つよう説明されていたためです。


 女生徒は手元の紙を見ました。


 複数人。


 今後の確認。


「それから」


 声が少し震えました。


「同じ葉を別の人が測った場合、どのくらい差が出るかも、今後確認します」


 最後の一文は短くなりました。


 昨日より説明も少し不揃いです。


 けれど、女生徒は自分で終えました。


 次の会員へ視線を送り、一歩下がります。


 発表はそのまま続きました。


 全体の時間は九分五十八秒。


 制限時間内ではありますが、前回より六秒長くなっています。


「以上です」


 拍手が起こりました。


 殿下も皆と同じように手を叩きました。


 女生徒は頭を下げたあと、少し不安そうに殿下のほうを見ています。


          ◇


「まず、全体の感想からお伝えします」


 担当教員が立ち上がりました。


「人が増えたことで、前回より緊張が見られました。ただし、声は後方まで届いています。時間も、ぎりぎりですが制限内です」


 研究会員たちが息を吐きます。


「図の順番を一箇所間違えましたが、ご自身で修正できています」


 ご令嬢が頷きました。


「測定方法の説明は、前回より少し短くなりました」


 女生徒の肩が強張ります。


「しかし、必要な内容は伝わっています。咳の音で一度止まりましたが、客席が静かに待てたため、続けることができました」


「はい」


「本番でも、同じように落ち着いて待つよう、開始前に説明します」


 女生徒は少し顔を上げました。


「ありがとうございます」


 ハインツ様も感想を伝えました。


「昨日と同じ言葉ではありませんでしたが、意味は分かりました」


「はい」


「むしろ、原稿を思い出そうとしているというより、ご自分の言葉で説明しているように聞こえました」


 女生徒の表情が少し和らぎます。


「殿下は?」


 ご令嬢が聞きました。


 殿下は一度、女生徒を見ました。


「今日のほうが、少し止まった」


「はい」


「昨日より声も震えていた」


 女生徒の顔が僅かに曇ります。


 しかし、殿下は続けました。


「でも、昨日より悪かったとは思わない」


「……本当ですか?」


「ああ」


「なぜ?」


「今日は人が多かった」


「はい」


「咳の音もあった」


「はい」


「言葉も、自分で少し変えた」


「はい」


「条件が違う」


 殿下はゆっくり言葉を選びました。


「昨日と同じようにできなかったのではなく、今日の条件で話したのだと思う」


 女生徒はしばらく何も言いませんでした。


「今日の条件で」


「ああ」


「止まりました」


「ああ」


「でも、続けた」


「ああ」


「昨日より、よかったところもありますか」


「自分の言葉に近かった」


 ハインツ様が伝えたことと同じでした。


「私も、そう聞こえた」


「はい」


「だから、昨日できたことが失われたとは思わない」


「……ありがとうございます」


 殿下は少しだけ笑いました。


「本番も、今日とも昨日とも違う」


「はい」


「だから、同じにしなくてよい」


 女生徒の目に、少しだけ涙が浮かびました。


 泣くほど悲しかったわけではないのでしょう。


 身体に入っていた力が、急に緩んだのかもしれません。


「殿下」


「何だ」


「本番で、今日より止まっても?」


「ああ」


「最後まで言えなくても?」


「ああ」


「それでも、昨日と今日できたことは残る?」


「ああ」


 女生徒は目元を指で押さえました。


「なら、本番もやってみたいです」


「ああ」


「今は」


 彼女は、少し笑いながら付け加えました。


「今の時点では」


 殿下も笑いました。


「それでよい」


          ◇


 練習を見学していた他の研究会の生徒たちも、少しずつ感想を伝えました。


「止まったとき、こっちも緊張した」


「でも、待ってたら続いた」


「意外と長く感じなかった」


「測定位置を決める話、分かりやすかった」


「昨日の発表は知らないけど、今日だけ聞いても問題なかった」


 女生徒は一つずつ聞いています。


「昨日よりどうだったかではなく、今日だけ聞いた感想?」


「うん」


「分かりにくくなかった?」


「大丈夫だった」


「声も後ろまで聞こえたよ」


 その言葉を聞くたび、女生徒の表情が少しずつ落ち着いていきました。


 殿下は客席から動かず、その様子を見ています。


「マリア」


「はい」


「私は、昨日と比べた」


「はい」


「でも、悪いと決めなかった」


「はい」


「条件が違うと考えた」


「はい」


「かなりよかった?」


「かなり」


「受け取る」


「ただし」


「まだある?」


「ご本人の目に涙が浮かんだ瞬間、王宮医師を呼ぼうと立ち上がりかけましたね」


「体調不良かと思った」


「座っていられました」


「かなり我慢した」


「そこも褒めます」


「受け取る。全部」


          ◇


 練習後、研究会員たちは舞台の上で最後の大きな修正を行いました。


 説明内容は、これ以上増やさない。


 発表時間がぎりぎりのため、冒頭を十秒ほど短くする。


 図の順番を間違えないよう、裏側へ番号をつける。


 四十秒の説明は、文章を固定せず、五つの要点だけを共有する。


 途中で止まった場合は、十秒ほど待つ。


 それでも難しい場合は、次の担当者が「続けますか」と小さく確認する。


 続けられなければ、その部分を引き取る。


「十秒って長くない?」


「舞台だと長く感じるけど、客席ではそこまでじゃないらしい」


「今日も三秒くらいだった」


「本人はもっと長く感じた?」


「かなり」


「じゃあ、十秒は待てる?」


「うん」


「その間、誰も助け舟を出さない?」


「本人が考えているなら」


「目で合図したら?」


「次の人が聞く」


 具体的な方法が決まるにつれ、女生徒の顔にも少し安心が戻りました。


「本番で止まる前提みたい」


「止まっても進める準備」


「止まらなかったら?」


「そのまま続ける」


「失敗の準備って、悪くないんだね」


 ご令嬢が頷きました。


「成功を決めておくより、安心できることもあります」


          ◇


 片づけが終わるころ、中講堂の窓には夕日の色が濃く映っていました。


 ご令嬢は最後の展示板を運び終えると、一般席に残っていた殿下のもとへ来ました。


「殿下」


「何だ」


「今日はありがとうございました」


「ああ」


「あの方、かなり安心したようです」


「本当に?」


「はい」


「私は、昨日より止まったと言った」


「はい」


「言わないほうがよかった?」


「いいえ。事実でしたから」


「でも、悪くなったとは言わなかった」


「はい」


「条件が違うと言った」


「はい」


「かなり考えた」


「分かりました」


 ご令嬢は少し笑いました。


「殿下は、以前ならどう言っていましたか?」


「昨日できたのだから、今日も大丈夫だ」


「はい」


「本番も必ずできる」


「はい」


「私が保証する」


「最後はかなり危険です」


「分かっている」


 二人の間に柔らかな笑いが生まれました。


「ご令嬢」


「はい」


「あなたも、昨日できたことが今日できないことはある?」


 ご令嬢は少し考えました。


「あります」


「例えば?」


「昨日は発表原稿をすべて覚えていました。でも、今日は図の順番を間違えました」


「ああ」


「それから、昨日はあまり緊張しなかったのに、今日は見学の方が増えて、最初の言葉が少し出にくかったです」


「私は気づいた」


「分かりましたか?」


「ああ。最初に一度、息を吸い直した」


 ご令嬢の目が少し大きくなりました。


「よく見ていらっしゃいますね」


「かなり」


「少し恥ずかしいです」


「でも、最後まで話した」


「はい」


「なら、次も大丈夫?」


 ご令嬢は殿下を見ました。


 殿下は少し笑っています。


 試すように聞いたのでしょう。


「分かりません」


「そうか」


「本番は、もっと緊張するかもしれません」


「ああ」


「今日より間違えるかもしれません」


「ああ」


「でも、今日まで準備したことはなくなりません」


「ああ」


「殿下が先ほど言ってくださったことと同じです」


 殿下は少しだけ照れたように視線を逸らしました。


「私も、よいことを言えるようになった」


「かなり」


「褒める?」


「かなり」


「受け取る」


 ご令嬢は少し迷ってから、続けました。


「殿下」


「何だ」


「もし本番で、私が大きく間違えたら」


「ああ」


「失望しますか?」


 殿下の表情が静かになりました。


「しない」


 すぐに答えたあと、少し考え直します。


「驚くかもしれない」


「はい」


「心配もする」


「はい」


「悔しいと思うかもしれない」


「殿下が?」


「あなたがかなり準備したことを知っているから」


 ご令嬢は静かに聞いています。


「でも、失望はしない」


「本当に?」


「ああ」


「なぜ?」


「あなたが成功するから、見たいのではない」


 ご令嬢の瞳が、僅かに揺れました。


「あなたたちが、自分たちで考えて作った発表だから見たい」


 殿下の声は穏やかでした。


「間違えても、それは変わらない」


 中講堂には、片づけを続ける生徒たちの小さな音が残っています。


 誰かが展示板を立てかける音。


 紙を揃える音。


 遠くの廊下を歩く足音。


 ご令嬢は、すぐには答えませんでした。


「ありがとうございます」


 やがて、少しだけ声を小さくして言いました。


「それなら、かなり安心します」


「安心した?」


「はい」


「全部?」


「少しです」


「全部ではない?」


「緊張は残っています」


 殿下は少し笑いました。


「それでよい」


          ◇


 二人が中講堂を出ると、外の空気は少し冷たくなっていました。


 回廊の窓から入り込む夕方の風が、掲示板の紙を僅かに揺らしています。


 発表会まで、あと二日。


 ご令嬢は研究会員たちと寮へ戻る予定でした。


「では、また明日」


 ご令嬢が言いました。


 殿下の表情がわずかに明るくなります。


「明日も練習?」


「研究会室で、最後の確認をします」


「私は?」


「明日は研究会だけで行います」


 殿下の表情が少し止まりました。


「ああ」


「来たいですか?」


「かなり」


「でも、最後は自分たちだけで確認したいです」


「ああ。分かった」


「残念ですか?」


「かなり」


 ご令嬢が笑いました。


「正直ですね」


「隠しても顔に出る」


「はい」


「でも、行かない」


「ありがとうございます」


「発表会で見る」


「はい」


「成功してもしなくても」


「はい」


「かなり見る」


「普通に見てください」


 ご令嬢は笑いながら、研究会員たちのところへ戻っていきました。


 殿下はその背中を見送りました。


「マリア」


「はい」


「明日の練習へ行きたい」


「はい」


「でも、来ないでと言われた」


「自分たちだけで行いたいと言われました」


「同じでは?」


「少し違います」


「行かない」


「はい」


「研究会室の近くを偶然通るのは?」


「やめてください」


「廊下の反対側なら?」


「やめてください」


「窓の外から」


「殿下」


「分かっている」


 殿下は深く息を吐きました。


「昨日できたことが、次もできる約束ではない」


「はい」


「昨日会えたから、今日も会えるとは限らない」


「はい」


「昨日練習を見たから、明日も見られるとは限らない」


「はい」


「でも、昨日見たことは残る」


「はい」


「発表会でまた見られる」


「はい」


「かなり我慢する」


「褒めます」


「受け取る。全部」


          ◇


 翌日。


 植物研究会は、本当に研究会員だけで最後の確認を行いました。


 殿下は研究会室へ行きませんでした。


 近くの廊下も通りませんでした。


 窓の外にも立ちませんでした。


 ただし、生徒会室でかなり落ち着きがありませんでした。


「殿下」


 ハインツ様が呼びます。


「何だ」


「研究会室の方向を見るのは、もう五度目です」


「窓からは見えない」


「見えないのに?」


「分かっている」


「行きませんよね」


「行かない」


「かなり成長しました」


「褒める?」


「かなり」


「受け取る」


 殿下は書類へ視線を戻しました。


 しかし、数分後。


「ハインツ」


「はい」


「昨日できたことが、今日できなくてもよい」


「はい」


「では、昨日行かないと決めた私が、今日行きたくなった場合は?」


「行きたいと思うことは自由です」


「行くのは?」


「駄目です」


「厳しい」


 書記の女生徒たちが笑いました。


「殿下」


 一人が言いました。


「行かないと決めたことも、次の日まで絶対ではないのでは?」


 殿下の目が明るくなりました。


「そうだ」


「ただし、相手が自分たちだけで行いたいという希望は、今日も変わっていません」


 殿下の表情が戻りました。


「そうだった」


「期待させてしまい、申し訳ありません」


「かなり一瞬嬉しかった」


「すみません」


 生徒会室に柔らかな笑いが広がりました。


          ◇


 研究会室では、最後の確認が静かに進んでいました。


 前日のような大きな修正はありません。


 図の順番。


 展示板の位置。


 鉢を運ぶ担当。


 発表原稿。


 質問へ答えられない場合の言葉。


 途中で誰かが止まった場合の合図。


 すべてを一つずつ確認します。


 四十秒の説明を担当する女生徒は、今日は声を出さず、要点だけを指で追いました。


「練習しないの?」


 隣の会員が聞きます。


「今日は、声が出にくい気がする」


「大丈夫?」


「分からない」


「役割を変える?」


「まだ変えない」


「うん」


「今日は、できない日かもしれない」


 女生徒は少し笑いました。


「でも、本番ができない日とは限らないから」


 ご令嬢も笑いました。


「昨日の殿下みたいですね」


「かなり影響を受けたかも」


「殿下が聞いたら喜びます」


「期待されすぎると困るから、言わないで」


 部屋に笑いが広がりました。


「でも、少しだけ伝える?」


「発表会が終わってから」


「それがいい」


          ◇


 その日の夕方、ご令嬢から殿下へ短い伝言が届きました。


 最後の確認は無事に終わりました。


 大きな変更はありません。


 明日は、研究会として自分たちの発表を行います。


 殿下はその紙を何度も読みました。


「無事に終わった」


「はい」


「大きな変更はない」


「はい」


「明日は発表」


「はい」


「私は何と返す?」


「短く」


「頑張って、は?」


「悪くありません」


「必ず成功する、は?」


「駄目です」


「楽しみにしている、は?」


「発表全体に対してなら」


「最後まで見ている、は?」


「よいと思います」


 殿下は少し考え、伝言の裏へ短く書きました。


「知らせてくれてありがとう。明日は、研究会の発表を最後まで見ています」


 私は読みました。


「かなりよいです」


「褒める?」


「かなり」


「受け取る」


「ただし」


「まだある?」


「『何があっても』と書き足そうとしないでください」


 殿下の筆が止まりました。


「見えていた?」


「かなり」


 殿下は小さく息を吐き、その言葉を書かずに筆を置きました。


          ◇


 一度できたことは、確かに残ります。


 昨日、四十秒を最後まで話せた。


 人が少ない会場では、声が届いた。


 途中で止まっても、自分で続きを話せた。


 それらは、その人が積み重ねた大切な経験です。


 けれど、それを次の成功の保証へ変える必要はありません。


 昨日できたのだから、今日も。


 今日できたのだから、本番も。


 本番でできたのだから、次も。


 そうして一度の成功を未来へ繋ぎすぎると、その人は失敗できなくなります。


 怖いと言えなくなります。


 役割を変えたいと言えなくなります。


 できなかった自分が、以前より後退したように感じます。


 王太子殿下は、女生徒へ「あなたなら必ずできる」と言おうとしました。


 客席で、最後まで話し終える姿を楽しみにしていると伝えようとしました。


 それは、励ましのつもりでした。


 けれど、女生徒にとっては、次も必ず成功しなければならない約束になりかけていました。


 殿下は言葉を変えました。


 昨日できたことは、昨日のものとして残る。


 今日止まっても、昨日できたことは消えない。


 本番で最後まで言えなくても、研究してきた時間はなくならない。


 同じようにできなくても、それは後退とは限らない。


 条件が違えば、でき方も変わります。


 昨日より止まった。


 でも、昨日より自分の言葉で話せた。


 声は震えた。


 でも、人が増えた客席の前へ立てた。


 少し短くなった。


 でも、必要なことは伝わった。


 一つの基準だけで、前よりよい、悪いと決める必要はありません。


 王太子殿下。


 相手を信じることは、次も必ずできると決めることではありません。


 できる日も、できない日もある。


 途中で止まる日も、最後まで話せる日もある。


 役割を続ける日も、変える日もある。


 それでも、その人が積み重ねたものを失わないと信じることです。


 ですから殿下。


 発表会当日に備え、研究会員全員の「昨日できたこと一覧」を作り、本番前に読み上げるのはやめてください。


 励ましではなく、かなり大きな圧力になります。


 それから、「昨日より少し声が小さい」「前回より視線が三度多く下がった」などと細かく比較する観察表も不要です。


 植物ではありません。


 人の緊張を数値で管理しないでください。


 ご令嬢が昨日より二秒長く息を吸ったことへ気づいても、王宮医務室へ報告する必要はありません。


 緊張しています。


 発表会の前ですから、当然です。


 最後に。


「成功してもしなくても見る」と決めたからといって、失敗する可能性へ備えた慰労会と、成功した場合の祝賀会を別々に用意しないでください。


 どちらの場合も、まず研究会の皆さんの希望を聞いてください。


 本当にお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。