↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
88/101

第88話 王太子殿下、辞めたいと言った人をすぐに引き留めない


 誰かが「もう無理かもしれない」と言ったとき。


 大丈夫だと励ましたくなります。


 ここまで頑張ったのだから、最後まで続けよう。あなたならできる。今やめたら、きっと後悔する。


 そう言えば、相手を立ち直らせられるように思えるからです。


 特に、その人が大切な役割を担っている場合は、なおさらでしょう。


 その人が抜ければ、周囲が困る。


 準備してきた時間が無駄になる。


 代わりの人を探さなければならない。


 だから、「辞めたい」という言葉を、疲れや一時的な弱気だと決めてしまいたくなります。


 けれど、その人は本当に励ましてほしいのでしょうか。


 少し休みたいだけかもしれません。


 役割を変えたいのかもしれません。


 発表そのものをやめたいのではなく、人前へ立つことだけが難しいのかもしれません。


 あるいは、本当に辞めると決めるため、誰かに話しているのかもしれません。


「辞めないで」


 その一言は、優しい言葉に見えます。


 しかし、相手が何を苦しいと感じているのかを聞く前に言えば、逃げ道を塞ぐ言葉にもなります。


 王太子殿下は、大切な人が離れようとすると、かなり強く引き留めます。


 ご令嬢が先に帰ろうとしただけでも、理由を七つほど考えます。


「また」と言われれば、次の日程を決めたくなります。


 研究会の誰かが発表役を降りたいと言えば、その人が続けられる条件を王宮規模で整えようとするでしょう。


 代役を十人用意する。


 舞台を小さくする。


 客席を半分にする。


 声が震えない魔道具を探す。


 それでも駄目なら、発表会そのものを延期する。


 殿下なら、本当にできてしまうことが問題です。


 けれど、辞めたいと言った人に必要なのは、続けさせる方法とは限りません。


 まず、その言葉を止めずに聞くこと。


 引き留める前に、何を手放したいのかを確かめること。


 続けるか、役割を変えるか、辞めるか。


 その選択を、本人へ返すこと。


 王太子殿下は今日、誰かを支えることと、誰かをその場へ縛りつけることの違いを学びます。


          ◇


「マリア」


「はい」


「今日は何も持っていない」


「おはようございます」


「おはよう」


「かなり自然になりました」


「受け取る」


「まだ褒めています」


「なら全部」


 朝の校舎裏には、前夜の雨が残っていました。


 芝生は濃く湿り、古い木製ベンチの背にも小さな水滴が並んでいます。空は明るくなり始めていましたが、薄い雲が太陽を隠しているため、校舎の白い壁も普段より少し青く見えました。


 殿下はベンチへ座らず、その前に立っています。


 座面が濡れているためでしょう。


 ただし、殿下の横には、きれいに畳まれた布がありました。


「殿下」


「何だ」


「その布は?」


「ベンチを拭くためのものだ」


「どなたが用意したのです?」


「私だ」


「本当に?」


「侍従に持たせようとしたが、朝だけなので自分で持った」


「かなり成長しましたね」


「褒める?」


「かなり」


 殿下は布で座面を丁寧に拭きました。


 少し丁寧すぎて、木目の間へ入った水まで取ろうとしているようでした。


「殿下」


「何だ」


「そこまで拭かなくても座れます」


「まだ少し濡れている」


「服が少し湿る程度です」


「あなたが座る」


「はい」


「なら完全に乾かす」


 殿下はさらに拭きました。


 私は止めませんでした。


 こうした先回りなら、今は大きな問題にならないでしょう。


 やがて殿下は自分の側ではなく、私が座る側を先に確認しました。


「大丈夫だ」


「ありがとうございます」


 二人でベンチへ腰を下ろすと、木々の葉から雨粒が落ちる音が聞こえました。


 登校する生徒たちの声はまだ遠く、校舎裏には朝の静けさが残っています。


「相談がある」


「はい」


「昨日、中講堂の練習が終わったあと、研究会の女生徒が一人残った」


「以前、生徒会室へ相談に来た方ですか?」


「違う。別の者だ」


「説明役の方ですか?」


「ああ。三人いるうちの一人だ」


 殿下は少し言葉を選びました。


「発表役を降りたいと言われた」


 私は殿下を見ました。


「理由は?」


「聞く前に、私は引き留めた」


「殿下」


「分かっている」


「何と?」


「あなたが必要だ。ここまで練習してきた。今から代わるのは難しい。昨日も十分に話せていた。皆も困る」


「かなり言いましたね」


「ああ」


「ご本人は?」


「黙った」


「はい」


「だから、さらに言った」


「まだ?」


「人が多いことが不安なら、客席を減らせる。舞台が広いなら、仕切りを置ける。声が震えるなら、拡声魔道具を使う。立つのが難しいなら、座って発表してもよい」


「殿下」


「まだある」


「もう十分です」


「交代要員を用意すると言った」


「ご本人が降りたいと言っているのに?」


「もし途中で話せなくなったときのためだ」


「それでは、続けることが前提ですね」


「ああ」


「殿下」


「分かっている。今朝になって、かなり違う気がした」


 殿下は膝の上で手を組みました。


「私は、辞めたいという言葉を、続けるための問題だと思った」


「はい」


「客席が怖いなら客席を減らす。舞台が怖いなら舞台を変える。途中で止まりそうなら代わりを置く」


「はい」


「でも、何を嫌だと思っているか聞いていない」


「はい」


「それから、研究会が困ると言った」


「はい」


「彼女の苦しさより、周りの都合を先に出した」


 殿下は、自分の言葉を思い返すように少し顔を伏せました。


「かなり悪かった?」


「かなり急ぎました」


「引き留めてはいけない?」


「引き留めたい気持ちを持つことは悪くありません」


「言っては?」


「理由を聞いたあとで、ご本人が迷っているなら、続ける方法を一緒に考えてもよいと思います」


「本当に辞めたいなら?」


「辞める選択も受け止める必要があります」


 殿下はすぐに答えませんでした。


「研究会が困る」


「はい」


「発表の順番も変わる」


「はい」


「その者が説明する部分は、観察方法だ。何度も練習してきた」


「はい」


「だから続けてほしい」


「殿下の希望ですね」


「ああ」


「ご本人の希望は?」


「まだ聞いていない」


「では、分かりません」


 風が吹き、木の上に残っていた雨粒がまとめて落ちました。


 ベンチの前の芝生へ細かな音が広がります。


「マリア」


「はい」


「私は、誰かが辞めることが嫌なのかもしれない」


「なぜです?」


「ここまで一緒にやってきたのに、途中でいなくなるのが」


「はい」


「自分が何かできたはずだと思う」


「はい」


「止められなかったら、自分が役に立たなかったように感じる」


「それは殿下の気持ちですね」


「ああ」


「その気持ちをご本人へ背負わせないでください」


 殿下は黙りました。


「辞めるかどうかは、その人が決めることです。殿下が役に立ったかどうかを証明するために、続けてもらうわけではありません」


「……かなり刺さる」


「必要なので」


「厳しい」


 殿下はゆっくり息を吐きました。


「では、今日は何と聞けばよい」


「昨日、話を止めてしまったことを謝る」


「はい」


「それから、なぜ降りたいと思ったのかを聞く」


「はい」


「すぐに解決策を出さない」


「はい」


「続けてほしいと先に言わない」


「はい」


「研究会が困るとも言わない」


「はい」


「難しい」


「かなり」


「もし、話を聞いたあと、私には続けられそうに見えたら?」


「見えることと、ご本人が続けたいことは別です」


「本人が迷っていたら?」


「何を変えれば続けられるかを一緒に考える」


「本人が辞めると決めていたら?」


「受け止める」


「引き留めず?」


「はい」


 殿下はしばらく考えました。


「かなり寂しい」


「まだ辞めると決まっていません」


「でも、可能性はある」


「はい」


「その可能性を、私が消してはいけない?」


「はい」


「褒める?」


「今、ご自分で整理できました」


「かなり?」


「かなり」


「受け取る」


          ◇


 中央回廊へ入るころには、雲の切れ間から日が差し始めていました。


 濡れた石床へ光が反射し、窓際を歩く生徒たちの足元を白く照らしています。


 発表会が近づくにつれ、研究会員たちの姿を廊下で見かけることが増えていました。展示板を運ぶ者、記録紙を抱える者、昼休みに使うための空き教室を確認する者。


 その中に、殿下へ発表役を降りたいと伝えた女生徒がいました。


 薄茶色の髪を一つにまとめ、胸の前で資料を抱えています。


 殿下を見つけた瞬間、女生徒の歩みが少し止まりました。


 昨夜の会話を思い出したのでしょう。


 ご令嬢も隣にいました。


 殿下はすぐに近づこうとしましたが、一度立ち止まりました。


「殿下?」


「今、急いで行くと逃げ道を塞ぐ?」


「少し」


「では待つ?」


「避ける必要もありません。普通に声をかけてください」


「普通に」


「はい」


 殿下は歩調を整えました。


「おはよう」


 ご令嬢と女生徒が頭を下げます。


「おはようございます、殿下」


「昨日は、すまなかった」


 女生徒が少し目を大きくしました。


「え?」


「あなたが発表役を降りたいと言ったとき、私は理由を聞かなかった」


「……はい」


「続ける方法ばかり話した」


「はい」


「研究会が困るとも言った」


 女生徒は資料を抱える腕へ少し力を入れました。


「それは、事実です」


「ああ。でも、あなたが困っている理由より先に言うべきではなかった」


 殿下はすぐに続けず、女生徒が答えるのを待ちました。


 朝の回廊には多くの生徒が行き交っています。


 殿下が誰かへ謝っていることに気づき、少し視線を向ける者もいました。しかし、以前のように一斉に会話が止まることはありません。


「なぜ、発表役を降りたいと思った?」


 女生徒はすぐには答えませんでした。


 ご令嬢が隣にいますが、代わりに話そうとはしません。


「昨日の練習で」


 やがて、女生徒が小さな声で言いました。


「中講堂へ立ったとき、客席を見たら、何も話せなくなりそうになりました」


「ああ」


「昨日は人が少なかったから、何とか最後まで言えました。でも、本番はあの席が埋まるんですよね」


「ああ」


「殿下もいらっしゃる。先生方も、他の研究会の方も」


「はい」


「失敗したら、研究会全体に迷惑をかけます」


 殿下の口元が動きました。


 大丈夫だと言いかけたのでしょう。


 けれど、止まりました。


「何が一番怖い?」


「途中で何も言えなくなることです」


「忘れること?」


「はい。でも、それだけではありません」


 女生徒は視線を落としました。


「皆が私を見ていると思うと、自分の声が急に遠くなるんです。昨日も、最初の一文を言ったあと、次の言葉が出てこなくなりそうでした」


「研究会室では?」


「話せます」


「中講堂だと?」


「難しいです」


 殿下は少し考えました。


「発表そのものを辞めたい?」


 女生徒は黙りました。


「それとも、人前で話す役だけを降りたい?」


 その質問に、女生徒はゆっくり顔を上げました。


「……分かりません」


「ああ」


「昨夜は、発表役を降りたいと思いました。でも、研究を発表したくないわけではありません」


「準備から離れたい?」


「いいえ」


「研究会を辞めたい?」


「違います」


「では、話す役が怖い?」


「はい」


 殿下は頷きました。


「私は昨日、すぐに続けてほしいと言った」


「はい」


「今も、できれば続けてほしいと思っている」


 女生徒の表情が少し硬くなりました。


「でも、それは私の希望だ」


「……」


「あなたが続けたいかは別だ」


 殿下は静かに言いました。


「今すぐ決めなくてよい?」


 女生徒が聞きました。


「ああ」


「研究会の皆さんは困ります」


 ご令嬢が、そこで初めて口を開きました。


「困るとは思います」


 女生徒の顔が曇ります。


「でも、困ることと、続けなければいけないことは同じではありません」


「……」


「役割を変えるなら、皆で考えます」


「でも、私の部分は」


「誰かが覚えます。時間はかかりますが、発表までまだ少しあります」


「本当に?」


「はい」


 ご令嬢は少し笑いました。


「それに、発表役を降りても、観察記録や質問への補助はできます」


「舞台に立たずに?」


「方法はあると思います」


 殿下の表情が動きました。


「方法を考える?」


 私はすぐ殿下を見ました。


 殿下は気づいたように止まります。


「私が決めるのではなく」


「はい」


「研究会で?」


「はい」


 女生徒は二人の顔を交互に見ました。


「少し考えてもよいですか」


「ああ」


「今日の放課後まで」


「決めたら教えて」


「はい」


 殿下は引き留めませんでした。


 女生徒が離れていくのを、その場に立ったまま見送ります。


「殿下」


 ご令嬢が呼びました。


「何だ」


「昨日より、話しやすかったと思います」


「本当に?」


「はい。途中で大丈夫だと言われなかったので」


「言いたかった」


「分かりました」


「かなり?」


「かなり」


「我慢した」


「はい」


「褒める?」


 ご令嬢は少し笑いました。


「かなり」


「受け取る。全部」


          ◇


 女生徒が教室へ向かったあと、殿下はしばらく黙っていました。


「マリア」


「はい」


「私は、続けてほしいと言った」


「はい」


「でも、私の希望だとも言った」


「はい」


「引き留めたことになる?」


「気持ちは伝えましたが、選択を奪ってはいません」


「よかった?」


「はい」


 殿下は少し息を吐きました。


「私は、何も言わないほうがよいのかと思った」


「続けてほしいと思っていることまで隠す必要はありません」


「でも、それを言うと、王太子の命令に聞こえる」


「だから、ご自分の希望だと分けて伝えたのです」


「難しい」


「かなり」


「好きな相手にも同じ?」


「かなり同じです」


 殿下はご令嬢が去った方向を見ました。


「会いたいと思う」


「はい」


「でも、会うかどうかは相手が決める」


「はい」


「続けてほしいと思う」


「はい」


「でも、続けるかは本人が決める」


「はい」


「私は希望を言う。決定は取らない」


「はい」


 殿下は少し考えました。


「かなり王太子に必要だな」


「恋愛相談ですが」


「最近、毎回それを言われる」


「実際そうですから」


          ◇


 昼休み、植物研究会では役割についての話し合いが行われました。


 発表役を降りたいと話した女生徒は、机の端へ座っています。


 周囲にはご令嬢、代表、他の会員たち。


 机の上には、発表原稿、役割表、展示板の配置図が広げられていました。


「まず、本人の気持ちを聞こう」


 代表が言いました。


「今はどう思ってる?」


 女生徒はしばらく原稿を見つめました。


「発表そのものは、したいです」


「うん」


「でも、中講堂で皆の前へ立つのは、やっぱり怖い」


「話す役を全部降りたい?」


「……全部かは分かりません」


「研究会室では話せるんだよね」


「うん」


「舞台で長く話すのが難しい?」


「たぶん」


 別の会員が原稿を持ち上げました。


「今の担当、二分半くらいある」


「観察方法の説明全部だからね」


「短くすれば?」


「一つだけ話す?」


「それならできそう?」


 女生徒はすぐには答えませんでした。


「一文だけなら、逃げているように見えない?」


「逃げてるとかじゃないよ」


「でも」


「役割を変えるのは失敗じゃない」


 ご令嬢が静かに言いました。


「今のままだと難しいと分かったから、できる形へ変える。それも準備だと思います」


「……」


「完全に降りたいなら、それでもいいです」


「本当に?」


「はい」


「困らない?」


「困ります」


 ご令嬢が正直に答えると、部屋の空気が少しだけ止まりました。


「でも、困るから続けてとは言いたくありません」


 代表も頷きます。


「役割を変えれば、練習し直す必要はある。でも、まだ間に合う」


「私たちで分ける」


「うん」


 女生徒は原稿へ視線を落としました。


「私は、研究したことを何も話さないのも嫌です」


「じゃあ、一部だけ?」


「最初の観察方法は、ご令嬢にお願いして」


 彼女はご令嬢を見ました。


「私は、測定方法の説明だけにしてもいいですか」


「どのくらい?」


「四十秒くらい」


「それなら、やってみたい?」


「はい」


「決まりではなく、次の練習で試す?」


「はい」


「無理だったら?」


 女生徒は少し迷いました。


「そのときは、舞台には立たず、質疑応答のときに後ろで資料を探す役をしたいです」


「分かった」


 代表が役割表へ書き込みました。


「では、次の練習は四十秒の説明だけ試す。それでも難しければ、資料補助へ変更する」


「はい」


「途中でやっぱり無理だと思っても、言ってね」


「はい」


 空気が少し緩みました。


「殿下に伝える?」


「なぜ?」


「かなり心配してたから」


「でも、研究会の役割だよ」


「結果だけでいいんじゃない?」


 ご令嬢は少し笑いました。


「決めるのは私たちだと、殿下も分かってくださっています」


「本当に?」


「かなり努力されています」


「なら、伝えておこう」


          ◇


 一方、生徒会室では、殿下が同じ書類を長く見つめていました。


「殿下」


 ハインツ様が呼びます。


「何だ」


「その報告書は、先ほどから一行も進んでいません」


「読んでいる」


「発表役の件が気になる?」


「かなり」


「聞きに行きますか」


「行かない」


「なぜ?」


「今日の放課後まで考えると言われた」


「はい」


「研究会でも話す」


「はい」


「私が行けば、結論を急がせる」


「かなりよい判断です」


「褒める?」


「かなり」


「受け取る」


 殿下は少し満足そうにしましたが、すぐに窓へ視線を向けました。


「ハインツ」


「はい」


「もし降りると決めたら、代わりは必要だ」


「はい」


「私が候補を考えておくのは?」


「研究会が考えます」


「でも、誰がどの部分を話せるか、私は練習を見ている」


「殿下」


「分かっている。考えない」


「今、かなり考えましたね」


「少し」


「顔に出ています」


 殿下は額へ手を当てました。


「待つのは難しい」


「最近、よく待っていますね」


「ああ」


「以前よりかなり上手です」


「でも、待っている間に百二十一個の質問を整理したくなる」


「やめてください」


「まだしていない」


「今からしそうです」


「しない」


 書記の女生徒たちが小さく笑いました。


「殿下」


 一人が少し遠慮がちに声をかけました。


「何だ」


「発表役の方が降りるかもしれないという話ですか」


「ああ」


「私も以前、式典の司会を辞めたいと言ったことがあります」


 殿下が顔を上げました。


「なぜ?」


「人前で読むと、声が震えるからです」


「辞めた?」


「役割を変えてもらいました。名前を読み上げる部分だけ別の方にお願いして、私は進行表を管理しました」


「それでよかった?」


「はい。最初は逃げたようで恥ずかしかったです。でも、進行表の管理も必要な役割でした」


「次は司会をした?」


「翌年は、短い部分だけ担当しました」


 殿下は少し考えました。


「一度役割を変えても、二度とできないわけではない?」


「はい」


「辞めることが、終わりではない場合もある?」


「はい」


「……」


 殿下はゆっくり頷きました。


「かなり参考になった」


「ありがとうございます」


「褒める?」


 書記の女生徒は少し驚き、それから笑いました。


「殿下が、ですか?」


「違う。あなたを」


「ありがとうございます」


 生徒会室に柔らかな笑いが広がりました。


          ◇


 放課後、研究会から殿下へ伝言が届きました。


 発表役を完全に降りるのではなく、担当を四十秒程度へ減らし、次の練習で試す。


 難しい場合は、舞台へ立たず資料補助へ移る。


 その決定を読んだ殿下は、少しだけ安堵した表情を見せました。


「続ける」


「一部だけですね」


「ああ」


「完全に降りる可能性も残しています」


「ああ」


「殿下」


「何だ」


「嬉しいですか?」


「かなり」


「では、その気持ちだけ受け取ってください」


「何もしない?」


「はい」


「四十秒用の原稿を作るのは?」


「研究会が作ります」


「話しやすい言葉へ直すのは?」


「研究会が考えます」


「緊張を減らす呼吸法の資料は?」


「頼まれていません」


「舞台の立ち位置を――」


「殿下」


「分かっている」


 殿下は伝言の紙を丁寧に折りました。


「結果だけ伝えてくれた」


「はい」


「私へ許可を求めなかった」


「はい」


「それでよい?」


「かなり」


「少し寂しい」


「なぜです?」


「相談されなかった」


「研究会の役割分担ですから」


「分かっている」


 殿下は少し笑いました。


「でも、彼女たちだけで決められたなら、かなりよい」


「はい」


「受け取る」


          ◇


 翌日の放課後、中講堂で二度目の会場練習が行われました。


 前回と同じように、舞台には三鉢の植物と展示板が並んでいます。


 客席には、殿下、マリア、ハインツ様、担当教員、研究会員たち。


 発表役を変えたため、説明の順番も少し修正されていました。


「それでは、始めます」


 代表の合図で発表が始まります。


 冒頭はご令嬢が担当しました。


 研究を始めた経緯。


 研究会で話し合い、途中研究を発表すると決めたこと。


 殿下から王宮資料の提供と練習への協力を受けたこと。


 最初の説明は、前回より落ち着いています。


 次に、研究対象となった三鉢の条件を、別の会員が説明しました。


 そして、測定方法の部分で、役割を減らした女生徒が前へ出ます。


 舞台の中央ではなく、展示板の横。


 話す時間は四十秒ほどです。


 女生徒は客席を見ませんでした。


 代わりに、展示板へ描かれた葉の図を見ています。


「葉の角度は、茎と葉の中心線を基準に測定しました」


 声は少し震えていました。


「ただし、測る位置や人によって違いが出る可能性があるため、現在は測定方法を統一するための印をつけています」


 一度、言葉が止まりました。


 殿下の指先が膝の上で動きます。


 しかし、何も言いません。


 女生徒は小さく息を吸いました。


「今後は、同じ葉を複数人で測り、差がどの程度出るかも確認したいと考えています」


 話し終えると、すぐ一歩下がりました。


 発表は次の会員へ移ります。


 女生徒は舞台の後方で、しばらく資料を握っていました。


 顔は緊張しています。


 けれど、降りませんでした。


 発表は九分五十二秒。


 制限時間内です。


「以上です」


 拍手が起こりました。


 女生徒は他の発表者と並んで頭を下げます。


 殿下も皆と同じように拍手しました。


 ただし、かなり力が入っていました。


「殿下」


 私は小声で呼びました。


「何だ」


「少し音が大きいです」


「皆と同じくらいのつもりだ」


「手の力が違います」


 殿下は少し力を弱めました。


          ◇


 発表後、担当教員が全体の修正点を伝えました。


「発表時間は問題ありません。声も、前回より届いていました」


 女生徒の肩が少し下がります。


「ただし、展示板を見ながら話す部分は、客席へ背を向けすぎないよう注意してください」


「はい」


「無理に客席全体を見る必要はありません。図と前方の数列だけを意識すればよいでしょう」


「はい」


 ハインツ様も続けます。


「説明が短くなったことで、測定方法の要点が分かりやすくなりました」


「ありがとうございます」


「殿下は?」


 ご令嬢が聞きました。


 殿下はすぐに女生徒を褒めようとしました。


「かなり――」


 途中で止まります。


「何を聞きたい?」


 女生徒が少し驚いた顔をしました。


「え?」


「私の感想を聞きたい? それとも、分かりにくかった部分を聞きたい?」


 女生徒は少し考えました。


「感想を聞きたいです」


「ああ」


 殿下は頷きました。


「最後まで聞こえた」


「はい」


「測り方も分かった」


「はい」


「途中で止まったが、自分で続けた」


 女生徒は少し恥ずかしそうに目を伏せました。


「はい」


「かなりよかった」


「ありがとうございます」


「でも、次も続けるかは、あなたが決めてよい」


 女生徒が顔を上げました。


「今日できたから、続けなければならないわけではない」


「……」


「今日できても、本番が怖いなら、役割を変えてよい」


 中講堂が少し静かになりました。


「殿下は、続けてほしいのでは?」


「ああ。私は続けてほしい」


「はい」


「でも、私が嬉しいことと、あなたが無理をしないことは別だ」


 女生徒はしばらく黙りました。


「もう一度、練習してみたいです」


「ああ」


「今日、四十秒なら話せました」


「ああ」


「本番も怖いと思います。でも、今は、もう一度やってから決めたいです」


「分かった」


 殿下はそれ以上言いませんでした。


 続けろとも、必ずできるとも言いません。


 女生徒の表情が、少しだけ柔らかくなりました。


「殿下」


「何だ」


「昨日、辞めたいと言ったとき」


「ああ」


「すぐに続けてほしいと言われて、少し苦しかったです」


「すまなかった」


「でも、今日は、続けても辞めてもよいと言っていただけたので」


 女生徒は言葉を探しました。


「もう一度やってみようと思えました」


 殿下の目が少し大きくなりました。


「引き留めなかったのに?」


「はい」


「離れられるようにしたら、戻ってきた?」


「まだ戻ったかは分かりません」


 女生徒は少し笑いました。


「次の練習で決めます」


「ああ」


「でも、自分で決められると思ったら、少しだけ怖くなくなりました」


 殿下は長く黙りました。


「分かった」


          ◇


 練習後、研究会員たちは舞台の上で話し合いを続けました。


「四十秒、かなりよかったよ」


「声、聞こえた」


「途中で止まったけど、戻れたね」


「もう一回やってみる?」


「うん」


「原稿を少し短くする?」


「今のままでいい。覚えすぎると、飛んだとき怖いから」


「箇条書きだけ持つ?」


「それがいいかも」


 女生徒は自分から修正案を出していました。


 殿下は舞台へ近づかず、客席から見ています。


「マリア」


「はい」


「私は、何もしなかった」


「はい」


「でも、彼女はもう一度やると決めた」


「はい」


「私が続けさせたわけではない」


「はい」


「かなり嬉しい」


「受け取ってください」


「全部?」


「全部」


 殿下は少し笑いました。


          ◇


 中講堂を出ると、夕方の空は雨上がりらしい淡い紫色に染まっていました。


 廊下の窓から見える校庭には水たまりが残り、部活動を終えた生徒たちがそれを避けながら歩いています。


 ご令嬢は研究会員たちと少し離れた場所で話していました。


 やがて話を終え、殿下のところへ来ます。


「殿下」


「何だ」


「今日はありがとうございました」


「私は見ていただけだ」


「はい」


「何もしていない」


「それがよかったのだと思います」


「最近、かなり何もしないことを褒められる」


 ご令嬢が笑いました。


「殿下が何もしないのは、かなり難しいですから」


「皆、それを知っている」


「はい」


「少し恥ずかしい」


「でも、以前より話しやすくなりました」


 殿下はご令嬢を見ました。


「あなたも?」


「はい」


「なぜ?」


「殿下が先に答えを決めなくなったので」


「ああ」


「私が迷っていても、すぐに正しい方向へ連れていかれなくなりました」


「正しい方向?」


「殿下が正しいと思う方向です」


 殿下は少し考えました。


「私の正しいと、あなたの選びたいは違う?」


「はい」


「かなり?」


「時々」


「今は?」


「かなり近づいています」


 殿下の表情が少し明るくなりました。


「褒める?」


「かなり」


「受け取る」


 ご令嬢は少し迷うように、窓の外へ視線を向けました。


「殿下」


「何だ」


「発表会が終わったあと」


 殿下の姿勢がわずかに変わりました。


「はい」


「研究会で、小さな反省会をする予定です」


「ああ」


「もし、お時間があれば」


 殿下はすぐに返事をしようとしました。


 しかし、一度止まります。


「私も?」


「はい。練習を聞いてくださったので、感想を聞きたいです」


「行く」


「まだ日程は決まっていません」


「決まったら教えて」


「はい」


「今すぐ空ける?」


「殿下」


「分かっている」


 ご令嬢が笑いました。


「では、決まったらお伝えします」


「ああ」


 ご令嬢が研究会員たちのもとへ戻っていくと、殿下はしばらく動きませんでした。


「マリア」


「はい」


「誘われた」


「はい」


「発表会のあと」


「はい」


「また予定を空けたくなる」


「はい」


「でも、日程はまだ」


「はい」


「待つ」


「かなり上手です」


「褒める?」


「かなり」


「受け取る。全部」


          ◇


 翌朝、学園では前日の会場練習について、また新しい噂が広がっていました。


「聞いた?」


「発表役の一人が降りるらしい」


「殿下が止めたんでしょ」


「王命で続けることになったって」


「違う!」


 中央回廊で殿下の声が響きました。


「殿下」


「無理だ。王命など出していない」


「反応しないでください」


「本人が決めると言った」


 周囲の生徒たちが一斉に殿下を見ました。


「殿下が?」


「続けても、役割を変えてもよいと言った」


「本当に?」


「ああ」


「研究会は困らないの?」


「困る」


「殿下」


 私は小声で呼びました。


「事実だ」


「言い方があります」


 殿下は少し考えました。


「困っても、皆で役割を変えると言っていた」


 近くにいた生徒たちの表情が少し変わります。


「なら、辞めても大丈夫なんだ」


「大丈夫かは本人たちが決める」


「殿下、かなり普通のことを言うね」


「最近よく言われる」


 小さな笑いが起こりました。


「でも、その人、四十秒だけ話したんでしょ」


「かなり聞こえた」


「殿下が褒めた?」


「感想を聞かれたから」


「聞かれる前には言わなかった?」


「我慢した」


「すごい」


 殿下の眉が動きました。


「マリア」


「はい」


「私は、我慢しただけで驚かれている」


「はい」


「少し複雑だ」


「これまでの積み重ねです」


「厳しい」


          ◇


 三度目の会場練習は、その二日後に行われました。


 女生徒は、前回と同じ四十秒の説明を担当しました。


 今回は原稿を全文持たず、要点だけを書いた小さな紙を手にしています。


「葉の角度は、茎と葉の中心線を基準に測定しました」


 最初の声はまだ少し震えていました。


 けれど、前回より客席へ顔を向けています。


「測る位置や担当者によって差が出る可能性があるため、現在は測定箇所へ小さな印をつけています」


 一度、紙へ視線を落とします。


「今後は同じ葉を複数人で測り、測定結果の差も確認します」


 最後まで止まりませんでした。


 発表後、女生徒は自分から代表へ言いました。


「本番も、この役割でやりたいです」


「決めた?」


「はい」


「無理ではない?」


「怖いです」


「うん」


「でも、四十秒なら、自分の研究したことを自分で話したいです」


 代表が頷きました。


「分かった」


 研究会員たちが拍手しました。


 殿下も拍手しようとしましたが、一度止まります。


 今は発表全体の終了後ではありません。


 それでも、周囲の研究会員が拍手しているのを見て、殿下も静かに手を叩きました。


 女生徒は殿下を見ました。


「殿下」


「何だ」


「決めました」


「ああ」


「続けます」


「ああ」


「四十秒だけですが」


「かなり大切な四十秒だ」


 女生徒は少し笑いました。


「ありがとうございます」


「私が続けさせた?」


「いいえ」


「あなたが決めた?」


「はい」


「なら、かなりよい」


          ◇


 練習が終わったあと、殿下は中講堂の客席へ一人残りました。


 舞台では研究会員たちが展示板を片づけています。


 私は隣の席へ座りました。


「マリア」


「はい」


「最初、私は彼女を引き留めた」


「はい」


「研究会が困ると言った」


「はい」


「続ける方法を全部出した」


「はい」


「でも、彼女は苦しそうだった」


「はい」


「次の日、辞めてもよいと言った」


「はい」


「そうしたら、もう一度やると決めた」


「はい」


「最後は、続けると決めた」


「はい」


 殿下は舞台を見ました。


「引き留めなかったから、続けられた?」


「本人が選べると感じたから、試す余裕ができたのかもしれません」


「逃げ道があると、前へ進めることもある?」


「はい」


「私は、逃げ道を塞げば進むと思っていた」


「はい」


「戻れないようにすれば、前へ行くしかない」


「王太子として、そうせざるを得ない場面もあるでしょう」


「ああ」


「でも、恋愛や学園の役割では、選び直せることも大切です」


「はい」


 殿下は少し考えました。


「ご令嬢が、会いたくないと言ったら?」


「殿下」


「今の話を恋愛に移しただけだ」


「はい」


「私は引き留めたい」


「はい」


「でも、まず理由を聞く」


「はい」


「一人になりたいだけかもしれない」


「はい」


「もう会いたくないのかもしれない」


「……はい」


 殿下の声が少し低くなりました。


「その場合も、受け止める?」


「はい」


「かなりつらい」


「はい」


「でも、相手が離れる選択まで奪わない?」


「はい」


 殿下は長く黙りました。


 舞台の上では、ご令嬢が大きな図を丸めています。うまく巻けず、隣の会員と笑いながら端を揃えていました。


「私は、彼女に離れてほしくない」


「はい」


「かなり」


「はい」


「でも、離れられないようにするのは違う」


「はい」


「戻れる場所として隣にいる?」


「かなりよいと思います」


 殿下は少しだけ笑いました。


「難しいな」


「かなり」


「褒める?」


「かなり」


「受け取る」


          ◇


 誰かが辞めたいと言ったとき、すぐに引き留めたくなることがあります。


 あなたが必要だ。


 ここまで頑張った。


 もう少しだけ続けよう。


 周囲も困る。


 そう言えば、相手をその場へ留められるかもしれません。


 けれど、それは相手のためでしょうか。


 自分が寂しいから。


 周囲が困るから。


 途中で抜けられると予定が変わるから。


 自分が役に立たなかったように感じるから。


 そんな理由が混ざっていることもあります。


 王太子殿下は、発表役を降りたいと言った女生徒を、すぐに引き留めました。


 客席を減らす。


 舞台を変える。


 魔道具を用意する。


 交代要員を置く。


 続けられる方法を、次々と出しました。


 けれど、女生徒が望んでいたのは、続ける方法をすぐに決めてもらうことではありませんでした。


 何が怖いのかを聞いてもらうこと。


 発表そのものを辞めたいのか、人前で長く話す役だけを降りたいのかを考えること。


 続けてもよい。


 役割を減らしてもよい。


 別の役へ移ってもよい。


 辞めてもよい。


 その選択肢が残っていることでした。


 逃げ道があると分かったから、女生徒はもう一度試すことができました。


 二分半の説明を四十秒へ減らしました。


 客席全体ではなく、展示板を見ながら話しました。


 全文を覚えるのではなく、要点だけを書いた紙を持ちました。


 そして最後は、自分で続けると決めました。


 殿下が続けさせたのではありません。


 研究会が無理に残したのでもありません。


 本人が選びました。


 王太子殿下。


 大切な人を支えることは、その人が離れないようにすることではありません。


 離れてもよいと分かったうえで、それでも残るかどうかを本人へ返すことです。


 続けてほしいという気持ちは、伝えてもよいのです。


 ただし、それは殿下の希望です。


 相手の義務ではありません。


 ですから殿下。


 今後、ご令嬢が「今日は先に帰ります」と言っただけで、「引き留めてはいけない」と考え、三日間まったく話しかけないのは違います。


 極端です。


 帰る理由を聞かずに追いかけるのも駄目ですが、聞かずに距離を取るのも同じです。


 それから、相手がいつでも離れられるようにするため、すべての約束へ「取消自由」と書いた正式文書を添える必要もありません。


 恋愛に王宮書式を持ち込まないでください。


 ご令嬢から誘われた発表会後の反省会について、参加辞退届と再参加申請書を用意するのもおやめください。


 決まったら教えてもらい、行けるなら行く。


 それだけで十分です。


 本当にお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。