第87話 王太子殿下、自分が集めた視線を自分で追い払おうとしない
注目は、多ければ多いほどよい。
少なくとも、何かを発表する場では、そう考えられることがあります。
聞いてくれる人が増える。
興味を持つ人が増える。
自分たちの研究を、知らなかった人にも届けられる。
研究会にとって、それは喜ばしいことのはずでした。
けれど、その注目が、自分たちの研究ではなく、別の誰かへ向けられているのだとしたら。
王太子殿下が関わっているから。
殿下が発表練習を聞いたから。
王宮の資料が使われているから。
殿下が想定質問を百二十七個も作ったらしいから。
そんな理由で人が集まっていると知れば、研究会の皆さんが素直に喜べないのも当然でしょう。
せっかく見に来てもらっても、研究の話を聞いてもらえないかもしれない。
発表のあとに残るのが、植物の変化についての感想ではなく、「王太子殿下がどこに座っていたか」という噂だけかもしれない。
それでは、自分たちは何のために準備しているのか。
そんな不安が生まれます。
王太子殿下も、その不安へすぐに気づきました。
そして、いつものように解決しようとしました。
自分が原因なら、自分が消えればよい。
発表会へ行かなければよい。
王宮との関わりを伏せればよい。
自分の名前を出すことを禁止し、噂を止め、見学者を減らせば、研究会は静かな場所で発表できる。
それは確かに、一つの解決方法かもしれません。
しかし、すでに集まった視線を、王太子殿下の命令で追い払うことは、本当に研究会のためなのでしょうか。
見に来たいと思った人の気持ちも、研究会が受け取るはずだった新しい関心も、すべて殿下が決めて消してしまうことになります。
注目を集めたことも問題。
注目を消すことも問題。
王太子殿下の恋愛は、今日もかなり難しい場所へ来ていました。
◇
「マリア」
「はい」
「今日は相談がある」
「おはようございます」
「おはよう」
「かなり自然になりましたね」
「受け取る」
「まだ褒めています」
「なら全部」
「今日は少し早いです」
朝の校舎裏には、雲の切れ間から細い日差しが落ちていました。
前日に残っていた霧はなく、空気は乾いています。風が吹くたび、木々の上から小さな葉が数枚ずつ舞い落ち、古い木製ベンチの周囲へ薄い色の輪を作っていました。
殿下はベンチへ座っています。
今日は紙束を持っていません。
想定質問も三枚だけです。
少なくとも、目に見える範囲では。
「殿下」
「何だ」
「最初に確認します」
「ああ」
「百二十一個の質問は?」
「王宮にある」
「増えていませんか?」
「増えていない」
「本当に?」
「昨日、二つ思いついたが、書かなかった」
「かなり成長しました」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
殿下は少し満足そうに頷きましたが、すぐに表情を戻しました。
「昨日の午後、研究会の生徒が一人、生徒会室へ来た」
「ご令嬢ですか?」
「違う。説明役の一人だ」
「どのようなご用件で?」
「見学者について」
殿下は膝の上で指を組みました。
「中講堂へ会場が変わったことで、かなり緊張していると言われた」
「はい」
「人が増えることが怖いのですね」
「それだけではない」
殿下は少し視線を落としました。
「皆が、研究ではなく、私を見に来るのではないかと言った」
「……はい」
「自分たちの発表が、王太子の余興のように見られるのが嫌だと」
風が少し強く吹き、ベンチの足元に積もっていた葉を散らしました。
「殿下は、何と?」
「謝った」
「はい」
「私が関わったせいで、必要以上に注目を集めた」
「はい」
「それから、発表会へ行かないと言った」
「殿下」
「まだある」
「もう嫌な予感しかしません」
「王宮の資料を使ったことも公表しない。私が練習を聞いたことも、今後は話さないよう研究会へ伝える。見学者が殿下目的なら、入場を断ってもよいと」
「殿下」
「その生徒はかなり驚いていた」
「当然です」
「だが、少し安心したようにも見えた」
「本当に?」
「途中までは」
「途中までは?」
「最後に、私の名前を使って集めた見学希望は無効にすると言ったら、顔が引きつった」
私はゆっくり息を吐きました。
「殿下」
「何だ」
「それでは、注目を集めたときと同じことをしています」
「違う。今回は減らす」
「増やすか減らすかの違いではありません」
「では何だ」
「研究会の気持ちを聞かず、殿下が全部決めようとしています」
殿下は黙りました。
「その生徒は、殿下に来ないでほしいと頼んだのですか?」
「いや」
「王宮資料を隠してほしいと?」
「いや」
「見学者を減らしてほしいと?」
「そこまでは」
「では、何を言いたかったのでしょう」
殿下はすぐに答えませんでした。
「自分たちが、私のために発表するように見られるのが嫌?」
「はい」
「研究を見てほしい?」
「おそらく」
「なら、私はどうすればよい」
「まず、研究会全体でどうしたいのかを聞いてください」
「また聞く」
「はい」
「私はかなり聞いている」
「以前、聞かずに決めすぎていたからです」
「厳しい」
殿下は少し考えました。
「私が行かないことは、悪い?」
「悪いとは言いません」
「では」
「でも、殿下は発表を見たいのでしょう?」
「ああ」
「ご令嬢にも、見たいと伝えましたね」
「ああ」
「それなのに、別の人が不安そうだったから、ご自分だけで行かないと決めるのですか?」
殿下の眉がわずかに動きました。
「研究会のためなら」
「研究会全体の希望を聞いていません」
「……」
「それに、殿下が来ないと決めたら、ご令嬢はどう思うでしょう」
「理由を説明する」
「それでも、見たいと言ってくださった殿下が、噂を気にして来ないと知れば、少し寂しいかもしれません」
殿下の表情が変わりました。
「寂しい?」
「可能性はあります」
「かなり?」
「分かりません」
「聞く?」
「はい」
殿下は息を吐きました。
「私は、自分が原因だと思うと、すぐに自分を消したくなる」
「はい」
「それなら問題がなくなると思う」
「はい」
「でも、私が消えることも、私が決める?」
「はい」
「難しい」
「かなり」
殿下はしばらく黙っていました。
やがて、静かな声で言います。
「私は、彼女たちの発表を見たい」
「はい」
「でも、私がいることで研究が見られないのは嫌だ」
「はい」
「なら、私が目立たない方法を考える?」
「その前に、研究会が何を望んでいるか聞いてください」
「分かった」
「それから、見学者が何を目当てに来たとしても、最終的に研究を聞いてもらえる可能性はあります」
殿下は少し目を細めました。
「私を見に来た人も?」
「はい。最初の理由は殿下でも、発表を聞いて植物研究へ興味を持つかもしれません」
「なら、追い返さなくてよい?」
「研究会が望むなら」
「またそれか」
「大切なので」
殿下は少し考えました。
「私が集めた視線でも、研究会が受け取ってよいと思えば、残してよい?」
「はい」
「私が勝手に消さない?」
「はい」
「かなり難しい」
「でも、できそうですか?」
「かなり努力する」
「褒める?」
「実際に聞いてからです」
「厳しい」
◇
中央回廊へ入ると、研究発表会の案内板の前は、昨日以上に人が集まっていました。
中講堂への変更が正式に決まり、見学希望者向けの簡単な説明が追加されています。
入場は先着順。
ただし、学内の研究会所属者と教員は優先。
満席となった場合は、立ち見を禁止する。
「先着順だって」
「朝から並ぶ?」
「そんなに?」
「植物研究の発表だけじゃないよ」
「魔道具研究会もある」
「歴史研究会の展示も」
「でも殿下が見るのは植物研究でしょう」
「たぶん」
「どこに座るんだろう」
殿下の歩みが少し止まりました。
「マリア」
「はい」
「やはり私を見に来る者がいる」
「はい」
「私はどこに座れば目立たない?」
「王太子殿下なので、どこでも少し目立つと思います」
「かなり?」
「かなり」
「では、最後列」
「警護上の確認が必要です」
「柱の後ろ」
「見えません」
「二階席」
「中講堂に二階席はありません」
「では変装」
「殿下」
「帽子を被るだけだ」
「それで隠れると思いますか?」
「かなり深く」
「王太子殿下が深い帽子を被って座っていたら、余計に見られます」
周囲にいた生徒たちが笑いをこらえています。
「殿下、普通に座ればよいのでは?」
一人の男子生徒が、思い切ったように言いました。
殿下が振り返ると、その生徒は一瞬姿勢を正しました。
「普通に?」
「はい。前でも後ろでも、殿下がいれば最初は見ると思います。でも、発表が始まったら、皆、前を見るのでは」
「本当に?」
「たぶん」
隣にいた女生徒も頷きました。
「殿下が途中で立ったり、質問へ全部答えたりしなければ」
「しない」
「拍手を一人だけ長く続けたり」
「……」
「殿下?」
「かなりよい発表なら、拍手したい」
「皆と同じくらいで」
「難しい」
周囲から笑いが起こりました。
以前なら、殿下へこのような軽口を言える生徒は少なかったでしょう。殿下も怒らず、少し考えながら頷きました。
「普通に見る」
「はい」
「皆と同じように拍手する」
「はい」
「質問したくなっても?」
「質疑応答で手を挙げる」
「私が?」
「はい」
殿下はかなり驚いた顔をしました。
「王太子でも?」
「発表会ですから」
「質問権を優先されない?」
「されないほうがよいと思います」
生徒は言ったあと、少し顔を青くしました。
しかし、殿下は怒りませんでした。
「分かった。手を挙げる」
「本当に?」
「ああ。指されなければ聞かない」
「かなり成長しましたね」
「褒める?」
「はい」
「受け取る」
◇
その直後、ご令嬢が研究会の代表と、昨日生徒会室へ来たという女生徒を連れて歩いてきました。
女生徒は殿下を見つけると、少し緊張したように姿勢を正します。
「殿下」
「昨日は、すまなかった」
殿下が先に言いました。
女生徒は驚いて目を大きくしました。
「え?」
「あなたが不安だと言ったことに対して、私は勝手に発表会へ行かないと決めた」
「はい」
「王宮の資料を使ったことも隠し、見学者も減らそうとした」
「……はい」
「聞いていなかった」
女生徒はすぐには答えませんでした。
ご令嬢と代表も、静かに殿下を見ています。
「あなたは、私に何をしてほしかった?」
殿下の声は、いつもより少し慎重でした。
女生徒は両手を前で重ね、指先を握りました。
「私は……」
廊下を行き交っていた生徒たちの声が、少し遠く感じられます。
「殿下に、来ないでほしいわけではありません」
「ああ」
「王宮の資料を使ったことを隠したいわけでもありません。あの資料は、本当に役に立ちました」
「ああ」
「ただ、周りの人から、殿下に選ばれた研究だから発表するんでしょう、と言われたんです」
殿下の表情が静かになりました。
「誰に?」
「同じ学年の生徒です。悪意があったかは分かりません。でも、殿下が見つけて、殿下が整えて、殿下が発表させるのだと思われていて」
「違う」
「はい」
「研究会が決めた」
「はい。だから、それを分かってもらいたかったんです」
女生徒は少し顔を伏せました。
「でも、どう言えばよいか分からなくて。殿下のせいだと言いたかったわけでもありません」
「私の影響はある」
「はい」
「かなり」
殿下が自分で言うと、ご令嬢が少しだけ笑いました。
「かなりあります」
「ああ」
殿下は女生徒へ視線を戻します。
「では、私は来てもよい?」
「はい」
「王宮の資料を使ったことも隠さない?」
「はい」
「見学者も減らさない?」
女生徒は一度、代表とご令嬢を見ました。
代表が静かに頷きます。
「研究会では、来たい方には見ていただきたいと決めました」
「私を見たい者も?」
「最初の理由が殿下でも、発表は聞いてもらえます」
ご令嬢が続けました。
「私たちは、自分たちの研究だと伝えたいです」
「どうやって?」
「発表の最初に、研究を始めた経緯と、研究会で発表を決めたことを短く話します」
「私に相談したことは?」
「隠しません」
「王宮資料も?」
「はい。ただ、殿下に発表内容を決めていただいたわけではないことも、必要なら答えます」
殿下は少し黙りました。
「私は、何もしなくてよい?」
「当日は、普通に見ていてください」
ご令嬢が言いました。
「普通に?」
「はい」
「どのくらい普通に?」
「他の見学者と同じように」
「拍手は?」
「皆さんと同じくらいで」
「質問は?」
「手を挙げてください」
「指されなかったら?」
「聞かないでください」
殿下はかなり真剣な顔で考えました。
「難しい」
「殿下」
「分かっている。やる」
研究会の三人が小さく笑いました。
「それから」
ご令嬢は少し迷ってから、言葉を続けました。
「できれば、前の特別席ではなく、一般の見学席に座っていただきたいです」
殿下の目が少し大きくなりました。
「特別席は用意される?」
「担当の先生が考えているようです」
「王太子だから?」
「はい」
「そこに座らない?」
「殿下が特別席にいると、発表中も皆さんが殿下を見てしまうかもしれません」
「では一般席」
「警護の方と相談が必要だと思います」
「ああ」
「嫌ですか?」
殿下は少し考えました。
「少しだけ」
「なぜ?」
「あなたの発表を一番よく見える場所で見たかった」
ご令嬢の表情が止まりました。
研究会の代表と女生徒も、視線を逸らします。
周囲で話を聞いていた生徒たちの間に、わずかなざわめきが広がりました。
「殿下」
私は呼びました。
「何だ」
「今の言葉は、かなり直接的です」
「本当のことだ」
「はい」
ご令嬢は少し頬を赤くしながら、それでも殿下から視線を逸らしませんでした。
「一般席でも、見えると思います」
「ああ」
「後ろすぎなければ」
「中ほど?」
「はい」
「端?」
「警護の方がよいという場所で」
「分かった」
殿下は素直に頷きました。
「私は一般席で見る」
「ありがとうございます」
「普通に拍手する」
「はい」
「質問は手を挙げる」
「はい」
「指されなければ聞かない」
「はい」
「発表後、すぐ壇上へ行かない」
ご令嬢が少し笑いました。
「お願いします」
「花束も?」
「殿下」
「まだ用意していない」
「用意しないでください」
「小さいものでも?」
「研究会全員へなら、発表会が終わってから相談してください」
「あなた一人ではなく?」
「はい」
殿下は少し残念そうでした。
「分かった」
◇
研究会の三人が去ったあと、殿下はしばらく中央回廊に立っていました。
「マリア」
「はい」
「私は、来ないほうがよいと思っていた」
「はい」
「でも、彼女たちは来てほしいと言った」
「はい」
「ただし、普通に」
「はい」
「かなり細かい条件がある」
「殿下ですから」
「厳しい」
殿下は発表会の案内板を見ました。
「私が注目を集めた」
「はい」
「それを全部消そうとした」
「はい」
「でも、彼女たちは自分たちで受け取ると決めた」
「はい」
「研究を見てもらえるなら、最初の理由が私でもよいと」
「はい」
「私は、邪魔をしないように普通に見る」
「はい」
「それで支えられる?」
「かなり」
「何もしないのに?」
「何もしないことが必要な場合もあります」
「最近、それが多い」
「殿下の力が大きいからです」
殿下は少し考えました。
「力がある者は、使わないことも役目?」
「はい」
「かなり王太子らしい話だな」
「恋愛相談ですが」
「恋愛で学んだことが、王太子にも必要?」
「かなり」
殿下は少しだけ笑いました。
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
◇
昼休みの生徒会室では、研究発表会当日の警護と座席について話し合いが行われました。
担当教員、生徒会役員、警護責任者が集まり、中講堂の見取り図を机へ広げています。
「殿下の席は、最前列中央がよろしいかと」
担当教員が言いました。
「一般席にする」
殿下が即座に答えます。
室内が少し静かになりました。
「一般席、ですか?」
「ああ」
「ですが、警護上の問題が」
「警護が可能な場所を選べばよい。特別席は要らない」
警護責任者が見取り図へ目を落としました。
「中央列の通路側であれば、前後を警護要員で確保できます」
「発表は見える?」
「十分に」
「ならそこ」
担当教員は少し戸惑っていました。
「殿下が一般席へ座られますと、周囲の生徒が緊張する可能性も」
「最前列中央よりはよい」
「それは、確かに」
ハインツ様が口元を少し緩めます。
「殿下は、当日どの程度まで発表へ関わられますか」
「見るだけだ」
「質疑応答は?」
「手を挙げる」
担当教員が驚いて殿下を見ました。
「殿下が?」
「ああ」
「指名を優先したほうが」
「しなくてよい」
「しかし」
「研究会の発表だ。私だけ特別に質問すれば、他の者の時間を奪う」
室内に短い沈黙が落ちました。
ハインツ様が、少しだけ感心した顔で殿下を見ます。
「かなり成長しましたね」
「褒める?」
「今はかなり」
「受け取る」
担当教員が咳払いをしました。
「では、殿下が手を挙げられても、進行役が他の見学者を指名する場合があると」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「ご不快には?」
「ならない」
殿下は少し間を置きました。
「かなり聞きたい質問があっても、耐える」
「百二十一個ございますからね」
「なぜ知っている」
「学園中で有名です」
生徒会室に笑いが広がりました。
「当日の質問は、一つだけにする」
「指名された場合ですね」
「ああ」
「質問内容は?」
「まだ決めない」
私は少し驚きました。
「殿下」
「何だ」
「事前に一つ選ばないのですか」
「ああ。発表を聞いてから考える」
ハインツ様も目を細めました。
「それはかなりよい判断ですね」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
◇
一方、研究会では、発表の冒頭へ加える言葉について話し合いが続いていました。
中講堂へ移ることで見学者が増える。
殿下との関わりも、さらに注目される。
だからこそ、自分たちの研究としてどう伝えるかを、最初に決める必要がありました。
「殿下のお名前を出す?」
「出さないと、逆に隠してるみたい」
「王宮資料を使ったことは、参考資料のところで言う」
「発表を決めた経緯は?」
「研究会で話し合ったことを言いたい」
「でも、殿下に相談したことも本当」
「相談したけど、決めたのは私たち」
代表が黒板へ二つの文章を書きました。
一つ目。
「王太子殿下から助言をいただき、本研究を発表することとなりました」
二つ目。
「研究会で話し合い、現在進行中の研究を発表することを決めました。準備の過程では、王太子殿下から王宮資料の提供と発表練習への協力をいただきました」
「二つ目がいい」
「うん」
「最初のだと、殿下が決めたみたい」
「実際は違うし」
昨日、生徒会室へ相談に行った女生徒も頷きました。
「私、最初の言い方が嫌だったんだと思う」
「殿下のおかげと言われるのが?」
「違う。殿下のおかげもある。でも、全部殿下のおかげにされるのが嫌だった」
「うん」
「私たちもかなり話し合ったから」
ご令嬢は黒板を見つめました。
「助けてもらったことを消す必要はないと思います」
「うん」
「でも、私たちが自分で決めたことも消さない」
「それでいこう」
研究会員たちの表情が少しずつ落ち着いていきます。
「それから、見学者が殿下を見に来ても」
代表が言いました。
「発表が始まったら、私たちが前にいる」
「うん」
「植物も、記録も、私たちが見てきたもの」
「うん」
「殿下より面白いと思わせればいい」
部屋が一瞬静かになり、それから笑いが起こりました。
「かなり難しくない?」
「王太子殿下より植物?」
「でも、葉の向きは毎日変わる」
「殿下もかなり変わるけど」
「最近はね」
ご令嬢も笑いました。
「なら、植物と殿下、どちらが変わったか見てもらいましょう」
「発表の内容が変わってる」
部屋の空気が柔らかくなりました。
◇
放課後、ご令嬢は研究会の冒頭文を殿下へ見せるため、生徒会室を訪れました。
扉が開いた瞬間、書記の女生徒たちの視線が少しだけ明るくなります。
最近、ご令嬢が来ると殿下の書類処理が早くなることを、皆が知っていました。
「殿下」
「どうした?」
「少し、確認していただきたい文章があります」
「私が決める?」
「いいえ。研究会で決めたものです」
「では、読むだけ?」
「はい。事実と違うところがないか確認してください」
殿下は差し出された紙を受け取りました。
そこには、研究会で決めた文章が書かれています。
「研究会で話し合い、現在進行中の研究を発表することを決めました。準備の過程では、王太子殿下から王宮資料の提供と発表練習への協力をいただきました」
殿下はゆっくり読みました。
「事実と違わない」
「よかったです」
「ただ」
ご令嬢の表情が少し緊張しました。
「何でしょう」
「私の名前を出さなくてもよい」
「殿下」
「研究会の発表だから」
「でも、助けていただいたことは本当です」
「私は、見学者の注目を増やした」
「それも本当です」
「なら」
「だからこそ、隠したくありません」
殿下は黙りました。
「殿下から助けていただいたことを消したら、私たちが自分たちだけで全部できたように見えます」
「ああ」
「それは違います」
「ああ」
「でも、殿下に決めていただいたわけでもありません」
「ああ」
「両方を言いたいんです」
ご令嬢は少しだけ紙を見ました。
「助けてもらったことを認めることと、自分たちでやったことを守ることは、両方できると思います」
殿下はしばらく何も言いませんでした。
生徒会室の中では、紙をめくる音も止まっています。
「私は、名前を消すことで、あなたたちを守ろうとした」
「はい」
「でも、それでは、私が助けた事実まであなたたちから取る?」
「少し」
「あなたたちが、誰に何を頼んだかも、研究の一部?」
「はい。必要な資料を探し、必要な人へ相談することも、私たちが決めたことです」
殿下は紙を見下ろしました。
「なら、残してよい」
「ありがとうございます」
「ただし、王太子殿下の全面的な支援を受けて、とは書かない?」
「書きません」
「王家公認研究とも?」
「違います」
「王宮推薦発表?」
「違います」
書記の女生徒たちが小さく笑いました。
「分かった」
殿下は紙をご令嬢へ返しました。
「その文章でよい」
「はい」
「私は、発表の最初に名前を呼ばれても、立たない」
「お願いします」
「手も振らない」
「お願いします」
「皆が私を見るかもしれない」
「少しは」
「そのとき私は?」
「前を見ていてください」
「あなたを?」
ご令嬢の頬が少し赤くなりました。
「発表を、です」
「ああ」
生徒会室の空気が少しだけ甘くなり、書記の女生徒たちが一斉に視線を落としました。
ハインツ様は口元を隠すように手を当てています。
「殿下」
「何だ」
「今のは、かなり危険でした」
「本当のことだ」
「はい」
◇
ご令嬢が帰ったあと、殿下はしばらく受け取った文章の内容を思い返していました。
「ハインツ」
「はい」
「助けたことを隠さないと言われた」
「はい」
「私の名前を出す」
「はい」
「でも、決めたのは研究会だと伝える」
「かなり正確ですね」
「ああ」
「殿下は不満ですか?」
「違う」
殿下は少し考えました。
「嬉しい」
「なぜ?」
「私は、彼女たちの役目を取らずに、役に立てた」
「はい」
「それを、彼女たちが自分で言う」
「はい」
「私が役に立ったと宣伝するのではなく」
「はい」
「かなり嬉しい」
ハインツ様は穏やかに笑いました。
「受け取ってよいと思います」
「受け取る。全部」
◇
数日後、中講堂で初めての会場練習が行われました。
実際の発表会と同じ舞台へ、三鉢の植物、展示板、温度表、葉の角度を描いた大きな図が運び込まれます。
研究会室とは違い、天井は高く、声が僅かに響きました。
空の客席が何列も並んでいます。
まだ誰も座っていないのに、ご令嬢を含む説明役三人の表情は硬くなっていました。
「広い」
「研究会室の三倍どころじゃない」
「声、届くかな」
「前を見たら、席が多すぎる」
昨日、殿下へ相談した女生徒は舞台の端へ立ち、客席を見渡しました。
「ここに人が入るんだ」
「全部ではないと思う」
「満席かもしれないって」
「言わないで」
笑いは起きましたが、緊張は消えません。
殿下は、一般席として予定されている中央列の通路側へ座っていました。
隣にはマリアとハインツ様。
その前後には警護役が座る予定ですが、今日は会場練習のため、少し離れた場所で待機しています。
「殿下」
「何だ」
「その席で見えますか」
ご令嬢が舞台から聞きました。
「かなり見える」
「本当に?」
「ああ。表情も分かる」
ご令嬢が少しだけ安心したように笑いました。
「では、始めます」
代表の合図で、発表練習が始まりました。
最初に立ったのは、昨日、生徒会室へ相談に来た女生徒でした。
「私たち植物研究会は、研究会で話し合い、現在進行中の研究を発表することを決めました」
声は少し震えていました。
「準備の過程では、王太子殿下から王宮資料の提供と、発表練習への協力をいただきました」
その瞬間、女生徒の視線が殿下へ向きました。
殿下は立ちません。
手も振りません。
ただ舞台を見ています。
女生徒は一度息を吸いました。
「研究内容と発表方法については、研究会で話し合い、決定しています」
その言葉は、最初より少し強く響きました。
空の客席へ向けたものではありません。
自分自身へ言い聞かせるようでもありました。
発表が続きます。
同じ種類の植物を異なる条件で育てたこと。
光の入り方、温度、鉢を動かす時刻によって、葉の向きや成長速度に違いが見られたこと。
ただし、鉢数が少なく、個体差や風の影響を十分に除けていないこと。
分かっていること。
分かっていないこと。
次に調べたいこと。
説明役三人は、研究会室で練習したときよりも声が硬く、何度か言葉へ詰まりました。
中講堂の広さに慣れていないため、図を指す動きも小さくなっています。
「後ろまで見えないかも」
ハインツ様が小声で言いました。
「あとで言う」
殿下も小さな声で答えます。
発表は十分二十秒。
少し時間を超えました。
「以上です」
客席にいるのは、殿下、マリア、ハインツ様、担当教員、数人の研究会員だけです。
それでも拍手が起こりました。
殿下は皆と同じように拍手しました。
長く続けません。
立ち上がりません。
舞台へ近づきません。
ただ、かなり嬉しそうでした。
「どうでしたか」
ご令嬢が客席へ聞きます。
担当教員が最初に口を開きました。
「声は後ろまで届いています。ただ、図を指す動きが小さいので、どこを説明しているか分かりにくい場面がありました」
「はい」
「時間も少し超えています」
「はい」
ハインツ様も続けます。
「冒頭の説明は、かなり分かりやすかったです。研究会が決めたことと、殿下が協力した範囲が区別されていました」
女生徒の表情が少し緩みました。
「ありがとうございます」
「殿下は?」
ご令嬢が聞きました。
殿下は少し考えました。
「最初に私の名前が出た」
「はい」
「皆、私を見ると思う」
女生徒の表情が少し曇りました。
「やはり、出さないほうが」
「違う」
殿下はすぐに続けました。
「見てもよい」
「はい?」
「名前を聞いた瞬間は、私を見る者もいる。でも、そのあと、あなたたちが研究を始めれば、前を見ると思う」
殿下は舞台の三人を見ました。
「少なくとも、私はそうだった」
「殿下はご自分でしょう」
女生徒が少し困ったように笑いました。
「ああ。だが、研究は面白かった」
「はい」
「個体差の話も、風の記録も、前より分かりやすい」
「はい」
「私の名前を消す必要はないと思う」
女生徒はしばらく殿下を見ていました。
「殿下がそう言われると、少し安心します」
「なぜ?」
「殿下も、ご自分の名前が邪魔になるのではと心配されていたからです」
「ああ」
「でも、研究を聞いてくださった」
「ああ」
「なら、他の方にも聞いてもらえるかもしれません」
殿下は少しだけ笑いました。
「かなり」
◇
質疑応答の練習では、担当教員とハインツ様が質問しました。
殿下は手を挙げません。
質問したい気持ちは、表情からかなり伝わっていました。
一つ目。
「観察する人によって、葉の角度の測り方が変わる可能性はありませんか」
ご令嬢が答えます。
「あります。現在は一人が中心となって測定していますが、同じ葉でも測る位置が少し違う可能性があります。今後は測定位置を決め、複数人で確認したいと考えています」
二つ目。
「一日の中で温度が変化することは、結果へ影響しませんか」
別の会員が答えました。
「影響する可能性があります。現在は一日一回の記録が中心なので、今後は朝、昼、夕方の変化も記録したいです」
三つ目。
「植物を移動させたこと自体が、成長へ影響した可能性は?」
女生徒が一度言葉へ詰まりました。
殿下の身体が少し動きます。
しかし、何も言いません。
「……あります」
女生徒は自分で続けました。
「移動させた直後の変化を十分に分けて考えられていません。そのため、次は移動しない鉢も用意して比較したいです」
「分かりました」
担当教員が頷きました。
殿下はかなり嬉しそうでした。
「殿下」
ご令嬢が呼びました。
「何だ」
「質問したいことがありますよね」
「かなり」
「手を挙げてください」
殿下は本当に手を挙げました。
研究会員たちの間から笑いが起こります。
「では、殿下」
ご令嬢が指名しました。
「質問は一つだけ?」
「はい」
殿下は少し悩みました。
百二十一個の中から選んでいるのではなく、今の発表を聞いて思ったことを考えているようでした。
「三鉢の中で、あなたたちが一番驚いた変化は何?」
研究会員たちが少し驚いた顔をしました。
観察方法でも、条件の不足でもありません。
かなり単純な質問でした。
ご令嬢は三鉢を見ました。
「二つ目の鉢です」
「なぜ?」
「光が多い場所へ置いた鉢が一番大きく育つと思っていました。でも、実際は光が少し弱い場所の鉢のほうが、葉が広くなりました」
「それが面白かった?」
「はい。光が少ないから、より多く受けようとして葉を広げたのかもしれないと思いました」
「まだ分からない?」
「はい」
「でも、それを調べたい?」
「はい。かなり」
ご令嬢の声が、少しだけ明るくなりました。
殿下は頷きました。
「分かった。ありがとう」
質問はそれだけでした。
「殿下」
ハインツ様が小声で言います。
「何だ」
「かなりよい質問でした」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
◇
練習が終わると、研究会員たちは舞台の上で修正点を確認し始めました。
図を指す動きを大きくする。
冒頭の声をもう少しゆっくり出す。
説明の一部を短くし、十分以内へ戻す。
中講堂の広さに慣れるため、あと二度は会場練習を行う。
昨日まで不安を口にしていた女生徒も、自分から意見を書き込んでいます。
「最初の文章、少し早かった」
「緊張した?」
「かなり。でも、言えた」
「殿下の名前を出すところは?」
「そこも緊張した」
「消す?」
女生徒は少し考えました。
「消さない」
「大丈夫?」
「うん。殿下が立たなかったから」
「そこ?」
「手も振らなかったし」
「普通に座ってたね」
「かなり普通だった」
舞台の下で聞いていた殿下の眉が少し動きました。
「マリア」
「はい」
「普通だったと褒められている?」
「かなり」
「受け取る」
ご令嬢が舞台から降り、殿下のところへ来ました。
「今日はありがとうございました」
「ああ」
「一般席はどうでしたか」
「よく見えた」
「特別席でなくても?」
「ああ」
「不満は?」
「少しだけ」
「やはり前がよかったですか?」
「近いほうが、表情まで見える」
ご令嬢の頬が少し赤くなりました。
「でも、今の席でも見えたのでしょう?」
「ああ。あなたが途中で少し笑ったのも分かった」
「いつですか?」
「二つ目の鉢の説明をしたとき」
ご令嬢は少し驚き、それから柔らかく笑いました。
「本当に見てくださっていたんですね」
「ああ」
「殿下ご自身ではなく、発表を」
「かなり」
殿下も少し笑いました。
「私は普通に見られた?」
「かなり」
「拍手も?」
「皆さんと同じくらいでした」
「質問も一つだけ」
「はい」
「かなり我慢した」
「分かりました」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る。全部」
◇
帰りの回廊には、夕方の光が細長く差し込んでいました。
中講堂から運び出される展示板の音、研究会員たちの話し声、廊下を歩く足音が重なり、発表会が少しずつ近づいていることを感じさせます。
殿下はご令嬢たちが研究会室へ戻るのを見送ったあと、ゆっくり歩き始めました。
「マリア」
「はい」
「私は、注目を集めた」
「はい」
「その注目が邪魔になると思って、全部消そうとした」
「はい」
「でも、研究会は、自分たちの言葉で説明すると決めた」
「はい」
「私が助けたことも、自分たちで決めたことも、両方言う」
「はい」
「私は普通に見る」
「はい」
「視線が私へ向いても、立たない」
「はい」
「発表が始まったら、前を見る」
「はい」
殿下は少し考えました。
「私は、集めた視線を追い払わなくてよい?」
「はい」
「研究会が、自分たちへ向け直す?」
「はい」
「それを信じる?」
「はい」
「かなり難しい」
「でも、今日できました」
「少し」
「かなりです」
殿下は穏やかに笑いました。
「受け取る」
◇
翌朝、学園では中講堂での練習について新しい噂が広がっていました。
王太子殿下が一般席へ座った。
特別席を断った。
質問のときに手を挙げた。
指名されるまで黙っていた。
発表後も壇上へ行かなかった。
「当たり前のことでは?」
ある生徒が言いました。
「殿下にはかなり難しいんだよ」
「そこまで?」
「百二十七個質問を作る人だよ」
「なるほど」
殿下の顔が少し引きつりました。
「マリア」
「はい」
「私はかなり理解されている」
「はい」
「少し恥ずかしい」
「はい」
「でも、間違っていない」
「はい」
その少し先では、別の生徒たちが話しています。
「植物研究の発表、途中研究なんだって」
「失敗した記録も出すらしい」
「殿下が一番驚いた変化を聞いたって」
「何だったの?」
「光が少ない鉢のほうが、葉が広くなったらしい」
「へえ」
「ちょっと見たいかも」
殿下はその会話を聞き、足を止めました。
「マリア」
「はい」
「今、私ではなく植物の話をしていた」
「はい」
「私の質問から?」
「はい」
「視線が研究へ向いた?」
「少しずつ」
殿下は何も言わず、少しだけ嬉しそうに前を向きました。
◇
注目を集めてしまったとき、そのすべてを消そうとする必要はありません。
自分が原因なら、自分が消えればよい。
自分の名前を隠せばよい。
見に来る人を減らせばよい。
王太子殿下は、そう考えました。
けれど、それもまた、殿下が一人で決めることでした。
研究会の皆さんは、殿下に来ないでほしいわけではありませんでした。
助けてもらった事実を隠したいわけでもありませんでした。
王太子殿下がすべてを決めた発表だと、思われたくなかったのです。
だから、自分たちの言葉で伝えることにしました。
研究会で話し合い、自分たちで発表を決めたこと。
王宮資料を探すことは、自分たちから殿下へ頼んだこと。
殿下は資料を提供し、発表練習を聞いたが、研究内容や発表方法を決めたのは研究会であること。
助けてもらった事実も、自分たちで成し遂げた部分も、どちらも消さない。
その選択を、殿下は尊重しました。
発表会当日、殿下は特別席ではなく一般席へ座ります。
皆と同じように拍手します。
質問したければ手を挙げます。
指名されなければ、聞きません。
殿下の名前が出ても立ち上がらず、手も振らず、視線が舞台へ戻るのを待ちます。
王太子殿下。
自分が集めた視線を、自分の力で追い払わなくてよいのです。
その視線を受け取るかどうか。
自分たちの研究へ向け直せるかどうか。
それは、研究会の皆さんが決めることです。
殿下にできるのは、注目の中心へ立たないこと。
自分の名前が呼ばれても、主役のように振る舞わないこと。
発表が始まったら、誰よりも真剣に前を見ること。
それだけでも、周囲へ何が主役なのかを伝えられます。
ですから殿下。
一般席へ座る代わりに、会場の照明をすべて舞台へ集中させ、ご自分の席だけ暗くする案は却下です。
暗闇の中に王太子殿下だけが座っていたら、逆にかなり怖いです。
それから、殿下へ視線を向けた見学者を警護員が一人ずつ前へ向き直らせる案も駄目です。
視線は命令で動かすものではありません。
発表中、殿下が一度も瞬きをしなければ真剣さが伝わる、という考えもおやめください。
普通に見てください。
本当にお願いします。




