第86話 王太子殿下、答えを増やしすぎて相手の不安まで増やさない
準備は、多ければ多いほどよい。
少なくとも、王太子殿下は長い間、そう考えてきました。
考えられる問題を先に洗い出し、それぞれに対応策を用意する。質問されそうな内容を予測し、答えを作り、必要な資料を揃え、誰が何を担当するかまで決めておく。
王宮の会議でも、外交の場でも、それは大切なことです。
一つの見落としが国同士の関係へ影響し、僅かな説明不足が多くの人を混乱させることもある。王太子として、できる限り多くの可能性を考えるのは、殿下に求められている能力でもあります。
しかし、学園の研究発表会では少し事情が違います。
すべての質問へ、完璧に答える必要はありません。
そもそも、すべての質問を事前に予測することなどできません。
まだ途中の研究を発表するのですから、分からないことがあるのは当然です。むしろ、分からないことを見つけ、次に何を調べるかを考えるための発表でもあります。
けれど、王太子殿下は真面目です。
好きなご令嬢が「質問に答えられないのが怖い」と言ったことを、かなり真剣に受け止めました。
その結果。
殿下は、想定質問を百二十七項目も作りました。
それだけなら、まだよかったのかもしれません。
問題は、その百二十七項目すべてに、模範回答まで用意してしまったことでした。
◇
「マリア」
「はい」
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は先に言った」
「かなり自然でした」
「受け取る」
「まだ褒めています」
「なら全部受け取る」
朝の校舎裏には薄い霧が残っていました。
夜の冷気が地面近くへ溜まっていたのか、芝生の先は白く霞み、遠くに見える校舎の壁も少し輪郭を柔らかくしています。木々の葉からは時折露が落ち、古い木製ベンチの背へ小さな音を立てていました。
殿下はいつもの場所へ座っています。
今日は木箱を持っていません。
大きな冊子もありません。
ただし、膝の上には分厚い紙束が置かれていました。
「殿下」
「何だ」
「それは?」
「何でもない」
「何でもないものにしては、かなり厚いですね」
「紙だ」
「見れば分かります」
殿下は紙束へ手を置きました。
紙の端には細かな番号が振られています。
一、二、三。
そして、上から見える範囲だけでも二十を超えていました。
「研究発表会に関係するものですか」
「少し」
「どのくらい?」
「かなり」
「何を作ったのです?」
殿下は少し黙りました。
「想定質問」
「何項目ですか」
「百二十七」
「多すぎます」
「まだ渡していない」
「渡すつもりだったのですね」
「昨日までは」
殿下は言い訳をするように、紙束の最初の頁を開きました。
「彼女は、質問に答えられないことが不安だと言った」
「はい」
「だから、聞かれそうな質問を考えた」
「はい」
「植物そのものについて三十八。観察方法について二十一。温度や光の条件について二十六。記録方法について十七。今後の研究について十五。それから、研究会全体への質問が十」
「合計百二十七ですね」
「ああ」
「答えも?」
「ある」
「全部?」
「ああ」
私は目を閉じました。
「殿下」
「何だ」
「昨日、不安をすべて消そうとしないと学びましたね」
「ああ」
「なぜ一晩で百二十七個も増やしたのです?」
「不安を消すためではない」
「では?」
「準備だ」
「同じです」
「違う。彼女たちが答えられるように、参考を作った」
「模範回答まで作って?」
「ああ」
「その通りに答えればよいと?」
「必要なら」
「殿下」
「分かっている。少し違う気がして、今朝持ってきただけだ」
殿下は自分でも、完全には正しいと思っていないようでした。
「どのあたりが違うと思いました?」
「彼女たちが自分で答えるための練習なのに、私が答えを作った」
「はい」
「全部覚えようとしたら、かなり大変だ」
「はい」
「もしかすると、質問される前より不安になる」
「かなり高い可能性があります」
殿下は紙束を見下ろしました。
「これを見たら、彼女はどう思う?」
「百二十七個も答えられない質問があると思うでしょう」
「答えも書いてある」
「自分たちの答えではありません」
「参考にはなる」
「参考が多すぎます」
「何個ならよい」
「まず、渡す必要があるか聞いてください」
「またそれか」
「何度でも同じです」
殿下は少し不満そうに、最初の頁をめくりました。
「でも、かなり考えた」
「それは分かります」
「昨日の夜、三時間」
「寝ましたか?」
「五時間は」
「少ないです」
「王太子としては普通だ」
「恋愛相談の準備で睡眠を減らさないでください」
「彼女のためだ」
「だから危険なのです」
霧の向こうから、登校してくる生徒たちの声が聞こえ始めました。まだ時間は早いものの、校舎の窓にも少しずつ明かりが灯っています。
殿下は紙束を閉じました。
「私は、何をすればよい」
「研究会が、質問練習をしたいと頼んできたら、質問してください」
「何個?」
「その場で思いついたものを」
「事前に用意しない?」
「少しならよいと思います」
「十個?」
「多いです」
「五個?」
「まだ多いかもしれません」
「三個?」
「はい」
「百二十七から三」
「はい」
殿下は苦しそうな顔をしました。
「減らしすぎでは?」
「全部を練習する必要はありません」
「だが、本番で四つ目が来たら?」
「そのときは考えて答えます」
「答えられなかったら?」
「分からないと答えます」
「昨日も聞いた」
「今日も同じです」
殿下は長く息を吐きました。
「百二十七個の中から三個を選ぶ?」
「研究会へ聞かれたら」
「今は?」
「持ち帰ってください」
「全部?」
「はい」
「せめて三個だけ持っていてよい?」
「殿下が落ち着くなら」
「かなり落ち着く」
「では三個だけ」
殿下は紙束を開きました。
しかし、すぐに手が止まります。
「選べない」
「なぜです?」
「全部必要に見える」
「殿下」
「質問一番は、なぜこの植物を選んだのか。二番は、同じ種類でも個体差があるのではないか。三番は、鉢の位置による風の影響を考慮したか。四番は――」
「読み始めないでください」
「どれも大切だ」
「では、紙束ごと王宮へ戻してください」
「……分かった」
殿下はかなり残念そうでした。
「マリア」
「はい」
「私は、準備しすぎた?」
「かなり」
「でも、彼女が困らないようにしたかった」
「はい」
「不安を減らしたかった」
「はい」
「結果として、不安を増やすかもしれない?」
「はい」
殿下は少し黙りました。
「準備は、多ければよいわけではない」
「はい」
「相手が使える量でなければならない?」
「はい」
「相手が必要だと思うものだけ?」
「はい」
「かなり難しい」
「でも、今ご自分で気づけました」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る。全部」
◇
紙束は、王宮へ戻されました。
ただし、殿下は最初の三頁だけを懐へ入れました。
「三個だけですね」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「裏側にも書いていませんか」
「書いていない」
「小さく折った紙は?」
「ない」
「腕輪の内側は?」
「そこまで疑う?」
「殿下ですから」
殿下は少し傷ついた顔をしました。
「最近、かなり正直だ」
「はい」
「先回りも減った」
「はい」
「木箱も戻した」
「はい」
「資料も三件だけにした」
「はい」
「なら信じる?」
「三頁だけという点は信じます」
「全部ではないのか」
「内容まではまだです」
殿下は懐へ手を当てました。
「一番、二番、三番だけだ」
「その模範回答も?」
「ある」
「殿下」
「参考だ」
「まだ頼まれていません」
「分かっている。見せない」
中央回廊へ入ると、掲示板の前に多くの生徒が集まっていました。
研究発表会の案内に、新しい紙が追加されています。
見学希望者が予想より増えたため、当日の会場が変更される可能性がある。
その知らせでした。
「会場変更?」
「今の講義室だと入らないらしい」
「そんなに見たい人がいるの?」
「王太子殿下が練習を見たって噂の研究もあるし」
「途中研究の発表でしょ」
「答えられないことも、そのまま話すらしいよ」
「少し面白そう」
殿下は掲示を見つめました。
「マリア」
「はい」
「会場が足りない」
「そのようですね」
「大講堂を――」
「殿下」
「まだ何も言っていない」
「顔に出ています」
「大講堂なら全員入る」
「研究会が望んでいるか確認してください」
「学園側が決めることでは?」
「はい。ですから殿下が決めないでください」
「私は学園運営にも関わっている」
「今回は、好きなご令嬢の発表があります」
「公平に考える」
「本当に?」
「……かなり努力する」
そのとき、ご令嬢が研究会の友人たちと廊下の向こうから歩いてきました。
殿下へ気づくと、三人は少し足を速めます。
「おはようございます、殿下。マリア様」
「おはよう」
「おはようございます」
ご令嬢は掲示板を見ました。
「会場の変更があるかもしれないそうです」
「ああ。見学者が増えている」
「少し驚きました」
「嬉しい?」
ご令嬢はすぐには答えませんでした。
「嬉しいです。でも、少し怖いです」
殿下の表情がわずかに変わりました。
以前なら、すぐ大丈夫だと言っていたでしょう。
今日は、少し待ちました。
「人が多いことが?」
「はい。最初は研究会の方や、興味のある少人数だけだと思っていました。でも、殿下が関わっているという噂で見に来る方も増えているようで」
周囲の生徒たちが少し気まずそうに視線を逸らしました。
「私のせい?」
殿下が聞きました。
「全部ではありません」
「少しは?」
「かなり」
ご令嬢は困ったように笑いました。
「殿下が練習を見てくださったことや、王宮の資料を探してくださったことが広がっています」
「私は、研究会を目立たせたかったわけではない」
「分かっています」
「会場が大きくなるのは嫌?」
「分かりません」
「大講堂は?」
「殿下」
私はすぐに呼びました。
「まだ提案していない」
「今しようとしましたね」
ご令嬢が少し笑いました。
「大講堂だと、かなり緊張すると思います」
「では使わない?」
「でも、見たいと思ってくださる方がいるなら、入れないのも申し訳ないです」
研究会の友人が口を開きました。
「今、会場担当の先生と相談しているところです。中講堂なら、今の講義室より人数が入ります」
「中講堂」
「はい。大講堂ほど広くはありません」
殿下は少し考えました。
「あなたたちは、どこがよい?」
「まだ全員の意見はまとまっていません」
「では、私が――」
「殿下」
「分かっている。決めない」
友人たちが小さく笑いました。
「最近、殿下は自分で止まれるようになりましたね」
「かなり止まっている」
「はい」
「褒める?」
「かなり」
ご令嬢も笑いました。
「私も褒めます」
殿下の表情が一気に明るくなりました。
「受け取る。全部」
「殿下」
ご令嬢が少し迷うように、殿下の懐へ視線を向けました。
「何か持っていらっしゃいますか?」
殿下の身体が止まりました。
「なぜ」
「紙の端が少し見えています」
懐から、白い紙の角が僅かに出ていました。
私は何も言いませんでした。
「これは」
「はい」
「想定質問だ」
ご令嬢の目が少し大きくなります。
「もう作ってくださったのですか?」
「三個だけ」
「最初は?」
「……百二十七」
研究会の三人が同時に黙りました。
周囲で聞いていた生徒たちも、静かになります。
「百二十七ですか?」
「ああ」
「質問だけ?」
「答えも」
ご令嬢は紙束そのものを想像したのか、少し顔を引きつらせました。
「全部覚えるのは、かなり難しいですね」
「渡さない」
「はい?」
「今朝、マリアと話した。多すぎる準備は、あなたたちの不安を増やすかもしれない」
「……」
「だから、三個だけ持ってきた。それも、必要なら使う」
ご令嬢は少し驚いた顔で殿下を見ました。
「見せていただいてもよろしいですか?」
殿下の目が明るくなりました。
「見たい?」
「三個だけなら」
「ああ」
殿下は懐から三枚の紙を出しました。
「一つ目。なぜ、この植物を研究対象に選んだのか」
「はい」
「二つ目。同じ種類でも個体差があるのではないか」
「はい」
「三つ目。鉢の位置による風の影響を考慮したか」
ご令嬢と友人たちは顔を見合わせました。
「どれも、聞かれそうです」
「答えもある」
「殿下の答えですか?」
「ああ」
「それは、まだ見なくてもよいですか」
殿下の表情が少し止まりました。
「なぜ?」
「まず、自分たちで考えてみたいです」
「ああ」
「分からなかったら、殿下の考えも聞かせてください」
殿下は紙を見下ろしました。
「答えは渡さない?」
「はい」
「質問だけ?」
「はい」
「分かった」
殿下は模範回答が書かれた部分を内側へ折りました。
「では、質問だけ渡す」
「ありがとうございます」
「三個で足りる?」
「今は十分です」
「百二十四個は?」
「まだ大丈夫です」
「必要になったら?」
「そのとき、少しずつお願いします」
殿下はかなり名残惜しそうでした。
「一度に十個ではなく?」
「三個ずつで」
「……分かった」
◇
研究会の三人が去ったあと、周囲の生徒たちの間で囁きが広がりました。
「百二十七個」
「全部答えまで作ったって」
「殿下、すごいけど怖い」
「研究会の人、見たら眠れなくなりそう」
「三個に減らしたんだ」
「かなり減ったね」
「でも残り百二十四個あるんでしょ」
殿下の眉が動きました。
「マリア」
「はい」
「今の噂は事実だ」
「はい」
「訂正しなくてよい?」
「しないでください」
「百二十四個は王宮にある」
「詳しく言わないでください」
「でも、必要なら使える」
「今は必要ありません」
殿下は少しだけ胸を張りました。
「三個だけ渡した」
「はい」
「答えは渡さなかった」
「はい」
「彼女たちが先に考える」
「はい」
「かなり成長した?」
「かなり」
「受け取る」
◇
昼休み、研究会では早速、三つの質問について話し合いが行われていました。
大きな机の中央には殿下から受け取った紙が置かれ、その周囲へ会員たちが集まっています。
「一つ目。なぜ、この植物を選んだのか」
「育てやすかったから?」
「それだけだと弱い」
「変化が見えやすいから」
「葉が大きいから、向きを観察しやすい」
「同じ種類の鉢が複数あったのも理由」
代表が黒板へ意見を書きます。
「最初から、研究対象として特別だったわけではないよね」
「うん。研究会に多くあったから始めた」
「それを正直に言っていいのかな」
「いいと思う。始めた理由と、続けた理由は違うから」
ご令嬢が静かに口を開きました。
「始めたのは、同じ条件の鉢が揃っていたからです。でも、観察を続けるうちに、思っていたより細かな違いが出ることが分かった。それで、もっと調べたいと思いました」
「それがよさそう」
「自分たちの言葉だし」
二つ目の質問へ移ります。
「同じ種類でも個体差があるのではないか」
「あると思う」
「じゃあ、今回の結果が条件の違いとは限らない?」
「そこが弱いところだね」
部屋の空気が少し重くなりました。
「鉢を増やす?」
「発表までに間に合う?」
「数日だけでも追加観察する?」
「でも、結果が揃わなかったら」
ご令嬢は少し考えました。
「揃わなかったことも、そのまま言えばよいと思います」
「個体差の可能性は残っている、と?」
「はい。今の鉢数では、条件だけが原因だと断定できない。だから、今後は鉢数を増やす必要がある」
「それなら途中研究として正しいかも」
会員たちの表情が少し明るくなります。
三つ目。
「鉢の位置による風の影響を考慮したか」
部屋が再び静かになりました。
「してない」
「風、記録してないね」
「窓際と奥で違うかも」
「光だけじゃなく、風も」
「これ、かなり大きい問題?」
ご令嬢は紙を見つめました。
殿下の模範回答はありません。
自分たちで考えるしかありません。
「考慮できていませんでした」
ご令嬢が言いました。
「発表では、そう答える?」
「はい。それから、今後は風の強さや窓を開けた時間も記録する」
「質問される前に、課題として入れてもいいかも」
「それがいい」
代表が黒板へ書き込みます。
「殿下の三つ、かなり役に立ったね」
「百二十七個全部は無理だけど」
「三個なら考えられる」
「一つずつなら、むしろ研究が進むかも」
ご令嬢は、殿下から受け取った紙を丁寧に揃えました。
「殿下は、答えも作ってくださっていました」
「見なかったの?」
「はい。まず、自分たちで考えたいと伝えました」
「殿下、嫌そうだった?」
「かなり残念そうでした」
部屋に笑いが広がります。
「でも、渡さなかったんだ」
「はい」
「最近の殿下、本当に待てるようになったね」
「かなり」
ご令嬢も小さく笑いました。
◇
同じ頃、殿下は生徒会室で落ち着きなく書類をめくっていました。
「殿下」
ハインツ様が声をかけます。
「何だ」
「先ほどから、同じ頁を三度読んでいます」
「内容を確認している」
「署名は終わっています」
「再確認だ」
「研究会が質問へ答えられたか気になるのでは?」
殿下は黙りました。
「三個だけ渡したそうですね」
「なぜ知っている」
「もう学園中で有名です」
「百二十七個のことも?」
「はい」
殿下は額へ手を当てました。
「なぜ、そこだけ広がる」
「かなり印象的ですから」
「全部必要な質問だ」
「研究会へ渡したら、かなり困るでしょうね」
「分かっている。だから三個にした」
「模範回答は?」
「渡していない」
ハインツ様が少し驚いた顔をしました。
「本当に?」
「彼女が、自分たちで考えたいと言った」
「それで引いた?」
「ああ」
「かなり成長しましたね」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
殿下は少しだけ満足そうにしましたが、すぐにまた窓へ視線を向けました。
「答えられたと思う?」
「知りません」
「難しい質問だった?」
「殿下が選んだのでしょう」
「ああ」
「なら、なぜ私に聞くのです」
「彼女たちが不安になっていないか」
「気になる?」
「かなり」
「聞きに行きますか」
殿下の身体が少し動きました。
しかし、すぐに止まります。
「行かない」
「なぜ?」
「自分たちで考えたいと言われた」
「はい」
「私が行けば、答えを聞きたくなる」
「はい」
「そして、間違っていたら直したくなる」
「はい」
「だから待つ」
ハインツ様は少し笑いました。
「かなり上手になりましたね」
「待つことばかり褒められる」
「待てなかった殿下ですから」
「厳しい」
◇
放課後、研究会から殿下へ伝言が届きました。
想定質問三項目について、自分たちなりの答えをまとめた。
可能であれば、もう一度聞いてほしい。
殿下は伝言を受け取ると、すぐに立ち上がりました。
「今から行く」
「生徒会の書類は?」
「終わった」
「本当に?」
ハインツ様が机の上を確認しました。
「あと二枚あります」
「ハインツ」
「終わらせてからです」
「五分で終える」
「字を間違えないでください」
殿下は本当に五分で二枚を処理しました。
ただし、最後の一枚には署名を二度書きかけ、書記の女生徒から静かに止められています。
研究会室へ到着すると、会員たちはすでに椅子を並べて待っていました。
ご令嬢が殿下を迎えます。
「来てくださってありがとうございます」
「答えができた?」
「はい」
「三つとも?」
「はい」
殿下の顔が少し明るくなりました。
「聞いてよい?」
「お願いします」
最初の質問。
なぜ、この植物を研究対象に選んだのか。
ご令嬢は、研究会に同じ種類の鉢が複数あり、比較しやすかったことを説明しました。そして、観察を続けるうちに予想以上の違いが見つかり、研究を深めたいと思ったと続けます。
殿下は静かに聞きました。
「分かりやすい」
「本当ですか?」
「ああ。始めた理由と、続けた理由が違うことも伝わった」
ご令嬢の表情が少し明るくなります。
二つ目。
同じ種類でも個体差があるのではないか。
研究会の別の生徒が答えました。
「個体差はあると考えています。現在の鉢数では、観察された違いが環境条件だけによるものとは断定できません。そのため、今後は同じ条件で育てる鉢を増やし、結果が繰り返し確認できるか調べたいと考えています」
殿下は少し頷きました。
「よいと思う」
「殿下の答えは?」
会員の一人が聞きました。
殿下は少し迷いました。
「聞きたい?」
「参考に」
「私の答えでは、最初に個体差を完全には除けないことを認め、観察期間と鉢数の不足を説明し、追加試験の方法を三つ示していた」
「三つ?」
「同じ条件の鉢を増やす。観察期間を延ばす。別の季節でも同じ傾向が出るか確認する」
研究会員たちが頷きながら記録します。
「でも、あなたたちの答えで十分だと思う」
「本当ですか?」
「ああ。全部を一度に言うと長い」
私は少し驚きました。
殿下ご自身が、情報を増やしすぎないほうがよいと言ったのです。
「殿下」
「何だ」
「今、かなりよいことを言いました」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
三つ目。
鉢の位置による風の影響を考慮したか。
ご令嬢は少し緊張した表情になりました。
「考慮できていませんでした」
殿下は黙って続きを待ちます。
「窓際と部屋の奥では、風の当たり方が違っていた可能性があります。現在の記録には、窓を開けた時間や風の強さが含まれていません」
「はい」
「そのため、今後は風も環境条件の一つとして記録したいと考えています」
部屋が静かになりました。
殿下は少しだけ笑いました。
「かなりよい」
「本当ですか?」
「ああ」
「殿下の模範回答と同じですか?」
「違う」
ご令嬢の表情が少し不安そうになります。
殿下はすぐに続けました。
「私の答えは長すぎる」
研究会員たちが一斉に殿下を見ました。
「風向、窓の開閉時間、室内の人の移動、廊下から入る空気、天候まで挙げている」
「かなり多いですね」
「ああ。質問への答えとしては、あなたのほうが分かりやすい」
ご令嬢は少し目を大きくしました。
「私の答えのほうが?」
「ああ。考慮できていなかったことを認め、次にどうするかを言っている。それで十分だ」
「殿下が作った答えより?」
「かなり」
研究会室の中に、柔らかな笑いが広がりました。
「殿下、自分の答えを使わせようとしないんですね」
「あなたたちの発表だからな」
「でも、三時間かけて作ったのでしょう?」
「なぜ知っている」
「噂で」
「そこまで広がっているのか」
殿下は少し落ち込みました。
ご令嬢は笑いながら、殿下から受け取った三枚の紙を持ち上げました。
「でも、この質問はとても役に立ちました」
「ああ」
「答えは自分たちで考えました。でも、何が足りないかに気づけたのは、殿下のおかげです」
殿下はすぐに答えませんでした。
「……受け取る」
「はい?」
「かなり嬉しい」
ご令嬢の表情が柔らかくなりました。
「はい」
◇
「では、次の三個も」
殿下が懐へ手を入れました。
「殿下」
私は呼びました。
「何だ」
「次は、研究会が必要だと判断してからです」
殿下の手が止まります。
研究会員たちも少し笑いました。
ご令嬢は三枚の紙を見て、それから皆を振り返りました。
「皆さん、どうします?」
「今の三つを発表へ反映してからがいい」
「一度に増やすと混乱しそう」
「次の練習のあと、答えにくかったところを見てからでも」
ご令嬢は頷きました。
「では殿下、次の三個は、もう少しあとでもよろしいですか」
殿下は名残惜しそうでした。
「いつ?」
「殿下」
「分かっている。決まったら教えて」
「はい」
「百二十四個ある」
「少しずつお願いします」
「発表会までに全部は無理では?」
「全部使わなくて大丈夫です」
殿下は少し衝撃を受けた顔をしました。
「使わない質問がある?」
「かなりあると思います」
「三時間」
「殿下」
「分かっている。自分が考えたかったから考えた。使われなくてもよい」
ご令嬢は少し驚いたように殿下を見ました。
「よいのですか?」
「少し寂しいが」
「はい」
「あなたたちに必要なものだけ使えばよい」
ご令嬢はしばらく黙り、それから柔らかく笑いました。
「ありがとうございます」
「ああ」
◇
研究会室を出たあと、廊下には夕方の光が長く伸びていました。
窓の外では、部活動を終えた生徒たちが道具を運んでいます。校庭から聞こえる掛け声も、少しずつ遠くなり、学園全体が放課後の静けさへ向かっていました。
「マリア」
「はい」
「私の答えより、彼女たちの答えのほうがよかった」
「はい」
「少し悔しい」
「はい」
「でも、かなり嬉しい」
「はい」
「私が答えを渡さなかったから、彼女たちは自分で考えた」
「はい」
「考えた結果、私より短くて分かりやすい答えになった」
「はい」
「私が全部用意しなくても、彼女たちは進める」
「はい」
「むしろ、用意しすぎないほうが進むこともある?」
「あります」
殿下は歩きながら、懐へ手を当てました。
そこには次の質問三項目が入っているのでしょう。
「準備は、相手が使える量で」
「はい」
「答えではなく、考えるきっかけを渡す?」
「はい」
「一度に百二十七ではなく?」
「三つ程度で」
「かなり少ない」
「十分でした」
「分かっている」
殿下は少し笑いました。
「褒める?」
「かなり」
「受け取る。全部」
◇
翌朝、研究発表会の会場について正式な通知が出ました。
当初予定されていた講義室から、中講堂へ変更。
見学希望者の増加に対応するため、座席を増やす。
ただし、大講堂は使用しない。
研究会の代表と担当教員が相談した結果でした。
「中講堂」
「はい」
「大講堂ではない」
「はい」
「私に相談はなかった」
「学園側の決定ですから」
「少し寂しい」
「なぜです?」
「大講堂を使えるようにできた」
「必要ありませんでした」
「でも、中講堂で足りなかったら?」
「入場方法を調整するでしょう」
「私が――」
「殿下」
「分かっている。頼まれていない」
掲示板の前では、多くの生徒が通知を読んでいます。
「中講堂だって」
「見に行けるかな」
「席は先着?」
「研究会の発表、どんな感じなんだろう」
「殿下の百二十七問も出るの?」
「出ない!」
殿下が反応しました。
「殿下」
「無理だ。百二十七問も五分でできるわけがない」
「そこではありません」
周囲から笑いが起こりました。
「三問だけ渡したらしいよ」
「答えは自分たちで考えたって」
「殿下の答えより分かりやすかったらしい」
「本当?」
殿下の表情が少し変わりました。
「マリア」
「はい」
「今の噂は、少し恥ずかしい」
「はい」
「でも、事実だ」
「はい」
「訂正しない」
「かなり成長しましたね」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
◇
その日の昼休み、ご令嬢が一人で殿下の席へ来ました。
食堂には多くの生徒がいましたが、最近ではご令嬢が殿下へ近づいても、以前ほど極端な静けさは生まれません。それでも、周囲の視線が少し集まるのは避けられませんでした。
「殿下」
「どうした?」
「昨日の質問について、もう一つお礼を言いたくて」
「ああ」
「風の影響を考えていなかったことが分かったので、今朝から記録を追加しました」
「もう?」
「はい。窓を開けた時間と、鉢の位置を記録しています」
「役に立った?」
「かなり」
殿下の口元が少し緩みました。
「受け取る」
「それから」
ご令嬢は少し迷いました。
「次の質問を、もう三つだけいただけますか」
殿下が固まりました。
周囲の生徒たちも、少しだけこちらへ意識を向けます。
「本当に?」
「はい」
「今?」
「できれば」
殿下は懐へ手を入れました。
すでに用意していたようです。
「四番。観察する人によって、葉の角度の測り方が違わないか」
「はい」
「五番。日ごとの温度差だけでなく、一日の中の変化も影響するのではないか」
「はい」
「六番。植物を移動させたことで、一時的な変化が起きた可能性はないか」
ご令嬢は真剣な表情で聞いていました。
「答えも?」
「ある」
「まず、自分たちで考えます」
「ああ」
「分からなかったら聞きます」
「ああ」
殿下は少しだけ寂しそうでしたが、すぐに頷きました。
「三つだけでよい?」
「はい。今は」
「次は?」
「この三つを考えてから」
「分かった」
ご令嬢は紙を受け取りました。
「ありがとうございます」
「全部渡さなくてよい?」
「はい」
「百二十一個残る」
「殿下」
「分かっている」
ご令嬢が笑いました。
「少しずつだから、考えられます」
「ああ」
「全部だったら、たぶん怖くなっていました」
殿下の表情が静かになりました。
「やはり、不安が増えた?」
「百二十七個も答えられないことがあると思ったら、かなり」
「そうか」
「でも、三つなら、次に調べることが見つかったと感じます」
殿下は少し考えました。
「同じ質問でも、量で変わる?」
「はい」
「百二十七個なら、できていないことの山」
「はい」
「三個なら、次に考えること」
「はい」
「……分かった」
ご令嬢は柔らかく笑いました。
「殿下が三個ずつにしてくださって、よかったです」
「マリアが止めた」
「では、マリア様にもお礼を言わないといけませんね」
「私ではなく?」
「殿下も、止められてやめてくださったので」
「なら半分?」
「かなり」
殿下は少し笑いました。
「受け取る」
◇
準備は、多ければ多いほどよい。
王太子殿下は、そう考えていました。
百二十七個の質問。
百二十七個の答え。
それだけあれば、どのような質問が来ても困らない。好きなご令嬢も、安心して発表できる。
そう思ったのです。
けれど、すべてを渡された側は、百二十七個もの不足を見せられたように感じるかもしれません。
こんなにも答えられないことがある。
こんなにも準備が足りない。
全部覚えなければいけない。
それでは、安心するどころか、発表すること自体が怖くなってしまいます。
殿下は、質問を三つだけ渡しました。
答えは渡しませんでした。
研究会の皆さんは、自分たちで話し合いました。
なぜ、この植物を選んだのか。
個体差をどう考えるのか。
風の影響を確認したのか。
答えられないこともありました。
考えていなかった問題も見つかりました。
でも、三つだったから、一つずつ向き合えました。
分からないことを、次の観察へつなげることができました。
殿下が作った長く完璧な答えより、研究会の皆さんが自分で考えた短い答えのほうが、発表には合っていました。
殿下は少し悔しそうでした。
けれど、自分の答えを使わせようとはしませんでした。
「あなたたちの答えのほうが分かりやすい」
そう認めることができました。
王太子殿下。
相手を助けるために、考えられるものをすべて渡す必要はありません。
準備は、相手が受け取れる量で。
答えを渡すのではなく、自分で考えられる程度の問いを。
足りないものを一度に山のように見せるのではなく、次に進める一歩だけを渡す。
それでも、十分に役へ立てます。
ですから殿下。
百二十一個残っている想定質問を、三個ずつ毎朝渡せば発表会までに間に合うのではないか、と計算し始めるのはやめてください。
一日三個を四十日続ける必要はありません。
発表会はそれより前です。
そもそも、すべて使う必要がありません。
それから、質問を百二十七個から二百個へ増やせば分類しやすくなる、という考えも間違っています。
なぜ増やすのですか。
本当にお願いします。




