第85話 王太子殿下、不安をなくすことだけが支えることではないと知る
誰かが不安そうにしていると、安心させてあげたいと思います。
大丈夫だと伝えたい。心配しなくてよいと断言したい。失敗する可能性などないのだと、自信を持たせてあげたい。
大切な人が相手なら、なおさらです。
その人の顔から迷いを消し、いつものように笑ってほしい。自分に力があるのなら、その不安の原因そのものを取り除いてしまいたいと思うでしょう。
けれど、不安はすべて消さなければならないものなのでしょうか。
初めてのことへ挑戦するときに不安になる。
自分の考えが伝わるか分からず、怖くなる。
失敗するかもしれないと考えて、足が止まりそうになる。
それは、その挑戦を大切に思っているからこそ生まれる気持ちでもあります。
不安があるから準備をする。
怖いから何度も確かめる。
迷いながらも自分で決めたからこそ、その先で得られるものがあります。
その不安を、周囲の人間が勝手に消してしまったら。
「絶対に成功する」
「失敗しても私が何とかする」
「評価が悪ければ、審査のほうを変えればよい」
そう言われた側は、確かに一時的には安心するかもしれません。
しかし、自分で立つために必要だった緊張までなくなり、いつの間にか「この人がいれば大丈夫」という安心だけに頼るようになることもあります。
王太子殿下は、好きなご令嬢の不安を見つけると、すぐに消したくなります。
しかも、殿下には本当に消せるものが多いのです。
人を呼べる。
予算を増やせる。
会場を変えられる。
審査員へ意見を言える。
失敗した研究に、別の機会を与えることもできる。
だからこそ、殿下が「大丈夫」と言うときは、少し注意が必要です。
ただ励ますだけなのか。
それとも、失敗した場合には本当に王家の力で結果を変えるつもりなのか。
殿下ご本人にも、その境目があまり分かっていないからです。
◇
「マリア」
「はい」
「今日は何も持ってきていない」
「おはようございます」
「おはよう」
「本当に何も?」
「ああ」
「紙も?」
「ない」
「冊子も?」
「ない」
「木箱も?」
「ない」
「植物学者も?」
「連れてきていない」
「呼ぶ予定は?」
「……」
「殿下」
「ない」
朝の校舎裏には、前日よりも冷たい風が流れていました。季節がほんの少し進んだのか、木々の葉が擦れ合う音にも乾いた響きが混じり、芝生の朝露も日の当たる場所からゆっくりと消え始めています。
殿下はいつもの古い木製ベンチへ座っていました。
確かに、今日は手に何も持っていません。
ベンチの下にも箱はありません。
木の向こうにも侍従の姿はありません。
私は一度、周囲を慎重に見回しました。
「そこまで疑う?」
「殿下ですから」
「最近はかなり我慢している」
「はい」
「研究会へ持っていった資料も三件だけだった」
「はい」
「説明も、聞かれたところだけにした」
「はい」
「展示の順番も、図の大きさも、発表者の立ち位置も言わなかった」
「はい」
「かなり言いたかった」
「それも聞きました」
「褒める?」
「かなり褒めました」
「今日も?」
「今日の相談内容によります」
殿下は少し不満そうな顔をしましたが、すぐに真面目な表情へ戻りました。
「昨日、研究会へ行ったあと、彼女と少し話した」
「はい」
「帰る前に」
「はい」
「発表が怖いと言っていた」
私は殿下を見ました。
「どのように?」
「自分の話が伝わらなかったらどうしよう、と」
「はい」
「途中の研究を出すことで、研究会全体の評価を下げたらどうしよう、とも言っていた」
「はい」
「それから、当日、質問に答えられなかったら恥ずかしいとも」
殿下は膝の上で両手を組みました。
「私は、大丈夫だと言った」
「はい」
「かなりよい研究だから、伝わる。評価も下がらない。質問も答えられると」
「ご令嬢は?」
「少し笑った」
「安心されたのですね」
「ああ。だが、そのあと、私はもっと言った」
嫌な予感がしました。
「何をです?」
「もし評価が低くても、王宮の研究者に見せればよい」
「殿下」
「まだある」
「聞きたくありません」
「質問に答えられなくても、後日正式な説明の場を用意できると言った」
「殿下」
「それから、研究会全体の評価が下がるなら、審査基準を確認すると」
「何を確認するのです?」
「途中研究が不当に低く評価されないよう、公平かどうかを」
「殿下」
「分かっている。今朝になって、少し違う気がした」
殿下は珍しく、自分から問題に気づいていました。
「どのあたりが違うと思ったのですか」
「全部?」
「かなり」
「励ましたかっただけだ」
「はい」
「彼女が怖いと言ったから、怖くなくなるようにしたかった」
「はい」
「でも、私はまた、失敗したあとを全部用意した」
「はい」
「失敗しても私が何とかする。評価が低くても別の場所で評価させる。質問に答えられなくても、後日機会を作る」
「はい」
「それは、彼女を安心させることではない?」
殿下は本気で迷っていました。
私は少し考えてから、ベンチの隣へ腰を下ろしました。
「安心にはなると思います」
「なら、悪くない?」
「ただし、ご令嬢が必要としていた安心と同じかは分かりません」
「違う?」
「ご令嬢は、失敗したときに王太子殿下が全部直してくださる保証を求めていたのでしょうか」
殿下は黙りました。
「おそらく違います」
「では、何を求めていた」
「ただ、不安だと話したかったのかもしれません」
「それだけ?」
「はい」
「怖いと話すだけで、何か変わる?」
「変わることもあります」
殿下は納得しきれないようでした。
「不安は消えない」
「はい」
「怖いままだ」
「はい」
「それでは意味がないのでは?」
「不安を話して、誰かに分かってもらえるだけで、少しだけ抱えやすくなることがあります」
「消さなくても?」
「はい」
風がベンチの足元に落ちていた小さな葉を転がしていきました。
正門の方角からは登校する生徒たちの声が少しずつ増え、朝の静けさがゆっくりと学園の日常へ変わっていきます。
「私は、彼女が不安そうなのが嫌だった」
「はい」
「見ていると、私まで落ち着かなかった」
「はい」
「だから、早く大丈夫だと言いたかった」
「はい」
「それは、彼女のためだけではなかった?」
「少しは、殿下ご自身が安心するためだったと思います」
殿下の表情が止まりました。
「私が?」
「ご令嬢が不安そうだと、殿下も不安になる。だから、すぐに解決策を出して、ご令嬢もご自分も安心したかったのでは?」
殿下は長く黙りました。
「かなり、そうかもしれない」
「はい」
「彼女が怖いと言ったとき、私は、自分が何とかすると答えれば落ち着けると思った」
「はい」
「彼女が?」
「殿下が、です」
「……」
殿下は少しだけ顔を伏せました。
「私はまた、自分の不安を彼女の問題として解決しようとした?」
「少し」
「かなり?」
「少し多めです」
「最近、それが多いな」
「分かったことと、すぐに直せることは別です」
「昨日も聞いた」
「大切なので何度でも言います」
殿下は深く息を吐きました。
「では、彼女が怖いと言ったら、何と答えればよかった」
「分かりません」
「マリア」
「正解は一つではありませんから」
「何かあるだろう」
「例えば、『怖いのですね』と受け止める」
「それだけ?」
「はい」
「そのあと?」
「どのようなところが一番不安なのか聞く」
「それから?」
「一緒にできる準備があるか聞く」
「それから?」
「ご令嬢が一人で考えたいなら待つ」
「また待つ」
「はい」
「大丈夫とは言ってはいけない?」
「言ってもよいと思います。ただ、何を根拠に大丈夫と言っているのかは考えてください」
「私は彼女の研究が面白いと思っている」
「それなら、そう伝えてください」
「成功すると断言せず?」
「はい」
「評価されると保証せず?」
「はい」
「私は面白いと思う。伝えたいことも分かった。だから、聞く人はいると思う。それくらい?」
「かなりよいと思います」
殿下は少し考えました。
「失敗しても大丈夫とは?」
「失敗しても、ご令嬢が考えたことや準備した時間までなくなるわけではない、と伝えるのはどうでしょう」
「失敗を消すのではなく?」
「はい」
「失敗しても残るものがあると伝える?」
「はい」
「……難しい」
「かなり」
「でも、前より分かる」
「はい」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る。全部」
◇
その朝、中央回廊へ入ると、研究会の生徒たちが数人、掲示板の前へ集まっていました。
発表会までの日程表が新しく貼り出されたらしく、準備期間、提出物の締切、当日の持ち時間、質疑応答の時間が細かく記されています。
「発表時間、十分だって」
「短い」
「質疑が五分」
「五分も?」
「答えられるかな」
「練習しないと」
ご令嬢も、その中にいました。
紙へ視線を向けながら、友人と何かを話しています。昨日よりも少し表情が硬く、指先が持っている記録紙の端を何度もなぞっていました。
殿下はその姿を見つけると、すぐに歩調を速めかけました。
しかし、一度止まりました。
「殿下?」
「今、すぐ行こうとした」
「はい」
「彼女が不安そうだったから」
「はい」
「でも、まず様子を見る」
「はい」
研究会の友人がご令嬢へ何かを言い、ご令嬢は小さく頷きました。
話し合いが終わると、殿下は自然な歩調で近づきます。
「おはよう」
ご令嬢が顔を上げました。
「おはようございます、殿下。マリア様も」
「おはようございます」
殿下は掲示へ視線を向けました。
「日程が出た?」
「はい。思っていたより発表時間が短くて」
「十分?」
「はい。それから、質疑応答が五分あります」
「長い?」
「今は、とても長く感じます」
ご令嬢は少し困ったように笑いました。
殿下の口元が動きました。
「大丈夫だ。あなたなら――」
途中で止まります。
私は何も言いません。
殿下は一度息を整えました。
「怖い?」
ご令嬢が少し目を大きくしました。
「……はい」
「何が一番?」
ご令嬢は掲示板へ視線を戻しました。
「質問に答えられないことです」
「研究内容について?」
「それもあります。でも、私たちが気づいていない問題を指摘されて、何も言えなくなったらと思うと」
「恥ずかしい?」
「はい。それに、研究会の皆さんへ迷惑をかけるかもしれません」
殿下は静かに聞いていました。
「昨日、私は大丈夫だと言った」
「はい」
「それから、失敗しても私が何とかすると言った」
ご令嬢が少し笑いました。
「はい。王宮の研究者に見せてくださると」
「審査基準も確認すると言った」
「はい」
「かなり言いすぎた」
ご令嬢の目が少し大きくなりました。
「そうなのですか?」
「ああ。あなたを安心させたいと思った。でも、私自身も安心したかった」
ご令嬢はすぐに答えませんでした。
「殿下ご自身も?」
「あなたが不安そうだと、私も不安になる。だから、私が全部何とかできると言えば、安心できると思った」
「……」
「でも、それではあなたが何を怖いと思っているのか、聞いていなかった」
朝の回廊には多くの生徒が行き交っています。
少し離れた場所では、掲示を見に来た生徒たちが足を止めていますが、殿下は周囲を気にせず、ご令嬢を見ていました。
「だから、聞く。質問に答えられないことが一番怖い?」
「はい」
「なら、答えられない質問が来たとき、どうしたい?」
ご令嬢は少し戸惑いました。
「答えられない質問が来たとき?」
「ああ」
「答えられるように、全部準備するのではなく?」
「全部は無理だと思う」
殿下がそう言うと、ご令嬢の隣にいた研究会の女生徒が少し驚いた顔をしました。
「殿下でも、全部は無理だと思われますか」
「ああ。質問する人が何を聞くかは分からない」
「そうですよね」
ご令嬢は少し考えました。
「分からないと言うしかないと思います」
「それは悪い?」
「発表で、ですか?」
「ああ」
「……恥ずかしいです」
「でも、研究が途中なら、分からないことがあるのは当然では?」
ご令嬢はゆっくり瞬きをしました。
「分からないことを、分からないと答える?」
「ああ。それから、今後調べたいと答える」
「それでもよいのでしょうか」
「私はよいと思う。ただ、決めるのはあなたたちだ」
隣にいた研究会の女生徒が、少し笑いました。
「殿下、最近その言葉を必ずつけますね」
「つけないと、私が決めたことになる」
「噂が広がりますからね」
「もう十分広がっている」
周囲にいた生徒たちから、小さな笑いが起こりました。
ご令嬢も少し笑い、その表情から先ほどまでの硬さがわずかに抜けます。
「分からない質問が来たら、正直に分からないと答える。そのうえで、次に調べたいこととして受け取る」
「はい」
「それなら、少し怖くなくなりました」
殿下の目がわずかに明るくなりました。
「なくなった?」
「少しだけです」
殿下は一瞬、残念そうな顔をしました。
不安を全部消したかったのでしょう。
しかし、すぐに頷きます。
「少しでよい?」
「はい。たぶん、完全に怖くなくなることはないと思います」
「それでも発表する?」
「はい」
「かなり?」
ご令嬢が笑いました。
「かなり」
殿下も少し笑いました。
「なら、私は応援する」
「ありがとうございます」
「必要なら、質問の練習も手伝う」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、必要なら」
ご令嬢は少し考え、隣の友人を見ました。
「研究会で一度練習してから、殿下にも聞いていただきたいです」
「いつ?」
「殿下」
私はすぐに呼びました。
「分かっている。決まったら教えて」
「はい」
◇
ご令嬢たちが教室へ向かったあと、殿下は少しだけ満足そうでした。
「マリア」
「はい」
「今、不安を全部消さなかった」
「はい」
「少ししか減らなかった」
「はい」
「でも、彼女はそれでよいと言った」
「はい」
「私は、もっと安心させたかった」
「はい」
「完全に大丈夫だと笑ってほしかった」
「はい」
「でも、怖いままでも発表すると言った」
「はい」
殿下は先ほどまでご令嬢が立っていた場所を見ました。
「それは強い?」
「かなり」
「私が強くしたわけではない?」
「はい」
「彼女が、自分で怖いまま進むと決めた?」
「はい」
「……」
「殿下」
「少し寂しい」
「なぜです?」
「私が不安を消したかった」
「はい」
「でも、消せなかった」
「消す必要がなかったのです」
「分かっている」
殿下は少し困ったように笑いました。
「でも、少し役に立った?」
「はい」
「話を聞きました」
「はい」
「分からないと答えてよいかもしれないと、一緒に考えました」
「はい」
「それで十分?」
「十分です」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
◇
昼休みになると、研究発表会の質疑応答について、新しい噂が食堂へ広がっていました。
「聞いた?」
「王太子殿下が、発表会で答えられない質問を禁止するんだって」
「何それ」
「研究会の人が困らないように」
「質問は事前提出になるらしい」
「王宮が確認するって」
「審査員も発言制限されるとか」
「そんなわけないだろ」
「でも殿下なら」
「しない!」
食堂の中央近くで、殿下の声が響きました。
周囲の生徒たちが一斉に振り返ります。
「殿下」
「何だ」
「反応しないでください」
「無理だ。質問を禁止してどうする」
同じ長机に座るハインツ様が、面白そうに殿下を見ました。
「では、事前提出もしない?」
「しない」
「王宮による審査も?」
「しない」
「不適切な質問をした者を退学に?」
「誰がそこまで言った!」
周囲から笑いが起こりました。
「殿下が朝、ご令嬢へ『分からない質問が来てもよい』と話したことが、どうしてこうなったのでしょうね」
「私は、分からなければ分からないと答えてよいと言っただけだ」
「かなり健全な助言です」
「そうだろう」
「ただし、昨日は審査基準を確認しようとした」
「今朝、やめると決めた」
「本当に?」
「ああ」
ハインツ様は少し真面目な顔になりました。
「殿下は、ご令嬢が不安そうにしていると、ご自分も不安になるのですね」
「マリアにも言われた」
「そして、すぐに安心させたくなる」
「ああ」
「王太子としては、危険かもしれません」
「なぜ」
「誰かが不安を訴えるたびに、その不安をなくすため制度や結果を変えていたら、公平ではなくなります」
殿下の表情が少し引き締まりました。
「例えば、試験前に不安だと言う生徒は多いでしょう」
「ああ」
「その不安を消すため、全員を合格にしますか」
「しない」
「発表で低い評価を受けるのが怖いと言われたら、全員へ高い評価をつけますか」
「しない」
「では、好きなご令嬢だけは?」
殿下は黙りました。
周囲の生徒たちも、少しだけ聞き耳を立てているようでした。
「……それも、してはいけない」
「はい」
「彼女が不安だからといって、評価そのものを変えてはいけない」
「はい」
「私ができるのは、準備を手伝うことまで」
「必要なら」
「分かっている」
「それから、結果がどうであっても、その後も話を聞くことです」
殿下は少し考えました。
「失敗を消すのではなく、失敗したあとも隣にいる?」
「はい」
「それなら、私にもできる」
「かなり」
「褒める?」
「まだ実際に失敗していません」
「厳しいな」
◇
その日の放課後、研究会では初めての発表練習が行われました。
まだ展示板は完成しておらず、机の上には記録紙と三鉢の植物、簡単な図だけが置かれています。説明役はご令嬢を含めて三人で、発表の順番も仮のものです。
「それでは、始めます」
研究会代表の合図で、ご令嬢が机の前へ立ちました。
部屋の中には十人ほどの会員が座っています。
殿下は呼ばれていません。
まずは、自分たちだけで練習すると決めたからです。
「私たちは、同じ種類の植物を異なる条件で育て、葉の向きや成長速度にどのような違いが生じるかを観察しました」
ご令嬢は落ち着いた声で話し始めました。
しかし、二分ほど経つと、一度言葉が止まります。
「ええと、次は……」
「温度の記録」
後ろにいた会員が小さく助けました。
「ありがとうございます。温度の記録についてですが――」
そのあとも、何度か言葉が詰まりました。
図を指す位置を間違え、説明の順番が前後し、予定していた十分を超えてしまいます。
発表が終わると、部屋には少し重い沈黙が落ちました。
「長かったね」
「十二分くらい」
「途中で説明が重なってる」
「図が小さい」
「質問まで入れたら、かなり厳しい」
ご令嬢は記録紙を両手で持ったまま、少し俯きました。
「やっぱり、難しいですね」
「最初だから」
「でも、何を削る?」
「結果を減らす?」
「目的を短くする?」
「途中経過を見せたいのに、削りすぎると伝わらない」
会員たちは話し合いを始めました。
不安は消えていません。
むしろ、一度練習したことで、具体的な問題がいくつも見えてきました。
「殿下に聞いてもらう?」
一人が言いました。
ご令嬢はすぐに答えませんでした。
「まだ早い?」
「もう少し自分たちで直す?」
「でも、外の人がどう聞くか知りたい」
「殿下は研究会員じゃないから、分かりにくいところを聞けるかも」
「普通の生徒より知識がありすぎるけど」
「そこはある」
少し笑いが起きました。
ご令嬢は考えたあと、ゆっくり頷きます。
「明日、お願いしてみます」
◇
翌朝、ご令嬢はいつもの中央回廊ではなく、校舎裏へ来ました。
殿下と私がベンチで話しているところへ、一人で歩いてきます。
「おはようございます」
殿下はすぐに立ち上がりました。
「おはよう。どうした?」
「少し、お願いがありまして」
「何でも――」
殿下は一度止まりました。
「できる範囲で」
ご令嬢が少し笑います。
「昨日、研究会で発表の練習をしました」
「ああ」
「うまくいかなかった?」
「かなり」
殿下の表情が変わりました。
「何が?」
「時間を超えました。途中で言葉も止まりましたし、図も分かりにくくて」
「大丈夫だ」
殿下はすぐに言いました。
ご令嬢が少し目を大きくします。
殿下も、自分で気づいたようでした。
「いや」
「はい?」
「今の大丈夫は、全部私が何とかするという意味ではない」
ご令嬢の口元が少し緩みました。
「最初の練習なら、うまくいかないこともあると思う。問題が分かったなら、次に直せる」
「はい」
「それで、私に何をしてほしい?」
ご令嬢の表情が少し柔らかくなりました。
「一度、発表を聞いていただけませんか」
「私が?」
「はい。研究会の皆だけでは、内容を知っているので、分かりにくい部分に気づけないんです」
「私も少し知っている」
「はい。でも、研究会員ではありません。それに、殿下なら質問もかなりされると思うので」
「かなり?」
「かなり」
殿下は少し嬉しそうでした。
「いつ?」
「今日の放課後、お時間はありますか」
「ある」
「殿下」
私は呼びました。
「確認してから答えますか?」
「今日は生徒会がある」
「はい」
「一時間ほどだ」
「はい」
「そのあとなら」
ご令嬢が頷きました。
「では、研究会室で待っています」
「ああ」
「ただし」
「何だ」
「答えを全部教えないでくださいね」
殿下が少し目を大きくしました。
「私は、分かりにくかったところと、聞きたいことを知りたいです」
「ああ」
「発表を殿下に作っていただきたいわけではありません」
「分かっている」
ご令嬢は少し安心したように笑いました。
「では、お願いします」
「ああ」
ご令嬢が去ったあと、殿下は私へ振り返りました。
「マリア」
「はい」
「頼まれた」
「はい」
「発表を聞いてほしいと」
「はい」
「質問もしてほしいと」
「はい」
「かなり嬉しい」
「はい」
「でも、答えを全部教えるなと言われた」
「はい」
「信頼されている?」
「かなり」
「止められてもいる?」
「かなり」
「褒める?」
「まだ何もしていません」
「厳しい」
◇
放課後の研究会室には、いつもより多くの椅子が並べられていました。
殿下と私は一番後ろへ座ります。
殿下の隣には、呼ばれてもいないハインツ様がいました。
「なぜいる」
「生徒会が同じ時間に終わりましたので」
「帰れ」
「殿下が研究発表の練習を聞くと知りまして」
「誰から」
「殿下ご自身です」
「……言ったな」
「はい」
研究会員たちから小さな笑いが起こりました。
「ハインツ様にも聞いていただけるなら、助かります」
代表が言うと、ハインツ様は穏やかに頭を下げます。
「必要な範囲で意見を述べます」
「マリアが増えた」
「光栄です」
「褒めていない」
空気が少し柔らかくなったところで、練習が始まりました。
ご令嬢が前へ立ちます。
昨日の失敗を受けて、説明の順番は少し整理されていました。最初に研究の目的を短く伝え、次に三鉢の植物が置かれた条件を示し、それから葉の向きと成長速度の違いを説明します。
「私たちは、同じ種類の植物であっても、光や温度、鉢を動かす時刻の違いによって、成長に変化が生じるのではないかと考えました」
声にはまだ緊張がありました。
最初の一分は順調です。
しかし、温度の記録へ入るところで、ご令嬢は一度言葉に詰まりました。
「こちらの記録は、ええと……」
殿下の身体がわずかに前へ動きます。
私は何も言いません。
ご令嬢は記録紙を見て、自分で続きを探しました。
「観察開始から三日目までの温度差を示したものです」
殿下は口を挟みませんでした。
その後も一度、図を指す順番を間違えましたが、ご令嬢は自分で言い直しました。
発表は十一分ほどで終わります。
「以上です」
室内へ拍手が起こりました。
ご令嬢は少し息を吐き、殿下を見ました。
「どうでしたか」
殿下はすぐに答えませんでした。
机の上には、何も書かれていない紙があります。
会話候補も、完成した構成案もありません。
「最初に、面白かった」
ご令嬢の表情が少し明るくなりました。
「本当ですか?」
「ああ。三鉢の違いは分かりやすかった」
「はい」
「ただ、温度の記録に入るところで、なぜ温度を調べたのかが少し分からなかった」
ご令嬢と研究会員たちが、同時に資料へ視線を落としました。
「光の量だけでは説明できない違いがあったから、温度も調べたのですよね」
「ああ。それを先に言えば分かりやすいと思う」
代表が黒板へ書き込みます。
「他には?」
殿下は少し考えました。
「図が遠い」
「やはり小さいですか」
「ああ。後ろからだと葉の角度が見えない」
「大きく描き直す?」
「線を太くするだけでもよいかも」
研究会員たちが話し合いを始めました。
殿下はその声へ、自分の意見を重ねません。
「質問はありますか?」
ご令嬢が聞きました。
「ある」
「お願いします」
「三鉢のうち、一つだけ葉の向きが大きく違うが、同じ条件で育てた別の鉢でも同じ結果が出た?」
ご令嬢は止まりました。
研究会員たちも資料を見ます。
「……まだ、確認できていません」
「ああ」
「それは問題でしょうか」
殿下は一瞬、「大丈夫だ」と言いかけたようでした。
けれど、言葉を変えます。
「私は気になった」
「はい」
「だから、発表で聞く人もいるかもしれない」
「はい」
「どう答えたい?」
ご令嬢は少し考えました。
「現時点では一鉢だけの結果なので、同じ条件で再確認する必要がある、と答えます」
「よいと思う」
「分からないことを、分からないと?」
「ああ。それから、次に何を調べるかを言う」
ご令嬢はゆっくり頷きました。
「昨日、話したことですね」
「ああ」
「少し怖いです」
「はい」
殿下は、すぐに不安を消そうとしませんでした。
「でも、答えられそう?」
「はい。今なら」
「なら、かなりよい」
ご令嬢が少し笑いました。
「かなり?」
「かなり」
◇
その後、ハインツ様と私もいくつか質問しました。
専門的な内容ではなく、発表を初めて聞く人間として分かりにくかった部分を伝えます。
「鉢を動かした時刻は、なぜ三種類なのですか」
「朝、昼、夕方で、光の入り方が違うからです」
「それは最初に説明されると、より分かりやすいと思います」
「はい」
「温度の差は、どの程度から影響があると考えていますか」
「まだ分かりません」
「それも今後の課題ですね」
「はい」
質問が続くたび、ご令嬢は時々言葉へ詰まりました。
けれど、以前のように顔を伏せません。
「分かりません」
「そこまでは調べられていません」
「次に確認したいと思います」
少しずつ、正直に答えられるようになっていきます。
殿下はそのたびに、何かを言い足したそうな顔をしました。
ご令嬢の代わりに説明できることもあったでしょう。
王宮の資料を使えば、似た研究の答えを示せたかもしれません。
それでも、口を挟みませんでした。
練習が終わったあと、研究会員たちはすぐに修正点を話し合い始めます。
「説明の順番を変えよう」
「図は描き直す」
「答えられなかった質問も記録して」
「次の観察項目に入れる」
ご令嬢は殿下のところへ来ました。
「ありがとうございました」
「ああ」
「かなり助かりました」
「私は質問しただけだ」
「その質問が必要だったんです」
殿下は少し嬉しそうにしました。
「受け取る」
「はい?」
「いや」
ご令嬢は少し笑いました。
「殿下」
「何だ」
「私、まだ不安です」
殿下の表情がわずかに変わりました。
「まだ?」
「はい。今日も何度か止まりましたし、答えられない質問もありました」
「ああ」
「でも、昨日よりは少しだけ、何をすればよいか分かりました」
殿下は静かに聞いています。
「不安がなくなったわけではありません」
「ああ」
「でも、不安だから、もう一度練習したいです」
殿下は少しだけ笑いました。
「それなら、かなりよい」
「はい」
「私は、不安を全部なくさなくてよい?」
「はい」
「あなたが怖いと言ったら、聞く?」
「はい」
「必要なら練習を手伝う?」
「はい」
「それだけ?」
「それだけで、かなり助かります」
殿下はしばらく黙りました。
「分かった」
「ありがとうございます」
「次も聞く?」
「殿下」
ご令嬢が少し笑いました。
「研究会で直してから、またお願いしてもよろしいですか」
「ああ。決まったら教えて」
「はい」
◇
研究会室を出ると、夕方の廊下には淡い橙色の光が伸びていました。
窓の外では部活動を終えた生徒たちが片づけを始め、遠くから木剣をまとめる音や、道具を運ぶ掛け声が聞こえています。
「マリア」
「はい」
「今日、彼女はまだ不安だと言った」
「はい」
「私は、一瞬、かなり残念だった」
「なぜです?」
「私は役に立ったのに、不安が消えていなかったから」
「はい」
「でも、そのあと彼女は、不安だからもう一度練習したいと言った」
「はい」
「不安が、次に進む理由になっていた」
「はい」
「私が全部消していたら?」
「練習する理由も、少し弱くなっていたかもしれません」
殿下は廊下の先を見ました。
「怖くても進むことがある」
「はい」
「不安だから準備することもある」
「はい」
「なら、不安は全部悪いものではない?」
「はい」
「私は、彼女が怖いままなのを見るのがつらい」
「分かります」
「でも、すぐに消そうとしない」
「はい」
「話を聞く」
「はい」
「必要なら手伝う」
「はい」
「結果は変えない」
「はい」
「失敗しても、あとで話を聞く」
「はい」
殿下は少し考え、穏やかに笑いました。
「それなら、できそうだ」
「かなり」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る。全部」
◇
翌朝、学園ではまた新しい噂が広がっていました。
王太子殿下が研究会の発表練習へ参加した。
殿下の質問に答えられなかった生徒がいた。
研究会は王宮の審査を受けている。
発表内容が王太子基準へ達しなければ、発表会へ出られない。
「誰が出場を決める!」
中央回廊に殿下の声が響きました。
「殿下」
「何だ」
「また反応しましたね」
「私は質問しただけだ。審査などしていない」
「はい」
「彼女たちが発表することは、もう決まっている」
「はい」
「私が止めることもない」
「はい」
「評価もしない」
「当日は聞くでしょう?」
「聞く。かなり」
「では、その程度で」
周囲の生徒たちが、小声で話しています。
「殿下が練習を聞いたのは本当なんだ」
「質問もしたって」
「答えられなかったらしい」
「でも、それを次に調べるんでしょ」
「研究って、そういうものか」
「少し見たくなってきた」
噂の中には、間違いだけではなく、本当のことも少しずつ混じり始めていました。
途中の研究。
答えられない質問。
失敗した記録。
それでも発表する。
その話に興味を持つ生徒も増えているようです。
「マリア」
「はい」
「結果として、見に来る人が増える?」
「かもしれません」
「それはよい?」
「研究会が望んでいるなら」
「聞く?」
「はい」
「私が宣伝する?」
「まだ頼まれていません」
「分かっている」
殿下は少しだけ残念そうでした。
◇
数日後、研究会は二度目の発表練習を行いました。
今度も殿下と私、ハインツ様が後ろへ座ります。
図は大きく描き直され、説明の順番も整理されていました。質疑応答で答えられなかった内容は、今後の課題として最後に加えられています。
発表時間は九分四十秒。
前回より短くなりました。
ご令嬢が途中で止まることも、一度だけです。
「現時点では、同じ条件での再確認が一度しかできていません。そのため、この違いが必ず起こるとはまだ言えません」
前回なら、不安そうに言葉を濁していたところです。
今回は、分からない範囲を自分の言葉で説明しました。
「今後は、鉢の数を増やして確認したいと考えています」
発表が終わると、部屋の中へ大きな拍手が起こりました。
ご令嬢は少し緊張した顔のまま、それでも嬉しそうに笑いました。
「殿下、どうでしたか」
殿下はすぐには答えませんでした。
昨日までなら、完璧だ、大丈夫だ、必ず成功すると言っていたかもしれません。
「前より、かなり分かりやすかった」
「はい」
「図も見えた」
「はい」
「分からないことを、そのまま言えていた」
「はい」
「私は、面白いと思った」
ご令嬢の表情が柔らかくなりました。
「ありがとうございます」
「でも、当日どう評価されるかは分からない」
部屋が少し静かになりました。
ご令嬢は殿下を見ています。
「質問も、今日とは違うものが来ると思う」
「はい」
「止まるかもしれない」
「はい」
「それでも、私は見たい」
殿下は静かに言いました。
「あなたたちが、今分かっていることをどう伝えるのか。分からないことを、どう次へつなげるのか。それを見たい」
ご令嬢はしばらく何も言いませんでした。
「殿下」
「何だ」
「今、少し不安になりました」
「……」
殿下の顔がわずかに曇りました。
けれど、ご令嬢はすぐに笑いました。
「でも、嬉しいです」
「なぜ?」
「成功すると約束されたのではなく、見たいと言っていただけたからです」
殿下は少し目を大きくしました。
「私は、結果ではなく、あなたたちの発表を見たい」
「はい」
「それでよい?」
「かなり」
殿下が笑いました。
「なら、受け取る」
◇
誰かの不安を見つけたとき、すぐに消してあげたくなることがあります。
大丈夫。
成功する。
失敗しても自分が何とかする。
そう言えば、相手の顔は少し明るくなるかもしれません。
けれど、不安をなくすことだけが、支えることではありません。
怖いと話す声を聞く。
何が怖いのか、一緒に考える。
準備できることがあれば、必要な分だけ手伝う。
そして、怖さが残っていても、自分で進もうとする相手を見守る。
王太子殿下は、ご令嬢の発表への不安をすべて消そうとしました。
評価が低ければ王宮の研究者に見せる。
質問に答えられなければ、別の説明の場を作る。
審査が不公平なら、基準を確認する。
使える力をすべて使えば、ご令嬢の失敗をなくせると思ったのです。
でも、ご令嬢が求めていたのは、失敗しない保証ではありませんでした。
怖いと話したときに、聞いてくれる人。
分からない質問が来ても、分からないと答えてよいのだと、一緒に考えてくれる人。
練習を聞き、分かりにくかったところを伝えてくれる人。
それだけでも、十分でした。
不安は、完全にはなくなりませんでした。
けれど、ご令嬢は不安が残ったまま、もう一度練習しました。
怖いから準備をした。
答えられなかったから調べた。
失敗したくないから、自分たちで話し合った。
その時間は、誰かが不安を消してしまったら得られなかったものかもしれません。
王太子殿下。
大切な人が不安そうだからといって、何もかも大丈夫にしてしまわなくてよいのです。
不安なままでも、その人は進めます。
その隣で、必要なときに話を聞く。
転びそうなら手を差し出す。
転ばないよう道そのものを作り替えるのではなく、転んだあとにもそこにいる。
それも、十分に相手を支えることです。
ですから殿下。
発表会当日、ご令嬢が緊張しないよう、客席の生徒を全員王宮の侍従へ入れ替える案は却下です。
見知った顔だけなら安心するだろう、という問題ではありません。
審査員へ「できるだけ優しい質問を」と事前に頼むのも駄目です。
それから、質問に答えられなかった場合に備えて、殿下が客席からすべて代わりに答える準備をするのもおやめください。
その手に持っている「想定質問百二十七項目」は、かなり怪しいです。
本当にお願いします。




