第84話 王太子殿下、手伝いたい気持ちだけで相手の役目を奪わない
誰かが大切なことへ挑もうとしているとき、手伝いたいと思うのは自然なことです。
困っていないだろうか。準備は足りているだろうか。自分にできることがあるなら、少しでも負担を減らしたい。
それが好きな人なら、なおさらでしょう。
けれど、手伝うことと、相手の役目を代わりに引き受けることは同じではありません。
資料が必要なら、自分がすべて集める。
発表の構成に迷っているなら、自分が完成させる。
人手が足りないなら、自分の権限で人を増やす。
それをすれば、確かに準備は早く進むかもしれません。完成度も高くなるでしょう。
しかし、その発表は誰のものなのでしょう。
研究会の生徒たちが考え、迷い、失敗しながら作るはずだったものを、王太子殿下の力で隙のない形に仕上げてしまったら、それはもう研究会の発表とは呼びにくくなります。
助けることで相手の負担を減らせても、同時に、その人が自分で成し遂げる機会まで奪うことがあります。
王太子殿下は前日、好きなご令嬢から研究発表の相談を受けました。
殿下は答えを決めず、ご令嬢自身が何を伝えたいのかを聞きました。そして、ご令嬢と研究会の皆さんは、自分たちの意思で、まだ完成していない植物研究を発表することに決めました。
とても立派なことです。
殿下も、研究会も。
問題は、その翌朝でした。
◇
「マリア」
「はい」
「今日は相談ではない」
「おはようございます」
「おはよう」
「自然でしたね」
「最近、それを先に言わなければ話が進まないと学んだ」
「かなり成長しました」
「受け取る」
「まだ褒めていません」
「今のは違うのか」
「挨拶については褒めました」
「なら受け取る」
朝の校舎裏には、少し強い風が流れていました。
空はよく晴れていましたが、雲の動きは速く、木々の枝が揺れるたびに細かな葉の影が芝生の上を行き来しています。いつもの木製ベンチの足元には、昨夜落ちたらしい小枝が何本か転がり、遠くからは校庭を整備する用務員たちの声が聞こえていました。
殿下はベンチへ座っています。
今日は冊子を持っていません。
二十七箇所の研究施設一覧もありません。
代わりに、ベンチの横へ大きな木箱が置かれていました。
「殿下」
「何だ」
「今日は相談ではないとおっしゃいましたね」
「ああ」
「では、その箱は?」
「研究発表に使えそうなものだ」
私は目を閉じました。
「何が入っているのですか」
「まだ開けていない」
「殿下が持ってきたのに?」
「王宮の倉庫から運ばせた」
「何をです?」
「展示用の布、支柱、記録紙を貼る板、照明器具、携帯式の保温魔道具。それから、観察対象を安全に運ぶための固定箱だ」
「かなり入っていますね」
「ああ」
「何人で運びました?」
「六人」
「もう手伝っています」
「まだ渡していない」
「持ってきた時点で、かなり始まっています」
殿下は少し不満そうに木箱を見ました。
「研究会は、発表する内容を決めた」
「はい」
「なら次は準備だ」
「はい」
「必要なものが多い」
「はい」
「だから、使えそうなものを用意した」
「研究会から頼まれましたか?」
「まだだ」
「では、なぜ持ってきたのです?」
「昨日、頼られたからだ」
「昨日頼られたのは、発表内容についてのご意見です」
「だが、また困ったら相談すると言われた」
「はい」
「準備で困る可能性は高い」
「はい」
「なら、困る前に――」
「殿下」
殿下は言葉を止めました。
最近、同じところで何度も止められていることに、ご自分でも気づいたのでしょう。
「また先回り?」
「かなり」
「だが、昨日とは違う」
「どこがです?」
「今回は、彼女たちが発表をすると決めた。必要なものが出ることは確実だ」
「何が必要かは、研究会が決めます」
「展示用の板は必要だろう」
「研究会にあるかもしれません」
「保温魔道具は?」
「使わないかもしれません」
「照明は必要では?」
「発表方法によります」
「固定箱は?」
「植物を運ばない可能性もあります」
殿下は黙りました。
木箱は大きく、重く、いかにも役に立ちそうでした。
だからこそ困ります。
それを見せられた側は、必要ではないと言いにくくなるからです。
「殿下」
「何だ」
「これを研究会へ持っていったら、皆さんはどう思うでしょう」
「助かる」
「それだけでしょうか」
「他に何がある」
「王太子殿下が自分たちのために王宮から運んできたものを、使わないとは言いづらいと思います」
殿下の目が少し動きました。
「必要なくても?」
「はい」
「使いたくなくても?」
「はい」
「断ればよい」
「殿下は簡単におっしゃいますが、相手は王太子です」
「またそれか」
「何度でも言います」
殿下は腕を組みました。
「私は、無理に使わせるつもりはない」
「殿下にそのつもりがなくても、周囲は気を遣います」
「では、私は何も持っていけない?」
「そうは言っていません」
「何ならよい」
「先に聞いてください」
「何を?」
「何か手伝えることはありますか、と」
殿下は、明らかに不満そうでした。
「それでは遅くなる」
「はい」
「彼女たちが必要なものを考え、私へ相談し、それから王宮へ確認する。時間がかかる」
「はい」
「今ここにある」
「はい」
「使えば早い」
「はい」
「なら使ったほうがよいのでは?」
殿下の言っていることは、効率だけを考えれば正しいのです。
すでにあるものを使う。必要になりそうなものを先に準備する。時間を無駄にしない。
王太子としては、とても正しい考え方なのでしょう。
けれど、恋愛と学生の研究発表会は、国政ではありません。
「殿下は、発表を早く完成させたいのですか」
「ああ」
「なぜ?」
「彼女が困らないように」
「他には?」
「よい発表になってほしい」
「他には?」
殿下は少し黙りました。
「……彼女が喜ぶと思った」
「はい」
「役に立ったと、思ってほしい」
「はい」
風が木箱の上に落ちていた葉を吹き飛ばしました。
殿下はそれを目で追い、やがて小さく息を吐きます。
「私はまた、自分が役に立ったと思いたい?」
「少し」
「かなり?」
「少し多めです」
「昨日、分かったばかりなのに」
「分かったことと、すぐできることは別です」
「褒める?」
「今は褒める場面ではありません」
「厳しい」
殿下は木箱へ手を置きました。
「では、これは戻す?」
「はい」
「全部?」
「はい」
「一つも見せない?」
「必要なものを聞いてからです」
「彼女たちが、何が必要か分からなかったら?」
「一緒に考えてください」
「そのとき、私が候補を出す?」
「はい」
「全部ではなく?」
「必要そうなものを少しずつ」
「二十七個ではなく?」
「今回は二十七個もあるのですか」
「四十二」
「増えていますね」
殿下は少しだけ目を逸らしました。
「展示方法を考えると増えた」
「王宮へ戻してください」
「……分かった」
そう答えた声は、かなり残念そうでした。
「マリア」
「はい」
「私は、手伝ってはいけないわけではない?」
「もちろんです」
「ただし、先に役割を聞く?」
「はい」
「相手が自分でやりたい部分は任せる?」
「はい」
「私に頼まれた部分だけ手伝う?」
「はい」
「頼まれた以上のことは?」
「勝手にしない」
「かなり難しい」
「でも、できると思います」
「かなり?」
「かなり」
殿下は少しだけ表情を緩めました。
「褒める?」
「木箱を戻してからです」
◇
木箱は、本当に王宮へ戻されました。
殿下が指示すると、少し離れた場所で待機していた侍従たちが現れます。
その数は六人でした。
用務員ではありません。
全員、王宮から来た人たちです。
「殿下」
「何だ」
「最初から、この人たちはどこに?」
「木の向こう」
「待たせていたのですか」
「箱が重いからな」
「研究会へ運ぶつもりだったのですね」
「……可能性としては」
「かなり高い可能性ですね」
侍従たちは無表情を保っていましたが、そのうちの一人が、ほんの少しだけ視線を下へ落としました。笑いをこらえたのかもしれません。
「王宮へ戻せ」
「かしこまりました」
六人が木箱を持ち上げます。
重そうでした。
「殿下」
「何だ」
「保温魔道具は、どのくらい入っているのです?」
「十個」
「なぜ十個も?」
「植物が何鉢あるか分からなかった」
「そこから確認してください」
「分かっている」
木箱が校舎裏から運び出されていきます。
途中、登校してきた生徒たちが足を止めました。
「何、あれ」
「王宮の紋章?」
「大きい」
「研究会の?」
「また殿下?」
「静かに」
小さな囁きが広がります。
殿下はその声を聞き、少し苦い顔をしました。
「まだ渡していないのに、噂になる」
「王宮から大きな箱を六人で運べば、当然です」
「中身は言っていない」
「今日の昼には、研究所一棟が入っていたことになっているかもしれません」
「入るわけがない!」
「噂ですから」
◇
中央回廊へ入ると、ご令嬢は研究会の友人二人と歩いていました。
昨日よりも表情が明るく、手には何枚かの記録紙があります。三人は発表について話しているようで、こちらへ気づくまで、かなり真剣に意見を交わしていました。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」
「マリア様も、おはようございます」
「おはようございます」
ご令嬢は殿下を見て、少し笑いました。
「昨日はありがとうございました」
「何が?」
「資料のことです。研究会の皆さんにも見せました」
「役に立った?」
「はい。かなり」
殿下の目元がわずかに緩みました。
「受け取る」
「はい?」
「いや、何でもない」
ご令嬢の隣にいた女生徒が、少し興奮した様子で口を開きます。
「殿下、私たち、今の植物研究を発表することに決めました」
「聞いた」
「昨日、かなり話し合ったんです」
「意見は分かれた?」
「はい。でも、最後は皆で決めました」
「そうか」
殿下はそこで、言葉を止めました。
懐へ手を入れません。
紙も出しません。
四十二個の展示候補も、王宮から持ってきた道具の話もしません。
「準備は、これから?」
「はい」
ご令嬢が少し困ったように笑いました。
「実は、何から始めるか、まだまとまっていなくて」
殿下の目が一瞬だけ明るくなりました。
手伝える。
そう思ったのでしょう。
「では――」
殿下は言いかけ、私を見ました。
私は何も言いません。
「何か、私に手伝えることはある?」
ご令嬢と友人二人が、少し驚いたように顔を見合わせました。
「殿下に、ですか?」
「ああ」
「でも、お忙しいのでは」
「忙しいが、少しならできる」
「王太子殿下にお願いするようなことは」
「王太子に頼むのではなく、私に頼んでよい」
周囲を歩いていた生徒たちの足が少し緩みました。
殿下は自分の言葉が少し大きかったことに気づいたのか、声を落とします。
「ただし、必要なら」
ご令嬢はすぐには答えませんでした。
友人たちも、何を頼んでよいか迷っているようです。
「今は、まだ分かりません」
ご令嬢が正直に答えました。
「そうか」
「何をどう展示するかも、これから話し合うところで」
「ああ」
「ですから、もし本当に困ったら、そのときお願いしてもよろしいですか」
殿下は一瞬だけ残念そうな顔をしました。
しかし、すぐに頷きます。
「分かった」
「ありがとうございます」
「私は、今日何もしない?」
「はい?」
「いや。確認しただけだ」
ご令嬢が少し笑いました。
「今日は、自分たちで考えてみたいです」
「ああ」
その返事は、少しだけ寂しそうでした。
けれど、嫌そうではありませんでした。
「では、何か決まったら教えて」
「はい」
「相談が必要なら?」
「お願いします」
「分かった」
◇
ご令嬢たちが教室へ向かうと、殿下はしばらく黙っていました。
「殿下」
「何だ」
「どうでした?」
「断られた」
「違います」
「今日は手伝わなくてよいと言われた」
「自分たちで考えたいとおっしゃったのです」
「同じでは?」
「かなり違います」
殿下は回廊の先を見つめました。
「私は必要ではなかった?」
「今は、です」
「今は?」
「はい」
「あとで必要になるかもしれない?」
「はい」
「なら、待つ?」
「はい」
殿下は息を吐きました。
「また待つ」
「最近は上手になりましたね」
「私は待つために王太子になったのではない」
「誰もそのようなことは言っていません」
「だが、恋愛では待ってばかりだ」
「かなり」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
殿下は少しだけ笑いました。
その直後、向こうからハインツ様が歩いてきます。
「殿下」
「何だ」
「今朝、王宮から大きな箱を運び込んだそうですね」
「なぜ知っている」
「六人の侍従が運んでいましたから」
「もう戻した」
「何が入っていたのです?」
「研究発表に使えそうな道具だ」
「頼まれたのですか?」
「マリアと同じことを言うな」
「では、頼まれていないのですね」
「……ああ」
「戻した?」
「ああ」
「かなり成長しましたね」
「褒める?」
「少し」
「なぜマリアより少ない」
「持ってきた時点で減点です」
「厳しい!」
◇
昼休みの食堂では、すでに木箱の噂が広がっていました。
王宮から研究会へ巨大な展示装置が贈られた。
植物研究のために移動式温室が運び込まれた。
王太子殿下が、発表会当日に王宮庭園をそのまま再現する。
「誰が王宮庭園を運ぶ!」
殿下の声が響き、周囲の生徒たちが一斉に振り返りました。
「殿下」
「何だ」
「反応しないでください」
「無理だ。庭園は運べない」
「そこではありません」
同じ長机に座るハインツ様が、笑いをこらえながらスープを飲みます。
「現在、一番大きな噂では、王宮の温室が研究棟の中庭へ移築されるそうです」
「されない!」
「殿下が四十種類以上の展示道具を用意したという話も」
「四十二だ」
「殿下」
私は額へ手を当てました。
「今、正しい数を教えてどうするのです」
「間違っていたから」
「噂に情報を与えないでください」
周囲の生徒たちから、小さな笑いが起こります。
「四十二だって」
「本当に用意したんだ」
「でも戻した?」
「何で?」
「研究会に断られた?」
「違う!」
殿下がまた反応しました。
「断られたのではない。まだ必要なものが決まっていないから、先に持っていくのをやめただけだ」
「殿下、詳しく説明しすぎです」
「事実を言っている」
「その事実がまた広がります」
「では黙れと?」
「はい」
「かなりつらい」
近くの席にいた一年生の女生徒が、友人へ小声で言いました。
「でも、殿下、ちゃんと戻したんだね」
「前なら、そのまま置いていきそう」
「研究会も困るもんね」
殿下にも聞こえたようでした。
少しだけ表情が変わります。
「マリア」
「はい」
「今のは褒めている?」
「はい」
「受け取ってよい?」
「はい」
「受け取る」
ハインツ様が笑いました。
「最近、受け取るのが早くなりましたね」
「よいことは早く受け取る」
「では、悪いことも早く認めてください」
「厳しい!」
◇
放課後、殿下は研究棟へ向かいませんでした。
朝、ご令嬢から「今日は自分たちで考えてみたい」と言われたからです。
代わりに、生徒会室で書類を処理しています。
しかし、集中しているとは言い難い状態でした。
「殿下」
「何だ」
「今、窓を見ましたね」
「外が明るかった」
「研究棟の方向です」
「偶然だ」
「十分で七回目です」
「数えるな」
書記の女生徒たちが、机へ視線を落としたまま笑いをこらえています。
殿下は一枚の申請書を読み終え、次の書類を手に取りました。
「ハインツ」
「はい」
「研究発表会の準備は、通常どのくらいかかる」
「規模によります」
「一か月で足りる?」
「十分でしょう」
「人手は?」
「研究会の人数次第です」
「足りなければ?」
「学園内で協力を募るのでは?」
「私が募る?」
「研究会に頼まれたら」
「またそれか」
「殿下」
ハインツ様が少し笑いました。
「そんなに手伝いたいのですか」
「ああ」
「なぜ?」
「彼女が頑張っているからだ」
「はい」
「役に立ちたい」
「はい」
「それから」
殿下は一度、手元の書類へ視線を落としました。
「彼女が、自分たちで作った発表を成功させたいと思っている。だから、そのためにできることがあればしたい」
「では、その発表が誰のものかは分かっていますね」
「ああ。研究会のものだ」
「殿下のものではない?」
「ああ」
「王宮のものでもない?」
「ああ」
「なら、頼まれていない部分へ入りすぎないことです」
「分かっている」
「本当に?」
「箱は戻した」
「かなり偉いです」
「褒める?」
「少し」
「また少し!」
生徒会室に笑いが広がりました。
◇
同じ頃、研究会では発表準備の最初の会議が行われていました。
中央の大きな机には、観察記録、過去の発表資料、植物の絵、測定結果を書いた紙が何枚も広げられています。窓際には実際に研究中の鉢が並び、傾きの違う葉が夕方の光を受けていました。
「まず、何を見せる?」
「研究の目的」
「結果」
「でも結果が少ない」
「だから途中経過」
「言葉だけだと分かりにくい」
「実物を持ってくる?」
「何鉢?」
「全部は無理」
意見は次々に出ます。
研究会の代表が黒板へ項目を書き、別の生徒が必要なものを記録しました。
「実物を三鉢」
「観察記録の写し」
「温度の変化を表にする」
「葉の傾きを絵で」
「説明役は?」
「一人では無理」
「交代にする?」
ご令嬢は机の端へ座り、皆の意見を聞いていました。
「殿下に何かお願いする?」
一人の会員が言いました。
部屋が少し静かになります。
「朝、何か手伝えることはあるかと聞かれたのでしょう?」
「はい」
「なら、展示用の板とか借りられないかな」
「学園にもあると思う」
「でも王宮のほうが立派そう」
「それはそうだけど」
「殿下に頼めば、全部用意してくれそう」
何人かが苦笑しました。
「全部どころか、発表会そのものを作りそう」
「審査員も呼びそう」
「植物学者二十人とか」
「ありそう」
ご令嬢は、少しだけ笑いました。
「でも、今回は自分たちでできることは、自分たちでやりたいです」
「殿下へ頼まない?」
「頼らないということではありません」
ご令嬢は少し考えました。
「ただ、殿下にお願いすれば、たぶんすぐに全部が揃います。それは助かります。でも、それでは私たちが何を考えて、どう見せたいのかが、後回しになってしまう気がします」
「じゃあ、先に形を決める?」
「はい。そのうえで、どうしても足りないものや、自分たちだけでは確認できないことがあれば、相談したいです」
代表が頷きました。
「それがいいと思う」
「殿下、待てるかな」
「たぶん」
「本当に?」
ご令嬢は少し笑いました。
「最近は、かなり」
◇
翌朝、殿下は木箱も冊子も持っていませんでした。
ただし、机のような大きさの紙を一枚持っています。
「殿下」
「何だ」
「それは何ですか」
「何でもない」
「何でもない紙にしては大きすぎます」
「研究発表の準備で、役割を聞かれた場合に備えて、自分にできることを書いた」
「何個です?」
「五十六」
「増えましたね」
「人、物、場所、情報に分けた」
「見せるつもりですか」
「頼まれたら」
「全部?」
「必要な部分だけ」
私は少し驚きました。
「殿下」
「何だ」
「かなり分かっていますね」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
「ただし、その紙を広げる前に、まず話を聞いてください」
「分かっている」
「本当に?」
「箱は持ってきていない」
「紙は持ってきています」
「紙なら軽い」
「重さの問題ではありません」
そのとき、校舎裏へ続く小道から足音が聞こえました。
ご令嬢が一人でこちらへ来ます。
「おはようございます、殿下。マリア様」
「おはよう」
「おはようございます」
ご令嬢は少し緊張したように、両手を前で重ねました。
「殿下」
「何だ」
「昨日、研究会で発表の形を少し考えました」
「ああ」
「それで、一つお願いしたいことがあります」
殿下の姿勢が変わりました。
大きな紙を持つ手にも力が入ります。
「何でも言って」
「殿下」
「……できる範囲で」
ご令嬢が少し笑いました。
「過去に、王宮で途中研究を報告した例があるか、調べていただくことはできますか」
「王宮の研究?」
「はい。完成していない研究を、どのような順番で説明しているのか参考にしたいんです。学園の資料は昨日見つけましたが、王宮の報告書には、もう少し正式な形式があるのではないかと思って」
殿下はすぐに答えませんでした。
おそらく頭の中では、王宮書庫、学術院、植物園、薬草園の記録まで、一気に浮かんでいるのでしょう。
「どの分野?」
殿下が聞きました。
「できれば植物研究ですが、途中経過の報告方法が分かれば、他の分野でも構いません」
「何件くらい必要?」
「二件か三件あれば十分です」
殿下は少しだけ残念そうな顔をしました。
「二件か三件」
「多いですか?」
「少ない」
「殿下」
「分かっている」
殿下は大きな紙を見ました。
「他には?」
「今のところ、それだけです」
「展示用の板は?」
「学園から借りられそうです」
「保温魔道具は?」
「使わないことになりました」
「照明は?」
「窓からの光を利用します」
「固定箱は?」
「植物は三鉢だけ運ぶので、研究会にある箱を使います」
殿下の表情から、昨日用意したものがほとんど必要なかったことへの衝撃が伝わってきました。
「殿下」
「何だ」
「かなり残念そうです」
「役に立たなかった」
「まだ頼まれていませんでしたから」
「分かっている」
ご令嬢は少し申し訳なさそうな顔をしました。
「でも、報告書は殿下にしかお願いできないことです」
殿下の表情が止まりました。
「私にしか?」
「王宮書庫の資料ですから」
「ああ」
「お願いしてもよろしいですか」
殿下は深く息を吸いました。
「分かった。二件か三件、植物研究を優先して、途中報告の形式が分かるものを探す」
「ありがとうございます」
「いつまで?」
「急ぎません。三日ほどで」
「今日中にできる」
「殿下」
「……三日以内」
「はい」
「写しは?」
「必要な部分だけで大丈夫です」
「全文ではなく?」
「はい」
「原本は?」
「持ち出さないでください」
「分かっている」
ご令嬢が安心したように笑いました。
「では、お願いします」
「ああ」
ご令嬢が教室へ向かうと、殿下はしばらくその背中を見送りました。
「マリア」
「はい」
「頼まれた」
「はい」
「役割を」
「はい」
「私にしかできないことを」
「はい」
「かなり嬉しい」
「はい」
「今から王宮へ戻る」
「授業があります」
「では、昼に使いを出す」
「はい」
「書庫へ、植物研究の途中報告をすべて――」
「二件か三件です」
「分かっている!」
◇
その日の昼休み、殿下は王宮へ使いを出しました。
ただし、依頼したのは三件だけです。
植物研究に関する途中報告が二件。
薬草研究の失敗経過をまとめた報告が一件。
それ以上は頼みませんでした。
「殿下」
ハインツ様が依頼書へ目を通します。
「何だ」
「本当に三件だけですね」
「ああ」
「王宮学術院の全資料ではなく?」
「ああ」
「植物学者も呼ばず?」
「呼ばない」
「褒める?」
「私の台詞を取るな」
ハインツ様は少し笑いました。
「かなり成長しました」
「受け取る」
「ただし」
「何だ」
「この下にある別紙は?」
殿下の動きが止まりました。
「何でもない」
ハインツ様が別紙を持ち上げます。
「『必要になった場合に追加で確認する資料候補、四十一件』」
「必要になった場合だ」
「殿下」
「まだ頼んでいない!」
「はい」
「見るだけだ」
「はい」
「準備はしてもよいと言われた」
「使いたくならない範囲で」
「かなり使いたい」
「正直ですね」
◇
二日後、王宮から三件の報告書の写しが届きました。
殿下はすぐに研究会へ持っていきませんでした。
先に内容を確認し、ご令嬢が求めていた「途中研究をどのような順序で説明するか」が分かる部分だけに紙片を挟みます。
それから、放課後の研究棟へ向かいました。
廊下には、発表準備を始めた研究会の噂を聞いた生徒たちが、何人か集まっています。
「殿下だ」
「今日は何を持ってる?」
「紙だけ」
「王宮の資料?」
「研究所は?」
「まだ言ってるの?」
殿下は小さな声を無視し、研究会室の扉を叩きました。
「はい」
扉を開けたのは、ご令嬢でした。
「殿下」
「ああ」
「もしかして」
「頼まれた資料だ」
殿下は三件の写しを差し出しました。
「植物研究が二件、薬草研究が一件。途中経過の説明方法が分かりやすい部分に印をつけた」
「ありがとうございます」
「全部読む必要はない。必要な部分だけでよい」
ご令嬢が少し目を大きくしました。
「殿下」
「何だ」
「本当に三件だけです」
「ああ」
「もっとたくさん来るかと思っていました」
「四十四件にできた」
「殿下」
「でも、三件にした」
研究会室の中から、小さな笑いが起こりました。
「殿下、かなり我慢したんですね」
「かなり」
ご令嬢も笑いました。
「ありがとうございます」
「役に立ちそう?」
「はい。皆さんにも見てもらいます」
「では、私は――」
殿下は室内を見ました。
机の上には紙や絵、三鉢の植物、展示板の見取り図が広がっています。会員たちは忙しそうに作業を続けていました。
「他に何か手伝う?」
殿下が聞きました。
ご令嬢は一度、研究会の皆を振り返ります。
「今日は、この資料を読んでみます」
「ああ」
「もし分からないところがあったら、殿下に聞いてもよいですか?」
「もちろん」
「では、少しだけ一緒に読んでいただけますか」
殿下の表情が明るくなりました。
「私が説明する?」
「はい。ただ、全部ではなく、王宮の書き方で分からないところだけ」
「ああ」
殿下は研究会室へ入りました。
けれど、中央の席へは座りません。
ご令嬢が用意した端の椅子へ座り、聞かれたところだけを説明します。
王宮独特の報告形式。
未確定の結果の書き方。
失敗をどのように記録するか。
次の検証へつなげるための課題の示し方。
研究会員たちは何度も質問し、殿下は一つずつ答えました。
「この『再検証の必要あり』は、失敗という意味ですか」
「失敗ではなく、まだ結論を出せないという意味だ」
「こちらは?」
「測定条件が揃っていない。だから、結果として使わなかった記録だ」
「消さないのですか?」
「消さない。使えなかった理由も、次の研究には必要だからだ」
ご令嬢が静かに頷きました。
「私たちの記録にも、うまく測れなかったものがあります」
「なら、それも残したほうがよい」
「発表に出しても?」
「出すかどうかは、あなたたちが決めればよい。ただ、隠さなければならないものではない」
殿下はそこで言葉を止めました。
「私は意見を言っただけだ」
研究会員たちが少し笑います。
「最近、殿下、それをよくおっしゃいますね」
「言わないと、私が全部決めたことになる」
「噂ですか?」
「ああ。明日には、私が植物の向きまで決めたことになる」
「それは困ります」
「だろう」
室内の空気が柔らかくなりました。
殿下は頼まれたところだけ説明し、会員たちが自分で考え始めると、口を挟まずに待ちます。
それは殿下にとって、かなり難しいことだったと思います。
何度も何かを言いかけ、そのたびに閉じた口元が少し動きました。
けれど、研究会員たちは自分たちで話し合い、記録の見せ方を決めていきます。
「失敗した測定も、一つだけ出そう」
「なぜ使えなかったかを書けばいい」
「それから、次はどうするか」
「未完成だからこそ、続きがある」
ご令嬢が嬉しそうに記録へ書き込みました。
殿下はその姿を見ています。
手を出しません。
紙を取りません。
代わりに書きません。
ただ、少し嬉しそうに見守っています。
◇
研究会室を出たあと、殿下は廊下で立ち止まりました。
「マリア」
「はい」
「今日は手伝った」
「はい」
「資料を三件持ってきた」
「はい」
「聞かれたところを説明した」
「はい」
「それ以上はしなかった」
「はい」
「かなり言いたかった」
「分かりました」
「展示の順番も、図の大きさも、説明役の立ち位置も」
「はい」
「かなり考えた」
「はい」
「でも、言わなかった」
「はい」
殿下は研究会室の扉を振り返りました。
中からは、まだ話し合う声が聞こえています。
「彼女たちは、自分たちで決めた」
「はい」
「でも、私は役に立った?」
「はい」
「どのくらい?」
「必要な分だけ」
殿下は少し考えました。
「それは、少ない?」
「十分です」
「本当に?」
「はい」
殿下はしばらく黙り、やがて小さく笑いました。
「なら、よい」
「はい」
「かなり嬉しい」
「はい」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る。全部」
◇
誰かを手伝いたいと思うことは、悪いことではありません。
むしろ、大切に思っているからこそ生まれる、優しい気持ちです。
けれど、手伝う側ができることを全部してしまえば、相手が自分で考え、迷い、選び、成し遂げる時間まで奪ってしまうことがあります。
王太子殿下は、研究発表の準備へ使えそうなものを四十二種類も用意しました。
展示用の板。
照明器具。
保温魔道具。
植物を運ぶ固定箱。
それらを大きな木箱へ詰め、六人の侍従に運ばせました。
どれも役に立ちそうなものです。
けれど、研究会はそのほとんどを必要としていませんでした。
学園の板を借りる。
窓からの光を使う。
保温魔道具は使わない。
植物は三鉢だけ、自分たちの箱で運ぶ。
自分たちで考えたからこそ、自分たちに必要なものが分かったのです。
王太子殿下が先に全部を用意していたら、その考える時間はなくなっていたかもしれません。
殿下は、最初にこう聞きました。
「何か、私に手伝えることはある?」
そして、頼まれたことだけをしました。
王宮にある途中研究の報告書を、二件か三件だけ探す。
分からないところだけ説明する。
それ以上は、研究会へ任せる。
殿下にとっては、かなり少ない役割だったと思います。
でも、必要な役割でした。
相手のすべてを背負わなくても、少しだけ役に立つことはできます。
むしろ、相手の役目を残したまま手伝うからこそ、その助けは優しいものになるのかもしれません。
王太子殿下。
手伝いたいという気持ちだけで、相手の役目まで取らないでください。
相手がどこまで自分でやりたいのか。
どこから助けてほしいのか。
それを先に聞くことも、大切な手助けです。
ですから殿下、研究会が展示板を自分たちで用意すると決めたからといって、「では予備として王宮の板を二十枚だけ置いておこう」と考えるのはやめてください。
予備は、必要だと頼まれてからです。
それから、王宮の植物学者を二十人呼ぶ件も、まだ諦めていない顔をしていますね。
発表会まで時間があるから、少しずつ頼まれるように誘導しようなどと考えてはいけません。
かなり怪しいので、本当にお願いします。




