第83話 王太子殿下、頼られることを自分の役目にしすぎない
誰かに頼られることは、嬉しいものです。
少なくとも、その人の役に立ちたいと思っている側にとっては、「困ったら相談してもよろしいですか」という言葉だけで、自分を信頼してくれているのだと感じられます。自分なら話を聞いてくれる、自分なら力になってくれると、少しでも思ってもらえた。その事実は、胸の奥を温かくするものです。
けれど、頼られたからといって、相手の問題がすべて自分の仕事になるわけではありません。
相談してもよいという言葉と、全部を決めてほしいという言葉は違います。手伝ってほしいという気持ちと、代わりに生きてほしいという願いも、当然ながら同じものではありません。
相手は自分で考え、自分で選びたいと思っている。
ただ、その途中で少しだけ話を聞いてほしい。自分一人では見つけられない視点があれば、ほんの少し貸してほしい。
相談とは、その程度であることも多いのです。
しかし、王太子殿下は頼られると、すぐに全部を背負おうとします。
しかも、殿下には背負えてしまうだけの力があります。
王宮の人脈も、予算も、施設も、情報も、権限もある。一般の学生なら「一緒に調べよう」と言うしかない場面で、殿下は「では、そのための研究所を建てよう」と言えてしまいます。
それは、とても頼もしいことです。
同時に、かなり危険なことでもあります。
◇
「マリア」
「はい」
「相談がある」
「おはようございます」
翌朝の校舎裏には、前夜の湿り気がまだ残っていました。芝生の先には細かな朝露が並び、東から差し込む柔らかな光を受けて、小さな硝子粒のように輝いています。
いつもの木製ベンチには、殿下がすでに座っていました。膝の上には、昨日まで見なかった大きな冊子があります。
「……おはよう」
「今日も自然に返せましたね」
「毎日言っているからな」
「はい」
「褒める?」
「相談の内容を聞いてからにします」
「厳しい」
殿下は少し不満そうにしながらも、膝の上の冊子へ手を置きました。薄い革張りの表紙には細かな金文字が並び、間には何枚もの紙片が挟まれています。
「それで、相談とは?」
「昨日、彼女が言った」
「何をです?」
「研究を続けたいと」
「はい」
「卒業後も、できれば続けたいと」
「はい」
「それから、困ったら私に相談したいと」
「はい」
殿下はそこで冊子を持ち上げました。
「だから、調べた」
「何を?」
「卒業後も利用できる研究機関だ」
私は冊子を見つめました。
「王都と周辺領にある施設を、規模、専門分野、利用条件、所属研究員、必要な推薦状の有無までまとめた」
「……何箇所ですか」
「二十七」
「多すぎます」
「王立植物園、王都学術院、王宮付属薬草園、地方研究所、貴族家の私設温室。それから、研究職を置いている商会が三つ、薬師組合が管理する共同実験室が二つ――」
「殿下」
「何だ」
「ご令嬢から、調べてほしいと頼まれましたか?」
殿下の説明が止まりました。
冊子の端を持つ指に、わずかに力が入ります。
「まだだ」
「では、もう先回りしています」
「先回り?」
「ご令嬢は、卒業後の進路をまだ決めていません。研究を続けたいとはおっしゃいましたが、どこで、どのような形で続けるのかは、これから考えることですよね」
「ああ」
「今、この二十七箇所を見せられたら、どう感じるでしょう」
「選択肢が多くて安心する」
「殿下はそう思うのですね」
「違うのか」
「人によっては、まだ何も決めていないうちから将来の道を並べられて、急かされているように感じるかもしれません」
殿下は黙りました。
朝の風が木々の間を通り、まだ乾ききっていない葉を揺らします。落ちた雫が冊子の表紙へ触れそうになり、殿下は反射的にそれを膝の内側へ寄せました。
「私は急かしたいわけではない」
「分かっています」
「彼女が困ったとき、すぐ役に立てるようにしたかった」
「それも分かっています」
「なら、なぜ駄目なんだ」
殿下の声には、困惑が混じっていました。
本当に、善意なのです。
好きな人が困る前に、自分にできることをしておきたい。彼女が立ち止まったとき、すぐに手を差し出せるよう準備しておきたい。
その気持ち自体は、とても優しいものです。
「準備することが悪いのではありません。ただ、殿下は準備をすると、それを使いたくなります」
「使えるものを使うのは当然ではないか」
「そして、使えば解決できると思ったら、ご令嬢がご自分で考える時間を待てなくなる」
殿下の眉が少し寄りました。
「私は待てる」
「本当に?」
「最近かなり待っている」
「そうですね」
「褒める?」
「今はまだです」
「厳しいな」
私は冊子を指しました。
「殿下。ご令嬢は昨日、困ったら相談したいとおっしゃいました」
「ああ」
「相談されたら、まず何をしますか」
「解決する」
「殿下」
「……話を聞く」
「はい」
「何に困っているのか確認する」
「はい」
「必要なら解決する」
「必要なら、一緒に考えるです」
「同じでは?」
「かなり違います」
殿下は不満そうでした。
「私は王太子だ。使える情報も人も、一般の学生より多い。彼女が困っているなら、それらを使って負担を減らすべきではないのか」
「ご令嬢が、それを望んでいるなら」
「望んでいるか聞く?」
「はい」
「そのあとで使う?」
「はい」
「自分でやりたいと言ったら?」
「任せてください」
「手伝えるのに?」
「はい」
「かなりつらい」
「分かります」
殿下は冊子を見下ろしました。二十七箇所もの研究施設を調べた努力を無駄にしろと言われたように感じているのかもしれません。
「では、これは捨てる?」
「そこまでしなくて大丈夫です」
「取っておく?」
「はい。ただし、ご令嬢が必要だとおっしゃったときだけ使ってください」
「全部見せる?」
「相談内容に合うものだけです」
「二十七から選ばせるのではなく?」
「はい」
殿下は長く息を吐きました。
「私は、選択肢が多いほうが親切だと思っていた」
「多すぎる選択肢は、それだけで負担になることもあります」
「王太子としての仕事でも同じか」
「かなり」
「……ハインツにも聞く」
「はい」
「私だけが間違っていると言われたら、かなり傷つく」
「たぶん同じことを言われます」
「先に言うな」
殿下はようやく冊子を閉じました。
「分かった。相談されたら、先に話を聞く。彼女が何をしたいか確認する。そのあとで、必要なことだけ手伝う」
「はい」
「頼まれなくても、手伝ってよいかは聞いてよい?」
「はい」
「断られたら?」
「引いてください」
「すぐ?」
「すぐです」
「……かなり難しい」
「でも、かなり成長しています」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る。全部」
◇
その朝、中央回廊でご令嬢と会いました。
研究会の友人らしい女生徒が一人、隣を歩いています。二人は殿下と私に気づくと、少し歩調を緩めました。
「おはようございます、殿下。マリア様も」
「おはよう」
「おはようございます」
ご令嬢は昨日より少し明るい顔をしていました。殿下もそれに気づいたのでしょう。
「昨日の研究、その後はどうだった?」
「少し進みました」
「温度の差?」
「はい。光の量だけでは説明できなかった変化が、やはり温度にも関係しているようです」
「どのくらい違った?」
ご令嬢が楽しそうに説明を始めました。
隣の女生徒も途中で補足を加えます。朝の回廊には大勢の生徒が行き交っていましたが、何人かは王太子殿下が植物研究の話を自然に聞いている光景へ目を向け、少し歩調を緩めていました。
以前なら、殿下が誰かと話しているだけで、周囲は張り詰めたように静かになったものです。
けれど最近は、少しずつ違っていました。
王太子殿下も、誰かの話を聞き、分からないことを質問し、ときには黄桃の噂へ真顔で反論する。
その姿を知る生徒が増えるにつれ、遠巻きの畏怖は、驚きや好奇心、それから少しの親しみへ変わり始めています。
「それで、殿下」
ご令嬢が少し困ったように口を開きました。
「何だ」
「実は、研究会で悩んでいることがありまして」
殿下の姿勢がわずかに変わりました。
懐の内側が少し膨らんでいます。あの研究施設一覧が入っているのでしょう。
殿下の右手が、ほんの少しだけ懐へ近づきました。
私は小さく咳をします。
手が止まりました。
「来月、学園内で研究発表会があるのですが、私たちはまだ何を発表するか決められていないんです」
「今の植物研究ではない?」
「私はそうしたいと思っています。ただ、まだ結果が十分ではありません。他の皆さんは、もっと完成している題材を選んだほうがよいのではないかと考えていて」
「あなた自身は、今の研究を出したい?」
「はい」
「なぜ?」
ご令嬢は少し考えました。
「まだ途中だからこそ、見てもらいたいと思っています。自分たちだけでは気づけない問題もあるかもしれませんし、他の方から意見をいただければ、次に調べることも増えると思うので」
「でも迷っている?」
「発表として弱いのではないかと」
ご令嬢はそこで殿下を見ました。
「殿下なら、どう思われます?」
相談です。
昨日、ご令嬢が言ったとおり、本当に殿下を頼って話を持ちかけました。
殿下の目が少し大きくなります。
嬉しいのだと思います。
かなり。
けれど、殿下はすぐに答えませんでした。
「私は――」
一度言いかけて、止まります。
朝の回廊に、人の流れが続いています。足音や話し声が重なりながらも、四人の間には静かな時間が生まれました。
「あなたは、その研究で何を一番伝えたい?」
ご令嬢は少し驚いたように瞬きをしました。
「何を、ですか」
「ああ。結果が完成しているかどうかではなく、発表を見た人に何を知ってほしい?」
ご令嬢はしばらく考えました。
「植物が、思っているより細かな変化へ反応していることです」
「細かな変化?」
「光だけでなく、温度や鉢を動かす時刻でも、葉の向きや成長の速さが少しずつ変わります。まだ結論は出ていませんが、その違いを見つけること自体が、とても面白いと思っていて」
話しているうちに、ご令嬢の目が明るくなっていきます。
「その面白さを伝えたいです」
「なら、途中でもそれを発表したい?」
「……はい」
「かなり?」
ご令嬢が少し笑いました。
「かなり」
殿下もわずかに笑います。
「なら、私は途中でもよいと思う」
「本当ですか?」
「ああ。ただ、完成していないことを欠点として隠すのではなく、今どこまで分かっていて、次に何を調べたいのかも発表すればよいのではないか」
隣にいた研究会の女生徒が、少し目を大きくしました。
「途中を、途中のまま見せるのですか」
「ああ。完成していないからこそ、意見をもらえる」
ご令嬢はしばらく考え、それから友人と顔を見合わせました。
「それなら、発表の形にできるかもしれません」
「今後の検証方法まで出せば、研究会らしさもありますね」
二人の表情が少し明るくなります。
殿下はその様子を見て、すぐに口を開きました。
「ただし、決めるのはあなたたちだ」
ご令嬢が少し驚きます。
「殿下は決めてくださらないのですか?」
殿下は一瞬、言葉に詰まりました。
頼られた。
そして、決めてほしいと言われたように聞こえた。
以前なら、ここで迷わず答えを出していたでしょう。
「決めてほしい?」
殿下は静かに聞き返しました。
ご令嬢は少し考え、ゆっくり首を横へ振りました。
「いいえ。意見を聞きたかったんです」
「なら、それでよい」
ご令嬢は安心したように笑いました。
「ありがとうございます」
殿下の口元が少し緩みます。
「私は今、かなり――」
「殿下?」
「何でもない」
かなり嬉しい。
そう言いかけたのでしょう。
けれど、今は自分の喜びより、ご令嬢の相談が中心です。
「研究会で話してみて、まだ意見が必要なら聞く」
「また相談してもよろしいですか」
「もちろん」
殿下は一度、言葉を止めました。
「いや。相談したいと思ったときに」
ご令嬢が柔らかく笑います。
「はい。そのときはお願いします」
「ああ」
◇
ご令嬢たちが教室へ向かうと、殿下はしばらくその背中を見送りました。
しかし今日は、いつまでも立ち尽くしません。すぐ私を振り返りました。
「マリア」
「はい」
「今、相談された」
「はい」
「本当に私に」
「はい」
「かなり嬉しい」
「はい」
「でも、決めなかった」
「はい」
「冊子も出さなかった。二十七箇所、一つも」
「はい」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る。全部」
殿下は本当に嬉しそうでした。
その表情を見ていると、昨日のご令嬢の言葉が、殿下の中でどれほど大切だったのかが分かります。
ただし、その喜びは長く静かには続きませんでした。
「研究発表会は来月だったな」
「はい」
「審査員は誰が務める」
「殿下」
「まだ何もしていない」
「王太子権限を使おうとしていませんか」
殿下は黙りました。
「公平に見てもらえるよう、何かできないか少し考えた」
「何を?」
「王宮にいる植物学者を――」
「殿下」
「呼ばない」
「最後まで言わせないでください」
「まだ頼まれていないことは分かっている」
「はい」
「だから、やらない」
「はい」
「かなり難しい」
「かなり」
◇
昼休みは、殿下と私、ハインツ様の三人で食堂を利用しました。
窓際の長机には穏やかな日差しが差し込み、食器の触れ合う音や生徒たちの話し声が、広い室内へ絶えず満ちています。少し離れた場所には警護が立っていましたが、周囲の生徒たちは以前ほど極端に緊張せず、それぞれの食事を続けていました。
「殿下」
ハインツ様がスープの匙を置きました。
「何だ」
「今朝、ご令嬢から相談されたそうですね」
「マリア」
「私ではありません」
「では誰だ」
「研究会の方では?」
「なぜもう広がっている」
「王太子殿下が研究発表について意見を述べたとなれば、広がるでしょう」
「私は意見を言っただけだ」
「ええ。ですが現在の噂では、『王太子殿下が研究会の発表内容を直々に選定した』ことになっています」
「選んでいない!」
殿下の声が食堂へ響き、何人もの生徒が振り返りました。
「殿下、声を」
「分かっている」
「さらに、『王太子殿下推薦研究として王宮へ提出予定』」
「していない」
「『王家支援決定』」
「していない!」
「『研究棟拡張』」
「誰が!」
「『王立植物研究所新設』」
「なぜそこまで大きくなる!」
食堂のあちこちから、小さな笑いが起こりました。
殿下は本気で怒っているわけではありません。それが分かる生徒が増えているからこそ、以前なら生まれなかった柔らかな笑いが広がります。
「マリア、私は何もしていない。話を聞き、意見を言っただけだ。なぜ国が動く」
「王太子だからです」
「またそれか!」
さらに笑いが広がりました。
殿下は頭を抱えましたが、周囲へ怒鳴ることはありません。
ハインツ様は笑いを収めると、少し真面目な表情になりました。
「それで、本当に何もしないのですね」
「しない」
「王宮へ話さない?」
「話さない」
「予算も出さない?」
「出さない」
「審査員にも関与しない?」
「しない」
「植物学者を呼ばない?」
「……呼ばない」
「今の間は何です?」
「少し惜しいと思っただけだ」
「殿下」
「分かっている。頼まれていない」
ハインツ様は小さく笑いました。
「ご令嬢たちが自分で決めるまで待つ?」
「ああ」
「また相談されたら?」
「話を聞く」
「それだけ?」
殿下は少し考えました。
「必要なら意見を言う。それ以上は、頼まれてからだ」
「よいと思います」
「褒める?」
「今日は、そこまで褒めません」
「なぜ」
「当然だからです」
「厳しいな」
「ただし、以前の殿下なら、もう王宮へ連絡していたでしょう」
殿下は黙りました。
「ですので、少しだけ褒めます」
「かなり?」
「少しです」
「マリアより厳しい」
「光栄です」
「なぜだ」
◇
午後になると、研究発表会の噂はさらに広がっていました。
王太子殿下が研究会を支援する。
例のご令嬢の植物研究が王宮へ認められた。
発表会当日には王家の学者が大勢来る。
どれも事実ではありません。
しかし、噂がきっかけで、研究発表会の掲示を見る生徒が増えました。
「こんな催しがあったんだ」
「去年は何が出たの?」
「薬草、天体観測、古い魔術式の再現」
「誰でも見られるのかな」
「校内の生徒なら大丈夫らしい」
「少し面白そう」
研究棟の廊下にも、普段より多くの生徒が集まっていました。掲示物を読み、過去の発表について話し、研究会の活動へ初めて興味を持つ者もいます。
噂は悪いことばかりではありません。
殿下が関わるだけで、人の目が向く。
以前の資料公開日でも、殿下はそれを学びました。
自分が立てば人は集まる。
けれど、その注目が本来の目的を隠すこともある。
放課後、研究棟へ続く廊下の前で、殿下は足を止めました。
「殿下、どうします?」
「何が」
「ご令嬢に会いに行かれますか?」
今日は会う約束をしていません。
朝、相談され、研究会で話し合ってみるよう伝えただけです。
殿下は研究棟の方角を見ました。廊下の向こうでは、何人もの生徒が掲示を眺めています。
「会いたい」
「はい」
「かなり」
「はい」
「だが、今日は行かない」
「なぜです?」
「彼女は研究会で話すと言った。たぶん今、その話をしている」
「はい」
「そこへ私が行けば、皆が私を見る。研究会の話が、また私の話になる」
私は少し驚きました。
誰かに言われる前に、殿下が自分で考えたのです。
「だから、今日は行かない」
「殿下、かなり成長しましたね」
「褒める?」
「かなり」
殿下は少し嬉しそうにしました。
「ただ、かなり寂しい」
「はい」
「会いたい」
「はい」
「行きたい」
「はい」
「でも行かない」
「はい」
「今日は図書館へ行く」
「珍しいですね」
「研究発表について少し調べたい」
「ご令嬢のためですか?」
「違う。自分の勉強だ」
「本当に?」
「……半分」
「殿下」
「正直だろう!」
◇
図書館は、いつもより少し混み合っていました。
噂を聞いた生徒たちが、過去の研究発表集を探しに来ているようです。受付では図書委員が何度も声を落とすよう注意し、二階へ続く階段にも人の列ができていました。
「去年の発表集はどこ?」
「二階の奥」
「植物のものは?」
「薬草研究ならあるはず」
「王太子殿下が――」
「図書館では静かにしてください」
殿下は少し気まずそうにしながら、過去資料の棚へ向かいました。
「何をお探しです?」
「過去の植物研究だ」
「ご自分の勉強ですか?」
殿下は答えませんでした。
「殿下」
「かなり、彼女の参考になるか知りたい」
「はい」
「だが、見つけてもすぐには渡さない」
「なぜです?」
「頼まれていないからだ。ただ、自分が知りたい。それならよい?」
私は少し笑いました。
「はい」
「褒める?」
「それは普通です」
「厳しいな」
殿下は一冊の発表集を開きました。
過去の記録を調べると、途中経過をそのまま発表した例は思っていたより多くありました。結果が十分に出ていなくても、現時点で分かっていることと、今後の検証方針を明確に示すことで評価された研究もあります。
「マリア」
「はい」
「途中でも発表している例がかなりある」
「はい」
「なら、彼女に大丈夫だと――」
殿下は言いかけて止まりました。
「伝えたいですか?」
「ああ。かなり」
「でも?」
「研究会で決めることだ。私はまだ頼まれていない」
「はい」
「だから今は言わない」
「はい」
「かなりつらい」
「はい」
「でも待つ」
殿下が発表集を閉じた、そのときでした。
「殿下?」
後ろから聞こえた声に、殿下の動きが止まりました。
ご令嬢が数冊の本を抱え、少し驚いた顔で立っています。
「何をしている?」
「研究発表会の資料を借りに来ました。殿下は?」
ご令嬢の視線が、殿下の持つ発表集へ向きました。
「これは、自分で見たかった」
「何をです?」
「途中の研究が発表された例があるか」
ご令嬢が少し目を大きくします。
「私のために?」
殿下は一瞬答えに詰まりました。
「半分」
「半分?」
「あなたの話を聞いて気になった。だが、何かを言うためだけに探したわけではない」
殿下は少し苦い顔をしました。
「……少しは、そうだ」
ご令嬢が小さく笑います。
「正直ですね」
「最近、正直に言うと褒められる」
「私も褒めたほうがよいですか?」
「かなり」
ご令嬢がさらに笑いました。
「ありがとうございます」
「ああ」
「その資料、見せていただいてもよろしいですか?」
殿下の表情が少し明るくなりました。
「見たい?」
「はい」
「なら、一緒に――」
殿下は言いかけ、自分で止まりました。
しかし、ご令嬢のほうから尋ねます。
「今、少しご一緒してもよろしいですか?」
殿下が完全に固まりました。
「……ああ」
「殿下?」
「かなり嬉しい」
「はい?」
「何でもない」
私は少し離れた席へ移動しました。
◇
窓際の長机で、殿下とご令嬢は発表集を一緒に開きました。
夕方に近づいた光が窓から差し込み、古い紙の上へ柔らかな色を落としています。図書館の中にはページをめくる音や、羽根ペンが紙をこする細かな音が満ち、二人の会話も自然と小さな声になりました。
「これは二年前の研究ですね」
「ああ」
「結論は出ていません。でも、次に何を調べるのかが、とても分かりやすく書かれています」
「朝、あなたが言っていたことに近い?」
「はい。途中だからこそ、今後を見せる」
ご令嬢は資料を見つめながら、ゆっくり頷きました。
「これなら、私たちの研究でも発表の形にできるかもしれません」
「私はこれを見つけただけだ」
「はい」
「決めるのはあなたたちだ」
「分かっています」
ご令嬢は少し笑いました。
「でも、見つけてくださったことは嬉しいです」
殿下はすぐに返事をせず、その言葉を胸の中へ置くように黙りました。
「……受け取る」
「はい?」
「いや、何でもない」
ご令嬢が不思議そうにしながらも、また資料へ視線を戻します。
「これを研究会にも見せたいです」
「借りる?」
「はい」
「では、私が手続きを――」
「殿下」
私は少し離れた場所から呼びました。
「何だ」
「ご令嬢が借りるのでは?」
殿下が止まります。
ご令嬢は口元を緩めました。
「私が借ります」
「……ああ」
「殿下、ありがとうございます」
「何が?」
「資料を見つけてくださったことと、借りるところまで代わりにやらなかったことです」
殿下は少し目を大きくしました。
「自分で借りたい?」
「はい」
「分かった」
殿下は少し困ったように笑いました。
「なら私は、あなたが必要だと思ったとき、また聞いてくれるのを待つ」
ご令嬢の表情が柔らかくなります。
「はい。そのときはお願いします」
「ああ」
◇
その日の夕方、研究会では長い話し合いが行われました。
ご令嬢が図書館から借りてきた過去の発表集を机へ置くと、会員たちはすぐに周囲へ集まります。
「途中の研究でも、発表例はあるみたい」
「でも、結果が少ないのは変わらない」
「今後の検証方法まで見せればいいんじゃない?」
「完成した研究より評価は低くならない?」
「でも、研究会としてはこっちのほうが面白いと思う」
意見は簡単にはまとまりませんでした。
完成している題材を選んだほうが安全だという者もいれば、途中だからこそ多くの意見をもらえるのだと主張する者もいます。
「王太子殿下が、これを選んだの?」
「いいえ。殿下は意見をくださっただけです」
「でも、資料を見つけたのは殿下?」
「はい。でも、決めるのは私たちだとおっしゃいました」
ご令嬢は資料を指で押さえながら、集まった会員たちを見回しました。
「私は、今の研究を出したいです。まだ途中ですが、植物が細かな環境の違いに反応することを、もっと多くの方に知ってほしいと思っています」
「結果が出なかったら?」
「出なかったことも、今分かっている結果です」
部屋の中が少し静かになりました。
「でも、研究会全体の発表です。私一人で決めたいわけではありません。皆さんの意見を聞いて、皆で決めたいです」
夕方の橙色の光が、机へ広げられた記録紙や観察図を照らしています。
議論はさらに続きました。
結局、その日は決め切れず、翌朝にもう一度話し合うことになりました。
その結論を、殿下はまだ知りません。
◇
翌朝、殿下は昨日と同じベンチで落ち着かない様子を見せていました。
「マリア」
「はい」
「彼女たちは決めたと思うか」
「知りません」
「なぜ」
「私は研究会員ではありません」
「……聞きに行く?」
「殿下が?」
「ああ」
「行きたいですか?」
「かなり」
「では?」
殿下は少し迷いました。
「でも、朝は忙しいかもしれない。彼女たちがまだ話し合っているなら、私が行くとまた周囲が私を見る」
「はい」
「だから待つ」
「はい」
「かなりつらい」
「かなり成長しています」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る。全部」
私はふと、殿下の手元が空であることに気づきました。
「昨日の研究施設一覧は?」
「王宮の書庫へ返した」
「二十七箇所すべて?」
「ああ」
「ご令嬢には見せずに?」
「ああ」
「かなり偉いです」
「受け取る」
殿下は少し嬉しそうにしましたが、すぐに真面目な表情へ戻りました。
「昨日の資料は役に立ったと思う?」
「ご令嬢は、そうおっしゃっていました」
「私は少し、思った」
「何をです?」
「私が助けた、と」
「はい」
「相談され、意見を言い、資料を見つけた。だから、彼女たちが今の研究を発表することになれば、それは少し私の成果だと」
殿下は自分で言いながら、少し苦い顔をしました。
「でも、違う」
「はい」
「相談したのは彼女だ。意見を聞いて、どうするか考えたのも彼女たちだ。資料を使うと決めたのも、研究会だ」
「はい」
「私は役に立ちたい。かなり。だから役に立ったと思いたい」
朝の光の中で、殿下の表情はいつになく静かでした。
「でも、彼女が自分で決めたことまで私の手柄にしたら、また彼女の選択を取ることになる」
私は少し笑いました。
「殿下、かなり分かっていますね」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
◇
中央回廊へ入ると、ご令嬢が一人でこちらへ向かってきました。
殿下を見つけると、少し歩調を速めます。表情には、昨日までの迷いよりも、はっきりとした明るさがありました。
「殿下」
「おはよう」
「おはようございます」
「どうした?」
「昨日、研究会で話しました」
殿下は急かさず、続きを待ちました。
「それで、今取り組んでいる植物研究を、発表会へ出すことになりました」
殿下の表情が一気に明るくなります。
「本当に?」
「はい」
「皆で決めた?」
「はい」
「かなり?」
ご令嬢が笑いました。
「かなり」
殿下も少し笑います。
「そうか。よかった」
それだけでした。
ご令嬢は少し驚いたように殿下を見ました。
「殿下」
「何だ」
「それだけですか?」
「何か言ってほしい?」
「いいえ。ただ、殿下ならもっと、『私のおかげだ』とおっしゃるかと」
周囲を歩いていた生徒たちが、少しだけ歩調を緩めました。
私も一瞬、息を止めます。
殿下はしばらくご令嬢を見つめ、それから少し笑いました。
「私も、少し思った」
「殿下」
「正直だろう」
ご令嬢も笑いました。
「でも、決めたのはあなたたちだ。私は少し話を聞き、資料を見つけただけだ」
「資料も、とても参考になりました」
「ああ。でも、借りたのはあなたで、研究会へ持っていったのもあなた。使うと決めたのも研究会だ」
殿下は一度言葉を切り、ゆっくり息を吐きました。
「だから、よかった。それで十分だ」
ご令嬢は長く殿下を見つめました。
「ありがとうございます」
「ああ」
「私、少し不安でした。今の研究を出したい気持ちはありましたが、それが本当に発表へ向いているのか、自信がなくて」
「はい」
「でも殿下に、何を一番伝えたいのかと聞かれて、自分がやりたいことが分かりました」
殿下は静かに聞いています。
「それは、私が答えを出したわけではない?」
ご令嬢は少し笑いました。
「はい。私が自分で決めました」
殿下はその言葉を、急いで返さずに受け止めました。
「そうか」
「はい」
「それなら、かなりよい」
「かなり?」
「かなり」
ご令嬢が笑い、殿下も穏やかに笑いました。
◇
ご令嬢が教室へ向かったあと、周囲にいた生徒たちの間で小さなざわめきが広がりました。
「研究発表、今の植物研究に決まったんだ」
「王太子殿下が決めたわけじゃないみたい」
「本人たちで決めたって」
「王家の支援は?」
「なさそう」
「研究所の新設は?」
「ただの噂だろ」
「でも、殿下が相談に乗ったのは本当みたいだね」
大きく膨らんでいた噂が、少しずつ実際に起きたことへ戻っていきます。
王太子殿下が研究会の発表内容を決めたのではありません。
話を聞き、意見を言った。
それだけです。
けれど、それだけでも十分に役に立つことはあります。
「マリア」
「はい」
「今、少し寂しい」
「なぜです?」
「私が決めたわけではないから、私の成果ではない」
「はい」
「でも、かなり嬉しい」
「はい」
「彼女が自分で決めて、それを私に伝えに来てくれた」
「はい」
「それが嬉しい」
「はい」
「これも褒める?」
「かなり」
「受け取る。全部」
◇
誰かに頼られることは、嬉しいものです。
自分が必要だと言われたように感じられるから。
けれど、頼られたからといって、相手の抱えるものを全部背負う必要はありません。
話を聞く。
問いを返す。
必要なら、少し情報を渡す。
そして、相手が自分で考え、自分で決める時間を待つ。
王太子殿下は、好きなご令嬢から本当に相談されました。
かなり嬉しかったので、すぐに二十七箇所もの研究施設を調べました。王宮の人も、予算も、施設も、使えるものはすべて使って助けようとしました。
でも、使いませんでした。
まず、こう聞きました。
「あなたは、何を一番伝えたい?」
その問いを受けて、ご令嬢は自分で考えました。研究会の仲間と話し合い、自分たちで発表内容を決めました。
王太子殿下は、それを自分の成果にしませんでした。
本当は少し、「私が助けた」と思いたかったのです。
頼られた。
役に立った。
だから嬉しい。
その気持ちは悪いものではありません。
けれど、相手が自分で決めたことまで、自分の手柄にしない。それもまた、誰かを大切にする一つの形なのだと思います。
王太子殿下。
頼られることは、相手の人生をすべて背負うことではありません。
必要なときに少し隣へ立ち、相手が自分の足で進めるよう話を聞く。それだけでも、十分に役へ立てます。
ですから殿下、研究発表会の当日に王宮から植物学者を二十人も呼ぶのは、どうかおやめください。ご令嬢からも研究会からも、そのようなお願いはまだ一度もされていません。
それなのに、「しかし、審査の質を高めるためには専門家が必要なのではないか」とでも言いたそうな顔をなさっていますね。
かなり怪しいので、本当に何も手配しないでください。




