第82話 王太子殿下、誘われた時間を自分の成果にしない
誰かに誘われることは、嬉しいものです。
自分から会いに行かなくても、自分から理由を作らなくても、自分から次の予定を決めなくても、相手のほうから「話したい」と言ってくれる。それは少なくとも、その人が自分と過ごす時間を望んでくれたという、分かりやすく温かな選択です。
本来なら、その事実だけで十分なのだと思います。
誘われた。
嬉しい。
今日はその時間を大切にしよう。
それだけでよいはずです。
けれど、王太子殿下は、嬉しいことがあると意味を探します。
なぜ誘ってくれたのか。自分だからなのか。昨日、理由も口実も持たずに会いに行ったことがよかったのか。黄桃を一緒に食べた時間が、ご令嬢の中にも自分と同じように残っているのか。
考えれば考えるほど、その先を欲しくなります。
今日うまく話せれば、また誘ってもらえるかもしれない。
今日ご令嬢を楽しませられれば、次はもっと長く一緒にいられるかもしれない。
今日何か特別なことができれば、彼女の中で自分の存在が少し大きくなるかもしれない。
そうやって、相手からもらった一つの誘いを、自分の努力で獲得した成果へ変えようとしてしまうのです。
だから、この日、殿下がしなければならないことは、とても単純でした。
誘われた時間を、次のための試験にしないこと。
今日の喜びを、今日のものとして受け取ること。
そして、ご令嬢が殿下を誘ったという選択を、殿下自身の手柄にしないことです。
◇
「マリア」
「はい」
「相談がある」
「おはようございます」
「おはよう」
「今日は自然でしたね」
「かなり練習した」
「挨拶は練習するものではないと思います」
「だが、昨日より早かっただろう」
「はい。少しだけ褒めます」
「少し?」
「相談の内容を聞いてから増やします」
「厳しいな」
翌朝の校舎裏には、雨上がりの湿った空気がまだ薄く残っていました。芝生の先には朝露が並び、木漏れ日を受けるたびに細かな光を返しています。
風は昨日より穏やかで、木々の葉が触れ合う音も静かでした。正門の方角からは、登校してくる馬車の車輪音や、生徒たちの挨拶が途切れながら届いてきます。
殿下はいつもの木製ベンチへ座っていました。
膝の上には、紙が三枚あります。
「殿下」
「何だ」
「その紙は何ですか」
「何でもない」
「昨日、私が申し上げたことを覚えていますか」
「何を」
「ご令嬢のほうから放課後のお話へ誘われても、会話候補を二十個ほど作らないでください、と」
「覚えている」
「では、何個です?」
殿下は紙へ目を落としました。
「二十ではない」
「何個ですか」
「十九」
「一つ減らせばよいという話ではありません」
「昨日より抑えた」
「誤差です」
朝の静かな庭に私の声が少し響きました。
離れた回廊を歩いていた一年生らしい男子生徒二人がこちらを振り返り、殿下の姿を認めると、何も聞いていないという顔で歩調を速めていきます。
殿下は紙を胸元へ引き寄せました。
「だが、彼女から話したいと言われたのだぞ」
「はい」
「今日の放課後に」
「はい」
「研究の続きを」
「はい」
「私と」
「はい」
「話したいと」
「はい」
「だから、何を聞かれても答えられるように準備するのは当然だろう」
「会話は試験ではありません」
「しかし、研究の話だ」
「ご令嬢がご自分の研究を説明してくださるのですよね?」
「ああ」
「なら、殿下は聞けばよいのでは?」
「質問も必要だ」
「自然に気になったことを聞いてください」
「準備せずに?」
「はい」
殿下は、本気で不安そうな顔をしました。
「それでは失礼ではないか」
「何がです?」
「彼女が話したいと思ってくれたのに、私が何も準備していなかったら、彼女の話を大切にしていないように見えないか」
私はすぐには答えませんでした。
なるほど。
殿下の準備は、相手を自分の思いどおりに動かしたいからだけではありません。大切にしたい。きちんと受け止めたい。せっかくもらった時間を雑に扱いたくない。
その気持ちが強すぎるから、準備が大きくなり、相手がまだ求めていないところまで先回りしてしまうのです。
「準備すること自体は悪くありません」
「そうだろう」
「ただ、十九個は多いです」
「なら何個ならよい」
「数の問題ではありません」
「またそれか」
「はい」
殿下は不満そうに紙を見下ろしました。
「殿下は今、ご令嬢に誘われた時間を成功させようとしていませんか」
「成功?」
「きちんと話す。きちんと質問する。きちんと楽しませる。そして、また誘ってもらう」
殿下の指が止まりました。
「最後は考えた」
「やっぱり」
「少しだけだ」
「どのくらい?」
「かなり」
「正直ですね」
「最近、正直に言ったほうが褒められると分かった」
「内容によります」
殿下は紙を膝へ戻しました。
「私は、彼女から誘われた」
「はい」
「完全に初めてではないかもしれないが、今日は彼女のほうから、研究の続きを話さないかと言ってくれた」
「はい」
「それが、かなり嬉しかった」
「はい」
「だから、この時間を失敗したくない」
殿下の声が少し低くなりました。
「また誘ってほしい」
朝の風が木々の間を抜け、雨粒の残った葉を揺らしました。ぽつりと落ちた水滴が、殿下の靴の近くで芝生へ沈みます。
「また誘ってほしいから、今日を成功させる?」
「……そうなる」
「それでは、今日ご令嬢と過ごす時間が、次に誘ってもらうための試験になってしまいます」
殿下は黙りました。
遠くで鐘楼の鐘が鳴り始め、校舎へ向かう生徒たちの足音が少しずつ増えていきます。
「試験」
「はい」
「私は、彼女に楽しかったと思ってほしい」
「はい」
「それは悪い?」
「悪くありません」
「なら」
「でも、殿下ご自身も今日を楽しんでください」
殿下が少し目を大きくしました。
「私も?」
「はい」
「それは……忘れていた」
「殿下」
「かなり」
殿下は本当に、ご令嬢を楽しませることばかり考えていたのでしょう。自分がどう見られるか、どう評価されるか、その先に何が残るか。
けれど、二人で過ごす時間は、一人が努力してもう一人を満足させるためだけのものではありません。
「ご令嬢に楽しんでもらいたいと思うのは素敵です。でも、殿下もその時間を楽しみ、自然に話し、自然に笑ってください」
「楽しみすぎて変なことを言ったら?」
「そのときは反省してください」
「先に防がないのか」
「全部を防ぐことは無理です」
「相談役なのに」
「人間ですから」
「厳しいな」
殿下はしばらく紙を眺めました。
やがて、一枚目を折り、二枚目を重ね、三枚目も丁寧に折りたたみます。
「捨てる?」
「捨てない」
「なぜです?」
「努力の記録だ」
「はい」
「でも今日は見ない」
「はい」
「質問は、その場で聞く」
「はい」
「彼女の話を聞く」
「はい」
「私も楽しむ」
「はい」
「次の約束は考えない」
「はい」
最後の一つだけ、殿下はかなり苦しそうでした。
「今、すごく嫌そうですね」
「かなり苦しい」
「それでも?」
「やる」
「はい。かなり偉いです」
「受け取る。全部」
◇
午前中の殿下は、外から見れば驚くほど落ち着いていました。
授業中に手帳を開くこともなく、休み時間に研究棟の方角を何度も見ることもなく、生徒会の書類にもいつもより早く目を通していたそうです。
ただし、三時限目が終わったあと、中央階段の踊り場で偶然会ったときには、すぐに本当の状態が分かりました。
「マリア」
「はい」
「今、あと四時間十二分」
「数えていますね」
「時計がある」
「昨日と同じ言い訳です」
「今日は誘われた側だ」
「はい」
「待つ時間が長い」
「はい」
「かなり」
「はい」
「しかも何も準備していない」
「本当に?」
殿下は答えませんでした。
「殿下」
「紙は持っている」
「見ました?」
「一度」
「殿下」
「二行だけだ。すぐ閉じた」
「見たんですね」
「でも、そのあと見ていない。かなり頑張った」
「そこは認めます」
「褒める?」
「少し」
「かなりではない?」
「少しです」
階段を上ってきた数人の生徒が、殿下に気づいて姿勢を正しました。以前なら、殿下がいるだけで会話を止め、できるだけ遠い側を通っていた生徒たちです。
最近は、少しずつ変わっていました。
殿下が研究会へ足を運び、食堂や廊下でも普通に生徒と話し、時には噂へ真顔で反論して周囲を笑わせる。その積み重ねによって、王太子という肩書きの向こうにいる一人の人間が、少しずつ見えるようになってきたのかもしれません。
「殿下」
二年生の男子生徒が、少し緊張しながら声をかけました。
「何だ」
「昨日の黄桃、美味しかったですか」
殿下の眉が少し動きました。
「ああ」
男子生徒は、普通に答えが返ってきたことへ少し驚いたようでした。殿下は一度考え、言葉を足します。
「かなり」
近くにいた生徒たちから、小さな笑いが起きました。悪意のある笑いではなく、殿下らしい言葉が返ってきたことへの親しみに近いものでした。
「そうですか。聞きたかったのは、それだけです」
「ならよい」
「失礼しました」
男子生徒は友人たちのところへ戻っていきます。
「聞けた」
「普通に答えたな」
「かなり美味しかったらしい」
「黄桃の話、本当だったんだ」
「静かにしろよ」
小さな声が遠ざかっていきました。
殿下が私を見ます。
「今のは成功?」
「会話に成功も失敗もないと、朝お話ししたばかりです」
「分かっている。ただ、普通に答えられた」
「はい」
「褒める?」
「今日は多いですね」
「誘われた日だから、かなり不安だ」
◇
昼休み、いつもの校舎裏のベンチにはハインツ様も来ていました。
殿下は昼食のパンを一口食べたあと、しばらく動きません。包みを開いたまま、何かを考えているようでした。
「殿下」
「何だ」
「食事が進んでいません」
「食べている」
「十分で半分です」
「数えるな」
「何か気になることでも?」
ハインツ様の問いに、私は少し笑いました。
「本日、ご令嬢のほうから殿下が放課後のお話へ誘われました」
「マリア」
「何です?」
「なぜ言う」
「秘密でした?」
「違うが、自分で言いたかった」
「そうでしたか」
ハインツ様が少し目を丸くしました。
「殿下が誘われた?」
「ああ」
「ご令嬢から?」
「ああ」
「研究のお話を?」
「ああ」
「今日の放課後に?」
「ああ!」
「殿下、かなり嬉しい?」
「……かなり」
ハインツ様が笑いました。
「それはよかったですね」
「褒めないのか」
「何をです?」
「誘われたことを」
「それは殿下の成果ではありません」
殿下の動きが止まりました。
私も少しだけハインツ様を見ます。
「成果ではない?」
「ええ」
「だが、彼女が私と話したいと言った」
「はい」
「それは、私がこれまで少しずつよくなったからではないのか」
ハインツ様はすぐに否定しませんでした。
「そうかもしれません。殿下が以前より話しやすくなり、ご令嬢が自分から会いたいと思えるようになった。その可能性はあります」
殿下の表情が少し明るくなります。
「ですが、ご令嬢が殿下を誘ったこと自体は、ご令嬢の選択です」
殿下は黙りました。
「殿下の努力が影響しているかもしれません。でも、誘ったのはご令嬢です」
「ああ」
「それを殿下の成果にしてしまうと、ご令嬢が自分で選んだことが、少し薄くなりませんか」
殿下の指は、パンを持ったまま止まっています。
「私は少し思っていた」
「何をです?」
「最近、彼女へ嫌いと言わなくなった。余計なことも少し減らした。待つことも覚えた」
「はい」
「だから、彼女が私を少し好きになったのではないか、と」
木々の葉が風に揺れ、三人の間へ静かな音を落としました。
私もハインツ様も、すぐには答えません。
殿下は自分で少し苦い顔をしました。
「また決めた」
「少しだけ」
「かなり?」
「少し多めです」
殿下は長く息を吐きました。
「彼女が誘った。それは、私が何かを達成した証拠ではない」
「はい」
「彼女がそのとき、私と話したいと思った。だから誘った」
「はい」
「それだけ」
「はい」
殿下はゆっくり顔を上げました。
「でも、嬉しい」
「はい」
「かなり」
「はい」
「それは受け取ってよい?」
「もちろんです」
殿下の表情が少し緩みました。
「なら、誘ったことは彼女のもの。嬉しいと思ったことは私のもの」
「はい」
「かなりよいと思います」
「受け取る」
「早いですね」
「今日は褒められると安心する」
「はい」
「でも、褒められるために変わっているわけではない」
「はい」
「……たぶん」
「最後に不安にならないでください」
「難しい」
◇
放課後、生徒会室には夕方の光が差し込んでいました。
窓際に並ぶ机の上には、議事録や申請書、確認待ちの書類が積まれています。殿下はご令嬢へ、「今日は生徒会が一時間ほどある」と伝えていました。
だから、先に自分の予定を終わらせます。
普段なら作業の合間にもどこかへ気を取られる殿下ですが、今日は意識して書類へ向かっているようでした。とはいえ、完全に平静だったわけではありません。
「殿下」
「何だ」
「今、時計を見ましたね」
「見ていない」
「見ました」
「一瞬だ」
「十分で四回です」
「数えるな」
周囲で作業していた役員たちから、小さな笑いが起こりました。
以前なら、王太子をこのように笑う人はほとんどいなかったでしょう。しかし今は、ハインツ様が普通に殿下をからかい、殿下も声を上げながら本気では怒っていないことを、皆が分かるようになっています。
「殿下、こちらの確認をお願いします」
書記の女生徒が、少し遠慮しながら書類を差し出しました。
「ああ」
殿下は書類を受け取り、一行、二行、三行と読み進めます。
「殿下」
「何だ」
「今、笑いました?」
「笑っていない」
「口元が」
「気のせいだ」
「放課後ですか?」
「ハインツ!」
「私は何も言っていません」
「顔が言っている!」
役員たちは再び笑いました。
殿下の耳は赤くなっています。
「仕事をしろ!」
「はい」
「殿下も」
「している!」
そのやり取りのあと、生徒会室の空気は少し柔らかくなりました。殿下もようやく書類へ集中し、予定していた一時間をほぼぴったりで終えます。
最後の申請書へ印を押すと、殿下はすぐに立ち上がりました。
「では、行ってらっしゃいませ」
ハインツ様が笑います。
「何だ、その言い方は」
「普通です」
「面白がっているだろう」
「少し」
「かなり?」
「かなり」
「マリアが増えた」
「光栄です」
「褒めていない!」
◇
生徒会室を出た殿下は、研究棟へまっすぐ向かいませんでした。
「殿下、どちらへ?」
「校舎裏だ」
「なぜです?」
「彼女が、『どちらかが会いたければ行く』と言った」
「はい」
「だから、先にいつもの場所へ行ってみる」
「はい」
「彼女が来なければ研究棟へ向かう」
「すぐに?」
殿下は少し考えました。
「いや。彼女もこちらへ来るかもしれない。行き違ったら困るから、少し待つ」
「はい」
「でも、何分なら少しだ」
「今、決めなくてもよいのでは?」
「また曖昧だ」
「今日の約束は、時間も場所も決めていませんから」
「そうだった」
校舎裏へ着くと、古いベンチには誰もいませんでした。
夕方の空気は朝より少し湿っており、校庭からは部活動の掛け声や、剣がぶつかる金属音が遠く聞こえます。校舎から出てくる生徒たちの笑い声も、風に混じりながら薄く届いていました。
「いない」
「はい」
「まだ?」
「かもしれません」
「研究会かもしれない?」
「はい」
「私が遅かった?」
「生徒会がありましたから」
殿下は時計を見ました。
「約束の時間は――」
「決めていません」
「そうだった」
殿下は少しだけ笑いました。
「これは不思議だな」
「何がです?」
「時間を決めていないのに、会えるかもしれない。会えないかもしれない」
「はい」
「でも今、待てる」
「はい」
「以前なら、何時何分と決めた」
「はい」
「今も決めたい。かなり」
「はい」
「でも、少しだけ、これも嫌ではない」
殿下はベンチへ座りました。
私は少し離れた木の下へ移り、二人の時間になったらさらに距離を取れるようにしておきます。
五分が過ぎました。
七分。
十分。
殿下は一度だけ時計を見ましたが、何も言いません。
十五分ほど経ったところで、殿下が立ち上がりかけました。
「マリア」
「はい」
「そろそろ研究棟へ――」
そのとき、校舎の角から足音が聞こえました。
ご令嬢が一人で現れます。
少し急いできたのか、歩調はいつもより速く、頬もほんのり赤くなっていました。
殿下は完全に立ち上がりましたが、駆け寄りません。その場に立ち、彼女がこちらへ来るのを待ちます。
「殿下」
「ああ」
「お待たせしました」
「いや」
「遅くなりました?」
殿下は一度私を見ました。
私は何も言いません。
「十五分」
「殿下」
「だが、遅刻ではない」
「はい?」
「時間を決めていない。だから私は、ただ待っていただけだ」
ご令嬢は少し目を大きくし、それから柔らかく笑いました。
「ありがとうございます」
「ああ」
「研究会で記録が長引いてしまって。でも、今日は来たかったので」
殿下の表情が止まりました。
私は静かに、もう少し距離を取ります。
「来たかった?」
「はい」
「ここへ?」
「はい」
「私に?」
そこまで言って、殿下は自分で止まりました。
「違う。確認しすぎた」
ご令嬢が少し笑います。
「はい」
「すまない」
「いいえ」
「でも、嬉しい」
ご令嬢の表情が柔らかくなりました。
「私も」
殿下がまた止まります。
「何が?」
「殿下が待っていてくださったことが、嬉しいです」
殿下はすぐに返事ができませんでした。
私は少し離れたところから、静かに呼びかけます。
「殿下」
「何だ」
「受け取ってください」
「分かっている。今、かなり受け取っている」
◇
最初は私もベンチの近くにいましたが、話が始まると自然に距離を取りました。完全に姿を隠すわけではありませんが、二人の会話が聞こえたり、風に紛れて聞こえなくなったりするくらいの場所です。
殿下とご令嬢は、少し間を空けてベンチへ座りました。
「昨日の研究の続きですが」
「ああ」
「葉の傾きについて、やはり鉢を回す時刻でかなり差が出ました」
「光量は同じ?」
「ほぼ同じです」
「温度は?」
「少し差がありました」
「なら、温度も調べる?」
「はい。次は条件を揃えて確認する予定です」
殿下は聞き、頷き、自然に質問しました。
ご令嬢も楽しそうに説明しています。昨日失敗した測定の話、記録がずれた原因、研究会の友人が鉢の向きを間違えたこと。
殿下は思っていたより普通に聞いていました。
時々、沈黙が落ちます。
けれど、その沈黙を無理に埋めません。
風が葉を揺らし、部活動の声が遠く響き、夕方の鐘が静かに鳴ります。会話が途切れても、二人が同じ場所にいる時間まで失われるわけではありません。
「殿下」
「何だ」
「今日は何もお持ちではないのですね」
ご令嬢が殿下の手元を見ました。
「何も?」
「差し入れも、黄桃も、資料もありません」
「ああ」
「紙は?」
殿下の表情が固まりました。
ご令嬢が少し笑います。
「あります?」
「……ある」
「何の紙ですか?」
「何でもない」
「殿下」
「十九個」
私は遠くで額へ手を当てたくなりました。
ご令嬢は目を大きくします。
「十九個?」
「ああ」
「何が?」
殿下はかなり迷ったあと、観念したように答えました。
「会話の候補だ」
一瞬の沈黙のあと、ご令嬢は口元を押さえました。
「笑っている?」
「少し」
「なぜ」
「だって、十九個も私と話すことを考えたのですか?」
「ああ」
「全部使いました?」
「使っていない」
「なぜ?」
「マリアに止められた」
ご令嬢がこちらを見ました。
「マリア様、ありがとうございます」
「彼女もそう言っている!」
殿下の声が少し大きくなります。
私は笑いをこらえました。
「でも、少し見たいです」
「十九個を?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「笑わない?」
「少しは笑うと思います」
「なら嫌だ」
「では、一つだけ」
殿下はかなり迷いましたが、やがて懐から紙を取り出しました。
折りたたまれた紙を開き、一つずつ読み直します。その表情は次第に険しくなっていきました。
「全部、今見ると少し重い」
「どんな質問です?」
「一番目は、『あなたは研究を将来も続けたいか』」
ご令嬢は少し驚きました。
「殿下は、それを聞きたいですか?」
殿下は紙から顔を上げます。
「……聞きたい」
「では、答えます」
殿下は自然に姿勢を正しました。
「私は、できれば研究を続けたいです」
「卒業後も?」
「はい」
「結婚しても?」
言った瞬間、殿下は完全に止まりました。
私も遠くで動きを止めます。
ご令嬢が少し目を大きくしました。
「殿下」
「違う。一般論だ」
「一般論?」
「結婚すれば研究をやめる女性もいる。だから、あなた自身はどうしたいのかと聞きたかった」
殿下の耳は赤くなっていますが、逃げずに言葉を続けました。
ご令嬢はしばらく殿下を見つめ、それから研究棟の方角へ視線を向けます。
「私は、できるなら続けたいです。家の事情も、将来のことも、まだ分かりません。でも、研究が好きなので、続けられるなら続けたいと思っています」
殿下はすぐには何も言いませんでした。
私は少し緊張しました。
以前の殿下なら、ここで「では王宮に研究室を用意する」と言っていたかもしれません。予算も人員も土地も、すぐに調べ始めたでしょう。
「そうか」
殿下は、それだけを言いました。
ご令嬢が少し驚いたように殿下を見ます。
「殿下?」
「何だ」
「何もおっしゃらないのですか」
「何を?」
「いえ。殿下なら、王宮に研究室を作る、とおっしゃるかと思っていました」
「言おうとした」
私は遠くで少し笑いました。
「でも、やめた」
「なぜです?」
殿下はご令嬢を見ました。
「あなたが研究を続けたいという話に、私がすぐ自分の力を足すのは違う気がした」
ご令嬢はしばらく黙りました。
「殿下」
「何だ」
「ありがとうございます」
「何が?」
「聞いてくださったことと、すぐに決めなかったことです」
殿下が少し目を大きくします。
「私は、自分で続ける方法を考えたいです」
「ああ」
「でも、困ったら相談してもよろしいですか?」
殿下が完全に止まりました。
「私に?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
殿下は一度、深く息を吸いました。
「いい。いつでも――」
言いかけて止まります。
「いや。いつでもは少し大きいな」
ご令嬢が笑いました。
「では、困ったとき、相談したいと思ったらお願いします」
「それなら待っている」
「はい」
◇
そのあと、二人の会話は研究だけではなくなりました。
昨日、ご令嬢が図書棟で友人と何をしていたのか。最近読んだ本の話。黄桃の噂がどこまで大きくなっているのか。生徒会室で殿下が以前より笑われるようになったこと。
「笑われる?」
「ハインツとマリアに」
「私は当然です」
「何が当然だ」
ご令嬢が笑いました。
「殿下は以前より楽しそうです」
「私が?」
「はい」
「ハインツにも同じことを言われた」
「では、本当にそう見えるのかもしれませんね」
殿下は少し考えました。
「私は毎日かなり困っている。マリアに止められ、ハインツに笑われる」
「はい」
「でも、以前より誰かと普通に話すことが増えた」
「それは楽しいですか?」
殿下は少し考えてから、頷きました。
「たぶん、かなり」
ご令嬢が笑います。
「よかったです」
「何が?」
「殿下が楽しそうで」
殿下は、すぐに返事をしませんでした。
嬉しいのだと思います。
でも今日は、その嬉しさをすぐ次へ変えません。
「ありがとう」
それだけ言いました。
ご令嬢は少し驚き、やがて柔らかく笑います。
「はい」
◇
夕方の光がかなり傾き、校舎の窓を橙色に染め始めました。屋根の上には帰る前の鳥が集まり、遠くの校門では馬車を待つ生徒たちの声が聞こえています。
ご令嬢が空を見上げました。
「そろそろ帰らなければ」
「ああ」
「今日はありがとうございました」
「私も楽しかった。かなり」
「私もです」
「かなり?」
ご令嬢が笑いました。
「かなり」
殿下も少し笑います。
「そうか」
私は少し離れた場所で緊張しました。
ここです。
次はいつにする。
明日も話したい。
また誘ってほしい。
そのような言葉が出るかもしれません。
「では、また」
ご令嬢が少し頭を下げました。
殿下の目がわずかに大きくなります。
けれど、何も足しません。
「ああ。また」
それだけでした。
ご令嬢は歩き出し、何度か振り返ることもなく、そのまま校舎の角を曲がっていきます。
殿下は追いません。
次の時間を決めません。
今日、ご令嬢から誘われた時間が、静かに終わりました。
◇
「マリア」
ご令嬢の姿が完全に見えなくなってから、殿下が私を呼びました。
「はい」
「終わった」
「はい」
「どうでした?」
殿下は少し考えました。
「楽しかった。かなり」
「はい」
「質問は一つ使った」
「十九分の一ですね」
「残り十八個」
「次のために残さないでください」
「分かっている!」
殿下は少し笑いました。
「彼女は研究を続けたいと言った」
「はい」
「私は、何かできることを考えた」
「はい」
「でも今はしない」
「はい」
「彼女が相談したいと思ったら来る。それまでは待つ」
「はい」
殿下は研究棟の方角を見ました。
「私は誘われた。それが嬉しかった」
「はい」
「だから、今日うまくやれば、また誘ってもらえると少し思った」
「はい」
「でも違う」
「はい」
「今日楽しかった。それで終わってよい」
「はい」
「また誘われたら嬉しい。誘われなかったら、私から会いたいと言ってもよい」
「はい」
「でも、今日の時間を、次のための成果にはしない」
私は少し笑いました。
「かなりよいと思います」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る。全部」
◇
翌朝、学園では当然のように噂が広がっていました。
王太子殿下が、ご令嬢に放課後呼び出された。
告白された。
婚約について相談した。
研究を結婚後も続ける約束をした。
王宮に研究室を作ることになった。
「誰が結婚の話をした!」
中央回廊に殿下の声が響きました。
「殿下」
「何だ」
「実際、『結婚しても研究を続けたいか』とは聞きましたよね」
「一般論だ!」
「はい」
「完全に一般論だ!」
「はい」
周囲の生徒たちはかなり聞いています。
「今、結婚って言った?」
「聞いた」
「研究を続けるとか」
「殿下が?」
「違うって言ってる」
「でも何の話?」
「婚約?」
「だから違う!」
殿下が反応したことで、噂はさらに広がりました。
「殿下、反応しないでください」
「無理だ」
「広がります」
「もう広がっている!」
「はい」
「私は彼女と結婚する場合を想定して聞いたわけではない」
「殿下」
「何だ」
「その説明を続けると、さらに悪化します」
殿下はようやく口を閉じました。
「彼女が困っていたら、そのとき説明する」
「はい」
「今、全校生徒へ説明はしない」
「はい」
「でも結婚の件だけは違うと言いたい」
「我慢してください」
「厳しい!」
◇
その日の朝、中央回廊の向こうからご令嬢が歩いてきました。
殿下が気づき、ご令嬢もこちらに気づきます。少し困ったような、それでも笑いを含んだ表情でした。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」
「噂、聞きました?」
「ああ」
「結婚の」
「違う!」
殿下は即答しました。
ご令嬢は一瞬止まり、そのあと笑います。
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
「私は一般論として聞いただけだ。あなたと私が結婚すると言ったわけでは――」
「殿下」
私は止めました。
周囲の生徒たちが完全に聞いています。
ご令嬢の頬も少し赤くなっていました。
「説明を足しすぎです」
「……分かっている」
ご令嬢は少し笑いました。
「私は困っていません」
「本当に?」
「少し恥ずかしいですが」
殿下の顔が少し曇ります。
「すまない」
「でも、昨日、聞いてくださったことは嬉しかったです」
「研究を続けたいか?」
「はい」
「それを聞かれたことが?」
「はい」
「なぜ」
ご令嬢は少し考えました。
「私が何をしたいか、聞いてくださったからです」
殿下は何も言わず、続きを待ちます。
「以前の殿下なら、たぶん先に答えを決めてくださったと思います」
「……ああ」
「でも昨日は、私に聞いてくださった。それが嬉しかったです」
殿下の目がわずかに揺れました。
「そうか」
「はい」
「私は、それを知らなかった」
「はい」
「でも、今は分かった。ありがとう」
ご令嬢は少し驚き、それから笑いました。
「はい」
ちょうどそのとき、朝の鐘が鳴りました。
「では、行きますね」
「ああ」
「また」
ご令嬢が笑います。
今度は殿下も迷いませんでした。
「また」
それだけ返しました。
ご令嬢は教室へ向かって歩いていきます。
◇
「マリア」
「はい」
「今、またと言った」
「はい」
「私もまたと言った」
「はい」
「でも、何も決めなかった」
「はい」
「どうです?」
殿下は少し考えました。
「少し不安だ」
「はい」
「でも、昨日誘われて、話して、楽しかった」
「はい」
「今日、彼女が嬉しかったと言った」
「はい」
「だから、それでよい」
「はい」
「今日の嬉しいを、今日受け取る。次のために使わない」
「はい」
「かなり?」
「かなり」
「受け取る。全部」
殿下は穏やかに笑いました。
◇
誰かから誘われることは、嬉しいものです。
けれど、その誘いを「自分が変わった成果」にしてしまうと、少し違うものになってしまうのかもしれません。
相手が話したいと思った。
会いたいと思った。
だから誘った。
その選択は、相手のものです。
自分が頑張ったから。
自分が成長したから。
自分が正しいことをしたから。
だから相手が来た。
そう決めてしまえば、また相手の気持ちを自分の物語へ取り込んでしまいます。
王太子殿下は、ご令嬢から誘われました。
かなり嬉しかったので、今日の時間を完璧にしようとしました。もう一度誘ってもらうために、十九個の会話候補まで用意しました。
けれど、そのほとんどを使いませんでした。
特別な差し入れもなく、次の約束もしませんでした。
ただ話し、聞き、少し笑い、同じ時間を過ごしました。
それでよかったのです。
ご令嬢が殿下を誘ったことは、殿下の成果ではありません。
でも、殿下が嬉しいと思ったことは、殿下のものです。
恋というものは、相手の気持ちを自分の努力の結果として集めることではないのだと思います。
相手が相手の意思でくれたものを、そのまま受け取る。
今日、会いたい。
今日、話したい。
今日、楽しかった。
その一つ一つを未来への保証へ変えず、今日のものとして大切にする。
王太子殿下も、少しずつできるようになっています。
ただし殿下、十九個の会話候補はまだ懐へ入っていますよね。
まさか今夜、「残り十八個を使うための次回予定」など作ろうとしていませんよね。
その少し考え込んだ顔は、かなり怪しいです。
本当にお願いします。




