第81話 王太子殿下、「また」を明日の約束に変えない
人から「また」と言われることは、とても嬉しいものです。
また話したい。また会いたい。また一緒に何かを食べたい。
それは、少なくとも今この瞬間、相手が次の時間を望んでくれたということです。自分と過ごした時間を嫌ではなかったと思ってくれたどころか、もう一度あってもよいものとして受け取ってくれたのだと感じられます。
だからこそ、嬉しい人ほど、その「また」をすぐに形へ変えたくなります。
「では、いつにする?」
「明日は?」
「来週は空いている?」
「次は何を食べようか」
そこまで決めてしまえば安心できるからです。次があることも、また会えることも、約束が消えないことも、目に見える形で確かめられます。
けれど、相手が言った「また」は、必ずしも明日という意味ではありません。
一週間後かもしれませんし、一か月後かもしれません。偶然都合が合った日に、ふと思い出すくらいの柔らかな「また」かもしれないのです。
それを、言われた側が嬉しいからといって、すぐに予定表へ書き込んでしまったら、やはり少しだけ相手の気持ちを先回りしてしまいます。
王太子殿下は昨日、好きなご令嬢からこう言われました。
『また何か、一緒に食べられたら』
その場で殿下は、「では明日」とも「来週」とも言いませんでした。
とても立派でした。
問題は、その翌朝です。
◇
「マリア」
「はい」
「確認したいことがある」
「おはようございます」
「……おはよう」
「はい。では、どうぞ」
「『また』とは、通常どの程度の期間を指す?」
朝の校舎裏には、昨夜降った雨の名残がまだ残っていました。木々の葉には細かな水滴が並び、風が通るたびに一つ、また一つと落ちて、湿った土へ小さな跡を作っています。
いつもの古いベンチへ座る殿下は、その静かな朝に非常に真剣な顔で、意味の分からない質問をしました。
「どの程度、とは?」
「時間だ。『また』と言った場合、一般的には一日後か、三日後か、一週間後か」
「決まっていません」
「一日ではない?」
「決まっていません」
「三日も?」
「決まっていません」
「一週間なら?」
「殿下」
「何だ」
「昨日は我慢できたのに」
「我慢ではない。その場では、すぐ次を決めないほうがよいと思ったから、決めなかっただけだ」
「はい」
「しかし、今朝になって予定を確認した」
殿下が膝の上へ置いていた小さな手帳を開きました。
私は嫌な予感がしました。
「明日は公務が少ない。明後日は午後に生徒会があり、その次の日は王宮へ戻る予定だが――」
「殿下、手帳を閉じてください」
「なぜだ」
「もう始まっています」
「何が」
「『また』を日程へ変える作業が、です」
殿下は動きを止めました。
開いた手帳を見てから私を見て、もう一度手帳へ視線を戻します。
「これは予定の確認だ」
「何のための?」
「また一緒に何かを食べるなら、空いている日を確認しておく必要がある」
「まだ誘っていませんよね?」
「だが、彼女がまた一緒に食べたいと言った。なら、次の予定を考えるのは自然ではないか」
「ご令嬢は、『次は三日後にしましょう』とおっしゃいましたか?」
「いや」
「『また』とだけ?」
「ああ」
「なら、今は待ってください」
殿下の眉がわずかに寄りました。
「でも、私もまた食べたい。かなり」
「はい」
「だから、次がないままなのは――」
殿下はそこで言葉を止めました。
私は少しだけ声を柔らかくします。
「不安ですか?」
殿下はすぐには答えませんでした。
遠くの鐘楼から朝の鐘が鳴り、登校してくる生徒たちの話し声が風に乗って届きます。その中で殿下は、開いたままの手帳へ視線を落としました。
「少し」
「はい」
「いや、かなり」
「はい」
「昨日は楽しかった」
「はい」
「彼女も、楽しかったと言った」
「はい」
「それに、また、と言ってくれた。だから、次があると思いたい」
殿下の声には、いつものような勢いだけではないものが混ざっていました。
きっと、少し怖いのです。
昨日、二人で黄桃を食べました。
自分は楽しかった。
相手も同じように楽しかったと言ってくれた。
だからこそ、その一度きりで終わることが怖いのだと思います。
「殿下、次がないと言われたわけではありません」
「ああ」
「また、と言ってくださった」
「ああ」
「それを信じて待つことも、必要なのではありませんか」
殿下は少し困ったような顔をしました。
「また待つのか」
「はい」
「最近、私は待ってばかりだ」
「そうですね」
「恋愛とは、こんなに待つものなのか」
「人によると思います」
「私だけ?」
「殿下には、待つ練習が必要なので」
「訓練のように言うな」
「実際、かなり上達しました」
「褒める?」
「はい」
一瞬だけ、殿下は少し嬉しそうな顔をしました。
しかし、すぐ手帳へ視線を戻します。
「では、今日は何もしない?」
「そうは言っていません。昨日の『また』を、今日すぐ次の日程へ変えなくてよいというだけです」
「いつなら決めてよい?」
「それも決まっていません」
「何を目安にすればいい」
「ご令嬢と次に自然にお話ししたとき、また何か食べたいという話になったら、そのとき決めればよいのでは?」
「自然に、どうやってその話へ持っていく?」
「それを考え始めた時点で、自然ではなくなります」
殿下は黙りました。
「殿下」
「分かっている」
「はい」
「今日は誘わない。少なくとも朝から次の食事の予定を決めようとはしない」
「はい」
「……かなり不満そうですね」
「不満ではない」
「では?」
「不安だ」
正直でした。
私は少し笑いました。
「それでよいと思います」
「不安で?」
「はい。不安だからといって、すぐ相手の時間を押さえなくても大丈夫だと覚える機会になります」
「やはり訓練ではないか」
「かなり」
「マリア」
「はい」
「今日は褒めない」
「褒めるのは私の役目です」
「そうだった」
◇
その朝、中央回廊で殿下は好きなご令嬢と会いました。
昨日の黄桃の件が学園中へ広がった翌朝です。当然、周囲の反応はいつもより分かりやすいものでした。
ご令嬢が研究会の友人二人と教室棟へ歩いてきます。殿下は反対側から私と歩いていき、互いに気づきました。
その瞬間、周囲にいた生徒たちの話し声が少しだけ小さくなります。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」
ごく普通の挨拶です。
けれど、殿下が続けて口を開いた瞬間、私は少し緊張しました。
「昨日は」
「はい」
「雨、大丈夫だった?」
ご令嬢が少し笑いました。
「帰りのことですか?」
「ああ。濡れなかった?」
「少しだけです」
「風邪は?」
「大丈夫です。殿下は?」
「私は平気だ」
「黄桃を守っていらっしゃいましたから」
ご令嬢の友人二人が、笑いをこらえるように口元を押さえました。殿下の耳がわずかに赤くなります。
「その話は、もうかなり広まっている」
「はい」
「私は命がけで黄桃を守ったわけではないし、あなたを抱きかかえて走ってもいない」
周囲が静かになりました。
私も殿下を見ます。
殿下は、自分が何を言ったかに気づいたようでした。
「違う。違うというのは噂の話だ。あなたを抱きかかえて走ったという噂は事実ではない」
「分かっています」
「だが」
殿下は一度言葉を止めました。
「あなたが転びそうになったなら、黄桃よりあなたを優先する」
ご令嬢の表情が少し変わりました。
先ほどまで笑いをこらえていた友人たちも、今は何も言いません。周囲の空気も、ほんの少しだけ柔らかくなりました。
「……ありがとうございます」
「ああ」
「でも、次は黄桃も一緒に守りましょう」
殿下の目が少し大きくなりました。
「一緒に?」
「はい」
「次?」
「はい?」
殿下の口が危険な方向へ動きました。
「次とは――」
私は小さく咳をしました。
殿下が止まります。
ご令嬢が不思議そうに首を傾げました。
「……いや。機会があれば、今度は黄桃を落とさないように二人で気をつけよう」
ご令嬢が柔らかく笑いました。
「はい」
それだけです。
殿下は「いつ」と聞きませんでした。
私は内心、かなり拍手したかったです。
◇
ご令嬢たちが離れてから、殿下は小さな声で言いました。
「今、危なかった」
「はい」
「彼女が『次』と言ったから、いつかと聞きそうになった」
「はい」
「でも止めた」
「はい」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る」
殿下は本当に少し嬉しそうでした。
しかし、すぐ次の言葉が出ます。
「ただ、彼女のほうから『次』と言った。つまり、次があることは――」
「殿下」
「まだ何も言っていない」
「先を決めない」
殿下は黙りました。
「分かっている。ただ、今は『次がある』と言いたかっただけだ」
「はい」
「昨日より少し安心した」
「それは受け取ってよいと思います」
「ああ。彼女が『次』という言葉を使った。でも、明日ではない。予定でもない。ただ、次があれば二人で黄桃を守る」
私は少し笑いました。
「そこを大事にするんですね」
「かなり」
◇
昼休みになると、新しい問題が起きました。
「殿下」
「何だ」
「机の上にあるものは?」
「紙だ」
「見れば分かります。何を書いたのですか?」
校舎裏のベンチの上には、昼食の包みと、その横に紙が三枚置かれていました。
殿下は少し気まずそうに視線を逸らします。
「次に何か食べるなら、何がよいか考えただけだ」
「何個です?」
「十七」
「多すぎます」
「食べ物は多い」
「選択肢の問題ではありません」
私は紙の一枚を手に取りました。
「一、焼き菓子。二、果実タルト。三、蜂蜜菓子。四、王都名物の薄焼き菓子。五、南方の香辛料入り菓子――」
「まだ十二ある」
「だから止めています」
「昨日、彼女がまた何か一緒に食べたいと言った。なら、何がよいか考えておくのは悪くないだろう」
「悪くはありません。ただ、殿下は今、次にご令嬢と食べるものを考えているのではなく、次の約束を作るための理由を探していませんか」
殿下が完全に止まりました。
風が木の葉を揺らし、遠くから昼休みを過ごす生徒たちの笑い声が届きます。
「理由?」
「はい」
「違う。私は食べたいものを――」
殿下は紙を見ました。
「……少し、理由だったかもしれない」
「はい」
「昨日は楽しかった。だから、また同じような時間を作りたい。でも、何も理由がないと誘いにくい。だから菓子を理由にしようとした」
殿下は長く息を吐きました。
「前にも黄桃で同じことをしそうになった。会いたいから、食べ物を理由にしようとした」
「はい」
「進歩していない?」
「そんなことはありません。以前なら、自分で気づかなかったと思います」
「今は、理由にしようとしていたと自分で言えた?」
「はい」
「褒める?」
「はい」
「受け取る」
殿下は三枚の紙を一枚ずつ折りました。
「捨てる?」
「そこまでしなくても大丈夫です。食べ物の候補自体が悪いわけではありません」
「では、取っておく」
「ただし、ご令嬢に会うためだけの口実にはしないでください。自然に話題になったとき、食べたいものがあれば、一緒にどうですかと聞けば十分です」
殿下はしばらく考えました。
「私は、理由がないと会いたいと言えない?」
「今は、まだ少しそうかもしれませんね」
殿下の表情に、わずかな寂しさが浮かびました。
「会いたいだけで会いに行くのは、重い?」
「場合によります」
「また難しい」
「相手の都合を聞いて、会いたいと正直に言い、断られても受け入れるなら、それでよいのではありませんか」
殿下は私を見ました。
「食べ物がなくても?」
「はい」
「黄桃がなくても?」
「はい」
「研究の質問がなくても?」
「はい」
「会いたいから、話したいと言ってよい?」
「はい」
殿下はしばらく何も言いませんでした。
「……怖い」
「はい」
「理由がないと、断られたときに、自分そのものを断られたように感じる」
「はい」
「黄桃なら、食べたくない。研究なら、今は忙しい。そういう理由がある。でも、会いたいだけなら、『会いたくない』と言われたときに逃げられない。私自身を断られたように思う」
その言葉は、とても正直でした。
「だから、理由を作っていた?」
「たぶん」
殿下は折りたたんだ紙を見つめました。
十七個の食べ物。
けれど、本当に欲しかったのは菓子ではありません。
好きな人と、また時間を過ごすことです。
「マリア」
「はい」
「私は、会いたいだけで誘えるようになる?」
「分かりません」
「そこは励ませ」
「でも、今よりは上手になると思います」
「かなり?」
「かなり」
殿下は少し笑いました。
◇
その日の午後、授業が終わる頃には、新しい噂が広がっていました。
王太子殿下が、次の食事のために十七種類の候補を用意している。
どこから漏れたのかは分かりません。たぶん昼休み、殿下が紙を広げていたのを、誰かが遠くから見たのでしょう。
「十七種類?」
廊下を歩いていた殿下が止まりました。
「はい。噂です」
「なぜ十七と数えた」
「見られていたのでは?」
殿下は両手を見せました。
「今日は何も持っていない。差し入れも、資料も、菓子もない。完全に手ぶらだ」
「はい」
「なぜ、少し不安になる」
「手ぶらだからですか?」
「ああ。何も理由がないから」
「でも、今日は会いに行くのでしょう?」
「行く」
「怖い?」
「かなり。でも行く」
殿下は研究棟へ向かって歩き始めました。
廊下には今日も何人かの生徒がおり、殿下が近づくにつれて小さな囁き声が生まれます。
「本当に手ぶらだ」
「今日は何?」
「次の約束?」
「十七種類は?」
「持ってない」
「じゃあ、何をしに来たんだろう」
殿下の足が、少し止まりそうになりました。
私は何も言いません。
殿下が自分で決める場面です。
研究会の扉の前まで来ると、殿下は私を見ました。
「私は何をしに来た?」
「ご自分で答えてください」
殿下は少し考えました。
「会いたいから」
「はい」
「話したいから。それだけ」
「十分です」
殿下は三回、扉を叩きました。
「はい」
中から返事があり、研究会代表が扉を開けます。
「あ、殿下」
「何だ」
「いえ。今日は差し入れは?」
「ない」
「資料は?」
「ない」
「質問は?」
「特にない」
代表は少し不思議そうな顔をしました。
「では、どのようなご用件で?」
殿下は一瞬止まりました。
「彼女はいる?」
「いらっしゃいます」
「今、話せる?」
代表は中を振り返ります。
「少しなら。ただ、今は作業中です」
「なら、終わるまで待つ」
「分かりました」
殿下は廊下の壁際へ移動しました。
研究会室の中では、ご令嬢が三人の会員と机を囲み、記録紙と植物を見比べています。殿下は何も持たず、ただ待ちました。
周囲の生徒たちは少し困惑しています。
「本当に何もない」
「何をしに来たんだ」
「会いに?」
「それだけ?」
殿下の耳が少し赤くなりました。
けれど今日は、否定しません。
「マリア」
「はい」
「今、かなり恥ずかしい」
「はい」
「でも帰らない」
「はい」
◇
十五分ほど待ったころ、ご令嬢の作業が終わりました。
こちらに気づいたご令嬢は少し驚き、すぐ柔らかく笑います。
「殿下、いらしていたのですか」
「ああ」
「いつから?」
「十五分」
「また数えて」
「時計がある」
ご令嬢が少し笑いました。
「今日は手ぶらなのですね」
殿下の表情が少し固くなります。
「……ああ」
「珍しいです。何かご用が?」
その一言で、殿下は止まりました。
黄桃もありません。
資料もありません。
研究の質問もありません。
明確な用事は、何もありません。
殿下は深く息を吸いました。
「用は、ない」
ご令嬢が少し目を大きくします。
「ただ、会いたかった」
廊下が一瞬、静かになりました。
私は殿下を見ます。
理由も口実もありません。
ただ会いたかった。
それだけです。
ご令嬢はすぐには返事をしませんでした。殿下の顔にわずかな不安が浮かびます。
「……私に?」
「あなたに会いたかった」
今度は言い直しました。
ご令嬢の頬が少し赤くなります。
「ありがとうございます」
殿下は少し息を吐きました。
「でも、今日はこのあと友人と図書棟へ行く約束があります」
殿下の表情に、わずかな残念さが浮かびます。
「そうか」
「せっかく来てくださったのに、よろしいのですか?」
「私は会えた。少し話せた。だから、今日はそれでよい」
ご令嬢の表情がゆっくりと柔らかくなりました。
「本当に?」
「ああ。もう少し話したかったから、残念ではある」
ご令嬢が少し困ったように笑います。
「でも、それは私のほうの話だ」
その言葉を聞いて、私は少し胸が熱くなりました。
殿下は覚えています。
自分が寂しいことと、相手に責任を取らせることは、同じではありません。
「では、今度またお話ししましょう」
殿下の目が少し動きました。
私は何も言いません。
「……ああ。また」
それだけです。
いつとは聞きません。
明日とも言いません。
今度とは何日後か、確認もしません。
ただ、「また」を受け取りました。
ご令嬢は友人たちのところへ戻り、数分後、研究棟を出ていきます。
殿下はその背中を見送りましたが、追いませんでした。
◇
研究棟を出てから、殿下はしばらく何も言いませんでした。
夕方の風は少し冷たく、雨上がりの土の匂いが残っています。遠くには図書棟へ向かうご令嬢と友人たちの姿が、小さく見えました。
「殿下、どうでした?」
「怖かった。かなり」
「はい」
「でも、会えた」
「はい」
「彼女には友人との約束があった。だから、話したのは少しだけだった」
「はい」
「でも、よかった。かなり」
私は少し笑いました。
「会いに行った理由は?」
「分かっているだろう」
「はい」
「会いたかった。それだけ」
「かなりよくできました」
「受け取る」
殿下は少し誇らしそうでした。
しかし、次の瞬間には寂しそうな顔になります。
「ただ、もう少し話したかった」
「はい」
「図書棟へは行かない」
「はい」
「分かっている。ただ言っただけだ」
「はい」
「かなり行きたい」
「はい」
「でも、彼女は友人と過ごしたい。だから私は自分のことをする」
「今日は何を?」
殿下は少し考えました。
「生徒会の書類」
「かなりあります」
「……帰りたい」
「殿下」
「分かっている。やる」
◇
その日の生徒会室で、殿下は本当に書類を処理しました。
ただし、完全に集中できたかといえば、そうではありません。
書類を二枚読むたび、窓から図書棟の方向を見ます。
「殿下」
向かいに座るハインツ様が呼びました。
「何だ」
「窓を見るのは十八回目です」
「数えるな」
「マリア嬢から、今日は会いたいだけで会いに行けたと聞きました」
「なぜもう知っている」
「先ほど報告を受けました」
私は生徒会室の端へ座っています。
「マリア、なぜ報告した」
「面白いので」
「正直すぎる!」
ハインツ様が笑いました。
「それで殿下、今日は次の約束をしなかったそうですね」
「ああ」
「残念?」
「かなり」
「不安?」
「少し。次が決まっていないから」
「では、次が決まっていると、その日まで安心できる?」
「ああ」
「決まっていないと、毎日不安になる?」
「……少し」
「それは、かなり疲れますね」
「そうだ」
ハインツ様は一枚の書類を殿下へ差し出しました。
「なら、次が決まっていない時間も楽しめるようになったほうが、殿下自身も楽なのでは?」
「次が決まっていない時間に、何を楽しむ」
「今日、会えたことです」
「はい」
「会いたかったと言えた」
「はい」
「また話しましょうと言われた」
「はい」
「それで十分では?」
殿下はしばらく何も言いませんでした。
「私は、次ばかり見ている?」
「かなり」
「正直すぎる」
「殿下が最近、正直なので」
殿下は少し困った顔をしました。
「今日、会えた。それを今日喜ぶ?」
「はい」
「次がなくても?」
「次がないとは言われていません」
「……また、と言われた」
「はい」
「なら、今日は今日を喜ぶ」
「はい」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る。全部」
◇
翌朝、殿下は手帳を持ってきませんでした。
「珍しいですね」
「何が」
「手に何もありません」
「朝食は持っている」
殿下が小さな包みを出します。
私は少し身構えました。
「誰と食べるのです?」
「私が食べる」
「本当に?」
「なぜ疑う」
「次の食事の口実かと思いました」
「違う!」
殿下の声が校舎裏へ響きました。
「今日は彼女を何も誘わない。会えたら話し、会えなければ自分のことをする」
「はい」
「また、と言われた。だから、私は次を急がない」
殿下は一度空を見上げました。
「かなり難しいが」
「はい」
「でも、昨日、会いたいだけで会いに行けた。それが少し嬉しかった」
「かなり?」
「かなり」
私は笑い、殿下も少し笑いました。
◇
その日、ご令嬢とは朝も昼も会いませんでした。
放課後、殿下は研究棟へ行きませんでした。
会いたい。
でも、毎日行く必要はありません。
ご令嬢から来てほしいと言われたわけでもなく、殿下には殿下の授業や生徒会、公務があります。
夕方、校舎裏で少しだけ話したとき、殿下は静かに言いました。
「今日は会わなかった」
「はい」
「少し寂しい。少し多めに」
「はい」
「でも、嫌われたとは思わない。忙しかったのかもしれないし、友人や研究や家族と過ごしていたのかもしれない。何であっても、それは彼女の時間だ」
「はい」
殿下は少し笑いました。
「今日会わなくても、昨日の『また』はなくならない?」
「なくなりません」
「昨日もらった言葉は、昨日のものとして残っている?」
「はい」
「今日会わなくても、消えない?」
「はい」
殿下は長く息を吐きました。
「かなり安心する」
「はい」
「これも覚えた?」
「はい」
「褒める?」
「かなり」
◇
さらに翌朝、中央回廊を歩いていると、前からご令嬢が一人でやってきました。
互いに気づき、ご令嬢が少し笑います。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」
「昨日――」
殿下の目が少し動きました。
「はい?」
「いや。何でもない」
殿下はおそらく、「昨日、会わなかった」と言いかけたのでしょう。
責めるつもりがなくても、相手には違う意味へ聞こえるかもしれません。
「昨日、研究はうまくいった?」
「はい。新しい変化が見つかりました」
「何が?」
ご令嬢が楽しそうに研究の話を始めます。
殿下は急かさず、いつもより少し長く聞いていました。しかし、教室へ向かう時間が近づきます。
「続きは――」
殿下が言いかけました。
「続き?」
「ああ。また時間があるときに聞きたい」
ご令嬢の表情が柔らかくなります。
「もちろんです」
「かなり?」
ご令嬢が笑いました。
「かなり」
それから三歩ほど進んだところで、ご令嬢は振り返ります。
「殿下」
「何だ」
「今日の放課後、もしお時間があれば、昨日の研究の続きをお話ししませんか?」
今度は、殿下が誘われました。
周囲の空気が少し静かになります。
殿下はすぐには返事をせず、自分の予定を思い出すように少し考えました。
「今日は生徒会が一時間ほどある」
「では――」
「でも、そのあとなら話したい」
ご令嬢が笑います。
「では、終わったらどちらかが会いに行きます?」
以前、二人で決めた言葉でした。
殿下は少し目を大きくします。
「……ああ。どちらかが、会いたければ行く」
「はい」
ご令嬢は笑い、教室へ向かいました。
姿が完全に見えなくなってから、殿下は私を振り返ります。
「マリア」
「はい」
「今、誘われた」
「はい」
「彼女から、今日の放課後に研究の話をしようと」
「はい」
「……かなり嬉しい」
「はい」
「でも、すぐに明日もとか、次はいつとか言わなかった」
「はい」
「褒める?」
「かなり」
「受け取る。全部」
◇
人から「また」と言われたとき、その言葉は未来の予定表ではありません。
いつ、どこで、何時に、何をするのか。
そこまで書いてあるわけではない。
でも、だからといって曖昧で価値がないわけでもありません。
また話したい。
また会いたい。
また一緒に何かしたい。
その瞬間、相手が次の時間を少しだけ思ってくれた。
それだけで、十分に嬉しいのです。
王太子殿下はこれまで、「また」と言われると、すぐに日程へ変えたくなりました。
いつ会うか。
何をするか。
どうやって次を確定させるか。
決まっていれば安心できるからです。
でも、今日は少しだけ待てました。
次が決まっていなくても、昨日の「また」は消えません。
今日会えなくても、昨日楽しかったことは消えません。
そして、自分が次を作らなくても、相手のほうから「今日、話しませんか」と言ってくれる日もあります。
たぶん、殿下にとってこれはとても大きなことです。
自分が予定を押さえなくても、関係は終わらない。
自分がすべてを決めなくても、また会えることがある。
自分から行かなくても、相手から来てくれることがある。
王太子殿下。
「また」は明日の約束ではありません。
でも、明日を少しだけ楽しみにしてよい言葉です。
だから、急がなくて大丈夫です。
ただし殿下。
今度はご令嬢のほうから、放課後のお話へ誘われましたね。とても嬉しいことだと思います。
それでも今夜、「彼女から誘われた場合の会話候補」を二十個ほど作るのはやめてください。
昨日より一つ減らして十九個なら問題ない、という話でもありません。
本当にお願いします。




