第80話 王太子殿下、自分の言葉が届くまで待つことを覚える
アルスード学園には、朝になると少しずつ音が増えていく時間がある。
最初に聞こえるのは、まだ人影の少ない中庭を掃く箒の音だった。石畳を擦る乾いた音が一定の間隔で続き、その向こうから厩舎へ向かう馬車の車輪がかすかに響き、やがて寮から出てきた生徒たちの話し声が重なっていく。
夏へ近づく朝の空気には、夜の冷たさがわずかに残っていた。
庭木の葉には露がつき、朝日を受けるたび細かな光を散らしている。
そんな時間に。
私は、いつもの校舎裏のベンチへ向かっていた。
正確には。
向かおうとして。
途中で足を止めた。
「……何をしていらっしゃるのですか」
思わず、そう聞いてしまった。
私の声を聞いた王太子殿下は、植え込みの横でぴたりと動きを止めた。
右手には紙。
左手にも紙。
さらに脇には、折り畳まれた紙が三枚ほど挟まっている。
しかも。
何かを書いていた。
「マリア」
「はい」
「早いな」
「殿下も十分すぎるほど早いと思います」
「そうか?」
「まだ始業までかなりあります」
「うむ」
そこで殿下は、少しだけ視線を逸らした。
嫌な予感がした。
私は植え込みを回り込み、殿下の正面へ立った。
「それは何ですか」
「紙だ」
「そこは見れば分かります」
「質問の仕方が悪い」
「殿下」
「冗談だ」
朝から珍しく余計なことを言った。
以前なら、好きな相手を前にして余計な一言を口にしたあと、自分で何を言ったのか理解できずに堂々としていた人である。
最近は。
余計なことを言った自覚だけは早くなった。
「……今のは、言わない方がよかったな」
「はい」
「かなりか?」
「少しだけです」
「少しか」
殿下はほっとした顔をした。
その顔を見て。
私は、ほんの少し笑いそうになった。
けれど。
問題はそこではない。
「それで」
「うむ」
「何を書いていたのですか」
もう一度聞くと。
殿下は黙った。
紙を持つ指先が、わずかに止まる。
その反応で。
私はだいたい察した。
「……まさか」
「違う」
「まだ何も言っていません」
「なら、言わなくていい」
「告白文ですか」
「違う」
「では恋文ですか」
「もっと違う」
「どう違うのですか」
「告白文より恋文の方が、なんとなく重い」
「そこを議論するつもりはありません」
私はため息をついた。
殿下は紙を背中へ隠そうとした。
ただし、両手に紙を持っているので全く隠れていない。
むしろ。
背中側で紙同士が擦れ、かさかさと音を立てていた。
「殿下」
「見るな」
「見せてください」
「嫌だ」
「では、何の紙なのか説明してください」
「……」
「殿下」
「文章の練習だ」
私は瞬きをした。
「文章?」
「そうだ」
「誰に渡すためのものですか」
「まだ渡さない」
その答えだけは。
思ったより早かった。
私は少しだけ姿勢を正した。
「まだ?」
「うむ」
殿下は、背中へ回していた紙をゆっくり戻した。
朝日が差し込み。
一番上の紙に、細かな文字が何行も並んでいるのが見えた。
けれど。
私は読もうとはしなかった。
殿下が見せていないものを。
勝手に見る必要はない。
「昨日、考えた」
殿下が言った。
「何をですか」
「言葉についてだ」
風が吹いた。
中庭側から。
鐘楼の旗が動く音が、遠くに聞こえた。
「私は以前」
殿下は、ゆっくり話した。
「言えば届くと思っていた」
私は黙って聞いた。
「正確には、言葉は口にした時点で相手に渡るものだと思っていたのかもしれない。だから、言いたいと思ったことを言った。伝えたいと思ったことを、そのまま出した」
殿下はそこで。
少しだけ眉を寄せた。
「結果」
「はい」
「かなり失敗した」
「かなりではありません」
「……非常に?」
「はい」
「そこは訂正するのか」
「大切なので」
「大切なのか」
「今後のために」
殿下は複雑そうな顔をしたが。
反論はしなかった。
それだけでも。
以前とは違う。
「だが」
殿下は続けた。
「最近、少し違うのではないかと思うようになった」
「何がですか」
「言葉は、口から出しただけでは届かないのではないか」
私は。
すぐには返事をしなかった。
殿下も。
答えを急かさなかった。
数か月前なら。
ここで絶対に聞いていた。
『どういう意味だ』
『今のは正しいか』
『マリアならどう思う』
答えを求め。
自分の言葉が正解だったのか。
すぐに確認したはずだ。
けれど。
殿下は今。
待っていた。
私が考える時間を。
何も言わずに。
「……そうですね」
私は、ようやく答えた。
「届くまでには、時間が必要な言葉もあります」
「やはり、そうか」
「はい。でも」
「でも?」
「時間を置けば、必ず届くわけでもありません」
殿下は真剣に聞いている。
「相手が聞ける状態か。今、その言葉を受け取れる気持ちなのか。その場所で言うべきことなのか。それから、言った側が、相手の反応を待てるのか」
「最後が難しいな」
「殿下は特に」
「やはり私か」
「はい」
素直に答えると。
殿下は少し落ち込んだ。
しかし。
以前のように大げさに肩を落としたりはしない。
紙を見ながら。
考えている。
「相手の反応を待つ……」
「はい」
「返事を求めないということか」
「場合によります」
「難しい」
「人の気持ちは、だいたい難しいものです」
「マリアは簡単そうに言う」
「私は簡単だとは思っていません」
その言葉に。
殿下が顔を上げた。
「そうなのか」
「そうです」
「いつも答えを知っているように見える」
「知っていたら、毎回こんなに悩みません」
「悩んでいたのか」
「……殿下」
「いや」
殿下は一度、息を止めた。
それから。
慎重に言い直した。
「今の聞き方は、あまりよくなかった」
私は少し驚いた。
「どうしてです?」
「マリアが悩んでいると知って、私は驚いた。だが、その驚きをそのまま口にすると、まるでマリアが悩まない人間だと思っていたように聞こえる」
「……」
「違うか?」
「いいえ」
「なら」
殿下は一度。
言葉を探した。
「私は、マリアがいつも考えてくれていたことを、きちんと分かっていなかったのだと思う」
今度は。
私が黙る番だった。
朝の校舎裏は。
まだ人が少ない。
けれど。
完全に静かではない。
開いた窓から教室の机を動かす音が響き、渡り廊下の向こうから早朝練習を終えた剣術部の生徒たちが戻ってくる声が聞こえる。
誰かの一日が。
もう始まっている。
そんな日常の音の中で。
殿下の言葉だけが。
少しゆっくり。
私の中へ入ってきた。
「……成長しましたね」
「何がだ」
「それです」
「分からん」
「分からなくて大丈夫です」
「気になる」
「我慢してください」
殿下は不満そうだった。
それでも。
聞かなかった。
私は。
また少し驚いた。
本当に。
少しずつ。
変わっている。
「それで、この紙は」
私は話を戻した。
「言葉を練習しているのですね」
「ああ」
「誰かに渡すために?」
「……いずれ」
「いずれ?」
「今ではない」
殿下は紙を見る。
「以前の私は、書いたら渡しただろう」
「間違いなく」
「できれば少し否定してほしかった」
「事実です」
「そうか」
殿下は紙を折った。
丁寧に。
二つ折りにし。
また開いた。
「だが、今はまだ渡さない」
「理由を聞いても?」
「まだ、私が渡したいだけだからだ」
胸の奥で。
何かが止まった。
「……どういう意味ですか」
「私は渡したい。言いたい。伝えたい。それは分かる」
殿下は。
紙を見たまま続けた。
「だが、相手が今それを受け取りたいかは、分からない」
私は何も言えなかった。
「だから、待つ」
殿下は言った。
「待っている間に、必要なくなるかもしれない」
「……それでも?」
「ああ」
「書いたのに?」
「書いたからといって、渡す義務はないだろう」
それは。
とても簡単な言葉だった。
でも。
この人にとっては。
簡単ではない。
王太子。
生まれた時から。
多くのことが。
自分のために用意されてきた人。
殿下が来ると言えば部屋が空き。
殿下が話すと言えば人が集まり。
殿下が参加すると決まれば予定が変わり。
殿下の言葉には。
誰かが答える。
答えなければならない。
そんな環境の中で育った人が。
自分が言いたいからといって。
相手が受け取る義務はない。
そう言った。
私は。
しばらく。
何も言えなかった。
「マリア?」
「……はい」
「今のは何か間違っていたか」
やはり。
最後は聞いた。
少しだけ。
安心した。
「いいえ」
「そうか」
「殿下」
「何だ」
「その紙」
「見せないぞ」
「読みません」
「本当か」
「はい」
「なら何だ」
「大切に持っていてください」
殿下は。
少しだけ目を見開いた。
「捨てなくていいのか」
「なぜ捨てるのです」
「渡さないなら、不要かと思った」
「殿下が考えた言葉でしょう?」
「ああ」
「なら、持っていていいと思います」
「……そうか」
「いつか渡したくなるかもしれませんし。読み返して、恥ずかしくなって燃やしたくなるかもしれません」
「後半が不吉だな」
「可能性です」
「高いか?」
「内容を見ていないので分かりません」
「なら見せようか」
「結構です」
「即答」
殿下は。
少し笑った。
私も。
つられて笑った。
その時だった。
「……朝から、ずいぶん穏やかですね」
背後から。
聞き慣れた声がした。
私は振り返った。
副会長のハインツ様が。
数冊の書類を抱えて立っていた。
そして。
私と殿下を順番に見ている。
「ハインツ」
「おはようございます、殿下。マリア嬢」
「おはようございます」
「朝から仕事か」
「殿下もでしょうか」
「私は……」
殿下が紙を見る。
ハインツ様も紙を見る。
「仕事ではなさそうですね」
「なぜ分かる」
「公務書類を背中に隠す王太子がいたら、私は職務上かなり不安になります」
「見ていたのか」
「見えていました」
殿下が黙った。
私は顔を伏せた。
笑わないように。
「何だ、その顔は」
「何でもありません」
「笑っているだろう」
「笑っていません」
「肩が動いている」
「朝は冷えますので」
「嘘だ」
ハインツ様が。
深いため息をついた。
「朝から仲がよろしいことで」
「違う」
殿下が。
反射的に言った。
私は。
止まった。
ハインツ様も。
止まった。
殿下も。
言った直後に気づいたらしい。
「あ」
沈黙。
鳥が鳴いた。
かなり近くで。
「殿下」
「違う」
「何がでしょう」
「今の違うは違う」
「非常に高度ですね」
「ハインツ、黙れ」
「昔に戻りましたか?」
「戻っていない」
「では、説明を」
殿下は。
口を開いた。
閉じた。
それから。
私を見た。
またハインツ様を見る。
最後に。
紙へ視線を落とした。
「……今のは」
「はい」
「仲がよいと言われて、否定したかったわけではない」
私は。
少しだけ呼吸を止めた。
「では?」
「その……」
殿下は。
明らかに困っている。
昔なら。
焦れば焦るほど。
口が先に動いた。
そして。
大惨事になった。
だから。
私は。
止めようと思った。
『殿下。もう何も言わなくて大丈夫です』
そう言えば。
たぶん。
終わる。
でも。
私は言わなかった。
殿下が。
今。
自分で言葉を選んでいるから。
私は待った。
ハインツ様も。
珍しく急かさなかった。
風が抜ける。
殿下の手にある紙が。
わずかに鳴った。
「仲がよいという言葉を否定したのではなく」
殿下は、ゆっくり言った。
「他人にそう言われた時、私が勝手に肯定していいのか分からなかった」
「……」
「マリアが、私と仲がよいと思っているかどうかを確認せずに、私が『そうだ』と言うのは違うと思った」
私は。
何も言えなかった。
ハインツ様も。
珍しく。
本当に黙った。
「だから違うと言った」
殿下は眉を寄せる。
「だが、それではマリアとの関係を否定したように聞こえる。今、気づいた」
「なるほど」
ハインツ様が。
静かに言った。
その声には。
笑いがなかった。
「ずいぶん考えるようになられましたね」
「遅いか」
「いいえ」
ハインツ様は。
少しだけ笑った。
「むしろ、考えすぎて今後は会話が遅くなりそうです」
「それは困る」
「少しくらい遅い方が安全です」
「私もそう思います」
「マリアまで」
殿下は。
不満そうに私を見る。
でも。
さっきの答えを求めてはいない。
私は。
息を吸った。
「私は」
自分でも。
なぜか少し緊張した。
「殿下とは、仲がよいと思っています」
殿下の目が。
大きく開いた。
ハインツ様が。
わずかに顔を逸らした。
たぶん。
笑いを隠した。
「……そうか」
「はい」
「そうなのか」
「二回確認しないでください」
「いや」
殿下は。
とても嬉しそうだった。
隠そうとしているのに。
全く隠れていない。
「そうか」
三回目だった。
「殿下」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「では、その顔を少し戻してください」
「どういう意味だ」
「廊下へ出る前に」
「私は普通だ」
「普通ではありません」
ハインツ様が。
書類を持ったまま肩を震わせていた。
「副会長」
「失礼しました」
「笑っているだろう」
「笑っておりません」
「マリアと同じ嘘をつくな」
「殿下も人の嘘が分かるようになったのですね」
「馬鹿にしているな」
「成長を喜んでおります」
「それが馬鹿にしている顔だ」
いつものような。
少しくだらないやり取り。
けれど。
以前とは違う。
殿下は。
もう。
私が何を思っているかを。
勝手に決めない。
その変化が。
なぜか。
胸の奥に。
ゆっくり残った。
始業鐘が近づくにつれて。
校舎の中には人が増えていった。
私たちが正面玄関側へ回る頃には、寮から来た生徒たちと通学生が合流し、廊下は朝特有のざわめきに満ちていた。
「おはようございます、殿下」
「おはようございます」
「マリア様、おはようございます」
「おはようございます」
「副会長、その資料、今日の委員会のですか?」
「ああ。午後に使う」
声が次々と飛んでくる。
殿下は。
一人ずつ。
短く返していく。
以前より。
立ち止まることが増えた。
誰かが話しかけた時。
歩きながら返さず。
少しだけ相手を見る。
そのせいで。
移動時間は確実に伸びた。
ハインツ様が以前。
『殿下が人の話を聞くようになると、予定に余白が必要になりますね』
と真顔で言っていた。
冗談かと思ったが。
本当に必要になっている。
「殿下!」
階段の手前で。
一人の男子生徒が駆け寄ってきた。
二年生。
胸元の徽章から。
歴史研究会の生徒だと分かった。
資料公開日に。
閲覧室で見かけたことがある。
「何だ」
「先日の資料公開の件で」
男子生徒は。
そこで一度。
周囲を気にした。
廊下には。
多くの生徒がいる。
王太子へ話しかければ。
どうしても視線が集まる。
「すみません。ここでは……」
彼が言い淀む。
以前の殿下なら。
『構わない。言え』
と答えたかもしれない。
殿下は。
少し考えた。
「人に聞かれたくない話か」
「はい」
「では、昼休みは?」
「え」
「私は昼休みの前半なら空いている」
殿下はハインツ様を見る。
「空いているな?」
「五分ほどなら」
「五分だそうだ」
「え、でも」
生徒は戸惑った。
「殿下の時間を、私なんかが」
「何か伝えたいのだろう」
「……はい」
「なら、五分使えばいい」
「でも」
「ただし」
殿下が言った。
「急がなくていい」
生徒が顔を上げる。
「五分で言えるようにまとめろという意味ではない。言えなければ、また別の日に話せばいい」
「……」
「それでいいか?」
男子生徒は。
すぐには答えなかった。
やがて。
深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「昼に」
「はい」
彼が去っていく。
その背中を。
近くにいた生徒たちが見ていた。
ひそひそと。
小さな声が流れる。
「殿下、直接聞くんだ」
「資料公開の話かな」
「五分って言ってたけど、別の日でもいいって」
「前より話しかけやすくなったよね」
「でも緊張する」
「そりゃ王太子だぞ」
声は。
完全には隠れていない。
殿下にも聞こえているはずだった。
以前なら。
何か言ったかもしれない。
『私は話しかけにくくない』
とか。
『緊張する必要はない』
とか。
言いそうだ。
そして。
さらに緊張させそうだ。
けれど。
殿下は何も言わなかった。
歩き出す。
階段を上がりながら。
小さく言った。
「話しかけやすくなったそうだ」
「嬉しいですか」
「少し」
「少し?」
「かなり」
「正直ですね」
「だが」
殿下は。
前を見たまま言った。
「私が嬉しいからといって、振り返って礼を言うのは違う気がした」
「……そうですね」
「あれは私に聞かせるための会話ではなかった」
「はい」
「聞こえただけだ」
また。
私は思った。
この人は。
本当に。
待つことを覚え始めている。
言わないこと。
答えを求めないこと。
聞こえても、拾わないこと。
これまでは。
殿下にとって。
何もしないことに近かった。
今は。
違う。
何も言わないという選択を。
自分でしている。
昼休み。
私たちは生徒会室にいた。
先ほどの男子生徒を待つためだ。
ただし。
私までいる必要はなかった。
「なぜ私も?」
「嫌か」
「嫌ではありませんが」
「ならいてくれ」
「相談役として?」
殿下は。
一瞬。
答えようとした。
そして。
止まった。
「……いや」
「違うのですか」
「今回は、相談役としていてほしいわけではない」
「では?」
殿下は。
少し困ったように。
視線を逸らした。
「私が緊張する」
「殿下が?」
「ああ」
「生徒一人と話すだけで?」
「内容が分からないからだ」
正直だった。
「私に不満があるかもしれない」
「その可能性はありますね」
「だから、マリアがいると少し安心する」
私は。
しばらく黙った。
殿下も。
待った。
「……分かりました」
「いいのか」
「はい」
「ありがとう」
その一言が。
普通だった。
あまりにも普通で。
それが。
逆に。
胸へ残った。
少し前の殿下なら。
『相談役なのだから当然だ』
と。
言ったかもしれない。
悪気なく。
私の時間を。
役割として受け取ったかもしれない。
今は。
頼んで。
私が答えるのを待って。
ありがとうと言った。
扉が叩かれた。
「失礼します」
「入れ」
朝の男子生徒だった。
生徒会室へ入ると。
かなり緊張した様子で。
扉の横に立った。
「座っていい」
「いえ、私は」
「立っている方が話しやすいか?」
「……」
男子生徒は戸惑った。
「分かりません」
殿下は。
少し驚いた。
それから。
「そうか」
とだけ言った。
「なら、好きな方でいい」
生徒は。
数秒迷ってから。
椅子に座った。
私と殿下は。
正面ではなく。
少し斜めに座っている。
真正面に王太子がいると。
圧が強い。
これは。
以前ハインツ様が提案した配置だった。
「それで」
殿下が。
言いかけ。
止まった。
「……急がなくていい」
言い直した。
男子生徒は。
膝の上で手を握った。
「はい」
沈黙が落ちた。
一秒。
二秒。
五秒。
十秒。
普通なら。
長い。
会話の中では。
かなり長い沈黙だった。
けれど。
殿下は待った。
私も。
何も言わない。
男子生徒は。
何度か口を開こうとした。
閉じた。
そして。
「……先日の資料公開」
ようやく。
声を出した。
「はい」
なぜか私が返事をした。
殿下がこちらを見る。
「すみません」
「いや」
男子生徒が。
少しだけ笑った。
緊張が。
ほんの少しだけ。
ほどけた。
「先日の資料公開で、殿下が来られなかった日」
「うむ」
「最初は……正直に言うと、残念でした」
殿下の指が。
わずかに動いた。
「殿下が説明されると思っていたので」
「そうだな」
「友人も、それを目当てに来ていました」
「……」
「でも」
生徒は。
ゆっくり続けた。
「あの日、殿下がいなかったから、僕たちは資料を見たんです」
殿下が。
顔を上げた。
「変な言い方ですが」
「続けてくれ」
「殿下がいたら、多分、みんな殿下を見ていたと思います」
男子生徒は。
自分の言葉を確かめるように話した。
「殿下が何を言うか。どこに立つか。誰と話すか。たぶん、そればかり見ていた」
私は。
資料公開日のことを思い出した。
本来。
殿下のために用意されていた時間。
殿下が。
自分で手放した時間。
「でも、殿下が来なかったから」
生徒は続ける。
「僕たちは資料を読んだんです」
「……そうか」
「はい」
「それを」
殿下が。
ゆっくり聞いた。
「私に伝えたかったのか」
「それもあります」
「それも?」
また沈黙。
男子生徒は。
膝の上の手を。
強く握った。
「もう一つ」
声が。
少し震えた。
「殿下に、謝りたかったんです」
「なぜ?」
「僕」
彼は。
顔を上げられなかった。
「殿下が来ないと分かった時、文句を言いました」
部屋の空気が。
少し変わった。
「王太子なんだから、約束したなら来るべきだって。みんなが殿下のために準備したのに、無責任だって」
殿下は。
何も言わない。
「でもあとで聞きました。殿下が、ご自分のために空けられていた時間を、他の説明役へ戻したって」
「……」
「僕は何も知らないのに」
彼の声は。
さらに小さくなった。
「勝手なことを言いました」
沈黙。
「すみませんでした」
深く。
頭が下がる。
殿下は。
すぐには答えなかった。
私は横顔を見た。
殿下は。
明らかに迷っていた。
何を言えばいいのか。
分からないのだろう。
昔なら。
おそらく。
『気にするな』
と。
すぐ言った。
あるいは。
『知らなかったなら仕方ない』
と。
終わらせた。
でも。
今は。
言わない。
男子生徒も。
頭を下げたまま。
待っている。
「……私は」
やがて。
殿下が話した。
「その言葉を聞いていない」
生徒が。
ゆっくり顔を上げた。
「え?」
「君がその日に私を批判したという言葉を、私は直接聞いていない」
「はい」
「だから」
殿下は。
慎重に続ける。
「私は、それで傷ついたわけではない」
「……」
「だが」
殿下は。
一度息を吸った。
「君が、それを謝りたいと思って今日ここへ来たことは、受け取る」
男子生徒の目が。
少し揺れた。
「許す、という言い方は違う気がする。私は君を責めていないから」
「……はい」
「だから」
殿下は言った。
「伝えてくれてありがとう」
私は。
胸の奥が。
少し熱くなった。
それは。
完璧な答えだったかもしれない。
違うかもしれない。
でも。
少なくとも。
殿下自身が考えた。
誰かに教えられた正解ではない。
生徒が。
唇を噛んだ。
「……殿下」
「何だ」
「もう一つだけ、いいですか」
「ああ」
「資料公開」
「うむ」
「また、やりますか」
殿下は。
少し驚いた。
「私が説明する回か?」
「いえ」
生徒は首を振った。
「殿下がいない形で」
部屋が。
静かになった。
私は。
殿下を見た。
殿下は。
瞬きもせず。
生徒を見ている。
「僕たち、次は自分たちで資料を選びたいんです」
「自分たちで?」
「はい。歴史研究会だけじゃなくて、他の研究会も混ぜて。先生に許可をもらって。説明も生徒がやって」
言葉が。
少しずつ速くなった。
緊張より。
熱の方が。
大きくなっている。
「前回、王家資料を見て、気づいたことがあって」
「何だ」
「資料って、偉い人が説明しないと価値が出ないわけじゃないんだなって」
殿下は。
黙った。
「もちろん殿下の説明も聞きたいです。でも」
男子生徒は。
今度は。
まっすぐ殿下を見た。
「殿下がいなくても続くものにしたいです」
その言葉は。
きっと。
以前の殿下には。
少し痛かったと思う。
『殿下がいなくても』
王太子として。
必要とされることが。
当たり前だった人。
自分がいることで。
価値が増すと思っていた人。
その人へ。
あなたがいなくても続くものにしたい。
そう伝える。
私は。
殿下が何を言うのか。
分からなかった。
殿下は。
すぐには答えなかった。
長い。
沈黙だった。
男子生徒の顔に。
少しずつ不安が浮かぶ。
「すみません」
「待て」
殿下が。
静かに止めた。
「謝るな」
「でも」
「私は今、考えている」
生徒は。
口を閉じた。
殿下は。
机の上へ視線を落とした。
指先で。
何も書かれていない机の縁を。
一度だけなぞる。
「……嬉しい」
やがて。
殿下は言った。
男子生徒が。
目を見開く。
「私は」
殿下は。
ゆっくり続けた。
「前回、私がいないことで、その時間が小さくなるのではないかと思っていた」
それは。
初めて聞く言葉だった。
「殿下」
「だが、違った」
殿下は。
少し笑った。
「私がいないことで、次ができたのだな」
「……はい」
「なら」
殿下の声が。
ほんの少し明るくなる。
「私がいなくても続く形にしてくれ」
男子生徒の顔が。
一気に変わった。
「いいんですか?」
「ああ」
「王家資料も?」
「内容による。許可が必要だ」
「もちろんです」
「ハインツに企画を出せ」
「副会長に?」
「私に直接出すな」
「え」
「なぜ驚く」
「殿下に話したので」
「だからこそだ」
殿下は。
少しだけ苦笑した。
「私が面白いと思っただけで通すのは違う」
私は。
思わず。
殿下を見た。
「管理上問題がないか。教師の負担はどうか。資料の保存は。警備は。私には分からない」
「殿下」
「何だ」
「……いえ」
私は。
首を振った。
「続けてください」
「だから、正式に出してくれ」
「はい!」
男子生徒は。
立ち上がった。
「必ず作ります!」
「ああ」
「ありがとうございました!」
深く頭を下げる。
今度の礼は。
さっきとは違う。
重さより。
前へ進む力があった。
「失礼します!」
扉が閉まる。
生徒会室に。
再び静けさが戻った。
私は。
殿下を見た。
殿下も。
扉を見ていた。
「……殿下」
「何だ」
「寂しくありませんでしたか」
殿下が。
少しだけ目を伏せた。
私は。
聞いたあと。
少し後悔した。
答えにくい質問だったかもしれない。
「すみません」
「いや」
殿下が止めた。
「考えている」
また。
待つ。
私も。
待つ。
「少し」
殿下は言った。
「少し寂しかった」
「……そうですか」
「ああ」
「殿下がいなくても続けたい、と言われたから?」
「たぶん」
殿下は。
自分の胸の中を探すように。
ゆっくり話した。
「以前なら、もっと嫌だったと思う」
「はい」
「私が必要ないと言われたように感じただろう」
「今は?」
「今も」
殿下は。
少し笑った。
「少しは感じた」
正直だった。
「だが」
机の上に。
朝の紙を置いた。
折り畳まれた。
何度も書き直した紙。
「必要とされないことと」
殿下は言う。
「必要がなくなることは、違うのだと思う」
「……」
「私が始めたことで、私がいなくても続くなら」
殿下は。
紙へ触れた。
「それは、なくなったわけではない」
私は。
静かに聞いた。
「むしろ」
殿下は。
ほんの少し。
照れたように笑った。
「広がったのかもしれない」
その言葉に。
私は。
胸の奥で。
何かがゆっくりほどけていくのを感じた。
以前の殿下は。
中心にいたかった。
自分がいること。
自分が言うこと。
自分が選ばれること。
それを。
当然だと思っていた。
今は。
自分がいなくても。
残るものを見て。
寂しいと言える。
それでも。
止めようとしない。
「殿下」
「何だ」
「本当に、成長しましたね」
今度は。
はっきり言った。
「……そうか?」
「はい」
「どのくらいだ」
「そうやって聞くところは、あまり変わっていません」
「具体的に知りたいだけだ」
「評価表ではありません」
「では、百点中」
「つけません」
「七十?」
「つけません」
「六十」
「殿下」
「分かった」
殿下は。
口を閉じた。
私は。
少し笑った。
「でも」
「うむ」
「最初よりは、ずっと」
殿下が。
こちらを見る。
「ずっと、です」
それ以上は。
言わなかった。
殿下も。
聞かなかった。
その日の放課後。
校舎裏のベンチへ向かうと。
殿下はもう座っていた。
朝の紙を。
まだ持っている。
「今日はよく持ち歩きますね」
「しまう場所を決めていない」
「部屋でよいのでは?」
「誰かに見られたら困る」
「侍従は勝手に読みません」
「分かっている」
「では」
「なんとなくだ」
殿下は。
紙を見る。
「これは、まだ私の中に置いておきたい」
「……そうですか」
「ああ」
私は。
隣へ座った。
いつもの距離。
少し前より。
近く感じるのに。
実際には。
変わっていない。
「マリア」
「はい」
「朝の話だが」
「紙のことですか」
「ああ」
殿下は。
しばらく黙った。
「一つ、分かった」
「何をですか」
「私は」
風が吹く。
夕方の風は。
朝より暖かかった。
「言葉を伝えたいのではなく」
殿下は。
ゆっくり言う。
「返事がほしかったのかもしれない」
私は。
殿下を見る。
「以前は」
殿下は。
紙の端を指で押さえた。
「好きだと言えば、好きだと言ってほしかった。会いたいと言えば、会いたいと言ってほしかった。大切だと言えば、大切だと返してほしかった」
胸が。
少し苦しくなった。
「だから」
「はい」
「返事が来ないと、不安になった」
「……はい」
「そして、もう一度言った」
私は。
思い出す。
あまりにも多くの。
余計な一言。
相手が黙った時。
その沈黙に耐えられず。
さらに言葉を重ね。
壊してきた。
「マリアは」
殿下が言った。
「何度も止めてくれたな」
「何度も止めました」
「かなり?」
「非常に」
「やはりそこは非常になのか」
「はい」
殿下は。
苦笑した。
「だが」
その笑みが。
少しずつ静かになる。
「今なら少し分かる」
「何がですか」
「沈黙は」
殿下は。
一度。
空を見た。
「拒絶とは限らない」
私は。
何も言わなかった。
「考えているのかもしれない。迷っているのかもしれない。言葉にできないのかもしれない。あるいは、何も返したくないのかもしれない」
「はい」
「それを」
殿下は。
紙を握らず。
ただ持った。
「私が勝手に埋めてはいけない」
私は。
目を伏せた。
夕陽が。
石畳を赤く染めている。
遠くで。
部活動を終えた生徒たちの声がする。
誰かが笑い。
誰かが走り。
教師が。
『廊下を走るな』
と叫んでいる。
いつもの学園。
何も特別ではない。
そんな場所で。
殿下は。
とても大切なことを。
静かに言った。
「だから」
「はい」
「この紙も」
殿下は。
折り畳んだ紙を見る。
「今は、渡さない」
私は。
頷いた。
「分かりました」
「内容を聞かないのか」
「聞きません」
「気にならない?」
「少しは」
「少し?」
「かなり」
殿下が。
驚いた。
「かなり気になるのか」
「人間ですから」
「では見せよう」
「見ません」
「なぜだ」
「殿下が今は渡さないと決めたのでしょう?」
「ああ」
「なら、待ちます」
殿下が。
黙った。
長い。
沈黙だった。
でも。
私は。
埋めなかった。
殿下も。
埋めなかった。
二人で。
ただ。
同じ場所に座っている。
風が。
紙の端を揺らす。
殿下が。
飛ばされないように押さえた。
「……マリア」
「はい」
「ありがとう」
「何がですか」
「待ってくれて」
私は。
少し笑った。
「殿下も」
「私も?」
「待てるようになりましたね」
殿下は。
返事をしなかった。
少しだけ。
照れたように。
前を向いた。
だから。
私も。
それ以上は言わなかった。
言葉は。
口から出せば。
終わりではない。
相手へ向かい。
届くまで。
時間がかかる。
届いても。
すぐに返ってくるとは限らない。
それでも。
待つ。
待っている間に。
形が変わることもある。
必要なくなる言葉もある。
別の言葉になることもある。
きっと。
それでいい。
王太子殿下は。
ようやく。
言葉を出す前に止まるだけではなく。
言葉を出したあと。
相手の中で何かが動くまで。
待つことを覚え始めた。
そして。
その日。
殿下が最後まで渡さなかった紙に。
何が書かれていたのかを。
私は。
まだ知らない。




