第79話 王太子殿下、断られるための言葉を先に用意する
人を誘うという行為は、案外むずかしい。
少なくとも、王太子殿下にとっては。
普通の生徒が「昼、一緒に食べない?」と言えば、それはただの誘いで済む。
けれど。
王太子殿下が同じ言葉を口にすると、ときどきそれは、誘いではなく命令に聞こえる。
本人に、そのつもりがなくても。
むしろ、本人にそのつもりがないからこそ、余計に厄介だった。
「……つまり私は、昼食に誘うことすら許されないということか」
「そこまで言ってません」
昼休みには、まだ少し早い。
アルスード学園本館の校舎裏。
いつもの古い木製ベンチの前で、エドワード殿下は深刻な顔をしていた。
今日もきっちり着込まれた制服は乱れ一つなく、胸元には王太子を示す小さな銀章が輝いている。春の終わりを含んだ風が校舎の角を抜けるたび、頭上の若葉がさらさらと鳴り、その影が殿下の肩や足元へ揺れて落ちた。
私――マリア・エルフォードは、その向かいで立ったまま、小さく息を吐く。
「殿下が誰かを昼食に誘うこと自体は、何も悪くありません。ただ、誘われた側が断れる形にしてください、と申し上げているんです」
「断れる形」
「はい」
「具体的には?」
「……そこからですか」
「そこからだ」
即答だった。
しかも真顔である。
私は額に手を当てたくなったが、どうにか耐えた。
ここ数週間。
殿下は、以前よりずっと考えるようになった。
自分の発言が、周囲へどう聞こえるか。
王太子という立場が、どれだけ人の動きを変えてしまうのか。
善意でも、好意でも。
自分のために場所が空けられたり、時間が組み替えられたり、誰かの予定が当然のように後回しにされたりすることがある。
それを。
殿下は少しずつ、嫌がるようになった。
以前なら「必要な配慮だ」と受け入れていたことを、今では「それは本当に必要なのか」と一度立ち止まる。
先日の資料公開日でもそうだった。
本来なら殿下自身が参加し、そのために警護も教師も研究会も来場者の導線も組み替えられていた時間を、殿下は自ら手放した。
自分が出ることで、ほかの人のための場が「王太子を見る場」へ変わってしまうなら。
自分がいないほうがいい。
そう判断した。
その決断は。
殿下にとって、簡単ではなかったはずだ。
あの人は、自分が必要とされることを喜ぶ。
誰かに頼られることも。
誰かの役に立てることも。
そして何より。
好きな相手の近くにいられる理由があることを、とても喜ぶ。
だからこそ。
自分のために用意された時間から、自分で退くという選択は。
以前の殿下なら、できなかった。
けれど。
できるようになったからといって。
すべてが急に上手になるわけではない。
「殿下」
「うむ」
「たとえば、殿下が令嬢を昼食に誘うとします」
「……誰を?」
「例えです」
「分かっている」
「今、一瞬だけ目が泳ぎましたね」
「泳いでいない」
「では続けます」
私は無視した。
殿下の耳が少し赤くなったのも。
この話題が出た瞬間、背筋を必要以上に伸ばしたのも。
全部、見なかったことにした。
「殿下が『今日の昼、一緒に食事をしよう』と言ったとします」
「自然ではないか?」
「殿下の中では」
「マリア」
「はい」
「今日のお前は少し厳しいな」
「いつもです」
「そうだったか……」
少し遠い目をされた。
それも無視する。
「普通の友人同士なら、それでも大丈夫です。でも殿下の場合、『しよう』と言われた相手は、どこまで断っていいのか分からないんです」
「なぜだ。予定があるなら、予定があると言えばよい」
「言えますか?」
「何がだ」
「十六歳の令嬢が、王太子殿下に面と向かって、『今日は友達と食べるので嫌です』って」
沈黙。
風だけが吹いた。
近くの植え込みから、小鳥が一羽飛び出し、講堂の屋根のほうへ消えていく。
殿下はしばらく何も言わなかった。
少し離れた渡り廊下を歩いていた一年生らしい男子生徒二人が、こちらへ気づいたらしく、声を急に小さくした。
「……無理だな」
「はい」
「かなり無理だ」
「はい」
「私でも、父上に同じ言い方をされたら断りにくい」
「そこまで分かれば十分です」
「待て」
「はい?」
「私は今まで、かなりの数の人間に同じことをしてきたのではないか?」
殿下の顔から。
ほんの少し、血の気が引いた。
私は返事を急がなかった。
こういうとき。
すぐに「大丈夫ですよ」と慰めるのは、簡単だ。
でも。
たぶん。
今の殿下には、それをしてはいけない。
「……してきたと思います」
だから、正直に答えた。
「そうか」
殿下は、目を伏せた。
責めたかったわけではない。
ただ。
変わろうとしている人に。
変わる前の自分が一切間違っていなかったと嘘をつくことは。
優しさではない気がした。
「ただし」
私は続けた。
殿下が、ゆっくり顔を上げる。
「殿下が命令するつもりで言ったわけではないことも、皆さん分かっていたと思います」
「だが、結果として断りにくくしていた」
「はい」
「……そうか」
また沈黙が落ちる。
前なら。
ここで殿下は、もっと分かりやすく落ち込んだ。
頭を抱えたり。
「私は最低だ」と極端な結論に飛んだり。
あるいは、「ではもう誰も誘わない」と全部を捨てようとしたり。
でも今日は違った。
殿下は目を伏せたまま、しばらく考えている。
その間を。
私は待った。
ベンチの上には、昨日の風で落ちたらしい細い枝が一本残っていた。
校舎の向こうから、授業の終わりを待つようなざわめきが微かに届く。
窓が開いている教室では、教師の声がとぎれとぎれに風へ混じった。
やがて。
殿下が言った。
「では、どう言えばいい?」
私は少しだけ目を見開いた。
「……諦めないんですね」
「なぜ諦める」
「いえ。以前の殿下なら、『ならばもう誘わぬ』と言い出すかと思っていました」
「私を何だと思っている」
「極端な人です」
「否定しづらい」
殿下は本気で悔しそうだった。
少し。
笑いそうになる。
けれど、私は口元を整えた。
「まず、相手が断っても問題ないことを、殿下のほうから言ってください」
「先に?」
「はい」
「誘う前に断られる話をするのか?」
「そうです」
「縁起が悪くないか?」
「恋愛の願掛けではありません」
「しかし」
「しかしではありません」
「……はい」
王太子殿下が素直になった。
近くを通りかかった二年生の女子生徒が、その瞬間だけ驚いたようにこちらを見た。
たぶん。
王太子に「はい」と言わせた私が何者なのか、少し気になったのだろう。
その女子生徒は友人に袖を引かれ、慌てて視線を逸らしながら通り過ぎていった。
「たとえば、『もし先約がなければ、今日の昼食を一緒にどうだろう』」
「なるほど」
「それから、『予定があるならそちらを優先してほしい』」
「……長いな」
「必要です」
「好意というのは、もっとこう、勢いで伝えるものではないのか?」
「殿下の勢いは事故を起こすんです」
「そこまでか」
「そこまでです」
また。
少し離れた場所で笑い声がした。
偶然だと思う。
偶然だと思いたい。
まさか王太子殿下の恋愛相談を盗み聞きして笑っているとは思いたくない。
私は一度そちらを見た。
三人組の男子生徒が。
こちらを見ないようにしながら、ものすごい速さで歩き去っていった。
殿下も気づいたらしい。
「今のは聞かれたか?」
「たぶん」
「……明日には学年中に広まるだろうか」
「内容までは分からないでしょう」
「『王太子殿下の勢いは事故を起こす』という部分だけ広まったらどうする」
「否定できますか?」
「お前は私を守る気があるのか?」
「恋愛面では、事故防止を最優先しています」
「そうか……」
納得しないでほしい。
でも。
昔なら、こういう軽口のあとも。
殿下はすぐ本題へ戻って、自分の気持ちだけを先へ出していた。
今日は違った。
しばらく黙ったあと。
殿下は静かに言った。
「断ってよい、と先に伝えるのは」
「はい」
「相手のためか?」
「そうです」
「……私のためではなく?」
その問いに。
私は少し迷った。
「両方だと思います」
「両方?」
「断れる相手からもらう『はい』のほうが、本当の『はい』だと分かるでしょう」
殿下が。
動きを止めた。
その顔に。
すぐには言葉にならないものが浮かぶ。
私は。
自分で言ってから。
少しだけ胸が痛んだ。
きっと。
殿下にとって。
これは恋愛だけの話ではない。
王太子として生まれ。
幼い頃から、周囲に「はい」と言われ続けてきた人だ。
教師も。
使用人も。
騎士も。
貴族も。
学園の生徒たちも。
大勢が。
彼の言葉に従う。
その「はい」の中に。
本当に望んで返されたものが、どれほどあったのか。
殿下自身には。
たぶん、分からない。
「……断れる者からの、はい」
殿下が。
ゆっくり繰り返した。
「はい」
「そうか」
声が。
さっきまでより低かった。
私は何も足さなかった。
しばらく。
二人で黙っていた。
正門のほうから馬車の車輪音が届き、遠くで鐘の準備をする金属音が一度だけ響く。
昼が近づいている。
校舎の窓からは、生徒たちが椅子を引く音や、授業終了を待ち切れないような気配が少しずつ増えていた。
「マリア」
「はい」
「私は」
殿下は。
そこで一度、言葉を切った。
以前なら。
そのまま勢いで口にしたと思う。
自分が何を思ったか。
誰をどうしたいか。
何を望んでいるか。
全部。
でも。
今日は。
言葉を出す前に、考えていた。
その数秒が。
私は。
とても大きな変化に思えた。
「私は、彼女に……」
「はい」
「いや」
止まった。
殿下が。
自分で止めた。
そして。
少し困ったように笑った。
「今、口に出す必要はないな」
私は。
一瞬。
返事ができなかった。
タイトル通りのことを。
ようやく。
本当に。
この人が自分でやった。
「……はい」
少し遅れて答える。
「必要ありません」
「そうか」
「はい」
「だが」
「はい?」
「褒めてもよいのではないか?」
「何をですか」
「止めた」
「……」
「口から出す前に」
「……」
「止めたぞ」
ものすごく誇らしそうだった。
私は。
さっき感じた感動を返してほしくなった。
「殿下」
「何だ」
「今ので全部台無しです」
「なぜだ!?」
「自分で褒めてほしいと言ったからです」
「成果は成果ではないか!」
「そうですけど、こういうものは本人から要求するものではありません」
「ではマリアが自発的に褒めればよかっただろう!」
「なぜ逆に責められているんですか」
その瞬間。
昼休みを告げる鐘が鳴った。
高く。
明るい音が。
校舎全体へ広がっていく。
それまで授業に縛られていた生徒たちの気配が、一気にほどけた。
窓が開く。
廊下に声が増える。
椅子を引く音。
扉が開く音。
階段を降りる足音。
「食堂行こうぜ!」
「今日の限定、まだあるかな」
「購買先!」
「待って、財布!」
静かだった校舎裏にも。
昼の学園の熱が。
少しずつ流れ込んでくる。
殿下は、鐘の音が消えたあとも。
すぐには動かなかった。
私は。
何となく。
さっきの話が。
ここで終わっていない気がした。
「マリア」
「はい」
「練習してもよいか」
「何をですか」
「誘い方だ」
嫌な予感がした。
「誰を誘う練習ですか」
「誰でもよい」
「その言い方だと、ものすごく嫌です」
「では、お前でいい」
「もっと嫌です」
「なぜだ」
「雑だからです」
「難しいな……」
本気で悩み始めた。
私はため息をつく。
でも。
ここで放置すると。
たぶん本番で事故を起こす。
「分かりました。私を相手役にしてください」
「よし」
「ただし」
「何だ」
「変なことを言ったらその場で止めます」
「私は子供か」
「恋愛に関しては、似たようなものです」
「そこまで言うか」
「始めてください」
殿下は。
急に姿勢を正した。
なぜ。
練習なのに。
謁見でも始まるのかというほど背筋を伸ばすのだろう。
私はベンチの横に立ったまま。
殿下を見る。
殿下も。
こちらを見る。
「……」
「……」
五秒。
「殿下」
「待て」
十秒。
「殿下」
「今考えている」
「普通の昼食の誘いですよ」
「分かっている」
「国交条約を結ぶわけではありません」
「それより難しい」
「なぜですか」
「国交条約なら前例がある」
妙に説得力があった。
「昼食の誘いにも前例は山ほどあります」
「私の場合はない」
「今まで誘ったことは?」
「ある」
「あるじゃないですか」
「失敗例だろう」
「……成長しましたね」
「今のは褒めたな?」
「始めてください」
「聞け」
殿下が。
わずかに呼吸を整えた。
それから。
私を見て。
言う。
「マリア」
「はい」
「今日の昼食だが」
「はい」
「もしほかに予定がなければ、私と一緒に……」
そこで。
殿下の視線が。
少し揺れた。
「一緒に?」
「……食べていただけないだろうか」
言った。
私は黙った。
殿下の顔が。
じわじわ不安そうになる。
「何だ」
「いえ」
「何かおかしかったか?」
「思ったより普通でした」
「褒めているのか?」
「かなり」
「そうか」
一気に嬉しそうになる。
分かりやすい。
「ただ」
「ただ?」
「まだ足りません」
「何がだ」
「断ってよい、の部分です」
「そうだった」
忘れていたらしい。
殿下は咳払いする。
「もしほかに予定があるなら、そちらを優先して構わない」
「はい」
「断っても……」
少し。
止まった。
「断っても、私は気にしない」
私は。
首を傾げた。
「本当に?」
「……」
「殿下」
「多少は気にする」
「正直ですね」
「断られて何も感じないなら、誘う意味がないだろう」
それは。
そうだ。
私は少し笑った。
「なら、『気にしない』はやめましょう」
「なぜだ」
「嘘になりますから」
「ではどうする」
「『断っても、今後の関係には何も影響しない』」
「……堅いな」
「殿下の場合は、そのくらい明確でもいいです」
「告白後の契約書のようだ」
「昼食です」
「そうだった」
この人は。
すぐ話を大きくする。
「では」
殿下がもう一度言う。
「もし予定があるなら、遠慮なく断ってほしい。それで私の態度が変わることはない」
「はい。いいと思います」
「本当に?」
「かなり」
「では完成か」
「一応」
「一応?」
「殿下は、本番になると余計な一言を足すので」
「足さない」
「本当に?」
「足さない」
「たとえば?」
「『お前と食べられなければ昼食など砂を噛むのと同じだが』」
「それです」
「まだ言っていない!」
「今言いました!」
近くを通った生徒たちが。
一斉に振り返った。
四人ほどいた。
男女混合の集団だった。
全員。
王太子殿下を見る。
そして。
私を見る。
さらに。
もう一度殿下を見る。
「……砂?」
一人が小声で言った。
「聞くな」
隣の生徒が腕を引いた。
四人は。
ものすごく気まずそうに。
足早に去っていった。
私は目を閉じる。
「殿下」
「……すまない」
「今のが本番だったらどうするんですか」
「まだ本番ではない」
「だから練習で出るものは本番でも出るんです」
「だが本当に、彼女と食べられぬ昼食なら、多少味気なく感じるのは事実で」
「それを伝えると、断った相手に罪悪感を与えるでしょう」
殿下が。
止まった。
あ。
と思った。
言葉が。
刺さった。
私は少し言い方を柔らかくする。
「殿下が悪いと言いたいわけではありません」
「いや」
殿下は。
静かに首を振った。
「分かる」
「……」
「分かるようになった」
その言い方が。
妙に。
胸へ残った。
分かるようになった。
その一言の後ろに。
この人が。
今まで何度も失敗して。
何度も私に止められて。
誰かの反応を見て。
自分の言葉で人が困ることを知って。
それでも。
逃げずに考え続けてきた時間が。
あるように思えた。
「私は」
殿下は。
ゆっくり続けた。
「自分の気持ちを伝えることばかり考えていた」
私は何も言わない。
「伝えなければ分からないと思っていたし、実際それは間違っていないと思う。だが、伝えるということは、相手に何かを背負わせることでもあるのだな」
風が吹いた。
葉が揺れ。
陽射しの形が変わる。
「好きだと言えば、相手は返事を考えなければならない」
「はい」
「一緒にいたいと言えば、相手は自分の予定と比べなければならない」
「はい」
「寂しいと言えば、相手は離れることに罪悪感を覚えるかもしれない」
私は。
返事をしなかった。
ただ。
聞いた。
「……それでも、言わなければ伝わらない」
「そうですね」
「難しいな」
「はい」
本当に。
難しい。
人の気持ちは。
言わなければ届かない。
でも。
言葉は。
届くだけではない。
押すこともある。
縛ることもある。
逃げ道を塞ぐこともある。
それが。
王太子という立場の人間なら。
なおさら。
「だから」
私は言った。
「言わないのではなくて、受け取るかどうかを相手に選んでもらうんです」
「選んでもらう」
「はい」
「好意を?」
「好意そのものは、勝手に持っていいと思います」
「勝手に」
「言い方は悪いですけど」
「いや、分かりやすい」
殿下が小さく笑った。
「好きになることまで許可を取る必要はない。だが、それをどう渡すかは考えろということか」
「そうです」
「受け取れ、と差し出すのではなく」
「はい」
「私はこう思っている。だが、お前はお前の気持ちで決めていい、と」
「……はい」
その言葉を。
私は。
少しだけ。
予想外に感じた。
殿下の口から。
自然に出たから。
以前なら。
「私はこう思っている。だからお前も分かってくれ」
だった。
今は。
違う。
私はこう思っている。
けれど。
あなたはあなたで決めていい。
それは。
簡単なようで。
たぶん。
殿下にとっては。
とても遠い場所だった。
昼休みの校舎裏には。
さっきより多くの生徒が行き交うようになっていた。
この場所は、完全な秘密の場所ではない。
本館から食堂へ行くには遠回りになるが、中庭や図書棟へ向かう生徒は、ときどき通る。
少し離れた芝生では。
三人の女子生徒が昼食を広げ始めていた。
こちらへ露骨に視線を向ける者はいない。
けれど。
王太子殿下が。
誰かと二人で。
校舎裏で長く話していれば。
気にしないほうが難しい。
「ところで」
私は。
ふと思った。
「殿下は、今日、本当に誰かを昼食に誘うつもりなんですか?」
「……」
殿下が黙った。
「殿下」
「……」
「目を逸らさないでください」
「逸らしていない」
「植え込みと会話しています」
「緑は心を落ち着かせる」
「誰ですか」
「……」
「殿下」
「……彼女だ」
「でしょうね」
「なぜ聞いた」
「念のためです」
「分かっていたなら聞くな!」
「練習だけして満足されても困るので」
「私はそこまで愚かではない!」
少し声が大きくなった。
芝生で昼食を広げていた女子生徒三人の手が。
ぴたりと止まった。
殿下も気づいた。
「……すまない」
小声になる。
「声量も気をつけてください」
「難題が多い」
「恋愛ですから」
「皆、これほど苦労しているのか?」
「殿下ほどではないと思います」
「なぜだ」
「王太子ではないからです」
殿下が。
黙る。
その沈黙は。
以前のような。
「王太子だから何だ」という反発ではなかった。
「そうだな」
受け入れる声だった。
「私は王太子だから」
「はい」
「普通に誘うだけでも、普通にはならない」
「そうです」
「だが」
殿下は。
一度。
校舎のほうを見た。
彼女がいる方向を。
たぶん。
意識したのだと思う。
「それを理由に、何も言わないのも違う気がする」
「私もそう思います」
「……そうか」
「殿下」
「何だ」
「逃げないでくださいね」
「誰が逃げる」
「今、少し逃げようとした顔でした」
「していない」
「では、行ってください」
「今から?」
「昼休みですよ」
「……」
「練習しました」
「……」
「断っていいと先に伝える」
「分かっている」
「余計な一言を足さない」
「分かっている」
「『あなたと食べられない昼食は砂と同じ』は禁止」
「そこまで具体的に言わなくても覚えている」
「『胃が食事を拒絶する』も禁止です」
「言うつもりはない」
「『午後の授業に支障が出る』も」
「私は何だと思われている?」
「前科が多い人です」
「くっ……」
反論できなかったらしい。
殿下は。
その場で。
しばらく立っていた。
行かなければならない。
でも。
足が。
すぐには動かない。
私は。
急かさなかった。
さっき。
相手の選択を奪わない話をしたばかりだ。
ここで私が。
「早く行ってください」と背中を押しすぎたら。
少し違う。
だから。
待った。
殿下が。
自分で決めるのを。
その間にも。
昼休みは進む。
食堂へ向かう生徒たちの数が減り。
代わりに、食事を終えた上級生が中庭へ出てくる。
ベンチでは本を読む生徒。
芝生で笑う生徒。
窓辺でパンを食べながら話す生徒。
それぞれの昼が。
それぞれの形で進んでいく。
王太子だからといって。
時間が止まるわけではない。
殿下は。
小さく息を吸った。
「行ってくる」
「はい」
「……マリア」
「はい」
「もし断られたら」
私は。
殿下を見る。
そこには。
少し。
怯えた色があった。
断られることが怖い。
当然だ。
好きな人に。
一緒に食べたくないと言われるかもしれない。
予定があるだけかもしれない。
友人と約束しているだけかもしれない。
それでも。
人は。
簡単に。
「自分が選ばれなかった」と思ってしまう。
「そのときは」
私は。
言葉を選んだ。
「ちゃんと、断らせてあげてください」
殿下の目が。
少し大きくなる。
「慰めないのか」
「断られたら辛いと思います」
「うむ」
「その辛さは、あとで私が聞きます」
「……」
「でも、その場で殿下が傷ついた顔をしたら、相手は自分の選択を責めるかもしれません」
「なるほど」
「だから」
私は。
少し笑った。
「その場では格好つけてください、王太子殿下」
殿下が。
目を瞬いた。
そして。
少しずつ。
口元を上げた。
「そういう使い方なら」
「はい」
「王太子らしさも、悪くないな」
「そうですね」
今度こそ。
殿下が歩き出す。
数歩。
進む。
それから。
止まった。
振り返る。
「マリア」
「何ですか」
「帰ってきたら」
「はい」
「褒めろ」
「成功したら考えます」
「成功とは?」
「ちゃんと誘って」
「うむ」
「ちゃんと断れる余地を作って」
「うむ」
「結果がどちらでも受け入れたら」
「……」
殿下が。
微妙な顔をした。
「一緒に食べてもらえなくても成功なのか?」
「そこが今日の課題です」
「厳しいな」
「頑張ってください」
殿下は。
しばらく。
こちらを見ていた。
それから。
少しだけ笑った。
「分かった」
その背中が。
今度こそ。
校舎の角へ消えていった。
私は。
一人。
ベンチの横に残った。
「……大丈夫かな」
思わず。
声が漏れた。
「何がです?」
「っ!?」
真横から声がして。
私は飛び上がりそうになった。
振り返る。
そこには。
生徒会副会長のハインツ・ベルガーがいた。
いつからいたのか。
まったく分からない。
「ハインツ様」
「こんにちは、エルフォード嬢」
「いつからそこに」
「王太子殿下が『昼食が砂』と言っていたあたりから」
「かなり前ですね!?」
「聞くつもりはなかったのですが」
「絶対嘘です」
「人聞きが悪い」
ハインツ様は。
いつもの穏やかな顔で笑っている。
この人は。
殿下とは別の意味で危険だ。
何も言わず。
全部見ている。
「殿下は変わられましたね」
突然。
そんなことを言った。
私は。
少しだけ。
返事に迷った。
「……そう思いますか」
「ええ」
ハインツ様は。
殿下が消えた方向を見る。
「以前なら、断られる余地を作るなどという発想自体がなかったでしょう」
「それは」
「悪意があったという意味ではありません」
「分かっています」
「殿下は、断られることを想定していなかった」
その言葉に。
私は。
黙る。
たしかに。
そうだった。
殿下は。
自分が偉いから断られないと思っていたわけではない。
もっと。
根本的に。
周囲の人が。
自分に「いいえ」と言わない世界で育ってきた。
だから。
断られる可能性を。
最初から選択肢に入れていなかった。
「王太子殿下にとって」
ハインツ様は。
静かに続ける。
「『断ってもよい』と自分から言うことは、思っている以上に大きいですよ」
「……はい」
「断られる覚悟をするということですから」
そうだ。
相手を自由にすることは。
自分も。
傷つく可能性を受け入れることだ。
相手が断れないなら。
自分は断られない。
だから安全だ。
でも。
そんな「はい」は。
好きな人から本当に欲しい「はい」ではない。
「本当に」
私は。
小さく言った。
「難しいですね」
「恋愛が?」
「人と関わることがです」
「珍しく大きな話になりましたね」
「誰のせいですか」
「殿下でしょう」
「否定できません」
二人で。
少し笑った。
そのとき。
本館のほうから。
何人かの生徒が歩いてきた。
その中に。
見覚えのある令嬢たちがいた。
殿下が。
いつも気にしている。
あの人も。
いる。
私は。
思わず。
そちらを見る。
「……あれ?」
ハインツ様も気づいた。
「殿下は?」
「さっき、彼女を昼食に誘いに」
「どこへ?」
「教室のほうへ」
「彼女はこちらにいますね」
「……」
「……」
二人で。
顔を見合わせた。
嫌な予感が。
ものすごい勢いで膨らむ。
そして。
次の瞬間。
校舎の向こうから。
殿下が現れた。
早足だった。
明らかに。
誰かを探している顔をしている。
彼女も。
殿下に気づいた。
周囲の令嬢たちが。
少しざわつく。
「殿下だわ」
「こちらへ来る?」
「どうしたのかしら」
殿下が。
止まる。
彼女との距離。
十歩ほど。
私は。
無意識に。
息を止めた。
ハインツ様が。
隣で小さく言う。
「さて」
「何ですか」
「成果発表ですね」
「楽しそうにしないでください」
彼女が。
殿下へ。
丁寧に頭を下げる。
「殿下。ごきげんよう」
「……ああ」
一瞬。
硬い。
かなり硬い。
私は。
遠くから。
念を送る。
余計なことを言うな。
余計なことを言うな。
余計なことを――
「今日の昼食だが」
殿下が。
言った。
周囲の令嬢たちが。
少し目を見開く。
近くを歩いていた生徒まで。
なんとなく足を緩めた。
王太子殿下が。
特定の令嬢に。
昼食の話をしている。
それだけで。
この学園では。
十分に人の注意を集める。
殿下は。
その視線に。
気づいているはずだった。
でも。
今日は。
彼女だけを見ていた。
「もし、すでに友人との約束があるなら、そちらを優先してほしい」
言えた。
私は。
胸の前で。
小さく拳を握った。
ハインツ様が横目でこちらを見る。
無視する。
「ただ」
殿下が続ける。
私は緊張する。
ただ。
危ない。
非常に危ない言葉だ。
「もし予定が空いているなら」
一度。
息を吸う。
「今日の昼食を、一緒にどうだろう」
言えた。
普通だ。
驚くほど。
普通だ。
私は。
本気で感動しかけた。
周囲が。
静かになる。
彼女は。
少し驚いた顔で。
殿下を見ていた。
その沈黙。
たった数秒。
でも。
殿下にとっては。
たぶん。
長かった。
私は。
遠くからでも分かった。
殿下の右手が。
ほんの少し。
握られている。
怖いのだ。
答えを待つのが。
「殿下」
彼女が。
口を開いた。
「お誘いいただき、ありがとうございます」
「……ああ」
「ですが」
その瞬間。
周囲の空気が。
少しだけ。
変わった。
私は。
自分の胸が。
きゅっとなるのを感じた。
殿下の顔は。
動かなかった。
「今日は、先に友人たちと約束をしております」
彼女の横にいた令嬢たちも。
少し。
緊張した顔をしている。
王太子の誘いを。
断った。
そう見える。
周囲には。
それだけで。
十分に大きな出来事だ。
近くの男子生徒が。
露骨に足を止めかけ。
友人に腕を引かれた。
女子生徒二人は。
声を潜めている。
「断った……?」
「だ、大丈夫なの?」
小さな声。
でも。
聞こえる。
殿下にも。
きっと。
聞こえている。
私は。
何もできない。
ここからは。
殿下が。
自分でやるしかない。
「そうか」
殿下が言った。
彼女の肩が。
ほんの少し。
固くなる。
私も。
息を止める。
殿下は。
一度。
彼女の隣にいる友人たちを見る。
それから。
もう一度。
彼女を見た。
「ならば、そちらを優先してくれ」
静かな声だった。
「私のほうは、また別の日に誘わせてもらう」
それだけ。
それだけだった。
余計な一言は。
なかった。
「……はい」
彼女の表情が。
少し。
柔らかくなる。
「ありがとうございます」
「いや」
殿下も。
少しだけ。
笑った。
「楽しい昼食を」
彼女たちが。
頭を下げる。
そして。
歩き出す。
周囲は。
まだ少しざわついていた。
でも。
そのざわめきは。
さっきとは違った。
「普通に断ったな」
「殿下、怒ってないよね?」
「当たり前だろ」
「でも王太子だぞ」
「聞こえるって」
「いや、だって……」
そんな小声が。
いくつも。
流れる。
彼女の友人たちも。
少し離れたところで。
ほっとしたように笑っていた。
一人が彼女の腕に絡み。
何かを耳元で言う。
彼女は。
頬を少し赤くして。
困ったように笑った。
私は。
その様子を見て。
ようやく。
息を吐いた。
「成功ですね」
ハインツ様が言う。
「はい」
「断られましたが」
「成功です」
「なるほど」
そのとき。
殿下が。
こちらへ歩いてきた。
顔は。
普通だ。
王太子らしく。
落ち着いている。
背筋も伸びている。
歩き方も。
乱れていない。
私は。
さっき言った。
その場では格好つけてください、と。
殿下は。
ちゃんと。
格好をつけた。
私たちの前まで来る。
「殿下」
私が声をかける。
「うむ」
「ちゃんと」
「うむ」
「……」
「……」
殿下の顔が。
少しずつ。
崩れた。
「マリア」
「はい」
「断られた」
「はい」
「思ったより」
「はい」
「つらい」
「でしょうね」
「すごく昼食を共にしたかった」
「はい」
「昨日から考えていた」
「はい」
「話題も三つ用意していた」
「それは知りませんでした」
「一つは先日の資料公開について」
「普通ですね」
「二つ目は、彼女が以前読んでいた本について」
「いいですね」
「三つ目は」
「はい」
「将来、王宮の庭園に彼女の好きな花を」
「重いです」
「まだ最後まで言っていない!」
「途中で十分重いです!」
ハインツ様が。
横で。
肩を震わせた。
「笑うな、ハインツ!」
「失礼しました」
「絶対に反省していないだろう!」
「ですが殿下」
ハインツ様が。
少しだけ。
表情を柔らかくする。
「見事でした」
殿下が。
止まる。
「……そうか?」
「ええ」
「本当に?」
「はい」
「マリア」
「何ですか」
「ハインツは褒めたぞ」
「だから何ですか」
「お前もだ」
私は。
しばらく。
殿下を見る。
少し。
子供みたいな顔をしていた。
断られて。
傷ついて。
でも。
ちゃんと受け入れた。
相手を責めなかった。
困らせなかった。
自分の感情を。
相手に背負わせなかった。
それは。
この人にとって。
本当に。
簡単なことではなかった。
「……よくできました」
「本当か」
「はい」
「成功か?」
「大成功です」
殿下が。
少し。
目を見開く。
そのあと。
本当に。
嬉しそうに笑った。
断られた直後なのに。
不思議な笑顔だった。
「そうか」
「はい」
「大成功か」
「はい」
その言葉を。
殿下は。
自分に言い聞かせるように。
もう一度。
小さく繰り返した。
「……そうか」
たぶん。
今までの殿下なら。
好きな人と昼食を食べられなかった時点で。
失敗だった。
でも。
今日は違う。
一緒に食べられなくても。
成功だった。
相手に。
ちゃんと。
断る自由を渡せたから。
そして。
その自由の中で。
彼女が選んだ答えを。
受け入れられたから。
「では」
殿下が。
少し立ち直った顔で言う。
「私は一人で昼食を」
「殿下」
「何だ」
「私たちと食べますか?」
「……」
殿下が。
私を見る。
ハインツ様も。
少し意外そうに私を見た。
「もし」
私は続ける。
「ほかに予定がなければ」
殿下の目が。
少し。
大きくなる。
「予定があるなら、そちらを優先してください」
「……マリア」
「断っても、今後の関係には影響しません」
数秒。
沈黙。
そして。
殿下が。
ゆっくり。
笑った。
「予定はない」
「では?」
「一緒に食べたい」
「はい」
「だが」
「余計な一言は禁止です」
「まだ何も言っていない!」
「先に止めました」
「理不尽だ!」
今度は。
ハインツ様が。
はっきり笑った。
私も。
少しだけ笑う。
殿下は不満そうだったが。
さっきまでより。
ずっと。
顔が明るかった。
三人で。
食堂へ向かう。
途中。
さっきの様子を見ていた生徒たちが。
少しだけ。
殿下を見る。
たぶん。
今日の話は。
どこかで広がる。
王太子殿下が。
ある令嬢を昼食に誘った。
そして。
断られた。
でも。
怒らなかった。
予定を優先していいと言った。
それだけのこと。
普通の人なら。
誰も噂にしないようなこと。
けれど。
王太子殿下がやると。
それは。
少しだけ。
意味を持つ。
「殿下」
歩きながら。
私は呼ぶ。
「何だ」
「次に誘うときも」
「うむ」
「今日みたいにしてくださいね」
「分かっている」
「本当に?」
「私は学習する」
「では確認します」
「何だ」
「次回、彼女に何と言いますか」
殿下は。
少し考える。
歩調を緩めることなく。
空を見上げ。
前を見る。
「もし予定がなければ」
「はい」
「一緒に昼食をどうだろう」
「はい」
「予定があるなら、そちらを優先してくれ」
「はい」
「断られても、私は」
そこで。
少し。
止まった。
「……傷つくかもしれないが」
私は。
殿下を見る。
「それは私の側の問題だ」
足を止めそうになった。
でも。
止めなかった。
隣を歩き続ける。
「相手に責任を取らせない」
殿下は。
前を見たまま。
静かに言った。
「これでいいか」
私は。
少し。
胸の奥が温かくなるのを感じた。
「はい」
答える。
「とてもいいと思います」
「そうか」
殿下が。
笑った。
昼の光の中で。
その横顔は。
少しだけ。
以前より。
大人に見えた。
好きだという気持ちは。
止められない。
会いたい。
話したい。
一緒にいたい。
自分を選んでほしい。
そう願うことも。
きっと。
止める必要はない。
でも。
願うことと。
相手に選ばせないことは。
同じではない。
王太子殿下は。
今日。
初めて。
好きな人に。
断られる自由を渡した。
そして。
その自由の中で選ばれなかった自分を。
ちゃんと。
受け止めた。
それは。
恋が進んだ日では。
なかったかもしれない。
一緒に昼食も食べられなかった。
予定していた話も。
一つもできなかった。
でも。
私は思う。
たぶん。
こういう日を重ねた先でしか。
本当に欲しい「はい」は。
もらえない。
誰かが断れる場所に立って。
それでも。
あなたと一緒にいたい。
そう選んでもらうこと。
王太子殿下。
あなたの恋は。
今日も。
思い通りには進みませんでした。
けれど。
少なくとも今日は。
口から出す前に止めるべき言葉を止めて。
言うべき言葉を。
ちゃんと言えました。
それだけでも。
本当に。
大成功だと思います。




