第9話 王太子殿下、学術研究会で試される
物事には、表と裏があります。
貴族社会では特にそうです。
微笑みの裏に牽制があり。
褒め言葉の裏に探りがあり。
お茶会の裏に派閥の確認があり。
偶然の出会いの裏に、誰かの思惑が潜んでいる。
では、私たちが新しく始めた「学術研究会」はどうか。
表向きは、試験上位者による自主勉強会です。
王国史、法学、礼法、政治学、魔術基礎。
成績上位者同士が集まり、互いに知識を深め合う。
たいへん健全です。
教師に説明しても不自然ではありません。
周囲に見られても、密会とは言われにくい。
ですが、その裏側にある真の目的は。
王太子殿下の恋愛会話更生訓練。
……言葉にすると、やはり少し頭が痛くなります。
「つまり、今日は表向きには王国史の議論を行い、裏では殿下の会話訓練をする、ということですわね」
放課後。
図書棟横の開放学習室で、エレナ・バートン子爵令嬢が楽しそうにそう言いました。
長机には数冊の教本と資料。
窓からは夕方の光が差し込み、机の上に淡い影を落としています。
開け放たれた扉の向こうには廊下が見え、時折、生徒たちが通り過ぎていきます。
密室ではありません。
見られても問題ない配置。
そこに座っているのは、アルノルド・アルスード王太子殿下、側近のレオン・グラシア侯爵子息、エレナ様、そして私。
表向きには、実に真面目な学術研究会です。
ただし、机の下には別の紙が隠されています。
そこには、殿下用の会話心得が書かれていました。
一、呼吸を忘れない。
二、余計なことを言いそうなら口を閉じる。
三、重すぎる言葉を避ける。
四、ナリア様の不安から逃げない。
五、相手の言葉を最後まで聞く。
これを見られたら、どう説明すればよいのでしょう。
学術研究会ではなく、恋愛初等教育会です。
「バートン嬢」
殿下が少し困った顔で言いました。
「裏の目的を楽しそうに言わないでほしい」
「失礼いたしました。けれど、殿下は本当に進歩なさっていますわ」
「そうだろうか」
「ええ。以前なら、今の私の言葉にも『余計なことを言うな』くらい返していそうですもの」
殿下が黙りました。
レオン様が静かに頷きます。
「言っていた可能性は高いですね」
「レオン」
「事実です」
殿下は肩を落としました。
私は少しだけ笑いを堪えました。
エレナ様が加わってから、殿下の訓練には少し明るさが増しました。
私とレオン様だけだと、どうしても反省会や訓練の雰囲気が強くなります。
もちろんそれは必要です。
けれど、殿下が毎回追い詰められた顔になるのも、あまりよろしくありません。
エレナ様は、その場の空気を軽くするのが上手い。
からかいはします。
かなりします。
けれど悪意はなく、必要以上に殿下を責めません。
その距離感が、とても助かっていました。
「では、本日の表向きの議題を確認します」
レオン様が淡々と進行しました。
「王国史における地方貴族の役割。特に建国後百年の地方行政について」
「そして裏の議題は?」
エレナ様がにこやかに尋ねます。
殿下が少し身構えました。
私は紙を見ながら答えます。
「人前での自然な会話です」
「人前で?」
「はい。これまで殿下は、ナリア様と一対一に近い場面で少しずつ言葉を返せるようになってきました。しかし今後は、周囲に人がいる場面でも落ち着いて話す必要があります」
殿下の顔が強張りました。
「人前でナリアと……」
「はい」
「難易度が高い」
「分かっています」
「昨日の学習室でも、心臓がかなり危険だった」
「でも逃げませんでした」
「……ああ」
殿下は少しだけ視線を落としました。
昨日、ナリア様は噂を聞いて不安を抱えたまま学習室へ来ました。
そこで殿下は、自分の言葉で伝えたのです。
ルイート嬢には助けてもらっている。
だが、僕が向き合いたい相手は君だ。
あの言葉は、ナリア様の不安を完全に消したわけではありません。
でも、彼女は「嬉しかった」と言ってくれました。
それは、確かな前進です。
ただし、噂の問題はまだ残っています。
だからこそ、学術研究会という表向きの場が必要なのです。
殿下と私が二人で会っているのではなく、複数人で勉強している。
そして可能なら、ナリア様にも自然な形で参加していただく。
そうすれば、私と殿下の噂を弱めつつ、殿下とナリア様が人前で穏やかに話す機会も作れます。
問題は、殿下が人前で耐えられるかどうかです。
「本日の目標は、もしナリア様がこの学習室に来られた場合、殿下が自然に挨拶し、必要以上に固まらず、学術の話題を一つだけ振ることです」
「学術の話題」
「はい。恋愛ではなく、勉強の話です」
殿下は少し考えました。
「王国史について?」
「それが自然です」
「ナリアは礼法研究会だから、礼法の方が話しやすいのでは」
「それでも構いません。ただし、謝罪の礼法については触れないでください」
「……分かっている」
殿下は気まずそうに頷きました。
以前、資料室で「礼法の話」と誤魔化そうとして、謝罪における姿勢と言葉の選び方について話していたと正直に言ったことがあります。
あの時は結果的に良い方向へ転びましたが、毎回そうなるとは限りません。
「例えば、ナリア様が来られたら」
私は言いました。
「ごきげんよう、ナリア。もし時間があれば、礼法研究会で扱っている式典礼について意見を聞かせてもらえないか――くらいが自然です」
殿下は真剣に復唱しました。
「ごきげんよう、ナリア。もし時間があれば、礼法研究会で扱っている式典礼について意見を聞かせてもらえないか」
「良いです」
「長くないか?」
「少し長いですね」
レオン様が頷きました。
「殿下の場合、途中で逸れる危険があります」
「逸れる……」
「はい。『君の意見はいつも丁寧で分かりやすく、昔から君は人の心をよく見ていて――』などと続く可能性が」
殿下が固まりました。
「……言いそうだ」
「自覚があるのは良いことです」
私は紙に短縮版を書きました。
『ナリア、礼法のことで意見を聞いてもいいだろうか。』
「こちらでいきましょう」
「短い」
「短い方が安全です」
「分かった」
殿下は何度か練習しました。
「ナリア、礼法のことで意見を聞いてもいいだろうか」
声は、少しずつ安定していきます。
エレナ様が頷きました。
「よろしいと思いますわ。ナリア様も礼法について頼られたら、悪い気はなさらないでしょうし」
「頼る……」
殿下が小さく呟きました。
「僕が、ナリアを頼るのか」
「はい。とても大切です」
私は言いました。
「これまで殿下は、ナリア様の気遣いを拒絶することが多かったのでしょう?」
「……ああ」
「なら、少しずつ『あなたの意見を聞きたい』『助かる』と伝えることは、ナリア様にとって安心材料になります」
殿下は深く頷きました。
「そうか。頼ることも、安心につながるのか」
「はい。ただし、重く頼りすぎないでください」
「重く頼る?」
「例えば、『君がいなければ僕は何もできない』など」
殿下は視線を逸らしました。
レオン様がすかさず紙へ記録します。
「重すぎる表現候補、追加」
「レオン、まだ何も言っていない」
「言いそうでしたので」
「……否定できない」
エレナ様が笑いを堪えていました。
私は咳払いをしました。
「とにかく、今日は軽く意見を求めるだけです。そこでナリア様が答えてくださったら、殿下は?」
「ありがとう。参考になる」
「良いです」
「君の考えは昔から美しく――」
「こほん」
殿下は口を閉じました。
早めに止めておきます。
「参考になる、で止めてください」
「はい」
このような調子で、会議という名の訓練は進みました。
そして一刻ほど経った頃。
学習室の外の廊下に、数人の令嬢の声が近づいてきました。
「こちらですわ」
「学術研究会をなさっているとか」
「殿下もいらっしゃるのですか?」
「ええ、そう聞きました」
私は顔を上げました。
エレナ様も視線を廊下へ向けます。
レオン様は静かに資料を整え、殿下は一瞬で王太子の顔になりました。
声の主が誰かは、すぐに分かりました。
ベアトリス・ダルモア侯爵令嬢です。
そしてその後ろには、取り巻きの令嬢たちが二人。
さらに。
ナリア様もいました。
私は内心で息を呑みました。
ナリア様は少し戸惑った表情をしています。
どうやら、ベアトリス様たちに連れて来られたようです。
手には礼法研究会の資料を抱えています。
ベアトリス様は開け放たれた扉の前で、優雅に礼をしました。
「ごきげんよう、アルノルド殿下。皆様」
殿下は落ち着いた声で答えました。
「ごきげんよう、ダルモア嬢」
良いです。
冷静です。
ベアトリス様の視線が、私たちの机をゆっくりなぞりました。
教本。
資料。
メモ。
学術研究会としては不自然ではありません。
けれど、彼女の目は探るようでした。
「こちらで学術研究会を始められたと伺いましたの。ナリア様も礼法研究会の資料をお持ちでしたので、ご一緒にどうかと思いまして」
どうかと思いまして。
偶然を装っていますが、明らかに仕掛けです。
ベアトリス様はナリア様を連れてきました。
私と殿下が一緒にいる場面を見せるため。
あるいは、ナリア様の前で私の立場を探るため。
けれど、こちらはすでに形を整えています。
密会ではありません。
学術研究会です。
レオン様とエレナ様も同席しています。
私は静かに微笑みました。
「ちょうど王国史と式典礼について話していたところです。ナリア様のご意見も伺えましたら、とても助かります」
ナリア様が少し驚いたように私を見ました。
ベアトリス様の目が細くなります。
殿下が、ゆっくり口を開きました。
「ナリア」
ナリア様の視線が殿下へ向きます。
殿下は、呼吸しました。
吸って。
吐いて。
落ち着いています。
「礼法のことで、意見を聞いてもいいだろうか」
言えました。
練習通り。
短く、自然に。
ナリア様は目を見開きました。
それから、少しだけ頬を緩めました。
「私でよろしければ」
殿下の表情が明るくなりかけます。
危険。
でも、彼は自分で口を閉じました。
偉いです。
エレナ様がすかさず席を一つ空けました。
「ナリア様、こちらへどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ナリア様が学習室へ入り、席に着きました。
ベアトリス様たちも当然のように中へ入ってきます。
予定外ですが、拒む理由はありません。
学術研究会ですから。
レオン様が落ち着いて言いました。
「では、ちょうど式典礼における地方貴族の席次について確認していたところです。クラウゼン嬢、礼法研究会ではどのように扱っていますか」
自然です。
非常に自然です。
さすがレオン様。
ナリア様も、話題が具体的だったため少し安心したように資料を開きました。
「席次については、王族、王家直臣、四大公爵家、その後に式典の性質に応じて功績家を配置するのが基本とされています。ただ、地方復興式典などでは、その土地を治める家を上位に置く例もあります」
「なるほど」
殿下が真剣に聞いています。
ナリア様の説明は分かりやすく、声も落ち着いていました。
彼女は礼法の話になると、自信があるのでしょう。
先ほどまでの戸惑いが、少し薄れていきます。
「つまり、建国後百年の地方式典では、中央序列より地域貢献が重視された可能性があるのですね」
私が言うと、ナリア様は頷きました。
「はい。特に辺境防衛に関わる家は、式典内で象徴的な位置を与えられることがありました」
「それは王国史の資料とも合います」
レオン様が教本を開きました。
会話が学術的に進みます。
表向きは、完全に研究会です。
ベアトリス様は黙って座っていました。
しかし、その目は時折、殿下とナリア様、そして私を見比べています。
隙を探しているのでしょう。
ですが今のところ、隙はありません。
殿下はナリア様の意見を丁寧に聞き、時折短く質問するだけです。
「その場合、王太子が出席する式典ではどうなる?」
「王太子殿下が主賓であれば、当然殿下を中心に配置されます。ただし、その地域の功績家へ敬意を示すため、挨拶順を調整することがあります」
「参考になる。ありがとう」
自然。
非常に自然。
ナリア様の頬が、ほんの少し赤くなりました。
「お役に立てたなら、何よりです」
殿下は口を開きかけました。
私は軽く咳払いする準備をしました。
しかし、殿下は自分で息を吸い、吐きました。
そして何も余計なことを言いませんでした。
よく耐えました。
エレナ様が机の下で小さく親指を立てた気がしました。
貴族令嬢としてどうかと思いますが、気持ちは分かります。
研究会は思いのほか順調に進みました。
ナリア様は礼法に関する知識が豊富で、議論に自然に加わってくださいました。
殿下はその度に真剣に耳を傾けています。
以前の冷たい態度を知っている者が見れば、驚くでしょう。
実際、取り巻き令嬢たちは少し戸惑った顔をしていました。
ベアトリス様も、完全には笑みを保てなくなっています。
殿下がナリア様をないがしろにしている。
その前提で揺さぶろうとしたのでしょう。
けれど今、目の前にいる殿下は、ナリア様の意見を求め、感謝し、丁寧に接している。
そこに私が割り込む余地はありません。
むしろ、私は普通に議論に参加しているだけです。
この場面だけ見れば、殿下と私の噂より、殿下とナリア様の関係が穏やかに見えるはずです。
それこそが狙いでした。
しかし。
順調な時ほど、油断してはいけません。
「ナリア様は、本当に礼法にお詳しいのですね」
ベアトリス様が、ふいに口を開きました。
声は柔らかい。
けれど、空気が少し変わりました。
「ありがとうございます」
ナリア様が礼儀正しく答えます。
ベアトリス様は微笑みました。
「殿下も、やはり昔からおそばにいらしたナリア様のお話は聞きやすいのでしょうね」
言葉だけなら、ナリア様を褒めています。
しかし、その裏には探りがあります。
殿下はどう反応するか。
ナリア様はどう受け止めるか。
私が何か言うか。
試されているのです。
殿下は少しだけ目を伏せました。
そして、ナリア様を見ました。
呼吸。
できています。
「ナリアの説明は、昔から分かりやすい」
言いました。
私は扇を握りそうになりましたが、止めました。
今の言葉は悪くありません。
むしろ良いです。
ナリア様が驚いたように殿下を見ました。
殿下は続けます。
「相手が何を知りたいかを考えて話してくれる。だから、聞きやすい」
静かな沈黙。
ナリア様の頬が、ゆっくり赤くなりました。
「……ありがとうございます」
その声は、とても小さかった。
でも嬉しそうでした。
ベアトリス様の笑みが、ほんのわずかに固まりました。
エレナ様が扇で口元を隠しています。
たぶん、笑みを隠しています。
レオン様は何事もなかったように記録を続けていますが、目元が少しだけ柔らかい。
私は、胸の奥でほっと息を吐きました。
殿下。
今のは本当に良かったです。
自然で、具体的で、重すぎず、ナリア様の努力を認める言葉でした。
成長しています。
本当に。
しかし、殿下は言い終えた後、じわじわと顔が赤くなっていきました。
自分が言った言葉の意味が後から来たのでしょう。
危険です。
ここで照れて余計なことを言うと台無しです。
私は小さく咳払いしました。
「こほん」
殿下は口を閉じました。
ベアトリス様がこちらを見ます。
まずい。
咳払いがまた目立ちました。
しかし今回はエレナ様がすかさず言いました。
「マリア様、喉の調子が悪いのですか?」
「少し乾燥しているようです」
「お茶をいただきましょうか」
「ありがとうございます」
自然な会話で誤魔化してくれました。
ありがたいです。
味方がいるというのは、本当に助かります。
その後、研究会は無事に終わりました。
ベアトリス様たちは、期待したほどの不穏な材料を得られなかったのか、少し物足りなさそうに去っていきました。
ナリア様は最後まで残り、資料を整えていました。
学習室には、殿下、レオン様、エレナ様、私、ナリア様だけが残ります。
外の廊下からは、放課後のざわめきが遠く聞こえていました。
「ナリア」
殿下が声をかけました。
ナリア様が顔を上げます。
殿下は少し緊張していましたが、逃げていません。
「今日は助かった」
短い感謝。
ナリア様は柔らかく微笑みました。
「私も、参加できて勉強になりました」
「そうか」
殿下は頷きました。
そして、少し迷った後。
「また、意見を聞かせてほしい」
言えました。
自然です。
とても自然です。
ナリア様は、驚いたように瞬きしました。
それから、嬉しそうに頷きました。
「はい。私でよろしければ」
殿下は口を開きかけました。
私は咳払いの準備をしました。
しかし、殿下は自分で口を閉じ、息を吸って吐きました。
「ありがとう」
それだけ。
完璧です。
私は心の中で大きく頷きました。
ナリア様は、少し恥ずかしそうに視線を下げました。
この二人の間に、確かに穏やかな空気が生まれています。
まだ薄く、壊れやすいもの。
けれど、以前にはなかったものです。
「では、失礼いたします」
ナリア様は礼をし、学習室を出ていきました。
その背中を見送った殿下は、今度は燃え尽きることなく、きちんと立っていました。
呼吸もしています。
成長です。
エレナ様が小さく拍手しました。
「殿下、本日は大変よろしかったですわ」
殿下の顔が赤くなります。
「ありがとう」
「今の感謝も自然です」
「……そうか」
レオン様も頷きました。
「今日の対応は安定していました。特に、ナリア様の説明を具体的に褒めた点は良かったです」
「具体的に……」
「はい。外見ではなく、能力と姿勢を認める言葉でした」
殿下は少しだけ目を伏せました。
「僕は、昔からナリアのそういうところが好きだった」
言ってから、殿下が固まりました。
私たちも一瞬黙りました。
今、さらっと「好きだった」と言いました。
本人がいない場で。
殿下の顔がみるみる赤くなっていきます。
「今のは……」
エレナ様がにこにこしています。
「練習ではなく本音ですわね」
「忘れてくれ」
「無理ですわ」
レオン様が真面目に言いました。
「ですが、今のように自然に出る『好き』は悪くありません」
「本人の前で言える気はしない」
「まだ先でよろしいかと」
私が言うと、殿下は心底ほっとした顔をしました。
まだ「好き」は早い。
でも、いつか言わなければならない言葉です。
その日が来るまでに、殿下はもっと言葉を選べるようにならなければなりません。
その夜。
学園内では、今日の学術研究会について新しい噂が流れ始めました。
王太子殿下が学術研究会を始めた。
レオン・グラシア侯爵子息も参加している。
マリア・ルイート伯爵令嬢とエレナ・バートン子爵令嬢もいる。
そして、ナリア・クラウゼン侯爵令嬢も礼法の知識で参加し、殿下から感謝されていた。
この噂は、私たちにとって悪くないものでした。
少なくとも、「殿下とマリアが密会している」という話よりずっとましです。
けれど、すべてが良い方向へ流れるわけではありません。
翌朝。
私は机の上に、一枚の紙が置かれているのを見つけました。
差出人の名はありません。
そこには、短くこう書かれていました。
『身の程を知りなさい。王太子殿下のおそばに立つ資格が、あなたにあるのですか』
私はその紙をしばらく見つめました。
冷たい文字。
整った筆跡。
誰が書いたのかは分かりません。
けれど、意味は明確です。
警告。
あるいは脅し。
私は静かに紙を折りました。
胸の奥が、少し冷えていました。
殿下とナリア様の距離は、少しずつ縮まっています。
それは喜ばしいことです。
しかし、その変化を面白く思わない人間もいる。
そしてその矛先は、私にも向き始めている。
「……面倒なことになりましたね」
小さく呟きました。
それでも、不思議と足は震えませんでした。
怖くないわけではありません。
怖いです。
けれど、ナリア様の昨日の笑顔を思い出すと、ここで引くわけにはいかないと思いました。
もちろん、無謀に突き進むつもりもありません。
私は一人ではありません。
エレナ様がいます。
レオン様がいます。
そして、少しずつ変わろうとしている殿下もいます。
私は紙を鞄の奥へしまいました。
まずは、相談しましょう。
一人で抱え込まない。
エレナ様との約束です。
窓の外では、朝の光が校舎を白く照らしていました。
今日も学園の一日が始まります。
王太子殿下の恋愛更生計画は、少しずつ形になり始めました。
けれど同時に、周囲の思惑も動き始めています。
恋は、口から出す前に止めるだけでは済まないようです。
時には、誰かの悪意からも守らなければならない。
私は鞄を閉じ、静かに息を吸いました。
王太子殿下。
どうやら次の課題は、あなたの口だけではありません。
この学園に広がる噂と悪意にも、きちんと向き合う必要がありそうです。




