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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第8話 王太子殿下、噂に気づく



 噂というものは、形を持ちません。


 だからこそ、厄介です。


 誰が最初に言ったのか分からない。


 どこで生まれたのか分からない。


 どの言葉が本当で、どこからが尾ひれなのかも分からない。


 それなのに、気づいた時には人の周囲を柔らかく囲み、逃げ道を塞ぎ、じわじわと息を苦しくしていきます。


 悪意だけでできている噂は、まだ分かりやすい。


 問題は、半分だけ本当の噂です。


 事実が少し混じっている。


 だから否定しきれない。


 けれど、解釈は歪んでいる。


 そういう噂ほど、人の心に深く刺さります。


 その日、私は朝から妙な視線を感じておりました。


 いつもの好奇心とは、少し違います。


 王太子殿下の口を咳払いで止める令嬢。


 殿下と資料室で会う伯爵令嬢。


 ナリア様と殿下の間に立つ令嬢。


 そういう奇妙な見られ方には、ここ数日で少しずつ慣れてきました。


 慣れたくはありませんでしたが、慣れざるを得ませんでした。


 けれど今日の視線は、もう少し冷たい。


 廊下を歩くたびに、扇の陰から目が追ってくる。


 私が振り返ると、さっと逸らされる。


 そして、背後で小さな囁きが落ちる。


「ルイート様ですわ」

「最近、殿下と……」

「ナリア様はご存じなのかしら」

「相談役、という話もありますけれど」

「相談役にしては近すぎませんこと?」


 近すぎる。


 その言葉が、胸の奥に小さく残りました。


 私は足を止めませんでした。


 貴族令嬢の微笑みは盾。


 背筋を伸ばし、顔を伏せず、何事もないように歩く。


 それが今、私にできる最善です。


 けれど、分かっていました。


 これは、ただの偶然ではありません。


 昨日、ベアトリス・ダルモア侯爵令嬢から牽制を受けたばかりです。


 あの方は、直接的な攻撃をしたわけではありません。


 しかし、周囲に聞こえる形で私と殿下の関係を匂わせました。


 それだけで十分なのです。


 あとは取り巻きたちが、自然に話を広げる。


 王太子殿下がナリア様に優しくなった。


 その近くにはマリア・ルイートがいる。


 では、マリアは何者なのか。


 ナリア様はそれをどう思っているのか。


 問いは、すぐに疑念へ変わります。


 疑念は、悪意を混ぜられれば噂になります。


 私は教室へ向かう廊下の途中で、小さく息を吐きました。


 まずいです。


 これは、思ったより早い。


「マリア様」


 曲がり角の先で、エレナ・バートン子爵令嬢が待っていました。


 いつものように柔らかな微笑みを浮かべていますが、目は少し真剣です。


「ごきげんよう、バートン様」


「ごきげんよう。少しよろしいですか」


「はい」


 私たちは廊下の端へ寄りました。


 朝の廊下は人通りが多く、完全な密談には向きません。


 けれど、逆に人が多い分、短い会話なら目立ちにくいこともあります。


 エレナ様は声を落としました。


「噂が少し変わりました」


「やはり」


「はい。昨日までは、殿下がナリア様に優しくなったことへの驚きが中心でした。でも今朝からは、マリア様の名前が前に出ています」


「私が殿下の変化の原因だと?」


「そうですわ。しかも、あまり良い言い方ではありません」


「具体的には」


 エレナ様は少しだけ眉を寄せました。


「ルイート伯爵令嬢が殿下に取り入っている、と」


 予想していた言葉でした。


 けれど、実際に耳にすると、胸の奥が冷えます。


「取り入っている……」


「他にも、ナリア様が弱った隙に近づいた、ですとか。殿下の相談役を名目にそばにいる、ですとか」


「半分ほど事実が混ざっているのが厄介ですね」


「そこですわ」


 エレナ様は小さく頷きました。


「完全な嘘なら否定しやすい。でも、マリア様が殿下の相談に乗っていること自体は事実です」


「ええ」


「だからこそ、こちらから形を整えないと危険です」


 形。


 昨日、レオン様と話した学術研究会のことが頭に浮かびました。


 試験上位者による自主勉強会。


 殿下、レオン様、エレナ様、私。


 そこに必要に応じて他の生徒も招く。


 そうすれば、殿下と私が会っていても不自然さは減ります。


 しかし、それを始める前に噂が広がってしまった。


「今日の放課後には、形だけでも研究会として動かした方がよさそうですね」


「私もそう思います」


「殿下とグラシア様には?」


「私からは伝えられませんので、マリア様から」


「分かりました」


 エレナ様は、少し迷うように視線を伏せました。


「それと……」


「はい」


「ナリア様の耳にも、少し入っているかもしれません」


 胸が、きゅっと痛みました。


 それが一番怖かったことです。


 ナリア様は、ようやく少しずつ殿下の言葉を受け取り始めていました。


 謝罪。

 挨拶。

 感謝。

 短い褒め言葉。


 どれも小さな一歩ですが、彼女にとっては大きかったはずです。


 けれど、そこへ私と殿下の噂が届けば。


 また、傷つくかもしれません。


 殿下の変化は、自分への想いからではなく、私の影響なのではないか。


 そう思ってしまうかもしれません。


 そしてそれは、半分だけ本当です。


 殿下が変わり始めたきっかけに、私がいる。


 それは否定できません。


 けれど、殿下が変わろうとしている理由は、ナリア様です。


 そこだけは、絶対に間違えられてはいけない。


「ナリア様の様子は?」


「今朝はまだお見かけしていません。ただ、礼法研究会の方々が少しざわついていました」


「……分かりました」


 私は教本を胸に抱きました。


 動かなければなりません。


 ただし、焦ってはいけない。


 焦れば、かえって噂に餌を与えます。


 今必要なのは、落ち着いて形を整えること。


 そして、殿下自身がナリア様にきちんと向き合うことです。


 私が前に出すぎれば、余計に誤解を招きます。


「マリア様」


 エレナ様が、心配そうに私を見ました。


「一人で謝りに行こうなどと考えていませんよね?」


「……少しだけ」


「駄目です」


 即答でした。


「でも、ナリア様が傷ついているなら」


「マリア様が直接説明しに行けば、かえって『やはり何かあるのだ』と思われます」


「……」


「それに、ナリア様に安心を渡すべきなのは、殿下です」


 その通りでした。


 私は唇を結びました。


 ナリア様に誤解してほしくない。


 傷ついてほしくない。


 その気持ちが先走ると、私は自分で説明しに行きたくなります。


 けれど、それは違う。


 これは、殿下とナリア様の関係です。


 私は橋を架ける手伝いはできます。


 でも、橋を渡るのは殿下自身でなければなりません。


「分かりました。まず殿下へ伝えます」


「それがよろしいですわ」


 エレナ様は少し安心したように頷きました。


 ちょうどその時、廊下の向こうから数人の令嬢たちが歩いてきました。


 中央にいるのは、ベアトリス・ダルモア侯爵令嬢。


 今日も美しく装い、白い羽根飾りの扇を手にしています。


 彼女は私たちを見ると、ゆっくり微笑みました。


「ごきげんよう、ルイート様。バートン様」


「ごきげんよう、ダルモア様」


 私とエレナ様は礼をしました。


 ベアトリス様は私を見て、扇で口元を隠します。


「今朝もお忙しそうですわね」


「授業の準備がございますので」


「まあ。学術に熱心なのは素晴らしいことですわ」


 言葉だけなら褒めています。


 しかし、声には薄い棘があります。


「殿下も、熱心な方はお好みかもしれませんものね」


 周囲がぴくりと反応しました。


 エレナ様の表情が、ほんの少し硬くなります。


 私は静かに答えました。


「殿下は、努力する者を公平に評価される方だと思います」


「あら、よくご存じですのね」


「学園の生徒として、殿下のお振る舞いを拝見する機会はございますので」


「そう」


 ベアトリス様は目を細めました。


「でも、距離というものは大切ですわ。どれほど良い意図であっても、近すぎれば誤解を招きますもの」


「ご忠告、痛み入ります」


「ナリア様も、お優しい方ですから。表には出されなくても、心を痛めていらっしゃるかもしれませんわね」


 胸の奥に、冷たいものが落ちました。


 それを、あなたが言うのですか。


 そう思いました。


 けれど、顔には出しません。


 ベアトリス様は続けます。


「わたくし、ナリア様が心配ですわ。あの方、我慢なさる方でしょう?」


「……」


「大切な方が別の令嬢と親しくされていたら、どれほどお辛いか」


 取り巻きの令嬢たちが、わざとらしく目を伏せました。


 廊下の空気が、少し重くなります。


 周囲の生徒たちは聞いています。


 これは、私だけへの言葉ではありません。


 周囲に聞かせるための言葉です。


 私はゆっくり息を吸いました。


 ここで強く否定すれば、相手の思う壺です。


 感情的になれば、噂はさらに広がる。


 だから、私は静かに言いました。


「ナリア様は、とても聡明で、誠実な方です」


 ベアトリス様の目がわずかに動きました。


「ですから私は、ナリア様を傷つけるような真似はいたしません」


 廊下が静まりました。


 ベアトリス様は扇の奥で、少しだけ笑みを深めました。


「それなら安心ですわ」


「はい」


「では、失礼いたします」


 彼女は優雅に礼をし、取り巻きたちと共に去っていきました。


 すれ違いざま、甘い香水の匂いが残ります。


 私はしばらく、その場で動けませんでした。


 エレナ様が小さく言いました。


「今の返しは、よかったと思います」


「そうでしょうか」


「少なくとも、感情的には見えませんでした」


「内心は、そうでもありません」


「でしょうね」


 エレナ様は少しだけ苦笑しました。


 私は胸の奥に残る重さを押さえながら、前を向きました。


 ナリア様を傷つける真似はしない。


 そう言った以上、行動で示さなければなりません。


 午前の授業が終わる頃には、噂はさらに広がっていました。


 私がベアトリス様と廊下で言葉を交わしたこと。


 ナリア様の名前が出たこと。


 私が「ナリア様を傷つける真似はしない」と答えたこと。


 そこだけ切り取れば、まるで私が何かを弁明したように聞こえます。


 人の口を通るたびに、言葉は少しずつ形を変えます。


 昼休み前、私はレオン様を通じて殿下へ簡単な伝言を送りました。


 放課後では遅いかもしれない。


 できれば昼休みに、レオン様同席で短く話したい。


 返事はすぐに来ました。


 旧講義棟の資料室ではなく、図書棟横の小さな学習室。


 そこは開放された場所で、扉も大きく開いています。


 数人の生徒が自習に使うこともあるため、密会には見えません。


 レオン様の判断でしょう。


 ありがたいことです。


 私は昼食を早めに済ませ、学習室へ向かいました。


 廊下には昼休み特有の明るいざわめきが満ちています。


 けれど、私の心は重いままでした。


 学習室に入ると、殿下とレオン様はすでにいました。


 机の上には、王国史の資料と法学の教本。


 完璧な偽装です。


 殿下は私を見るなり立ち上がりかけましたが、レオン様に視線で止められ、座り直しました。


 成長しています。


 いえ、教育されています。


「ルイート嬢」


「殿下、グラシア様」


 私は礼をし、向かいの席に座りました。


 学習室には他にも二人ほど生徒がいます。


 少し離れているので、声を抑えれば聞こえないでしょう。


「何かあったのか」


 殿下の声は低く、真剣でした。


 私は今朝からの噂と、ベアトリス様とのやり取りを簡潔に伝えました。


 殿下の表情は、話が進むほど険しくなっていきます。


 レオン様も眉を寄せました。


「ダルモア侯爵令嬢が、そこまで直接的に」


「はい。周囲に聞かせる意図があったと思います」


 殿下は拳を握りました。


「僕のせいだ」


「殿下」


「いや、これは僕のせいだ。僕がこれまでナリアに冷たくしていたことが、そもそもの原因だ。そして今、急に態度を変えたことで周囲に探られている」


 殿下は、以前よりずっと冷静に状況を見ています。


 自分の責任から逃げていません。


 そのことに、少しだけ胸が温かくなりました。


 けれど今は喜んでいる場合ではありません。


「問題は、ナリア様の耳にどう届くかです」


「……そうだな」


 殿下の顔が曇りました。


「ナリアが、君との噂を聞いたら」


「不安になられるかもしれません」


「僕は、彼女にまた不安を与えるのか」


 声が沈みます。


 私ははっきり言いました。


「だからこそ、殿下ご自身がナリア様に安心できる言葉を渡す必要があります」


 殿下が顔を上げました。


「僕が」


「はい」


「何を言えばいい」


「まず、噂を否定するためだけに動くのは避けた方がよろしいです。かえって不自然になります」


 レオン様が頷きました。


「同感です。『ルイート嬢とは何もない』と突然言えば、何かあるように聞こえます」


「では、どうすれば」


「ナリア様に対する殿下の態度を、継続して丁寧にすることです」


 私は言いました。


「そして、もしナリア様が不安そうにされたら、その不安から逃げずに聞いてください」


「聞く……」


「はい。『何か気になることがあるのか』と」


「それを、僕が言うのか」


「はい」


 殿下は少し緊張した顔になりました。


「難しいな」


「難しいです。でも必要です」


 レオン様が静かに加えました。


「殿下。ナリア様が噂を聞いて不安を抱かれた場合、殿下が黙っていると、その不安は大きくなります」


「……ああ」


「そして、その沈黙は以前の冷たい態度を思い出させる可能性があります」


 殿下の顔が痛ましげに歪みました。


 しかし、目を逸らしませんでした。


「分かった」


 殿下は深く息を吸い、吐きました。


 呼吸。


 ちゃんとしています。


「もしナリアが不安そうなら、聞く。逃げない。口を閉じすぎない」


「はい」


「だが、余計なことは言わない」


「はい」


「……難しい」


「練習しましょう」


 私は言いました。


 レオン様が紙を用意しました。


「ナリア様が『殿下とルイート様は親しいのですか』と尋ねた場合」


 殿下が固まりました。


 これはかなり難しい問いです。


 私も言いながら、胸が少し重くなりました。


 しかし、あり得ます。


 ナリア様が本当に不安を抱いていれば、聞くかもしれません。


 聞けずに抱え込む方が、もっと怖い。


「どう答えますか」


 殿下はしばらく黙りました。


 学習室の外から、生徒たちの笑い声が聞こえます。


 机の上の教本の頁が、風でかすかに揺れました。


 やがて殿下は、慎重に言いました。


「ルイート嬢には、助けてもらっている」


 私は頷きました。


「はい」


「だが、僕が向き合いたい相手は、君だ」


 息が止まりました。


 私ではありません。


 おそらく、ナリア様役として聞いた場合の反応です。


 その言葉は、重すぎず、短く、真っ直ぐでした。


 レオン様も静かに頷きました。


「よろしいかと」


 私は少しだけ目を伏せました。


「良いです。とても」


 殿下はほっとした顔をしました。


「本当か」


「はい。ただし、本番で言う時は落ち着いてください」


「分かっている」


「そして『君だ』の後に、愛を長々語らない」


「……分かっている」


「本当に?」


「努力する」


「実行してください」


 殿下は小さく頷きました。


 レオン様が紙に書きます。


『ルイート嬢には助けてもらっている。だが、僕が向き合いたい相手は君だ。』


 その文字を見て、殿下の顔が赤くなりました。


「書かれると恥ずかしい」


「本番で言う必要があります」


「そうだな……」


 殿下は紙を見つめました。


 そして、ふと小さく言いました。


「ナリアが、これを聞いてくれるだろうか」


「聞いてくださると思います」


「なぜそう思う」


「ナリア様は、まだ殿下の言葉を待っているように見えるからです」


 殿下は黙りました。


 その横顔に、後悔と希望が混ざります。


「待たせすぎた」


「はい」


「それでも、まだ……待ってくれているのなら」


 殿下は紙に視線を落としました。


「今度こそ、逃げない」


 その声は、静かでした。


 けれど、強かった。


 昼休みの終わり頃。


 私たちは学習室での話を終えました。


 殿下とレオン様は、表向きには資料の確認を続けます。


 私は少し先に出ることになりました。


 その時、学習室の入口で、思いがけない人影を見つけました。


 ナリア様です。


 手には図書室で借りたらしき本を抱えています。


 彼女は扉の前で足を止めていました。


 どこから聞いていたのかは分かりません。


 けれど、その表情は少し強張っています。


「ナリア様」


 私は思わず声をかけました。


 殿下も振り返りました。


 その瞬間、ナリア様の瞳が揺れます。


 学習室。


 殿下。


 レオン様。


 私。


 机の上の資料。


 状況としては、以前よりずっと健全です。


 扉は開いていますし、レオン様も同席しています。


 けれど、噂が耳に入っているなら。


 それだけでは安心できないかもしれません。


「ごきげんよう」


 ナリア様は、いつものように礼をしました。


 声は穏やかですが、少し硬い。


 私は胸が痛みました。


 殿下が立ち上がりました。


 彼の顔にも緊張が走っています。


 しかし、以前のように固まってはいません。


 呼吸。


 吸って、吐いている。


「ナリア、ごきげんよう」


 殿下は言いました。


 短く、丁寧に。


 ナリア様は小さく頷きました。


「ごきげんよう、殿下」


 沈黙。


 学習室の空気が、少し張り詰めます。


 レオン様は静かに席を立ち、しかし離れすぎず、自然な距離を保ちました。


 私はどう動くべきか迷いました。


 ここで私が出ると、かえって邪魔になる。


 けれど、去るのも不自然です。


 ナリア様は、私へ視線を向けました。


 その目には、責める色はありません。


 ただ、戸惑いがあります。


 不安も。


「ルイート様」


「はい」


「少し……お話を伺ってもよろしいでしょうか」


 来ました。


 私に。


 殿下ではなく、私に。


 エレナ様の言葉が頭をよぎります。


 マリア様が直接説明しに行けば、かえって誤解される。


 でも今、ナリア様が私に問いかけている。


 逃げるわけにはいきません。


 ただし、私が答えすぎてもいけません。


 殿下が、自分で向き合わなければならない。


 私は静かに言いました。


「私に答えられる範囲であれば」


 ナリア様は本を抱く手に少し力を込めました。


「最近、殿下とルイート様がよくご一緒にいらっしゃると伺いました」


 殿下の顔が強張りました。


 私は一度、殿下を見ました。


 逃げないでください。


 そう目で伝えたつもりです。


 殿下は小さく頷きました。


「ナリア」


 殿下が声をかけました。


 ナリア様が殿下を見ます。


 殿下の手がわずかに震えていました。


 けれど、声は出ました。


「ルイート嬢には、助けてもらっている」


 練習した言葉。


 でも、練習より少し掠れています。


 ナリア様は黙って聞いていました。


 殿下は続けます。


「だが、僕が向き合いたい相手は、君だ」


 言えました。


 学習室の空気が止まります。


 ナリア様の瞳が、大きく揺れました。


 私は息を止めそうになり、慌てて吸いました。


 呼吸を忘れている場合ではありません。


 殿下は、まだナリア様を見ています。


 逃げていません。


 「君だ」と言った後、余計な言葉も続けていません。


 ただ、真っ直ぐに立っています。


 ナリア様は、しばらく何も言いませんでした。


 その沈黙は、短いようで長かった。


 廊下のざわめきが遠くなります。


 昼休み終了を告げる鐘の前の、ほんの数十秒。


 けれどその場にいた私たちにとっては、もっと長い時間に感じました。


 やがて、ナリア様は小さく息を吸いました。


「……私は」


 声が震えています。


「噂を、聞いてしまいました」


 殿下は黙って頷きました。


「殿下とルイート様が、とても親しくされていると。殿下が変わられたのは、ルイート様のためなのではないかと」


 胸が痛みました。


 やはり届いていたのです。


 しかも、一番嫌な形で。


 ナリア様は視線を下げました。


「私は、ルイート様が悪い方だとは思っておりません。むしろ、何度も助けていただいていると感じています」


「ナリア様……」


「でも」


 彼女の声が小さくなりました。


「少し、怖くなってしまったのです」


 殿下の顔が歪みました。


 しかし彼は、口を挟みませんでした。


 聞いています。


 ちゃんと。


「殿下が優しくしてくださるようになったことが嬉しくて。でも、それが私に向けられたものではなかったらどうしようと」


 ナリア様の目元が赤くなりました。


「また、勝手に期待しているだけだったらどうしようと」


 その言葉に、殿下が一歩動きかけました。


 でも止まりました。


 近づきすぎてはいけない。


 今は言葉が必要です。


 殿下は息を吸いました。


 吐きました。


 そして、静かに言いました。


「君に向けたものだ」


 短い言葉でした。


 けれど、はっきりしていました。


 ナリア様が顔を上げます。


「僕が変わりたいと思ったのは、君をこれ以上傷つけたくないからだ」


 殿下の声は震えていました。


 それでも、逃げていません。


「ルイート嬢には、そのために助けてもらっている。レオンにも、今は協力してもらっている。だが、僕が向き合いたいのは……君だ」


 二度目の「君だ」。


 今度は、少しだけ強く。


 ナリア様の瞳から、涙がこぼれそうになりました。


 でも彼女は泣きませんでした。


 胸元で本を抱きしめ、震える息を整えます。


「……信じても、よろしいのでしょうか」


 その問いは、とても小さなものでした。


 殿下はすぐには答えませんでした。


 少し考えました。


 その沈黙は、不安を与えるものではありませんでした。


 言葉を大切に選んでいる沈黙です。


 やがて、殿下は言いました。


「今すぐ信じてほしいとは言えない」


 ナリア様が目を見開きました。


「僕は、君を何度も傷つけた。だから、信じてほしいと僕が望むだけでは駄目だと思う」


 殿下の拳が震えています。


 けれど、言葉は続きました。


「でも、信じてもらえるように、言葉と態度を重ねたい」


 資料室でも、練習でもない。


 殿下自身の言葉でした。


 私は、胸の奥が熱くなるのを感じました。


 ナリア様は、静かに殿下を見つめています。


 その目には、まだ不安があります。


 傷もあります。


 けれど、ほんの少し。


 本当にほんの少しだけ、光が戻ったように見えました。


「……分かりました」


 ナリア様は小さく言いました。


「私も、すぐには上手く信じられないかもしれません」


「ああ」


「でも、今の殿下のお言葉は……嬉しかったです」


 殿下の顔が、一瞬で赤くなりました。


 危険。


 非常に危険。


 彼は今、感情で何か言いそうです。


 私は咳払いをしようとしました。


 けれど、その前に殿下が自分で口を閉じました。


 そして、深く息を吸って、吐きました。


 呼吸。


 できています。


「……ありがとう」


 殿下は、それだけ言いました。


 ナリア様は少し驚き、それから小さく微笑みました。


「はい」


 昼休み終了の鐘が鳴りました。


 現実に引き戻されるように、廊下の生徒たちが動き出します。


 ナリア様は慌てて礼をしました。


「授業がありますので、失礼いたします」


「ああ」


 殿下は短く頷きました。


 ナリア様は私へも礼をしました。


「ルイート様」


「はい」


「疑うようなことを申し上げて、申し訳ございませんでした」


「謝らないでください。ナリア様が不安に思われるのは当然です」


 私がそう言うと、ナリア様は少し目を伏せました。


「……ありがとうございます」


 そして彼女は学習室を出ていきました。


 背中はまだ揺れています。


 けれど、来た時よりは少しだけ真っ直ぐでした。


 殿下は、その背中を見送っていました。


 今度は呼吸を忘れていません。


 ただ、静かに。


 大切なものを見送るように。


 レオン様が小さく言いました。


「殿下」


「ああ」


「今の対応は、とてもよかったです」


 殿下はゆっくり椅子に座りました。


 力が抜けたようでした。


「……怖かった」


「でしょうね」


 私は言いました。


「でも、逃げませんでした」


「逃げたくなった」


「それでも逃げませんでした」


 殿下は両手を見つめました。


「ナリアが、怖いと言った」


「はい」


「僕のせいだ」


「はい」


「それでも、嬉しかったと言ってくれた」


「はい」


 殿下は顔を覆いました。


 泣くのかと思いました。


 けれど、泣きませんでした。


 彼はただ、深く息を吸って、吐きました。


「……頑張る」


 小さな声でした。


 しかし、確かな声でした。


「信じてもらえるように」


 その日の放課後。


 正式に「学術研究会」という形を整えることが決まりました。


 殿下、レオン様、エレナ様、私。


 表向きは試験上位者による自主勉強会。


 必要に応じて、他の成績上位者も参加できるようにする。


 活動場所は開放された学習室を中心にし、旧講義棟の資料室は補助的に使う。


 こうすれば、殿下と私が密かに会っているという印象をかなり薄められます。


 もちろん、それだけですべての噂が消えるわけではありません。


 ベアトリス様側がまた何かを仕掛ける可能性もあります。


 けれど、少なくともこちらは形を整えました。


 夕方。


 私はエレナ様と並んで廊下を歩いていました。


 窓の外では、薄い雲が夕焼けに染まっています。


 雨上がりの翌日らしく、空気は澄んでいて、遠くの塔までよく見えました。


「今日の殿下は、よくできていましたわね」


 エレナ様が言いました。


「はい」


「マリア様も、前に出すぎませんでした」


「かなり我慢しました」


「偉いですわ」


「ありがとうございます」


 私は少し笑いました。


 その笑いは、朝よりも軽かったと思います。


 ナリア様の不安は、消えたわけではありません。


 けれど、殿下がそれを直接受け止めた。


 それが大きかったのです。


「それにしても」


 エレナ様が、ふと思い出したように言いました。


「殿下、『僕が向き合いたい相手は君だ』なんて、よく言えましたわね」


「練習しましたので」


「まあ」


 エレナ様が目を輝かせます。


「その練習、見たかったですわ」


「殿下が倒れます」


「残念です」


「本当に残念そうですね」


「ええ」


 私たちは小さく笑いました。


 その時、廊下の向こうにナリア様の姿が見えました。


 彼女は一人ではありません。


 礼法研究会の令嬢たちと歩いています。


 その表情は、まだ少し物思いに沈んでいました。


 けれど、私たちに気づくと、ナリア様は小さく微笑みました。


 私は礼を返しました。


 その微笑みは、以前より少しだけ柔らかかった。


 それだけで、今日一日の疲れが少し報われた気がしました。


 王太子殿下の恋は、まだ不安定です。


 噂は消えていません。


 新しい火種もあります。


 ベアトリス様は、きっとこのまま黙ってはいないでしょう。


 けれど今日、殿下は噂から逃げず、ナリア様の不安からも逃げませんでした。


 その一歩は、確かに彼自身のものです。


 私は夕焼けの光が差し込む廊下で、静かに息を吐きました。


 王太子殿下。


 今日のあなたは、ちゃんと言葉を選べました。


 呼吸も忘れませんでした。


 余計な恋文のような重すぎる台詞も飲み込みました。


 大変よくできました。


 ただし。


 まだまだ油断はできません。


 どうか明日も、その恋を口から出す前に一度止めてくださいませ。

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