第7話 王太子殿下、呼吸から学び直す
人は、生まれた瞬間から呼吸をしています。
誰かに教わらずとも、息を吸い、吐く。
眠っている時も。
歩いている時も。
怒っている時も。
笑っている時も。
呼吸とは、本来もっとも自然で、もっとも基本的な生命活動です。
ですから私は、まさか十七歳にもなる王太子殿下に向かって、真顔でこう申し上げる日が来るとは思っておりませんでした。
「殿下。まず、息を吸ってください」
「……吸っている」
「止まっています」
「……」
「吐いてください」
「……はぁ」
「はい。もう一度、吸って」
「……すぅ」
「吐いて」
「……はぁ」
「よろしいです」
旧講義棟二階の資料室。
朝の光が窓から差し込み、古い紙と木棚の匂いが静かに漂う部屋の中で、アルノルド・アルスード王太子殿下は、真剣な顔で呼吸の練習をしておりました。
その向かいに座る私、マリア・ルイート。
そして今日は、もう一人。
殿下の側近であるレオン・グラシア侯爵子息が、少し離れた椅子に座っています。
灰色がかった銀髪。
落ち着いた緑の瞳。
整った姿勢。
無駄のない所作。
さすが王太子殿下の側近というべきか、彼はこの異様な光景を見ても、ほとんど表情を変えませんでした。
ただ、手元の紙に何かを記録しています。
「グラシア様」
「はい、ルイート嬢」
「何を書いていらっしゃるのですか」
「殿下の現状分析です」
淡々とした答えでした。
殿下が少し青ざめます。
「レオン、記録する必要があるのか」
「ございます」
「なぜだ」
「同じ失敗を繰り返さないためです」
「……そうか」
殿下は反論できず、肩を落としました。
レオン様は紙に視線を落としたまま続けます。
「昨日の階段での一件では、殿下はナリア様の手が触れた後、およそ七秒ほど呼吸が止まっておりました」
「七秒……」
「その間、視線はナリア様の指先に固定。口は半開き。周囲の注目に気づかず、私が声をかけるまで停止状態でした」
「細かいな」
「側近ですので」
「側近とは、そういうものだっただろうか……」
殿下は遠い目をしました。
私は少しだけ同情しました。
しかし、レオン様の指摘は正しいです。
殿下は昨日、ナリア様に「心配してくれて、ありがとう」と言うことに成功しました。
それは大きな前進です。
けれどその直後、ナリア様の指先がほんの少し触れただけで、呼吸を忘れておりました。
もし周囲に人がいなければ、まだよかったでしょう。
しかしそこは昼休み前の廊下。
多くの生徒が見ていました。
令嬢たちは扇の陰で息を呑み、男子生徒たちは足を止め、教師まで何とも言えない表情をしていました。
王太子殿下が、婚約者候補に触れられて呼吸を忘れる。
恋物語なら甘い場面かもしれません。
現実の学園では、噂の燃料です。
「殿下」
「はい」
「ナリア様の前で緊張すること自体は仕方ありません」
「はい」
「ですが、毎回停止していては会話になりません」
「はい……」
「本日の課題は、呼吸と沈黙の使い分けです」
殿下が顔を上げました。
「沈黙の使い分け?」
「はい」
私は机の上に紙を置きました。
そこには、昨夜考えた項目が並んでいます。
一、言葉に詰まったら息を吸う。
二、余計な言葉が出そうなら口を閉じる。
三、ただし相手を不安にさせる沈黙は長引かせない。
四、返事に困ったら「少し考えさせてほしい」と言う。
五、呼吸を忘れない。
五番目があまりにも基本的すぎます。
しかし必要です。
殿下はその紙を見つめ、真剣に頷きました。
「なるほど」
レオン様も紙を覗き込みました。
「分かりやすいですね」
「ありがとうございます」
「特に五番が重要かと」
「そこは触れないでくれ……」
殿下が顔を覆います。
しかし、触れないわけにはいきません。
呼吸は基本です。
「では、実践練習を始めます」
私は椅子に座り直しました。
「私がナリア様役をします。殿下は、昨日のように気遣われた場面を想定して返答してください」
「分かった」
「グラシア様は、殿下の呼吸と余計な言葉の兆候を見てください」
「承知しました」
「レオンまで……」
「殿下。これは必要な訓練です」
「分かっている……」
殿下は観念したように背筋を伸ばしました。
私は少しだけ声を柔らかくし、ナリア様を想定して言いました。
「殿下、お手は本当に大丈夫ですか?」
殿下の顔が、一瞬で赤くなりました。
早いです。
まだ本人ではありません。
私です。
殿下は口を開きました。
「心配してくれて、ありがとう。大丈夫だ」
「良いです」
私は頷きました。
レオン様が紙に何かを書きます。
「今の呼吸は問題ありません」
「記録するな……」
「必要です」
「次です」
私は続けました。
「殿下、無理はなさらないでくださいませ」
殿下の喉が動きました。
「ありがとう。君にそう言ってもらえると……」
殿下が止まりました。
危険です。
ここから先、何か重い言葉が出そうでした。
私は小さく咳払いしました。
「こほん」
殿下は口を閉じました。
レオン様がすかさず記録します。
「感情過多による発言伸長の兆候あり」
「何だその記録は」
「そのままです」
「的確ですね」
「ルイート嬢まで……」
殿下が弱々しく呻きました。
「殿下、今の続きは何を言おうとしましたか」
私が尋ねると、殿下は少し目を逸らしました。
「君にそう言ってもらえると、世界中の薬より効く、と」
沈黙。
資料室の空気が、すっと止まりました。
レオン様のペンも止まりました。
私はゆっくり息を吐きました。
「殿下」
「はい」
「重いです」
「やはりか」
「かなり」
「……そうか」
殿下は肩を落としました。
しかし、これは大切な発見です。
殿下の心の中には、甘すぎるほどの言葉がたくさんある。
それ自体は悪くありません。
いつか、そういう言葉をナリア様に伝えられる日も来るかもしれません。
けれど、今はまだ早い。
今のナリア様は、殿下の変化を受け止め始めたばかりです。
そこへ突然「世界中の薬より効く」などと言われたら、心が追いつかないでしょう。
「今は、『ありがとう。気をつける』で十分です」
「短いな」
「短い方が安全です」
「分かった」
殿下は素直に頷きました。
レオン様が補足します。
「殿下は感情が高まると言葉が過剰になる傾向があります」
「過剰……」
「そして過剰になった言葉を抑えようとすると、逆方向へ転じる可能性がある」
「……つまり?」
「甘すぎる言葉か、冷たすぎる言葉かの二択になりがちです」
殿下は完全に黙りました。
私は内心で感心していました。
レオン様、非常に分析が的確です。
さすが側近。
これまで殿下の近くで過ごしてきただけあって、表面には出さずとも色々と見ていたのでしょう。
「グラシア様のおっしゃる通りです。殿下には、真ん中の言葉を覚えていただく必要があります」
「真ん中の言葉」
「はい。冷たすぎず、重すぎず、相手が受け取りやすい言葉です」
「……難しい」
「難しいですが、必要です」
「分かった」
殿下は紙に書き込みました。
真ん中の言葉。
その字は相変わらず美しく、内容との落差が少し可笑しいです。
するとレオン様が、ふと私を見ました。
「ルイート嬢」
「はい」
「今後、殿下の練習には三段階の表現を用意すると良いかもしれません」
「三段階?」
「はい。冷たすぎる言葉、重すぎる言葉、適切な言葉。この三つを比較すれば、殿下も判断しやすいのでは」
「なるほど」
それは良い案です。
殿下は少し不安そうにしていますが。
「では、例を作りましょう」
私は紙を取りました。
「ナリア様が『無理はなさらないでください』と言った場合」
私はまず、一行目に書きました。
冷たすぎる言葉。
『君に心配されるほど弱くない』
殿下が小さく呻きました。
「心当たりが?」
「ある……」
私は二行目に書きます。
重すぎる言葉。
『君の言葉は世界中の薬より効く』
レオン様が少しだけ眉を動かしました。
殿下は顔を覆いました。
「書かれると恥ずかしいな」
「本番で言う方が危険です」
「そうだな……」
そして三行目。
適切な言葉。
『ありがとう。気をつける』
「これです」
殿下は三つの文を見比べました。
「こうして見ると、真ん中が一番良いな」
「真ん中というより三番目です」
「分かりやすい」
「今後はこの方法で練習しましょう」
「助かる」
レオン様も頷きました。
「殿下には視覚化が有効のようですね」
「私は子どもか」
「恋愛においては、初等教育段階かと」
レオン様は淡々と言いました。
殿下は反論しようとして、結局口を閉じました。
自覚があるのでしょう。
私は少しだけ同情しました。
しかし、レオン様の言葉は厳しいながらも正確です。
殿下は剣術も学問も政治も優秀ですが、恋愛会話だけは初等教育段階。
まずは挨拶、謝罪、感謝、呼吸。
そこからです。
「では、次の練習です」
私は言いました。
「ナリア様が『昨日は助けてくださってありがとうございました』と言った場合」
殿下が固まりました。
「それは……」
「あり得る場面です」
「ナリアが、僕に礼を……」
「昨日もおっしゃっていました」
「そうだが」
殿下は顔を赤くしました。
「改めて言われたら、たぶん危険だ」
「だから練習します」
レオン様が紙を構えました。
「殿下、どうぞ」
殿下は深呼吸しました。
吸って。
吐く。
よろしい。
「ナリア、昨日は助けてくださってありがとうございました」
私が言いました。
殿下は一瞬目を閉じ、そして答えます。
「君に怪我がなくてよかった」
私は扇を動かしませんでした。
レオン様もペンを止めました。
静かな沈黙。
今の言葉は。
「良いです」
私は言いました。
殿下が目を開きました。
「本当か」
「はい。短く、自然で、優しいです」
レオン様も頷きました。
「問題ありません」
殿下の顔に、じわじわと安堵が広がりました。
「そうか……」
「ただし、その後に続けないこと」
「……分かっている」
「ちなみに、続けるなら何と言いたくなりましたか」
殿下は気まずそうに視線を逸らしました。
「君が怪我をするくらいなら、僕の腕など何本折れても構わない、と」
私は目を閉じました。
レオン様が静かに紙へ書きます。
「重すぎる言葉、追加」
「書くな……」
「必要です」
やはり、殿下は感情が重い方向へ振れると大変です。
これまで暴言ばかりだった反動でしょうか。
口に出せなかった甘い言葉が、内側に溜まりすぎているのかもしれません。
それが一気に出れば、ナリア様を別の意味で困らせるでしょう。
「殿下」
「はい」
「お気持ちは分かりますが、腕を折る話はやめてください」
「分かった」
「ナリア様が驚きます」
「そうだな」
「怖がるかもしれません」
「それは嫌だ」
「では、言わない」
「言わない」
殿下は真剣に頷きました。
レオン様が静かに言いました。
「殿下、ひとまず命や身体を差し出す表現は避けましょう」
「分かった」
「今のナリア様に必要なのは、安心できる日常的な言葉です」
「安心できる……」
「はい。殿下が極端なことをおっしゃるほど、ナリア様はどう受け止めればよいか分からなくなります」
レオン様の言葉に、殿下は深く頷きました。
この方が加わってくださったのは、本当に大きいです。
男性同士、幼い頃からの側近として、私とは違う角度から殿下に言えることがあります。
「分かった。日常的な言葉を覚える」
「はい」
「……僕は本当に初等教育からだな」
「ですが、進歩はしています」
私は言いました。
殿下がこちらを見ます。
「謝罪もできました。挨拶もできました。感謝もできました。昨日はナリア様のお顔を見て、言葉を返せました」
「……」
「一つずつ、進んでいます」
殿下は黙りました。
けれど、その表情は少しだけ穏やかになりました。
焦りだけではない。
自分が進めているという、小さな実感。
それが彼に必要なのだと思いました。
「今日の目標は何でしょうか」
レオン様が尋ねました。
私は紙を確認しました。
「昨日の出来事について、ナリア様から声をかけられた場合の自然な返答です。無理にこちらから接触はしません」
「妥当ですね」
「殿下も、それでよろしいですか」
「分かった」
「そして、呼吸」
「忘れない」
「余計な言葉」
「飲み込む」
「重すぎる表現」
「避ける」
「よろしいです」
朝の練習は、そうして終わりました。
資料室を出る時、レオン様は自然に殿下と共に歩き、私は少し時間を置きました。
これも対策の一つです。
殿下と私が二人でいる場面をできるだけ減らす。
どうしても相談が必要な時は、レオン様を挟む。
エレナ様には、外側から噂の流れを見てもらう。
少しずつ、体制が整いつつあります。
もっとも。
体制が整ったからといって、殿下の口がすぐ安全になるわけではありません。
そこが最大の問題です。
午前の授業の合間。
廊下は、昨日の階段事件の噂でまだざわついていました。
「ナリア様、本当にお怪我がなくてよかったですわ」
「殿下が助けられたのですもの、素敵でしたわね」
「でも、以前の殿下ならあんなふうに心配なさらなかったのでは?」
「変わられましたわね」
「ナリア様、お幸せそうでしたもの」
「それならよろしいのですけれど……」
最後の言葉には、少し含みがありました。
私は教本を抱えて廊下を歩きながら、周囲の視線を感じていました。
以前のように、私へ向けられる好奇心だけではありません。
少し、探るような視線。
王太子殿下がなぜ変わったのか。
その近くにいるマリア・ルイートは何者なのか。
ナリア様と殿下の間に、彼女はどう関わっているのか。
視線が問いになり、問いが噂になります。
私は背筋を伸ばしました。
貴族令嬢の微笑みは盾。
けれど、盾だけでは防げないものもあります。
「ルイート様」
声をかけられました。
振り返ると、三人の令嬢が立っていました。
一人は、濃い金茶の髪を高く結い上げた令嬢。
制服のリボンには侯爵家以上の者が好む上質な飾りがついています。
たしか、ベアトリス・ダルモア侯爵令嬢。
王太子妃候補として名前が出たこともある方です。
隣には、取り巻きらしき子爵令嬢と男爵令嬢。
彼女たちは穏やかに微笑んでいます。
ただし、目は笑っていません。
「ごきげんよう、ダルモア様」
「ごきげんよう」
ベアトリス様は優雅に礼をしました。
「最近、ルイート様はずいぶんとお忙しそうですわね」
「学術試験後は何かと提出物がございますので」
「まあ。そういう意味ではありませんの」
扇が開きます。
白い羽根飾りのついた美しい扇です。
「殿下とよくお話しされているようですから」
周囲の空気が、少し変わりました。
近くにいた生徒たちが、さりげなく足を緩めます。
聞きたいのです。
この会話を。
私は微笑みを保ちました。
「学術面でご意見を伺うことがございます」
「学術面?」
「はい。殿下は学年首席でいらっしゃいますので」
嘘ではありません。
殿下は本当に首席です。
ただし、最近の相談内容は学術ではなく恋愛初等教育ですが。
ベアトリス様は、ふ、と小さく笑いました。
「それなら、わたくしも殿下にご教授願いたいものですわ」
「殿下はお忙しい方ですので、教師へ伺う方が確実かと」
取り巻きの一人が、眉をぴくりと動かしました。
ベアトリス様は笑みを深めます。
「ルイート様は、殿下のご予定にずいぶんお詳しいのですね」
来ました。
言葉の棘。
私は心の中で息を整えました。
ここで動揺してはいけません。
動揺すれば、相手の思うつぼです。
「学園の生徒であれば、殿下がお忙しいことは皆様ご存じかと思います」
「そうかしら」
「はい」
「でも、殿下は最近、ナリア様にもお優しくなりましたわね」
「喜ばしいことです」
私は迷わず答えました。
ベアトリス様の目が、ほんの少し細くなりました。
「喜ばしい?」
「はい。お二人の関係が穏やかであることは、学園にとっても良いことですから」
「ルイート様は、ナリア様の味方ですの?」
「味方という言葉は大げさです。ただ、ナリア様は素晴らしい方だと思っております」
これは本心です。
ナリア様は優しく、強く、傷ついても礼を失わない方です。
私は彼女を尊敬しています。
ベアトリス様は扇で口元を隠しました。
「そう。なら、ルイート様はご自分が妙な噂になっていることもご存じですわよね」
「噂は風のようなものですので」
「あら、風で済めばよろしいですけれど」
空気が冷えました。
取り巻きの令嬢たちが、くすりと笑います。
「殿下とナリア様の間に、伯爵令嬢が頻繁に現れる。そう見える方もいるようですわ」
「そのような誤解を招かぬよう、注意いたします」
「ええ。注意なさった方がよろしいですわ」
ベアトリス様は一歩近づきました。
香水の甘い香りがします。
濃く、華やかな香り。
「王太子殿下のおそばに立つということは、ただの親切心では済まされませんもの」
その言葉は、忠告の形をしていました。
けれど、中身は牽制です。
お前は何者なのか。
身の程を知れ。
そう言っている。
私は静かに礼をしました。
「ご忠告、痛み入ります」
ベアトリス様は、ほんの少し意外そうに私を見ました。
反論を期待していたのでしょうか。
あるいは、動揺する姿を見たかったのかもしれません。
しかし、ここで言い返しても得るものはありません。
私は伯爵令嬢。
相手は侯爵令嬢。
しかも王太子妃候補に名前が出たこともある方。
対立するには不利です。
「では、授業がありますので」
私はもう一度礼をし、その場を離れました。
背中に視線を感じます。
周囲の小さな囁きも。
「今の、ダルモア様よね」
「ルイート様、大丈夫かしら」
「やはり殿下の件で……」
「怖いですわ」
私は歩き続けました。
足音を乱さず。
背筋を伸ばしたまま。
けれど、胸の中は静かではありませんでした。
来ました。
ついに、ただの好奇心ではない視線が。
殿下とナリア様の関係修復が進むほど、それを面白く思わない者が動き始める。
予想はしていました。
けれど実際に正面から向けられると、重い。
私は廊下の角を曲がったところで、ようやく小さく息を吐きました。
「マリア様」
エレナ様が、そこに立っていました。
どうやら一部始終を見ていたようです。
「バートン様」
「大丈夫ですか」
「はい」
「嘘ですわね」
「……少し、疲れました」
「でしょうね」
エレナ様は心配そうに私を見ました。
「ダルモア様は、以前からナリア様の立場をよく思っていません」
「やはり」
「ええ。表立って動く方ではありませんが、取り巻きの方々が噂を広げることがあります」
「厄介ですね」
「厄介です」
エレナ様ははっきり頷きました。
「今後、マリア様が殿下と二人きりに見える場面は、本当に避けた方がよろしいです」
「はい」
「私もできるだけ近くにおります」
「ありがとうございます」
「それと、ナリア様にも少し気を配った方がいいですわ」
「ナリア様に?」
「ダルモア様たちの狙いは、マリア様を責めることだけではありません。ナリア様に不安を抱かせることかもしれません」
私は息を呑みました。
そうです。
私と殿下の噂を広げれば、ナリア様は傷つく。
せっかく少しずつ殿下を信じ始めているのに、また不安になるかもしれません。
それが狙いなら。
私は手を握りました。
「……急いで対策を考えます」
「焦りすぎないでください」
「でも」
「焦ると、殿下に似てきますわよ」
「それは困ります」
思わず即答してしまいました。
エレナ様は少し笑いました。
その笑いで、少しだけ緊張が解けました。
「まずは、今日の放課後にグラシア様も含めて相談なさるとよろしいかと」
「そうします」
「私も必要なら同席します」
「お願いします」
そう言える相手がいる。
それだけで、少し心強くなりました。
放課後の資料室には、殿下、レオン様、そして私が集まりました。
扉は開けています。
さらに今日は、少し遅れてエレナ様も来る予定です。
形としては学術研究の打ち合わせ。
机の上には実際に教本や資料を広げています。
恋愛特訓の紙は、その下に隠しました。
「ダルモア侯爵令嬢が?」
私の報告を聞いた殿下の顔が険しくなりました。
「はい。直接的な攻撃ではありませんが、牽制はされました」
「すまない」
「殿下が謝ることでは」
「いや、僕の行動が君をその立場に置いた」
殿下は強く言いました。
「そして、ナリアにも影響が出る可能性がある」
その理解が早くなっています。
以前なら、自分がうまく言えないことばかりで頭がいっぱいだったでしょう。
今は、周囲への影響も見ようとしている。
レオン様が静かに言いました。
「ダルモア侯爵家は、以前より王太子妃候補に関心を示していました。ナリア様と殿下の関係が修復に向かえば、面白くないでしょう」
「ベアトリス嬢本人が動くとは思っていなかった」
「本人が直接動いたというより、まずは探りでしょう」
「探り……」
「はい。ルイート嬢がどう反応するか、周囲にどう見えるかを確認したのかと」
レオン様は冷静です。
こういう時、本当に頼りになります。
「対策としては、まず殿下とルイート嬢が二人で会っている印象を薄めることです」
「具体的には?」
私が尋ねると、レオン様は紙に書きながら答えました。
「一つ、相談時は必ず私かバートン嬢が同席する。二つ、場所は資料室だけでなく、開かれた学習室も使う。三つ、表向きの目的を学術研究会として整える」
「学術研究会」
「はい。試験上位者による自主勉強会という形なら自然です。殿下、ルイート嬢、バートン嬢、私。必要であれば他の成績上位者も一時的に招く」
非常に現実的です。
私は頷きました。
「それなら、不自然さは減りますね」
「ただし、恋愛特訓の内容を話す時は注意が必要です」
「そこは小声で」
「殿下が動揺して声を上げなければ」
レオン様が殿下を見ました。
殿下は真剣に頷きました。
「努力する」
「実行してください」
私とレオン様の声が重なりました。
殿下は少し傷ついた顔をしました。
その時、扉が軽く叩かれました。
「失礼いたします」
エレナ様です。
彼女は中に入ると、殿下とレオン様へ丁寧に礼をしました。
「お招きいただきありがとうございます」
「バートン嬢、急にすまない」
殿下が言うと、エレナ様は柔らかく微笑みました。
「いいえ。マリア様が倒れる前にお手伝いできるなら光栄ですわ」
「倒れる……」
殿下が青ざめました。
私は慌てて言いました。
「倒れません」
「ですが、最近お疲れですわ」
「バートン様」
「事実です」
殿下が私を見ました。
少し心配そうな顔です。
「ルイート嬢」
「私は大丈夫です」
「本当に?」
殿下の声は、以前よりも相手を気遣う響きがありました。
私は少し驚きました。
ナリア様への練習が、他の人への言葉にも影響している。
そう感じます。
「はい。ですが、皆様に協力していただけるなら、とても助かります」
殿下は少しだけほっとしました。
「分かった。今後は必ず負担を分ける」
「ありがとうございます」
エレナ様が楽しそうに殿下を見ました。
「殿下」
「何だろうか」
「今の『本当に?』は、とても自然でよろしかったですわ」
殿下の顔が赤くなりました。
「そ、そうか」
「はい。以前なら、たぶん『無理なら最初から言え』などとおっしゃりそうでしたもの」
殿下が固まりました。
レオン様が静かに頷きます。
「言いそうですね」
「レオン」
「事実です」
私は思わず口元を押さえました。
エレナ様はにこにこと続けます。
「殿下、かなり進歩なさっていますわ」
殿下は困ったように目を伏せました。
「……ありがとう」
その言葉も、自然でした。
私は少しだけ胸が温かくなりました。
ありがとうが、少しずつ殿下の中に馴染んでいる。
それは本当に良いことです。
「では、改めて今後の方針を整理しましょう」
レオン様が話を戻しました。
こうして、資料室での新しい会議が始まりました。
目的は三つ。
一つ、殿下とナリア様の関係を急がず改善すること。
二つ、マリアが殿下との妙な噂に巻き込まれすぎないようにすること。
三つ、ベアトリス・ダルモア侯爵令嬢周辺の動きを警戒すること。
エレナ様は噂の流れを拾い、レオン様は殿下側の調整を行う。
私は引き続き殿下の言葉の訓練を担当する。
そして殿下は。
「余計なことを言わない」
「呼吸を忘れない」
「重すぎる言葉を避ける」
「ナリア様の顔を見る」
「感謝を伝える」
自分で項目を読み上げ、真剣に頷いていました。
エレナ様が扇で口元を隠しながら、少し肩を震わせています。
「バートン嬢」
殿下が恥ずかしそうに言いました。
「笑っているだろう」
「いいえ」
「笑っている」
「微笑ましく思っているだけですわ」
「それは笑っているのでは」
「近いかもしれません」
エレナ様は否定しませんでした。
資料室の空気が、少しだけ明るくなります。
こうして見ると、不思議な集まりです。
王太子殿下。
その側近の侯爵子息。
伯爵令嬢である私。
子爵令嬢のエレナ様。
表向きは学術研究会。
実態は、残念王子恋愛更生会議。
もし誰かに知られたら、どう説明すればよいのでしょう。
いえ、説明しない方がよいでしょう。
会議の終わり頃、殿下がふと窓の外を見ました。
夕方の光が、濡れた木々を金色に染めています。
「ナリアは、今日のことをどう思っているだろう」
小さな声でした。
私は少し考えました。
「少なくとも、悪い気持ちではなかったと思います」
「そうだろうか」
「はい。殿下の言葉を受け取ってくださっていました」
「……怖がらせてはいなかったか」
「昨日より、少し安心しておられたように見えました」
殿下は静かに息を吐きました。
呼吸。
忘れていません。
それだけで、少し進歩です。
「なら、よかった」
その声は、とても柔らかでした。
ナリア様に聞かせたい。
私はそう思いました。
いつか、この声で。
この温度で。
殿下がナリア様に本心を伝えられたら。
きっと、長く傷ついた彼女の心にも届くはずです。
まだ遠いですが。
それでも、以前よりは近づいています。
会議を終え、私はエレナ様と共に資料室を出ました。
殿下とレオン様は少し時間を置いてから出ることになっています。
廊下には夕方の静けさが広がっていました。
昼間のざわめきが嘘のように、旧講義棟はひっそりとしています。
窓から入る風は少し冷たく、雨上がりの土の匂いがまだ残っていました。
「マリア様」
エレナ様が言いました。
「はい」
「今日は少し前進しましたわね」
「殿下が、ですか」
「殿下も。マリア様も」
「私も?」
「ええ。一人で抱え込まず、助けを求めました」
私は少し黙りました。
そう言われると、少し照れます。
「……そうですね」
「それは大事ですわ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
エレナ様はにこりと笑いました。
その笑みは、軽やかで、温かいものでした。
校舎の外に出ると、夕焼けが空を染めていました。
雲の隙間から差し込む光が、雨上がりの石畳に反射しています。
水たまりには、揺れる空が映っていました。
私はその水たまりを見て、少しだけ足を止めました。
池ではありません。
ただの水たまりです。
けれど、水面を見ると、どうしてもあの日のことを思い出します。
王太子殿下が池に落ちた日。
すべては、そこから始まりました。
あの日の殿下は、泣いて、叫んで、足を滑らせて、ずぶ濡れになっていました。
今も残念なところは多いです。
かなり多いです。
呼吸も忘れます。
重すぎる言葉も出かけます。
けれど、あの日よりは確実に前へ進んでいます。
謝れた。
挨拶できた。
ありがとうと言えた。
ナリア様の顔を見られた。
そして、自分一人ではなく、周囲に助けを求めることも少しずつ覚えている。
人は、変われる。
ゆっくりでも。
不格好でも。
何度も止まりながらでも。
「マリア様?」
エレナ様が私を覗き込みました。
「どうかしました?」
「いえ」
私は小さく首を振りました。
「少し、最初のことを思い出していました」
「最初?」
「殿下が池に落ちた日のことです」
言ってから、しまったと思いました。
エレナ様が目を丸くします。
そして数秒後。
「……池?」
当然の反応です。
私は静かに視線を逸らしました。
「今のは忘れてください」
「無理ですわ」
「でしょうね」
「殿下、池に落ちたのですか?」
「……不可抗力で」
「まあ」
エレナ様は扇で口元を隠しました。
肩が震えています。
完全に笑っています。
「詳しく聞きたいですわ」
「いつか」
「必ずですわよ」
「……検討します」
エレナ様の笑い声が、夕方の廊下に小さく響きました。
私は少し困りながらも、つられて笑ってしまいました。
王太子殿下の恋愛更生計画。
それは、秘密と噂と胃痛に満ちています。
けれど、少しずつ味方も増え、笑える瞬間も増えてきました。
もちろん、これから先には面倒事が待っているでしょう。
ベアトリス様の動き。
学園内の噂。
ナリア様の不安。
殿下の口。
問題は山積みです。
それでも。
今日の殿下は、呼吸を忘れない練習を始めました。
たったそれだけでも、あの方にとっては大きな前進なのです。
私は夕焼けを見上げながら、心の中で静かに呟きました。
王太子殿下。
恋をするには、まず息を吸って、吐くところからです。
どうか明日も、ナリア様の前で生命活動を止めないでくださいませ。




