第6話 王太子殿下、ありがとうで呼吸を忘れる
感謝とは、本来とても温かな言葉です。
誰かが手を差し伸べてくれた時。
心を配ってくれた時。
自分のために時間を使ってくれた時。
その気持ちを受け取り、返すための言葉。
ありがとう。
ただ、それだけ。
たった五文字。
けれど、その五文字が言えない人間は、意外と少なくありません。
照れくさいから。
今さらだから。
言わなくても伝わっていると思っているから。
自分の弱さを認めるようで悔しいから。
理由はいろいろあります。
そして、アルノルド・アルスード王太子殿下の場合、その理由はさらに複雑でした。
「心配してくれて、ありがとう」
旧講義棟二階、資料室。
朝の光がまだ柔らかく、古い棚の影が床に細く伸びる時間。
殿下は机の前に立ち、昨日から何度も練習している言葉を口にしていました。
「心配してくれて、ありがとう」
「はい。もう一度」
「心配してくれて、ありがとう」
「もう一度」
「心配してくれて、ありがとう」
声は安定しています。
表情も、以前ほど硬くありません。
少なくとも、資料室で私を相手に練習している時の殿下は、かなりまともになってきました。
……資料室限定ですが。
私は扇を膝の上に置き、殿下の口元と目線を確認します。
今日の課題は「感謝」です。
昨日、殿下はナリア様へ自分から「ごきげんよう」と挨拶をし、さらに勢い余って「今日も、よく似合っている」と褒めることに成功しました。
何が似合っていたのかを明確にしなかった点は反省材料ですが、暴言ではなかったため、総合的には成功と言っていいでしょう。
そして今日。
次に目指すのは、ナリア様が殿下を気遣ってくださった時に、拒絶せず、棘を出さず、素直に感謝を返すことです。
心配してくれて、ありがとう。
ただ、それだけ。
これもまた、普通の人であれば難しい言葉ではありません。
けれど殿下にとっては、挨拶以上に難しい可能性がありました。
なぜなら、ナリア様の気遣いは、殿下の心を大きく揺らすからです。
嬉しい。
申し訳ない。
心配をかけたくない。
情けないところを見せたくない。
でも、見てくれて嬉しい。
その優しさが愛しい。
そうした感情が一度に押し寄せた結果、殿下の口はなぜか拒絶の方向へ走ります。
余計な心配をするな。
お前には関係ない。
目障りだ。
過去に何度そう言ってしまったかは、まだ正確には聞いておりません。
聞くのが怖いからです。
おそらく、聞けば私の胃が痛くなります。
「殿下」
「はい」
「今日の目標は、あくまで機会があれば、です」
「分かっている」
「無理に心配される状況を作らないでください」
「分かっている」
「階段でわざと足を踏み外す、池に近づく、授業中に具合が悪いふりをする、などは厳禁です」
「しない」
「本当に?」
「しない。池には近づかない」
殿下は力強く言いました。
池への警戒心だけは、しっかり根づいています。
よろしいことです。
「では、想定練習です」
「はい」
「ナリア様が『殿下、お顔色が優れないようですが、大丈夫ですか』と尋ねてくださいました。どう返しますか」
殿下は息を吸いました。
「心配してくれて、ありがとう。大丈夫だ」
「良いです。短く、自然です」
「本当か」
「はい」
「では、ナリアが『無理はなさらないでください』と言ったら?」
「その場合も、ありがとう、です」
「ありがとう」
「はい。余計なことは言いません」
「余計なこと……」
「例えば?」
殿下は少し考えました。
「君に心配されるほど弱くない」
「駄目です」
「だろうな」
「完全に拒絶です」
「分かっている。だが、昔は言っていた気がする」
「……そうですか」
私は深く追及しませんでした。
やはり胃が痛くなりそうです。
殿下は少し沈んだ顔になりました。
「ナリアは、あの時どんな顔をしていただろう」
「覚えていないのですか」
「怖くて、あまり見られなかった」
私は言葉を失いました。
冷たい言葉をかけた後、ナリア様の顔を見るのが怖かった。
だから見なかった。
それは、ひどく身勝手です。
けれど同時に、殿下らしい弱さでもありました。
傷つけた自覚がある。
でも、傷つけた相手の痛みを見る勇気がない。
その弱さが、さらにナリア様を孤独にしたのでしょう。
「殿下」
「はい」
「今日は、もしナリア様が何か言ってくださったら、必ずお顔を見て返してください」
殿下の表情が強張りました。
「顔を……」
「はい」
「見ると、言葉が乱れる」
「それでもです」
「……分かった」
「ナリア様がどんな表情で言葉をくださっているのか、見てください。怖くても」
殿下は黙りました。
資料室に朝の静けさが満ちます。
遠くで授業開始前の生徒たちの声がしていました。
殿下はしばらくして、静かに頷きました。
「分かった。見る」
「はい」
「そして、ありがとうと言う」
「はい」
「口を閉じる」
「最重要です」
殿下は真剣な顔で頷きました。
その姿は、本当に国家の重要任務を背負う王太子のようです。
内容は「好きな令嬢にありがとうを言う」ですが。
「では、最後にもう一度」
「心配してくれて、ありがとう」
「良いです」
「心配してくれて、ありがとう」
「はい」
「心配してくれて、ありがとう」
練習では、完璧です。
問題は、いつも通り本番でした。
その日の学園は、朝から少し湿った空気に包まれていました。
夜のうちに雨が降ったらしく、石畳はところどころ濡れ、花壇の葉には透明な雫が残っています。
空は曇り。
雲の切れ間から薄い光が差しているものの、空気には雨の気配がまだ漂っていました。
校舎の廊下にも、外から持ち込まれた湿った土の匂いが少し混ざっています。
生徒たちはいつもより少しだけ足元を気にしながら歩いていました。
「今日は滑りやすいですわね」
「先ほど中庭で転びかけましたわ」
「まあ、お気をつけて」
そんな声があちこちから聞こえます。
私は廊下を歩きながら、少し嫌な予感を覚えていました。
濡れた石畳。
滑りやすい足元。
王太子殿下。
池。
いえ、池は関係ありません。
今日は池に近づかないと約束しました。
しかし、滑るという言葉だけで、あの日の光景が脳裏に蘇ります。
ばしゃん。
いけません。
忘れましょう。
忘れられませんが、努力はしましょう。
「マリア様」
声をかけられ、私は振り返りました。
エレナ・バートン子爵令嬢です。
今日も穏やかな微笑みを浮かべていますが、その目にはどこか楽しそうな光がありました。
「ごきげんよう、バートン様」
「ごきげんよう。今日も朝からお忙しそうですわね」
「普通に登校しているだけですが」
「そうでしょうか。マリア様が普通に登校しているだけの日は、もう少し肩の力が抜けていますわ」
「観察しすぎではありませんか」
「友人ですもの」
友人。
その言葉に、少しだけ胸が温かくなりました。
エレナ様とはこれまで、成績上位者同士として言葉を交わす程度でした。
けれど最近、彼女は何かと私を気にかけてくれます。
どこまで事情に気づいているのかは分かりません。
ですが、悪意なく近くにいてくれる存在は、思った以上にありがたいものでした。
「今日は雨上がりですから、殿下にもお気をつけいただかないといけませんわね」
エレナ様がさらりと言いました。
私は足を止めかけました。
「なぜ殿下のお話が?」
「いえ、なんとなく」
「なんとなく」
「殿下は最近、少し足元より心の方が忙しそうですから」
言い得て妙です。
私は否定できませんでした。
エレナ様はくすりと笑います。
「それに、雨上がりの日は廊下も階段も滑りやすいですわ。ナリア様はそういうところをよく気にされる方です」
私は彼女を見ました。
「それは情報提供でしょうか」
「偶然の会話ですわ」
「便利な偶然ですね」
「ええ、本当に」
彼女は楽しげに微笑みました。
私は小さく息を吐きました。
ナリア様は、きっと殿下の足元を気遣うでしょう。
雨上がりの廊下。
滑りやすい階段。
過去に殿下が何度も無理をしてきた姿を見ていたなら、なおさら。
つまり、今日の課題である「心配してくれて、ありがとう」を言う機会が、本当に来るかもしれません。
私は胸の奥が少し重くなりました。
機会が来てほしいと思っていました。
けれど、来たら来たで胃が痛い。
「マリア様」
「はい」
「無理をなさらないでくださいね」
エレナ様が少しだけ真面目な声で言いました。
「殿下とナリア様のことも大切かもしれませんが、マリア様ご自身の立場も大切ですわ」
「分かっております」
「本当に?」
「……努力しております」
「それは不安ですわね」
エレナ様は柔らかく笑いました。
けれど、その目は心配しているようでした。
私は少しだけ頷きます。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
感謝の言葉は、自然に出ました。
やはり、普通はこうなのです。
ありがとう。
それは人と人の間に小さな温かさを渡す言葉。
殿下も、今日それをナリア様に渡せるでしょうか。
午前の授業が終わり、昼休みに入る直前。
廊下はいつものように賑やかになりました。
教室から生徒たちが出てきます。
食堂へ向かう者。
中庭で昼食を取ろうとする者。
教師に呼ばれて職員室へ向かう者。
雨は上がっていましたが、外庭はまだ濡れており、中庭へ出る生徒たちは少し慎重に歩いています。
私は階段近くの廊下にいました。
教本を抱え、次の授業の資料を取りに行くような顔をしています。
実際には、殿下とナリア様の動きを確認するためです。
こうして考えると、私は最近ずっと見張りのようなことをしています。
伯爵令嬢の学園生活とは何だったのでしょう。
少し離れたところに、殿下がいました。
側近のレオン様と共に、中央棟から降りてきたところです。
殿下の姿は今日も完璧でした。
金髪は整い、制服に乱れはなく、歩き方にも隙がありません。
ただ、私には分かります。
緊張しています。
わずかに肩が硬い。
視線がいつもより周囲を確認している。
そして、手が時々握られている。
レオン様もそれに気づいているのでしょう。
殿下の横顔を見て、ほんの少しだけ眉を上げました。
そして、私に気づくと軽く会釈しました。
私は礼を返します。
完全に知られています。
もうこの方には、殿下の恋愛特訓についてある程度察されていると見てよいでしょう。
問題は、彼が味方かどうか。
今のところ、少なくとも邪魔をする様子はありません。
むしろ、殿下を静かに支える側でしょう。
ありがたいことです。
その時、階段の上からナリア様が降りてきました。
手には数冊の本。
礼法研究会の資料でしょうか。
今日は少し重そうです。
ナリア様は足元を見ながら、ゆっくり階段を下りています。
その姿を見た殿下が、わずかに動きました。
心配したのでしょう。
けれど、飛び出してはいけません。
急に駆け寄れば、それはそれで周囲が騒ぎます。
私は目で殿下に訴えました。
落ち着いて。
まずは落ち着いてください。
ナリア様が階段の最後の数段に差しかかった時です。
足元に残っていた湿り気のせいでしょうか。
彼女の靴が、ほんの少し滑りました。
「あっ」
小さな声。
ナリア様の体が傾きます。
周囲の令嬢たちが息を呑みました。
「ナリア様!」
殿下が動きました。
早かった。
驚くほど早かった。
剣術も優れていると聞いていましたが、こういう時の反応はさすがです。
殿下は階段下へ踏み出し、ナリア様が落としかけた本を片手で受け止め、もう片方の手で彼女の腕を支えました。
大きな音はしませんでした。
転倒もありません。
ただ、数冊の本が殿下の腕の中に収まり、ナリア様は殿下に支えられる形で踏みとどまりました。
廊下が静まりました。
生徒たちの視線が一斉に集まります。
令嬢たちが口元を押さえました。
男子生徒たちも足を止めています。
階段下で、王太子殿下がナリア様を支えている。
絵になります。
非常に絵になります。
これだけなら、まるで恋物語の一場面です。
ただし、私は知っています。
ここからが危険なのです。
「ナリア、大丈夫か」
殿下が言いました。
心配の声。
少し焦ってはいますが、冷たさはありません。
良いです。
非常に良いです。
ナリア様は驚いたように殿下を見上げました。
頬が少し赤くなっています。
「は、はい。ありがとうございます、殿下」
ありがとう。
先に言ったのはナリア様でした。
殿下は一瞬、完全に固まりました。
ナリア様が礼を言った。
腕の中に本がある。
近い。
ナリア様が近い。
殿下の顔が、見る見る赤くなっていきます。
危険です。
これはかなり危険です。
私は小さく咳払いをしました。
「こほん」
殿下の口が閉じました。
しかし問題は、閉じる前に何か言う必要があることです。
この場面で黙り続けると、ナリア様が不安になります。
殿下は本を抱えたまま、ナリア様を見ています。
見ています。
見すぎています。
ナリア様も困っています。
周囲も固唾を呑んでいます。
殿下、言葉を。
短く。
大丈夫だ、とか。
怪我がなくてよかった、とか。
殿下は喉を動かしました。
「怪我は……」
よし。
「怪我は、ないか」
良いです。
とても良いです。
ナリア様は少し目を見開き、それから柔らかく頷きました。
「はい。殿下のおかげで」
殿下の顔がさらに赤くなります。
駄目です。
照れている場合ではありません。
ここは自然に本を返す。
そして短く言う。
気をつけて。
あるいは、無理をしないで。
しかし、今日の課題は「心配してくれて、ありがとう」です。
まだナリア様が殿下を心配していない。
今回は殿下がナリア様を心配する側になりました。
これはこれで良い練習ですが、想定とは少し違います。
そう思った時でした。
ナリア様が、殿下の手元を見ました。
彼女を支えた際に、殿下の指先が階段の手すりに少し擦れたのでしょう。
白い手袋の端がわずかに汚れ、親指のあたりに小さな赤みが滲んでいました。
「殿下、お手が……」
ナリア様の声が揺れました。
殿下も自分の手を見ました。
「この程度、何でも――」
「こほん」
私は即座に咳払いしました。
殿下は口を閉じました。
危ない。
今の「何でもない」は、状況によっては問題ありません。
ですが、殿下の場合、その後に「君が気にすることではない」などと続きかねません。
止めて正解です。
ナリア様は心配そうに殿下の手を見ています。
「少し擦れております。保健室で手当てを……」
来ました。
心配。
今日の課題です。
殿下。
今です。
心配してくれて、ありがとう。
それだけです。
殿下は、ナリア様を見ました。
ちゃんと顔を見ました。
ナリア様の瞳には、明らかな心配があります。
殿下はそれを見て、息を呑みました。
今まで、こういう顔を見られなかったのでしょう。
自分が冷たく返した後の、彼女の傷ついた顔も。
それでもなお心配してくれる、優しい顔も。
今、初めて逃げずに見ている。
そう思うと、私は胸の奥が少し痛くなりました。
殿下の唇が震えました。
「心配……」
廊下が静まり返っています。
皆が見ています。
しかし殿下は、ナリア様だけを見ていました。
「心配してくれて」
言える。
あと少し。
ナリア様の指先が、本の端を握りしめています。
殿下は深く息を吸いました。
「ありがとう」
言えました。
とても小さな声でした。
けれど、確かに。
心配してくれて、ありがとう。
殿下は、ナリア様に言えました。
ナリア様の瞳が大きく揺れました。
驚き。
信じられないという表情。
そして、ゆっくり広がる温かさ。
「……はい」
ナリア様は小さく答えました。
「どうか、無理はなさらないでください」
殿下は一瞬、また何か言いかけました。
私は咳払いの準備をしました。
しかし、殿下は自分で口を閉じました。
えらい。
そして、ゆっくり頷きました。
「ああ。気をつける」
良い。
完璧です。
今日の殿下は、これまでで一番良いかもしれません。
私は心の中で小さく拍手しました。
もちろん実際にはしません。
そんなことをしたら、さらに目立ちます。
しかし、周囲はもう十分にざわついていました。
「殿下が、ありがとうと……」
「ナリア様に?」
「お怪我を?」
「今の、ご覧になりまして?」
「まるで本当に……」
まるで本当に、の後は聞こえませんでした。
しかし何を言いたいのかは分かります。
まるで本当に、想い合っているよう。
そう見えたのでしょう。
実際、殿下はナリア様を心から想っています。
ただ、これまで口が壊滅的だっただけで。
ナリア様は、殿下の手をもう一度心配そうに見ました。
「本当に、手当ては……」
「大丈夫だ。だが、後で確認してもらう」
良い。
殿下、本当に良いです。
ナリア様の心配を否定せず、自分の意思も伝えています。
ナリア様は安心したように微笑みました。
「はい」
殿下は本を差し出しました。
「これを」
「ありがとうございます」
ナリア様が本を受け取ります。
その指先が、ほんの一瞬だけ殿下の手袋に触れました。
殿下の動きが止まりました。
まずい。
さすがに近い。
触れた。
ナリア様も少し赤くなっています。
周囲はもう息を潜めています。
私は小さく咳払いをしました。
「こほん」
殿下は口を閉じました。
しかし今回は、口よりも呼吸が止まっているように見えました。
呼吸してください。
殿下。
呼吸です。
ナリア様は少し困ったように、でも嬉しそうに微笑みました。
「では、失礼いたします」
「あ、ああ」
少し声が上ずりましたが、許容範囲です。
ナリア様は礼をし、階段下から廊下へ歩いていきました。
いつもより慎重に。
そして、ほんの少しだけ軽い足取りで。
殿下はその背中を見送っていました。
見送りすぎています。
また固まっています。
レオン様がそっと横に立ち、低い声で言いました。
「殿下、呼吸を」
「……はっ」
殿下が息を吸いました。
本当に止めていたのですね。
私は額に手を当てたくなりました。
けれど、今日は成功です。
大成功と言ってもいい。
殿下はナリア様を助け、心配し、心配され、それに感謝を返せました。
問題は、周囲の視線です。
廊下の空気は完全に熱を帯びていました。
令嬢たちの扇が忙しく動きます。
男子生徒たちも小声で話しています。
教師ですら、少し離れたところで何とも言えない顔をしています。
そして、その中で何人かの令嬢の視線が、ナリア様ではなく私へ向いていました。
やはり。
殿下の変化の近くに、私がいる。
そのことに気づき始めている者が増えています。
私は静かに教本を抱え直し、その場を離れました。
廊下を歩きながら、胸の中で複雑な感情が揺れます。
嬉しい。
殿下がうまく言えたことは、本当に嬉しい。
ナリア様の表情が少し温かくなったことも、嬉しい。
けれど、それだけでは済まない。
この学園の中で、王太子殿下とナリア様の関係は、あまりにも注目されすぎています。
そして私の関与もまた、少しずつ目立ち始めています。
このままでは、いつか何かが起こる。
そんな予感が、雨上がりの湿った空気のように、私の胸に重く残りました。
昼休み。
食堂は予想通り、階段での一件で持ちきりでした。
「ナリア様が階段で転びかけたところを、殿下が助けたそうですわ」
「まあ、素敵」
「しかも殿下が『心配してくれてありがとう』と」
「以前の殿下なら考えられませんわね」
「本当にお変わりになったのかしら」
「ナリア様、嬉しそうだったそうですわ」
「でも、殿下のそばにはやっぱりルイート様が……」
最後の方になると、声が少し小さくなります。
けれど、聞こえています。
私は食堂の隅で、静かに昼食を取っていました。
今日の昼食は鶏肉の香草焼きと白パン、そして小さな果実です。
美味しいはずです。
しかし、味が少し遠い。
噂の視線が気になっているのでしょう。
自分でも分かります。
「マリア様」
向かいにエレナ様が座りました。
もう自然に同席するようになっています。
「お疲れの顔ですわね」
「少し」
「今日の殿下は、よくできていたと思いますわ」
「はい」
「ナリア様も嬉しそうでした」
「はい」
「なのに、マリア様は浮かないお顔です」
私は果実を見つめました。
「少し、目立ちすぎています」
「そうですわね」
エレナ様はあっさり頷きました。
「ですが、今日の出来事自体は悪いものではありません。むしろ、殿下とナリア様の関係にとっては良い方向でしょう」
「それは分かっています」
「問題は、周囲がどう解釈するか」
「はい」
私は小さく息を吐きました。
「殿下がナリア様へ優しくなることは良いことです。でも、それが急すぎると、周囲は理由を探します。そして、その理由として私が見られている」
「その通りですわ」
「私は、殿下とナリア様の間に入るつもりはありません」
「分かっています」
「でも、そう見えない人もいるでしょう」
「いますわね」
エレナ様は静かに言いました。
その声には、いつもの軽やかさがありませんでした。
「特に、ナリア様が王太子妃候補であることを快く思っていない方々にとって、マリア様は都合の良い材料になります」
「材料」
「ええ。殿下の心がナリア様ではなくマリア様へ向いている、という噂を作れば、ナリア様の立場を揺らせます」
私は手を止めました。
その可能性は、考えていました。
考えてはいましたが、エレナ様の口からはっきり言われると、重みが違います。
「もちろん、今はまだ軽い噂ですわ。殿下がナリア様へ優しくなったことの方が注目されています」
「ですが、今後は分からない」
「はい」
エレナ様は頷きました。
「マリア様は、殿下と二人きりに見える場面を減らした方がよろしいかと」
「資料室での相談も?」
「できれば、第三者を入れるべきです」
「第三者……」
私は考えました。
エレナ様。
レオン様。
この二人なら、ある程度事情を察しており、悪意も少ない。
しかし、殿下の秘密をどこまで共有するかは難しい。
特に「好きすぎて暴言が出る」など、本人にとっても重大な弱みです。
軽々しく増やしてよいものではありません。
「悩ましいですね」
「ええ」
エレナ様は果実を一つ摘みました。
「でも、殿下の側近であるグラシア様は、すでにかなりお気づきでしょう?」
「おそらく」
「なら、殿下から正式に協力を求めていただくのも一つの手ですわ」
「バートン様は?」
私が尋ねると、エレナ様は目を丸くしました。
「私ですか?」
「はい。あなたもかなりお気づきです」
「そうですわね」
「協力していただけますか」
言ってから、少し驚きました。
私は、自分から彼女に頼ったのです。
これまで一人でどうにかしようとしていた部分が大きかった。
殿下に指導し、ナリア様を気にかけ、噂を避け、合図を送り。
けれど、そろそろ一人では難しくなってきています。
エレナ様は、少しだけ嬉しそうに微笑みました。
「もちろんですわ」
「よろしいのですか」
「ええ。私、こう見えて口は堅い方ですの」
「噂はお好きそうですが」
「聞くのは好きです。広める相手は選びます」
「不安なような、頼もしいような」
「頼もしい方を採用してくださいませ」
エレナ様は軽く笑いました。
その笑いに、少しだけ肩の力が抜けました。
「ただし、私からも条件があります」
「条件?」
「マリア様が一人で抱え込まないこと」
その言葉は、思ったよりも真剣でした。
「殿下もナリア様も大切です。でも、マリア様が消耗しきってしまっては意味がありません」
「私は大丈夫です」
「大丈夫な方は、最近昼食の味が分からない顔をしません」
私は言葉に詰まりました。
そんな顔をしていたでしょうか。
していたのでしょう。
エレナ様はよく見ています。
「……気をつけます」
「はい」
彼女は満足そうに頷きました。
この日、私は初めて、エレナ様を明確に「味方」として意識しました。
そしてそれは、後にとても大きな意味を持つことになります。
放課後。
資料室には、いつものように殿下がいました。
ただし今日は、私が入った瞬間、彼は勢いよく立ち上がりました。
「ルイート嬢」
「殿下」
「今日は……」
そこで言葉が止まります。
顔は赤い。
目は輝いている。
大変分かりやすく、褒めてほしそうです。
私は扉を少し開けたままにし、椅子へ座りました。
「総評から申し上げます」
「はい」
「本日は、大変よくできました」
殿下の表情が、ぱっと明るくなりました。
本当に大型犬のようです。
いえ、王太子殿下です。
何度も心の中で訂正します。
「本当か」
「はい。ナリア様を助けた時の対応も、その後の心配への返答も、とても良かったです」
「ありがとうと言えた」
「はい。言えました」
「ナリアの顔を見た」
「はい」
「怖かった」
「でしょうね」
「でも、見た」
「それが大切です」
殿下は椅子に座りました。
その表情には、安堵と疲労が混じっていました。
「彼女は、本当に心配してくれていた」
「はい」
「今まで、あの顔を見るのが怖くて逃げていた」
「はい」
「逃げてはいけなかった」
「そうですね」
殿下は深く息を吐きました。
「ありがとう、と言ったら、ナリアが少し驚いていた」
「はい」
「それから、少し安心した顔をした」
「見ておられましたか」
「ああ」
「よろしいです」
殿下は小さく頷きました。
「今まで僕は、彼女の表情を見ていなかったのだな」
「見るのが怖かったからですね」
「そうだ」
「でも、これからは見てください」
「ああ」
静かな時間が流れました。
今日の殿下は、浮かれているだけではありません。
ちゃんと、何かを受け止めている。
それは良い変化でした。
「ただし、問題もあります」
私が言うと、殿下は姿勢を正しました。
「何だろうか」
「周囲の噂です」
「ああ……」
殿下の表情が曇りました。
「僕とナリアのことだけならまだしも、君にも視線が向いている」
「はい」
「すまない」
「謝罪より対策です」
「分かった」
私は昼休みにエレナ様と話したことを伝えました。
二人きりに見える場面を減らすこと。
レオン様にある程度協力を求めること。
エレナ様にも外側から噂の流れを見てもらうこと。
殿下は真剣に聞いていました。
「レオンには、話すべきだな」
「殿下が信頼できる方なら」
「ああ。幼い頃からの側近だ。僕の情けない部分も、多少は知っている」
「多少で済むでしょうか」
「……今回の件ほどではない」
「でしょうね」
殿下は少しだけ苦笑しました。
「エレナ・バートン嬢も、信用できるのか」
「私はそう感じています」
「君がそう言うなら、考慮する」
「ただし、秘密を広げすぎるのは危険です」
「分かっている」
「そして、ナリア様には余計な誤解をさせないことが最優先です」
「ああ」
殿下は強く頷きました。
「ナリアに、君とのことで不安を抱かせたくない」
「はい」
「……僕は、これ以上彼女を傷つけたくない」
その声は、静かでした。
けれど、以前よりも重みがありました。
自分の言葉が相手を傷つけると、殿下はようやく本当の意味で理解し始めています。
それだけでも、大きな前進です。
「では、次回から資料室での相談には、可能な範囲でレオン様に同席していただく形にしましょう」
「分かった」
「ただし、恋愛特訓の内容によっては、殿下が耐えられるか分かりませんが」
「……レオンの前で、ナリアへの褒め言葉を練習するのか」
「必要なら」
殿下は顔を覆いました。
「死ぬかもしれない」
「生きてください」
「努力する」
「努力ではなく実行してください」
「はい……」
その時、扉の外から控えめな咳払いが聞こえました。
私と殿下は同時に扉を見ます。
そこに立っていたのは、レオン・グラシア侯爵子息でした。
どうやら扉が少し開いていたため、声が聞こえていたようです。
彼は丁寧に礼をしました。
「失礼いたします。お話し中に申し訳ございません」
殿下は少し気まずそうにしました。
「レオン」
「はい」
「どこから聞いていた」
「生きてください、あたりから」
絶妙に恥ずかしいところです。
殿下は再び顔を覆いました。
レオン様は表情をほとんど変えません。
しかし、目元にはわずかな笑みがあります。
「殿下、もし私でよろしければ、今後はこちらの場に同席いたします」
殿下が顔を上げました。
「いいのか」
「側近ですので」
「だが、内容が……」
「ナリア様に関することでしょう」
殿下は固まりました。
レオン様は静かに続けます。
「すべてを伺っているわけではありません。しかし、殿下がナリア様との関係を真剣に改めようとしていることは分かります」
「……」
「そして、ルイート嬢がそのためにかなり苦労されていることも」
私は思わず視線を逸らしました。
苦労。
ええ、しています。
かなりしています。
「殿下。差し出がましいことを申し上げますが、今後はルイート嬢お一人に負担をかけるべきではありません」
レオン様の言葉は穏やかでした。
けれど、はっきりしていました。
殿下はしばらく黙りました。
そして、真剣な顔で頷きました。
「その通りだ」
彼は私へ向き直りました。
「ルイート嬢。すまなかった。君に甘えていた」
「……殿下」
「ナリアへのことばかり考えて、君の立場や負担を十分に見ていなかった」
私は少し驚きました。
殿下が、私に対して自分からそう言ったのは初めてです。
これまでも謝罪はありました。
けれど今回の謝罪は、以前よりずっと具体的でした。
誰に。
何を。
どう負担をかけていたのか。
それを見ようとしている。
ナリア様との練習が、少しずつ他の人への向き合い方にも影響しているのかもしれません。
「お気持ちは受け取ります」
私は言いました。
「ですが、私も自分で引き受けた部分があります。殿下お一人の責任ではありません」
「それでも、これからは改める」
「はい。お願いいたします」
レオン様が静かに頷きました。
「では、今後の相談には私も可能な限り同席します。必要であれば、周囲への説明も調整いたします」
「説明?」
「学術研究、礼法研究、あるいは試験対策という形にすれば、ルイート嬢が殿下と接触していても多少は自然に見えます」
有能です。
非常に有能です。
私は思わず感心しました。
殿下も少しほっとしたようです。
「助かる」
「ただし、殿下」
「何だ」
「本日の階段での一件は、とてもよろしかったと思います」
殿下の耳が赤くなりました。
「お前もそれを言うのか」
「事実ですので」
「……そうか」
「ですが、ナリア様の手に触れた後、呼吸を忘れておられました」
「見ていたのか」
「側近ですので」
殿下は机に突っ伏しました。
私は少し笑いそうになりましたが、堪えました。
レオン様は淡々と続けます。
「今後は、呼吸も訓練項目に入れるべきかと」
「恋愛相談で呼吸訓練……」
私は呟きました。
殿下は突っ伏したまま呻きます。
「否定できない……」
資料室の空気が、少しだけ和らぎました。
これまで、殿下と私だけで抱えていた奇妙な相談。
そこに、レオン様という冷静な第三者が加わったことで、少し形が変わり始めた気がしました。
もちろん、前途は多難です。
ナリア様の不安はまだ消えていません。
殿下の口も、まだ完全には信用できません。
学園の噂も、今後どう転ぶか分かりません。
それでも。
殿下は今日、ありがとうと言えました。
ナリア様は、それを受け取ってくださいました。
そして私も、一人ではなくなりつつあります。
それは、確かな前進でした。
夕方。
資料室を出た私は、廊下の窓から外を見ました。
雨上がりの空には、薄い夕焼けが広がっていました。
濡れた石畳がその光を受けて、淡く輝いています。
中庭の花壇にはまだ雫が残り、風が吹くたびに小さな光が揺れました。
その景色を見ながら、私は今日のナリア様の表情を思い出しました。
心配そうな目。
殿下の「ありがとう」を聞いた時の驚き。
そして、ほんの少し安心したような微笑み。
あの笑みが少しずつ増えていけばいい。
そう思いました。
ただし、そのためには殿下にまだまだ学んでいただくことがあります。
挨拶。
謝罪。
感謝。
褒め言葉。
呼吸。
……呼吸。
まさか王太子殿下の恋愛特訓に、呼吸が含まれる日が来るとは思いませんでした。
私は小さく笑いました。
すると、廊下の向こうからエレナ様が歩いてきました。
「マリア様」
「バートン様」
「少しお顔が楽になりましたわね」
「そう見えますか」
「ええ」
彼女は窓の外を見ました。
「雨が上がってよかったですわね」
「はい」
「殿下も、今日は池ではなく階段で済みましたし」
「バートン様」
「冗談ですわ」
エレナ様は楽しそうに笑いました。
私はため息をつきながらも、つられて少し笑ってしまいました。
雨上がりの空気は、まだ少し湿っています。
けれど、朝よりもずっと軽く感じました。
王太子殿下の恋は、相変わらず危なっかしい。
口から出る前に止めなければならない言葉も、まだ山ほどあるでしょう。
けれど今日、彼は確かに一つ、温かな言葉を渡せました。
ありがとう。
たったそれだけ。
けれど、その一言がナリア様の胸に届いたのなら。
今日の一歩には、十分すぎるほど意味があったのです。
私は夕焼けの中庭を見つめながら、心の中で静かに呟きました。
王太子殿下。
次の課題は、呼吸です。
どうか恋をするたびに、毎回生命活動を忘れないでくださいませ。




