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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第5話 王太子殿下、ごきげんようで燃え尽きる


 人は、何か大きなことを成し遂げようとする時、まず小さな一歩から始めるものです。


 剣を極めたい者は、まず木剣の握り方から。

 学問を修めたい者は、まず文字を読むところから。

 社交界で立ち回りたい者は、まず正しい礼の角度から。


 では、好きな令嬢に本心とは真逆の言葉ばかりを吐いてしまう王太子殿下は、何から始めるべきか。


 答えは、たいへん単純でした。


 挨拶です。


「ごきげんよう」


 この一言。


 たった一言。


 学園に通う貴族子息令嬢であれば、毎日何十回と口にする言葉です。


 朝の廊下で。

 教室の入り口で。

 中庭ですれ違う時に。

 放課後、馬車待場へ向かう道で。


 誰もが自然に交わす、最も基本的な礼の言葉。


 けれど、アルノルド・アルスード王太子殿下にとっては、その一言こそが高い崖のように立ちはだかっておりました。


「ナリア、ごきげんよう」


 旧講義棟二階の資料室。


 朝の授業が始まるよりも少し早い時間。


 古い紙と木棚の匂いが残るその部屋で、殿下は真剣な顔で挨拶の練習をしていました。


「ナリア、ごきげんよう」


「はい。もう一度」


「ナリア、ごきげんよう」


「もう一度」


「ナリア、ごきげんよう」


 声は安定しています。


 表情も硬すぎません。


 昨日までの謝罪練習に比べれば、ずいぶん自然になってきました。


 私は机の向かいに座り、扇を片手に様子を見守っております。


 昨日の反省を踏まえ、今後の合図は咳払いを基本とすることにしましたが、資料室内では引き続き扇も使います。


 何しろ、この音には殿下の口を止める効果があります。


 ぱちん。


 それだけで王太子殿下が口を閉じる。


 この事実だけを取り出せば、なかなか不敬な状況です。


 ですが、必要です。


 非常に必要です。


「殿下、今の調子なら問題ないと思います」


「本当か」


「はい。短く、自然で、余計な言葉もありません」


「余計な言葉……」


 殿下は、少しだけ遠い目をしました。


 これまで自分がどれほど余計な言葉を発してきたのか、ようやく自覚が芽生えてきたのでしょう。


 良いことです。


 自覚は更生の第一歩です。


「今日の目標は、ナリア様と廊下ですれ違った時に、殿下から『ごきげんよう』と挨拶をすることです」


「分かっている」


「それ以上は言わない」


「分かっている」


「ナリア様が返事をしてくださっても、追加で褒めようとしない」


「……分かっている」


「本当に?」


「……努力する」


「努力ではなく、実行してください」


「はい」


 殿下は神妙に頷きました。


 真剣なのは分かります。


 分かりますが、ただの挨拶でこの緊張感です。


 もし誰かがこの部屋の中を覗いたら、王国の重大な機密作戦でも立てていると思うかもしれません。


 実際には「好きな令嬢にごきげんようと言う作戦」です。


 秘密には違いありませんが、方向性がだいぶ違います。


「殿下」


「はい」


「確認です。ナリア様が『ごきげんよう、殿下』と返された場合、どうしますか」


「頷く」


「よろしいです」


「そして口を閉じる」


「非常によろしいです」


「もし、ナリアが微笑んだら?」


「口を閉じる」


「もし、ナリア様が少し嬉しそうだったら?」


「口を閉じる」


「もし、ナリア様が今日も美しかったら?」


 殿下は息を呑みました。


 顔が赤くなります。


 危険です。


 非常に危険です。


「……口を、閉じる」


「よろしいです」


「だが、心の中では褒めてもいいだろうか」


「それは自由です」


「よかった」


 殿下は心底ほっとした顔をしました。


 心の中では、いくらでも褒めてください。


 ただし、口に出さないでください。


 今の殿下の場合、心の中の褒め言葉が口を通る瞬間に変異します。


 可愛いが、騒がしいになる。

 優しいが、余計なことをするなになる。

 会えて嬉しいが、目障りだになる。


 どういう仕組みなのかは分かりません。


 呪いでもかかっているのでは、と一瞬思ったこともあります。


 しかし殿下曰く、魔術的な異常は何度も調べたが見つからなかったとのこと。


 つまり、これは純粋に殿下自身の問題です。


 非常に厄介です。


「では、最後にもう一度」


 私は言いました。


 殿下は背筋を伸ばします。


「ナリア、ごきげんよう」


「はい。良いです」


 その瞬間、授業開始前の予鈴が鳴りました。


 資料室の外に、朝のざわめきが広がります。


 生徒たちが教室へ向かう足音。

 廊下で交わされる挨拶。

 遠くから聞こえる教師の声。


 いつもの学園の朝です。


 しかし、殿下にとっては決戦の朝。


 私は立ち上がりました。


「では、まいりましょう」


「……ああ」


 殿下も立ち上がります。


 その顔は、まるで戦場へ赴く騎士のようでした。


 何度でも申し上げますが、挨拶です。


 ただの挨拶です。


 けれど、彼にとってはそれほど大きなことなのでしょう。


 私は扉へ向かい、廊下を確認しました。


 人影はありません。


「殿下は少し時間を置いてから出てください。私は先に行きます」


「分かった」


「くれぐれも、資料室から一緒に出るところを見られないように」


「分かっている」


「中庭の時のようなことは」


「本当にすまなかった」


 殿下は即座に謝りました。


 よく教育されています。


 私は頷き、資料室を出ました。


 廊下には朝の光が差し込んでいました。


 東の窓から入る陽光が、石造りの床に長い帯を作っています。


 生徒たちの声が近づいては遠ざかり、古い講義棟にも少しずつ人の気配が満ちていきます。


 私はいつもの教室へ向かう道を歩きました。


 しかし、心は落ち着きません。


 今日、殿下はナリア様に自分から挨拶する。


 ただそれだけ。


 けれど、そのただそれだけが成功すれば、二人の間にはまた一つ小さな橋が架かります。


 逆に失敗すれば、昨日までの積み重ねが少し崩れるかもしれません。


 もちろん、たった一度の失敗ですべてが終わるわけではありません。


 ですが、ナリア様はまだ怖がっています。


 また冷たい言葉を受けるかもしれない。

 また期待して傷つくかもしれない。


 そう思っている方に対して、殿下の余計な一言は、普通の何倍も深く刺さるでしょう。


 私は歩きながら、心の中で何度も確認しました。


 ごきげんよう。

 頷く。

 口を閉じる。


 ごきげんよう。

 頷く。

 口を閉じる。


 簡単です。


 簡単なはずです。


 それなのに、なぜこんなに不安なのでしょう。


 教室へ向かう途中、廊下の角でエレナ・バートン子爵令嬢と会いました。


 彼女は今日も柔らかな赤茶色の髪をきれいに編み、手には教本を抱えています。


「ごきげんよう、マリア様」


「ごきげんよう、バートン様」


 ごく自然な挨拶です。


 何の問題もありません。


 やはり普通はこうなのです。


 エレナ様は私の顔を見て、少し首を傾げました。


「何か心配事でも?」


「どうしてそう思われるのですか」


「マリア様が、いつもより三倍ほど真剣なお顔をしていらしたので」


「三倍……」


「ええ。試験前日のようなお顔ですわ」


 さすがに鋭い方です。


 私は微笑みました。


「少し、考え事をしておりました」


「殿下のことでしょうか」


 私は足を止めました。


 エレナ様は口元に手を添えて、穏やかに笑っています。


 悪戯っぽさはありますが、悪意はありません。


「なぜそこで殿下が出てくるのでしょう」


「最近のマリア様の周囲には、殿下のお名前がよく漂っていますもの」


「漂っているだけです」


「まあ。漂わせているのは誰でしょうね」


「風でしょう」


「便利な風ですわね」


 エレナ様は楽しそうに笑いました。


 私は内心でため息をつきます。


 やはり噂は続いています。


 昨日、資料室近くでのナリア様とのやり取りは、幸い大きな騒ぎにはなっていないようです。


 しかし、それ以前の「扇で殿下を黙らせる令嬢」という話は、まだ学園のあちこちで囁かれています。


 不本意です。


 非常に不本意です。


 私は殿下の口を黙らせたいのではありません。


 いえ、黙らせたい時も多いですが。


 本来の目的は、ナリア様を傷つけないためなのです。


「マリア様」


 エレナ様が少し声を落としました。


「今日、ナリア様は朝の礼法研究会の書類を提出するため、第一職員室へ行かれるそうですわ」


 私は瞬きをしました。


「それは……なぜ私に?」


「偶然、耳に入りましたので」


「偶然」


「ええ。偶然です」


 エレナ様は涼しい顔です。


 ですが、これは情報提供なのでしょう。


 ナリア様が第一職員室へ行く。


 その道は、王族用教室のある中央棟から教室へ戻る殿下と、すれ違う可能性が高い。


 つまり、挨拶の機会があるかもしれない。


「バートン様」


「はい」


「あなたは、どこまでご存じなのですか」


「何のことでしょう」


「……」


「私はただ、最近マリア様が少し忙しそうで、ナリア様が少しお元気になられて、殿下が以前より人間らしい顔をなさるようになったと思っているだけですわ」


 人間らしい顔。


 なかなか鋭い表現です。


 エレナ様は続けました。


「悪い変化ではないと思います」


「……そうでしょうか」


「ええ。ただし、目立つ変化ではあります」


「それが問題です」


「貴族社会では、目立つものに人が集まりますもの」


「虫のようですね」


「光に集まるという意味では、似ているかもしれません」


 エレナ様は微笑みました。


 その笑みは穏やかですが、言葉には現実の重みがあります。


 目立てば人が集まる。


 人が集まれば噂が生まれる。


 噂が生まれれば、誰かが利用しようとする。


 王太子殿下とナリア様の関係は、それほど軽いものではありません。


 私が想像する以上に、多くの視線が向いているのでしょう。


「お気をつけくださいね」


 エレナ様は言いました。


「マリア様が何をなさっているのか、私は無理に聞くつもりはありません。でも、あなたが真面目に誰かのために動いていることは分かります」


「買いかぶりです」


「そうかもしれません。でも、私はそう思っていますわ」


 エレナ様は柔らかく笑いました。


「では、また教室で」


「はい」


 彼女は軽く礼をして歩いていきました。


 私はその背中を見送りながら、胸の中に小さな温かさと不安が同時に生まれるのを感じました。


 味方。


 そう呼ぶには、まだ早いかもしれません。


 けれど、エレナ様は少なくとも私を一方的な噂の対象として見てはいない。


 それはありがたいことでした。


 ただし。


 殿下の作戦の難易度は、少し上がりました。


 ナリア様が第一職員室へ向かうなら、殿下が挨拶する場所はある程度予測できます。


 私もそこへ向かわなければなりません。


 監視です。


 いえ、見守りです。


 ……やはり監視かもしれません。


 私は教室へ向かいながら、心の中でつぶやきました。


 殿下。


 どうか今日は、ただの挨拶で終えてくださいませ。


 午前の授業は、いつもより長く感じました。


 教師の声が黒板の前から聞こえます。


 今日の内容は王国史。


 建国初期の王権と地方貴族の関係について。


 本来であれば、私にとって興味深い内容です。


 ですが、今日はどうしても集中が途切れました。


 羽根ペンを走らせながらも、頭の片隅には殿下のことがありました。


 ごきげんよう。


 ただそれだけ。


 けれど、殿下はやり遂げられるでしょうか。


 昨日の資料室では、想定外のナリア様訪問に対して、比較的よく耐えました。


 謝罪もできました。

 蜂蜜菓子の話もできました。

 ナリア様の本音を遮らずに聞けました。


 それは大きな前進です。


 しかし前進した翌日ほど、人は油断します。


 昨日うまくいったから、今日も大丈夫だと思う。


 そして調子に乗る。


 殿下の場合、調子に乗った瞬間に口が災害を起こす可能性があります。


 私はノートの端に、小さく書きました。


 口を閉じる。


 それを見た隣の席の令嬢が、不思議そうにこちらを見ました。


 私はすぐにその文字を手で隠し、何事もなかったように授業へ戻りました。


 危ないところでした。


 昼休み前。


 第一職員室へ向かう廊下は、ほどよい人通りがありました。


 教師に書類を届ける生徒。

 昼食の約束をしながら歩く令嬢たち。

 友人同士で試験結果の話をする男子生徒。


 私はその廊下の窓際に立ち、外庭を見るふりをしていました。


 手には教本。


 いかにも授業の復習をしているように見えるはずです。


 実際には、視線は廊下の両端へ向いています。


 少し離れた場所には殿下がいました。


 中央棟から戻ってきたところなのでしょう。


 側近らしき男子生徒が一人、少し離れた位置に控えています。


 殿下は表面上は落ち着いています。


 完璧な王太子の姿です。


 廊下を通る生徒たちが自然に道を空け、令嬢たちは小さく礼をします。


「アルノルド殿下、ごきげんよう」


「ああ」


「殿下、本日もご機嫌麗しく」


「ああ」


 短く返す殿下。


 いつも通りです。


 ただ、その視線が時々廊下の奥へ向いているのを、私は見逃しませんでした。


 待っています。


 ナリア様を。


 そしてその緊張が、距離がある私にまで伝わってきます。


 殿下の側近の男子生徒――たしか、レオン・グラシア侯爵子息だったでしょうか――が、不思議そうに殿下を見ています。


 そろそろ周囲も気づくかもしれません。


 殿下が最近、いつもより挙動不審だと。


 いえ、王太子としての仮面が厚いため、ほとんどの人は気づかないでしょう。


 ですが、近しい側近なら違和感を覚えるはずです。


 秘密を増やすほど、綻びは出ます。


 私は教本を開きながら、心の中で段取りを確認しました。


 ナリア様が来る。

 殿下が声をかける。

 ごきげんよう。

 ナリア様が返す。

 殿下は頷く。

 口を閉じる。


 以上。


 簡単です。


 簡単なはずです。


 その時、廊下の奥からナリア様が現れました。


 手には書類。


 栗色の髪を上品にまとめ、淡い水色のリボンが揺れています。


 礼法研究会の用事を終えた後なのでしょう。


 姿勢は美しく、表情も穏やかです。


 しかし、殿下の姿に気づいた瞬間、その足取りがほんの少しだけ緩みました。


 彼女も意識しています。


 当然です。


 昨日の資料室で、二人は少しだけ踏み込んだ会話をしました。


 怖い。

 でも嬉しい。


 その言葉が、まだ二人の間に残っているはずです。


 殿下もナリア様に気づきました。


 一瞬、肩が強張ります。


 私は教本を握る手に力を込めました。


 殿下。


 今です。


 まず、息を吸って。


 短く。


 穏やかに。


 ナリア様は近づいてきます。


 廊下の生徒たちも、二人の接近に気づき始めました。


 少しずつ会話が小さくなります。


 またです。


 王太子殿下とナリア様が向かい合うだけで、周囲の空気が変わります。


 令嬢たちの視線が集まり、男子生徒たちも横目で見ます。


 誰もが、何かが起こるかもしれないと期待している。


 まるで舞台を見る観客のように。


 ナリア様は殿下の前で足を止めました。


 先に礼をしようと、わずかに体を傾けます。


 しかし、その前に。


 殿下が口を開きました。


「ナリア」


 名前を呼びました。


 廊下が静まりました。


 ナリア様が目を見開きます。


 殿下は、ほんの一瞬だけ視線を泳がせました。


 しかし、踏みとどまりました。


 頬が少し赤い。


 それでも、言葉は出ました。


「ごきげんよう」


 言えました。


 私は心の中で大きく息を吐きました。


 成功。


 まずは成功です。


 ナリア様は、しばらく何も言えないようでした。


 その瞳が揺れます。


 驚き。

 戸惑い。

 そして、ほんの少しの喜び。


 やがて彼女は、ゆっくりと礼をしました。


「ごきげんよう、アルノルド殿下」


 柔らかな声でした。


 以前より、ほんの少しだけ温かい。


 殿下の顔が、一瞬で明るくなりかけました。


 危険です。


 ここで追加の一言を言いたくなるはずです。


 私はすぐに小さく咳払いをしました。


「こほん」


 殿下は反射的に口を閉じました。


 よし。


 完璧です。


 ここで頷いて終わり。


 殿下は頷きました。


 非常にぎこちなく。


 でも頷きました。


 そして。


 そのまま固まりました。


 ……。


 ……。


 長い。


 頷いたまま、止まっています。


 ナリア様も少し困ったように瞬きしています。


 周囲も「え?」という空気になっています。


 殿下。


 動いてください。


 口を閉じるのは正解です。


 しかし身体まで止める必要はありません。


 廊下の真ん中で、王太子殿下が婚約者候補の令嬢に挨拶した後、頷いた姿勢で固まっている。


 これはこれで不自然です。


 私は再び咳払いしました。


「こほん」


 殿下ははっとしたように瞬きしました。


 そして、ようやく少し横へ避けました。


 ナリア様が通れるように。


 良いです。


 良い判断です。


 ナリア様は小さく微笑みました。


「ありがとうございます」


 そして、殿下の横を通り過ぎようとしました。


 その瞬間です。


 殿下の口が、ほんの少しだけ開きました。


 だめです。


 私は目で止めようとしました。


 しかし、間に合いませんでした。


「今日は……」


 廊下の空気が再び止まります。


 殿下。


 何を言うつもりですか。


 ナリア様も足を止めました。


 殿下は、顔を真っ赤にしながら、必死に言葉を絞り出しました。


「今日は、その……」


 危険。


 非常に危険。


 私は咳払いをしました。


「こほん」


 殿下は口を閉じました。


 しかし、すぐにまた開きました。


 おやめください。


「今日は……」


「こほん」


 閉じます。


「……」


 開きそうになります。


「こほん」


 閉じます。


 廊下に、妙な沈黙と咳払いが続きました。


 周囲の生徒たちが、明らかにこちらを見ています。


 エレナ様が少し離れた場所で口元を押さえているのが見えました。


 笑っています。


 絶対に笑っています。


 ナリア様も、困惑とおかしさが混ざった顔をしています。


 殿下は、ついに両手を握りしめました。


 そして、私の咳払いを振り切るように言いました。


「今日も、よく似合っている!」


 言えました。


 褒め言葉です。


 しかも、棘がありません。


 廊下が完全に静まり返りました。


 私も固まりました。


 殿下自身も、言った直後に固まりました。


 ナリア様は目を丸くしています。


 何が似合っているのかは分かりません。


 おそらくリボンか、髪型か、制服か。


 殿下の中では明確だったのでしょう。


 しかし言葉が足りません。


 けれど。


 これは、悪くありません。


 少なくとも、暴言ではありません。


 ナリア様は、頬を少し赤くしました。


「……ありがとうございます」


 小さな声でした。


 殿下の表情が、ぱっと輝きました。


 まずい。


 ここで調子に乗る。


 私は咳払いをしようとしました。


 しかし、殿下は先に自分で口を閉じました。


 両手をぎゅっと握りしめ、震えながらも、言葉を飲み込みました。


 偉い。


 非常に偉い。


 ナリア様は、少しだけ微笑みました。


 今度ははっきりと。


「では、失礼いたします」


「ああ」


 殿下は短く返しました。


 声は少し裏返っていましたが、許容範囲です。


 ナリア様は礼をして、廊下を歩いていきました。


 その背中は、以前よりほんの少し軽く見えました。


 廊下には数秒の沈黙が残りました。


 そして。


「今の、聞きました?」

「殿下がナリア様を褒めたわ」

「よく似合っている、ですって」

「何が?」

「そこは分かりませんけれど」

「でも、褒め言葉でしたわよね」

「珍しい……」

「ナリア様、お顔が赤くなっていらしたわ」

「殿下も赤かったですわ」

「それより、ルイート様の咳払いは何だったのかしら」


 最後の一言で、私は現実に引き戻されました。


 そうです。


 また目立ちました。


 扇の次は咳払いです。


 このままでは、私は「殿下の口を止める咳払いの令嬢」と呼ばれかねません。


 不本意です。


 非常に不本意です。


 殿下はその場に立ったまま、まだ固まっていました。


 顔は真っ赤。


 耳も赤い。


 視線はナリア様が去った方向に固定されています。


 燃え尽きています。


 ごきげんようと一言言い、さらに勢いで褒め言葉まで言った結果、完全に燃え尽きています。


 レオン・グラシア侯爵子息が、恐る恐る殿下へ声をかけました。


「殿下……?」


「……」


「殿下?」


「……言えた」


「はい?」


 殿下は小さく呟きました。


「言えた……」


 レオン様は困惑しています。


 周囲も困惑しています。


 私は額に手を当てたくなりました。


 殿下。


 ここは廊下です。


 喜びに浸るなら、せめて資料室でお願いします。


 私は教本を閉じ、何事もなかったように歩き出しました。


 今、殿下に声をかけるわけにはいきません。


 さらに噂になります。


 しかし、通り過ぎる瞬間、殿下がこちらを見ました。


 目が合います。


 その瞳は、まるで初めて主人に褒められた犬のように輝いていました。


 いえ、王太子殿下を犬に例えてはいけません。


 ですが。


 とても分かりやすく褒めてほしそうでした。


 私はほんの少しだけ頷きました。


 よくできました、と。


 殿下の顔がさらに明るくなりました。


 まずい。


 今のやり取りも誰かに見られたでしょうか。


 見られましたね。


 確実に。


 私は歩く速度を少し上げました。


 昼休みの食堂は、その話で持ちきりでした。


 貴族学園において、王太子殿下が婚約者候補に自ら挨拶し、さらに褒め言葉を口にした。


 それだけで十分な話題です。


 しかも、その場には私の咳払いが絡んでいる。


 火に油どころか、乾いた薪を山積みにして火花を投げ込んだようなものです。


「殿下、ついにナリア様へお優しく?」

「でも、なぜ急に」

「やはり先日の謝罪がきっかけかしら」

「ルイート様が何か関係しているのでは?」

「咳払いで止めていたという話、本当ですの?」

「まるで調教師みたいですわね」


 調教師。


 その言葉は、さすがに聞き捨てなりません。


 いえ、ある意味では間違っていない気もしますが。


 しかし、相手は王太子殿下です。


 調教師は不敬が過ぎます。


 私は食堂の隅の席で、静かに昼食を取っていました。


 今日は母の手作りの白パンと野菜の包み焼きです。


 蜂蜜菓子はありません。


 昨日、殿下からいただいた高級蜂蜜菓子は残っていますが、さすがに食堂で広げるわけにはいきません。


 広げた瞬間、さらに噂になるでしょう。


 エレナ様が向かいの席に座りました。


「ご一緒しても?」


「どうぞ」


「今日も大変でしたわね」


「見ておられましたね」


「偶然ですわ」


「便利な偶然ですね」


「ええ、とても」


 エレナ様は楽しそうに笑いました。


 彼女は小さな果実を皿に置きながら、声を少し落としました。


「でも、今日の殿下はよろしかったと思いますわ」


「……そうですね」


「ナリア様も、少し嬉しそうでした」


「はい」


「ただ、マリア様の咳払いは少々目立ちました」


「分かっております」


「次は別の合図が必要ですわね」


 私は手を止めました。


「バートン様」


「はい」


「やはり、ある程度お気づきなのですね」


「完全には存じません。でも、殿下が余計なことを言わないよう、マリア様が止めていらっしゃることくらいは」


「……」


「そして、ナリア様がそれによって少し救われていることも」


 エレナ様の声は穏やかでした。


 私は周囲を確認しました。


 近くに聞き耳を立てている者はいません。


 ただし、油断はできません。


「この件は、あまり広めないでいただけますか」


「もちろんですわ。私が噂を広めるように見えます?」


「少し」


「あら」


 エレナ様は楽しそうに目を細めました。


 悪意はありません。


 けれど、からかう気はあります。


「心外ですわ」


「申し訳ございません」


「でも、安心してください。私は面白がってはいますが、悪くするつもりはありません」


「面白がってはいるのですね」


「それはもう」


 否定しないのですね。


 私は小さくため息をつきました。


 エレナ様は少し真面目な表情になりました。


「マリア様、ナリア様の周囲には、殿下との関係が悪くなることを望んでいる方もいます」


 私は目を向けました。


「望んでいる?」


「ええ。王太子妃候補の座は、大きいですから」


 それは分かっていました。


 ナリア様が殿下から嫌われている。


 そう見られれば、別の家の令嬢たちが動く。


 王家に近づく機会を逃すまいとする家は、必ずあります。


「最近は、ナリア様が身を引くべきではないかと囁く方もいました」


「……」


「でも今日のことで、少し空気が変わるかもしれません」


「良い方向に?」


「良い方向にも、悪い方向にも」


 エレナ様は小さく言いました。


「殿下がナリア様を気にかけていると見れば、手を引く方もいるでしょう。でも逆に、なぜ急に、と探る方も出ます。そしてマリア様に視線が向く」


「私に」


「はい。殿下の変化のそばには、あなたがいるように見えますから」


 私は包み焼きを見つめました。


 食欲が少し落ちました。


 そうです。


 殿下とナリア様の関係修復は、本人たちだけの問題ではありません。


 周囲が見ています。


 探っています。


 利用しようとしています。


 私の関わり方を間違えれば、ナリア様の立場を助けるどころか、別の火種になるかもしれません。


「……難しいですね」


 私が呟くと、エレナ様は柔らかく微笑みました。


「でも、今日のナリア様の笑顔は本物に見えましたわ」


 その言葉に、私は顔を上げました。


「本物」


「ええ。少なくとも、私はそう見えました」


 ナリア様の頬が赤くなった瞬間を思い出しました。


 殿下の「よく似合っている」という言葉。


 何が似合っているのかは不明でしたが。


 それでも、彼女は嬉しそうでした。


 怖さもある。

 不安もある。

 傷も残っている。


 けれど、嬉しさも確かにあった。


「……なら、今日のところは良かったと思うことにします」


「それがよろしいですわ」


 エレナ様は果実を一口食べました。


「それにしても、殿下があれほど赤くなるとは思いませんでした」


「そこは忘れて差し上げてください」


「無理ですわ」


「でしょうね」


 私たちは小さく笑いました。


 その笑いの向こうで、食堂のざわめきはまだ続いています。


 噂は広がるでしょう。


 止めることはできません。


 ならば、せめて悪い形に育たないよう気をつけるしかありません。


 私は昼食を再び口に運びました。


 午後の授業が終わる頃には、殿下から資料室に来てほしいという短い伝言が届いていました。


 伝言を持ってきたのは、王族用教室の近くにいる下級生でした。


 丁寧に頭を下げ、すぐに去っていきましたが、その目には好奇心がありました。


 また噂になります。


 もう諦めつつあります。


 放課後。


 私は旧講義棟の資料室へ向かいました。


 扉を開けると、殿下はすでに中にいました。


 椅子に座り、机に両手を置き、まるで大切な判決を待つ被告人のような顔をしています。


「ルイート嬢」


「殿下」


「今日は……どうだっただろうか」


 第一声がそれでした。


 本当に気になっていたのでしょう。


 私は扉を少し開けたままにし、椅子に座りました。


「総合的には成功です」


 殿下の表情が明るくなりました。


「成功」


「はい。自分から挨拶できました。ナリア様も返してくださいました」


「そうか」


「さらに褒め言葉も、結果的には悪くありませんでした」


「結果的には」


「はい。予定外でしたので」


「すまない」


「ですが、棘のない言葉でした。ナリア様も嬉しそうでした」


 殿下は、顔を両手で覆いました。


「……嬉しそうだったか」


「はい」


「本当に?」


「はい」


「そうか……」


 殿下はそのまましばらく動きませんでした。


 肩が震えています。


 また泣くのかと思いましたが、どうやら笑いを堪えているようでした。


 いえ、嬉し泣きしかけているのかもしれません。


 忙しい方です。


「ただし」


 私が言うと、殿下はびくりと肩を震わせました。


「はい」


「挨拶後に固まりすぎです」


「……はい」


「頷いたまま停止しておりました」


「頭が真っ白になった」


「でしょうね」


「ナリアが返事をしてくれた瞬間、視界が光った」


「視界が」


「ああ」


「倒れなくてよかったです」


「本当に」


 殿下は真剣に頷きました。


 冗談のつもりだったのですが。


「さらに、咳払いを何度もさせないでください。目立ちます」


「すまない」


「特に今日は、周囲に大勢いました」


「分かっている。だが、言いたくなってしまった」


「何をですか?」


 殿下は少し目を逸らしました。


「リボンが似合っている、と」


「それなら、最後まで言えばよかったのでは」


「無理だった」


「なぜ」


「ナリアのリボンを見ていたら、彼女が幼い頃に青いリボンをつけていたのを思い出して、その時も可愛かったし、今日も可愛くて、でも可愛いと言うと口が変になりそうで、それで……」


「よく似合っている、に落ち着いたのですね」


「そうだ」


 なるほど。


 殿下の頭の中では、相当な情報量が渦巻いていたようです。


 その結果として「今日も、よく似合っている」なら、むしろかなり健闘した方かもしれません。


「殿下」


「はい」


「今後、褒める時は対象を明確にしましょう」


「対象」


「はい。リボンが似合っています。髪型が素敵です。今日の装いはよくお似合いです。など」


 殿下の顔が赤くなりました。


「難易度が高い」


「褒める相手を『君』全体にすると、殿下は暴走しやすいです。具体的なものに限定した方が安全です」


「なるほど」


「ただし、外見ばかり褒めるのも軽く見える場合があります」


「難しいな」


「難しいです」


 殿下は真剣に考え込んでいます。


 私は机に紙を広げました。


 今日の議題。


 褒め言葉の練習です。


 謝罪。

 挨拶。

 次は褒め言葉。


 少しずつ、恋愛らしくなってきました。


 ただし、殿下の場合は基礎訓練の段階です。


「まず、褒め言葉には種類があります」


「種類」


「外見、行動、内面、努力、成果などです」


「なるほど」


「ナリア様の場合、殿下が本当に思っていることはたくさんあるでしょう」


「山ほどある」


「でしょうね」


「今日も美しかった。朝の光の中でリボンが揺れて、まるで空から降りた妖精のようで――」


「殿下」


「はい」


「その表現は本番では使わないでください」


「なぜだ」


「重いです」


「重い……」


「はい。現段階では重すぎます」


 殿下は少し傷ついた顔をしました。


 しかし事実です。


 今のナリア様に、突然「空から降りた妖精」などと言えば、驚きます。


 嬉しいかもしれませんが、それ以上に困惑するでしょう。


 何より、これまで「嫌いだ」「消えろ」と言っていた殿下が、急に詩人のような称賛を始めたら、情緒の落差で不安になります。


「まずは短く、穏やかに」


「短く、穏やかに」


「はい。例えば『そのリボン、似合っている』くらいです」


 殿下は小声で繰り返しました。


「そのリボン、似合っている」


「良いです」


「そのリボン、似合っている」


「もう一度」


「そのリボン、似合っている」


「はい」


 殿下は真剣に練習しています。


 王太子殿下が、好きな令嬢のリボンを褒める練習を資料室で繰り返す。


 改めて考えると、なかなか不思議な光景です。


「では、応用です。ナリア様が礼法研究会の書類をまとめていたとしましょう。それを褒めるなら?」


「君は字が綺麗だな」


「良いです」


「本当に?」


「はい。自然です」


 殿下の顔が少し明るくなりました。


「では、ナリア様が体調を気遣ってくださった場合は?」


「余計な心配を――」


「こほん」


 殿下は口を閉じました。


 私は眉を上げました。


「殿下」


「違うんだ」


「何が違うのですか」


「心配してくれて嬉しいと言いたかった」


「なぜ余計な心配になったのですか」


「分からない……!」


 殿下は頭を抱えました。


 やはり、ナリア様の気遣いが絡むと危険です。


 殿下の中で「嬉しい」と「恥ずかしい」と「心配をかけたくない」が混ざり、結果として拒絶の形で出るのでしょう。


「この場合は、まず『ありがとう』です」


「ありがとう」


「はい。心配してくれてありがとう。それだけで十分です」


「心配してくれてありがとう」


「もう一度」


「心配してくれてありがとう」


「良いです」


「……これを、本人に」


「言います」


「難しい」


「でも必要です」


「分かっている」


 殿下は紙に書きました。


 心配してくれてありがとう。


 字が美しい。


 さすが王太子殿下。


 その美しい字で書かれている内容が、恋愛の基礎中の基礎であることを除けば、実に立派です。


「ルイート嬢」


「はい」


「僕は、今までどれほど損をしてきたのだろう」


「損、ですか」


「ああ。心の中では、ありがとうと思っていた。嬉しいと思っていた。好きだと……思っていた」


 最後だけ声が小さくなりました。


「だが、言葉にしなければ、全部なかったことになるのだな」


「相手には伝わりませんから」


「そうか」


 殿下は紙を見つめました。


 そこには、いくつもの短い言葉が並んでいます。


 ごきげんよう。

 ありがとう。

 すまなかった。

 似合っている。

 心配してくれてありがとう。


 どれも簡単な言葉です。


 けれど、殿下にとっては一つ一つが重い。


「ナリアは、ずっと待っていてくれたのかもしれない」


 殿下は呟きました。


「僕が、たった一言でも優しい言葉を言うのを」


 私は何も言いませんでした。


 その通りかもしれません。


 ナリア様は、きっとずっと待っていたのです。


 冷たい言葉の奥にある何かを。


 自分が嫌われていない証を。


 たった一言でもいいから、安心できる言葉を。


 けれど、殿下はそれを渡せなかった。


 だからこそ、今から渡していくしかありません。


 遅くても。


 不器用でも。


 少しずつ。


「殿下」


「はい」


「今日、ナリア様は嬉しそうでした」


「……ああ」


「でも、それで終わりではありません」


「分かっている」


「明日以降も、同じように丁寧に接してください。急に距離を詰めようとせず、毎日一つずつ」


「毎日一つ」


「はい。一つで十分です」


「一つ……」


 殿下は真剣に頷きました。


「では明日は、心配してくれてありがとう、を目標にする」


「心配してくださる場面があれば、です」


「なければ?」


「無理に言う必要はありません」


「そうか」


「無理やり心配される状況を作ろうとしないでください」


「しない」


「池に近づくなど」


「しない!」


 殿下は力強く否定しました。


 池の件は、さすがに本人にも強く残っているようです。


 それはよろしいことです。


 その時、資料室の扉が軽く叩かれました。


 私と殿下は同時に動きを止めました。


 またナリア様でしょうか。


 そう思いましたが、聞こえてきた声は違いました。


「殿下、こちらにいらっしゃいますか」


 低く落ち着いた男子生徒の声。


 殿下の側近、レオン・グラシア侯爵子息です。


 殿下の顔がわずかに強張りました。


 私は机の上の紙を素早く裏返しました。


 殿下も姿勢を正します。


「入れ」


 殿下が王太子の声で言いました。


 扉が開き、レオン様が入ってきます。


 灰色がかった銀髪に、落ち着いた緑の瞳。


 きちんと整えられた制服。


 殿下の側近らしく、隙のない礼をしました。


「失礼いたします」


 そして、私を見て少しだけ目を細めました。


「ルイート伯爵令嬢もご一緒でしたか」


「ごきげんよう、グラシア様」


「ごきげんよう」


 礼儀正しい挨拶。


 ですが、その目は明らかに状況を探っています。


 当然です。


 側近からすれば、最近殿下の様子がおかしい。


 その近くには私がいる。


 気にならないはずがありません。


「殿下、午後の会議の件で確認がございます」


「ああ」


 殿下は落ち着いて答えました。


 さすがに王太子としての対応は完璧です。


 レオン様は書類を差し出しました。


「こちらの出席者について、変更がありました」


 殿下は書類を受け取り、目を通します。


 その間、レオン様の視線が机の上に一瞬落ちました。


 蜂蜜菓子の箱。

 裏返された紙。

 私の扇。


 そして殿下の耳がまだ少し赤いこと。


 彼はたぶん、かなり多くのことを察したでしょう。


 けれど、何も言いませんでした。


 有能な側近です。


 殿下が書類に署名をして返します。


「これでよい」


「承知いたしました」


 レオン様は受け取りました。


 そして一礼した後、ふと殿下へ言いました。


「殿下」


「何だ」


「本日の廊下でのご挨拶、とてもよろしかったかと」


 殿下が固まりました。


 私は咳払いしかけましたが、何とか堪えました。


 レオン様は表情を変えません。


 ですが、ほんの少しだけ口元が緩んでいます。


 殿下は赤くなりました。


「見ていたのか」


「側近ですので」


「……そうか」


「ナリア様も、嬉しそうでいらっしゃいました」


 殿下は完全に言葉を失いました。


 レオン様は、今度は私へ視線を向けました。


「ルイート嬢も、お疲れ様でございます」


 お疲れ様。


 何に対してでしょう。


 いえ、分かります。


 分かってしまいます。


 私は微笑みました。


「恐れ入ります」


 レオン様はそれ以上何も言わず、再び礼をして退室しました。


 扉が閉まります。


 沈黙。


 殿下は机に両肘をつき、顔を覆いました。


「レオンに知られた……」


「以前から薄々気づかれていたのでは」


「そうだろうか」


「側近ですので」


「……そうだな」


 殿下は深く息を吐きました。


「だが、嬉しそうだったと言っていた」


「そうですね」


「ナリアが」


「はい」


「……そうか」


 また嬉しさがこみ上げてきたのでしょう。


 殿下は顔を覆ったまま、しばらく動きませんでした。


 私はその姿を見ながら、少しだけ思いました。


 味方が増えたのかもしれません。


 エレナ様。

 レオン様。


 完全に事情を知っているわけではないにせよ、二人とも悪意なく見守っている。


 それは、今後の助けになるかもしれません。


 同時に、秘密が少しずつ外へ漏れ始めている証でもあります。


 注意しなければなりません。


 けれど。


 今日くらいは、少しだけ前進を喜んでもいいでしょう。


 殿下は自分から挨拶できました。


 ナリア様は微笑みました。


 褒め言葉も、どうにか届きました。


 王太子殿下の恋は、まだまだ危なっかしい。


 けれど、確かに昨日より一歩進んでいます。


「殿下」


「はい」


「今日のところは、よくできました」


 殿下は顔を上げました。


 その瞳が、また犬のように輝きました。


 いけません。


 犬ではありません。


 王太子殿下です。


「本当か」


「はい」


「では、明日も頑張る」


「はい。ただし、頑張りすぎないように」


「なぜだ」


「殿下は頑張りすぎると、余計な方向へ走るので」


「……否定できない」


 私は蜂蜜菓子を一つ口に入れました。


 甘さが広がります。


 資料室の窓の外では、夕方の光が静かに揺れていました。


 その光の向こうで、ナリア様は今日の挨拶をどう思い返しているのでしょう。


 少しでも嬉しいと思ってくださっているなら。


 少しでも、怖さより温かさが勝っているなら。


 今日の殿下の挑戦は、無駄ではなかったはずです。


 ただし。


 明日もまた挑戦は続きます。


 挨拶の次は、感謝。


 感謝の次は、会話。


 会話の次は、いつか本心。


 道のりは長い。


 とても長い。


 私は机の上に置かれた扇を見ました。


 そして心の中で、いつものように祈りました。


 王太子殿下。


 今日の「ごきげんよう」はよくできました。


 ですから明日もどうか。


 どうかその恋を、口から出す前に一度止めてくださいませ。

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