第4話 王太子殿下、会話の練習で自滅する
恋愛において、最も大切なものは何でしょうか。
美しい容姿。
優れた家柄。
豊かな財力。
高い知性。
もちろん、それらが役に立たないとは申しません。
特に貴族社会においては、家柄も財力も知性も非常に重要です。
婚約とは個人だけのものではなく、家と家、派閥と派閥、時には国と国を結びつけるものでもあります。
ですから、誰を選ぶか。
誰と結ばれるか。
その判断には、恋心だけでは済まされない事情が多く絡みます。
けれど。
それでも、人と人が向き合う以上、最後に必要になるものがあります。
それは、言葉です。
想っているだけでは伝わりません。
心の中でどれほど相手を大切にしていても、口から出る言葉が刃なら、相手に届くのは傷だけです。
優しさも。
後悔も。
感謝も。
愛情も。
すべて、何らかの形で伝えなければ、相手には分かりません。
その意味で、アルノルド・アルスード王太子殿下は、非常に深刻な問題を抱えておられました。
「ナリア、今日は……その……」
旧講義棟二階の資料室。
古い紙とインクの匂いが漂う部屋の中で、殿下は椅子に座ったまま、真剣な表情で言葉を探していました。
机の上には、王都でも有名な菓子店の蜂蜜菓子。
窓から差し込む夕方の光が、菓子の表面に塗られた蜂蜜をきらりと光らせています。
その向かいで、私は扇を片手に座っておりました。
優雅に見えるかもしれませんが、実際はかなり集中しております。
なぜなら、目の前の王太子殿下が一言でも危険な方向へ進みそうになれば、即座に扇を閉じて止めなければならないからです。
ぱちん。
この音が、今や殿下の口を止める唯一の防波堤です。
王国の未来を背負う王太子殿下の恋愛が、一介の伯爵令嬢の扇に左右されている。
冷静に考えると、とんでもない状況です。
「ナリア、今日は……その……昨日よりは顔色がましだな」
ぱちん。
私は扇を閉じました。
殿下は即座に口を閉じました。
資料室に沈黙が落ちます。
蜂蜜菓子の甘い香りだけが、場違いなほど平和に漂っていました。
「殿下」
「はい」
「今の言葉は、褒め言葉のつもりでしたか」
「……そのつもりだった」
「昨日は顔色が悪かったと言っているように聞こえます」
「そうか……」
「さらに『まし』という表現がよろしくありません」
「まし、は駄目か」
「駄目です」
「では、どう言えばいい」
「まず、顔色に触れる必要がありません」
殿下は衝撃を受けたような顔をしました。
「ないのか」
「はい」
「だが、ナリアの顔色が良ければ安心する」
「その気持ちは分かります。しかし、いきなり顔色の話をされると、相手は自分が疲れて見えるのかと気にする可能性があります」
「……なるほど」
「気遣いと指摘は違います」
殿下は真剣に頷きました。
この方は、理解力自体は高いのです。
説明すれば分かります。
飲み込みも早い。
反省もできます。
問題は、ナリア様を目の前にした瞬間、その理解力が恋心の濁流に流されることです。
私は蜂蜜菓子を一つ摘みました。
香ばしく焼かれた生地に、濃い蜂蜜が染み込んでいます。
口に含むと、じゅわりと甘さが広がりました。
美味しい。
大変美味しいです。
相談料としては申し分ありません。
ただし、相談内容は甘くありません。
「では、もう一度です。殿下、ナリア様と改めて話す時間をいただけたと仮定してください。最初の一言は?」
殿下は姿勢を正しました。
目つきが変わります。
剣術の試合にでも臨むような真剣さです。
内容は会話の練習ですが。
「ナリア、今日は時間をくれてありがとう」
私は扇を開いたまま頷きました。
「良いです」
殿下の表情が少し明るくなりました。
「本当か」
「はい。素直で、短く、余計な棘がありません」
「余計な棘……」
「殿下の言葉には、よく生えます」
「棘が?」
「はい。野薔薇の茂みのように」
「そこまでか」
「そこまでです」
殿下は複雑そうに視線を落としました。
「では、その後はどうする」
「まず、もう一度謝罪です。前回は回廊で短く謝りましたが、改めて話す場では、何に対して謝るのかを少し具体的に伝えます」
「具体的に……」
「はい。ですが、言い訳にならないように」
殿下は少し考えました。
「ナリア、これまで君に冷たい態度を取ってすまなかった」
「良いです」
「君が僕を気遣ってくれたのに、僕はそれを何度も拒むようなことを言った」
「はい」
「君を傷つけた。本当に申し訳ない」
「良いです。とても良いです」
殿下が、ほっとしたように息を吐きました。
今の言葉は、本当に良かったと思います。
短く、素直で、相手を責めていない。
自分の非を認めている。
言い訳もない。
これを本番で言えれば、一歩前進です。
問題は。
「では、ナリア様から『なぜ今まであのような態度を取っていたのですか』と尋ねられた場合です」
殿下が固まりました。
さきほどまで少し明るかった表情が、見る見るうちに緊張で強張っていきます。
「なぜ……」
「当然、聞かれる可能性があります」
「そうだな」
「どう答えますか?」
殿下は口を開きました。
しかし、声は出ませんでした。
しばらく沈黙。
窓の外では、風が木の葉を揺らしています。
古い資料室の棚が、かすかに軋みました。
「……正直に、言うべきだろうか」
殿下が小さく呟きました。
「どこまでですか」
「ナリアを前にすると、緊張して、本心とは違う言葉が出てしまうと」
「それは、いずれ伝えるべきだと思います」
「いずれ」
「はい。ただ、初回の話し合いですべてを告げると、ナリア様が混乱されるかもしれません」
「そうか」
「特に『本心とは違う』という言葉は、慎重に扱う必要があります」
「なぜだ?」
「これまでの冷たい言葉が本心ではなかったと言われても、傷ついた事実は消えません。ナリア様によっては、『本心ではないなら何を言っても許されるのか』と感じるかもしれません」
殿下の顔が、はっと強張りました。
「そんなつもりはない」
「分かっています。ですが、受け取る側がどう感じるかは別です」
「……」
「ですから、最初は原因の説明より、謝罪と今後態度を改めたいという意志を伝えることを優先しましょう」
殿下はゆっくり頷きました。
「分かった」
「では、先ほどの質問に対する答えです。『なぜ今まであのような態度を取っていたのですか』と聞かれたら」
私は少し考え、言葉を整えました。
「『自分の未熟さから、君に甘えてしまっていた。理由にならないことは分かっている。これから改めたい』――この程度に留めるのがよろしいかと」
殿下は眉を寄せました。
「甘えていた……」
「はい」
「僕は、ナリアに甘えていたのか」
「違うと?」
殿下は黙りました。
私は扇を机に置き、少しだけ声を落としました。
「ナリア様は優しい方です。殿下が冷たくしても、何度も心配してくださったのでしょう」
「ああ」
「嫌な言葉をかけられても、礼を崩さず、向き合おうとしてくださった」
「……ああ」
「殿下は、その優しさに甘えていたのではありませんか」
殿下は何も言いませんでした。
ただ、視線を落としています。
金色の髪が揺れ、夕方の光を受けて淡く輝きました。
完璧な王太子殿下。
誰もがそう呼ぶ方が、今は叱られた子どものように黙っています。
けれど、ここで目を逸らしてはいけないのです。
ナリア様が受けた傷を、軽く扱うわけにはいきません。
いくら殿下が本心では愛していたとしても。
いくら殿下が苦しんでいたとしても。
言葉で傷つけた責任は、消えないのです。
「……そうだな」
やがて、殿下が言いました。
声は低く、苦しげでした。
「僕は、甘えていたのだと思う。ナリアなら、また来てくれる。ナリアなら、分かってくれる。ナリアなら……僕を見捨てないと」
その言葉は、資料室の空気に静かに落ちました。
「最低だな」
「最低かどうかは、私が決めることではありません」
「いや、最低だ」
殿下は自嘲するように笑いました。
しかし、その笑みはすぐに消えました。
「彼女は何度も傷ついていたのに、僕は自分がうまく話せないことばかり嘆いていた」
「気づけたなら、次にすることがあります」
「次?」
「これからどう変わるかです」
殿下が顔を上げました。
私ははっきりと言いました。
「反省だけでは、ナリア様は救われません。謝罪も大切ですが、その後の態度が変わらなければ意味がありません」
「……ああ」
「ですから、今度の話し合いでは、完璧な言葉を言おうとしなくて構いません」
「構わないのか」
「はい。完璧を目指すと、また口が暴走しそうですので」
「否定できない」
「大切なのは、逃げないこと。言い訳しないこと。ナリア様の言葉を遮らないこと。そして、余計な一言を言いそうになったら口を閉じることです」
殿下は真剣に頷きました。
「分かった」
「本当に?」
「分かっている。……たぶん」
「最後が不安です」
「すまない」
私は小さく息を吐きました。
そして、机の上の紙へいくつか項目を書き出しました。
一、礼を言う。
二、謝罪する。
三、相手の言葉を聞く。
四、言い訳しない。
五、余計なことを言う前に口を閉じる。
実に基本的な内容です。
けれど、今の殿下にはこの基本が何より大切でした。
「殿下、こちらをお持ちください」
「これは?」
「会話の心得です」
「会話の心得……」
殿下は、まるで王家の秘伝書でも受け取るかのように紙を両手で受け取りました。
真剣すぎます。
私は蜂蜜菓子をもう一つ口に入れました。
甘いものがないと、やっていられません。
「ルイート嬢」
「はい」
「君は、厳しいな」
「お嫌でしたか」
「いや」
殿下は首を横に振りました。
「ありがたい。誰もここまで言ってくれなかった」
「言えなかったのだと思います」
「王太子だからか」
「それもあります」
私は少し迷いましたが、正直に続けました。
「そして、殿下が完璧に見えすぎるからです」
「完璧……」
「周囲の方々は、殿下が恋愛でここまで不器用だとは思わないでしょう」
「……そうだろうな」
「だから、ナリア様への冷たい態度にも、何か深い理由があるのだと勝手に解釈されるのです」
殿下の表情が曇りました。
そう。
それも問題でした。
殿下が優秀すぎるからこそ、周囲は彼の行動に意味を探してしまう。
ナリア様に冷たいのは、王家としての判断なのではないか。
クラウゼン侯爵家と距離を置く意図があるのではないか。
別の令嬢を王太子妃に選ぶつもりではないか。
そんな憶測が生まれます。
まさか。
好きすぎて口が真逆になるだけです、とは誰も思いません。
思いたくもないでしょう。
「つまり、僕の失敗は、ナリアだけでなく彼女の家にも迷惑をかける可能性がある」
「はい」
「……分かっていたつもりだった」
殿下は紙を握りしめました。
「だが、分かっていなかった」
その声は、静かでした。
静かだからこそ、深く沈んでいました。
私はすぐには言葉を返しませんでした。
彼が自分の中で何かを噛みしめている時間だと感じたからです。
沈黙が流れます。
窓の外では、夕暮れが少しずつ濃くなっていきました。
教室棟の方から、生徒たちの帰宅を促す声が遠く聞こえます。
資料室の中には、古い紙の匂いと蜂蜜の甘い香り。
その中で、王太子殿下はしばらく黙っていました。
やがて、彼は顔を上げました。
「ルイート嬢」
「はい」
「僕は、ナリアにすべてを許してもらいたいわけではない」
私は黙って続きを待ちました。
「もちろん、許してもらえたら嬉しい。だが、今すぐ元通りになりたいと言うのは、都合がよすぎると思う」
「はい」
「まずは、彼女に僕の言葉でこれ以上傷ついてほしくない」
殿下は、まっすぐ私を見ました。
「そのために、僕は口を閉じるところから始める」
真剣な言葉でした。
しかし内容が「口を閉じるところから始める」なので、私は少しだけ複雑な気持ちになりました。
けれど、笑う場面ではありません。
殿下にとっては、本当に大切な一歩なのです。
「良い心がけです」
「ありがとう」
「では、次は実践練習です」
「まだあるのか」
「当然です」
殿下は覚悟を決めたように頷きました。
私は椅子に座り直し、背筋を伸ばしました。
「今から私がナリア様役をします。殿下は、改めて話す場面を想定して会話してください」
「分かった」
「ただし、私は少し厳しめに返します」
「厳しめ……」
「本番でナリア様がどのような反応をされるか分かりません。優しく受け止めてくださるとは限りません」
「そうだな」
「では始めます」
私は扇を閉じ、膝の上に置きました。
ナリア様のような柔らかさは到底出せませんが、できるだけ穏やかに振る舞います。
殿下は深く息を吸いました。
「ナリア、今日は時間をくれてありがとう」
「……はい」
私は少し硬い声で返しました。
殿下の表情が緊張で強張ります。
「先日は……いや、これまで、君に冷たい態度を取ってすまなかった」
「なぜ、今さら謝ってくださるのですか」
殿下の呼吸が止まりました。
早い。
まだ二言目です。
「そ、それは……」
危険です。
すでに危険です。
私は扇に手を伸ばしかけましたが、殿下は自力で口を閉じました。
よし。
今のは良い判断です。
殿下は一度目を閉じ、呼吸を整えました。
「遅すぎたと思っている。だが、このままではいけないと気づいた」
「誰かに言われたからですか」
殿下の視線が揺れました。
「それは……」
「ご自分では気づかなかったのですか」
「……」
殿下は黙りました。
私は少し胸が痛みました。
自分で言っておきながら、なかなか厳しい問いです。
けれど、ナリア様がそう感じていても不思議ではありません。
誰かに言われたから謝ったのか。
自分では悪いと思っていなかったのか。
なぜ今さらなのか。
そう思う権利が、彼女にはあります。
殿下はゆっくり言いました。
「自分でも、分かっていたつもりだった。だが、本当には分かっていなかった」
「……」
「君がどれほど傷ついていたかを、僕は見ようとしていなかった。自分がうまく言えない苦しさばかり見ていた」
私は少し驚きました。
練習とはいえ、先ほど自分で気づいたことをもう言葉にできています。
殿下は続けました。
「誰かに言われて、ようやく気づいた部分もある。それも情けないと思っている」
「……そうですか」
「だから、謝りたい。君に許してほしいからというより、まず、傷つけたことを認めたい」
資料室に、静かな時間が落ちました。
私はナリア様役を続けるべきでした。
しかし、少しだけ言葉に詰まりました。
今の言葉は、とても良かった。
不器用で、格好よくはありません。
けれど、誠実です。
殿下の中にある本当の優しさが、少しだけ見えました。
この方は、ちゃんと考えれば言えるのです。
ナリア様を前にして、それができるかどうか。
それが問題なのですが。
「……良いと思います」
私は役を解いて言いました。
殿下は緊張から解放されたように肩を落としました。
「本当か」
「はい。今の言葉は、かなり良いです」
「そうか……」
殿下は胸に手を当て、深く息を吐きました。
その顔には安堵がありました。
そして、その安堵の奥に、ほんの少しの希望も見えました。
「では、本番でも今のように」
「待ってくれ」
「はい?」
「本番で言える気がしない」
「そこを何とかするための練習です」
「ナリアを前にすると、頭が真っ白になる」
「でしょうね」
「今も、君がナリア役をしただけで少し白くなった」
「私で?」
「ああ」
「殿下、失礼ですが私をナリア様と間違えたりは」
「それは絶対にない」
「即答ですね」
「君は君だ。ナリアとは違う」
「そこまで力強く言われると、少々複雑です」
「す、すまない。悪い意味ではない」
殿下は慌てて手を振りました。
その様子は少し可笑しく、私は思わず口元を緩めました。
すると殿下が、なぜか驚いた顔をしました。
「ルイート嬢」
「はい」
「君も笑うのだな」
「私を何だと思っておられるのですか」
「いや、いつも冷静だから」
「私も人間です」
「そうだな。すまない」
殿下は少しだけ気まずそうに笑いました。
このやり取りだけなら、普通の同級生のようです。
王太子殿下と伯爵令嬢。
相談役と相談者。
そんな肩書きを一瞬忘れるほど、穏やかな時間でした。
しかし、その穏やかさは長く続きませんでした。
廊下の向こうから、数人の令嬢たちの声が近づいてきたのです。
「昨日の話、聞きました?」
「もちろんですわ。殿下がナリア様に謝罪なさったとか」
「でも、ルイート様が合図をしていたのでしょう?」
「不思議ですわよね」
「殿下とルイート様、いつの間にそのようなご関係に?」
「ナリア様はどうお思いなのかしら」
私は殿下と目を合わせました。
殿下の表情が険しくなります。
昨日からの噂が、もうここまで広がっています。
当然、予想はしていました。
しかし実際に耳にすると、嫌なものです。
私は静かに立ち上がり、扉の隙間から廊下を見ました。
令嬢たちは資料室の前を通り過ぎていきます。
こちらに気づいた様子はありません。
「……すまない」
背後から、殿下が言いました。
「君にまで噂が」
「今さらです」
「僕のせいだ」
「おおむねそうですね」
「否定しないのだな」
「否定する材料がありませんので」
殿下は沈痛な顔をしました。
少し言いすぎたかもしれません。
けれど、事実です。
中庭で私に声をかけたこと。
回廊で扇の合図が目立ったこと。
すべて、噂の材料になっています。
ただし、殿下だけを責めるのも違います。
私もあの場で「余計なことをおっしゃらないための合図」と正直に言ってしまいました。
結果としてナリア様は少し笑ってくれましたが、噂という意味では燃料を投下したようなものです。
「ですが、完全に殿下だけの責任でもありません」
「そうだろうか」
「私も少々目立ちすぎました」
「君は助けてくれただけだ」
「助け方が目立ちました」
「……」
「今後は、合図の方法を変えましょう」
殿下が顔を上げました。
「変える?」
「はい。扇を閉じる音は意外と目立ちます」
「確かに」
「次からは、私が咳払いをします」
「咳払い」
「はい。小さく一度」
「それで口を閉じればいいのだな」
「そうです」
殿下は真剣に頷きました。
そして、少し考えた後、言いました。
「だが、君が本当に咳き込んだ時は?」
「その時も口を閉じてください」
「分かった」
「殿下は口を閉じて困る場面より、開いて困る場面の方が多いので」
「……返す言葉もない」
殿下は深く落ち込みました。
けれど、これくらいで落ち込んでいては今後が大変です。
私は机の上の蜂蜜菓子を一つ殿下の方へ押しました。
「殿下も召し上がってください」
「いいのか?」
「持ってきたのは殿下でしょう」
「君への詫びだったから」
「詫びを受け取ったうえで、分けます」
「ありがとう」
殿下は蜂蜜菓子を手に取りました。
その仕草は上品です。
さすが王太子殿下。
菓子を一つ食べる動作さえ絵になります。
池に落ちなければ。
殿下は一口食べ、少しだけ表情を和らげました。
「美味しいな」
「はい」
「ナリアも、蜂蜜菓子が好きだった」
その言葉に、私は顔を上げました。
殿下は菓子を見つめたまま、懐かしそうに目を細めています。
「幼い頃、王宮でこっそりくれた菓子も、蜂蜜の味がした」
「以前おっしゃっていましたね」
「ああ。形は少し崩れていたが、とても美味しかった」
「ナリア様の手作りだったのですか?」
「たぶん。本人は何も言わなかったが、後で侍女から聞いた。前日に厨房で一生懸命作っていたと」
殿下の声は、とても柔らかかった。
ナリア様のことを話す時、彼は本当に優しい顔をします。
この顔を、本人の前で見せられればいいのに。
私は何度目か分からない感想を胸の内で呟きました。
「なら、いつかその話をナリア様にされてもよろしいかもしれません」
殿下の手が止まりました。
「その話を?」
「はい。幼い頃の思い出です。ナリア様にとっても、嫌な話ではないでしょう」
「しかし……恥ずかしい」
「殿下」
「はい」
「愛していると叫べとは言っておりません。蜂蜜菓子の思い出を話すだけです」
「それでも、僕にとってはかなり……」
「では、まだ先ですね」
「すまない」
「謝ることではありません。ただ、いずれ伝えられると良いですね」
殿下は小さく頷きました。
資料室の空気が、少し穏やかになりました。
甘い菓子の香り。
夕方の光。
古い書物の影。
この時間だけ見れば、王太子殿下の恋愛相談というより、少し変わったお茶会のようでもあります。
ただし、話題は重く、課題は多い。
その時、廊下で足音が止まりました。
私は反射的に扉の方を見ます。
誰かが、資料室の前に立っています。
殿下も気づき、表情を引き締めました。
数秒の沈黙。
そして、控えめに扉が叩かれました。
「失礼いたします」
聞こえた声に、私と殿下は同時に固まりました。
ナリア様の声でした。
なぜ。
どうして。
今。
殿下の顔から血の気が引いていきます。
私は慌てて机の上を見ました。
蜂蜜菓子。
会話の心得を書いた紙。
ナリア様との会話練習用のメモ。
まずい。
非常にまずいです。
この状況を見られたら、いろいろ説明が難しい。
特に紙。
私は素早く会話の心得の紙を裏返しました。
殿下も慌てて蜂蜜菓子の箱を整えようとしましたが、焦りすぎて一つ落としました。
ころん、と菓子が机の上を転がります。
殿下が青ざめます。
私は小声で言いました。
「落ち着いてください」
「無理だ」
「口を閉じてください」
殿下は即座に口を閉じました。
条件反射です。
私は一度深呼吸し、扉へ向かいました。
少しだけ開けます。
そこには、ナリア様が立っていました。
栗色の髪をきれいにまとめ、手には小さな本を抱えています。
表情は穏やかですが、どこか緊張しているようにも見えました。
「ナリア様」
「ルイート様。突然申し訳ございません」
「いえ。どうなさいましたか?」
ナリア様は少し視線を下げました。
「昨日、こちらの回廊でルイート様とお話しした後、この近くに本を置き忘れたことに気づきまして……旧講義棟の資料室にあるかもしれないと、先生に伺いました」
「そうでしたか」
私は扉をもう少し開けるべきか迷いました。
中には殿下がいます。
隠すのは不自然です。
しかし、今ここで殿下と私が二人でいるところをナリア様に見られるのも、さらに誤解を招く可能性があります。
どうするべきか。
迷った一瞬の間に、ナリア様の視線が私の肩越しに室内へ向きました。
そして、殿下と目が合いました。
沈黙。
長い沈黙。
殿下は椅子に座ったまま、蜂蜜菓子を片手に固まっています。
ナリア様は扉の前で固まっています。
私はその間で立ち尽くしています。
旧講義棟の資料室に、気まずさが雪のように降り積もりました。
「アルノルド殿下……」
ナリア様が呟きました。
殿下は立ち上がろうとして、椅子に足をぶつけました。
がたんっ、と大きな音が響きます。
殿下の顔が痛みに歪みましたが、彼は必死に耐えました。
「ナ、ナリア」
声が少し裏返っています。
私は咳払いの準備をしました。
しかし、まだ早い。
ナリア様は驚いた顔で室内を見ています。
机の上の蜂蜜菓子。
殿下。
私。
裏返した紙。
どう見ても、何かをしていたと分かる状況です。
「あの……お邪魔でしたでしょうか」
「いいえ」
私は即答しました。
殿下も慌てて首を横に振ります。
「邪魔ではない!」
力強い。
そこまでは良いです。
「むしろ君ならいつでも――」
「こほん」
私は小さく咳払いしました。
殿下は口を閉じました。
早速、新しい合図が役に立ちました。
ナリア様が、また私と殿下を交互に見ました。
気づかれた気がします。
かなり気づかれた気がします。
「……今の咳払いは」
「少し喉が」
「そうですか」
ナリア様はおっとり頷きました。
しかし、その瞳には明らかに疑問が浮かんでいます。
この方、控えめに見えて観察力があります。
当然です。
侯爵令嬢として育ち、王太子殿下のそばにいた方です。
鈍いはずがありません。
「本をお探しでしたね」
私は話題を戻しました。
「はい。青い表紙の詩集なのですが」
「詩集……」
私は棚の方へ視線を向けました。
確かに、古い資料と一緒に数冊の詩集が置かれていたはずです。
私は棚へ向かい、探し始めました。
その間、殿下とナリア様が向かい合う形になります。
まずい。
とは思いましたが、ここで私が間に立ち続けるのも不自然です。
殿下の実践練習としては、突然すぎますが。
機会は機会です。
殿下は紙を握りしめていました。
会話の心得。
裏返した紙を、いつの間にか手に取っていたようです。
私は棚を探すふりをしながら、二人の様子を横目で見ました。
ナリア様は少し気まずそうに微笑みます。
「殿下も、こちらにご用事が?」
「えっ」
殿下が固まりました。
普通に答えればいいのです。
資料を見に来た、でも。
ルイート嬢に相談が、でも。
いや、後者は駄目です。
殿下は紙を握りしめたまま、視線を泳がせました。
「僕は、その……」
私は咳払いの準備をします。
「ルイート嬢に……」
危険です。
「こほん」
殿下は口を閉じました。
ナリア様がこちらを見ました。
私は棚から一冊の本を取り出しながら、何事もなかったように言いました。
「少し学術試験の内容について、殿下にご意見を伺っておりました」
嘘です。
完全な嘘ではありません。
殿下は学術試験で常に一位ですし、私も成績上位者です。
意見を伺うこと自体は不自然ではありません。
ただし、実際に話していたのは恋愛会話の心得です。
ナリア様は「そうなのですね」と頷きました。
けれど、どこまで信じたかは分かりません。
殿下は私の助け舟に乗ろうとして、必死に頷きました。
「ああ。試験の話だ」
「どの科目ですか?」
ナリア様が尋ねました。
自然な問いです。
しかし殿下は再び固まりました。
私は本を探しながら、心の中で叫びました。
何でもいいのです。
歴史でも法学でも魔術基礎でも。
殿下、何か答えてください。
「……礼法」
殿下が言いました。
よりによって。
なぜ礼法。
ナリア様は礼法研究会の方です。
深掘りされたら危険です。
「礼法でございますか」
ナリア様の目が少し明るくなりました。
「どのような内容を?」
殿下。
終わりました。
これは自分で穴を掘りました。
殿下は紙を握る手に力を込めています。
そして、なぜか真剣な顔で言いました。
「謝罪における姿勢と、言葉の選び方について」
ナリア様が目を見開きました。
私は棚の前で動きを止めました。
それは。
嘘ではありません。
確かに、今していたことです。
しかし、あまりにも正直すぎます。
ナリア様は、しばらく殿下を見つめていました。
「謝罪……」
「ああ」
殿下はもう逃げられないと悟ったのか、少しだけ表情を引き締めました。
「昨日、君に謝った。だが、あれで十分だとは思っていない。だから……どう話すべきか、考えていた」
資料室の空気が変わりました。
私も、棚の前で静かに息を止めました。
ナリア様は、殿下を見ています。
先ほどまでの気まずさや疑問ではなく、もっと深い感情を含んだ瞳で。
「殿下が……私に話すために?」
「……ああ」
殿下は顔を赤くしました。
しかし、目を逸らしませんでした。
「まだ、うまく言える自信はない。今も、ルイート嬢に何度も止められている」
自分で言いました。
ナリア様が、少しだけ目を丸くします。
私は何も言いませんでした。
ここは、殿下自身の言葉です。
止める必要は、今のところありません。
「だが、昨日の謝罪だけで終わらせたくない。君と、改めて話したいと思っている」
殿下の声は震えていました。
けれど、誠実でした。
ナリア様の指先が、本の表紙をぎゅっと握ります。
「……私は」
小さな声。
「私は、まだ少し怖いです」
殿下の顔が痛ましげに歪みました。
しかし彼は、口を挟みませんでした。
ちゃんと聞いています。
「殿下がまた冷たい言葉をおっしゃるのではないかと、考えてしまいます」
「……ああ」
「昨日、謝っていただいて、嬉しかったのです。でも、嬉しかったからこそ、また期待してしまう自分が怖くて」
ナリア様の声が、わずかに震えました。
「私は、殿下のお言葉をずっと考えてしまうのです。嫌いだと言われたら、なぜ嫌われたのか。消えろと言われたら、私がそばにいることがそんなに迷惑なのかと」
殿下の手が震えました。
紙がかさりと音を立てます。
私は胸が締めつけられるようでした。
これが、ナリア様の本音。
殿下が傷つけてきたもの。
彼は今、それを正面から聞いています。
逃げずにいられるでしょうか。
口を閉じていられるでしょうか。
殿下は、深く息を吸いました。
そして言いました。
「すまない」
短い謝罪。
でも、今度は反射ではありませんでした。
彼は自分の意思で、その言葉を選んだように見えました。
「君に、そんなふうに思わせていたことを……本当に、すまない」
ナリア様の瞳が揺れました。
殿下は続けます。
「僕は、君が迷惑だったことなど一度もない」
私は思わず殿下を見ました。
踏み込んだ。
これは、かなり踏み込んだ言葉です。
殿下の顔は真っ赤でした。
けれど、言いました。
自分で。
「ただ……僕が、君にどう向き合えばいいのか分からなかった。いや、これは言い訳だな」
殿下は自分で言い直しました。
「分からないことを理由に、君を傷つけた。すまない」
ナリア様は何も言いませんでした。
ただ、目元が赤くなっています。
泣きそうで、でも泣かない。
あの日、校舎裏で殿下に「嫌いだ」と言われた時と同じように。
けれど、今の沈黙はあの日とは違いました。
痛みだけではなく、何かを受け止めようとしている沈黙でした。
私は棚の前で、静かに本を探すふりを続けました。
本当は、青い表紙の詩集はすでに見つけています。
けれど今、二人の間に入るべきではないと思いました。
殿下とナリア様は、初めて少しだけ本音に近い場所で向き合っているのです。
ここで私が余計なことを言えば、その流れを壊してしまうかもしれません。
「殿下」
ナリア様が、ようやく口を開きました。
「はい」
「私も、すぐに上手く話せるか分かりません」
「ああ」
「怖い気持ちも、まだあります」
「ああ」
「でも……」
ナリア様は、小さく息を吸いました。
「今のお言葉は、嬉しかったです」
殿下の表情が、言葉を失うほど変わりました。
驚き。
安堵。
喜び。
そして、今にも泣きそうなほどの感情。
殿下は口を開きかけました。
私は即座に軽く咳払いをしました。
「こほん」
殿下は口を閉じました。
危ない。
嬉しさのあまり何か言いかけていました。
この方は感情が大きく動くと危険です。
ナリア様は、私の咳払いを聞いて、今度は少しだけ笑いました。
「ルイート様」
「はい」
「やはり、その咳払いは合図なのですね」
私は青い詩集を手にしたまま、ゆっくり振り返りました。
誤魔化すべきか。
しかし、ここまで来るともう無理です。
「……はい」
正直に認めました。
殿下が顔を覆いました。
ナリア様は口元に手を当て、肩を小さく震わせました。
笑っています。
控えめに。
上品に。
けれど、確かに。
「殿下は、ルイート様に止めていただかないと危ないのですか?」
「……かなり」
私が答えると、殿下が小さく呻きました。
「ルイート嬢……」
「事実です」
「否定できない……」
ナリア様はさらに笑いました。
その笑みは、昨日より自然でした。
まだ傷は残っています。
不安も残っています。
けれど、今この瞬間だけは、少しだけ空気が緩んでいました。
私は詩集をナリア様へ差し出しました。
「こちらでよろしいでしょうか」
「あ……はい。ありがとうございます」
ナリア様は詩集を受け取りました。
その時、彼女の視線が机の上の蜂蜜菓子に向きました。
「蜂蜜菓子……」
小さく呟いた声に、殿下が反応しました。
「好きだっただろう」
言ってから、殿下は自分で固まりました。
ナリア様も固まりました。
私は扇に手を伸ばしかけました。
けれど、殿下は続けませんでした。
口を閉じています。
偉い。
非常に偉いです。
ナリア様は、少し驚いた顔で殿下を見ました。
「覚えていてくださったのですか」
殿下は、ゆっくり頷きました。
「ああ」
それだけ。
短い返事。
けれど、冷たくはありません。
ナリア様は詩集を胸に抱き、目を伏せました。
「……私、今でも好きです」
殿下の耳が赤くなりました。
私は咳払いの準備をしました。
しかし殿下は、口を開きませんでした。
ただ、静かに頷きました。
「そうか」
ナリア様は、ほんの少し微笑みました。
「はい」
それ以上の会話はありませんでした。
けれど、それで十分な気がしました。
長い言葉ではありません。
劇的な告白でもありません。
ただ、蜂蜜菓子が好きだったことを覚えていた。
今でも好きだと答えた。
それだけです。
けれど、その「それだけ」が、これまで傷ついた二人にとっては、確かに小さな橋になったように見えました。
ナリア様は礼をしました。
「突然お邪魔して申し訳ございませんでした」
「いや」
殿下が答えます。
そこで止める。
偉いです。
「ルイート様も、ありがとうございました」
「いいえ」
「では、失礼いたします」
ナリア様はもう一度礼をして、資料室を出ていきました。
扉が静かに閉まります。
足音が遠ざかっていきます。
その音が完全に聞こえなくなった瞬間。
殿下は椅子に崩れ落ちました。
「……死ぬかと思った」
「生きておられます」
「心臓が……心臓が持たない……」
「よく耐えました」
「僕は、変なことを言わなかったか?」
「今回は、かなり良かったです」
殿下が顔を上げました。
「本当か」
「はい」
「本当に?」
「本当に」
殿下は、しばらく呆然としていました。
そして、ゆっくりと両手で顔を覆いました。
「ナリアが……嬉しかったと」
「おっしゃっていましたね」
「蜂蜜菓子を、今でも好きだと」
「おっしゃっていました」
「……」
殿下の肩が震えました。
泣いているのかと思いました。
しかし違いました。
彼は小さく笑っていました。
嬉しさを抑えきれないような、不器用な笑い。
それを見て、私は少しだけ胸が温かくなりました。
この方は、本当にナリア様が好きなのです。
どうしようもないくらい。
その気持ちが、少しずつでも正しい形で伝わるなら。
この奇妙な相談役も、少しは意味があるのかもしれません。
「殿下」
「はい」
「今日の反省です」
「もうか」
「余韻に浸るのは後です」
「……はい」
殿下は背筋を伸ばしました。
切り替えが早い。
ただし顔はまだ赤い。
「まず、ナリア様が来られた時に動揺しすぎです」
「それは無理だ」
「無理でも改善してください」
「はい」
「次に、学術試験の話と誤魔化したのに、礼法と答えたのは危険でした」
「すまない。頭に浮かんだのがそれしかなかった」
「今後は、迷ったら歴史と答えてください」
「歴史」
「はい。広く、無難です」
「分かった」
「そして、謝罪の言葉は良かったです」
殿下は少し目を見開きました。
「……そうか」
「はい。ナリア様の言葉を遮らなかったことも良かったです」
「口を閉じた」
「はい。非常に大事です」
「口を閉じることを褒められる王太子……」
「今はそこからです」
「そうだな」
殿下は素直に頷きました。
この素直さを、なぜナリア様の前で最初から出せなかったのか。
いえ、出せないからこそ今があるのでしょう。
「最後に」
「はい」
「蜂蜜菓子の件は、とても良かったです」
殿下は固まりました。
「あれは、言ってよかったのか」
「はい。短くて、自然で、ナリア様も嬉しそうでした」
「……そうか」
「ただし、そこから幼少期の思い出を一気に語り始めなかったのは正解です」
「語りかけた」
「分かりました」
「咳払いがなければ危なかった」
「やはり」
私は頭を抱えたくなりました。
危なかった。
あの瞬間、殿下の中では思い出が洪水のように押し寄せていたのでしょう。
もし止めなければ、幼少期の蜂蜜菓子から始まり、ナリア様の可愛さを語り、最終的に何かしら逆方向の言葉で台無しにしていた可能性があります。
合図は必要です。
しばらくは絶対に。
「それでも、今日は前進です」
私は言いました。
「前進……」
「はい。ナリア様と、昨日より少し話せました」
「そうだな」
「ナリア様も、ご自分の気持ちを少し話してくださいました」
「……怖いと言っていた」
「はい」
「僕は、彼女に怖いと思わせていた」
殿下の声が沈みました。
「その事実を忘れないでください」
「ああ」
「ですが、嬉しかったともおっしゃいました」
殿下はゆっくり顔を上げました。
「はい」
「どちらも本心だと思います。怖い。でも嬉しい。傷ついた。でも話してみたい。ナリア様の心は、今その間で揺れているのだと思います」
「……僕は、どうすればいい」
「急がないことです」
私は静かに言いました。
「一度謝れたからといって、急に距離を詰めようとしない。優しい言葉を一つ言えたからといって、すぐにすべて許されたと思わない。少しずつ、言葉と態度を積み重ねてください」
「少しずつ」
「はい」
殿下は紙を見つめました。
会話の心得。
そこに書かれた五つの項目を、指でなぞります。
「難しいな」
「恋愛ですから」
「政治交渉より難しい」
「比較対象が大きすぎます」
「剣術の試合より緊張する」
「でしょうね」
「魔術試験より失敗が怖い」
「でしょうね」
殿下は真剣に言いました。
「僕は、王太子としての教育で、なぜ恋愛会話を学ばなかったのだろう」
「普通はここまで必要ないからでは?」
「そうか……」
あまりにも落ち込むので、私は蜂蜜菓子をもう一つ殿下の皿に置きました。
「召し上がってください」
「ありがとう」
殿下は素直に菓子を食べました。
まるで大きな犬のようだと、少し思いました。
もちろん、口には出しません。
王太子殿下に対して失礼です。
ただ、池に落ちた時の姿を思い出すと、やはり雨に濡れた大型犬のようでもありました。
その頃。
ナリア様は、旧講義棟を出て、夕暮れの回廊を一人で歩いていました。
私は直接見ていたわけではありません。
けれど後に聞いた話と、その時の彼女の表情を思えば、きっとそうだったのだと思います。
胸に青い詩集を抱きしめ、ゆっくりと歩くナリア様。
風が栗色の髪を揺らし、夕日がその頬を淡く染める。
彼女の胸の中には、きっといくつもの感情があったのでしょう。
傷ついた記憶。
昨日の謝罪。
今日の言葉。
怖いという気持ち。
嬉しかったという気持ち。
そして、蜂蜜菓子を覚えていてくれたこと。
幼い頃、王宮の厨房で一生懸命作った、少し形の崩れた蜂蜜菓子。
緊張していた幼い王太子殿下へ、こっそり渡した小さな菓子。
あの思い出を、彼は覚えていた。
冷たい言葉ばかりの中で、見えなくなっていた過去の温かさが、ほんの少しだけ戻ってきた。
けれど、それが本当に信じていいものなのか。
また傷つくのではないか。
その不安も、消えない。
ナリア様はきっと、詩集を抱く手に力を込めたはずです。
そして、小さく呟いたかもしれません。
「……殿下」
その声が、寂しさだけではなく、ほんの少しの期待を含んでいたなら。
今日の出来事にも、意味があったのだと思います。
数日後。
学園内の噂は、少し奇妙な方向へ広がっていました。
「ルイート様は、殿下の礼法指南役なのでは?」
「いいえ、謝罪の作法を教えていらっしゃると聞きましたわ」
「殿下がルイート様の咳払いで黙るとか」
「まあ、本当ですの?」
「でもナリア様とも何やら和やかにお話しされたそうですわ」
「では、三人で何か?」
「王太子殿下、ナリア様、ルイート様……不思議な組み合わせですわね」
廊下を歩くたびに、そんな声が耳に入ります。
私はもう、いちいち反応しないことにしました。
貴族令嬢の微笑みは盾。
何度でも使います。
ただ、以前と違うことが一つありました。
ナリア様の表情が、少しだけ柔らかくなったのです。
殿下とすれ違った時、まだ緊張はあります。
けれど、以前のように完全に怯えた様子ではありません。
殿下も、無理に話しかけようとはしません。
ただ、短く礼を返します。
時には「ごきげんよう」と一言だけ言う。
それだけで、周囲はざわめきます。
けれど、ナリア様はその一言に静かに頷くようになりました。
本当に少しずつ。
薄氷の上を歩くように。
二人の距離は、ほんのわずかですが変わり始めていました。
そして私は、そのたびに思うのです。
どうか。
どうか殿下。
余計な一言だけは、飲み込んでくださいませ。
ある日の放課後。
資料室での練習を終えた後、殿下はぽつりと言いました。
「ルイート嬢」
「はい」
「いつか、ナリアに好きだと言えるだろうか」
その声は、とても小さなものでした。
王太子殿下らしからぬ、不安に満ちた声。
私はすぐには答えませんでした。
簡単に言える日が来ます、などと無責任なことは言えません。
殿下の道のりは長いでしょう。
失敗もするはずです。
たぶん、何度も。
ナリア様を傷つけないようにと思っても、完全に傷つけずに進むことは難しいかもしれません。
けれど。
謝罪はできた。
会話も少しできた。
蜂蜜菓子の話もできた。
ならば、きっと。
「今すぐではないと思います」
私は正直に言いました。
殿下は少しだけ肩を落としました。
しかし私は続けます。
「ですが、今日より明日。明日よりその次。少しずつ言葉を選べるようになれば、いつか届くかもしれません」
「いつか……」
「はい」
「長いな」
「長いです」
「遠いな」
「遠いです」
「それでも、行くしかないか」
「はい」
殿下は窓の外を見ました。
夕方の空は赤く染まり、雲の端が金色に光っています。
彼の瞳に、その光が映りました。
「分かった」
殿下は静かに言いました。
「では、まずは明日、ナリアに『ごきげんよう』と自分から言ってみる」
「良い目標です」
「余計なことは言わない」
「最重要です」
「口を閉じる」
「はい」
私は扇を閉じました。
ぱちん、と小さな音がしました。
殿下は反射的に口を閉じました。
私はそれを見て、少しだけ笑いました。
長い道のりです。
本当に。
気が遠くなるほど、長い道のりです。
けれど、王太子殿下の恋は、ようやく池の底から這い上がり、言葉を覚え始めたばかりなのです。
その第一歩が「口を閉じる」なのは、少々情けない気もしますが。
まあ、仕方ありません。
殿下の場合、そこからです。
そして私は、机の上の蜂蜜菓子を一つ口に入れながら、心の中で静かに祈りました。
王太子殿下。
明日こそ。
どうか、どうか。
その恋を、口から出す前に一度止めてくださいませ。




