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『王太子殿下、その恋は口から出す前に止めてください 〜好きな令嬢に嫌いと言ってしまう残念王子の恋愛相談役になりました〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第3話 王太子殿下、謝罪の一言で崖っぷちに立つ



 人は、簡単なことほど失敗すると恥ずかしいものです。


 たとえば、廊下で知人に会った時の挨拶。


 たとえば、落とし物を拾ってくれた相手への礼。


 たとえば、ぶつかってしまった時の謝罪。


 どれも、難しい言葉ではございません。


 ごきげんよう。

 ありがとう。

 すみません。


 幼い子どもでも教えられる、基本中の基本です。


 けれど、その言葉が本当に必要な相手を前にした時、人の口は驚くほど不自由になります。


 言わなければならないと分かっている。


 言いたい気持ちもある。


 けれど、喉が詰まる。

 舌が動かない。

 胸が苦しくなる。


 そして、最悪の場合。


 言うべき言葉とはまったく違う言葉が、口から飛び出してしまう。


 そう。


 アルスード王国第一王子、アルノルド・アルスード殿下のように。


「先日は、すまなかった」


 旧講義棟二階の資料室。


 古い地図と教材に囲まれたその部屋で、殿下は真剣な顔で同じ言葉を繰り返していました。


「先日は、すまなかった」


「はい。もう一度」


「先日は、すまなかった」


「もう一度」


「先日は、すまなかった」


 声は、前回よりも安定していました。


 姿勢も良い。

 目線も泳いでいない。

 言葉の途中で変な方向へ暴走する様子もありません。


 少なくとも、練習だけを見れば、かなり改善していると言えました。


 ただし。


 これはあくまで、ナリア様本人がいない場所での練習です。


 目の前にいるのは私、マリア・ルイート。


 伯爵令嬢であり、試験結果は悪くなく、犬が好きで、現在なぜか王太子殿下の恋愛相談役を引き受けてしまった哀れな生徒です。


 ナリア様ではありません。


 殿下もそれは分かっているのでしょう。


 言葉を言い終えた後、彼は一度目を閉じ、長く息を吐きました。


「……ルイート嬢」


「はい」


「練習では言える」


「そうですね」


「問題は、本人を前にした時だ」


「その通りです」


「なぜだろうな」


「それを今、私に尋ねますか」


 殿下は真面目に悩んでいました。


 金色の髪は今日も美しく整えられ、制服も完璧です。

 背筋を伸ばして立つ姿は、まさに王太子殿下。


 しかしその口から出る悩みは、あまりにも情けないものでした。


 好きな相手に謝罪の一言が言えるかどうか。


 王国の未来を背負う方が、資料室でその一点に全力を注いでいるのです。


 人間とは、実に不思議なものです。


「殿下」


「はい」


「今日、機会があればナリア様に謝っていただきます」


 殿下の表情が固まりました。


 美しい顔が、分かりやすく青ざめます。


「今日か」


「はい」


「今日……」


「はい」


「今日、ナリアに……」


「謝ります」


 殿下はゆっくりと窓の外を見ました。


 その横顔には、遠い戦場へ向かう騎士のような覚悟と、処刑台へ上る罪人のような絶望が同時に浮かんでいました。


 大げさです。


 ただ謝るだけです。


 とはいえ、殿下にとっては本当に戦場なのでしょう。


「無理に長く話す必要はありません」


 私は冷静に説明しました。


「まずは一言です。『先日は、すまなかった』。それだけです」


「それだけでいいのか?」


「最初はそれだけです」


「その後は?」


「ナリア様の反応を見ます」


「もし、彼女が何か言ったら?」


「答えられそうなら答えてください。難しければ『改めて時間をもらいたい』とだけ」


「もし、ナリアが泣いたら?」


「逃げずに受け止めてください」


「もし、怒ったら?」


「当然の権利ですので、逃げずに受け止めてください」


「もし、僕がまた酷いことを言いそうになったら?」


「口を閉じてください」


「口を……」


「閉じてください」


 私ははっきりと言いました。


 作品名にも関わる重大事項です。


 殿下は神妙な顔で頷きました。


「分かった。口を閉じる」


「はい。殿下はまず、余計なことを言わない訓練が必要です」


「王太子として、これほど情けない課題があるだろうか」


「恋愛においては必要です」


「……そうか」


 殿下は再び深く息を吐きました。


 資料室の窓から差し込む光は淡く、埃がふわりと漂っています。


 外では昼休みの終わりが近づき、生徒たちの声が廊下を行き交っていました。


 今日の作戦は単純です。


 午後の授業後、ナリア様が所属している礼法研究会の活動が終わる時間を見計らい、廊下か中庭で声をかける。


 人目がまったくない場所は避けます。


 密会のように見えれば、かえって噂になりますし、ナリア様も警戒するでしょう。


 しかし人が多すぎる場所もいけません。


 周囲の好奇の視線に晒されれば、ナリア様は余計に傷つきます。


 そこで、礼法研究会の活動室から正門へ向かう途中にある、東棟の回廊を選びました。


 放課後は多少人が通りますが、食堂前や中庭ほどではありません。


 柱が並び、外庭に面しているため、声を抑えれば会話もできます。


 万一殿下が暴走しかけた場合、私が少し離れた場所から合図を送る予定です。


 合図は、扇を閉じること。


 私が扇をぱちんと閉じたら、殿下は即座に口を閉じる。


 これだけです。


 単純。


 明快。


 間違えようがない。


 ……はずでした。


「ルイート嬢」


「はい」


「扇を閉じる合図だが」


「はい」


「もし僕が緊張しすぎて見逃したら?」


「では、口を閉じる練習もしておきましょう」


「どうやって?」


「私が扇を閉じます。殿下は口を閉じてください」


「分かった」


 私は扇を開きました。


 そして、殿下を見ます。


「では、始めます。殿下、ナリア様に謝罪を」


「ナリア、先日は――」


 ぱちん。


 私は扇を閉じました。


 殿下は即座に口を閉じました。


 早い。


 良い反応です。


「今のは良いです」


「本当か」


「はい。もう一度」


 殿下の表情に少し希望が差しました。


「ナリア、先日は、すまな――」


 ぱちん。


 殿下は口を閉じました。


「良いです」


「なるほど。これは分かりやすい」


「本番でも、その調子でお願いします」


「ああ」


 その時、廊下の方から数人の生徒の声が近づいてきました。


 私はすぐに扉へ目を向けます。


 この資料室は、扉を少し開けたままにしています。


 密室で殿下と二人きりという事態を避けるためです。


 とはいえ、会話を聞かれるのも困ります。


 殿下もすぐに表情を王太子のものへ戻しました。


 先ほどまで口を閉じる練習をしていた人と同一人物とは思えないほど、隙のない顔です。


 足音は資料室の前を通り過ぎていきました。


「ねえ、今日の礼法研究会にはナリア様もいらっしゃるのかしら」

「ええ、たぶん」

「殿下とは最近どうなのかしらね」

「おやめなさい。聞かれたらどうするの」


 そんな囁きが、開いた扉の隙間から入ってきます。


 私は無意識に視線を下げました。


 殿下も、黙ってそれを聞いていました。


 完璧な表情のまま。


 けれど、その拳が静かに握られているのを、私は見逃しませんでした。


 噂は、すでに広がり始めている。


 ナリア様が傷ついていることも。

 殿下が冷たいことも。

 二人の関係がうまくいっていないように見えることも。


 それは、生徒たちの口の端に乗り、少しずつ形を変えながら学園中へ流れていきます。


 悪意がある者ばかりではありません。


 純粋な興味。

 退屈しのぎ。

 憧れの裏返し。

 羨望。

 嫉妬。


 いろいろな感情が混ざり、噂という名の小さな刃になって、当人たちを知らないうちに切っていくのです。


「ルイート嬢」


 殿下が低く言いました。


「僕は、急ぐべきだな」


 その声には、先ほどまでの不安とは違う響きがありました。


 後悔と、決意。


 私は頷きました。


「はい。ですが、焦って失敗してはいけません」


「分かっている」


「今日の目標は一つだけです」


「先日は、すまなかった」


「はい」


 殿下はもう一度、小さく復唱しました。


「先日は、すまなかった」


 その言葉が、今度こそナリア様に届きますように。


 私は心の中で、そう願いました。


 放課後のアルスード学園は、昼間とは違ったざわめきに包まれます。


 授業が終わった解放感。

 部活動や研究会へ向かう足音。

 馬車待場へ向かう令嬢たちの笑い声。

 教師に呼び止められて青ざめる男子生徒。

 今日の試験課題について言い合う成績上位者たち。


 長い廊下には夕方の光が斜めに差し込み、白い壁を淡い金色に染めています。


 窓の外では、庭師が花壇の手入れをしていました。

 秋の花が赤や黄色に揺れ、噴水の水音が遠くから聞こえます。


 私は東棟の回廊にいました。


 柱の陰に立ち、手には扇。


 不自然にならない程度に周囲を眺めながら、礼法研究会の活動室の方へ意識を向けます。


 殿下は少し離れた場所にいます。


 表向きには偶然この回廊に立ち寄ったように見える位置。


 さすが王太子殿下、こういう自然な立ち方は上手い。


 問題は口です。


 口だけです。


 ……いえ、口が最大の問題です。


「マリア様?」


 突然声をかけられ、私は扇を持つ手を止めました。


 振り返ると、エレナ・バートン子爵令嬢が立っていました。


 柔らかな赤茶色の髪を編み、手には数冊の教本を抱えています。


「バートン様。ごきげんよう」


「ごきげんよう。こんなところでどうなさったのですか?」


「少し、風に当たっておりました」


 嘘ではありません。


 回廊には風が通っています。


 ただし、本当の目的は別にあります。


 エレナ様は不思議そうに首を傾げました。


「お一人で?」


「ええ」


 そう答えた瞬間、彼女の視線が少し遠くへ動きました。


 殿下の姿に気づいたのでしょう。


 目がわずかに見開かれます。


 すぐに礼儀正しく表情を整えましたが、完全には隠せていません。


「……アルノルド殿下もいらっしゃるのですね」


「偶然ではないでしょうか」


 我ながら苦しい返答です。


 エレナ様は穏やかな笑みを浮かべました。


「そうですわね。偶然というものは、時に不思議ですもの」


 含みがあります。


 非常に含みがあります。


 私は微笑み返しました。


 ここで慌ててはいけません。


 慌てれば、逆に怪しまれます。


「バートン様は、これからお帰りですか?」


「ええ。今日は家庭教師が来る日ですので」


「それは大変ですね」


「マリア様ほどではありませんわ。試験三位の方が、まだ勉強なさるのでしょう?」


「順位は維持する方が難しいですから」


「さすがですわ」


 会話は穏やかでした。


 しかし、私は焦っていました。


 礼法研究会の終了時間が近いのです。


 エレナ様には申し訳ないのですが、今ここで長話をする余裕はありません。


 殿下も遠くでこちらをちらりと見ています。


 なぜか助けを求めるような目をしています。


 違います。


 今助けが必要なのは、こちらです。


「では、私はこれで」


 エレナ様が軽く礼をしました。


 助かりました。


 私は穏やかに微笑みます。


「お気をつけて」


「マリア様も。……それと」


「はい?」


 エレナ様は少しだけ声を落としました。


「噂は、思うより早く走りますわ」


 私は一瞬、言葉を失いました。


 エレナ様はそれ以上何も言わず、優雅に礼をして去っていきました。


 背中が遠ざかります。


 私は扇を持つ手に、少し力を込めました。


 忠告。


 おそらく、今の言葉はそうなのでしょう。


 王太子殿下と伯爵令嬢マリア・ルイートが、最近何かあるらしい。


 そんな噂が、すでに小さく生まれているのかもしれません。


 当然です。


 中庭で声をかけられ、資料室へ移動し、今日も殿下と同じ回廊にいる。


 無関係と言い張るには、少し苦しい。


 私は内心で深くため息をつきました。


 殿下。


 本当に、最初の中庭での声かけが余計でした。


 しかし今は、それを責めている場合ではありません。


 礼法研究会の活動室の扉が開きました。


 数人の令嬢たちが出てきます。


 白い手袋。

 整えられた髪。

 上品な会話。


 その中に、ナリア様の姿がありました。


 栗色の髪が夕方の光を受け、柔らかく輝いています。


 今日も美しい方です。


 けれど、やはり少し元気がない。


 周囲の令嬢たちに微笑みかけていますが、その笑みはどこか薄く、目元に影があります。


 私はちらりと殿下を見ました。


 殿下は、完全に固まっていました。


 目はナリア様に向いています。


 背筋は伸びています。


 表情も、外から見れば落ち着いているように見えるでしょう。


 しかし私は、この数日で学びました。


 あれは落ち着いているのではありません。


 内部処理が停止しかけている顔です。


 殿下。


 動いてください。


 今です。


 私は扇を開いたまま、ほんの少し視線で合図を送りました。


 殿下は気づいたようです。


 小さく息を吸いました。


 そして、一歩踏み出しました。


 その一歩は、たぶん彼にとって、王宮の大広間を歩くよりも重かったのでしょう。


 ナリア様も殿下に気づきました。


 足を止めます。


 一緒にいた令嬢たちも、自然と口を閉じました。


 回廊の空気が、すっと張り詰めます。


 近くを通りかかった男子生徒たちが足を緩めました。

 柱の陰で話していた令嬢二人が、扇の向こうから視線を向けます。

 遠くで歩いていた教師も、一瞬だけこちらを見ました。


 やめてください。


 皆様、どうか普通に通り過ぎてください。


 しかし、通り過ぎる者はほとんどいません。


 誰もが、王太子殿下とナリア・クラウゼン侯爵令嬢の会話を気にしているのです。


 貴族とは、実に暇なのでしょうか。


 いえ、暇ではないはずです。


 それでもこういう時には、皆、足を止める余裕を作るのです。


 殿下はナリア様の前で止まりました。


 ナリア様は礼をします。


「アルノルド殿下、ごきげんよう」


 声は丁寧でした。


 けれど、以前より少しだけ距離があるように感じました。


 親しみを隠した礼儀。


 期待しないための微笑み。


 見ているだけで、胸が少し苦しくなります。


 殿下はその声を聞いた瞬間、わずかに肩を震わせました。


 どうか。


 どうか、言ってください。


 私は扇を握りしめました。


 殿下の唇が動きました。


「ナリア」


 名前を呼んだ。


 まず、第一段階は成功です。


 ナリア様の瞳がわずかに揺れました。


 殿下が自分の名を呼んだことに、驚いたのでしょう。


 周囲も小さくざわめきました。


 普段の殿下は、ナリア様に対して冷たい言葉か短い返事ばかり。


 名前を呼ぶことすら珍しいのかもしれません。


「はい……」


 ナリア様が答えます。


 殿下は、一度目を閉じました。


 そして。


「先日は――」


 そこまで言いました。


 私は息を止めました。


 行けます。


 このままです。


 先日は、すまなかった。


 それだけ。


 それだけ言えれば。


「先日は……」


 殿下の声が震えました。


 ナリア様がじっと見ています。


 周囲も見ています。


 空気が重くなります。


 殿下の喉が上下しました。


「先日は……す……」


 す。


 来ました。


 あと少し。


 あと少しです。


 私は祈るような気持ちで見守りました。


「す……」


 殿下の顔が赤くなりました。


 耳まで赤い。


 視線が泳ぎ始めました。


 まずい。


 非常にまずい。


 私は扇を閉じる準備をしました。


「す……す……」


 ナリア様が不安そうに眉を下げます。


「殿下……?」


 その声が、殿下の最後の理性を揺らしたのでしょう。


 殿下の口が、勝手に動きました。


「少しは――」


 ぱちん。


 私は扇を閉じました。


 乾いた音が回廊に響きます。


 殿下の口が、ぴたりと閉じました。


 間に合いました。


 たぶん。


 ぎりぎり。


 今、何を言おうとしたのでしょう。


 少しは?


 少しは何ですか。


 少しは可愛い?


 なら問題ありません。


 いえ、突然言われたら問題はありますが、暴言よりはましです。


 けれど殿下の場合、心で「少しは僕の謝罪を聞いてほしい」と思っていて、口では「少しは身の程を知れ」などと言いかねません。


 危険でした。


 本当に危険でした。


 回廊に、不自然な沈黙が落ちました。


 ナリア様は困惑しています。


 周囲の生徒たちも、何が起きたのか分からないという顔です。


 私は扇を閉じたまま、涼しい顔を装いました。


 何もしていません。


 私はただ扇を閉じただけです。


 殿下は口を閉じたまま、硬直しています。


 目だけがこちらへ動きました。


 助かった、という目でした。


 しかし、このままでは会話が終わってしまいます。


 殿下。


 もう一度です。


 私は扇をゆっくり開きました。


 それが再開の合図であることは、事前に決めていませんでした。


 ですが、殿下は何となく理解したようです。


 小さく頷きました。


 そして、もう一度ナリア様を見ます。


「……先日は」


 ナリア様も、息を止めるように彼を見つめました。


「すまなかった」


 言えました。


 たった一言。


 けれど、確かに。


 殿下はナリア様に向かって、謝りました。


 回廊の空気が止まりました。


 ナリア様は目を見開いています。


 周囲も、完全に静まり返りました。


 誰かが小さく息を呑む音が聞こえました。


 私は扇を持つ手を緩めました。


 成功です。


 最初の目標は、達成されました。


 殿下の顔は真っ赤です。

 耳も赤い。

 指先も震えています。


 けれど、逃げていません。


 ナリア様から目を逸らさず、そこに立っています。


「殿下……今……」


 ナリア様の声が震えました。


 困惑。

 驚き。

 信じられないという気持ち。

 そして、ほんの少しの嬉しさ。


 それらが混ざった声でした。


 殿下は唇を引き結びました。


 ここで余計なことを言わない。


 そう自分に言い聞かせているのが分かります。


 しかし、ナリア様は待っていました。


 その目は、続く言葉を求めています。


 謝罪の理由。

 なぜ今謝ったのか。

 先日の言葉は本心だったのか。


 聞きたいことが、きっとたくさんあるのでしょう。


 殿下も、それを感じ取ったのだと思います。


 彼は小さく息を吸いました。


 私は警戒しました。


 扇を閉じる準備をします。


「僕は……」


 殿下が言いました。


「君を……」


 ナリア様の瞳が揺れます。


 殿下。


 慎重に。


 お願いですから慎重に。


「君を、傷つけた」


 良い。


 これは良いです。


 練習通りに近い。


 私は心の中で頷きました。


 周囲の令嬢たちも、ざわめき始めます。


「今、殿下が謝罪を……?」

「ナリア様に?」

「珍しいですわね」

「何があったのかしら」


 声が広がっていきます。


 しかし、今はそれどころではありません。


 殿下が続けようとしています。


「それを、本当に……」


 殿下の喉が詰まりました。


 顔が赤くなる。


 視線が揺れる。


 ナリア様を見たまま、彼の心がまた暴れ出しているのが分かりました。


「本当に……」


 ここで「申し訳なく思っている」と言えれば完璧です。


 いえ、完璧でなくても十分です。


 言ってください。


「本当に……」


 殿下の口元が震えました。


「本当に、君は……」


 ぱちん。


 私は扇を閉じました。


 殿下は口を閉じました。


 またもや、ぎりぎりです。


 本当に君は、何ですか。


 可愛い?


 優しい?


 それなら良かったのですが、殿下の口が真逆の方向へ走る可能性を考えると、止めざるを得ません。


 回廊はまた妙な沈黙に包まれました。


 ナリア様が、ゆっくりこちらを見ました。


 私は心臓が跳ねました。


 まずい。


 さすがに気づかれたでしょうか。


 ナリア様の視線は、私の扇に向いています。


 それから、殿下へ。


 そしてもう一度、私へ。


 その瞳には、困惑と疑問が浮かんでいました。


 当然です。


 王太子殿下が何か言いかけるたびに、少し離れた伯爵令嬢が扇を閉じ、その瞬間に殿下が口を閉じる。


 不自然です。


 どう見ても不自然です。


 周囲の令嬢たちも、じわじわとこちらに気づき始めました。


「あら、ルイート様?」

「先ほどから扇を……」

「殿下と何か合図を?」


 終わりました。


 これは終わりました。


 いえ、まだ完全には終わっていません。


 ここで慌てたら、本当に終わります。


 私はできる限り自然に微笑み、閉じた扇を胸元に添えました。


 まるで、ただ暑さを避けるために扇を閉じただけのように。


 無理があります。


 かなり無理があります。


 しかし、貴族令嬢とは、無理を優雅に見せる訓練を受けているものです。


 殿下も状況を察したようです。


 顔色が少し悪くなっています。


 けれど、彼は逃げませんでした。


 ナリア様を見つめ、ゆっくり言いました。


「……改めて、話す時間をもらえないだろうか」


 私は目を見開きました。


 言えました。


 練習した三文目。


 多少危ない場面はありましたが、殿下は何とかそこまで辿り着いたのです。


 ナリア様は、しばらく何も言いませんでした。


 周囲も沈黙しています。


 風が回廊を抜け、柱の影が揺れました。


 ナリア様は胸元で手を握りしめています。


 指先が震えていました。


 怒りなのか。

 悲しみなのか。

 驚きなのか。


 あるいは、そのすべてなのか。


「……殿下」


 彼女は小さく呼びました。


 その声は、とても静かでした。


「なぜ、今……そのようなことを?」


 殿下の喉が動きました。


 答えたい。


 けれど、答えられない。


 その葛藤が顔に出ています。


 私は扇を握りしめました。


 ここは難しい。


 正直に「本当はずっと謝りたかった」と言えればいい。


 けれど殿下にはまだ難しいでしょう。


 それでも、黙り続ければナリア様は不安になる。


 殿下は目を伏せました。


 そして、静かに言いました。


「……遅すぎたと、思っている」


 ナリア様の表情が変わりました。


 殿下は続けました。


「本当は、もっと早く言うべきだった」


 声は硬い。


 けれど、真っ直ぐでした。


「君を傷つけたことを、なかったことにはできない。だから……もし許されるなら、少しだけ時間がほしい」


 回廊にいた誰もが、息を潜めていました。


 私は殿下を見つめました。


 今の言葉は、練習より良かったかもしれません。


 不器用で。

 短くて。

 まだ肝心な本心には触れていない。


 けれど、逃げていない言葉でした。


 ナリア様は、ゆっくり瞬きをしました。


 その目に、光が揺れます。


「……私は」


 声が震えました。


「私は、殿下に嫌われているのだと、思っておりました」


 殿下の顔が歪みました。


 反射的に何か言おうとしたのが分かりました。


 違う。

 嫌ってなどいない。

 愛している。


 そう言いたかったのでしょう。


 けれど。


「ちが――」


 ぱちん。


 私は扇を閉じました。


 殿下は口を閉じました。


 今の「違う」は、本来なら言っても良かったかもしれません。


 けれど、殿下の場合、「違う、そんなことも分からないのか」などと続く危険がありました。


 安全第一です。


 ただし、周囲の視線がさらにこちらへ集まりました。


 もう誤魔化せません。


 ナリア様も、完全にこちらを見ています。


 殿下も、少し泣きそうな顔でこちらを見ました。


 助けを求めないでください。


 私も困っています。


「ルイート様」


 ナリア様が、静かに私の名を呼びました。


 終わりました。


 これは、完全に呼ばれました。


 私は一歩前へ出て、礼をしました。


「ナリア様、ごきげんよう」


「ごきげんよう」


 ナリア様は丁寧に返してくれました。


 この状況でも礼を崩さないところが、本当に素晴らしい方です。


 だからこそ、余計に胸が痛みます。


 彼女は私の扇を見ました。


「先ほどから、その……」


「はい」


「殿下と、何かお約束を?」


 周囲が一斉に耳を澄ませたのが分かりました。


 この瞬間、回廊にいた全員が、私の答えを待っています。


 殿下も待っています。


 ナリア様も待っています。


 非常に困ります。


 ここで嘘をつくことはできます。


 虫がいたので扇を閉じただけです、とか。

 風が強かったので、とか。

 偶然です、とか。


 しかし、どれも苦しい。


 そしてナリア様に対して、これ以上不誠実な態度を重ねたくありませんでした。


 とはいえ、殿下の秘密を公衆の面前で明かすわけにもいきません。


 私は一瞬考えました。


 そして、最小限の事実だけを言うことにしました。


「殿下が、余計なことをおっしゃらないための合図でございます」


 沈黙。


 回廊全体が、しんと静まりました。


 殿下が目を見開きました。


 ナリア様も固まっています。


 周囲の令嬢たちも、男子生徒たちも、誰も言葉を発しません。


 数秒後。


「……余計なこと?」


 ナリア様が呟きました。


 私は頷きました。


「はい」


「殿下が?」


「はい」


「ルイート様の合図で?」


「口を閉じていただいております」


 言ってしまいました。


 言ってしまいましたが、嘘ではありません。


 殿下は、耳まで赤くなっていました。


 王太子殿下としての威厳が、今まさに音を立てて崩れている気がします。


 しかし、変に取り繕うよりはましです。


 ナリア様はしばらく私と殿下を交互に見ていました。


 そして。


「……ふ」


 小さく、笑いました。


 本当に小さな笑いでした。


 すぐに口元を手で押さえましたが、確かに笑いました。


 それは、ここ最近の硬い微笑みとは違いました。


 困惑も含んでいました。

 呆れも含んでいました。

 けれど、ほんの少しだけ、空気が緩むような笑いでした。


 殿下は、その笑みを見た瞬間、完全に動きを止めました。


 目を見開き、息すら忘れたようにナリア様を見つめています。


 その顔には、言葉にならない感情が浮かんでいました。


 嬉しさ。

 安堵。

 愛しさ。

 そして、泣き出しそうなほどの後悔。


 ナリア様はすぐに表情を整えました。


 しかし、先ほどまでの硬さは少しだけ薄れていました。


「殿下」


「は、はい」


 殿下の声が裏返りました。


 周囲がざわつきます。


 王太子殿下の声が裏返った。


 これは明日には学園中に広がるかもしれません。


 殿下は気づいていないようです。


 あるいは、それどころではないのでしょう。


 ナリア様は静かに言いました。


「私は、殿下のお言葉に何度も傷つきました」


 殿下の顔が強張ります。


「はい」


「嫌われているのだと、ずっと思っておりました」


「……はい」


「今日、謝っていただいたことは……正直、とても驚いております」


「……はい」


「すぐに何もかも元通り、とは申し上げられません」


 ナリア様の声は震えていました。


 それでも、彼女は逃げませんでした。


 殿下と同じように、向き合おうとしていました。


「ですが、改めてお話をする時間は……お受けいたします」


 殿下の表情が、ぱっと変わりました。


 まるで曇り空に一筋の光が差したように。


 けれど彼は、すぐに口を開きかけました。


 危険。


 私は扇を構えました。


 しかし殿下は、自分で口を閉じました。


 自力で。


 そして、ゆっくり頭を下げました。


「ありがとう」


 それだけ言いました。


 ナリア様は少し驚いたように瞬きしました。


 それから、静かに頷きました。


「では、また日を改めて」


「ああ」


 今度は短い返事でした。


 けれど、冷たくはありませんでした。


 ナリア様にも、それが伝わったのでしょう。


 彼女はもう一度礼をして、令嬢たちと共に回廊を去っていきました。


 栗色の髪が夕方の光の中で揺れます。


 その背中は、まだ少し頼りなく見えました。


 けれど、完全に沈んではいませんでした。


 私は胸の奥で、そっと息を吐きました。


 成功。


 そう言っていいのでしょう。


 少なくとも、最悪の失敗ではありません。


 殿下は謝った。


 ナリア様は話す時間を受け入れた。


 それだけでも、大きな一歩です。


 しかし。


 周囲の視線が痛い。


 とても痛い。


 ざわめきが一気に広がり始めました。


「今の、見ました?」

「殿下がナリア様に謝罪を……」

「でもルイート様は何を?」

「合図ですって」

「口を閉じる合図?」

「どういうご関係なのかしら」

「まさか、ルイート様が殿下の相談役?」

「それとも……」


 最後の「それとも」に、私は全身で嫌な予感を覚えました。


 殿下もようやく周囲の視線に気づいたようです。


 王太子の顔に戻ろうとしていますが、赤い耳がすべてを台無しにしています。


 私は静かに歩み寄りました。


 声を抑えます。


「殿下」


「はい」


「この場は解散しましょう」


「そうだな」


「殿下は堂々とお戻りください。私は時間を置きます」


「分かった」


「それと」


「うん」


「本日は、よく耐えました」


 殿下は目を見開きました。


 それから、少しだけ視線を下げました。


「……ありがとう」


「ただし、途中で何度か危険でした」


「分かっている」


「特に『少しは』の後です」


「……あれは、本当に危なかった」


「何を言おうとしたのですか」


 殿下はしばらく黙りました。


 そして、非常に小さな声で言いました。


「少しは、僕のことを嫌いにならないでほしい、と……」


 私は目を瞬きました。


 それは。


 かなり切実で、弱い言葉でした。


 暴言ではありません。


 けれど、ナリア様に向けるには重すぎる言葉だったかもしれません。


「止めて正解でしたね」


「そうだな」


「今の段階でそれを言うと、ナリア様が困ります」


「分かっている」


 殿下は苦笑しました。


「僕は、弱いな」


「弱いというより、不器用です」


「不器用……」


「かなり」


「……そうか」


 殿下は少しだけ笑いました。


 その笑いは苦いものでしたが、完全に沈んだものではありませんでした。


「では、僕は戻る」


「はい」


「ルイート嬢」


「はい」


「今日は……本当に助かった」


「まだ始まったばかりです」


「ああ」


 殿下は頷き、回廊を歩き出しました。


 その背中は、いつもの王太子殿下のものに戻っていました。


 堂々としていて。

 隙がなくて。

 誰もが道を譲る背中。


 けれど私は、その背中の内側に、先ほどまで震えていた一人の青年を知っています。


 好きな人に謝るだけで、崖っぷちに立つような顔をしていた青年。


 それを知ってしまった以上、もうただの完璧な王太子として見ることはできませんでした。


 私は柱の陰に残り、しばらく時間を置きました。


 周囲の生徒たちは、ちらちらこちらを見ながら去っていきます。


 何人かは話しかけたそうにしていましたが、私が微笑みを崩さずにいると、結局何も言わずに離れていきました。


 貴族令嬢の微笑みとは、時に盾になるのです。


 ようやく人が少なくなった頃、私は回廊を歩き出しました。


 足元に夕日が長い影を作っています。


 風が少し冷たくなっていました。


 今日の出来事は、きっと噂になります。


 王太子殿下がナリア様に謝ったこと。


 私が扇で何やら合図をしていたこと。


 殿下が私の合図で口を閉じていたこと。


 どれも、噂好きの生徒たちには魅力的な材料でしょう。


 私は頭が痛くなりました。


 けれど、その一方で。


 ナリア様が少しだけ笑ったことを思い出すと、胸の奥がほんの少し温かくなりました。


 完全な解決には程遠い。


 むしろ、これからの方が難しいでしょう。


 けれど、あの一瞬。


 硬く閉ざされかけていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ気がしました。


「……まあ」


 私は小さく呟きました。


「初日にしては、上出来でしょうか」


 その時です。


「ルイート様」


 背後から声がしました。


 振り返ると、そこにはナリア様が立っていました。


 私は驚きました。


 彼女は先ほど令嬢たちと去ったはずです。


 けれど今は一人で、回廊の柱の陰に立っています。


 夕方の光が横顔を照らし、栗色の髪に淡い影を落としていました。


「ナリア様」


 私はすぐに礼をしました。


「先ほどは、お見苦しいところを」


「いいえ」


 ナリア様は首を横に振りました。


 そして、少し迷うように視線を伏せました。


 沈黙が流れます。


 風が二人の間を通り抜けました。


 遠くから、馬車の車輪音が聞こえます。


 私は何も言わず待ちました。


 彼女が自分の言葉を探しているのが分かったからです。


 やがて、ナリア様は静かに口を開きました。


「ルイート様は、殿下から何かご相談を受けていらっしゃるのですか?」


 真っ直ぐな問いでした。


 誤魔化すこともできます。


 けれど、先ほどのやり取りを見られた以上、完全に否定するのは難しい。


 私は慎重に言いました。


「少しだけ、お話を伺う機会がございました」


「私のことでしょうか」


 私は一瞬黙りました。


 ここでどう答えるべきか。


 殿下の本心を明かすことはできません。


 それは殿下自身が伝えるべきことです。


 けれど、ナリア様を不安にさせる答えも避けたい。


「ナリア様を傷つけてしまったことについて、殿下は悩んでおられました」


 それだけを言いました。


 ナリア様の瞳が揺れました。


「殿下が……?」


「はい」


「本当に……悩んでいらしたのですか?」


 その声には、疑いというより、信じたいけれど信じるのが怖い、という響きがありました。


 私は胸が締めつけられるようでした。


 どれほど長く、彼女は傷ついてきたのでしょう。


 殿下の冷たい言葉を受けるたびに、自分の何が悪かったのか考えたのかもしれません。


 何度も心を立て直し、それでも会いに行き、また傷つく。


 そんなことを繰り返していたのだとしたら。


 今日の謝罪一つで、すべてが消えるはずがありません。


「少なくとも、私が見た殿下は、軽い気持ちではございませんでした」


 私は静かに答えました。


 ナリア様は唇を結びました。


 目元が少し赤くなります。


「私は……もう、殿下のおそばにいることが、ご迷惑なのかと思っておりました」


「……」


「話しかければ冷たくされ、心配すれば拒まれ、近づけば嫌そうなお顔をされる。私が何か間違えているのだと、ずっと考えておりました」


 ナリア様の声は、だんだん小さくなっていきました。


「けれど、何を直せばよいのか分からなくて……」


 私は何も言えませんでした。


 言えるはずがありませんでした。


 殿下。


 あなたは、本当に大きな課題を抱えておられます。


 好きと言えないだけではない。


 好きな人に、自分が悪いのだと思わせ続けていたのです。


 これは、簡単には埋まりません。


「今日、殿下が謝ってくださった時」


 ナリア様は小さく息を吸いました。


「嬉しいと思ってしまいました」


「思ってしまいました、なのですか」


 私がそう尋ねると、ナリア様は寂しげに微笑みました。


「はい。嬉しいと思う自分が、少し怖かったのです」


「怖い?」


「また期待して、また傷つくのではないかと」


 その言葉は、静かでした。


 静かだからこそ、深く刺さりました。


 私は扇を持つ手に力を込めました。


 安易に励ましてはいけない。


 大丈夫です、などと言ってはいけない。


 私には、殿下がこれから絶対に失敗しない保証などできません。


 むしろ失敗するでしょう。


 高確率で。


 けれど。


「ナリア様」


「はい」


「殿下は、今日、かなり必死でした」


 ナリア様が瞬きしました。


「必死……」


「はい。謝罪の一言を言うために、何度も練習しておられました」


 言ってから、少しだけしまったと思いました。


 殿下の情けない部分をどこまで話してよいか、判断が難しい。


 しかしナリア様は、意外にも笑いませんでした。


 ただ、驚いたように目を開いています。


「殿下が、練習を……?」


「はい」


「私に謝るために?」


「はい」


 ナリア様は片手で口元を押さえました。


 泣きそうにも、笑いそうにも見える表情でした。


「……そう、ですか」


 小さな声でした。


 けれど、先ほどよりほんの少しだけ温度がありました。


「ルイート様」


「はい」


「殿下は……私を嫌っているわけではないのでしょうか」


 その問いに、私はすぐには答えませんでした。


 答えたい。


 違います。

 殿下はあなたを嫌っていません。

 むしろ心から愛しています。


 そう言ってしまえば、ナリア様は少し救われるかもしれません。


 けれど、それは私の役目ではありません。


 殿下が、自分の口で伝えなければならないことです。


 だから私は、言葉を選びました。


「それは、殿下ご本人から聞いていただくべきことだと思います」


 ナリア様は少しだけ目を伏せました。


「……そうですね」


「ですが」


 私は続けました。


「少なくとも、今日の殿下は、ナリア様から逃げずに謝ろうとなさいました」


 ナリア様は静かに頷きました。


「はい」


「それだけは、見て差し上げてもよろしいのではないでしょうか」


 しばらく沈黙がありました。


 夕方の光が、さらに柔らかくなっていきます。


 回廊の向こうでは、帰宅する生徒たちの声が少しずつ減っていました。


 ナリア様は、やがて小さく微笑みました。


 それはまだ弱い笑みでした。


 けれど、先ほどよりずっと自然でした。


「ルイート様は、不思議な方ですね」


「私が、ですか?」


「はい。殿下のそばにいらしても、殿下に媚びるでもなく、私に同情するでもなく……まるで、少し離れた場所から背中を押してくださるようです」


「私はただ、巻き込まれているだけでございます」


 つい本音が出ました。


 ナリア様は目を丸くしました。


 そして、今度こそ小さく笑いました。


「巻き込まれている……」


「はい。かなり」


「それは……申し訳ございません」


「ナリア様が謝ることではございません」


 本当に。


 謝るべき方は、別にいます。


 池に落ちた方です。


 ナリア様は少しだけ肩の力を抜いたように見えました。


「では、私もそろそろ戻ります」


「はい」


「ルイート様」


「はい」


「今日のこと、ありがとうございました」


 私は首を横に振りました。


「私は何も」


「いいえ。殿下の口を閉じてくださって」


 真面目な顔でそう言われ、私は返答に困りました。


 ナリア様の口元には、ほんの少し笑みがあります。


 私は礼儀正しく頭を下げました。


「お役に立てたなら何よりです」


「はい。とても」


 ナリア様は礼をし、今度こそ回廊を去っていきました。


 その背中を見送りながら、私は思いました。


 殿下。


 あなたの恋は、まだ本当に始まったばかりです。


 そして私は、その始まりに、完全に巻き込まれてしまったようです。


 翌日。


 学園に着いた私は、すぐに自分の予想が正しかったことを知りました。


 廊下に入った瞬間、あちこちから視線が向けられたのです。


「ルイート様よ」

「昨日の……」

「扇で殿下を止めたという」

「殿下の口を閉じる令嬢」

「すごいわね」

「どういう立場なのかしら」


 聞こえています。


 全部、聞こえています。


 私は微笑みを保ったまま、廊下を歩きました。


 貴族令嬢の微笑みとは盾です。


 何度でも自分に言い聞かせます。


 しかし、心の中では頭を抱えていました。


 新たな噂が生まれてしまいました。


 王太子殿下の口を閉じる令嬢。


 何ですか、それは。


 不名誉なのか名誉なのか判断に困ります。


 教室に入ると、エレナ様がこちらを見て微笑みました。


「ごきげんよう、マリア様」


「ごきげんよう、バートン様」


「昨日は大変でしたわね」


「……もうご存じなのですね」


「学園の噂は風より早いですもの」


 エレナ様は楽しそうに言いました。


 悪意はなさそうです。


 しかし、楽しんではいます。


「マリア様が扇を閉じると、殿下がお口を閉じられたとか」


「多少、誇張されております」


「多少?」


「……大筋では合っております」


 エレナ様は口元を押さえて笑いました。


「素晴らしいですわ」


「何がでしょう」


「殿下のお口を止められる方など、そうそういませんもの」


「私は望んでその立場になったわけではありません」


「でしょうね」


 エレナ様はくすりと笑いました。


 そして、少し声を落としました。


「でも、ナリア様は昨日より少しだけお顔色が良かったそうですわ」


 私は目を向けました。


「そうなのですか」


「ええ。朝、礼法研究会の方がおっしゃっていました。昨夜はよく眠れたようだと」


 それを聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなりました。


 よかった。


 本当に、少しだけですが。


「それなら、何よりです」


「マリア様」


「はい」


「お気をつけくださいね」


 エレナ様の声が、少し真面目になりました。


「王太子殿下とナリア様の間に関わるということは、良くも悪くも目立ちますわ」


「分かっております」


「分かっていても、巻き込まれる時は巻き込まれます」


「……すでに巻き込まれております」


「そうでしたわね」


 エレナ様は微笑みました。


 その笑みは穏やかでしたが、忠告の色もありました。


 私は心の中で頷きます。


 確かに、今後は慎重に動かなければなりません。


 殿下を助けること。

 ナリア様を傷つけないこと。

 自分の家に迷惑をかけないこと。

 そして、噂に飲まれないこと。


 やるべきことが多すぎます。


 授業開始の鐘が鳴りました。


 教師が入ってきて、生徒たちが席に着きます。


 私は教本を開きながら、ふと窓の外を見ました。


 空は昨日と同じように青く、風は穏やかです。


 けれど、私の学園生活はもう、以前とは同じではありません。


 王太子殿下の恋愛相談役。


 ナリア様との関係修復。


 そして、学園中に広がり始めた妙な噂。


 平穏は、遠ざかりつつあります。


 それでも。


 昨日、ナリア様が少しだけ笑ったこと。


 殿下が逃げずに「すまなかった」と言えたこと。


 その二つを思い出すと、完全に後悔だけとは言えませんでした。


 私は小さく息を吐き、羽根ペンを手に取りました。


 まずは授業です。


 学問は裏切りません。


 恋愛は、だいぶ裏切りますが。


 そしてその日の放課後。


 旧講義棟の資料室に向かうと、扉の前に小さな箱が置かれていました。


 上品な白い箱。

 金のリボン。

 王都でも有名な高級菓子店の紋章。


 私は嫌な予感を覚えながら、箱に添えられたカードを開きました。


 そこには、几帳面な文字でこう書かれていました。


『昨日と先日の昼食妨害の詫びとして。蜂蜜菓子です。アルノルド』


 私はしばらくカードを見つめました。


 そして、ゆっくり箱を開けました。


 中には、宝石のように美しい蜂蜜菓子がぎっしり詰まっていました。


 香ばしい焼き色。

 艶やかな蜂蜜。

 ほのかに香るバター。


 非常に美味しそうです。


 非常に。


 私は静かに箱を閉じました。


「……殿下」


 誰もいない廊下で、私は呟きました。


「こういうところだけは、本当に優秀ですね」


 その瞬間、資料室の中から小さな物音がしました。


 私は扉を開けました。


 中には、アルノルド殿下がいました。


 なぜか正座に近い姿勢で椅子に座り、緊張した顔でこちらを見ています。


「ルイート嬢」


「殿下」


「蜂蜜菓子は、口に合うだろうか」


「まだ食べておりません」


「そうか」


「それより、なぜ中にいらっしゃるのですか」


「今日の反省会を……」


「まだ呼んでおりませんが」


「昨日のことが気になって、いても立ってもいられず……」


 私は深く息を吐きました。


 殿下はびくりと肩を震わせました。


 その姿を見て、私は思いました。


 謝罪の一言は成功しました。


 ナリア様も、少しだけ笑いました。


 けれど、この残念王子の更生計画は、本当に始まったばかりなのです。


「殿下」


「はい」


「まず、資料室で待ち伏せするのはやめましょう」


「……はい」


「次に、蜂蜜菓子はいただきます」


「よかった」


「そして本日の議題は、昨日の反省と、ナリア様との改めての会話に向けた準備です」


「分かった」


 殿下は真剣に頷きました。


 その顔は、まるで国家会議に臨む王太子のようでした。


 内容は恋愛相談ですが。


 私は箱を机の上に置き、椅子に座りました。


 窓の外では、夕方の光が資料室を淡く染めています。


 古い紙の匂い。

 蜂蜜菓子の甘い香り。

 真剣な顔をした残念王子。


 私は扇を机の上に置きました。


 ぱちん、と小さな音がします。


 殿下は反射的に口を閉じました。


 私はそれを見て、思わず目を細めました。


「……条件反射になっておりますね」


「すまない」


「いえ。役には立ちそうです」


 殿下は少し複雑そうな顔をしました。


 私は蜂蜜菓子の箱を開け、一つ手に取りました。


 甘い香りが広がります。


 平穏な学園生活は、もう戻ってこないかもしれません。


 けれど。


 この甘い菓子を相談料としていただけるなら、ほんの少しだけ、耐えられる気がしました。


 ほんの少しだけ。


 こうして、王太子殿下の恋愛更生計画は、謝罪の一言を終え、次の段階へ進むこととなりました。


 目標は、ナリア様との会話。


 課題は、余計なことを言わないこと。


 難易度は、非常に高い。


 私は蜂蜜菓子を一口かじりながら、心の中で呟きました。


 王太子殿下。


 その恋は、どうか口から出す前に一度止めてくださいませ。

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