第2話 王太子殿下、相談相手を間違える
池というものは、遠くから眺めている分には風情があります。
水面に映る空。
揺れる木々。
小さな魚影。
風が吹くたびに広がる波紋。
詩人ならば、そこに人生の儚さでも見出すのでしょう。
画家ならば、光と影の美しさを描くのでしょう。
恋人同士ならば、肩を並べて静かに語らう場所にもなるかもしれません。
けれど、王太子殿下がそこへ見事に落ちる瞬間を目撃した私にとって、池とはもはや風情ある景色ではございません。
池とは、危険物です。
より正確に申し上げるならば、恋愛下手な王太子殿下に近づけてはいけない危険地帯です。
あの日から一週間。
私は、校舎裏の庭へ近づかないようにしておりました。
いえ、近づかないどころか、校舎裏へ向かう小道の前を通る時でさえ、自然と足が速くなっていました。
誰かに見られていたわけではありません。
王太子殿下の件が噂になったわけでもありません。
もちろん、池に落ちた殿下の姿が学園新聞に載ったわけでもありません。
それなのに、心が落ち着きませんでした。
あの金色の髪。
水を滴らせて芝生に座り込んでいた姿。
愛する令嬢に「嫌いだ」と言ってしまった後、ひどく傷ついた顔で「助けてください」と頭を下げた声。
全部、はっきり覚えています。
忘れようとしても、ふとした瞬間に思い出してしまうのです。
授業中に教師が「水面に映る月の比喩について」と文学の話を始めれば、池に落ちた殿下の前髪が脳裏に浮かびました。
昼食時にスープの表面が揺れれば、池の波紋を思い出しました。
廊下で誰かが「殿下」と口にすれば、私は反射的に背筋を伸ばしました。
非常に困ります。
私は平穏に学園生活を送りたいのです。
試験では上位を取り、家に恥じぬよう振る舞い、友人たちと適度に会話をし、卒業後は父と母が安心するような相手と婚約し、穏やかに暮らす。
そんな、ごく普通の伯爵令嬢としての人生を望んでおります。
王太子殿下の恋愛相談役など、そこには一文字も含まれていません。
そもそも、私は恋愛経験豊富な令嬢ではございません。
むしろ、恋愛に関しては人並み以下です。
物語の恋なら多少は読みます。
舞踏会で求婚される令嬢の話や、身分違いの恋に胸を痛める青年の詩も、勉強の一環として読んだことはあります。
けれど、自分自身の恋となると話は別です。
これまで誰かに熱烈な想いを寄せたこともなければ、誰かから熱烈に想われた経験もありません。
父と母のような深い愛情には憧れますが、それは憧れであって、知識ではありません。
そんな私が、なぜ王太子殿下の恋をどうにかできるのでしょう。
無理です。
専門外です。
できれば辞退したい。
――そう思っていたのですが。
貴族社会とは、こちらが避けたいものほど向こうから歩いてくる場所なのです。
その日、午前の礼法授業が終わった直後のことでした。
授業終了を告げる鐘が鳴り、教室内に張り詰めていた空気がわずかに緩みます。
令嬢たちは背筋を伸ばしたまま小さく息を吐き、男子生徒たちは教師が退室したのを確認してから肩の力を抜きました。
私も机の上の教本を閉じ、羽根ペンを筆箱へ戻しました。
窓の外では、秋の陽光が淡く庭を照らしています。
空は高く、雲は薄く、どこか穏やかな日でした。
少なくとも、その瞬間までは。
「ねえ、聞きました?」
隣の席の令嬢が、扇で口元を隠しながら囁きました。
声をかけられたもう一人の令嬢が、待っていましたとばかりに身を寄せます。
「何をですの?」
「ナリア・クラウゼン様のことですわ」
私は、筆箱の蓋を閉じる手を止めました。
ナリア様。
その名が出た瞬間、耳が勝手にそちらへ向きます。
「最近、少しお元気がないそうですの」
「あら、そうなのですか?」
「ええ。昨日のお茶会でも、どこかぼんやりなさっていたとか」
「それは……やはり、殿下と何か?」
「しっ。声が大きいですわ」
扇がさらに深く口元を覆います。
けれど、こういう時の令嬢たちの声は、不思議と必要な相手には届くようになっているのです。
聞かせたい相手には聞こえ、聞かれたくない相手には聞こえない。
貴族令嬢とは、そういう技術を自然に身につけていきます。
私は視線を落としたまま、教本を鞄へ入れました。
聞いていないふりをします。
しかし、耳は完全にそちらを向いていました。
「殿下は相変わらずナリア様にお冷たいのでしょう?」
「そのようですわね」
「まあ……あれほどお優しい方なのに」
「でも、王太子妃となるには、優しいだけでは足りませんもの。殿下が距離を置かれるのも、何かお考えがあるのかもしれませんわ」
「それとも、別の令嬢をお選びになるおつもりなのかしら」
「まさか」
「分かりませんわよ。王家の婚約など、正式発表まではどう転ぶか分かりませんもの」
くすり、と小さな笑い声。
その笑いは、明るいものではありませんでした。
花びらの下に小さな棘を隠したような、貴族令嬢特有の笑い方です。
私は胸の奥に小さな重みを感じました。
やはり。
あの一件は、表立った噂にはなっていなくても、ナリア様の様子の変化として周囲に伝わり始めているのです。
王太子殿下がナリア様へ冷たい態度を取っている。
その事実は、今に始まったことではないのでしょう。
だからこそ、令嬢たちはそれを材料に噂をする。
本人たちの気持ちなど、そこには関係ありません。
王太子妃候補という立場。
侯爵家の令嬢という価値。
王家に近づくための可能性。
それだけが見られるのです。
私は鞄の留め具を閉じました。
かちり、という小さな音が、やけに大きく聞こえました。
「ルイート様?」
声をかけられ、私は顔を上げました。
同じ教室の令嬢、エレナ・バートン子爵令嬢が私を見ていました。
柔らかな赤茶色の髪をきれいに編み、いつも穏やかに微笑む方です。
私とは特別親しいわけではありませんが、成績上位者同士、授業で言葉を交わすことはあります。
「どうかなさいました?」
「いえ。少し考え事を」
「まあ。試験結果のことですか? 今回も素晴らしい成績でしたものね」
「ありがとうございます。バートン様も上位でいらっしゃいましたね」
「私はぎりぎりですわ。ルイート様のようにはいきません」
エレナ様は控えめに笑いました。
その笑みには、先ほどの令嬢たちのような棘はありません。
私は少しだけ肩の力を抜きました。
けれど、教室の片隅ではまだナリア様の話が続いています。
「そういえば、昨日ナリア様、廊下で殿下にお声をかけようとして、結局おやめになったとか」
「まあ、お可哀想に」
「でも、殿下に望まれていないのなら、身を引くのも令嬢としての賢さではなくて?」
「クラウゼン侯爵家がそれを許すかしら」
私は立ち上がりました。
椅子が床を擦る音がしました。
周囲の視線がほんの少しこちらへ向きます。
私は何事もなかったように鞄を持ち、エレナ様へ微笑みました。
「次は魔術基礎ですね。移動いたしましょう」
「ええ」
教室を出る時、私は廊下の向こうを見ました。
ちょうど、ナリア様が歩いていました。
栗色の髪を揺らし、数人の令嬢たちと一緒に。
背筋は伸びています。
歩き方も美しい。
顔には穏やかな微笑みが浮かんでいる。
けれど、その笑みが少し硬いことに、私は気づいてしまいました。
目元に薄い疲れがあります。
令嬢たちの会話に頷いてはいるものの、どこか心が遠くにあるようでした。
その時、廊下の反対側から男子生徒たちの声が近づいてきました。
「殿下だ」
「アルノルド殿下がいらっしゃるぞ」
小さなざわめきが広がります。
廊下の空気が変わりました。
それまで友人同士で笑っていた令嬢たちが、慌てて姿勢を正します。
男子生徒たちも自然と道を空けます。
教師ですら、軽く会釈をして横へ避けました。
それほど、アルノルド・アルスード王太子殿下の存在は大きいのです。
そして、彼は現れました。
輝く金髪。
完璧に整えられた制服。
隙のない歩幅。
隣には側近らしき侯爵家の子息と、護衛を兼ねた男子生徒が二人。
一週間前、池に落ちてずぶ濡れになっていた人物と同じとは思えないほど、完璧な王太子殿下でした。
廊下の令嬢たちが頬を染めます。
「今日も素敵……」
「やはり殿下は別格ですわ」
「あのお姿だけで、絵になりますわね」
ええ、絵になります。
水に落ちなければ。
私は心の中で呟きました。
その瞬間、殿下の視線がこちらを向きました。
いえ、正確には、最初にナリア様を見たのだと思います。
ナリア様も殿下に気づき、足を止めました。
周囲の令嬢たちも、息を潜めるように動きを止めます。
廊下の中央で、王太子殿下とナリア様が向かい合う形になりました。
それだけで、空気が張り詰めます。
皆が見ています。
誰もが興味津々で。
けれど表面上は礼儀正しく。
扇の陰、肩越しの視線、伏せたまつ毛の隙間から。
人の不幸や恋の行方ほど、貴族社会でよく味わわれる茶菓子はありません。
ナリア様が、静かに礼をしました。
「アルノルド殿下、ごきげんよう」
声は穏やかでした。
けれど、わずかに震えていました。
殿下は足を止めました。
その横顔を見て、私は気づきました。
固まっています。
完璧な表情のまま、内側で激しく動揺しているのです。
目だけが、ほんの少し泳ぎました。
おそらく今、殿下の頭の中では大変な戦いが起こっているのでしょう。
言うべき言葉。
言ってはいけない言葉。
ナリア様への想い。
周囲の目。
王太子としての振る舞い。
それらが一斉に押し寄せ、彼の口を占拠しようとしている。
私は無意識に拳を握りました。
殿下。
ここです。
ここで失敗したら、本当に取り返しがつかなくなります。
言うのです。
ごきげんよう、ナリア。
あるいは、先日はすまなかった。
難しければ、ただ頷くだけでもいい。
せめて暴言だけは。
暴言だけは止めてください。
殿下の唇が動きました。
「……」
廊下が静まり返ります。
ナリア様が、じっと殿下を見つめています。
その瞳には、怖れと期待が同時にありました。
殿下は息を吸いました。
そして。
「……ああ」
短く、そう言いました。
それだけでした。
冷たいとも、優しいとも言えない、平坦な返事。
けれど、暴言ではありません。
嫌いだとも、消えろとも言っていません。
私は内心で胸を撫で下ろしました。
ぎりぎりです。
非常にぎりぎりですが、今回は被害が軽微です。
ナリア様は少しだけ目を見開きました。
おそらく、もっと冷たい言葉を覚悟していたのでしょう。
それでも殿下がそれ以上何も言わず歩き出すと、彼女の表情は静かに沈みました。
期待した分だけ、落差が生まれたのかもしれません。
殿下はナリア様の横を通り過ぎます。
その瞬間、私は見ました。
殿下の右手が、制服の袖の中でぎゅっと握られているのを。
そして、通り過ぎた後、ほんの一瞬だけ唇を噛んだのを。
周囲の生徒たちは、好き勝手に囁き始めました。
「やはり殿下はナリア様にお冷たいですわね」
「でも今日は怒鳴りませんでしたわ」
「それがどうしたというの」
「ナリア様、お可哀想……」
「けれど王太子妃になれるかもしれない立場ですもの、それくらい耐えなくては」
ナリア様は、その言葉を聞こえないふりをして歩き出しました。
背筋は伸びたままです。
けれど私は、彼女の指先がわずかに震えていることに気づいてしまいました。
胸が痛みました。
そして同時に、少し腹が立ちました。
殿下に。
いいえ、殿下だけにではありません。
この廊下で、他人の心を娯楽のように眺めている周囲にも。
何もできずに黙って見ている自分にも。
私はゆっくり息を吐きました。
これは、私が関わるべきことではありません。
そう思っていたはずなのに。
ナリア様の震える指先を見た瞬間、その言い訳が少しだけ弱くなりました。
その日の昼休み。
私は食堂ではなく、中庭の端にある小さな休憩席で昼食を取ることにしました。
食堂は人が多く、噂も多い。
今日の私は、できるだけ人の声から離れたかったのです。
持参した軽食を膝の上に広げます。
薄く切った白パンに鶏肉と香草を挟んだもの。
小さな果実。
そして母が持たせてくれた蜂蜜菓子が一つ。
先週、試験祝いで行ったレストランの蜂蜜菓子とは違いますが、母の作る菓子はそれに負けないほど美味しいのです。
私は白パンを一口食べました。
風が穏やかに吹いています。
中庭の噴水が涼やかな音を立て、離れた場所では生徒たちが昼食を囲んで笑っています。
平和です。
ええ、こういう平和が良いのです。
王太子殿下の恋愛問題も、ナリア様の涙も、校舎裏の池も、今だけは忘れましょう。
私はそう思い、二口目を食べようとしました。
「ルイート嬢」
背後から声がしました。
私は動きを止めました。
聞き覚えのある声です。
できれば、今は聞きたくなかった声です。
ゆっくり振り返ると、そこにはアルノルド殿下が立っていました。
ただし、いつものような側近や護衛の姿はありません。
一人です。
完璧な微笑みを浮かべて立っている王太子殿下。
中庭の光を受けて、金髪が輝いています。
近くの令嬢たちが、はっと息を呑む気配がしました。
「殿下……?」
私は立ち上がり、礼をしました。
「ごきげんよう」
「急にすまない。少し話がある」
周囲がざわつきました。
王太子殿下が、伯爵令嬢に自ら声をかけた。
それだけで、昼休みの中庭には十分すぎるほどの話題です。
視線が刺さります。
扇の音が止まります。
談笑していた男子生徒たちも、ちらちらとこちらを見ています。
遠くで誰かが「あの方、ルイート伯爵令嬢では?」と囁きました。
私は笑顔を保ったまま、心の中で叫びました。
なぜここで声をかけるのですか。
人が多すぎます。
目立ちすぎます。
相談相手を間違える以前に、場所を間違えています。
「私に、でございますか?」
「ああ」
「恐れながら、どのようなご用件でしょう」
「ここでは話しにくい」
それはそうでしょう。
ここで話せる内容なら、私はこんなに困りません。
しかし殿下の言い方が悪い。
ここでは話しにくい。
その一言で、周囲の想像力が一斉に羽ばたいたのが分かりました。
「まあ……」
「殿下がルイート様に?」
「どういうご関係なのかしら」
「試験のことでしょうか?」
「でも、ここでは話しにくいと……」
囁きが波のように広がります。
私は微笑みを崩さず、声を抑えました。
「殿下。恐れながら、今のお言葉は周囲に誤解を招きます」
殿下は一瞬、きょとんとしました。
それから周囲の視線に気づいたらしく、わずかに表情を強張らせました。
遅いです。
遅すぎます。
「……すまない」
「いえ」
私は鞄を持ち、昼食を急いで包み直しました。
このままここにいても、視線が増えるだけです。
「場所を変えましょう。ただし、人目の少ない廊下を通ります。殿下は先にお進みください。私は少し間を置いて参ります」
「分かった」
殿下は頷きました。
そして何を思ったのか、私の手元を見ました。
「食事中だったのか」
「はい」
「それは……悪いことをした」
その声が思いのほか真剣だったので、私は少しだけ驚きました。
殿下は申し訳なさそうに眉を下げています。
こういうところは、普通に優しいのです。
なぜナリア様の前でそれができないのでしょう。
「後で食べますので、お気になさらず」
「……すまない」
殿下はもう一度小さく謝り、歩き出しました。
その背中を見送りながら、私は周囲の視線に耐えました。
刺さる。
とても刺さる。
令嬢たちの目が、まるで針のようです。
笑顔で座っている方もいますが、目が笑っていません。
男子生徒たちも興味を隠しきれていません。
私は心の中で深くため息をつきました。
これでまた噂が増えます。
ナリア様の件だけでも面倒なのに、今度は私まで巻き込まれる可能性が出てきました。
王太子殿下。
本当に、相談相手を間違えておられます。
少し時間を置いてから、私は中庭を離れました。
廊下を歩く間も、何人かの生徒がこちらを見ていました。
すでに噂は走り始めているのでしょう。
貴族学園の噂は、馬車より速く、風より軽く、時に矢より鋭いものです。
私はできるだけ平静を装いながら、殿下に指定された場所へ向かいました。
そこは、旧講義棟の二階にある小さな資料室でした。
今はほとんど使われておらず、古い地図や過去の教材が保管されている場所です。
窓から差し込む光には、細かな埃が舞っていました。
木の棚には年季の入った書物が並び、紙とインクの古い匂いがします。
人目を避けるには悪くない場所です。
ただし、男女二人で密室という状況は非常によろしくありません。
私は扉を完全には閉めず、少しだけ開けたままにしました。
殿下は窓際に立っていました。
光を背に受ける姿は、やはり絵になります。
ええ、見た目だけならば。
「お待たせいたしました」
「いや、こちらこそ呼び出してすまない」
殿下はすぐに頭を下げました。
王太子殿下が伯爵令嬢に頭を下げる。
普通ならば大事件です。
けれど、私はもう一度見ています。
池の横で。
ずぶ濡れで。
そのため、驚きはやや薄れました。
「殿下、頭をお上げください」
「ルイート嬢。先ほどは本当にすまなかった」
「中庭での件ですか」
「ああ。君が言うまで、周囲の目に気づかなかった。軽率だった」
「ご理解いただけたなら結構です」
殿下は真剣な表情で頷きました。
やはり、理解力はあります。
指摘すればすぐに分かる。
謝罪もできる。
態度も誠実。
これでなぜ、ナリア様の前ではああなるのでしょう。
「それで、ご用件は」
私は本題を促しました。
殿下は一度唇を引き結び、ゆっくり口を開きました。
「先週の件について、正式に礼を言いたかった」
「池の件ですか」
「……できれば、そこは少しぼかしてほしい」
「失礼いたしました」
「いや、事実だ」
殿下は遠い目をしました。
あの時のことを思い出しているのでしょう。
私も思い出してしまいました。
ばしゃん、という見事な音。
濡れた金髪。
芝生の上に座り込む王太子殿下。
駄目です。
笑ってはいけません。
私は表情を整えました。
「お身体は大丈夫でしたか」
「ああ。すぐに着替えたので風邪は引かなかった」
「それは何よりです」
「ただ、側近には怪しまれた」
「でしょうね」
「なぜ髪が濡れているのかと聞かれたので、水差しを倒したと答えた」
「それで納得されたのですか?」
「されなかった」
「でしょうね」
殿下は少しだけ肩を落としました。
「だが、それ以上は追及されなかった。おそらく王太子としての威厳がまだ少しは残っていたのだと思う」
「それは幸いでした」
「君は今、少しだけ哀れんだ目をしている」
「気のせいです」
「そうか……」
沈黙が落ちました。
資料室の外を、誰かの足音が通り過ぎていきます。
私は扉の隙間を確認しました。
人影はありません。
殿下もそれを見ていたのか、小さく息を吐きました。
「ルイート嬢」
「はい」
「今日は、改めて頼みに来た」
声が変わりました。
先ほどまでの気まずさを含んだものではなく、もっと真剣な声です。
私は背筋を伸ばしました。
「何を、でしょうか」
「僕の恋愛相談役になってほしい」
言われるだろうとは思っていました。
それでも、実際に言葉にされると、重みがあります。
王太子殿下の恋愛相談役。
聞いただけなら光栄な役目に聞こえるかもしれません。
けれど実態は、好きな相手に暴言を吐いてしまう殿下をどうにかして、ナリア様との関係を修復するという大変困難な任務です。
しかも失敗すれば、ナリア様の心がさらに傷つき、王家と侯爵家の関係にも影響が出るかもしれません。
責任が重すぎます。
「恐れながら、殿下」
私は慎重に言葉を選びました。
「なぜ私なのでしょう」
「君が、僕の本心を知っているからだ」
「それだけでしたら、他の方にも事情を説明すればよろしいのでは」
「できない」
「なぜですか」
殿下は視線を伏せました。
長い睫毛が影を落とします。
「王太子である僕が、婚約者候補を前にすると本心と真逆の暴言を吐いてしまうなど、簡単に知られるわけにはいかない。側近にも、王宮の者にも、教師にも言えない」
「それは、私にも言うべきではなかったのでは?」
「君には知られてしまった」
「不可抗力です」
「分かっている。だからこそ頼みたい」
殿下は一歩、こちらへ近づきました。
私は反射的に半歩下がりかけましたが、踏みとどまりました。
「君は、あの時、僕を止めようとしてくれた」
「結果として殿下は池に落ちましたが」
「それは僕が驚いたせいだ」
「まあ、そうですね」
「そして君は、僕を笑い飛ばすことも、脅すことも、媚びることもしなかった」
殿下の瞳が、まっすぐ私を見ます。
「ナリアを傷つけるなら黙っていられないと、そう言った」
私は口を閉じました。
確かに言いました。
言ってしまいました。
あの時は、ナリア様の傷ついた顔が頭に残っていて、つい。
「その言葉で、僕は思った。君なら、僕に必要なことを言ってくれるのではないかと」
「必要なこと、ですか」
「ああ。王太子として扱うのではなく、一人の情けない男として」
情けない男。
自分で言えてしまうところが、少し哀しいです。
殿下は苦笑しました。
「周囲は僕を完璧だと言う。教師も、側近も、令嬢たちも、皆そう見る。けれど、僕は完璧ではない。ナリアの前では、まともな一言すら言えない。……それなのに、誰にも助けを求められなかった」
声は静かでした。
けれど、その静けさの奥には長く積もった苦しさがありました。
私はその声を聞きながら、少しだけ考えを改めました。
殿下は確かに残念です。
かなり残念です。
恋愛面においては、救いようがないほど残念です。
ですが、ふざけているわけではありません。
ナリア様を軽んじているわけでもありません。
本当に苦しんでいる。
自分の言葉で大切な人を傷つけていることを理解していて、それでも直せず、誰にも言えず、追い詰められている。
その結果が、池です。
いえ、池は結果ではなく事故ですが。
「殿下」
「はい」
「一つ、確認してもよろしいでしょうか」
「何でも聞いてくれ」
「ナリア様を本当に愛しておられるのですね」
殿下の顔が、瞬時に赤くなりました。
先ほどまでの真剣な王太子の顔が、見事に崩れます。
「なっ……そ、それは……!」
「はいか、いいえでお答えください」
「……はい」
「どの程度ですか」
「ど、どの程度?」
「軽い憧れなのか、婚約者候補としての義務感なのか、家の都合なのか、それとも本当に一人の女性として大切に思っているのか」
殿下は言葉を失いました。
少しの沈黙。
窓の外で鳥が鳴きました。
殿下はゆっくり視線を落とし、それから小さく息を吸いました。
「ナリアは……幼い頃から優しかった」
その声は、先ほどより柔らかくなりました。
「初めて王宮で会った時、僕は王太子として紹介された。大人たちは皆、僕を立て、褒め、期待を込めた目で見た。けれどナリアだけは、僕が緊張していることに気づいて、小さな菓子をくれたんだ」
「お菓子を?」
「ああ。袖の中に隠していた蜂蜜菓子を、こっそり」
殿下の口元に、懐かしむような笑みが浮かびました。
「王宮の菓子よりずっと素朴で、少し形が崩れていた。たぶん、彼女自身が作ったものだったのだと思う。僕はそれを食べて、初めてその日の緊張が解けた」
「……」
「それからも、ナリアは僕を王太子としてだけ見なかった。勉強が忙しい時は体調を心配してくれた。剣術の試合で怪我をした時は、誰より先に薬を届けてくれた。失敗した時も、責めずに隣にいてくれた」
殿下の指先が、そっと胸元を押さえました。
「僕は、彼女といると息ができた」
その言葉に、私は何も言えなくなりました。
息ができた。
王太子として生きる人にとって、それがどれほど大きな意味を持つのか、私には完全には分かりません。
けれど、少なくとも軽い恋ではないことだけは分かりました。
ナリア様は、殿下にとってただ美しい令嬢ではない。
ただの婚約者候補でもない。
彼の孤独の中で、ずっとそばにいた人なのです。
「だからこそ」
殿下の声が震えました。
「今の僕は、最悪だ」
彼は拳を握りしめました。
「大切にしたい人を、自分の言葉で傷つけている。彼女が優しいから、まだ僕に礼をしてくれる。けれど、いつか本当に心が離れる。いや、もう離れ始めているかもしれない」
今朝の廊下でのナリア様の顔が浮かびました。
硬い微笑み。
震える指先。
殿下からの短い返事に、一瞬だけ浮かんだ期待と、その後の沈み。
私は静かに息を吐きました。
「……殿下」
「はい」
「正直に申し上げます」
「ああ」
「重症です」
「……はい」
「かなり重症です」
「……はい」
「一週間や二週間でどうにかなる問題ではないと思います」
「分かっている」
「私も、完璧な助言はできません」
「それでもいい」
「さらに、私が関わることで妙な噂が立つ危険があります。今日の中庭の件で、すでに少し危ういです」
「本当にすまない」
「ナリア様に誤解される可能性もあります」
その言葉に、殿下の顔が強張りました。
「それは……困る」
「当然です。ですから、私が相談役を務めるにしても、条件があります」
殿下はすぐに姿勢を正しました。
「聞かせてほしい」
私は指を一本立てました。
「第一に、私との接触は人目を避けてください。中庭で突然声をかけるなど論外です」
「はい」
「第二に、相談場所はこの資料室、または校舎裏の庭など、人目は少ないが完全な密室ではない場所に限定します」
「校舎裏の庭……」
殿下がわずかに目を逸らしました。
池を思い出したのでしょう。
「池には近づかないこと」
「はい……」
「第三に、私の助言に従う場合でも、ナリア様を実験台のように扱わないこと」
「もちろんだ」
「第四に、少しでもナリア様が傷つく可能性がある作戦は中止します」
「分かった」
「第五に、私の家に迷惑がかかるようなことは絶対に避けてください」
「誓う」
殿下は迷いなく言いました。
その表情だけは、王太子らしい強さがありました。
「ルイート家に不利益が及ばぬよう、最大限配慮する」
「ありがとうございます」
「他には?」
私は少し迷いました。
そして、最後の条件を口にしました。
「第六に」
「うん」
「私の昼食を邪魔しないでください」
殿下が固まりました。
資料室に沈黙が落ちます。
外から、生徒たちの遠い笑い声が聞こえました。
殿下は数回瞬きをし、それから深く頭を下げました。
「本当にすまなかった」
「いえ、分かっていただければ」
「蜂蜜菓子が見えた。あれは……楽しみにしていたものだったのでは」
「母の手作りです」
「……重ね重ねすまない」
殿下は本気で落ち込んでいました。
その姿に、私は少しだけ毒気を抜かれました。
こういうところは、悪い人ではありません。
本当に。
悪い人ではないのです。
ただ、恋愛になると壊滅的なだけで。
「それで、ルイート嬢」
「はい」
「君は……引き受けてくれるのか」
殿下の声には、緊張がありました。
王太子が伯爵令嬢の返事を待っている。
奇妙な状況です。
もし第三者が見れば、間違いなく誤解するでしょう。
私は窓の外を見ました。
秋の光が、古い資料室の床に四角い影を落としています。
埃がゆっくり舞っていました。
思えば、一週間前も、こんな穏やかな日でした。
犬を追いかけなければ、私は何も知らなかったでしょう。
ナリア様がどれほど傷ついているのかも。
殿下がどれほど苦しんでいるのかも。
完璧な王太子という仮面の裏に、好きな人に好きと言えない情けない少年がいることも。
知らなければ、平穏でした。
けれど、知ってしまった。
知ってしまった以上、完全に背を向けることは、私にはできそうにありませんでした。
私は小さく息を吸いました。
「分かりました」
殿下の瞳が大きく開きました。
「では……」
「お引き受けします。ただし、先ほどの条件は必ず守ってください」
「ああ。必ず守る」
「そして、私は容赦なく申し上げます」
「望むところだ」
「本当によろしいのですね?」
「もちろんだ」
殿下は真剣に頷きました。
私はその顔を見て、ゆっくりと言いました。
「では、最初に申し上げます」
「ああ」
「殿下は、相談相手を頼る前に、まず自分がどれほどナリア様を傷つけてきたかを正確に理解するべきです」
殿下の顔から、少し血の気が引きました。
「……はい」
「謝罪もなく、突然優しくしようとしても、ナリア様は困惑します。今朝の廊下での短い返事だけでも、あの方は期待して、そして落ち込んでおられました」
「見ていたのか」
「廊下におりましたので」
殿下は目を伏せました。
「僕は……何も言えなかった」
「暴言を吐かなかっただけ、進歩かもしれません」
「そうだろうか」
「ただし、相手にとって十分かどうかは別です」
「……そうだな」
「ナリア様は、おそらく殿下に嫌われていると思っておられます」
殿下の拳が震えました。
「嫌っていない」
「それを伝えていないからです」
「……」
「心の中でどれほど愛を囁いても、相手には届きません。百回暗示をかけても、口から出る言葉が『嫌いだ』なら、相手に残るのは『嫌われた』という事実だけです」
殿下は何も言い返しませんでした。
ただ、唇を噛み、視線を落としています。
言い過ぎでしょうか。
少し迷いました。
けれど、ここで曖昧にしてはいけない気がしました。
彼が本当にナリア様を大切にしたいのなら、まず自分の言葉が相手に何をしているのかを見なければなりません。
王太子としてではなく。
一人の人間として。
「殿下」
「はい」
「最初の課題です」
殿下が顔を上げました。
私は静かに告げました。
「ナリア様に謝る練習をしましょう」
「……謝る練習」
「はい」
「今ここで?」
「今ここで」
殿下は目に見えて動揺しました。
「ま、待ってくれ。心の準備が」
「今から練習して心の準備を作るのです」
「しかし、謝罪など、王族として何度も」
「ナリア様への謝罪です」
「……」
殿下が黙りました。
王族としての公式な謝罪ならできるのでしょう。
文面の整った言葉。
礼儀に沿った態度。
政治的な意味を含んだ発言。
けれど、好きな相手に、自分の非を認めて謝る。
それは、彼にとって何より難しいことなのだと思います。
「私をナリア様だと思ってください」
「それは無理だ」
「なぜ即答なのですか」
「君とナリアは全然違う」
「練習ですので」
「しかし、ナリアだと思うと……その……」
「その?」
「口が勝手に悪態をつく可能性がある」
「では私でよかったですね」
「……確かに」
殿下は真剣に納得しました。
私は頭痛を感じました。
前途多難です。
「では、私がナリア様役をいたします。殿下は、先日の暴言について謝罪してください」
「分かった」
殿下は姿勢を正しました。
すっと背筋が伸び、顎がわずかに上がります。
完璧な王太子の立ち姿です。
そして、私を見ました。
正確には、私の向こうにナリア様を想像しようとしているのでしょう。
次の瞬間、殿下の顔が赤くなりました。
「……」
「殿下?」
「少し待ってくれ」
「はい」
「今、ナリアの顔を思い浮かべた」
「はい」
「可愛かった」
「練習に戻ってください」
「はい……」
殿下は咳払いをしました。
「ナリア」
声が少し震えています。
けれど、悪くありません。
「先日は……その……」
殿下の眉間に皺が寄りました。
言葉を探しているのが分かります。
私は黙って待ちました。
こういう沈黙を急かしてはいけません。
言葉は、押し出せばいいものではありません。
特に謝罪は、自分の中で形を作らなければ届かない。
殿下は何度も息を吸い、吐きました。
そしてようやく言いました。
「先日は、僕が悪かった」
「はい」
「君を傷つけるつもりは……」
そこで殿下は止まりました。
私は静かに首を横に振りました。
「殿下。その言い方は避けた方がよろしいです」
「なぜだ?」
「傷つけるつもりはなかった、という言葉は、相手によっては言い訳に聞こえます」
「言い訳……」
「大切なのは、つもりではなく、実際に傷つけたという事実です」
殿下は目を伏せました。
「……そうか」
「はい」
「では、もう一度」
殿下は再び私を見ました。
今度は、先ほどよりも真剣でした。
「ナリア。先日は、ひどいことを言ってすまなかった。君を傷つけた。僕が悪かった」
私は少しだけ頷きました。
「先ほどより良いです」
「本当か」
「はい。続けてください」
「続けるのか」
「当然です。謝罪は一文で終わりません」
「そうか……」
殿下はまた深呼吸しました。
「君が僕を心配してくれたのに、僕はそれを拒絶するようなことを言った。あれは……許されることではない」
「はい」
「僕は、君に嫌な思いをさせたかったわけではなく……いや、違うな」
自分で言い直しました。
私は少し驚きました。
殿下はきちんと理解しようとしている。
「僕は、君に嫌な思いをさせた。だから、謝りたい」
資料室に静かな時間が流れました。
窓の外から、風の音が聞こえます。
私は殿下を見ました。
真っ赤になりながらも、彼は逃げていませんでした。
情けない。
不器用。
残念。
それは間違いありません。
けれど同時に、彼は真剣でした。
私はゆっくり口を開きました。
「良いと思います」
殿下の表情が少し明るくなりました。
「本当か」
「はい。ただし、本番で言えるかは別問題です」
「……そうだった」
すぐに沈みました。
忙しい方です。
「まずは、謝罪文を短くまとめましょう。長いと途中で暴走する可能性があります」
「暴走……」
「自覚はおありでしょう」
「あります」
「では、まずは三文です」
私は指を三本立てました。
「一つ、先日の言葉を謝る。二つ、傷つけたことを認める。三つ、少し時間をもらって改めて話したいと伝える」
「なるほど」
「例としては――」
私は少し考え、言葉を整えました。
「ナリア嬢。先日はひどいことを言ってすまなかった。君を傷つけたことを、本当に申し訳なく思っている。もし許されるなら、改めて話す時間をもらえないだろうか」
殿下は目を見開きました。
「それだ」
「はい?」
「それを言えばいいのか」
「まずは、です」
「もう一度言ってくれ」
私はもう一度繰り返しました。
殿下は真剣に聞いています。
まるで重要な外交文書を暗記するかのような顔です。
「ナリア嬢。先日はひどいことを言ってすまなかった。君を傷つけたことを、本当に申し訳なく思っている。もし許されるなら、改めて話す時間をもらえないだろうか」
殿下が小声で復唱しました。
「ナリア嬢。先日はひどいことを言ってすまなかった。君を傷つけたことを、本当に申し訳なく思っている。もし許されるなら、改めて話す時間を……」
そこまで言って、殿下は急に顔を上げました。
「ルイート嬢」
「はい」
「これを本人の前で言うのか」
「そのための練習です」
「……難易度が高い」
「最初から低い課題では間に合いません」
「確かに」
殿下は深刻な顔で頷きました。
その姿を見ていると、まるで魔王討伐の作戦会議でもしているようです。
内容は、好きな令嬢への謝罪なのですが。
「では、もう一度」
「はい」
殿下は練習を繰り返しました。
一度目は途中で噛みました。
二度目は「ナリア嬢」と言った瞬間に顔を赤くして止まりました。
三度目はなぜか「君を傷つけたことを誇りに――」と言いかけ、私が即座に止めました。
「殿下」
「違う! 違うんだ! 申し訳なく思っていると言おうとして!」
「なぜ誇りに変換されたのですか」
「僕にも分からない!」
「本当に重症ですね」
「言わないでくれ……!」
殿下は頭を抱えました。
資料室の古い棚が、彼の嘆きを静かに受け止めています。
私は額に指を当てました。
想像以上です。
けれど、少しだけ分かってきました。
殿下はナリア様を意識した瞬間、言葉の制御が乱れるのです。
照れ、緊張、恐怖、後悔、愛情。
感情が強すぎて、口が反発する。
おそらく、王太子として完璧であらねばならないという重圧も関係しているのでしょう。
失敗してはいけない。
弱みを見せてはいけない。
相手に本心を悟られてはいけない。
そうして身についた防衛が、ナリア様の前で最悪の形で出ている。
私は専門家ではありません。
けれど、少なくとも怒鳴って直るものではないことは分かりました。
「殿下」
「はい……」
「本番は、いきなり長く話すのではなく、まず一言だけにしましょう」
「一言?」
「はい。『先日はすまなかった』だけです」
「それだけでいいのか」
「まずはそれを言えるようにならなければ、三文など無理です」
「……確かに」
「ナリア様も、いきなり長々と謝罪されるより、まずは一言の方が受け止めやすいかもしれません」
「なるほど」
殿下は真剣に頷きました。
「では、練習します。私をナリア様だと思わなくて結構です。ただ、言葉だけを口にしてください」
「分かった」
「どうぞ」
殿下は息を吸いました。
「先日は、すまなかった」
「もう一度」
「先日は、すまなかった」
「もう一度」
「先日は、すまなかった」
繰り返すたび、少しずつ声が安定していきました。
私は頷きます。
「良いです」
「本当か」
「はい。あとは本人の前で言えるかどうかです」
「そこが最大の問題だ」
「でしょうね」
また沈黙。
けれど、先ほどより重くはありませんでした。
少なくとも、最初の一歩は決まりました。
ナリア様に謝る。
ただ一言。
先日はすまなかった。
それだけです。
それだけのことが、殿下にとっては難関なのです。
恋愛とは、時に学問よりも剣術よりも厄介なのかもしれません。
その時、資料室の外から鐘の音が聞こえました。
昼休み終了の予鈴です。
私ははっとしました。
「もうこんな時間ですか」
「すまない。長く引き止めた」
「次の授業がありますので、私は先に出ます」
「ああ」
「殿下は少し時間を置いてからお戻りください。くれぐれも、私と一緒に出ないように」
「分かっている」
「それと」
「うん」
「ナリア様への謝罪は、今日中に無理に実行しないでください」
殿下が驚いたように見ました。
「いいのか?」
「練習初日です。焦って失敗すれば逆効果です。まずは機会を見極めましょう」
「……分かった」
「ただし、逃げ続けるのも駄目です」
「分かっている」
私は頷き、扉へ向かいました。
少し開いた扉の隙間から廊下を確認します。
人はいません。
よし。
私は外へ出ようとしました。
その背中に、殿下の声がかかりました。
「ルイート嬢」
「はい」
振り返ると、殿下は真剣な顔で立っていました。
「ありがとう」
短い言葉でした。
けれど、そこには王太子としての礼儀ではなく、一人の人間としての感謝がありました。
私は少しだけ目を伏せました。
「まだ何も解決しておりません」
「それでも、だ」
「……どういたしまして」
私は礼をして、資料室を出ました。
廊下には、午後の授業へ向かう生徒たちの声が近づいていました。
私は鞄を持ち直し、歩き出します。
そして、数歩進んだところで気づきました。
昼食を食べ損ねました。
白パンも。
果実も。
母の蜂蜜菓子も。
私は立ち止まり、深く息を吐きました。
「……殿下」
小さく呟きます。
もちろん、本人には聞こえません。
「次に昼食を邪魔したら、相談料として蜂蜜菓子を請求いたしますからね」
その時の私は、まだ知りませんでした。
この数日後、王太子殿下が本当に高級蜂蜜菓子を箱ごと持参し、資料室で深々と頭を下げることになるなど。
そしてそれをきっかけに、私と殿下の奇妙な恋愛相談が、学園内でさらに面倒な噂を呼ぶことになるなど。
何も知らず、私はただ午後の授業へ急ぎました。
窓の外では、秋の光が静かに揺れていました。
その光の中で、ナリア様の寂しげな横顔が、いつまでも私の胸に残っていました。




