第1話 王太子殿下、池に落ちる
皆様、初めまして。
私の名は、マリア・ルイートと申します。
アルスード王国に仕える伯爵家、ルイート家の長女であり、現在は王都にあるアルスード学園に通う、一介の伯爵令嬢です。
……と、こうして名乗れば、さぞや優雅で華やかな学園生活を送っている令嬢なのだろうと思われるかもしれません。
ええ、確かにこのアルスード学園は、王国中の貴族子息令嬢が集う由緒正しき場所です。
白亜の校舎。
磨き上げられた廊下。
季節ごとに植え替えられる花壇。
制服は品よく仕立てられ、教室には朝から香水と紅茶の香りが漂います。
通う生徒たちは、侯爵家、公爵家、伯爵家、子爵家、男爵家と身分はさまざまですが、いずれも将来この国を支える者たちばかり。
廊下を歩けば、どこかで縁談の話。
中庭では派閥の牽制。
図書室では成績上位者たちの静かな競争。
昼食の席では、笑顔の裏にいくつもの思惑が交差する。
そんな場所でございます。
ですから、私もまた、常に品位を保ち、伯爵令嬢として恥じぬ振る舞いを心がけております。
……少なくとも、心がけてはおります。
ただし今、私の目の前には、その品位や常識や王国貴族としての礼節を、根こそぎ考え直したくなるような光景が広がっていました。
「酷いですよね……ぼ、僕は彼女のことを、こんなに愛しているのに……ぐすっ、か、彼女を前にすると、つい、悪態や、冷たい態度を取ってしまって……彼女に、つ、辛い思いをさせて……うっ、本当に僕は、なんて酷い奴なんだ……!」
学園の校舎裏。
誰が使うのかと甚だ疑問に思うほど目立たない場所にある、小さな庭。
申し訳程度に整えられた花壇。
水音だけが静かに響く小さな池。
その二つを眺めるように置かれた横長のベンチ。
そのベンチに、私は座っております。
そして私の隣には、一人の男子生徒がおりました。
膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、背を丸め、肩を震わせながら涙を流している男子生徒です。
整った横顔。
絹糸のように輝く金色の髪。
海を思わせる美しいマリンブルーの瞳。
まるで絵本から抜け出してきた王子様のようだと、学園中の令嬢たちが頬を染める、完璧な容姿。
その彼が、今。
「ううっ……僕は……僕はもう駄目だ……ナリアに嫌われた……いや、元から嫌われて当然なんだ……あんな態度を取る男など、池の底で水草にでも絡まっていればいい……!」
水草。
今、水草とおっしゃいましたか。
私は視線だけを動かし、目の前の池を見ました。
小さいながらも、それなりに深さはありそうな池です。
水面には空の色がぼんやりと映り、縁には緑の葉が揺れています。
ああ、確かに水草はありますね。
絡まるほどあるかは存じませんが。
男子生徒は、がたっとベンチから立ち上がりました。
そしてふらふらと池の前まで歩き、両手を空へ向けて広げると、普段であれば絶対に口にしないであろう奇妙な声を上げました。
「うわあああああああああああああああああああああっ!」
……。
……。
鳥が一羽、驚いたように庭木から飛び立ちました。
少し離れた校舎の窓辺で、誰かが「今の声、何?」とでも言いたげに顔を出した気配がしましたが、すぐに引っ込みました。
私は黙って待ちました。
こういう時、下手に声をかけると長引くのです。
いえ、経験があるわけではございません。
ただ、今の彼には、言葉を投げるより先に、叫ばせておく必要があると本能が告げていました。
「ううううううううっ……!」
ひとしきり叫び終えた彼は、池の前で肩を落としました。
美しい金髪が、しょんぼりと下を向きます。
その後ろ姿だけ見れば、雨に濡れた大型犬のようでもありました。
いえ、犬に失礼ですね。
犬はもっと素直です。
私は小さく息を吸い、できるだけ平静な声で言いました。
「気は済みましたか? アルノルド・アルスード殿下」
男子生徒――この国の第一王子にして王太子、アルノルド・アルスード殿下は、びくりと肩を震わせました。
そして、ゆっくりこちらを振り返ります。
その瞳は赤く潤み、頬には涙の跡。
学園中の令嬢が見れば卒倒するか、あるいは母性を爆発させるかの二択でしょう。
しかし私は、ただ静かに彼を見上げました。
なぜなら私は、すでにこの一週間で理解していたからです。
この方は。
この国の未来を背負う王太子殿下は。
恋愛面において、信じられないほど残念な方なのだと。
さて。
なぜ私のようなしがない伯爵令嬢が、王太子殿下と校舎裏の庭で密会のように会い、さらにはその奇行を見守る羽目になっているのか。
それを説明するには、一週間前の出来事まで遡る必要がございます。
あの日は、年に二度行われる学術試験の結果発表の日でした。
アルスード学園の学術試験は、決して形式だけのものではありません。
歴史、法学、礼法、魔術基礎、算術、文学、政治学。
さらには実技評価や論述も含まれ、学年ごとに順位が張り出されます。
貴族の子女にとって、成績は単なる数字ではございません。
家の評価。
将来の縁談。
親の期待。
教師からの覚え。
派閥内での立場。
そういったものすべてが、試験結果の前では無慈悲に並べられるのです。
ゆえに結果発表の日の廊下は、いつも独特の空気に包まれます。
張り出し板の前に群がる生徒たち。
青ざめる者。
胸を撫で下ろす者。
友人同士で抱き合う者。
無言でその場を去る者。
そして、笑顔のまま目だけが笑っていない者。
「ご覧になって、あの方、今回は十位以内にも入れなかったそうよ」
「まあ……あれだけ家庭教師を増やしたと聞きましたのに」
「声が大きいですわ」
「だって、聞こえるように言っているのですもの」
そういう会話も、当たり前のように交わされます。
貴族社会とは、実に優雅で、実に面倒で、実に息苦しいものです。
その中で、私は結果発表の板を見上げていました。
周囲には大勢の生徒がいました。
男子生徒たちは背伸びをし、令嬢たちは扇で口元を隠しながら視線だけを鋭く動かしています。
私も少しだけ背伸びをしました。
自分の名前を探す。
上から順に、ゆっくりと。
一位。
二位。
三位。
そして。
「あ……」
小さく声が漏れました。
私、マリア・ルイートの名は、総合三位にありました。
胸の奥が、ふわりと温かくなりました。
今回の試験で五位以内に入ること。
それが、両親と交わした約束でした。
もし達成できたら、前からずっと行きたかった王都南区の有名なレストランでお祝いのディナーをしてくれると、父が笑って言ってくれていたのです。
その店は、焼きたての白身魚に香草のソースをかけた料理が評判で、さらに食後の蜂蜜菓子が絶品だと聞いておりました。
私は何度も何度も、その店の話を母にしていました。
行ってみたい。
一度でいいから食べてみたい。
でも高いから、わがままは言わない。
けれど、いつか。
そんな私に、父が言ったのです。
「ならばマリア、試験で五位以内に入ったら行こう」
その日から、私は頑張りました。
夜遅くまで参考書を開き、朝は眠い目を擦りながら復習し、苦手な魔術理論は教師に何度も質問しました。
結果、三位。
目標達成です。
思わず頬が緩みました。
周囲の令嬢たちがこちらを見る気配がします。
「あら、ルイート伯爵令嬢、また上位ですのね」
「さすがですわ」
「平民出の血が混じっているという噂なのに、よくお勉強なさること」
最後の言葉だけ、ほんの少し棘がありました。
けれど私は、聞こえなかったふりをして微笑みました。
慣れております。
母は元々、商家の娘でした。
父と恋愛結婚し、貴族社会に入った人です。
そのことで、ルイート家を軽んじる者は少なくありません。
けれど、母は誰より美しく、誰より賢く、誰より強い人でした。
そして父は、そんな母を心から愛しています。
私は、その二人の娘であることを誇りに思っております。
だから、少々の嫌味くらいで傷ついてなどいられません。
……いえ、少しは傷つきますけれど。
人間ですから。
ですが今日は、そんな言葉に沈む日ではございません。
今日は、お祝いの日なのです。
私は結果発表の板から離れました。
足取りが軽い。
胸が弾む。
廊下の窓から差し込む陽光が、いつもより明るく見えました。
校舎の外では、秋の風が穏やかに吹いています。
石畳の道を歩く生徒たちの声。
遠くから聞こえる馬車の車輪音。
どこかの教室から漏れる教師の低い声。
それらすべてが、今日だけは祝福の音のようでした。
「〜♪」
私は小さく鼻歌を歌っていました。
淑女としては、あまり褒められた行為ではないかもしれません。
ですが、周囲にはそれほど人もおりませんでしたし、何より私は浮かれていたのです。
馬車が停まっている待場へ向かう途中、校舎と校舎をつなぐ渡り廊下に差しかかりました。
その時です。
私の前を、一匹の小さな犬が横切りました。
白と茶色のまだら模様。
ふわふわの尻尾。
短い足で、てててっと軽快に走っていく小型犬。
私は足を止めました。
そして、心の中で叫びました。
犬です。
犬がいます。
実は、私は犬が大好きなのです。
大好き、などという言葉では足りません。
大大大好きなのです。
幼い頃から、屋敷の番犬に抱きつき、猟犬の訓練を見学し、街で犬を見かければつい視線で追ってしまうほど。
あの無垢な瞳。
ふわふわの毛。
嬉しい時に揺れる尻尾。
名前を呼ぶと全力で駆け寄ってくる健気さ。
犬とは、神が人間に与えた最も素晴らしい友であると、私は密かに思っております。
そんな犬が。
学園の渡り廊下を。
ひとりで。
歩いている。
「……迷子、でしょうか」
私は周囲を見回しました。
犬を探している生徒や使用人の姿は見当たりません。
時間にはまだ余裕がありました。
馬車の待場まではすぐですし、父母との待ち合わせにも遅れません。
少しだけ。
ほんの少しだけ、様子を見てもよろしいでしょう。
私は自分にそう言い聞かせ、犬の後を追いました。
犬は、てててっと小走りで進みます。
私も足音を抑えつつ追いかけます。
角を曲がり、人気の少ない廊下を抜け、裏手へ向かう小道に入る。
「待ってくださいませ、小さなあなた」
もちろん犬が待ってくれるはずもありません。
むしろ振り返りもせず、元気に走っていきます。
私は少しだけ裾を持ち上げました。
淑女としては、走るのはよろしくありません。
けれど、犬が迷子なら保護しなくてはなりません。
これは仕方のないことです。
ええ、仕方のないことなのです。
決して、ただ可愛い犬を撫でたいからではございません。
私は犬を追いかけました。
校舎裏へと続く道は、普段ほとんど通ることがありません。
表の庭園と違い、華やかさはありません。
木々が少し伸びすぎていて、石畳にも落ち葉が溜まっています。
けれどその分、人目がなく、静かでした。
風が木の葉を揺らし、さらさらと音を立てます。
どこか湿った土の匂いがしました。
小さな犬は、木立の向こうへ消えました。
「あっ」
私は慌てて追いました。
けれど、木々の間を抜けた先に犬の姿はありませんでした。
右を見ても、左を見てもいません。
白と茶色のふわふわした尻尾も、短い足も、どこにも。
「……見失ってしまいました」
肩が落ちました。
お祝いの日に、可愛い犬と出会えるなんて幸運だと思ったのに。
せめて少し撫でたかった。
いえ、迷子なら保護したかった。
もちろん、保護です。
私は小さく息を吐きました。
仕方ありません。
戻りましょう。
そう思い、踵を返しかけた時でした。
林の向こうから、人の声が聞こえたのです。
最初は風の音かと思いました。
けれど、違いました。
誰かが、怒ったように話している。
しかも、一人ではありません。
男女の声。
私は思わず足を止めました。
こんな場所で、口論?
嫌な予感がしました。
貴族学園において、人目のない場所での口論ほど、関わってはならないものはありません。
それが恋愛絡みであればなおさら。
派閥絡みであれば最悪。
家同士の問題であれば、命取りになることすらあります。
ですから、普通であればすぐに立ち去るべきでした。
けれど。
「私は、ただ殿下のことを……!」
殿下。
その単語が耳に届いた瞬間、私の足は動かなくなりました。
殿下と呼ばれる男子生徒は、この学園にそう多くありません。
王族の方々。
あるいは王家に連なる方。
その中でも、この学園で最も注目を集めている殿下といえば。
私は息を潜めました。
そして、できるだけ気配を消し、茂みの隙間からそっと声のする方を覗きました。
そこには、二人の男女がいました。
一人は、輝く金髪の男子生徒。
背筋は美しく伸び、制服の着こなし一つ取っても隙がない。
横顔だけでも分かる気品。
絵姿で何度も見たことがある、その人。
アルノルド・アルスード王太子殿下。
そしてもう一人は、柔らかな栗色の髪を持つ令嬢でした。
ナリア・クラウゼン侯爵令嬢。
王太子殿下の婚約者候補として名高い方です。
正式な婚約発表こそまだですが、社交界ではすでに既定路線のように語られています。
優しく、控えめで、礼法にも優れ、成績も悪くない。
何より、王太子殿下に対して一途だと噂されている方。
そのナリア様が、今、顔を青ざめさせていました。
「お前のような女は嫌いだ!」
殿下の声が、庭に鋭く響きました。
私は思わず目を見開きました。
嫌い。
今、そうおっしゃいましたか?
ナリア様の肩が震えました。
「殿下……!? 私は、殿下のことを思って……」
「うるさい! 早く目の前から消えろ!」
「っ……!」
ナリア様の顔から血の気が引いていくのが、遠目にも分かりました。
唇が震えています。
けれど彼女は泣きませんでした。
泣くまいと、必死に堪えていました。
令嬢としての誇り。
侯爵家の娘としての立場。
王太子殿下の前で取り乱してはならないという矜持。
それらをすべて握りしめるように、ナリア様は深く頭を下げました。
「……し、失礼いたします」
声は震えていました。
それでも礼は美しかった。
彼女は踵を返し、足早にその場を去っていきました。
背中が小さく見えました。
風に揺れる栗色の髪が、少しだけ乱れています。
私は茂みの陰で固まりました。
見てしまった。
これは、見てはいけないものを見てしまいました。
王太子殿下と婚約者候補の令嬢の口論。
しかも、殿下が一方的にひどい言葉を浴びせていた場面。
関わってはいけません。
絶対に関わってはいけません。
これは犬どころではありません。
「うわ〜……変なもの見ちゃった……関わらない方がよさそう……」
私は声にならないほど小さく呟き、ゆっくりと後退しようとしました。
足元には落ち葉。
小枝。
少し湿った土。
音を立てないように、一歩。
もう一歩。
その時でした。
「ああああああああああああああああああああああ!」
「っ!」
突然、殿下が大声を上げました。
あまりにも唐突で、私の身体はびくりと跳ねました。
足が止まります。
心臓が喉元まで上がってきたようでした。
見つかったのかと思いました。
しかし殿下はこちらを見ていません。
両手で頭を抱え、その場に膝をつきそうな勢いで震えています。
「またやってしまった……!」
殿下の声は、先ほどナリア様に向けた冷たいものとはまるで違っていました。
苦しげで、掠れていて、今にも泣き出しそうでした。
「俺は……いや、僕はなんでいつもいつも……! 毎日鏡を見て言い聞かせているのに……ナリアに会う前にも必ず百回暗示をかけているのに……心の中では素直に彼女への愛を囁いているのに……!」
百回。
暗示。
彼女への愛。
私は瞬きをしました。
え?
「どうしてだ……! どうして、口から出る言葉だけが真逆になるんだ……!」
殿下はその場に崩れるようにしゃがみ込みました。
金髪が乱れ、肩が震えます。
「ナリア……今日も可愛かった……心配そうに眉を下げて、僕の体調を気遣ってくれた……あんなに優しい人に、僕は……僕は……!」
ぐすっ、と鼻を啜る音。
私は完全に動けなくなっていました。
今、私は一体何を聞いているのでしょう。
先ほどまで「嫌いだ」「消えろ」と言っていた王太子殿下が。
実はナリア様を愛している?
しかも、会う前に百回暗示をかけている?
心の中では愛を囁いている?
けれど口からは真逆の言葉が出る?
……。
……。
どういうことでしょう。
貴族社会には、表と裏があります。
好きでも嫌いと言わねばならない時があります。
笑顔で牽制し、褒めながら相手を刺し、黙っていることで意思を伝えることもあります。
しかしこれは、そういう政治的なものではない気がしました。
もっと根本的に。
そう。
残念な何かです。
「うっ……ううっ……ナリアに嫌われた……今日こそ嫌われた……いや、昨日も嫌われたし、一昨日も嫌われたし、その前も嫌われた……毎日嫌われている……」
殿下はとうとう泣き始めました。
私は茂みの陰で、そっと眉を寄せました。
さすがに、少し心配になってきました。
王太子殿下が泣いている。
それも、人目のない校舎裏で一人きり。
見なかったふりをして立ち去るべきだと、理性は言っています。
けれど、もしこのまま何かあったら。
それこそ、私が見ていたことを知られた時、なぜ声をかけなかったのかと問われるかもしれません。
いえ、それ以前に。
今の殿下は、どう見ても普通ではありません。
私は音を立てないように、ほんの少しだけ身を乗り出しました。
すると殿下は、ゆっくりと立ち上がりました。
ふらふらとした足取り。
視線は虚ろ。
そして、そのまま池の方へ歩き出したのです。
私は息を呑みました。
池。
先ほど見た、小さな池です。
殿下は池の縁に立ち、水面をじっと見下ろしました。
風が止んだように感じました。
木々の葉擦れも、遠くの校舎の声も、急に遠のいていきます。
殿下の唇が動きました。
「こんな不甲斐なく、彼女を傷つけるだけの僕なんか……生きていても……」
その言葉を聞いた瞬間、私の身体は勝手に動いていました。
考えるより先でした。
王太子殿下だからとか。
見つかったらどうしようとか。
貴族社会の面倒事とか。
そんなものは、すべて頭から吹き飛びました。
目の前の人が、今にも池へ身を投げそうに見えた。
それだけで十分でした。
「は、早まってはいけませんっ!」
「え?」
殿下が振り返りました。
同時に、私も茂みから飛び出しました。
目が合いました。
金髪の王太子殿下。
茂みから現れた伯爵令嬢。
互いに固まります。
「「あ」」
次の瞬間。
殿下の足元が、ずるりと滑りました。
池の縁は、苔で少し濡れていたのです。
殿下の美しい顔が、信じられないという表情に変わりました。
手が空を掴みます。
けれど、何も掴めません。
私は反射的に手を伸ばしました。
しかし、届きませんでした。
ばしゃんっ!
実に見事な音が、校舎裏の庭に響き渡りました。
水しぶきが上がります。
飛んできた水滴が、私の頬に当たりました。
池の水面が大きく揺れ、花壇の花びらまで濡れました。
私は両手を伸ばした姿勢のまま、固まりました。
王太子殿下が。
池に。
落ちました。
「……」
沈黙。
鳥の声。
遠くの校舎から聞こえる生徒たちの笑い声。
池の中で、金色の髪がゆっくり浮かび上がります。
「……ぷはっ!」
殿下が水面から顔を出しました。
制服はずぶ濡れ。
前髪は額に張りつき、先ほどまでの絵本の王子様感はどこかへ流されていました。
マリンブルーの瞳が、呆然と私を見上げます。
私はしばらく、その姿を見つめていました。
そして、ようやく声を絞り出しました。
「……殿下」
「はい……」
「生きておられますか?」
「……はい」
「それは何よりです」
会話が終わりました。
終わってしまいました。
本来なら、すぐに手を貸すべきです。
けれど私は、ほんの一瞬だけ迷いました。
王太子殿下を池から引き上げる伯爵令嬢。
どう考えても、絵面がよくありません。
しかし放置するわけにもいきません。
私は深く息を吸い、裾が濡れるのを覚悟して池の縁にしゃがみました。
「手を」
「……すみません」
殿下はおずおずと手を伸ばしました。
私はその手を掴みます。
濡れて冷たい手でした。
思ったよりも力は弱く、殿下がかなり動揺していることが分かりました。
「足元にお気をつけください。そこ、滑ります」
「もう滑りました……」
「存じております」
私は全力で引っ張りました。
殿下もどうにか岸へ上がろうとします。
けれど濡れた制服は重く、靴も水を吸っているのか、なかなかうまくいきません。
「殿下、もう少し右足を……いえ、そちらではなく右です」
「こ、こっちですか?」
「それは左です」
「すみません、今、混乱していて……!」
「でしょうね」
ようやく殿下は池から這い上がりました。
芝生の上に座り込み、肩で息をしています。
水が制服からぽたぽたと落ち、地面に小さな染みを作っていきました。
私は立ち上がり、ハンカチを取り出しました。
差し出してから、すぐに思いました。
足りません。
どう考えても、この小さなハンカチ一枚でどうにかなる濡れ方ではありません。
それでも殿下は、申し訳なさそうに受け取りました。
「ありがとうございます……」
「いえ」
殿下はハンカチで顔を拭きました。
その仕草は妙に丁寧で、さすが王太子殿下と言うべきか、池に落ちても品位だけは残っていました。
ただし、髪から水が滴っております。
台無しです。
「あの……」
殿下が小さな声で言いました。
「はい」
「今のは、その……」
「池に落ちられましたね」
「はい……」
「見事に」
「はい……」
殿下は項垂れました。
その姿があまりにも哀れで、私は少しだけ視線を逸らしました。
笑ってはいけません。
相手は王太子殿下です。
笑ってはいけません。
笑ったら不敬です。
不敬罪で罰せられる可能性は低いとしても、伯爵家の娘として非常によろしくありません。
ですが。
あの、絵本の王子様のような方が。
愛する令嬢に暴言を吐いた直後、自分を責め、池の縁で絶望し、こちらの声に驚いて池に落ちた。
この一連の流れは。
あまりにも。
「……ふ」
「今、笑いましたか?」
「いいえ」
「笑いましたよね?」
「気のせいです」
「でも今、確かに……」
「殿下。お身体は冷えておりませんか」
「あ、はい……少し……」
「ならば早く戻られるべきです」
私は話題を変えました。
殿下は素直に頷きかけましたが、すぐに顔を強張らせました。
「あ……」
「どうされました?」
「戻れません」
「なぜですか?」
「この姿では……誰かに見られたら……」
ごもっともです。
王太子殿下がずぶ濡れで校舎裏から現れたなど、学園中の噂になります。
しかも、直前にナリア様との口論を誰かに見られていたら、さらに面倒です。
私は周囲を見回しました。
幸い、庭には私たち以外誰もいません。
校舎の裏手で、普段から人通りが少ない場所です。
けれど、いつ誰が通るかは分かりません。
「……殿下、従者の方は?」
「今日は試験結果発表日で、少し一人になりたくて……近くにはいません」
「一人になって、ナリア様とお話を?」
「……はい」
「そして嫌いだと?」
「……はい」
「消えろと?」
「……はい……」
「その後、泣いて?」
「……はい」
「池に?」
「落ちました……」
私は額に手を当てたくなりました。
しかし相手は王太子殿下です。
礼儀を保たねばなりません。
私はできるだけ穏やかに言いました。
「殿下。まず確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「はい……」
「先ほどのナリア様へのお言葉は、本心ではないのですね?」
殿下は勢いよく顔を上げました。
濡れた前髪から水滴が飛びました。
「違います! 本心ではありません! 断じて! 僕はナリアを嫌ってなどいません! むしろ……むしろ……!」
殿下の顔が一気に赤くなりました。
耳まで赤い。
池に落ちて冷えているはずなのに、そこだけ熱を持ったようでした。
「むしろ?」
「……あ、愛して、います」
最後の言葉は、ほとんど消え入りそうでした。
私は少しだけ目を細めました。
王太子殿下が、頬を染めながら小声で愛を告げている。
相手がこの場にいないのが、実に惜しい光景です。
「では、なぜあのようなことを?」
「それが……分からないのです」
殿下は両手で顔を覆いました。
「ナリアを見ると、頭が真っ白になるのです。言いたい言葉はたくさんあります。今日も綺麗だとか、心配してくれてありがとうとか、君の声を聞くと落ち着くとか、僕は君に会えるだけで一日が輝くとか……」
「かなり言いたいことはあるのですね」
「あります! 山ほどあります!」
「それが口からは?」
「お前のような女は嫌いだ、と……」
「なるほど」
重症です。
私は心の中でそう判断しました。
ただの照れ隠しにしては度が過ぎています。
好きな子をいじめてしまう幼い少年のようだ、と言えば可愛げがあるかもしれませんが、相手は王太子殿下です。
そしてナリア様は侯爵令嬢。
これは幼い恋の失敗では済みません。
王太子殿下が婚約者候補に冷たく当たっている。
その事実だけで、派閥が動く可能性があります。
ナリア様が本当に嫌われていると周囲が判断すれば、彼女の立場は悪くなります。
あるいは別の令嬢たちが王太子妃の座を狙って動き出すかもしれません。
小さなすれ違いが、家同士の問題になり、やがて王宮の噂になり、政治の火種になる。
貴族社会では、十分にあり得ることです。
私は水を滴らせる殿下を見下ろしました。
この方は、自分の恋愛下手が国政に影響を及ぼす可能性を、どこまで理解しているのでしょう。
……いえ、理解しているからこそ、ここまで追い詰められているのかもしれません。
「殿下」
「はい」
「ナリア様は、先ほど泣くのを堪えておられました」
殿下の顔が歪みました。
「……分かっています」
「かなりお辛そうでした」
「分かっています……!」
声が震えました。
殿下は拳を握りしめ、芝生の上に視線を落とします。
「僕は、最低です。ナリアが僕を心配してくれるたびに、胸がいっぱいになって、嬉しくて、幸せで……なのに口を開くと、彼女を傷つける言葉ばかり出てしまう。何度も直そうとしました。鏡の前で練習もしました。手紙も書きました。でも、本人を前にすると駄目なのです」
「手紙は渡されたのですか?」
「……渡せませんでした」
「なぜ?」
「読み返したら恥ずかしくなって燃やしました」
「燃やした」
「はい……」
私は静かに目を閉じました。
これは想像以上です。
王太子殿下は、有能だと聞いていました。
成績は常に一位。
剣術も学園随一。
政治学の教師からは、すでに大臣候補並みの理解力と評されている。
社交でも隙がなく、他国の使節とも堂々と渡り合う。
そんな完璧な王太子殿下が。
好きな令嬢に一言優しくすることができず、書いた手紙を燃やし、池に落ちている。
人間とは、分からないものです。
「ルイート嬢」
殿下が私を見ました。
濡れた髪。
赤い目。
けれどその瞳には、必死さがありました。
「お願いがあります」
「……内容によります」
「今見たことを、どうか誰にも言わないでください」
それは当然の願いでした。
王太子殿下の醜態。
ナリア様との口論。
池に落ちたこと。
どれも外へ漏れれば大騒ぎになります。
私は頷こうとしました。
しかし、殿下はさらに言葉を続けました。
「そして、できれば……」
「できれば?」
「僕を……助けてください」
風が吹きました。
濡れた制服を着た王太子殿下が、伯爵令嬢である私に向かって、深く頭を下げました。
私は目を見開きました。
「殿下、頭をお上げください」
「いいえ。これは僕個人の問題であると同時に、ナリアの心を傷つけ続けている問題です。僕一人では、もうどうにもできません。情けないことは分かっています。王太子として恥ずべきことも。でも……」
殿下の声が、掠れました。
「このままでは、ナリアが離れていってしまう」
その言葉だけは、飾り気がありませんでした。
王太子としてではなく。
一人の少年としての声でした。
私は何も言えませんでした。
先ほどまで笑いそうになっていた気持ちが、少し静まりました。
恋に不器用な人間は、珍しくありません。
素直になれない者もいるでしょう。
強がってしまう者もいるでしょう。
大切だからこそ、言葉を間違えることもあるでしょう。
けれど、殿下の場合はあまりにも極端です。
そして、その極端さのせいで、ナリア様は実際に傷ついている。
私はナリア様と親しいわけではありません。
挨拶を交わしたことがある程度です。
けれど先ほどの彼女の顔は、忘れられませんでした。
泣きそうで。
けれど泣かず。
最後まで礼を崩さなかった、あの姿。
そして今、濡れた芝生の上で頭を下げる王太子殿下。
面倒事です。
非常に面倒事です。
関わらない方がいいに決まっています。
私の家は伯爵家。
王家や侯爵家の恋愛問題に首を突っ込む立場ではありません。
下手をすれば、家族にまで迷惑がかかります。
今日の私は、お祝いのディナーへ行くはずでした。
白身魚の香草ソース。
蜂蜜菓子。
父と母の笑顔。
それだけでよかったのです。
なのに、なぜ私は今、池から上がったばかりの王太子殿下に助けを求められているのでしょう。
あの犬です。
すべてはあの犬を追いかけたせいです。
いえ、犬に罪はありません。
犬は可愛いだけです。
悪いのは、池の縁で不穏なことを呟いた殿下です。
私はゆっくり息を吐きました。
「殿下」
「はい」
「私は、恋愛の達人ではございません」
「はい」
「むしろ、経験などほとんどありません」
「はい」
「ですので、適切な助言ができる保証はございません」
「それでも構いません」
「さらに申し上げますと、私は貴族社会の大事に巻き込まれるのは遠慮したいです」
「当然です」
「そして今日、私は試験結果が良かったため、家族とお祝いの食事へ行く予定でした」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
そこで一度、会話が止まりました。
殿下は真剣な顔で私を見ています。
私はその顔を見返しました。
濡れていなければ、本当に絵になる方です。
濡れていなければ。
「ですので」
私は言いました。
「まずは着替えてください」
「……はい?」
「話はそれからです。このままでは、殿下が風邪を召されます」
殿下はぽかんとしました。
それから、少しだけ目を伏せました。
「……ルイート嬢」
「はい」
「あなたは、思ったより冷静な方ですね」
「今の殿下が混乱しすぎているだけです」
「それは……否定できません」
殿下は小さく笑いました。
初めて見る、力の抜けた笑みでした。
先ほどの泣き顔とも、ナリア様に向けた冷たい顔とも違う。
年相応の、少し情けなくて、少し安心したような笑顔。
私は一瞬だけ、言葉を失いました。
学園中の令嬢たちが王太子殿下に憧れる理由が、少しだけ分かった気がしました。
……ただし、中身を知ってしまった今となっては、その憧れをそのまま共有することは難しいですが。
「殿下。近くに誰にも見つからず戻れる道はございますか?」
「あります。旧講義棟の裏を通れば、王族用の控え室に繋がる廊下へ出られます」
「では、そこまで急ぎましょう」
「ルイート嬢は?」
「私は少し時間を置いてから戻ります。同時に出ていくところを見られたら厄介ですので」
「……助かります」
殿下は立ち上がりました。
濡れた制服が重そうです。
歩くたびに靴から水がじゅぽ、と嫌な音を立てました。
王太子殿下の靴音としては、あまりにも情けない音でした。
私は思わず視線を逸らしました。
笑ってはいけません。
何度も自分に言い聞かせます。
「ルイート嬢」
去り際、殿下が振り返りました。
「はい」
「今日のことは……」
「誰にも申しません」
「ありがとうございます」
「ただし」
私は少しだけ声を低くしました。
「ナリア様をこれ以上傷つけるようであれば、黙っていられるかは分かりません」
殿下は息を呑みました。
けれど、怒りませんでした。
むしろ、真剣な顔で頷きました。
「肝に銘じます」
「それと」
「はい」
「池の縁には近づかない方がよろしいかと」
「……はい」
殿下はしょんぼりと頷きました。
そして、濡れたまま木立の向こうへ消えていきました。
私はその背中を見送ってから、ゆっくりとベンチに座りました。
膝から力が抜けたのです。
「……何だったのでしょう、今のは」
試験結果発表の日。
犬を追いかけた先で、王太子殿下とナリア様の口論を目撃し、殿下の本心を聞き、池に落ちるところを目撃し、さらに助けを求められる。
普通の一日ではありません。
少なくとも、伯爵令嬢の平穏な学園生活には含まれない出来事です。
私は空を見上げました。
木々の隙間から見える空は、やけに青く澄んでいました。
まるで何事もなかったかのように。
しかし、私の中では何かが大きく変わっていました。
王太子殿下の秘密を知ってしまった。
そして、彼を助けるかもしれない立場になってしまった。
このまま見なかったことにすることも、まだできるのかもしれません。
けれど、ナリア様の泣きそうな顔が浮かびます。
そして、池に落ちた殿下の情けない顔も。
「……本当に、面倒なことになりました」
私はそう呟きました。
その時、茂みの向こうで、かさりと音がしました。
私は反射的に顔を上げました。
すると、そこに。
先ほどの小さな犬がいました。
白と茶色のまだら模様。
ふわふわの尻尾。
つぶらな瞳。
犬は私を見て、小さく首を傾げました。
「……あなた」
私はゆっくり立ち上がりました。
犬は逃げません。
むしろ、てててっとこちらへ歩いてきました。
そして私の足元に座ると、尻尾をぱたぱたと揺らしました。
可愛い。
とても可愛い。
先ほどまでの疲労が、少しだけ薄れていきます。
私はしゃがみ込み、そっと手を伸ばしました。
犬は嫌がらず、私の手に鼻先を寄せました。
「あなたのせいで、とんでもないものを見てしまいましたよ」
犬は、もちろん答えません。
ただ尻尾を振ります。
私は小さく笑いました。
「でも、まあ……あなたに会えたことだけは、悪くありません」
その後、私は犬を抱き上げ、学園の使用人に迷い犬として預けました。
どうやら近くの教師の飼い犬だったらしく、すぐに迎えが来るとのことでした。
そして私は、何事もなかったかのような顔で馬車の待場へ向かいました。
少し遅れましたが、幸い父母は笑って許してくれました。
「マリア、どうしたんだい? 少し疲れた顔をしているね」
父が心配そうに尋ねました。
私は微笑みました。
「少し、犬を追いかけておりました」
「まあ、また犬?」
母がくすりと笑います。
「はい。とても可愛い犬でした」
王太子殿下が池に落ちました、とは言えません。
愛する令嬢に嫌いと言ってしまう残念な殿下に助けを求められました、とも言えません。
私はただ、家族と共に馬車へ乗りました。
車輪がゆっくりと動き出します。
窓の外には、夕日に染まるアルスード学園が見えました。
白い校舎。
整えられた庭。
優雅に歩く生徒たち。
その裏側に、あんな奇妙な池ポチャ事件があったなど、誰も知らないでしょう。
私は窓の外を見ながら、静かに息を吐きました。
この日。
私、マリア・ルイートは、王太子殿下アルノルド・アルスードの秘密を知りました。
そして後に、彼を「ヘタレ残念王子」と心の中で呼ぶほどの仲になるのですが。
その時の私は、まだ知りませんでした。
この池ポチャ事件が。
私の平穏な学園生活を、少しずつ、確実に、そして大変面倒な方向へ変えていく始まりだったのだと。
そして。
王太子殿下の恋は、ここからようやく。
本当に、ようやく。
池の底から這い上がり始めるのでございます。




